goo blog サービス終了のお知らせ 

ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい

「授業でいえない世界史」 14話 イスラム世界 ムハンマド~後ウマイヤ朝

2019-02-09 23:22:09 | 旧世界史6 イスラーム世界

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


▼イスラーム帝国の発展

 

【ムハンマド以前】
 ではユダヤ教、キリスト教に継ぐ第3の一神教、イスラーム教の成立に行きます。キリスト教と今は仲が悪い宗教です。前回言ったエルサレムはここだった。今度はその南のアラビア半島のメッカというところから話が始まる。エルサレムと近いといえば近い。
 時代は紀元7世紀、600年代です。この時代には大帝国として、東にはササン朝ペルシャ、それから西には東ローマ帝国があるんですけど、名前をこのあと変えるんです。東ローマ帝国がビザンツ帝国と名前を変える。これは同じ国です。このササン朝ペルシャとビザンツ帝国の二つの国があって、何百年も対立が続いていた。
 紀元7世紀、ササン朝ペルシャとビザンツ帝国、この2つの帝国の対立の影響を受けて交易が遮断される。その交通の迂回路としてアラビア半島の西側が交通網として発達していく。これをヒジャーズ地方という。
 その中心都市がメッカという都市です。ここには昔からこの地方のいろいろな神様を祭る多神教の神殿がありました。それをカーバ神殿といいます。この都市が貿易の中継都市として繁栄する。

 ここは砂漠地帯です。ラクダを使って、羊を追ったり、山羊を追ったり、移動生活をする。移動生活の人は、移動のついでに物を運んでやるといって、容易に商人になりやすい。
 これがアラブ人、アラビアに住む人はアラブ人という。


【ムハンマド】 商売が発達するとお金が流通して、お金が流通すると・・・世界史に共通なこととして・・・貧富の差が拡大していく。貧しい人はものすごく貧しい。お金もっている人はものすごくお金を持っている。

 こういう中でムハンマドは生まれた。このムハンマドが生まれた頃には、この地域にはユダヤ教もあるし、キリスト教もすでに発生している。そういう一神教の考え方が広まっているんです。
 ムハンマドは、ある日突然、40歳ぐらいの時、神の言葉を聞くんです。その神はアッラーという。そしてこの神への絶対的な信仰を説く。
 たぶんそういう人はいる。神のお告げを聞いた人というのは、日本にも時々出てくるし、それを聞いて、バカが変なこと言ってる、で片付けられないところが宗教なんです。宗教には人の心を動かすものがあります。
 神様がオレに教えてくれた、オレの考えじゃないぞ、神様がオレに告げたんだ、そういう彼の話を信じた者から、彼は預言者とされた。明日のことをいうのは予言です。そうではなくて、この預言者は預かった者です。神の言葉を預かった者、これを預言者というんです。

 すでにこのヒジャーズ地方には、そういう人格神である一神教の土台が浸透していたわけです。

 ムハンマドは610年、メッカで貧困層を中心に布教を開始し、貧富の格差を是正すべく唯一神アッラーの前の平等を主張しました。ムハンマド自身は豪商の家柄で豊富な資金を貧困層救済のために費やしました。食べ物などを変えられた貧困層はムハンマドの言うことに耳を傾け、イスラーム教に帰依するようになりました。


【ヒジュラ】 ムハマド自身は結構お金持ちです。両親は早く亡くなっているけれども、クライシュ族という一族で、ハーシム家という金持ちの商人の家柄です。
 その中で、クライシュ族自体は多神教だったから、親戚がいろいろな神を拝んでいるのを見て、あれはウソだ、そんな神を拝んではダメだ、アッラーだけを拝め、とムハンマドは言う。そういうふうに一神教は、他の神を否定するんです。

 言われたほうは、おまえ頭がおかしいんじゃないかと言う。でも彼は言うことをやめなかった。そこまで言うのなら、追放だ、町から出て行け、となる。
 それで喧嘩して、622年に隣の町・・・といっても何十キロも先なんですけど・・・メディナという場所に仲間を連れて引っ越します。

 この年をイスラーム教徒は、この年をヨーロッパでいう西暦ゼロ年にする。イスラム暦の始まりです。ここがイスラム暦の元年です。そういう意味で記念すべき年だから、622年の引っ越しをヒジュラといいます。

 仲間とともにメディナに移って、そこで共同生活をやっていく。この共同体をウンマといいます。

 イスラーム国家と一般に言うけれども、イスラーム教には国という言葉は実はありません。国に当たる言葉は、実はこのウンマです。彼らは、国をつくっている気持ちはない。イスラム教徒の共同体をつくっているだけなのです。
 その共同体のルールは、ムハンマドが聞いた神の言葉が、それがそのまま生活全体のルールになる。そしてこれを守る人たちの共同体ができる。
 ただメッカの親戚からは迫害される。だから戦わないといけない。彼らは自ら兵士になって軍隊をつくっていく。ここから彼らの征服活動がはじまります。

※ イスラム教は、当時の経済状況における偏りと歪みの中で生まれた貧困層の反動の産物です。(宇山卓栄 経済)

※ 大富豪のクライシュ族の出身であるムハンマドは豊富な資金力で、貧民を雇い入れて、強大な私兵軍団を編成しました。一族の中には武勇のすぐれた軍略家もおり、軍事のプロたちが数多くそろっていました。貧困層の集団を組織的に軍制化したのも彼らです。(宇山卓栄 経済)

 ムハンマドが630年メッカを占領し、支配者層を追い出します。この地にカーバ神殿を作り、イスラームの本拠地としました。これらのことは貧困層のムハンマド派が上層階級を数の力でつぶしたクーデターととらえることもできます。

 彼らの軍隊は勇敢で、メッカの勢力に勝利します。そしてメッカにあったカーバ神殿・・・それまでは多神教の神殿でしたが・・・その神殿をイスラーム教の一神教の神殿に作り変えます。こうやってメッカのカーバ神殿がイスラーム教の聖地になります。
 そのカーバ神殿には神の像がありません。代わりに神の象徴として黒い石があるだけです。一神教では偶像崇拝は禁止されています。
 イスラーム教はコーランの他に旧約聖書新約聖書も聖典として認めていて、旧約聖書の十戒の中にある偶像崇拝の禁止を守っています。しかしキリスト教は旧約聖書を聖典としていながら偶像崇拝をしています。キリストの像を拝んでいます。これはおかしい、とイスラーム教徒は感じるわけです。このことはのちにキリスト教の内部でも問題になり、キリスト教会の分裂につながります。この偶像崇拝を認めているのがキリスト教最大のローマ・カトリック教会なのです。

 イスラーム教徒は、このカーバ神殿に一生に一度は巡礼することになっています。
 現在このカーバ神殿を有している国はサウジアラビアです。日本にとってこのサウジアラビアは、最大の石油を輸入している国です。いわば日本の命綱といってもいい国ですが、その割には日本人はこの国のことをあまり知りません。


【一神教】 そして神の教えを24時間守っていく。政教一致の宗教です。ここがキリスト教と違うところです。個人的な時間にお祈りしておけばいいのではない。日常生活すべてが神の教えに従うべきなのです。

 神の教えそのままを日常生活で守る。飯を食うなといわれたら食わない。断食です。日没までですけど。苦しみを忘れるなという教えです。女性は顔を隠せと言われたら隠す。今もイスラム女性は人前で顔を見せません。イスラームのスカーフは女性蔑視だと非難されますが、日本も平安時代の女性は顔を隠していました。身分が高い女性ほど顔を隠していた。
 これはアラビア半島だけの風習ではない。古代ではみんな女性は顔を隠していた。身分が高ければ高いほどそうだった。身分の低い女性だけがスッピンであった。この時はそういう世界だったのです。この教えがイスラーム教といわれる。

 イスラーム教は、ユダヤ教やキリスト教と同じ一神教です。日本の多神教とは違います。ただキリスト教と違うのは、イエスは神に近い存在だった。少なくとも預言者ではなかった。だからイエスは生身の人間ではないとされた。

 ところがイスラーム教では、ムハンマドは紛れもない生身の人間です。それと同じようにイスラーム教ではイエスも普通の人間だとします。神とは認めません。神はアッラーだけです。イエスは優秀な預言者に過ぎない。
 イスラームの神というのは、一神教だから、世の中のすべての事を作ることができるし、見通すことができる存在です。全知全能の神とはそういう神です。一歩間違えば、とんでもなく恐ろしい存在です。だからその教えには絶対従う。ムハンマドが聞いたその神の教えをまとめたのがコーランです。クルアーンとも言います。

 ここに書いてあることは今でも必ず守らねばならない。この教えを守る人のことをムスリムという。イスラーム教徒のことです。

 イスラームとは服従という意味です。これは一神教として非常にすっきりしています。これほど明快な一神教は実はない。

 すでに一神教世界では、この約1000年前にユダヤ教という一神教が発生し、約600年前にはキリスト教という一神教が発生しています。そして第3番目の一神教がアラビア半島に誕生した。神様はアッラーといって呼び名は違うけど、この神様はたどっていくとユダヤ教のヤハウェといっしょです。呼び方が違うだけです。
 だからイスラーム教徒はそれ以前の一神教、つまりユダヤ教やキリスト教とは、同じ神を拝んでいるから、この二つの宗教の信者を「啓典の民」として尊重します。

 神様が語った言葉を知るための一番正しい方法は、直接コーランを読むことです。そのためには当然ながら字が読めないといけない。イスラーム教徒は字が読めたのです。それに対してこの時代のキリスト教徒はほとんど聖書を読みません。字が読めないからです。それだけではなくイスラーム教徒は読んだ上に暗記する。これが神のルールだとしっかり頭に入れて行動しなければならないからです。文化水準はどちらが高かったか、勘違いしている人はいませんか。

 ヨーロッパ人はまだほとんど字を読めなかったのに、イスラーム社会では多くの人が読めるんです。だから識字率は非常に高い。それはコーランを読んで覚えるためです。そしてそのコーランに書かれた通りの生活を一日を通してする。だからイスラーム教は政教一致の宗教です。


【政教一致】 キリスト教との違いは、キリスト教には牧師さんがいるけれども、イスラーム世界にはそのような神様と人を仲介する人がいません。自分でコーランを読んで、自分で神様の教えを勉強するから、キリスト教徒のようなお坊さんはいらないのです。

 ちなみにヨーロッパ世界で、普通の人が聖書を読めるようになるのは、16世紀以降です。イスラーム世界はその1000年も前からそれをやっています。

 それから、お坊さんや牧師さんがいなければ、牧師さんが説教する教会もないです。モスクがあるじゃないかというけど、あれは無人の礼拝所です。先生のいない学校のようなもので、祈りの場所として場所を貸してるだけです。

 そういうお坊さんの代わりに、コーランの意味をどう解釈するかという学者、イスラーム教に詳しい学者が社会のルールを作っています。そういう人をウラマーといいます。イスラーム法学者ともいう。だからイスラーム社会ではコーランに書かれた神様の命令が、そのまま社会のルールになっていきます。

 世の中のルール、政治のルールはどこにあるかというと、すべては神の言葉であるコーランに書かれている。だから憲法はいらない。イスラム社会にも憲法はあるにはありますが、それはコーランに矛盾しない範囲の憲法に限られています。コーランをかみくだいて矛盾しない憲法を作ってるだけです。また大統領はいますが、その上に宗教的な最高指導者がいます。

 西洋社会のように、聖書にはこう書かれているけど、実際の社会のルールはそれとは別の憲法に書かれている、というようなことはありません。そんなことをすれば、コーランは意味をなさなくなるからです。近代に入って西洋で最初に起こったことは、そういう神の権威の喪失です。
 社会の変化に合わせて、人間が合意すれば何でも変えていいか、そこには条件があります。それはコーランに矛盾しないことです。正しいことはすべてコーランに書いてあるからです。それがイスラーム社会の合意なのです。


【ムハンマド時代】 この宗教は日本のような多神教と違って一神教です。神様は一つしか拝んだらいけない。二つ拝んだら罰が当たる。そういう発想です。日本人とは非常に違います。

 ムハンマドが生きていた間に、共同体がどこまで広がったかというと、ほぼアラビア半島全域に広がった。これがムハンマド時代です。この共同体は国です。
 


【正統カリフ時代】
 イスラーム教はムハンマドが死んだあと、さらにどんどん国家を広げていって、東は中央アジアの手前まで行く。北はカフカス山脈まで、西は紅海を超えてアフリカの北岸まで行く。そんな大帝国を築いていく。

 なぜこんなに広がったのか。帝国を築くというのは、戦争をして征服をしていくということです。
 なぜムハンマドが死んだ後、たった40年でここまで広がるのか。なぜここまで征服していくのか、実はよくわからないです。
 彼らの言い分は、神のため、神の教えを広めるためだ、と言うけど本当かなぁ。
 もう一つの考え方は、征服して金銀財宝を奪うため。そっちの方が俗っぽくて我々俗人にはわかりやすい。

 拡大するイスラムはヨーロッパ・キリスト教世界をも支配しようと、とどまることのない征服欲を持っていました。

 とにかくこんな大帝国を築いていった。それが正統カリフ時代です。たった40年間ぐらいのことです。

 ムハンマドは、ヒジュラから10年ほどで死にました。632年にムハンマドが死ぬと、どこの世界も誰を後継者にするかが非常に難しい。すったもんだしたあとで、後継者が選ばれる。この後継者のことをカリフといいますう。これがイスラーム社会のリーダーになる。
 ではカリフが王様かというと、さっき言ったように、イスラーム社会は信者の共同体ではあっても、国という意識がないんです。国ではなくて、信者のグループをつくっただけなのです。
 そのグループの人数を、最初の10人から、100人、1万人、1億人に拡大しても、彼らはこれを国とは思ってないんです。ただ何とも呼びようがないから、便宜的に国と呼ぶんですけど、そのリーダーがカリフです。この人が指導者です。
 カリフは命令はしていいんだけれども、何でも命令していいかというと、その命令はコーランに違反したらいけないのです。だからこのカリフもコーランに違反することは命令できない。コーランに書かれた範囲内でしか命令できない。だからカリフには法律を作る権利つまり立法権はない。カリフ独自の新しい法律を作るようなことはできないのです。

 こういうカリフが4人続きます。この時代が30年間ぐらい続きます。これを正統カリフ時代といいます。カリフが選挙で選ばれた時代です。
 ただこの時代は、ムハンマドが死んだ後にもかかわらず、急速に領土を拡大していきます。つまり戦争していく。戦争し征服していく理屈として、これは神のための戦争だ、神のために俺たちは戦っているんだという。これをジハードといいます。日本語に訳すと「聖戦」といいます。
 なぜそうまでして領土を広げていく必要があったのかというのは、ちょっとわからない。ホントに神の命令と思って戦ったのか、それとも戦って相手を富を略奪したかっただけなのか。本当のところはわからないけれど、とにかく戦いに戦って隣の巨大国家を滅ぼします。
 642年ササン朝ペルシャを破ります。これをニハーバントの戦いといいます。ニハーバントは地名です。この結果イスラーム国家がどこを領有するか。ユダヤ教・キリスト教の聖地です。キリスト教の聖地とはどこだったか。それがエルサレムです。だからイスラム教徒が、この時からエルサレムに住み始めます。
 しかし、それから1500年ばかり経って、またユダヤ人が「おまえたち退け」と言う。昔オレたちの国があったから、新しいイスラエルをつくるんだと言って、イスラエルという国ができたのが、今から70年前のことです。ここからユダヤとイスラームの対立がはじまります。キリスト教はユダヤ側につきます。

 イスラム勢力は、東ヨーロッパのビザンツ帝国と対峙する前線基地をシリアに築き、ここに主力精鋭軍を結集させました。その数十万人にのぼる精鋭軍を率いていた総督はムアーウィアという人物です。

 ムアーウィアの軍団はビザンツ帝国との戦いを一時中断し、急遽軍を取って返し、カリフのいるアラビア半島に進撃します。この混乱のなかで4代目カリフのアリーは暗殺されました。アリーはムアーウィアの勢力に殺されたととらえるのが自然です。

 そこから王朝が発生します。4代目カリフが暗殺されて、その対立者のウマイヤ家が指導者になりました。



【ウマイヤ朝】
 この王朝をウマイヤ朝といいます。661年の成立です。建国者は軍人の親分みたいな人です。首都もメッカを捨てて、今のシリアの首都であるダマスカスというところに新首都をつくる。このダマスカスというところも、今非常に血生臭い。ミサイルが飛んだり、人が死んだりしている。メッカはアラビア半島ですが、ダマスカスは地中海寄りです。
 ここ数年、世界最大の難民はシリア難民です。イスラーム国とかいろいろあって、日本人が殺されたりしたあの国からいっぱい難民が発生しています。
 そのダマスカスに首都を定めて、ウマイヤ家がカリフの地位を世襲していく。世襲の意味は、親から子、子から孫へと受け継がれていくことです。こういう形を世襲といいます。そういう形で継承される国家を王朝といいます。王朝は他の地域では普通のことですが、イスラーム世界では宗教指導者は選挙で選ばれてることが原則だったのです。それがまたもとに戻ったのです。

 もともとカリフはそれではダメだった。もともとのルールは、選挙で選ばれることだった。信者の中から選ばれないといけない。それを無視して世襲になる。選挙は行われなくなった。これだったらふつうの国家の王様と変わらない。
 だからこれはおかしいという人、反対する人も出てきた。しかしこれでいいという人も出てくる。これでいいというグループ、これをスンナ派という。
 それに対して、これではいけない、4代カリフのアリーの一族こそ、本当のカリフだというグルーブをシーア派と言います。しかしこの一派もアリー一族の世襲を目指している点では同じです。当初の選挙原理がうまく機能しなくなったのです。これが現在でも続くイスラーム教の二大対立です。二大派閥の中の多数派がスンナ派です。

 全世界を見渡すと、我々はどうしてもヨーロッパが進んでいるという先入観がありますが、何回も言うように、この600年代のヨーロッパはド田舎です。
 ローマ帝国は滅んだ。滅んだあと、蛮族と言われるゲルマン人という田舎民族の国が乱立して、文化水準は逆にものすぐく低くなった。
 それに比べたらこのイスラーム世界の方がはるかに進んでいる。けっしてヨーロッパの方が昔から進んでいたわけじゃない、ということは一つ頭に入れていてください。

 そのゲルマン人のことは、またあとで言います。こういうふうにリーダーが親から子へと世襲されるということは、これはイスラームといえども、一つの王朝とみなされます。だから家の名前を取って、ウマイヤ朝といいます。
 しかし、これをおかしい、ウマイヤ朝を認めない、というグループもあるんです。これがさっきも言った反対派のシーア派です。
 今の時代から1400年ぐらい前のことですけれども、未だにこの対立は、スンナ派とシーア派の対立として続いています。1000年以上変わらない。この時できたんだということです。
 シーア派の支持者は、もともとは4代カリフであったアリーの支持者が多い。

 では大帝国が築かれた裏で、逆に征服された側の人はどうされたかというと、悲惨な戦争のなかで問答無用で殺されたというイメージがあるけれども、宗教は強制されません。これがキリスト教と違うところです。
 キリスト教では正当な考え方と違うと、おまえは魔女だ、魔女裁判架けられて、火あぶりの刑で殺されていく。その点イスラーム教は、征服はするけれど、信じないなら信じなくていいよ、イヤなら信じなくていいよ、という。
 ムハンマドは、「宗教に強制なし」と言った。宗教は強制するものじゃない。自分から信じるものだ。考えが違ったら、それは仕方がない。

 その代わりお金を払えばいい。税金を払えばいいんです。税金に2種類あって、土地税はハラージュ、これは一般的です。これはどこでもある。ヨーロッパでも日本でも。
 もう一つが、体で払う税金です。こういうのをジズヤといいます。これを人頭税といいます。国の中に住んでいるだけで、国のために働きにいかないといけない。お殿様のところの家の修理とか、畑を耕したりしないといけない。この二つを払えば何を信じてもいいよ、という感じです。

※ ウマイヤ朝は695年、正式な法定貨幣を発行します。ファルス銅貨、ディルハム銀貨、ディナール金貨の3種類に統一され、イスラム世界の金銀両本位制が確立します。(宇山卓栄 経済)

※ ウマイヤ朝第5代カリフのアブド・アルマリクは、ビザンツ帝国のノミスマ金貨をまねた純度97%のディナール金貨、ササン朝のディレム銀貨を継承するディルハム銀貨、ビザンツ帝国のフォリス銅貨を継承するファルス銅貨によりお金の制度を整えた。本位通貨の金貨・銀貨の鋳造権はカリフが独占し、補助貨幣の銅銭の鋳造権は地方の総督にも与えた。(宮崎正勝 お金の世界史)

 まだイスラムの拡大は続いてます。

 ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを破ることのできないウマイヤ軍はバルカン半島を越えてヨーロッパへと中央突破することができません。やむをえず、ウマイヤ軍は北アフリカ経由の迂回ルートを進むという戦略の大きな転換を迫られました。北アフリカからスペインへとまわり込み、ヨーロッパの背後をつくという新戦略です。

 100年経って、ヨーロッパ西端のスペインまで征服しようとしてきたけれども、弱かった田舎のヨーロッパも、ここから先はいくら何でもこれ以上進まれては困るというので、必死で戦う。スペインのちょっと北のほうです。

 イスラムはどこまで行こうとしたかというと、ダマスカスからアフリカを西に進んで、ジブラルタル海峡を渡ってスペインに乗り込み、その北のフランスに乗り込んで、ツールとポアチエというところまで攻め込んだ。
 フランスまでイスラームの国になるかという寸前ところで、ヨーロッパ側がこれを食い止めた。その戦いが、ツール・ポワチエ間の戦い732年です。ここでやっとイスラーム帝国は膨張をストップした。この時点では、これをストップしたヨーロッパの諸国に比べれば、イスラーム帝国の方が何倍も大きい。

 ウマイヤ朝は実はムアーウィアによる建国の起源から軍事主義的な性格を持っていました。しかし、ひとたびトゥール・ポアティエ間の戦いで敗れ、その侵略が止まると、機構はすぐに動揺し、もろくも崩れ去っていきました。



【アッバース朝】

 今言ってるのは、ウマイヤ朝の動きです。しかしそれに反対する一派つまりシーア派も出てきた。それと組んで新しい王朝を作るんです。750年にウマイヤ朝を滅してアッバース朝をうち立てる。これも家の名前です。アッバース家という。しかしアッバース家は王朝をうち立てると、シーア派を弾圧し始めます。そしてやはり多数派のスンナ派の国家になります。

 アッバース朝はウマイヤ朝のような軍事国家ではありません。

 この時に首都をどこにしたか。ダマスカスは敵方の都だったから、新しい都をつくる。これがバグダードです。今でも新聞やニュースで時々聞きませんか。イラクの首都ですよね。このときに人工的に都市計画をして新しくできた新都です。

 今の主要な国の首都というのは、ある時に国ができたときそこの王様が作って、それが今まで続いている、そういう都市がけっこうある。この後でてくるエジプトのカイロも、このあと王様がつくったものです。

 王朝が成立した翌年の751年には中央アジアでタラス河畔の戦いが起こります。これはアッバース朝と中国の唐が戦ったもので、ここで勝利したアッバース朝に唐から製紙法が伝わります。中国にはすでに紙がありますが、このイスラーム世界に初めて紙が伝わります。このイスラーム世界からヨーロッパに紙が伝わるのはさらにその後です。ヨーロッパにはそのあいだ紙はありません。紙がないということはヨーロッパの大半の人は文字が読めないということです。

 全盛期は、800年前後のハールーン・アッラシードという王様のときです。このイスラーム帝国で一番有名な物語として、船乗りシンドバッドの冒険とか、子供のころ聞いたことないですか? または、アラジンと魔法のランプとか、アリババと40人の盗賊とか、あれは一冊の本の中にあるんです。これを「アラビアン・ナイト」という。あれに出てくる王様なんです。この王様の頃のことです。

 この頃のヨーロッパは、のちに言うカール大帝の頃です。800年にカール大帝がローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の戴冠を授かり、西ローマ帝国の復興に向かおうとする頃ですが、まだ首都さえ定まらず、王は各地を転々としている状態です。各地を転々として王の権威を誇示しなければならなかった頃です。こういうのを移動宮廷といいますが、国としての国力の差は明らかです。

※ アッバース朝期、10世紀以降には銀不足が深刻化します。人口150万人を数えるバグダードの金融街が金銀比価の調整にあたり、各地方都市の両替商が活躍した。しかし、巨大化した経済に金・銀の産出量が追いつかなくなる一方だった。アッバース朝の経済規模が拡大して交易が活性化すると簡単な決済方法が求められ、ペルシア起源の送金手形のスフタジャ、持参人払いの為替手形のチャクが盛んに用いられた。ちなみにチャクは英語のチェック(小切手)の語源になっている。(宮崎正勝 お金の世界史)

※ アラビア数字や複式簿記の起源は、イスラーム世界にあり、リスク、小切手(チェック)などの言葉がアラビア語に由来することが示すように、イスラーム世界の金融の仕組みは14~15世紀ルネッサンス期のイタリア商人にも伝えられた。(宮崎正勝 お金の世界史)

※ 10世紀になると、資源の枯渇や銀を精錬する木材の枯渇により、銀の産出量が一気に減少した。金貨と銀貨が大幅に不足すると、帝国の経済規模を維持するために金融業者が手形を大量に流通させることになった。バグダードやバスラなどの大都市では金融業者の店が軒を並べ、バスラでは市場の商人たちが銀行に口座を設けており、市場での取引はすべて小切手で行われた。両替商に有価物件を持ち込むと、両替商は手数料を差し引いた額の小切手帳を発行し、その限度内で市場での買い物を小切手で済ますことができたという。
 またバグダードで振り出された小切手は、北アフリカのモロッコで現金化できたとされる。イスラーム商人が使う手形や小切手は、イスラーム商人と取引するベネチア、ジェノバなどのイタリア商人の間でも取り入れられるようになった。(宮崎正勝 お金の世界史)


 このアッバース朝は500年ぐらい続きますが、広大すぎる領土の周辺では、早くも9世紀には各部族の自立が進み、各地で新たな王朝が発生していきます。そこにはすでにトルコ人も侵入しています。



【後ウマイヤ朝】

 ただ、アッバース朝に負けたウマイヤ朝はどうなったか。本拠地はアッバースに取られた。その代わり、イベリア半島つまり今のスペインに逃げた。スペインまでイスラーム教が浸透した。そこに乗り込んでいき、756年後ウマイヤ朝をつくる。ウマイヤ朝の後という意味です。
 だからスペインは今でこそキリスト教の本尊みたいになっているけれども、500年前まではイスラーム世界だった。
 これで終わります。ではまた。



「授業でいえない世界史」 15話 イスラム世界 ファーティマ朝~マムルーク朝、アフリカ

2019-02-08 23:43:06 | 旧世界史6 イスラーム世界

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【ファーティマ朝】

 それから、アッバース朝も100年ぐらい経つと、帝国が広すぎてとても支配できない。周辺で地方政権が分裂する。
 909年、エジプトファーティマ朝が分裂します。アッバース朝が嫌いな国です。ここで新しい国を作って、その時に新しい都もつくる。それがカイロです。今でもエジプトの首都です。
 ここは同じアラブ系の国ですが、シーア派の国です。国の名前のファーティマというのはムハンマドの娘で、その娘と結婚したのがシーア派が正統とする4代カリフのアリーです。つまりアリー支持派です。アリーを支持するグループがシーア派です。それにちなんだ国の名前です。

 イスラーム帝国は広すぎる。だから辺境地帯で地方政権が誕生してどんどん分裂していく。広げるときはいいけど、広すぎると守りが大変です。異民族が侵入してくるんです。


【トルコ人の移動】

 今度は中国史と関わります。中国史で中国の北方民族、馬に乗った民族、彼らは動くのは速い。1000キロ、2000キロぐらい平気で移動する。彼らが移動して、中央アジアからこのイスラーム化した西アジアに入ってくるんです。イスラーム帝国に入ってきて国を建てていく。彼らがトルコ人です。
 中国史では何と言っていたか。漢字で出てきた。中国史では突厥と言っていた。騎馬遊牧民です。彼らは馬に乗っていて戦いには強いから、それを見込まれてアッバース朝の王様から軍人に雇われる。彼らも好んで軍人になっていく。

▼トルコ人の拡大


 しかし彼らは今でいう軍人と違って、王様の奴隷として軍人になっていきます。奴隷軍人なんです。しかも王様と緊密なつながりを持つエリートです。イスラーム圏にはこういうシステムがあります。横文字で言うと、彼らのことをマムルークという。
 奴隷というとものすごく悲惨な生活をしているような気がしますが、実はそれはヨーロッパの奴隷のイメージであって、ここの奴隷はけっこうお金をもっていて豊かです。我々日本人の持つ奴隷のイメージとはかなり違います。そこには血の通った主人と奴隷の関係が成り立ちます。
 だからこれは奴隷ではなくて、日本で言えば養子のようなものだという人もいます。確かにそうとらえた方が分かりやすいです。しかし教科書には奴隷と書いてあります。その奴隷をマムルークと言います。

 ただ優れた軍人は他の王様も欲しいから、奴隷を売ってくれとなる。そうなると自分の意志とは関係なく、売られていきます。売られる人間というのは、自由人ではなくてやはり奴隷だということで、雇い主から雇い主に売られていたので、やはり奴隷かな、という感じです。
 だから奴隷というのは、その生活の悲惨さを言うのではなくて、お金で売買されるかどうかが基準になるようです。他人の意志でお金で売買されるとは、自分の意志は無視されるということです。つまるところ人間と奴隷との差は、その生活水準ではなくて、個人の意思が尊重されるかどうかにかかっているようです。


 ただ現在でもこのスタイルを取っている職業人はいます。すぐれた野球選手は、球団のオーナーから見ると戦力として非常に欲しいから、高額でトレードされます。トレードとは売買です。5億とか10億で売買される。これがトレードです。イスラム圏の奴隷は、こういうプロ軍人として、今のプロ野球選手のイメージに近い。オレはあの球団には行きたくないと言っても、オーナーが移籍しろと言えば、行かざるをえない。

 サラリーマンはそういったことはない。例えば私が、ある企業に勤めていているのに、別の会社に移れと社長に言われても、私はそれを断ることができます。正当な理由なく、一方的に解雇されることはありません。
 ここにはそういう権利はない。そういう奴隷軍人です。しかし生活は豊かです。権力も持っている。武力も持っている。だから彼らが腹を立てると怖い。奴隷が主人の国を乗っ取って、別の国を建てたりします。

 

▼11世紀のイスラーム世界





【セルジューク朝】

 彼らトルコ人がそのマムルークになって雇われているなかで、その一方で中央アジア出身のトルコ人たちをまとめた国が建てられた。これが1038年です。セルジューク家が建てたからセルジューク朝という。彼らは中央アジアから入ってきた人たちですが、もともとの出どころはモンゴル高原です。中国史で出てきた騎馬遊牧民の突厥です。
 1055年、セルジューク朝のトゥグリル=ベクがバグダードに入城し、先に侵入していたブワイフ朝を滅ぼします。これはアッバース朝カリフの要請に応える形で入城します。

 そしてかなり大きい国になります。東は中央アジアから、イラン・イラク、そして西はアナトリアまで。この西のアナトリアを領有したことが、今のトルコ共和国の起源になります。このアナトリアはそれまでビザンツ帝国の領土だった。そこにセルジューク朝が入ってきたことが、ヨーロッパ人の恐怖心を高め、このあとでいう十字軍の征服活動になります。
 ただしアラビア半島は砂漠だから、20世紀に石油が出るまでは誰も欲しがりません。

 つまりアラブ人の世界に、東方の騎馬遊牧民のトルコ人が入ってきたということです。そして奴隷からのし上がって支配者になっていく。
 言葉も顔もアラブ人とは違うんです。しかし千年たった今では血が混じり合って、アラブ人やヨーロッパ人に似た顔になってますが、もともとはアジア系の人々です。


 彼らはアッバース朝から実権は奪っても、カリフは名目的に飾っておいた。そしてそのカリフからスルタンという称号をもらった。これを日本語に訳すと「統治者」という。つまり宗教的権威とは切り離して、政治的な権力だけをカリフから認められたわけです。

 こういうふうに、アラブ人に代わってトルコ人が支配層になる。これが11世紀です。

 この頃のヨーロッパでは・・・これも後で言いますが・・・キリスト教のローマ教会がイスラーム帝国と戦争をやると宣言して、参加するものこの指止まれというと、ヨーロッパ人がいっぱい止まりだして、イスラームに対して征服活動をしだした。オレがイスラームの土地をぶんどってやる、というんですよ。

 1096年からの約200年間、7回にわたって攻撃を仕掛けます。彼らヨーロッパ軍のことを、胸にキリスト教のトレードマークつまり十字架のマークを上着につけて征服に行ったから、彼らは十字軍と呼ばれます。
 これはヨーロッパ勢です。彼らはキリスト教が発生したところつまりエルサレムを一時的に奪います。ここはこの時イスラーム教徒の支配地になっています。

 こうやって、西アジアのイスラーム地域には、東からはトルコが来るわ、西からはヨーロッパのキリスト教徒が攻めて来るわ、グシャグシャになる。



【アイユーブ朝】

 次の12世紀になると、エジプトにまた別の王朝ができる。これをアイユーブ朝という。建国は1169年です。建国者はサラディンという武将です。本名は、サラーフ・アッディーンというんだけれども、これを縮めたあだ名がサラディンです。サラーフ・アッディーンの短縮形のようなものです。
 1187年、サラディンは十字軍と果敢に戦い、エルサレムを奪い返します。それでヨーロッパに名を知られます。しかしこれで終わらない。
 ここまでが12世紀です。



【イル=ハン国】

 次は13世紀です。1200年代です。中国史は先にやりました。モンゴル高原から中国を征服して、この西アジアまで征服してくるのがモンゴルです。中国方面からは2回目です。1回目はさっき言ったトルコです。そして2回目が今から言うモンゴルです。
 モンゴル人は、アジア大陸を征服して、ここにモンゴルの分家をつくる。これがイル=ハン国です。1258年です。これがアッバース朝のカリフの息の根を止めます。ほんとに殺害する。実権を失ったとはいえ、まだ生きながらえていたアッバース朝はこの時に滅亡します。
 ここでモンゴルが攻めてきた支配したから、イスラーム教は禁止されたのかというと、これが全く逆です。支配者層になったモンゴル人自らが、このイスラーム教の教えの圧倒的な厚みに感化されて、イスラーム教徒になっていきます。支配する側が支配される側の宗教に染まっていく。これがモンゴルのイスラーム化です。



【マムルーク朝】

 これと前後して、エジプトには1250年マムルーク朝ができます。マムルークとは、さっき出てきた奴隷という意味です。彼らはまたここでも王朝をつくる。そしてここに攻め入ろうとするモンゴル軍を撃退していく。その後、イル=ハン国は、約100年後の1393年にティムールによって滅ぼされます。


 まとめると、今までいろんな国が出てきたんだけど、覚えようとしてもなかなか覚えきれないというのが実情ですね。

 出てきた国を確認すると、ウマイヤ朝からアッバース朝になった。
 10C、エジプトではファーティマ朝が分裂した。
 11C、アッバース朝をトルコ系のセルジューク朝が占拠した。

    するとヨーロッパから十字軍が攻めてきた。
 12C、エジプトにアイユーブ朝ができた。
 13C、モンゴルが攻めてきて、イル=ハン国ができた。
    エジプトでマムルーク朝が対立した。
 14C、ティムールが攻めてきた。
 グチャグチャですね。西からも、東からも敵が押し寄せてくる。西アジア地域の宿命のようなものです。メソポタミア文明の頃から、これは変わりません。



【イスラーム文化】

 いろんな絡みで、いろんな宗教と接触し、キリスト教勢力も来る。中国の遊牧民も来る。そうしながらイスラーム文化圏が、いろんな文化を取り入れていくわけです。
 結局、どんな敵から攻められても、戦争には負けても文化的には勝ったんです。モンゴルだってイスラーム帝国に戦いでは勝っても、イスラーム教を受け入れていく。だからイスラム教はますます栄える。

 この時代は、ヨーロッパよりもこのイスラーム世界のほうが文化が高い。頭もいい、計算もできる、字も書ける。ヨーロッパ人は字が書けない、計算できない、まず紙がない。

 しかしここには紙がある。紙があって、字が書けて、計算ができるから、契約ができる。ということは商売ができる。金貨や銀貨のお金だって当然あります。このころのヨーロッパでは、まだお金は一部にしか流通していません。
 イスラム商人たちは、そのお金を使って、何百キロも離れたところで商売をし、中にはガッポリ儲ける商人たちも出てくる。これが船乗りシンドバットのモデルです。

 船乗りシンドバットは物語上の人物ですが、彼らは実際に風向きもちゃんと知ってる。季節によって風向きが違う。これを利用すれば貿易ができて、大儲けができる。船が1年を通じて移動できるんです。
 この季節風の知識を得て、彼らが操ったイスラムの船をダウ船という。この船乗りがシンドバッドですよ。
 アラビアンナイト、これがイスラムを代表する物語です。日本では千夜一夜物語といいます。


 しかもギリシャの学問は、すぐにヨーロッパに伝えられるんではなくて、このイスラム世界で一旦アラビア語に翻訳されて保存されているんです。彼らイスラーム教徒がまずギリシャ文化を学んだ。その500年もあとになって、ヨーロッパでやっと紙ができて、ヨーロッパ人が勉強しはじめる。まだこのあと500年もかかるんだけど。 

 アラビア語をヨーロッパ人が、自分たちの書き言葉であるラテン語に翻訳して、やっとヨーロッパ人がギリシャ人が考えたことを読めるようになるんです。こうやってギリシャ文化がヨーロッパに伝えられた。ここからヨーロッパが動き出して、やっとイスラームの水準に追いつく。
 それまでのヨーロッパは遅れた地域だったのに、それが追いついたとたんに、なぜか爆発的に発展していく。
 イスラーム世界は、これで終わります。



【アフリカ】

 次はアフリカです。世界史はあっちこっち行きます。アフリカは野蛮な土地ではない。ちゃんと国があります。今なぜ遅れた地域になっているか。
 これは後で言いますが、ヨーロッパ人が荒らしまくって、アフリカの黒人社会を壊したからです。この最たるものが奴隷貿易です。アフリカの働き手の若手の多くが、奴隷として連れ去られた。


 これは前に言ったイスラーム圏の奴隷と違って、本当に悲惨です。彼らは今でいう拉致にあう。突然後ろから羽交い締めにされて、手を縛られてブタのよう船に入れられて、大西洋を渡ってアメリカに連れて行かれた。この後500年後におこることです。

 アフリカにやってくるのはヨーロッパ人です。その前はアフリカにもちゃんと国がありました。

 ガーナ王国マリ王国。ちゃんと文明も栄える。国もあった。そのほかにもあるんですが、代表してこの二つ。

 ガーナ王国の後、14世紀にマリ王国。ここも非常に繁栄して、金があふれるほどとれた。そういう王国もでてきます。
 ポルトガル人が、スペイン人が、そしてイギリス人がやってくる。これでアフリカが変わる。

 アフリカ大陸の自然環境は、赤道から北にあるのがサハラ砂漠です。北はイスラーム圏です。古代ではエジプト文明が栄えた。

 よく赤道をサハラ砂漠のまん中あたりに引く人がいますが、そうじゃない。サハラ砂漠の南に赤道はあります。赤道直下は熱帯雨林で、さらにその南北に砂漠があります。これは地理の基本だったですね。

 商業が栄えたのは、アフリカの西ではなくて、アフリカの東のほうです。東岸の海岸です。なぜなら、この東海岸にイスラム商人の船乗りシンドバットたちが、インド洋を西に東に貿易をしていくわけです。インド洋の西の突き当たりがアフリカの東岸です。儲かる商品があれば、何でも売り買いしていく。

 だからここらへんのアフリカのもともとの言葉はバンツゥー語といいますけれども、これにアラビアの商人の言葉が混じり合う。そして別の言葉になっていく。これがスワヒリ語です。東海岸にもジンバブエなどの国ができます。

次はヨーロッパに行きます。
これで終わります。ではまた。



キリスト教とイスラーム教の違いは?

2017-12-02 10:45:30 | 旧世界史6 イスラーム世界

土曜

・キリスト教もイスラーム教も、ともに一神教である。
・キリスト教もイスラーム教も、ともにユダヤ教を母体としている。
・キリスト教のヤーヴェと、イスラーム教のアッラーは同じ神である。
・キリスト教もイスラーム教も、ともに旧約聖書を聖典としている。
・キリスト教もイスラーム教も、ともに西アジアの乾燥地帯で発生した。
・キリスト教もイスラーム教も、ともに好戦的である。

しかし、
・キリスト教は西アジアで生まれヨーロッパで普及したのに対し、イスラーム教は西アジアで生まれ西アジアで普及した。
・キリスト教は宗教を強制するが、イスラーム教は宗教を強制しない。
・キリスト教は命令の宗教だが、イスラーム教は慈悲の宗教である。

・キリスト教は人間の自由意志を認めないが、イスラーム教は人間の自由意志を認める。
・キリスト教は人間の努力とは無関係に予定説を導くが、イスラーム教は人間の努力を認める。
・キリスト教ではこの世はすでに必然的に決定されているが、イスラーム教では偶然に左右される。
・キリスト教は人が神を動かすことを禁じているが、イスラーム教は神は人の言うことを聞いてくれる。

・キリスト教徒は近代になるまで新約聖書を読まなかったが、イスラーム教徒は早くからコーランを読んできた。
・キリスト教は偶像を崇拝するが、イスラーム教は偶像崇拝を禁じている。

・キリスト教の始祖イエスは神の子であり人間ではないが、イスラーム教の始祖ムハンマドは預言者であり人間である。
・キリスト教ではイエスは神の子でムハンマドは人間であるが、イスラーム教ではイエスは人間でムハンマドも人間である。

・キリスト教には教会があるが、イスラーム教には教会がない。あるのはモスクという集会所だけである。
・キリスト教には教会には牧師がいるが、イスラーム教のモスクには牧師はいない。

・キリスト教社会の法はキリスト教の教えと直接関係ないが、イスラーム教社会の法はイスラームの教えに従っている。
・キリスト教は政教分離であるが、イスラーム教は政教一致である。
・キリスト教社会は国家とは別組織であるが、イスラーム教社会はイスラーム共同体がそのまま国家である。
・キリスト教は宗教指導者とはべつに王がいるが、イスラーム教の指導者カリフは宗教指導者であって王はいない。

・キリスト教徒は見た目でわからないが、イスラーム教徒は見た目でわかる。


トルコ民族のイスラム化

2008-07-08 10:43:44 | 旧世界史6 イスラーム世界

イスラム教は宗教的権力と政治的権力が一体化した一神教であるが、それがアラブ人の宗教であるあいだはよかったが、イスラム教が拡大し他の民族にまで伝えられるようになると、イスラム教のもつ聖俗一致の考え方はそれらの他民族には必ずしも浸透しなくなっていく。

非アラブ国家のセルジューク=トルコの政治的指導者はアッバース朝のカリフからスルタンの称号を与えられ、政治と宗教が切り離されるようになっていく。
アラブ人と違って、トルコの王はまずはじめにトルコの慣習に従って王として認められているのであって、イスラムの教えはその王権の在り方を変えるところまではいっていないのである。

つまりここでは民族固有の王権の在り方がベースとなっているのであって、王権にとってイスラム教というのはその外面的な在り方に過ぎない。

トルコ民族の国家を見るためには、イスラム教から見るのではなく、トルコ民族のもつ固有の王権の在り方から見ていかなければならない。

このことはアラブ人ではないイラン民族の国家を見るときにもいえることであり、
さらにいえば、今日の西ヨーロッパ世界を築く土台になったゲルマン民族の国家についてもいえることである。