ひょう吉の疑問

新聞・テレビ報道は何かおかしい

お金とは何だ 37 円そのものは外国に流出しない

2018-10-21 23:39:48 | 歴史

日曜日


『国際収支については、「日本からの資本流出によって日本から外国へ円が流出するので、マネーサプライが減少し、金融引き締め効果が生ずる」といわれることがある。しかし、これは誤解である。……
 例えば、日本の生保が米国の国債を購入するときには、日本のX銀行が保有しているドル預金が減少するが、円通貨が米国に流出しているわけではない。また国内では生保が持っていた円預金がいったん銀行部門から引き出されて証券会社に支払われるが、証券会社はその円預金で銀行からドルを購入するから円預金は再び銀行部門に戻ってくる。したがって、これら一連の取引の結果、円預金残高は変化せず、マネーサプライは変化しない。……
 円預金が外国の居住者に移転して、日本から資本が流出する場合でも、日本のマネーサプライは変化せず、金融引き締め効果は生じない。』
「国際金融入門 新版」(岩田規久男)岩波新書 p51

『ところが金本位制の下では、金を購入して、その金を米国の輸出業者に送って輸入代金を支払うこともできた。』前掲書 p71



これはどういうことなのか。
世界の共通通貨がなければ、ドルと円という異通貨間の交換はできないということなのか。
それは、異通貨間の最終決済はできないということなのか。

金ドル本位制が崩れたあとの変動相場制の時代では、最終決済できないことをいいことに、外国に対していくらでもお金を借りることができるということだ。
逆にいえば、日本はいくらでもアメリカにお金を貸すことができるということだ。
しかしそんなことをいつまでも日本が続けていけば、日本ではインフレが起こり、通貨価値が落ちてしまうことになる。

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お金とは何だ 36 ガイジンが円を借りると

2018-10-17 11:03:56 | 歴史

水曜日

お金は地域限定である。
アメリカに住むガイジンが円を借りても、アメリカでは円は使えない。
だからそのガイジン(B)またはその代理人(B’)が、日本に来て日本の銀行(A)から円を借り、その円をドルに換えてアメリカで使うしかない。
日本に円を借りに来たのがB’である場合、B’は日本の銀行(A)から、100万円を借りる。(以下は、1ドル=100円とした場合)
A銀行は資産の部に貸付金100万円と、負債の部に預金100万円を打ち込む。
この時、日本全体のお金の量は100万円増えたことになる。

B’はその100万円をドルに換えるため、A銀行に外国送金を依頼する。この時、A銀行は負債の部のB’の預金に-100万円を打ち込み、B’の預金はゼロになる。同時に資産の部の外国為替にー100万円を打ち込む。
この時、B’は借金を返済したわけではないから、A銀行は負債の部のB’の預金から100万円を引き出し、それと同時に銀行の資産の部の外国為替からも100万円を引き出す。
つまりここでお金の量は100万円減り、元に戻る。

さらにA銀行は、アメリカにあるA銀行の支店(A’)に指示を出し(実際には手形を発行する)、そこに口座を持つBの口座に1万ドル(100万円相当額)を入金させる。
これは融資ではないからA’支店は、資産の部の外国為替に1万ドルを打ち込み、負債の部のBの口座に1万ドルを打ち込む。
つまりここではお金(ドル)の総量は1万ドル増える。

実際にはこの作業は、
1.日本の中央銀行である日本銀行、
2.さらにアメリカの中央銀行であるFRB(連邦準備制度理事会)
を通じて行われる。

こうやって日本で増えた100万円が、アメリカの1万ドルとなって、アメリカで流通する。
こうやってお金を数字として考えると、日本の円がアメリカのドルに変わったように見える。



しかしお金の現物を頭に置いて考えると、私の頭の中ではこれとは違ったことが起こる。
円をドルとして送金するということは、円でドルを買うという売買であり、円とドルの交換である。
交換したものは、あくまでも交換であり、いくら交換してもなくならない。
つまりいくら交換しても、円は円としてあり、ドルはドルとして存在する。

両替商を念頭に置いて考えると、円をドルと交換するとき、両替商は、相手から円を受け取り、その代わりに相手にドルを渡す。こうやって円は両替商の手元に残り、ドルは相手の手元に渡る。
ドルを買った者はそのドルを手にしてアメリカに行き、そこでドルを使う。
では両替商の手元に残った円の現物はどうなるのか。
この円は「死に金」ではない。
これは両替商がドルを引き渡した代わりに受け取った円なのだから、紛れもないお金である。
つまり円をドルと交換しても、円はなくならない。お金として生き続ける。
しかもこの円が銀行から融資してもらったお金だった場合には、日本の円というお金の量は増えたままである。
その増えたお金を使って、両替商は別の物を買い、新たな商売をすることができる。

通常は送金すれば、お金は手元に残らないが、そのお金は同じ通貨圏内で誰かが使っている。
異なった通貨間で送金した場合もそれと同じで、送金元の通貨は消えてなくならず、所有者を変えて通貨圏内に残る。
そしてその通貨圏内のお金の量は増えたままである。

しかしはじめの例の銀行間の国際決済の場合には、円が消えて、ドルが通貨量として増えたように見える。
しかしそれは現物を念頭に置いた場合と、結果が異なる。
どちらが正しいのだろうか。

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お金とは何だ 35 お金と商品の違い

2018-10-16 11:56:56 | 歴史

火曜日

油は世界中どこででも燃える。
車は世界中どこででも動く。
リンゴは世界中どこででも食べられる。
しかし現代のお金はその国でしか使うことができない。

私の机の中には、少額だが、ある小さな国のお金がある。かれこれ20年間、机の中に入ったままだ。使いようがないのである。
使えないわけではないのだが、それを使えるようにするためには、それを円に換えなければならず、そのためにはそれ以上のお金がかかる。

外国通貨は日本では使えない。しかし無価値ではない。その外国に持って行けば、その通貨は価値を持つ。
つまり現代の通貨は、地域限定なのである。
いまの世の中で法的に地域限定にされているのは、核・麻薬などの危険物を除けば、お金だけである。

そういう意味で今のお金は非常に不便なのだ。
この不便さが何をもたらすか。
(ただ歴史的に見ると、この現象は紙幣の発明以降に発生したことである)

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お金とは何だ 34 お金がなくてもお金は貸せる

2018-10-15 10:27:21 | 歴史

月曜日

さらに銀行は何もないところから、私に100億円貸すことだってできる。
銀行の資産の部に私への貸付金100億円と、銀行の負債の部に私の銀行預金100億円を同時に打ち込めばいいだけの話だから。

では私が取引先への支払いのため、銀行預金の100億円を引き出しに来た場合どうなるか。銀行はその現金100億円を準備できるのだろうか。

しかしお金とは不思議なものである。お金はその額が大きくなればなるほど現金での引き出しは不便になる。
私はその取引先への支払いを銀行振り込みにする。そうやって銀行に送金を依頼する。
このとき銀行の処理は、預金の出金100億円と、為替勘定の入金100億円をパソコンに打ち込むだけである。
この処理に現金は必要ないのである。

この処理が済めば、銀行は100億円の現金を準備する必要はなくなる。
銀行は、私が引き出そうとする100億円の現金を準備できるかどうか心配する必要はなくなる。

こうなると銀行はいくらでもお金を貸すことができるようになる。
銀行がしたことは、貸付金に100億円を打ち込み、私の口座に100億円を打ち込み、
それをまた引き出して、為替勘定に100億円を打ち込んだだけである。
つまりお金があるかどうかにかかわらず、帳簿上の処理をするだけでいい。

あとは、私がその100億円を利息をつけて返済するのを待つだけでよいのである。

この時、私には法的責任がかかる。
この時銀行は、「あなたに貸したお金は、預金者から預かった大切なお金だから、あなたが返済しないと預金者に迷惑がかかる。だからどんなことがあっても返済してもらわなければならない」という論理である。
確かに借りたお金は返さなければならない。
しかし私が銀行から借りたお金は、銀行が預金者から預かったお金ではない。銀行が勝手につくったお金が大量に含まれている。
ではなぜ、銀行が勝手につくったお金を、私が働いて返さなければならないのか。
そのことは、私が銀行のために働くこととどう違うのか。
(私は銀行借り入れはゼロです。念のため。これは論考です。)

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お金とは何だ 33 ルールの矛盾はじわじわと拡大する

2018-10-15 07:58:45 | 歴史

月曜日

ルールの矛盾はじわじわと拡大する。
銀行の矛盾と資本主義の矛盾は結びついている。
当初は小さな矛盾でも、時間をかけてだんだんと大きくなる。
そして気づいたときには、それは手がつけられないほど大きくなっていて、そのルールに従う以外に方法がなくなってしまう。
資本主義社会とはこのようなものである。
負債によって生じたお金を貸し付けていくというルールである。
そしてそのルールが、「富の拡大」と「富の偏在」を同時に生んでいく。

資本主義社会のその原動力は銀行である。
負債をお金に換えることができるのは銀行だけである。
これは一種の手品である。
このカラクリには一種の詐欺的手法が使われている。

繰り返すが、
私が銀行から100万円を借りるとき、その100万円はその銀行の私の口座に入金される。
このとき銀行の貸借対照表では、
銀行の資産が貸付金として100万円増え、銀行の負債が私の預金として100万円増える。
この時点で世の中のお金が増える。銀行手持ちのお金が減ったのではない。(これが「信用創造」と世に言われているものである)
これで貸借は合うのである。これがすべてである。
おわかりだろうか。

ここでは何かが根本的に違う。
例えば、私が手持ちの100万円を人に貸し付けた場合には、私の手持ちのお金は100円減るが、銀行の場合には減らない。そして銀行のお金は減らないまま、借り手の銀行預金が100万円増える。ここで世の中のお金は100万円増えたことになる。
いくら考えてもおかしな話だが、現実のことである。

通常であれば、私がBさんに100万円を貸した場合、私の手持ちの現金が100万円減る。そしてその分を貸付金100万円として計上する。つまり私の貸借対照表上の資産の量は変わらない。
そしてBさんは自分の貸借対照表上に、負債を100万円計上するとともに、資産として現金100万円を計上する。
この段階では、お金の量は変わらない。私の資産であった現金100万円が、Bさんの資産の100万円になっただけだ。
しかしここで銀行が行った処理は、Bさんが私から借りた現金100万円を再度私に預金として預けたということである。

ややこしい話だが、銀行が貸し付けたお金は、まず預金となったのである。これが同時に行われる。
このことの意味は、銀行はお金の貸し出しによる手持ちの現金の減少を防いだということである。
しかしBさんはすぐに銀行貸し出しによって増えた預金を引き出すだろう。それは銀行にとってはよくある銀行預金の引き出しである。貸し出しによる銀行手持ちの現金の量の減少ではない。

ここでは銀行は自分のお金を貸し付けたのではない。銀行の手持ちのお金は減ってはいない。それどころか、逆に銀行の預金量は増えている。Bさんの銀行預金が増えることによって。このことは世の中のお金の量が増えたということである。それを途中の処理を省略して実行したのである。
銀行の融資とはこういうものである。
お金を貸すだけで、世の中のお金の量は増える。そしてそのお金を返済してもらう権利が銀行に発生する。
銀行は私の預金通帳に100万円と入力するだけで、100万円の債権を発生させる。それはものの1分もかからない。
しかし私がその100万円を返済するのは大変である。1分どころか1年も2年もかかる。
この銀行の債権と、私が負った債務は対等ではない。
労働量が違うのである。債権を発生させる労働量と、債務を返済する労働量が全く違う。
これが対等であるはずはない。
この取引は圧倒的に銀行に有利である。
指先で100万円と書いただけで、人を1年も2年も働かせることができるのだから。

これが債権と債務が均衡していないということである。
権利と義務が均衡していないということである。
その結果、有利な立場の者が富を得る。
「富の偏在」が起こる。
「貧富の格差」が起こる。
資本主義社会は必然的に「格差社会」になる。

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お金とは何だ 32 「私的所有権」とお金の「又貸し」

2018-10-14 20:51:31 | 歴史

日曜日

貸し借りは、昔からある。
しかし銀行が行っていることは、単なる貸し借りではなく、お金の「又貸し」である。

自分のお金を貸した場合、貸した本人はお金は使えなくなる。
しかし預かったお金を貸し出した場合には、二重にお金が使える。
銀行が貸し出したお金は、考え方としてはコピーされたお金である。

自分のお金を貸すことと、他人のお金を又貸しすることとは、金融論として根本的に違う。
「負債としてのお金」とは、「銀行の負債である預金を貸し出すこと」、つまり「又貸し」のことである。
これは人道的には違法である。
なぜなら、人の世のルールである権利と責任との関係が崩れるからである。権利と責任の均衡が崩れるからである。
その結果、人がお金を使うのではなく、お金が人を使うようになる。
そしてそのお金とは、銀行のお金である。
ということは、銀行が人を使うということである。
銀行は人が働いてコツコツ貯めたお金を集めただけでこういうことができるようになった。
それが「又貸し」である。
その「又貸し」が合法かどうかは、長い裁判の歴史がある。

私的所有権の絶対性が正しいとするならば、人から預かったものをリスクにさらす行為は違法である。
しかし銀行は人から預かったお金を、当初は無断でリスクにさらしていた。
銀行のもともとの成り立ちが違法行為であることは確かである。

しかし、私的所有権の絶対性を確立させたイギリスで、1848年にその私的所有権をリスクにさらす行為、つまり銀行の「又貸し」行為が合法とされた。
これほどの矛盾はない。ここには論理的な整合性がない。
この非整合性が、その後に世の中に発生する、権利と責任の均衡関係を崩していく。
富の所有者には権利ばかりが発生し、それにともなう責任が発生しないように、もともとつくられている。
資本主義社会とは最初からそういうルールで成り立っている。
その出所として最大のものが、銀行の「又貸し」ルールである。

資本主義にはもともとこういう矛盾がある。
仮にそこに矛盾がないとすれば、逆に私的所有権の絶対性という近代の経済ルールそのものが間違っていることになる。

1.私的所有権は正しく、
かつ
2.それを脅かす銀行の「又貸し」行為も正しい。
これは矛盾である。
どちらかが誤りでなければ世の中のルールは成り立たない。
ルールが間違っていれば必ず富は偏在するようになる。つまり「貧富の格差」は拡大する。
いまの世の中がそうであるように。

これを解消するためには、
1.私的所有権は正しくないか、
または、
2.それを脅かす銀行の「又貸し」行為が正しくないか、
そのどちらかでなければならないことになる。

1の『私的所有権は正しくない』とすれば、莫大な富を持つ者の富は、社会の富として社会に還元しなければならず、
2の『銀行の「又貸し」行為が正しくない』とすれば、お金の「又貸し」そのものを禁止しなければならないはずである。

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お金とは何だ 31 国債を買ってもお金は増えない

2018-10-14 10:01:08 | 歴史

日曜日

国が発行した100万円の国債を私が買うと、私のお金が100万円減り、国のお金が100万円増える。
ここでも世の中のお金の量は増えない。
途中に銀行が介在するが、そこでもお金の量は増えない。

なぜなら、銀行が国から買った国債の代金は、銀行の貸付金としてではなく、市中銀行が日本銀行に持つ預金口座から引き落とされるからだ。つまり市中銀行が日本銀行に持つ預金口座の残高の減少として現れるから、世の中全体のお金の量は増えない。
そしてその預金額の減少の代わりに、買った国債が市中銀行の資産になって積み上げられるだけだから、そこに信用創造は発生しない。
(しかし市中銀行が国に融資をした場合は、信用創造が発生する。そんなことが実際にあるのかどうかは知らないが。)

つまり、株の発行によっても、国債の発行によっても、世の中のお金の量に変化はない。その途中に銀行が介在しても、である。
(ただAさんが国債を買うための資金を、銀行がAさんに融資した場合は別である。そんなことが実際にあるのかどうかは知らないが、似たようなことは国際間ではある。キャリートレードとして。このことについては別に考える)

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お金とは何だ 30 株とは何だ

2018-10-13 22:00:56 | 歴史

土曜日

働いてコツコツ貯めた自分のお金で、自分の会社をつくる。これが原型である。
次に、会社の設立に自分だけの資金では足りない場合、友人と共同経営して、50万円ずつ出し合い、100万円で会社をつくる。
この場合、一人でつくるか二人でつくるかの違いだけで、自己資本であることに変わりはない。
資本金を1人で出そうが2人で出そうが人数が違うだけで、そこに資本金としての違いはない。
この会社の利益(配当金)を出資者にどう配分するか。
その権利が株式である。

会社に出資をした時、世の中のお金の量は増えない。
増えないという意味は、足りない50万円を銀行から借り入れた場合と比べて、という意味である。もし銀行から借り入れれば、借り入れた分、世の中のお金は増えたことになる。
そこに大きな違いがある。
株式と銀行借り入れの違いはそこにある。
前者が直接金融(現物金融)で、後者が間接金融(コピー金融)である。

会社設立資金として株式投資をする場合には、銀行のような信用創造は発生しない。
既存の会社が新株を発行する場合(増資)にも、信用創造は発生しない。
さらに他人の所有する株を購入する場合にも、信用創造は発生しない。この時は株の所有権が移転するだけである。このときも、AさんとBさんの株と現金が交換されただけで、世の中のお金の量は変わらない。
そしていずれの場合も、株の購入は、お金をその企業に預けたわけではないから、会社に債務は発生せず、返済義務も発生しない。だから世の中のお金の量は変わらない。

問題になるのは、株価の異常な高騰である。
これがバブルである。
100万円だった株が、1年後に150万円になった場合、その50万円はどこから来るのか。
100万円で買った株を150万円で売った場合には、その株を買った人が売り手に150万円を支払ったわけであるから、これも世の中のお金の量には変化がない。だからここにも信用創造は発生しない。

とすれば値上がりした分の50万円はどこから来たのか。
少なくともここで言えることは、株取引そのものにはお金の量を増やす機能はない、ということである。
株価が値上がりし、その会社の資産が大きく膨らむということはよくあるが、そのことによって、世の中のお金の量が増えたことにはならない。
株取引自体はあくまで等価交換であり、そこにはお金の量の変動はない。

株式資産が膨張した分は、それ以外のところのお金が減少したということである。

ただここで注意しなければならないことは、たとえ株価が150万円だったとしても、誰かがその株を一斉に売り払おうとした場合には、150万円で売ることができるのはその中のほんの一部の株に過ぎず、それ以外の株は150万円以下の値下がりした値段でしか売ることができないということである。
だから株式資産の総額が、株価 × 株式数で表されるというのは、本当はウソである。


いくら株価が値上がりしても、そのことだけによって世の中のお金の量が増加することはできない。
問題は株を買うお金がどこから来たかということである。

(ただ前にも書いたように、株主が会社の負った借金を返済しなくてもいいという株主の無責任性は、これとは別のところで、権利と責任の非対称性として存在する。)

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お金とは何だ 29 富の危険性

2018-10-13 11:38:54 | 歴史

土曜日

富そのものが、利益を生む。
しかしその利益は不労所得である。
人を働かせて自分の利益にしたものである。
だから富はもともと危険なものである。
同じ人間に生まれても、富を譲り受けた者は、それだけで人を使うことができる。

肉は腐って富にはならないが、穀物は肉に比べると保存が効く。
お金になると半永久的に保存できる。
保存できる利益が富である。

しかも銀行が扱う富は、もともと自分のものではない。
他人の富を集めて、人に貸し出すものである。
これが金融業である。

富がもともと危険なものだとすれば、
銀行はその危険な富を集めて、さらにそれを拡大するのが仕事である。
それは不労所得の拡大を意味する。

こうやって債権は拡大され、その利益はもともとの富の持ち主に還元される。
これは富の分配ではなく、富の収奪である。

他人の富を集め、それを貸し出すことができるのか。
そのことは何を意味するか。
富が人を支配するということである。
しかももともとの富の2倍、3倍の力をもって、人を支配するということである。

このことは、多くの宗教の説く「富の分配」の教えとは対極にある。
「富の分配」は喜捨や寄贈である。これには返済はともなわない。
しかし銀行債権の発生には必ず債務がともなう。債務には返済の義務がともなう。さらにそこから利息を取る。
「貸す」という行為の意味は大きい。
通常、借りたもの以上の価値を生み出すのは難しい。
だから、富の貸し出しによって、
貧しい者から、富める者への富の移転がますます進む。

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お金とは何だ 28 不良債権の無限連鎖

2018-10-13 11:07:23 | 歴史

土曜日

ユーチューブの動画は、このブログに埋め込むことができる。
一見すると、1つの動画が、ユーチューブでも見れるし、私のブログでも見れる。
だから同じ動画が2つあるように感じる。
しかし、もしそのユーチューブの動画が削除されれば、私のブログに埋め込んだ動画も同時に削除される。

銀行が貸し出した債権も同じようなものである。
複数の債権があるように見えても、その実態は1つである。1つが削除されれば、そこから生み出された複数の動画もすべて削除される。
銀行からお金を借りた人が、それをまた別の人に貸せば、そこにまた新たな債権が発生するが、それによって債権の量が増えたかといえば、その債権は非常に脆弱で、1つの債権が不良債権化すれば、それに連動する他のすべての債権も不良債権化する。

1.1つの債権が無限に連鎖して新しい債権を発生させていけば、
2.その中の1つから発生した不良債権も無限に連鎖して不良債権化していく。
不良債権の無限連鎖である。

1が行きすぎればバブルになり、
2が起こると恐慌になる。
これにやられると、平成30年間の日本のように、経済は破壊され、長いこと立ち直れない。

1の銀行の信用創造により、債権が拡大すればするほど、1つの不良債権の発生により、
2の恐慌が発生するリスクは高まる。

単なる住宅貸し付けに過ぎないサブプライムローンが不良債権化しただけで、全世界が不良債権だらけになり、全世界を不況が襲う構造はこれである。
金貸し業が、古来嫌われていた理由はここにある。

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お金とは何だ 27 負債とは将来発生させなければならない富である

2018-10-12 11:38:12 | 歴史

金曜日

負債とは、将来発生させなければならない富である。
負債の相手方には債権がある。この時の債権は、将来発生するはずの富である。しかしいまはまだない富である。
この時、一時的に富の量よりもお金の量が大きくなる。
債権は権利で負債は義務であるから、この時の債権も人の権利を借りたものである。
この時銀行は、自分の権利を人に貸したのではなく、人の権利をまた別の他人に貸したのである。
これを繰り返していくと、または多くの人がこれをやると、世の中は実際にある富の量よりも権利の量が大きくなる。つまり社会の実力を超えた権利が発生する。
だから急いで辻褄を合わせる必要がある。不足する富の量を急いで補わねばならない。これが未来に発生しなければならない富の量である。しかも相手に払う利息分を加えて。

これが成功し、権利の量と義務の量が均衡している限り、社会は維持される。
しかしこれに失敗した場合どうなるか。
これは杞憂ではなく、実際に失敗して社会が混乱する自体が何回も繰り返されている。
それが資本主義の特徴だといってもいい。

資本主義の特徴は、常に権利の量が義務の量よりも多い中で、どうにか社会が回っていることである。
権利の回収日までに、自転車操業的に、債務の返済が行われている。
この債務の返済が間に合わなくなったときに何が起こるかである。
その崩れゆくシステムがどのようなものかである。

人体でいえば資本主義は、臓器の量に対して、血液の量が不足しているシステムである。
臓器がもらう権利のある血液の量に対して、富の量が不足しているから、血液の配給が足りないのである。その養分が足りないと人は倒れる。
勝手に大きくなっておいて、血液の養分が足りないと文句を言う権利が、臓器にはある。
これが債権である。血液は債務を持っているから、臓器の要求に応えなければならない。
血液の養分は誰かが働いてつくられなければならないが、その量が不足している。
臓器だけが大きくなり、それに対する血液の養分の量が追いついていない状態が、資本主義の常態である。

臓器を大きくすることにたいした苦労は要らない。銀行の信用創造によって、他人のお金を帳簿上でコピーして貸し出せばいいだけだから。
それに対して富の量を増やすには、真水の量を増やさなければならない。これは帳簿上の処理ではできない。実際に道路を作り、橋を架け、機械をつくり、走る車をつくらねばならない。
こちらの労働は、机上でできるものではなく、実際に額に汗して働かなければならない。

その労働量に違いがある。
権利を増やす仕事は簡単で、実際の富をつくる仕事は重労働である。この実際の富によって権利は返済される。これでチャラになるが、世の中にはまだチャラになっていない、莫大な権利と負債が存在する。債権は強制力を持ち、債務は強制される力を持つ。
この強制力が大きくなればなるほど、社会はパンクするリスクが大きくなる。

このような債権過多により、資本主義下の人間は、絶えず負債に追われる。それでのべつまくなく働かされることになる。
たとえ一人一人のサラリーマンは負債を抱えていなかったにしても、彼らが働く多くの企業が負債を抱えていれば同じことである。
そこで働くサラリーマンは会社の負債を返済するために働くことになる。
ほとんどのサラリーマンはこのような状態である。
そして国民の多くはサラリーマンである。

銀行の信用創造は、非常に効率のよい債権の作り方である。
この債権の作り方は社会の中で効率がよすぎるのである。
そこから権利と義務のバランスが崩れ、債権と債務のバランスが崩れる。
そしていずれ恐慌が起こる。

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お金とは何だ 26 新たな富とは何か

2018-10-10 10:18:03 | 歴史

水曜日

人は、債権によって新たなお金をつくり、債務によって新たな富を作る。またはそれを強制される。

それによって、債権と債務が均衡する。
これが均衡することによって物の値段は一定に保たれる。

その新たな富によって、債務は返済され、債権と債務はともに消滅する。

1.お金の量が富の量より増えれば、物の値段は上がり、
2.逆に、富の量がお金の量より増えれば、物の値段は下がる。

債務による富をつくることに失敗すれば、物の値段は上がり、
債務と同じだけの富をつくれば、物の値段は均衡する。
逆に、債務以上の富をつくることに成功すれば、富を換金するためのお金が足らなくなり、お金の価値が上がる。つまり物価は下落する。

1が、債権と債務が発生したときであり、
2が、債務から富が発生し、その富によって債務が返済され、債権と債務がともに消滅したときである。

1の時点では、生産が活発になり、
2の時点では、庶民の生活が豊かになる。

1がインフレであり、
2がデフレである。

ではなぜデフレがいけないのか。
政府がそう言っている。デフレを脱却しなければならないと。
それは1の活動が不活発だからである。

政府によれば理想は、1と2が均衡し、お金の量と富の量が均衡して、物価が安定することである。
しかし2の状態だけが続き、1の活動が不活発になると、債務と債権が発生しなくなり、つまり新たなお金が発生しなくなり、物価は下がることになる。
つまり政府にとっては、新たなお金が発生しないことは、国の生産活動が低迷することなのである。

しかし人間の豊かさには限界がある。
一定の豊かさを手に入れた社会で、新たな富とは何だろうか。
衣食住の豊かさを手に入れた社会で、新たな富を生み出すとはどういうことなのだろうか。

そのためには、新たな発明・発見がなければならないだろう。
そのための基礎研究には莫大な費用を要する。
新たな発見は、応用科学ではなく基礎科学である。

国は、成長戦略を声高に主張するが、その成長戦略は空疎である。
財政難を理由に、基礎研究への予算を削っているのが実態である。

人々が衣食住足りているなら、なぜそこに新しい富をつくらなければならないのかという疑問は当然ある。

しかし政府は、ことあるごとに成長戦略といっている。
成長戦略といっていなければ、基礎研究費を削っていいだろう。
しかし成長戦略といったからには、新たな富をつくるための基礎研究費を惜しんではならない。

つまり政府の成長戦略とは、富の量的拡大に過ぎないのだ。車が10台売れていたのを20台売れるようにするというだけなのだ。日本人には車はすでに行き渡っているから、それを海外で売ろうとしてるだけなのだ。
しかしそれによって日本人がどれだけ豊かになるのだろうか。

こういう発想を取っている限り、新たな富は生まれない。
衣食住足りた社会での新たな富とは何なのだろうか。

ケイタイからスマホに変わったとき、確かに何かが変わった。
何か大きな質が変わったのだ。
それまでなかったものが生まれたのだ。
その是非はいまだ不明だが、そこから莫大な利益が発生したことは事実である。
日本のケイタイ製造メーカーの凋落は無残なものであった。

しかしそのことによって私は、日本のケイタイ製造メーカーが悪かったとは思わない。
こういうことができるのは、数万人に一人の天才に限られている。
しかも大きなリスクをともなう。
いま国民は本当にそんなことを望んでいるのだろうか。

私が言いたいのは、アベシンゾーが二言目には言っている「成長戦略」がいかに難しいことなのかということである。
特に衣食住足りた日本のような社会では。
アベシンゾーの言葉に、人としての軽薄さを感じるのは、なぜなんだろうか。

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お金とは何だ 25 穴を掘って埋めても景気はよくならない

2018-10-09 10:13:51 | 歴史

火曜日

お金がなければ、節約してお金を貯めればいい。
しかし、お金がなければ、お金を借りてでも儲けを増やしなさい、というのが今の経済だ。

これは起業家にとっては正しいかも知れない。
しかしサラリーマンにとっては間違っている。

内需拡大のためお金を使いましょうというのは、起業家のためにそうするのであって、サラリーマンのためにそうするのではない。
サラリーマンはそのことをよく分かっていて、彼らの財布のひもは固い。
しかも今の若い人ほど固い。
彼らは感覚的に政府のウソを見抜いている。

お金の量を増やすだけで経済がよくなるのであれば、公共投資はそれこそ、「穴を掘って埋める」だけでいい。しかしそんなことをしても景気はよくならない。
それでは富が増えないからだ。
穴を掘ることが有効であるためには、その穴から水が出て、その水が周りの水田を潤さなければならない。そういう穴が社会的な富である。
タヌキの通る道に国道をつくっても景気はよくならないのは、これと同じことだ。
これでは失業対策に過ぎない。
失業対策は現状維持である。
しかし景気回復はそれ以上のものを生み出さなければならない。

日本はこのことに30年間失敗し続けている。
景気が低迷する中で、お金を使い続ければ身の破滅である。
バブル崩壊後に生まれた人ほどそのことを身にしみている。

彼らは借金をしてまで働く必要を感じないのだ。
それと同じことが企業でも起こっている。
現在の日本では借金をして利益を増やすことよりも、そこから発生するリスクのほうが遙かに大きい。

銀行の「又貸し」が合法化されたときから、世の中は借金によってお金の量を増やすことに終始してきた。債務と債権を同時に発生させ、それによってお金の量を増やし、その増えた量のお金に見合う富を「あとから」作り出すという方法である。
しかし今では、「あとから」富は発生しない。そして債務だけが残る。

富が発生しない社会で、今のアベノミクスのようにお金だけばらまくということは、おかしなことである。
このばらまかれたお金は、社会の富の構築に向かわず、ゼロサム社会の中で蜃気楼のような株高を招いている。

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「政府は必ず嘘をつく」ジャーナリスト・堤未果さんが真相を明らかに

2018-10-08 20:39:53 | マスコミ操作

「政府は必ず嘘をつく」ジャーナリスト・堤未果さんが真相を明らかに

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お金とは何だ 24 「現物金融」と「コピー金融」

2018-10-08 18:08:32 | 歴史

祝日

銀行を「間接金融」という言葉で表現するのは、実体を分からなくさせている。
銀行は、「又貸し」金融である。銀行が企業に貸したお金は、本当のお金ではない。人のお金でもない。コピーされたお金である。実体は一つしかないものをコピーして2つあるように見せているだけだ。だから「コピー」金融であり、1つを2つに見せているから「二重」金融である。

それに対して、株は「現物」金融である。そこでは銀行のようなコピーは行われていない。実際のお金が資本金として振り込まれ、その後の配当を受け取る権利が株式となる。そこでは信用創造は発生しない。通貨発行益も発生しない。あくまでも払込金に見合った株式が発行されるだけである。
株がよく悪者にされるのは、その配当額も、株価も未確定だからである。
しかし実績に応じて配当するということは、堅実なことともいえる。

これに対し、銀行が貸しているお金は現物ではないから、「コピー」金融である。

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