日曜日
株価が上がっているのは日本だけではない。
2008年のリーマン・ショック以来、その直後から、多くの国の株価が上がっている。
一貫して右肩上がりを続けているのは、
アメリカを筆頭に、ドイツも、イギリスも、フランスも。
アジアでは、インドネシアも、マレーシアも、タイも、そして日本も。
これらの多くは旧西側資本主義圏の国々だ。
しかし、中国やロシアなどの旧東側社会主義圏はそうではない。これらの国では株価は横ばいか、右肩下がりである。
なぜ西側諸国ではリーマン・ショック直後から株価だけが上がり始めたのか。
それは恐慌を回避するために、金融の量的緩和を行ってきたからだ。
それでなぜ株が上がるのか。
この株価上昇は官製相場である。
政府と金融機関が、国民を株式相場に巻き込もうとして株価を意図的につり上げている。
この声につられて今の株式市場に参入した庶民の多くは、資産を奪われている。
そうやって国民の資産を剥ぎ取ることがこの上昇相場の狙いだ。
リーマン・ショック時の不良債権はどうなったのか不明である。
企業会計の不透明さだけでなく、今の日本では日本という国の会計処理の不透明さが大きくなっている。
庶民の金を巻き上げて、その金が何に使われているのか、はなはだ不透明である。
しかし今の官製相場に参加した庶民は政府がねらったほど多くはない。
国は金のあるところから、それをむしり取る以外に方法を持っていない。
国民は今の官製相場を冷ややかに見ている。政府の思い通りにはならない。
だからいつまでも量的緩和を続けるしかないのだ。
今の株高は金融機関同士が株をつり上げているだけだ。
こんなことがいつまでも続くはずがない、国民はそうにらんでいる。
いつ落ちるか、いつ落ちるか、そんな気分で相場を見ている。
だからこんな危ない相場は手を出せたものじゃない。
金融機関同士の横の連絡は行っているから、株が暴落するときには金融機関の内部の人間はいち早く売り抜けるんだろう。
あとは何も知らされない一般庶民がババを掴まされるだけだ。
だから、不良債権処理と国の財政再建は宙に浮いたまま、いつまでもダラダラとこの金融緩和が続くのだろう。
この株式相場自体がインサイダー相場なのだから。
この病的で危険な上昇相場がいつまで続くのだろうか。
無理に吊り上げているとしか思えない。
中央銀行というのは博打の胴元だな。
土曜日
今日の赤ひげのラスト、弟子の言葉、
「徒労でいい」
これ効いたな。
不意を突かれて、思わず効いた。
ズシンとくる、軽いジャブのようだった。
酒飲んでたからかな。
ズルいな、こんなところでそれを言うなんて。
勝っても、負けても、徒労でいい。
無私の精神とか、
身を捨ててこそとか、
いろいろ言い方はある。
でも「徒労でいい」、
短い言葉には勝てないな。
この年で、勇気をもらった。
肩の力が抜けた。
おまけに少し涙が出た。
木曜日
紙幣には、
1.借用書系
2.預かり証系
この2つがある。
3.譲渡性、はこの2つの上にともに乗っかるものである。
4.信用、もこの2つの上に乗っかるものである。
硬貨は、貴金属という物の信用の上に成り立っているが、
1と2の紙幣は、人の信用の上に乗っかっている。
信用の土台は違うが、信用という点では同じである。
硬貨であろうと紙幣であろうと、信用の上に乗っかっているという点では同じである。
譲渡性も、硬貨であろうと紙幣であろうと共通している。
ちまたにある通貨論には、
1と2を中心として論ずるものと、
3と4を中心に論ずるものとがある。
しかし後者の3と4は、当たり前のこと過ぎて、そのことは古代の貨幣から共通してみられることであり、近代になって爆発的に膨張する貨幣の問題点を論ずるにはさほど意味を持たない。
近代の貨幣論にとって重要なのは、前者2つ、つまり、
1.借用書系紙幣と、
2.預かり証系紙幣である。
1の借用書系紙幣は、負債の問題につながり、
2の預かり証系紙幣は、銀行の支払い準備の問題につながる。
現在の金融緩和策、つまり量的緩和策(紙幣の大量増刷)の問題は、この2つの問題が根底にある。
問題の根は、本物の紙幣の代わりに大量の偽金まがいの紙幣が出回っていることである。
ではその「偽金まがい」というのがいったい何なのか、それが全く解明されていない。
お金とは権利である。日常的には、ものを買う権利である。
私が100万円持っていれば、私には100万円のものを買う権利が発生する。
私がものを買わずに、その100万円を銀行に預ければ、銀行にはそれを保管する義務が発生するだけで、銀行に100万円のものを買う権利は発生しない。あくまでもものを買う権利は私にある。
しかし銀行がその預かった100万円を誰かに貸し付ければ、その人には100万円のものを買う権利が発生する。
なぜなんだろうか。
たったこれだけのことだが、そのメカニズムが社会的に何を意味するかは分からない。
この時、何が起こったのだろうか。
近代社会で起こっているこの当たり前の行為の謎は今も分かっていない。
多くの日本人は人のお金を使って、自分のものを買っている。住宅ローンとはそういうものである。
なぜそういうことが可能なのか。
通常、権利を考えるときにはその裏側に義務がある。
権利と義務は等価でなければならない。
世の中に100の権利があれば、同時に100の義務がなければならない。それではじめて社会のバランスは保たれる。
しかし銀行が、私の預けた100万円を誰かに貸したことにより、世の中には200万円の権利が発生したことになる。この時点で世の中には、200の権利と100の義務が存在することになる。
これは等価ではない。世の中のバランスがとれていないのだ。
こういうことを世間では「信用創造」というらしいのだが、私が不安でならないのは、これがいったい何を意味するかということだ。
「富」は通常、「労働」の対価として発生する。富の量は権利の量と置き換えてもいい。この時の富はどこから来たのか。
たぶんこれは未来から来たのだろう。
なぜなら100万円を借りた人は、その100万円を将来の労働によって返済しなければならないのだから。
ではこの未来からの借り入れとはいったい何なのか。
どこまでそういったことが可能なのか。
今問題になっているのはそのことである。
10年前、アメリカが量的金融緩和を行って以来、ヨーロッパも日本も次々に金融緩和を行いだし、それは今も収束していない。
こういう未来からの借り入れが一体いつまで可能なのか。
このことで連想するのは、風船は膨らむときにはゆっくり膨らむが、破裂するときには一瞬だということだ。
未来からの借り入れによって権利の量だけが膨らむとき、何が起こるのだろうか。
権利を先に行使して、その対価であるべき義務を果たさない人は、いくらでもいる。
その中がそういう人でいっぱいになったとき、人の社会は崩れる。
これは単純な事実である。
こんな単純な事実を国によって管理できるのだろうか。
国によって生産活動を管理するという社会主義体制はすでに破綻した。
それと同じように、肥大化する権利の量と縮小する義務の量のアンバランスを、お金の量によって国家が管理することができるのだろうか。
いま世の中は、そういう「金融」社会主義体制とでも呼ぶべきものに変質しつつある。
権利の量の肥大化とは、具体的には国家(中央銀行)が発行するお金の量の増大である。
日本銀行が予定するインフレ率2%の目標も達成のめどは立っていない。
計画経済がうまくいかなかったように、「金融」計画経済もうまくいかないのではないか。
いま私にあるのは、今の世の中が、未来の世界をも含めての取り返しのつかない恐ろしい過ちを、無責任に行っているのではないかという不安である。
水曜日
テレビが、ネットによる世論操作の危険性を訴えだした。
それに異論はないが、
ではテレビによる世論操作の危険性はどうなんだ。
目クソが鼻クソを笑うどころか、
鼻クソが目クソを笑っているような報道だ。
水曜日
米中の関税引き上げ競争
アメリカが中国からの輸入関税を引き上げれば、中国もアメリカからの輸入関税を引き上げる。
相手が引き上げれば、こちらも引き上げる。
関税引き上げには、関税引き上げで応じる。これで五分五分である。
しかし日本はどうだ。
アメリカが日本車の輸入関税を、2.5%からなんと25%へと10倍も引き上げるのに対して、
日本はアメリカからの輸入牛肉に対して、逆に関税を引き下げようとしている。
相手が引き上げるのなら、当然こちらも引き上げるべきものだと思っていたが、そうはならない。
中国と日本、どちらが正しいのだろうか。
正当な権利を主張せず、命乞いをしているだけように見える。
安倍はどこまでも強い者には弱い。
安倍は心底アメリカを恐れている。なぜなんだろう。
日本のこの卑屈さには深い闇がある。
それはアベシンゾーの闇でもある。
水曜日
アメリカのトランプが中国からの輸入品に対して関税を引き上げると、ドル高になった。111円 → 112円。
アメリカ産業にプラスになると市場が判断したのだろうか。
関税を引き上げれば、保護貿易になる。
日本では自由貿易が当たり前のように言われているが、保護貿易になると世界市場はどうなるか。
戦後の日本では自由貿易が正しいという風潮があるし、日本のマスコミは今もそう言い続けているが、学術的な貿易論では自由貿易と保護貿易は等価であり、どちらにも良い面と悪い面がある。
この結論はいまだに出ていない。というか、これには結論などもともとないのだろう。
今流行りのグローバリズムはもちろん自由貿易の論理に乗っかっている。
自由貿易の弊害はグローバリズムの弊害でもある。
トランプはアメリカの国内産業が弱いことを自覚している。だから輸入品の関税を引き上げて国内産業を保護しようとした。
そうなるとアメリカの国内産業にプラス要因を与えることになり、ドルが買われ、ドル高になる。
しかしドル高になるとアメリカ製品は輸出では割高になり、輸出が伸びないというジレンマに陥る。
ひとまずアメリカはアメリカ製品をアメリカ人に買ってもらえば十分なのではないか。
つまり内需拡大である。
そうなるとFRBに金利を引き上げてもらっては困ることになる。今までどおりの量的緩和策を続けなければならなくなる。アメリカの金融緩和はドル安要因である。
こうやって、関税を引き上げてドル高要因をつくる一方で、逆に金融緩和を続けてドル高を防ぐ、というのが今後の方向性になるのではないか。
その他の世界経済の構造的な問題はその後のことである。何が起こるかは未定である。
日本の経済学者の中にちゃんとした学識を持って保護貿易に対応できる人がいればよいが、自由貿易のことしか考えていない日本ではそれはどうも望み薄だろう。
少なくとも政権中枢にはそういう人はいない。
火曜
人間には様々なグループがある。グループの形は多様である。
国家もそのグループの一つに過ぎない。
もちろん国家は人為的なものであるが、今では国家というグループに属する人たちが圧倒的多数を占める。
今世界はこの国家の占める領域によって立錐の余地もない。
したがって、国家を持たない人たちにとっては、国家というグループは邪魔な存在である。
ここに国家はない方がよいという考えが生まれる。
危険なことは、国家を持っている人たちまでが、その考えに納得しつつあることである。
これがどういう世界をつくるか、明るいグローバルな世界でないことだけは確かである。
次に起こることは、国家を持たない人たちが信じる一神教への改宗である。
国家という地域グループを失えば、あとは宗教グループに属する道しか残らない。
世の中でもっとも悲惨な戦争は宗教戦争であることは確かである。
日曜日
2018.9.6、北海道大地震。
・めったに地震の起こらない北海道でなぜマグニチュード7もの大地震が起こるのか。
・なぜそれが直下型地震なのか。
・なぜよりによって発電所の真下でそれが起こるのか。
・なぜたった一つの地震で北海道全域が停電するのか。
・2016年4月の熊本地震といい、今度の北海道地震といいなぜ立て続けにこういう地震が起こるのか。
・2011.3.11地震も加えれば3回目。
・違和感あり。
火曜日
高校の世界史を何気なく読んでいると、そこに「主権国家の主権制限」という言葉がさらりと書かれている。これには驚いた。世界がそういう方向に向かうことが、あたかも当然でもあるかのように書かれている。
しかし今世界で起こっていることをよく見ると、この言葉には「アメリカによる」という言葉を付け加えなければならないだろう。
21世紀になって、対等なはずの主権国家が対等ではなくなり、「アメリカによる主権国家の制限」が行われている。このことは事実である。
しかしそのことに異議を唱えるわけでもなく、憤るわけでもなく、そのことを当然視して、そういう価値観を高校生に植え付けようとする一国の歴史教科書とはいったい何なのだろう。
『この時期(戦後半世紀)には近代に拡大した植民地体制が精算されたり、近代に確立した主権国家の権限をある程度抑制する国際機関が登場するなど、現代への移行がいっそううながされた』(山川出版社 詳説世界史B P371)
(この文が何を言いたいのかは意味不明だが、そのことを当然視する姿勢は高校生に伝達される)