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ひょうきちの疑問

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「授業でいえない世界史」 30話 近代 イギリスの産業革命

2019-05-05 12:00:00 | 旧世界史11 18C後半~
※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。



【産業革命】
【産業革命の背景】 次はヨーロッパです。いよいよ産業革命です。前に戦争に絡めて、序盤戦を言いました。18世紀、1700年代のことです。ここから世界が近代化、機械化に入っていく。それが最初に起こった国がイギリスです。

※ 1820年では中国の GDP シェアがトップで、ヨーロッパ各国を合わせても中国には及ばない状態です。・・・ヨーロッパは1800年以前に決定的に優位にあったわけではない。(宇山卓栄 経済)

 ではこの産業革命の前にイギリスは何をしていたかというと、フランスと植民地争いをしていた。それに勝ったのがイギリスです。イギリスはここで儲けるわけです。
 儲けた金を資本、つまり元手として・・・資本というのはお金です・・・そのお金で工場を作った。
 儲け方はいろいろある。農業で儲けようという人たちは、1億円持っていたら土地を買い占める。弱小農民に、おまえたち出て行けと言う。オレが土地を買い占めるからと。こういう土地の買占め行動も起こる。これを第2次囲い込みという。第1次はちょっと言っただけですが、200年前の1500年頃にもありました。ここでは第2次囲い込みといいます。

 そこで企業的大農場経営をやる。人を使って農業をする。そうすると、そこから追い払われた農民は、あてもなくどこに向かうか。都会に向かう。

 そしたら明日の仕事を求めて、時給1000円で働きたい。でもそんなに払えない、300円なら雇ってやる、と言われると、働くしかない。低賃金、長時間労働です。社長にとってはコストかからない。だから儲かる。こういう社会構造ができる。
 それがイギリスの産業革命に結びついていきます。
 あとお金の問題もあります。イギリスはヨーロッパで初めて、お金がなくても紙をお金にすることに成功した国です。印刷すればいい。そこに国家と結びついた銀行、イングランド銀行ができる。この銀行はこの産業革命の約50年前にはできていた。どうも怪しいという噂があったけど、国が合法化して正しいと認めてしまった。こういうこととも絡みます。


【生産技術】 次に何を作り出すか。欲しかったのは綿です。ヨーロッパ人は毛織物しか着なかった。だから臭いんです。洗えないです。インド人は綿を着ている。着心地がいいし、洗えるし、清潔だった。オレたちもつくりたい。
 それが綿織物工業です。しかもそれを機械化して、安く作ることができた。低コストで。人件費も安い。時給300円でいいんだから。そして綿織物を安く、本場のインドに売り込むんです。こうやって儲けていく。自国で作り出す。もともと綿というのはインド綿です。
 どういうふうにして機械化に成功していったかというと、織物はもともとは農家の奥さんの暇な時の副業だった。手でずっと、縦糸、横糸をいちいち織っていかないといけなかった。まず発明は飛び杼です。機織りというのは、基本的には何百本もの縦糸に、手で横糸を通していくんです。これを手で横糸を通していくんではなくて、それをロケットみたいな、ピュッ、ピュッと走る道具を発明する。たったそれだけです。これで大きく変わる。これが飛び杼です。手でいちいち横糸を通す手間がなくなる。
 次にはその手間を機械でやる。どっちとも機械でやると、人間は糸が切れるのを見張っておくだけでいい。労働効率は、人間の手作業とは比べものにならないほど効率化されていく。

 その前に紡績という糸をつくる作業があります。まず木綿というのはワタなんです。綿花というのは、花がふわふわです。これを細くグルグル巻いて糸にしていく。この作業がある。これを紡績という。糸を紡(つむ)ぐことです。この機械技術が生まれたのが1763年。これが自動化されていく。イギリスの産業革命というのは1760年頃です。


 1760年というのは・・・さっきプロシアのところで言った・・・イギリスが七年戦争で勝ってアメリカ植民地を手に入れたころです。勝ったのが1760年前後です。七年戦争に勝ったのとほぼ同時に、産業革命がイギリスで始まっていく。
 次には、動力がないから山の水のエネルギーを使う水力紡績機ができる。最終的には蒸気で回すようになる。
 アークライトという人は、一介の床屋さんで字も読めない。しかし、発明に没頭して、嫁さんが逃げてしまう。字が読めなくても発明はできる。
 しかし本当に欲しかったのは、この糸そのものではなくて、糸を縦糸、横糸を織って布にする。ここまで行かないと布にはならない。
 糸を縦糸、横糸織って布になる。これを自分の国で作ることに成功した。これでイギリスの綿布の製造力が一気に50倍になる。それでインド産綿織物を凌駕する。
 さらに技術が発展していって・・・ミュール紡績機とかもあるけれど・・・ポイントは力織機です。力持ちの機織り機みたいな言い方ですけど、力の意味は自動ということです。つまり機械化された。これが力織機です。人力じゃないというところがポイントです。これが1785年。
 もうそろそろフランス革命がおこるころです。ナポレオンが出てくる時代です。綿糸つまり糸を、縦糸・横糸を織って、綿布つまり織物にすることに成功している。これが最終製品です。目標はこれです。

 そうなって生産力が10年間で50倍に高まると、逆に綿花が不足する。これをどこから手に入れるか。アメリカではアフリカから黒人奴隷を連れてきて綿花畑で働かせている。アメリカで黒人奴隷に綿花栽培させています。アメリカの奴隷農場から綿花を輸入する。これが綿織物の原料です。こんなふわふわした綿花を、こうやって布にしていく。たった布じゃないか。しかしこれが世の中を変えていく。


【交通革命】 さらに動力、この技術にプラスして、また別のところから、湯を沸かす茶釜の蓋が、ボコボコ、パタンパタンするのを見て、ふと思いつく。あっこれ人間の代わりにこの力を利用できるぞ。やっぱり天才的な発明です。私だったら茶釜がパカパカいっても、うるさいと頭にくるだけですけどね。これをエネルギーに変えられる。これが蒸気機関です。
 その上下運動をどうやって円運動にするか。ここらへんになると君たちが詳しいでしょう。一種の回転するモーターみたいになっていく。そういう改良をしたのがワットです。1769年です。
 この頃になるともう産業革命が始まってる。そうすると、今度は蒸気機関の機械を作る必要がある。機械は何でできるか。鉄です。その鉄をつくるためには石炭と鉄鉱石が必要です。こうやって産業分野が広がっていくわけです。これが産業革命です。


 鉄ができたら、さらに大急ぎで蒸気機関ができる。その技術が結びついて、今度は人を乗せて走ろう。石炭を乗せて運ぼう。いわゆる蒸気機関車ができる。これがスティーブンソンです。それを走らせるには鉄道のレールを敷かないといけない。ますますがいる。
 1700年代から1800年代に入ると、10年ちょっとで、イギリスのマンチェスター・リヴァプール間・・・博多・北九州間ぐらいかな・・・そこを人がこいでないのに、鉄が勝手に走る。驚きだったと思う。そんなもの誰も見たことがないんだから。鉄道が開通する。歩かないといけないところを、人間はこれに乗っているだけで座って行っていい。これが1830年です。
 ここらへんになると近代社会に片足は十分踏み込んでいる。あとは応用です。船でもこの蒸気機関を使って、最初は船の両脇を漕いでいく。そういう蒸気船ができる。イギリスは海賊の国です。まずこれを戦争に取り入れる。それで海軍が強くなる。次々にこうやってイギリスに連鎖反応がおこっていく。



【資本主義社会の成立】
【資本主義】 資本主義社会の成立についてです。こうやって産業が発展していく。しかし同時に問題が発生していく。こうやっても金持ちになるのは社長だけということです。
 逆に、大量生産できるようになったら、今まで手作業でやっていた職人さんの職が奪われていく。肥え太る人間がいる一方で、没落していく人間もいる。金持ちになる人間と、貧乏になっていく人間、2通りに分かれる。
 社長になる人、つまりお金を持っている人、こういう人をブルジョワジーという。語源的にはブルジョワというのはブルク、つまりお城の中に住んでいるお殿様のイメージなんです。この時には金持ち、社長のことです。


【都市と労働者】 それに対して、農村を追われて当てもなく都会に出てきて、明日の飯にも困って、頼むから時給300円でも雇ってくれ、何でもしますから、という労働者をプロレタリアートという。これを漢字でいうと、資本家と労働者です。
 簡単にいうと、人間にはこの2種類しかない。男と女は関係ない。大人と子供も関係ない。資本主義の経済論理でいうと、人間には資本家と労働者、つまり金持ちと貧乏人、社長と使用人、この2種類です。そういう考え方をするのが資本主義です。

 こういった中で、金持ちが都市に住み、その都市が成長していく。まずイギリスで。一番の都市になったのは、もともと鄙びた田舎の港町だったんだけれども、その港町が何を商売で扱っていたか。アフリカの奴隷なんです。その港の田舎商人たちが奴隷貿易でがっぽり儲ける。つまり奴隷商人です。これがリヴァプールです。それでお金を儲けた商人たちが、その町の裏手に工場を作り出した。そこで新しい工場地帯ができた。これがマンチェスターです。マンチェスターとリヴァプールは隣同士です。これをつなぐ目に見えない動きは、奴隷貿易です。奴隷貿易で稼いだ富を、マンチェスターの工場ににつぎ込む。だからさっき言った世界初の鉄道もマンチェスターとリヴァプールの間を結んだんです。

 ではその繁栄するマンチェスターの一方で、高級住宅に住んでいるのは社長だけです。貧しい労働者は、トタンぶきの屋根のような、衛生状態が悪いスラムに住む。日本にも明治の初めにはスラムがありました。東南アジアには今でもあります。高層ビルの両脇、2~3キロ郊外に出ると、貧しい人たちが、トタン葺きの屋根みたいなところに50人ぐらいザゴ寝で寝泊まりしてる、そういったスラム街がある。
 そこから労働問題というのが発生してくるんです。何だ、いい目を見ているのは、金持ちだけじゃないか、オレたちは農村に住んでいた頃がよっぽどよかった。長時間労働、しかも低賃金。子供まで働かせる。これっておかしくないか。
 そこで貧しい労働者は、俺たちの組合をつくりだす。労働者のグループです。労働組合の結成に動き出す。これが社会主義運動にも結びついていくんです。
 こういう非常に激しい貧富の格差が、産業革命期には発生したんです。なぜかお金はお金のあるところに集まる。お金の習性は変なものです。塩は水に溶かすと満遍なく分散するけど、しかしお金はお金のあるところに集まるだけで分散しない。これをほっておくと大変なことになる。ではこれをどうやって分散させるか。それは人間の力でするしかない。
 このどうやって分散させるかという考え方が、社会主義思想に繋がるんです。このあと100年は。ただ我々は21世紀に生きているから、結論は知っています。社会主義思想は失敗したんです。ソ連が崩壊して。では資本主義が正しかったかというと、ソ連が崩壊した後、世界的にまた貧富の差が拡大している。なんだ19世紀といっしょじゃないか。ではどうするか。まだ謎ですね。たぶん私では間に合わない。君たちの時代に持ち越される。人間社会の矛盾は人間が考える以外にないんですよ。


【世界の工場】 世界の工場となったのは、一番乗りはやっぱりイギリスです。強い、安い、大量生産です。
 そういう国は外国と貿易する時に、必ず自由貿易を主張する。そしてこれで世の中うまくいくという。しかしこれはウソですよ。
 アメリカも第二次大戦後ずっと自由貿易を唱えてきた。でもこの時代にはアメリカはイギリスに比べて弱いから、保護貿易がいい、と言っていた。
 しかし戦後70年経って、アメリカの自由貿易がうまくいかなくなって、大統領代わって、今のトランプさんはまた保護貿易に変わってきている。

 関税をかけようとしている。新聞みてますか。今関税が高くなろうとしています。撤廃するどころか。私が子供の頃から50年間も60年間も、念仏のように言ってきた自由貿易が、去年から変わろうとしています。関税を引き上げようとしています。アメリカ製品が売れないから、輸入品の関税を引き上げようという。そしたら生産力に勝る中国が、何でだ、今まで自由主義といっていたじゃないか、という。それと同じです。強いところは自由貿易が好きです。

 この頃のイギリスには、自由貿易、自由主義でいいんだという、経済学者の走りみたいな人が出てくる。1776年・・・実はこれはアメリカの独立戦争が勃発した年と重なるんですけれど・・・アダム=スミスという人が「国富論」を書きます。政治経済でも出てきます。何を言った人かというのは、政治経済のプリントをもう1回見てください。一言でいうと彼は、世の中それでいいんだ。「見えざる手」があって、世の中をまとめてくれると言う。しかし「見えざる手」とは何か。アダム=スミスが例として上げているのは、需要と供給の関係で価格が調整されるというものです。しかしそれだけで、他には何も具体的なものはない。
 非常に宗教っぽい話です。キリスト教には予定調和説というのがあって、神を信じれていれば、世の中は自然とうまくまとまるという信仰があります。発想的にはその信仰と同じです。

 こういうイギリスの自由貿易に対して、出遅れた国、ドイツとかフランスとかは・・・日本もこれに入りますが・・・保護貿易にして、関税かけないといけないという。そうでないと国中がイギリス製品だらけになってしまって、国内工業が育つ暇がなく、潰されてしまう、という。
 一言でいうと、自分の国の産業をイギリス製品から守らないと、国は豊かにならない。多分こっちが正しい、と私は思いますが、これははっきり結論が出ていない。どっちが正しいかというのは論争が続いています。
 ただ言えることは、強い国は必ず自由主義貿易です。これは一貫している。アメリカが強かったときもそうだったし、イギリスが強かった時もそうだった。実は日本もそうです。日本は輸出国家だから。自由貿易が好きです。
 しかし日本の農業はどうか。別に日本の農業が弱いとは言っていません。ただ100ヘクタール持つアメリカの農家と、1ヘクタール持つ日本の農家が、同じ土俵で戦えというのが前提がおかしい。条件が違う。そこで自由競争すれば、日本の農業が負けるに決まっている。ただでさえ日本の食糧自給率は先進国中、最低です。それをどう考えるか、自由貿易にはいろいろ問題があります。
 それで、保護貿易を唱えてイギリスに続いて早く追いつこうという国が、次のフランス、ドイツ、海の向こうのアメリカです。さらに20世紀、1900年代ぐらいになるとロシアが出てきて、ロシアと同じころに、日本も資本主義の仲間入りをします。明治維新後の日本です。これらが次々に産業革命を達成していきます。


【世界の構造化】 ただ19世紀、1800年代を見ると・・・今の21世紀の世界の中心がアメリカであるとするならば・・・世界の中心はイギリスです。
 それに続く国というのが、イギリス以外のヨーロッパです。アジアの中ではまだ日本だけです。そういった国が原料を求め、または大量生産で売れ残ったのを売りたい。売りさばかないとお金にならないから。そういうものを求めて植民地・・・ラテンアメリカそれからアジアなど・・・を獲得していく。人口が多いのはこのアジアですが、半強制的に不幸になっていったのはアフリカで、簡単に植民地にされる。アジアもそうですけど。目的は売りつける製品市場、つまり売る場所を求めるわけです。すでに植民地から一方的に原料を求めるのは当たり前になっています。こうやってどんどん収奪されていきます。

 どうやって、どこに何を売るかを、一覧で見たのがこの図です。イギリス中心に、この線は工業製品です。工業製品を売りつけて、輸入したのが、インドでは綿花。一番線が太いのはアメリカ。北米からは綿花です。カリブ海地方は、紅茶に入れる砂糖です。たかが砂糖とバカにしたらいけない。さらに中国からはお茶です。このお茶に砂糖を入れる。
 この図に書いていないものが一つあるんですよ。何を売りつけたか。イギリスがインドで栽培した麻薬です。アヘンです。これを中国に売りつけるんです。そのためにアヘン戦争を起こす。

 次に見るフランス革命の最中に、イギリスではこんなことが進行しています。イギリスはフランス革命後のナポレオンを潰して、世界の中心になっていきます。
 教科書ではそのことが非常にわかりにくく書かれていますので、フランス革命よりもイギリスの動きが要注意です。

終わります。ではまた。



「授業でいえない世界史」 31話 近代 アメリカ独立とフランス革命

2019-05-05 11:00:00 | 旧世界史11 18C後半~
※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【アメリカの独立】

【13植民地】 こういった中でアメリカはイギリスの植民地です。しかしアメリカのイギリス人は、オレたちはなんで植民地なんだ、と腹を立てる。
 イギリスの植民地では、13の植民地が作られていた。アメリカは広大な土地のイメージしかないけれど、アメリカが独立した時には13植民地というのは東海岸の狭い地域だった。下の図のたったこれだけです。これがもともとのアメリカです。アメリカを植民地支配しているのはイギリスです。イギリスが植民地とした13の植民地ですけど、これが実は統一もなくバラバラなんです。

▼独立時のアメリカ



 しかしアメリカは独立した瞬間から君子豹変です。180度方向を変えて、西に住んでいるインディアンを迫害していく。とっとと失せろと。インディアンはどんどん西に追いやられて、今の広大な領域をアメリカのものにする。ここまで行くのに大して時間はかからない。50年もかからない。あっという間です。西へ西へとインディアンを追いつめながら、自分の土地にしていくわけです。一部ではメキシコの土地を奪いながら。けっこう自分勝手な戦争をしていきます。


 その経緯です。13植民地のころから・・・植民地にされたのはアジアもアフリカも同じですけど何が違うかというと・・・このアメリカ植民地だけが白人で、その白人の植民地にだけ自治会を認めたんです。この自治会というのは、話し合う機関です。議会です。つまり植民地議会、これを認めた。これはアジアやアフリカには絶対認めないことです。

 だから彼ら白人はアメリカで、自分たちの街は自分たちで運営していこうという自治組織を発展させていくんです。これがアジア植民地にはないのです。
 よく勘違いするのは、アメリカが独立するということは、アメリカの原住民であるインディアンが独立したわけじゃないですよ。イギリスからアメリカに渡ってきた白人が独立することです。原住民のインディアンはアメリカが独立したあとも、ますます迫害されていく。これがアメリカの実態です。

 そのアメリカの植民地と本国の関係はどうか。本国というのはイギリスです。イギリスは「英」です。
 それまではフランスとイギリスが、俺のものだと奪い合っていた。その七年戦争の決着がついてフランスが負けた。イギリスの勝利です。アメリカはイギリスのものになった。それと同時にイギリスが威張り出す。しかもほぼ同時にイギリスで産業革命が始まる。
 1763年七年戦争が終わる。産業革命の始まりもちょうどそのころの1760年頃です。イギリスは戦争に勝ちはしたものの、戦争にはお金がかかった。イギリスはそのお金を使い切ってしまったんです。お金がないから財政難です。だから税金を取らなければならない。イギリスから取るよりも、植民地のアメリカから取ってしまえ、という発想になる。それでイギリス植民地のアメリカにいろいろ税金を課すんです。

 しかしこの時、アメリカ議会にもお金がない。お金がないから紙幣をつくっていた。イギリスでも紙のお金を作っているじゃないか、オレたちだってつくっていいはずじゃないか。しかしイギリスはそのアメリカ独自の紙幣を禁止する。勝手につくるなと。これでまたアメリカは頭にきた。
 イギリスはなぜ禁止したか。紙でお金をつくればぼろい儲けが出る。イギリスはこれを独占したかったんです。

※ 1764年、イギリスのジョージ3世が、アメリカの現地紙幣の使用を禁止する。わずか1年の間にアメリカ経済は衰退した。これがアメリカ独立戦争を引き起こした最大の原因である。(宋鴻兵)

※ 市民革命の時代に脚光を浴びたのが、資金調達手段としての紙幣だった。アメリカの独立戦争はコンチネンタル紙幣、フランス革命はアシニアという紙幣により資金を獲得することで進められた。(宮崎正勝 お金の世界史)


 イギリスは、アメリカ大陸で植民地を手に入れようとフランスと七年戦争などを戦い、勝ちはしたものの体力消耗してお金がないわけです。お金がないから、アメリカ大陸から今度は税金を搾り取ろうとする。
 戦争が終わって2年後の1765年に新しい税金、印紙法を出す。印紙というのは・・・めったに見ないかもしれないけれども・・・本とか何とかすべて出版物とか、冊子を発行するとか、そういったものに税金をかけいく。今でも証明書などに印紙を3000円ぐらい貼ったりします。そういうすべてのものにアメリカ大陸で税金を掛けようとすると、これが火付けになって、アメリカ植民地の人たちが反発していく。
 何といって反発したか、「代表なくして課税なし」。アメリカ人はイギリスの議会に代表を送ってない。政治に参加していない。それなのに税金だけ取られるのは、理屈が合わないじゃないか。だから税金を払う必要はない。そうやって印紙法を撤回させたんです。
 そうするとこの8年後、またイギリスが新たな法律をつくる。1773年の茶法です。イギリスが、中国からアメリカへのお茶を独占的に輸出しようとしたのです。そしてその独占販売権をイギリス東インド会社に与えて儲けさせようとした。

 これに反発したのがアメリカのお茶の密輸入業者です。彼らはこっそりお茶を仕入れて関税を逃れ、安く販売するという結構ダーティな仕事をしていました。その彼らが反発して事件を起こす。北部のボストンという街で起こったから「ボストン茶会事件」といいます。アメリカの密輸業者たちは、アメリカに輸出しようとお茶を積んできたイギリスの船を襲って、その積み荷であったお茶を全部海に投げ捨ててしまう。
 アメリカ人はだからこの時以降、お茶を飲まずにコーヒーを飲むようになったという話があります。コーヒーでアメリカンというと薄いコーヒーですが、コーヒーを薄くしてどうにかお茶の味に近づけたかったのでしょう。
 ただこの時にそのアメリカ人たちは変装するんです。インディアンになりすます。インディアンのせいにしようとした。なにか嫌らしいですね。
 デモ密輸業者たちの正体はすぐにバレるんです。これがきっかけになって、イギリスとアメリカの戦争になっていく。勃発したのが1776年、これがアメリカ独立戦争のはじまりです。インディアンに変装して、イギリス船のお茶を海に投げ捨てたお茶の密売商人たちが、ここではアメリカの正義の人のようになったのです。

※ イギリスはアメリカ独立戦争に際してドイツの傭兵を雇った。1775年イギリス王ジョージ3世は、ドイツ人傭兵の代金をヘッセン選帝侯に支払った。そのことによって、ロスチャイルド財閥の基礎が築かれた。(マリンズ)


【アメリカ独立戦争】 13の植民地は、もともとまとまりはない。基本はバラバラなんです。これを13植民地でまとまって動こうという機運を盛り上げたのが、トーマス=ペインという人が書いた「コモンセンス」という冊子です。コモンセンスとは「常識」という意味です。内容は、イギリスの植民地支配がいかに不当か。これは反発して独立しないといけない、という機運を高めた。そしてそういう機運の中で13植民地の代表たちが集まって、俺たちは独立するぞ、という独立宣言を発表する。これが1776年です。

※ 独立宣言に署名した60名のうち、41名がフリーメイソンである。

※ 同年の1776年には、ロスチャイルドの資金提供によりイルミナティが成立したといわれる。


 この時、どういう国を作るかということに影響を与えたのが、イギリスのロックという人の思想です。この人は「政治経済」でも出てきます。

 独立宣言を中心になって書いた人は、トーマス=ジェファーソンといいます。このあと第3代大統領になる人です。
 これでイギリスとの戦争が始まります。ただアメリカ13植民地というのは、お金もないし、軍隊もないです。これでよく勝てたな、と思います。全部志願兵ですよ。「コモンセンス」に刺激されて、独立のためなら命を惜しまず、オレは兵隊になるぞ、という人たちです。
 日本人は先の戦争もあって、兵隊になると殺される、絶対イヤだと思うけれども、そうじゃない。独立するためには、自分の命の犠牲さえ厭わない。ここらへんの考え方は、ヨーロッパと日本でかなり違う。ギリシャの昔から市民とは戦う兵士のことでした。日本人は国があるのが当たり前すぎて、そのありがたみが分からないところがある。これはたぶん一度失わないと分からないんじゃないかな。

 ただそういう中で、イギリスと仲が悪かった国・・・このあいだまでずっとアメリカでイギリスと植民地争いをしていた国・・・が出てきてアメリカを応援するんです。これがフランスです。フランスがアメリカ側を応援する。これが大きかった。
 ただここらへんは連鎖反応が起こり、フランスも前にイギリスと戦って負けて、お金がないんです。それなのにまたここでアメリカを応援するから・・・独立戦争にはアメリカが勝つけれども・・・フランスも戦争してお金を使い果たしてしまう。だから財政難になる。
 このことが、このあと約10年後のフランス革命につながっていく。それでフランス王政がつぶれるんです。

 フランスに行って、アメリカを応援してくれ、と頼んだのがアメリカ人のフランクリンという人です。こうしてアメリカとフランスが手を組んだ。その一方で産業革命が起こって世界で一番の産業国に躍り出ようとしているイギリスは孤立していくんです。

 ではこの時のアメリカの総大将は誰か。ワシントンです。戦争に勝ったあとはアメリカの初代大統領になる。ただ彼の職業は何かというと、大農場経営者です。大農場で働かされているのは奴隷です。黒人奴隷です。つまりこの人は黒人奴隷を使っている金持ちです。こういう大農場経営者のことをプランターといいます。だからアメリカの独立戦争は奴隷解放の思想とはまったく別です。アメリカの総大将そのものが奴隷を使っている金持ちだから。
 しかしアメリカはイギリスに対して勝利します。これがヨークタウンの戦い、1781年です。ただこの時にはアメリカ軍というのが正式にはないから・・・これは志願兵です・・・貧乏なアメリカの農民たちが、オレは独立のために戦うぞ、と集まってくる。革命は、こういうことがないとなかなかできないです。
 でもちょっと不思議な気もします。軍事訓練もなにも受けてないから、その戦い方たるやメチャクチャです。正式な軍服とかもないから民間人の格好で、後ろに回って夜の闇に切りつけるとか、ゲリラ戦です。非常に卑怯な戦いです。今の戦争からいうと、正式な戦争ではないです。

※ 植民地側の軍隊はイギリスから見れば、烏合の衆に過ぎませんでしたが、財政に余裕のないイギリスは満足に戦うことができず、アメリカ独立を認めざるを得ませんでした。以後、イギリスはインドの植民地経営によって、財政の補填を図っていきます。(宇山卓栄 経済)

 ただ戦争にはお金かかる。大砲一つ買うのにも莫大なお金がかかる。そういうお金を集めるために、アメリカのニューヨーク・・・そこに昔オランダの砦があって壁があったからそこをウォール街といいますが・・・そこにお金を集めるための証券市場がはやくも成立する。ここは借金するための場所です。今のようにビルなんかないです。目印の木の下に集まって、証券取引をやるわけです。戦争のためのお金を借りるために。

※ 独立戦争当時の植民地には本国政府の反対もあって銀行が設立されておらず、銀行が発行する銀行券による資金の調達ができなかった。そのために戦争が始まると、大陸会議はコンチネンタル紙幣の発行により戦費をまかなった。・・・しかし乱発によりコンチネンタル紙幣の価格は大暴落し、1779年にはほとんど無価値になった。「コンチネンタルほどの価値もない」という俗語が生まれるほどの派手な暴落ぶりであった。(宮崎正勝 お金の世界史)

 アメリカの勝利で戦争は終わった。これが1783年です。フランスが応援してるからフランスの首都のパリで条約が結ばれる。パリ条約です。そこでアメリカの独立は承認される。


【合衆国憲法】 このあと問題になるのは、まだアメリカというまとまりはないんです。国もないです。アメリカの独立とは何かというと、この段階で今のようなアメリカという国はないのです。最初は13の植民地がバラバラに独立していたのです。だからあんな広い国じゃなくて、13の小さな国がバラバラにできたって全然おかしくなかった。
 ただ13の国をバラバラにしていたら、またイギリスが仕返しにきて負けてしまう。まとまっておかないと怖いよね。力がないものはまとまろうとするのです。孤立していていいのはイギリスみたいな大国だけです。それで1つの国にまとまろうとなった。これが連邦主義です。13植民地がまとまって1つの国をつくろうとした。

 ただ反対意見もあって、イヤ、地方地方はバラバラがいいんだ。それが自由がきくんだ。小回りが利いた方がいい、と言う人たちもいます。一つの国になったら、首都で誰かお偉いさんが決めたことを、どうせ地方に押しつけるだけだろう、と言う。
 それでどっちにするか、悩むんですね。悩んだ結果、一つの国にしようという連邦主義が強くなった。

 ただここで言えることは、バラバラで独立しようという意見があったように今でもこの考え方は強くて、アメリカの州というのはステイトといって、日本語に直訳すると「国」なんです。県以上の組織です。日本と同じように州が警察を持っているどころか、軍隊までもっています。アメリカの州は日本の県とは違います。さらに別にまた州独自の憲法を持っています。日本でいうと国に近いのがアメリカの州です。
 ただ13植民地全部でまとまって、13の国の共通の憲法を作ろうというのが1787年合衆国憲法です。これが世界初の成文憲法です。これをまねして6年後の1793年につくられたのが、フランス革命の時のフランス憲法です。
 それで一応アメリカは国としてまとまった。アメリカの原型ができた。その初代大統領がワシントンです。それが今は首都の名前になっているけど、もともとは人の名前です。

 では負けたイギリスはというと、その後もアメリカとの関係は切れない。イギリスは何で儲けているかというと、綿織物です。その原料の綿花をつくっているのがアメリカの奴隷農場なんです。ここから安い綿花を輸入している。それを加工して綿織物を作っているのがイギリスです。アメリカとイギリスとの経済的結びつきは切れません。
 
※ アメリカが1776年にイギリスより独立して以来、イギリスのアメリカに対する政策の核心は、アメリカを実質的にイギリスの植民地化することでした。この実質的植民地化の手段が、アメリカを金融的にイギリスの支配下に置くことだったのです。この工作はアメリカ独立直後から始まっています。(馬渕睦夫 「国難の正体」)

※ 1789年、アメリカの初代財務長官にアレクサンダー・ハミルトンが任命された。ハミルトンはロスチャイルドの援助を受けていた。(宋鴻兵)


【アメリカ第一銀行】 アメリカは国ができたばかりです。お金がいるけど、金がない。銀もない。それで憲法から4年後の1791年、通貨を発行しようという銀行ができます。これをアメリカ第一銀行といいます。ちなみにこの時はフランス革命の最中です。お金が必要で、なぜかその銀行にイギリスが投資するんです。だからアメリカの金融世界はイギリスの影響が非常に強いです。
 ただこのようなイギリスの影響の強い銀行の設立に、アメリカ人は反対するんです。だからたった20年後の1811年には廃止されます。
 これは今でいう中央銀行みたいなものです。日本でいえば日本銀行です。中央銀行というのはお金を発行する銀行です。日本の1万円札は正式には日本銀行券といいます。今のお金は政府ではなくて中央銀行が発行します。その中央銀行の原型みたいなものだったけど、できたり消えたり、またできたり消えたり、同じことを2回やる。
 イギリスのイングランド銀行のような中央銀行について、アメリカ人はもろ手を挙げての賛成じゃない。なぜなら、これによって一部の人間ががっぽり儲けるぞ、貧富の差が大きくなるぞ、という反対意見が多い。歴史的には非常に不確かなものです。


 ただアメリカ第一銀行ができた翌年の1792年には、早くも証券取引所がニューヨークのウォール街にできる。株や証券を取引するところです。今もニューヨークのウォール街というのは、世界最大の証券取引所です。
 今でもよく日本の株相場を見ていたら、今日上がるか下がるか、始まる前から8割方わかる。9時に日本の株式相場が始まると、その1時間半ぐらい前に、このニューヨークの株式相場が終わっている。ちょうど時差が9時間あるから。そこで株が上がっていたら日本も上がる。下がっていたら日本も下がる。だから日本の株市場に主導権はないです。日本の株価を決めているのは今もこのウォール街です。


【独立の意義】 このアメリカ独立のもう一つの意味は、世界初の共和制だということです。アメリカには今も昔も王様がいない。王様がいない国は、この時にはアメリカだけです。日本でも天皇がいる。イギリスにも王がいる。フランスにも王がいる。ドイツにも、他の国にもいる。アメリカだけいない。
 その王がいない代わりに、政治の基本原則は文章で残して決めておく。これが成文憲法です。この形もこのあと世界に広まる。
 ではこのあとはどうするか。アメリカはいったん勝つと、もともと植民地だったから植民地に悪さはしないかというと、まったく逆に率先して悪さをしていく。ほかの白人国家へちょっかいを出す。そして支配していく。例えば、スペイン領メキシコとか、南アメリカとかを。
 だから南アメリカの国とアメリカの関係は、近いからアメリカと仲が良いかというとまったく逆です。南米諸国とアメリカ合衆国とは今も仲が悪い。
 それから黒人も非支配階級である奴隷階級としてずっと使役し続ける。それが今のように白人と平等になったのはまだ50年も経ちません。このあと100年以上ずっと黒人は奴隷です。

 それからアメリカにもともと住んでいた先住民、インディアンです。彼らもひどく迫害される。アメリカ映画の西部劇というのは、カッコイイ白人が西へ西へとやって来て、悪いインディアンをやっつける話になっているけど、本当は逆で、もともとインディアンが住んでいたところに勝手に白人がやってきて、おまえたちなんかどこかに行ってしまえ、「退け、退け」と人が住まないようなところ、条件が悪いところに追い込んでいく話です。そしてここから出るなと言う。これが居留地です。今でもそうです。そういう暗い部分がある。
 アメリカはまだ人口が少ない。産んで増やすのよりも、人口の増え方は移民の流入によって増えていきます。まずはヨーロッパからの移民です。
 どういう人が来るか。このあと、ドイツ人も来る。イタリア人も来ます。イタリア人なんかはギャングになっていく。イタリア・マフィアというのがそれです。

 意外と目立たないけど、今はお金持ちになっている人たちがいます。ユダヤ人です。アメリカは世界最大のユダヤ人を抱えている国です。ユダヤ人とは、いわゆるイスラエル国家をつくった人たちです。いまも爆弾が飛んでくる物騒なところです。ここが世界のヘソです。最大のユダヤ人人口を持っているのはアメリカのニューヨークです。彼らは今アメリカの金融界にものすごい力を持っている。つまり世界の金融業を握っている。
 ユダヤ人を見たことがないという人が多いけど、ふつうに見ているはずです。今のトランプ大統領の娘の婿さん、クシュナーという人はユダヤ人です。見た目はアメリカ人と変わらない。ニューヨークの20%がユダヤ人というから、100人いたら20人はユダヤ人です。だから町を歩けば、気づかないだけでいっぱいユダヤ人に会っているはずです。ニューヨークに行けば。映画関係者にもユダヤ人はいっぱいいます。
 このアメリカがこのあと世界の覇権国家になっていきます。
 今の日本はこの国の強い影響のもとにあります。特に戦争に負けたあとのこの70年間は。

 


【フランス革命】
【旧制度】 このアメリカ独立戦争の影響を受けて、革命が起こるのがヨーロッパのフランスです。フランス革命といえば、昔はそれはそれは大事なものといわれていたんですが、最近、これあまり大事じゃないのではないか、と思われるようになってきた。
 実はフランス革命が起こったあとフランスが世界の一流国家になるかというと、フランス皇帝のナポレオンは負ける。どこに負けれるか。イギリスです。世界ナンバーワン国家になっていくのはフランスではなく、イギリスなんです。フランス革命にばかり気を取られていると、イギリスの動きがわからなくなりますから要注意です。
 フランスはイギリスに負けるけど、勝ったイギリスの動きがフランスの影に隠れていて、分かりにくくなっています。大事なのは実はこのイギリスの動きなんです。
 ただフランス革命が好きな人もいて、教科書のページはけっこうフランス革命に割いてある。
 この頃のフランスは身分制です。一番偉い第一身分は聖職者つまりキリスト教のお坊さんです。第二身分が貴族。第三身分が平民です。農民、商工業者です。この平民の商工業者がお金を貯めだした。彼ら商工業者のことをブルジョワジーという。ブルクというと城塞都市です。都会の人、都会のお金持ちです。
 彼らが中心になって、オレたちはお金を持っているのに政治的な発言権がないじゃないかと不満を持ちだす。そこに、アメリカが勝ったぞ、あのイギリスに勝ったぞ、オレたちにもできるんじゃないか、そういうアメリカ革命の話がすぐ伝わってくる。


【革命勃発】 アメリカの独立戦争とフランス革命は10年の開きもない。ほぼ連続して起こります。独立戦争のときはフランスがアメリカを応援してアメリカが勝ったけれども、フランスはその戦費がかさんで財政難です。アメリカ独立戦争にお金を使っていた。だからフランスは税金取りたくて仕方がない。この時お金がなくて、新しくたった王様が困り果てた。王様はルイ16世です。フランスは爺さんのルイ14世の代から戦争ばかりです。お金がないから増税しようとした。
 これにまず貴族が反発する。反発したのは商工業者ではなくて、まず課税された側の貴族です。
 それから、ルイ16世の嫁さんはマリー・アントワネットと言って、出身はオーストリアの王女様です。母親がマリア・テレジアといってオーストリアの女王です。数年後にルイ16世といっしょに殺されます。


【立憲君主制】 その課税に反発が高まって、王に対して会議を開けという。この会議を三部会といいます。身分制議会です。議会を開けと要求し、議会を開いた。そうすると、ブルジョアジーつまり商工業者が、この話しあいの仕方が気にくわないといって、別の会議をつくった。
 これを国民議会といいます。1789年です。名前は気にしなくていいです。平民中心の議会をつくったということです。そこで、何をおまえは勝手に議会をつくっているかと、国が弾圧する。弾圧されると、ごめんなさいじゃなくて、それをはね返すんです。なんで弾圧するか、実力行使だといって、牢獄を襲う。これがバスチーユ牢獄です。犯罪者が入っている牢屋で、そこには政治犯も入っている。これを襲って鍵を開け、はやく逃げろと、彼らを解放する。
 そしてその流れで、今のフランス社会は間違っている。正しい社会はこういう社会だという宣言をする。これが人権宣言です。1789年です。

※ フランス革命は、イギリスの宿敵を取り除くための、フリーメイソンの陰謀としてシュルバーン卿に率いられたイギリス諜報部によってイギリスから操作されて生じた。フランス議会に出席した655名の議員のうち、405名がフリーメーソンだった。(マリンズ)

 2年後の1791年になると・・・ルイ16世は気が弱かった・・・王は国を捨てて、覆面、変装して、嫁さんの実家のオーストリアに逃げようとする。国民がそれに気づいて追いかけていって王を捕まえる。これをヴァレンヌ逃亡事件といいます。王の信用はガタ落ちです。国を捨てるような王様には誰も従いません。
 もう誰もルイ16世のいうことなんか信用しない。それなら彼の決定よりももっと上の、やっぱりアメリカがやったように憲法つくろう。これが1791年憲法です。憲法は王よりも上だから、王はこの憲法を守らなければならない。これで政治体制が変わった。一番偉いのが王様じゃなくなったんです。

※ この1791年、ハミルトンの建議によりアメリカ第1銀行が設立された。ベアリングけが大株主で、ロスチャイルド家も主要な株主であった。頭取はベアリング家のパートナーであるトーマス・ウィリングである。これに対し大統領のジェファーソンは「憲法は議会に通貨発行の権限を与えているが、それを民間銀行に委託する権限を持っていない」と反対した。(宋鴻兵)

 ただ王様がこの憲法を守っている限りは、王として認めてやるんです。体制が変わった上で王様を認めてやるんだから、立憲君主制という。
 パターンからいうと、今の日本は天皇制ですから、立憲君主制です。しかしフランスはこれを維持できない。このあと王を殺すことになります。


【王権停止】 1791年、この憲法に従って選挙を行う。国会議員を選挙で選ぶ。この国会を立法議会といいます。この時には議会の中にも、いろいろな派閥やグループがあって、いわゆる穏健派が中心になる。これをジロンド派という。穏健派が中心だったんだということです。
 ただこういうふうに、王よりも憲法を優先するという政治システムに対して、王の嫁さんの実家オーストリアがまず反発する。何ということだ、自分の娘の嫁ぎ先が大変なことになっていると、このままでは娘の命も危ない。・・・実際このあと殺されていきます・・・それで戦争開始です。1792年、オーストリアとフランスとの戦争が始まる。

※ 1792年、イギリスが初めてマカートニーを全権とする使節団を中国に派遣する。

 このあとの戦争の中心になるのは・・・きっかけはオーストリアでも・・・やっぱりイギリスです。イギリス中心にフランス包囲網が固まっていきます。
 ここに来て、戦争の中でフランスの王様の命令はもう聞かなくてよい、王は国民に命令できない、と国民が決める。王権停止です。もうここまで来ると、王が命を取られるまでにあとちょっとです。


【ルイ16世処刑】 次にまた選挙があって、新しい国会議員が選ばれる。これ国民公会という。選挙して、またグループが変わったのです。ここでは急進派が出てきます。過激な考え方、身分的には下層市民です。これをジャコバン派という。

※ ジャコバン党は1人残らずフリーメーソンだった。(マリンズ)

 なんだ、王は何の役にも立たないじゃないか。税金ばかり使いやがって、殺ってしまおう。ルイ16世処刑です。1793年です。それでひと思いにやる処刑の道具を発明した。上から首をスパーンとやるギロチンです。
 王が殺された。ついでに嫁さんのマリー・アントワネットまでも殺された。マリー・アントワネットの言葉で、パリ市民が貧困に苦しんでパンも食えないと聞いたとき、パンが食べられなかったらケーキを食べたらいいじゃないの、と言ったという。これはたぶん捏造でしょうけど。そういう王に対する悪意が充満する雰囲気が醸し出され、王は夫婦とも殺されていきます。公開処刑です。パリ市民は大歓声を上げて喜びます。
 これでフランスは王がいない国になった。こういうのを共和制という。これで王がいない国は2つになった。アメリカとフランスです。

 ここで王が殺された。ここでイギリスが出てくる。そしてイギリスを中心にオーストリアやプロシアと組んで、フランスに対抗していく。フランスなんか潰してしまおうと。オレたちが大がかりで同盟を組めばできると。1793年に第1回対仏大同盟を結成します。このあとの戦争は、イギリスフランスの戦争です。結局これは、七年戦争でのアメリカ大陸の奪い合いと変わらない構図です。

※ 1796年、イギリスがオランダからスリランカを奪う。

 先のことをいうと、この戦いにもイギリスが勝つ。イギリスはすべてフランスに勝つわけです。アメリカ大陸でもフランスに勝って、対ナポレオンにもフランスに勝っていく。ナポレオンが有名すぎるから、何となくフランスが世界の中心のように見えるけれども実はそうではない。ポイントはイギリスです。そのイギリスの覇権に比べれば、フランス自体は大したことはない。フランス革命の裏で起こっているこういうことが大事です。イギリスはフランスと戦う一方で、すでに中国や東南アジアに乗り込んでいます。

 フランスはイギリスとの戦争に負けていきます。フランスは革命と同時にイギリスと戦っていきます。革命と同時に貴族とも戦っていくし、同時に外国とも戦っていく。これがフランス革命です。
 だから世界初の徴兵制をとります。兵隊には、昔は貴族または騎士階級、身分が上の人たちに決まっていた。日本だったら武士に決まっていた。それを農民から兵を取る。これが徴兵制です。国民であれば兵隊の義務があることになる。これはここで発案された考え方です。日本も戦前は徴兵制でした。

 君たちのじいちゃんか曾じいちゃんたちは兵隊に取られている。私の父も18歳で高校卒業して即刻入隊です。徴兵制の最後の世代、昭和20年4月に赤紙が来た。5ヶ月後に原爆が落ちて終戦です。あと1年戦争が長引いていたら、間違いなく父は死んでいた。私も生まれていない。南方に行く予定があったから。南方に行ったら間違いなく死んでる。その前に敗戦になったから、どうにか生き残って帰ってきた。君たちのじいちゃんや曾じいちゃんの世代にはそういう人がいっぱいいる。その徴兵制は、ここから始まる。
 そうなると、戦争だ、緊急事態だ、つべこべ言うなという雰囲気です。自由を求めたフランス革命が独裁政治になっていく。これがジャコバン派独裁です。怖いのは下級市民が思い込みで権力を握ったときです。なりふり構わずやっていくんです。その中心人物がロベスピエールです。


【恐怖政治】 しかしいろんな意見があってなかなかまとまらない。だから反対する者は次々にギロチンで殺していく。だから恐怖政治といわれる。フランス革命は恐怖政治を生みます。
 そうなると反対派は裏で政権工作をやる。政権を変える。そうするとあの独裁者ロベスピエールも、もう殺されるときには一瞬です。1794年ロベスピエールは、反対派に捕まえられて即座に処刑されていく。そして新しく95年憲法をつくる。
 こういう政権交代があるごとに、憲法がコロコロ変わる。これも考えものですね。逆に日本のように、70年間1文字1句変わっていない憲法も、それはそれで問題です。憲法が大事なんじゃなくて、70年経てば世の中変わる、それに合わせて憲法も変わる、というのは正しいと思う。どう変えるか、話がまとまらないまま70年間です。別に戦争しろ、と言ってるつもりはないんだけど、日本の憲法は70年間変わっていないという意味では珍しいです。しかし今変わると、間違いなく戦争やるでしょうね。
 


【ナポレオンの登場】
【総裁政府】 体制が変わって、1795年総裁政府になる。グループ政治です。複数のリーダーでやる。5人の総裁でやるから総裁政府です。
 ここで疑問が出てくる。今まで数年続いてきたこのフランス革命は正しかったのか、これはおかしんじゃないか、という話が出てくる。でもどうしていいかわからない。わからないと世の中が不安定になってくる。
 不安定になると、国民の意向は、政治家は裏切りばかりで信用できない。日本でも起こったことですが、軍人さんだな、やっぱり、となる。政治家よりも軍人さんの方が義理人情に厚くて信用できる。そうやって国民が軍に期待していく。
 その時に、軍の身分は低いけど、バリバリと手柄を立てて頭角を現してきたのがナポレオンです。ナポレオン・ボナパルトという。田舎貴族なんですけど。

※ 1796年、ナポレオンがジョセフィーヌと結婚する。ジョセフィーヌはバラス伯の愛人であり、ナポレオンからの情報を流した。それがロスチャイルドに伝えられた。(コールマン)


※ 1797年、スコットランドのロビソン教授が「ヨーロッパのすべての宗教と政治に敵対する陰謀の証拠」を著しベストセラーになる。
※ 1797年、フランスのバリュエル神父が「ジャコバン主義の歴史に関する覚書」を著しベストセラーになる。

 どんな手柄を立てていたか。敵の中心はイギリスです。イギリスはどこを一番大事にしていたか。インド支配なんです。イギリスからインドに行くときに、エジプトを通過しなければならない。まだスエズ運河はないけど、イギリスを通さないようにエジプトを支配下に置く。イギリスを通せんぼするためです。これが1798年のナポレオンのエジプト遠征です。これに成功して、ナポレオンは熱狂的な国民の喝采を受ける。
 ついでにエジプトから、ピラミッドの一部とか古代遺跡のパーツをいっぱい持ってくる。本当はエジプトのものなんだけど、こっそり盗んでフランスに持ち帰る。だからエジプトの古代文明遺物などは今どこにあるか、エジプトにはない。パリのルーブル美術館にある。フランスにあるんです。ルーブル美術館の美術品は、この時にごっそり持ち帰ってきたものです。エジプトはそろそろ返せと、言いはじめている。古代エジプトの秘宝が、なぜパリのルーブル美術館にあるのか、これはオレたちのものだと。


【執政政府】 総裁は5人もいらない、オレがそのリーダーになる。総裁政府をナポレオンはクーデタで倒す。そして俺が一番だという。1799年です。これを統領政府というんだけれども、最近言い方が変わって執政政府という。5人の総裁が1人の統領に変わった。そういう意味では統領政府のほうが分かりやすいような気がするけどね。
 最近、偉い学者さんたちがよく歴史用語を変えます。日本史でも、江戸時代の徳川親戚筋を御三家といって、芸能界でもふつうに御三家といっていたのを、十数年前からある学者さんが「御」をつけたらいけないと言ったら、教科書が変わってしまって、今では「三家」という。何かスカスカする名前になった。ずっと御三家だったのに今は三家という。

 それでナポレオンが第一統領になる。ここからナポレオンの政治になっていく。この始まりが1799年です。フランス革命は1789年から起こって、10年後にナポレオンが国家の中心になった。
これで終わります。ではまた。
 

 


「授業でいえない世界史」 32話 近代 ナポレオン敗北とイギリスの覇権

2019-05-05 10:00:00 | 旧世界史11 18C後半~
※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


 
【執政政府】 1799年です。フランス革命の続きです。フランス革命は、最終的にロベスピエールの恐怖政治となりギロチンの恐怖に覆われて、うまくいかなかった。それで政治家への信頼を失って、代わりに国民が求めたのは軍人だった。それが田舎軍人、コルシカ島出身のナポレオン・ボナパルトという軍人です。
 5人で総裁政府をつくって、そのあと5人も要らないから俺が統領になってやるというのが、この執政政府です。別名、統領政府です。ナポレオン自ら第1統領になっていく。

 フランス革命というのを短くとらえれば、ここで一旦革命は終わります。
 ただ戦いは国内の戦いから、国外の戦いに変わっていくんですね。反対派のメインはイギリスです。このあと発展していくのもイギリスです。世界帝国になっていくのも、大英帝国になっていくのもイギリスです。フランスばかりに気を取られずに、イギリスの動きを忘れないようにしてください。

 フランス革命は実はカトリックの総本山、ローマのカトリック教会とも対立していたんです。キリスト教否定を唱えていたからです。それがここで和約する。1801年のコンコルダート・・・宗教協約・・・です。仲直りするということです。

 これからナポレオンの絶頂期に今から入っていくわけですが、1802年にそのイギリスと和約を結ぶ。ここで第2回対仏大同盟は崩壊する。これをアミアンの和約といいます。第2回対仏大同盟はフランスと戦おうという大同盟です。ここで対外戦争が終わったのかというと、これは1回、2回、3回、4回も結成されます。次にまた間を置いて3回目が結成されますが、その時の中心もイギリスです。

 このフランスとイギリスの戦いで、両者の違いはフランスには慢性的にお金がないんだということです。イギリスのように紙でお金を刷る手品もしないんです。お金がなかったら何かを売らないといけない。何の価値もない紙に1万円と書いて印刷すればいいというイギリス流の発想は持たないんですよ。しかしイギリスはイングランド銀行という中央銀行をもっている。だから形だけまねして1800年にフランス銀行を設立する。でも3年後、やっぱり戦っている時にお金がない。

※ フランス銀行は中央銀行としての中心的な役割を果たせずに、その影響力はロスチャイルド銀行をはじめとするプライベート銀行より劣っていた。(宋鴻兵)

※ ナポレオンは国債の発行にも踏み切り、政権への積極投資を呼び込んで、軍備を拡張し、インフラの整備へとつなげていきます。またナポレオンは中央銀行にあたるフランス銀行を設立しました。フランス銀行は規律ある金融政策、通貨政策を厳しく管理し、インフレを抑え込みました。

 だから金目のものを売らないといけない。本国フランスを守るためには背に腹は代えられない。何を売るか。フランスはアメリカに植民地を持っていた。アメリカは独立したあと、西に領土的野心を持っている。買い手がつけば売ろうとフランスは思う。これがルイジアナです。アメリカの中南部です。今でもルイジアナ州というのがあるけれど、この時のルイジアナはその5~6倍でかい地域です。これをアメリカに売る。資金不足だからです。このお金がないというのがイギリスとの違いですね。これがフランスの敗北の原因です。
 それに対して、イギリスはさっき言ったように紙のお金を印刷する。まず国債という国の借用書を発行して、それを担保にイングランド銀行からお金を借りる。中央銀行は紙幣だったらいくらでも印刷できる。今の銀行制度はこれです。今も同じようなことをやってます。今のアベノミクスでやっていることも基本的にはこれと同じです。
 またナポレオンは法律の整備もやります。1804年のナポレオン法典は後世の模範となっていく。これを制定します。

※ 1803年、イギリスがインドのデリーを占領する。マラータ戦争継続中。


【第一帝政】
 それでナポレオンは第一統領には満足せずに、オレは皇帝になるぞと、宣言します。その成り方が今までと違う。選挙をするんです。国民投票です。俺は皇帝になりたいんだけど、いいかと国民に問う。それで国民が「それでいい」というんです。それで皇帝になっていく。そこでナポレオン1世と称す。1804年です。
 「ナポレオンの戴冠式」というダビッドの有名な絵はこの時の様子です。ローマ教皇ピウス7世を招いて戴冠を受ける伝統的な形の上に、その王冠をナポレオン自ら手に取っている様子が描かれています。フランスはカトリックだからこういうことができるのです。でもイギリスはイギリス国教会を別に作っているからこういうことはできません。

※ ナポレオンの戴冠式にローマ法王が招かれたことに、ロスチャイルドは腹を立てた。(コールマン)

※ マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドによって割り当てられた任務は、王政の破壊とカトリックの破壊であった。これを遂行している限り、ナポレオンには幸運がついて回った。(コールマン)

※ 1804年、ロスチャイルド家の三男ネイサン・ロスチャイルドがロンドンで、ロンドン・ロスチャイルド商会を設立する。

 ただこのあと息子がいなかったからナポレオン王朝にはならなかった。彼は息子がいないのが悩みで、嫁さん変えたりするんです。
 ここで皇帝の政治になったから、この政治を第一帝政という。約10年間続きます。これが終わる1814年というのが、ナポレオンが敗退する年です。

 ナポレオンが皇帝になると、これはいかんと、やはりイギリス中心にフランスを潰そうという動きになる。そこで翌年の1805年に第3回対仏大同盟を結成する。フランスとの戦争再開です。これもイギリス中心です。注目はイギリス、目の付けどころはイギリスにしていたほうがいい。

※ 1805年、第3回対仏大同盟・・・ロスチャイルドによって「反ナポレオン連盟」が組織され、資金が注ぎ込まれた。(コールマン)

 それで先に行きますが、ナポレオンが快進撃するのはここからです。一時ヨーロッパの大半を支配下に置く。しかしお金が続かない。だから、さっき言ったお金のマジックを使うイギリスに負けていく。
 そのころのフランスの領地は、今のフランスよりちょっと大きい。あとローマ教皇とは友達になったから、そこまでフランスです。
 ここからどれだけ拡大するか、青で囲みます。まずピレネー山脈を超えてお隣のスペインもフランスの従属国になる。忘れていけないのは、このスペインというのは、今から300年前に南米最大の植民地帝国になった。南アメリカはほぼすべてスペイン領なんです。というかブラジル以外は、全部スペインの植民地なんです。メキシコも当然スペイン領です。
 それがフランスとの戦争に負けたということは、200~300年前から南北アメリカに住んでるスペイン人の子孫は、オレたちも独立しよう、と独立運動が起こっていく。これが海の向こうのアメリカ大陸で起こることになる。
 それからドイツとイタリアも、すべてナポレオンのものになる。ドイツとイタリアは、この時フランスの従属国になるということです。ドイツはこのあと、いくつかの国に分裂するけれど、北の方にあるのがプロイセンです。このプロイセンもナポレオンに負けた。

 この後の主な戦場を2つ言います。
 1つ目はトラファルガーの海戦。それからアウステルリッツの戦いです。
 こういったところでナポレオンは次々に敵を破っていく。敵の中心はイギリスですけど、イギリスはドーヴァー海峡挟んで陸続きではないから非常に攻めにくい。青色がついているところは、ほぼナポレオンの支配下に入った地域です。
 1805年トラファルガーの海戦でナポレオンがイギリスの海軍に勝つ。再度地図を見てください。スペインの先端の海域です。
 ドイツとの戦いは、同じく1805年アウステルリッツの戦いです。お金がある時は、国民皆兵制で徴兵制を敷いているフランスは強い。でもお金が続かなくなるんです。

※ ナポレオンがドイツに進撃した時、ヘッセン選定侯は、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドにその金を隠すように頼んだ。ロスチャイルドは、その金を第三国に高利で貸し付け、その後ヘッセン選定侯に利子をつけて返した。ロスチャイルドはヘッセン選帝侯の宮廷銀行家として国際金融を専門にしはじめた。(マリンズ)

 それでもっと東のドイツ。ドイツというのはかろうじて、形だけは神聖ローマ帝国がまだある。これをナポレオンが完全に息の根を止める。これが翌年の1806年です。これで神聖ローマ帝国は本当に滅亡です。これでドイツは完全にバラバラになります。
 まだドイツという国はないです。ドイツ帝国ができるのは、日本の明治維新より2年後の1870年です。ではその神聖ローマ帝国の皇帝を出していた家は、何というか。これがオーストリア王家です。名前がハプスブルク家です。

 ただこのあとドイツをつくっていくのは、オーストリアではなく、ライバルのプロイセンです。約50年後にドイツ統一に勝つのはこのプロイセンなんです。昔の王家のハプスブルク家を押しのけて、プロイセンが今のドイツをつくってきます。

 敵の中心はイギリスだということは、ナポレオンも十分知っている。ナポレオンは、イギリスの息の根さえ止めれば・・・ドイツはまだバラバラだし・・・絶対オレが上に立てると踏んでる。しかしイギリスは海の向こうだからなかなか勝てない。それでナポレオンは、イギリスに対して経済制裁をやる。これが1806年の大陸封鎖令です。
 これはちょっと勘違いが起こりやすい。大陸のフランスを封鎖するみたいですけど、そうではなくて逆です。大陸から封鎖されるのはイギリスです。イギリスに船で物資を運んだらダメだということです。イギリスを孤立させるためのものです。もし日本でこれやられたら・・・食料自給率わずか20%だから・・・10人中8人は死ぬでしょう。
 しかし貿易はお互いの利益のためだから、これを破る国が出てくる。それがあとでいうロシアです。

※ 1808年、日本でイギリス船によるフェートン号事件が起こる。
※ 1808年、イギリスが中国のマカオを攻撃する。

※ 1810年ナポレオンはジョセフィーヌと離婚し、オーストリア王女のマリー・ルイーズと結婚した。これにロスチャイルドは腹を立てた。カトリック教会を潰す機会がなくなっていくのを恐れたからだ。ナポレオンを葬り去ることに力を貸していたのはパリ家のジェームズ・ロスチャイルドだった。ロスチャイルドは、「反ナポレオン連盟」を組織し、資金が注ぎ込まれた。(コールマン)

 1810年に、ナポレオンがスペインを占領すると、スペインは南米に大植民地を持っていた。本国がやられたら、俺たちも独立しようぜ、ということになっていくんです。こういう連鎖反応が起こっていく。

※ 1811年、アメリカ第1銀行が廃止される。アメリカ3代大統領トーマス・ジェファーソンがその廃止に全力を挙げる。アメリカ第1銀行の70%の株式を保有しているイギリス銀行家、特にベアリング家とロスチャイルド家にとっては大きな打撃であった。(宋鴻兵)

※ 1811年3月、ジェームズ・ロスチャイルドがフランクフルトからパリに入る。(コールマン)

※ 1812年、シティーバンクが創立される。アメリカ第1銀行が営業していたその部屋で創立される。(マリンズ)

 
▼ナポレオン支配下のヨーロッパ
 
 
【モスクワ遠征】 ただイギリスを孤立させるための大陸封鎖令を、ロシアが破るんです。命令を破ったら、何で俺のいうこときかないかと、懲らしめないといけない。ナポレオンはロシアを懲らしめに行きます。1812年です。あの寒いモスクワに。ヨーロッパ人から見たら、気が遠くなるほど寒くて危険です。その危険を犯して勝負に出る。これがナポレオンのモスクワ遠征です。
 この1812年には後でいうイギリスとアメリカ間で米英戦争が起こります。

 結論はフランスが負ける。ロシアも、戦さではフランスに勝てないことを知っている。ただ冬将軍がくれば別だ。冬将軍とは寒波です。だからいかにも負けそうに見せてフランス軍を釘付けにする。フランス軍をモスクワ周辺にとどまらせて、冬将軍つまり寒波が来るまで釘付けにしておく。そこに冬将軍が来たら、後は黙っていてもフランス兵は死んでいく。フランスはこれにやられます。

 これをきっかけに今までナポレオンの天下だったのが、ヨーロッパ全体で、なんだあのナポレオンはと、反ナポレオンの機運が盛り上がる。ドイツ人も反ナポレオン機運で盛り上がる。ドイツとフランスは今でも仲が悪い。EUで手を組んだのは、戦後のことで、それまでは基本的に仲が悪い。ドイツ人から見ると、ナポレオンはオレたちの国を征服して、ドイツをバラバラにした憎い奴です。それでナポレオンに立ち向かうためにみんなで協力しようじゃないか、というのが1813年です。反ナポレオンの戦争です。諸国民戦争またはライプツィヒの戦いといいます。それでナポレオンは負ける。これで一度ナポレオンの治世は終わる。

 それで皇帝の位を奪われて、あとは国外追放。しかも戻ってこられないような島流し、そこをエルバ島という。これは地中海の中にあります。しかしナポレオンは、島流しされたあと、こっそりとその島を抜け出します。密偵を放ちながら、オレはまた王に返り咲くぞというと、結構仲間が集まって、また皇帝に返り咲きます。そんな長くは続かなかったから、これをナポレオンの百日天下という。
 その百日天下が続くかどうかの天下分け目の戦いが・・・日本でいえば関ヶ原の戦いが・・・1815年ワーテルローの戦いです。地図を見てください。パリの郊外、ちょっと北の方です。全部ワーテルローとか、アウステルリッツとか、トラファルガーとかは、地名です。

※ ワーテルローの戦いでのナポレオンの敗北は、スルト元帥の裏切りによる。スルトはビスマルクの母の愛人であった。スルトはその後、フランスの要職に就く。スルトはビスマルクの実の父親だと噂されている。(コールマン)

 そこでナポレオンは負ける。これでほんとに一巻の終わりで、今度は2度と抜け出せないような大西洋に浮かぶ、絶海の孤島のセントヘレナ島というところに島流しです。そして10数年後にそこで死にます。しかしこの死に方もいろんな噂がある。死んだ骨の中を現代科学で調べてみたらヒ素が出てきた。ということは毒殺です。そういう噂もある。
 こういう噂は、最近パレスチナのPLOのアラファト議長が2004年に死んで、何年かあとに骨を掘り起こしてみたら、やっぱりヒ素が出てきたといいます。これ病死じゃなくて、殺られたんじゃないか、という新聞に出るぐらいの噂があります。人体からヒ素が出てきた。これは何を意味しているんでしょうか。

 このワーテルローの戦いの時に、イギリス・ロスチャイルド家のネイサン・ロスチャイルドが一芝居を打って、イギリス国債の大半を買い占めます。

 まずイギリスが負けたかのように見せかけるため、手持ちのイギリス国債を売り、周りがイギリスが負けたと勘違いして同調して売りが売りを呼び、国債の価格が下がったところで、今度は一気にイギリス国債を買い占めます。そこでイギリス勝利のニュースが伝わるとイギリス国債は一気に跳ね上がります。そのぼろ儲けした金で彼はイングランド銀行の株を買い、大株主になります。このことによって、イギリス金融界の中心にロスチャイルド家がどっかりと座るようになります。
 約50年後、スエズ運河を買収する際に、資金源に困った首相ディズレーリが頼ったのも、このイギリス・ロスチャイルド家です。
 そのあとのナポレオンはこれで死んだも同然です。そのあとフランスはどうなるか、また王制に戻ります。ルイ18世が即位します。
 これがうまくいかない。なんだ、以前と何も変わらないじゃないかということで、このあと10年ぐらいかけて、やはり王は要らない、ということになり、第二の革命、第三の革命が起こっていく。なかなか一度では終わりません。
 以上でフランス革命を終わります。


【ウィーン体制】
 こういうふうにフランスによってヨーロッパ中が、かき回されたんですよ。しかしフランスのナポレオンが敗れたというのが結論です。ナポレオンは勝ったんじゃない。イギリスに敗れたんです。勝ったのはイギリスです。
 じゃあこの後、ヨーロッパをどうしようかという会議をヨーロッパ全体で開く。どこで開かれたか。やっぱりヨーロッパの800年間の中心であった神聖ローマ帝国でしょう、ということになるんだけど、その帝国は1806年になくなったんです。その後を継ぐのがオーストリア帝国だった。オーストリアの首都はウィーンです。そこで開かれた会議だからウィーン会議といいます。
 目標は秩序回復です。そのウィーン会議の中心となったのが、そのオーストリア帝国です。その外務大臣のメッテルニヒという人です。しかしこの人にこのあとの世界を動かしていく力はありません。本当に力を持っているのはイギリスです。

※ メッテルニヒはウィーンのサロモン・ロスチャイルドとの関係が深かった。(コールマン)

※ ウィーン会議は国際銀行家によって牛耳られた。(コールマン)

※ 1815年のウィーン会議以後、ユダヤ人は大挙してゲットーを出て、政府の役職に就き、教育界や銀行界に進出した。(マリンズ)

※ 1817年、13歳のディズレーリ(のちのイギリス首相)は、イギリスのネイサン・ロスチャイルドの命令で、ユダヤ教からキリスト教に改宗する。(コールマン)


 この会議は宴会ばかり開いて結論が出なかった。1814年から15年にかけて1年以上かかって、「議会は踊る、されど進まず」です。夜の舞踏会ばかり開いて、まったく先に進まなかった。
 目標は正統主義という。正統にするんだ。では何が正統か。フランス革命の前の状態が正統だとする。前に戻すことが正しいことだとする。そうしましょう、ウィーン議定書というのに各国で印鑑を押しましょう、とこういうことになる。でも神聖ローマ帝国だけは復活しません。これから世界を股にかける大英帝国になろうとするイギリスにとっては、神聖ローマ帝国は邪魔なんです。
 そのあと、各国が二つの同盟を組む。その同盟の中心側が、今ヨーロッパは王様がいる国と、いない国に分かれつつあります。王様がいる国は神聖同盟です。ロシアのアレクサンドル1世の呼びかけで、プロイセン、オーストリアなどの君主国が結成しますが、これにはイギリスは加わりません。
 イギリスは別の同盟をつくります。これが四国同盟です。イギリス、ロシア、プロイセン、オーストリアが結成します。その中心にイギリスがあります。

※ ロシアのアレクサンドル1世の提唱による神聖同盟に、ロスチャイルド一族はすぐさま反対の立場を表明した。(コールマン)

※ ユダヤ教徒のロスチャイルドにしてみれば、キリスト教国による同盟は脅威です。神聖同盟以降、ロスチャイルドとロシアの対立は長く続きます。(馬渕睦夫 「グローバル」)


 フランス革命は失敗。ナポレオンは島流し。そのあとの中心はオーストリアじゃなく、イギリスです。イギリスが圧倒的優位を確立する。なぜか。この間に何が起こっていたか。産業革命が進行中です。さらに、アメリカや、中国、東南アジア、そしてインドなどへ進出する足がかりを築いています。ヨーロッパが、フランスだ、やれナポレオンだと、戦争ばかりしているときに、イギリスでは着々と産業革命で金を稼いでいます。


【各国の動き】 ウィーン会議の結論は、もとに戻ろうということです。フランスにもまた王様が復活した。庶民は期待してたのに何だ、と思う。革命を前に進めよう、それを前に戻ってどうするのか。そういう反体制、ウィーン体制に対する反対です。ナポレオンに対する反対ではなくて、ウィーン体制に対する反対が起こってくる。これが自由主義です。一言でいうと、王様反対みたいな感じです。
 そこからナショナリズムが起こる。これは漢字に直すと二つ意味があって、一つは国民主義、もう一つは民族主義と訳されます。国民や民族が自由を求めるということです。自由を求めたフランス革命はうまくいかなかったけれど、それを推し進めていこうということです。

 でもこの動きはバラバラに起きるんです。ドイツ・イタリア・スペイン・ロシア。時間も土地もバラバラです。一応早い順に並べているけれども繋がりはない。

 ドイツでは学生を中心に反対運動です。当時の学生はお金持ちの大土地所有者の息子たちです。これをブルシェンシャフト運動という。1815年です。

 ちょっとブラックなのがイタリアです。氏素性のわからない人たちが、誰にもわからないように、こっそりと人目のつかないところに集まって何かを企てる。こういうのを秘密結社という。秘密結社というと質の悪い漫画みたいなイメージですけど、ちゃんとあります。教科書にも登場します。これがカルボナリ党です。秘密結社だから、メインが誰なのかよくわからない。メンバーが誰なのかよくわからない。突然でてくる。半分は謎の組織です。でもこういうのは結構歴史を動かすんです。1820年カルボナリ党の反乱が起こります。しかしここでは抑圧される。

 スペインでは、何だ、フランスに負けたじゃないか、そして植民地では独立する国が出てきて、ここでも革命が起こる。
スペイン立憲革命1820年です。しかしこれもフランス軍に抑圧される。

 遅れたロシアでは、1825年デカブリストの乱が起こる。これはロシア語です。いいところの貴族の坊ちゃんたちが、軍人になって将校になっている。彼ら軍人が王様に絶対的に仕えるかというと、今度の新しい皇帝のニコライ1世は、おかしいんじゃないか、王様はいらないんじゃないかと疑問を持ちだす。ただこういう貴族に対して、ロシアの農民はまったく信用していない。ロシアは階級社会で、貴族と農民の信頼関係がない。だから農民を引き込もうとしても、農民は、イヤイヤあんたたちは信用できないと言う。ずっと痛めつけておいて、突然オレに協力しろといっても、それは無理な話です。


【イギリスの動き】 こういう動きに、どこが入っていないか。イギリスです。イギリスでは、反乱とか政治的動乱は起こっていない。というよりイギリスの王は100年以上前に政治の実権を失っています。その後は、しっかりお金を貯めて植民地を獲得していく。
 何も起こらないと事件にならないから目につきにくいんですけれども、イギリスで起こっていることは、非常に大事なことなんです。イギリスはフランス革命中から着々と準備を進めています。このことが大事なんです。フランス革命は、イギリス繁栄の影に隠れたあだ花に過ぎません。ナポレオンは島流しになったにもかかわらず、なぜか200年近く英雄として祭り上げられていきます。しかしそれはイギリスがやったことに比べれば小さなことです。

 そのイギリスの動き、1800年代、次々に植民地を占領している。まずインドです。首都デリーを占領する。これが1803年です。まだナポレオンと戦ってる最中です。ナポレオンと戦いながら、一方の手ではしっかり植民地を押さえようとしている。ポイントはインドです。最後までイギリスが手放さなかったのはインドです。
 さらに5年後の1808年、中国のマカオ、ここを攻撃する。そして同じ1808年、日本の長崎に乱入するんです。これをフェートン号事件という。これが明治維新とどう結びつくかというのは長くなるから、日本史の時間に回します。
 それからアメリカ第一銀行の成立。1791年。これはアメリカのことなんですけれど、イギリスが絡んでいます。こういう中央銀行が良いのか悪いのか、アメリカではずっと意見が対立しています。それをなかば強引に中央銀行をつくっていったんです。この中央銀行に対する反対派が3代大統領のジェファーソンです。つくらなくていいと。なぜなら、ここにはイギリスの金融資本が入ってくるから。そういうところからお金を借りればイギリスに頭が上がらなくなる。だからこのジェファーソン大統領が、この銀行を廃止する。イギリス金融資本の影響から逃れるためです。それが1811年
 するとイギリスが腹を立てて、その次の年の1812年から1815年まで、米英戦争を起こす。またイギリスとアメリカが戦うんです。すると独立戦争では負けたイギリスがここでは勝つ。そうやってイギリスは雪辱を果たす。イギリスは1815年にナポレオンとのワーテルローの戦いをする一方で、他方では同時にこんなことをしている。
 そうすると勝った翌年の1816年に再度アメリカ第二銀行をつくる。この実権はイギリスのロスチャイルド家が握っています。これによってまたアメリカにイギリス金融資本が流入する。イギリスのお金持ちたち、つまりイギリスの金融資本がアメリカの産業に介入していくわけです。

※ 1812年の米英戦争は、イギリスが海上封鎖を行いアメリカの通商を妨害したとしたためだとされる。結果はアメリカの敗北に終わる。アメリカ政府は最終的に服属し、イギリス銀行家による中央銀行の運営に同意する。このことが1816年のアメリカ第2銀行の設立に繋がる。ロスチャイルドの目的は、アメリカ政府の借金を増やし、服属させ自分たちが牛耳っていた中央銀行を再開させることであった。(宋鴻兵)

※ 1804年に財務長官のハミルトンが決闘で死んだ後、ロスチャイルド家はニコラス・ビドルを代わりに選んだ。パリのジェームズ・ロスチャイルドからアメリカ第2銀行を委託されたとき、ジャクソン大統領に反対された。ロスチャイルド家はアメリカ合衆国を破壊し、二つの弱小国家に分割しようと考えた。(マリンズ)

 こういうことは教科書には書いてないけども、ここらへんは今の経済を考えるときに避けては通れない。お金によって政治が動く。小学生にはこんなこと言わないけど、やはりありえる。お金を誰が持って、どこに使っているかというのは、政治を理解するときにも非常に大事なことです。

 さらに1813年には、イギリスは自由貿易をしたいから、今まで独占貿易に頼っていた東インド会社を廃止する。
 イギリスはこの時は自由貿易です。強いときは自由貿易をする。そして弱くなると保護貿易に変わる。今のアメリカのように。イギリスもそうです。最初に自由貿易をやったのはイギリスです。しかしあと30年もすると、アメリカが追い上げてきて、イギリスは保護貿易になる。コロコロと自分の都合で主張を変えていきます。

 さらにそのイギリスには中央銀行がある。イングランド銀行といいます。この銀行が紙幣を発行していいという政府のお墨付きをもらう。1815年に政府のお金も扱う。つまり「発券銀行」となり、さらに「政府の銀行」となります。こうやってお墨付きをもらい、ほぼ正式な中央銀行となります。そのイングランド銀行の大株主となるのが、ロスチャイルド家です。これにはちょっと黒い噂はあった。銀行に紙幣を発行させていいのかとか、その会計が不透明じゃないかとか、そういう話があったんだけれども、正しい政府の銀行だということが認められてイギリスには、お金持ちの銀行家・・・彼らを金融資本家といいますが・・・彼らがますます力を持っていく。
 さらにイギリスは海外に植民地をもっています。この時代のお金というのは、今のお金よりもある意味で進んでいるんですよ。というのは、アメリカのドルを幾ら日本に持ってきても使えないでしょう。逆に日本の1万円札をいくらアメリカに持っていっても使えない。これは国家限定の貨幣だから。しかしこの時代のお金は、本当は金(きん)なんです。金貨だったら鋳つぶしてどこに持っていこうと、日本に持っていこうとアメリカに持っていこうと、金は金に変わりはないからどこでも通用するんです。

 だから紙幣を発行する一方で、金を蓄えて、本当のお金は金(きん)だという形をとる。そしていつでも本物の金と交換できますよ、という形を取ります。これはイギリスが最初です。これを金本位制という。これを翌年の1816年にイギリスが確立する。では1万円札とは何かというと、その引換券です。これが金本位制です。イギリスが金が本物だとしたから、他の国も全部、金が本物だとする。
 何を言いたいかというと、外国との貿易取引の時、金をやりとりすれば良いんです。これは今よりも簡単なシステムです。アメリカ人に何か売りたいときに、アメリカ人からドル紙幣をもらったって迷惑でしょう。君たちが、本当に何か1万円ものを売りたい、スマホを売りたいといったときに、アメリカのニューヨークからドル札もらったって使えない。ではそのドル札をどうやって円に替えるか。これは考えていくと結構難しい。金ではそれが簡単にできた。

※ 1816年、イギリスはアマーストを団長として、中国に2度目の使節団を送る。

※ 1817年、第三次マラータ戦争が起こり、イギリスがインド全域を支配する。


 
それからイギリスは1819年にはどこをとったか。シンガポールを買収した。ラッフルズというイギリスの行政官が。今や東南アジア最大の貿易都市、金融都市です。小さな島なんだけれども、がっぽりお金を持っている。日本人よりもはるかに持ってます。

 さらに1820年代以降に中国に何を売り込むか。アヘンを売り込む。麻薬です。20年後の1840年にはアヘン戦争が起こります。このアヘンを売りこんでいるイギリスの会社は、ジャーデン・マセソン商会といって・・・これ覚えていてください・・・ここの社員として、長崎に1859年にやってくるのがトーマス・グラバーです。あの長崎のグラバー邸の主です。


【ラテンアメリカ諸国の独立】 では次、スペイン植民地から独立したいラテンアメリカです。ラテンアメリカの地図を見てください。ブラジル除いて、全部スペイン植民地です。


▼ラテンアメリカの独立



 ここがスペインがナポレオン戦争で負けて以降、次々に独立していく。コロンブス以降、今までは300年間、ずっとスペインの植民地だった。だからメキシコ人は何語をしゃべってるか・・・メキシコ語とかないんですよ・・・スペイン語です。コロンビア、ベネズエラ、ペルー、ここらへんは何語をしゃべってるか。スペイン語です。スペインの植民地だったからです。ブラジルだけが今でもポルトガル語をしゃべっている。
 ナポレオンはどこを支配したか。スペインを支配した。スペイン本国はフランスのナポレオンに負けた。そしたら、スペインに支配されていた現地生まれの白人・・・彼らをクリオーリョという・・・彼らが白人中心に独立運動を始める。決して原住民じゃない。黒人の運動ではありません。彼らが1810年代から次々に独立しようとしていく。その運動の中心人物が、シモン・ボリバルという人です。ボリビアという国があるけれど、このボリバルに由来します。スペインから独立したいわけです。

 フランス革命以前に戻したいヨーロッパは「そんなことはさせない」と、ウィーン会議の中心メッテルニヒを中心に弾圧にかかるんだけれども、それに反対したのがアメリカです。アメリカは、大統領モンローが1823年モンロー宣言を出す。マリリン・モンローは女優です。お尻ふって歩いて有名になった。ケネディ大統領の愛人であったとかいう噂もある。自殺しました。ケネディは暗殺されました。ここらへんもブラックな話があります。ここでは別人のモンロー大統領です。
 それでアメリカはスペインに、干渉するのはやめなさいよと言う。アメリカまだ出来たてのホヤホヤで大して強くないんです。でもこれがとおるんです。なぜか。イギリスがアメリカを応援したからです。イギリスは、そうだそうだ干渉したらダメじゃないか、という。ヨーロッパ勢はこれで割れたんです。

 結局、メッテルニヒのオーストリアとイギリスの対立で、どっちの意向が通るか。イギリスの意向が通る。イギリスが強いんです。
 それはラテンアメリカの独立を応援するためではありません。イギリスは何をしたいか。南米を独立させて、自分たちの有り余る製品をここに売りつけたいんですよ。だからスペインの力を排除したいのです。市場を求めているのです。自分の国の貿易の市場とするためです。アメリカはまだできたばかりで、それほどの工業生産力を持っていません。だから製品を売りつける市場が必要なんです。
 これで前に戻そうというヨーロッパのウィーン体制も壊れていった。イギリスが別の体制をつくろうと壊したんです。

 その結果、イギリスの支配がこの地域に及んでくる。南米は今でもイギリスとアメリカの影響下にある。経済的には今もです。だから南米と北米つまりアメリカは、今も仲が悪いです。同じアメリカ大陸だから仲が良いとか、考えたらダメです。逆です。イギリス、アメリカに支配されてきた歴史があるからです。
 ここまで終わります。ではまた。



「授業でいえない世界史」 33話 近代 イギリスの東南アジア侵略(19C前半)

2019-05-05 09:00:00 | 旧世界史11 18C後半~
※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。



 ナポレオン戦争が終わったのが1815年です。前回は、そのあとのヨーロッパの動きを見て、そのあとスペインの植民地であったアメリカ大陸の独立の動きを見たんです。
 ここからあとは、国家中心で見ていきますが、地域ごとに30年くらい行ってまた元に戻ってと、こういうのを何回も繰り返していきます。横のつながりを合わせて、ヨーロッパ全体として何が起こってるのかということに注意してください。


 1815年にナポレオンがセント・ヘレナ島に島流しにされた。
 次の1820年代というのは、何が起こっていたかというと、意外とこれが目立たないんだけれども、イギリスとオランダがアジアに進出してるんですよ。

 イギリスは、おもにインドからその東のインドシナ半島からマレー半島へ、さらに東の中国へ、香港へ、そしてアヘン戦争というふうに結びついていきます。
 オランダは今まで目立たなかったけれども、インドネシア全域を植民地にしていく。そういう植民地づくりを進めてるんです。


【七月革命】 ではまずどこに行くかというと、ナポレオンの革命が失敗した後のフランスです。1820年代をとばして1830年代、1830年にまた革命がフランスで起こる。7月に起こったから七月革命という。

 ナポレオンがセント・ヘレナ島に島流しにされた後は、フランスにまたブルボン朝の王様が復活した。そこで反動政治が続いた。これに対してまた市民が反発する。王はダメだ、もう追放だということで、国王をまた追い出してしまう。殺しはしないけれども。ナポレオンの後はルイ18世だった。その後、さらにシャルル10世に変わってる。追放されたのは、このシャルル10世です。国王を処刑したりはしない。ただオレたちが王を選ぶんだ。別の王家から国民が王を選びなおすんです。これを七月王政という。
 そうやって国王になった新しい王が、ルイ=フィリップという。王家の一族です。誰がこの王様を支持したかというと、いわゆるブルジョアジーといわれる都市部の金持ちです。お金持ちです。具体的には銀行家です。もっとはっきり言うと、ヨーロッパ最大のお金持ちロスチャイルド家です。こういう金融資本家が絡んでいる。

※ 1830年の7月革命のとき、ロスチャイルドはブルボン家を見捨て、ルイ=フィリップの支持にまわる。(宋鴻兵)

 実はのちにスエズ運河をイギリスが買収するためのお金を出したのも、このロスチャイルド家です。こういうことを知っている人からは、ルイ=フィリップが新しい王といったって、どっちみち銀行屋とか株屋の政権じゃないか、という批判が当初からある。貧乏人には厳しく、お金持ちに有利、そういう政権になってきてます。
 ナポレオンが去った後の王政は、ここで金融資本家の王政に変わった。

※ 1833年、18歳のビスマルクがイギリスのディズレーリを通じてパリのジェームズ・ロスチャイルドと会う。彼は完全にライオネル・ロスチャイルドの指揮下に入った。(コールマン)


【二月革命】
 そういう革命の動きがヨーロッパに流行っていく。あっという間に、18年経つんです。1848年、またフランスで革命が起こる。これを2月に起こったから二月革命という。
 イギリスに比べるとフランスの産業革命は、遅ればせながらも進んでいた。それにつれてお金持ちがますます肥え太っていった。そうすると庶民は・・・まだ全員に選挙権が行き渡ってないから・・・俺たちにも選挙権をくれ、という運動を起こしていく。
 やっぱりパリ市民は好きですね、また暴力に訴え決起する。パリを中心に市街戦を戦う。子供の喧嘩じゃないから、飛び道具が出てくるわけですよ。バンバンと、鉄砲とか。これを鎮圧できずに、王様は政権を投げだす。投げ出すのは簡単なんだけど、ではどうやってこの荒れたフランスを立ち直らせるか。

 もう王はいないから臨時に第二共和制・・・王がいない政治のことを共和制といいます・・・これが成立するんです。また王がいなくなったんです。この時のリーダーは誰か。ナポレオンは負けたとはいえ、フランス人はナポレオンが好きなんです。国民の英雄です。ただ息子がいなかった。でもナポレオンの弟の息子がいる。甥っ子です。彼に人気が集まる。

※ ルイ=ナポレオンは銀行家のペレール家とフールド家の支援を得て、 ロスチャイルド家とは疎遠になります。(宋鴻兵)

※ フランスの2月革命を支持したフールド家とペレール家は、ロスチャイルド家にとってかなり手ごわい競争相手になった。(宋鴻兵)

 1848年に、このナポレオンの甥っ子ルイ・ナポレオン、彼が選挙して勝つんです。そして大統領になる。大統領のままで王様はいない。だからこの人は王様になりたいんですね。

※ ルイ・ ナポレオンは、ナポレオンの最初の妻ジョセフィーヌが前夫との間にもうけた娘オルタンスが、オランダ王のナポレオンの弟ルイ・ボナパルトと結婚し産んだ子供です。

 そして4年後、1852年に皇帝になるんです。そして名前をナポレオンにあやかってナポレオン3世と名乗る。また王様がいる政治に戻る。これを第二帝政といいます。非常にフランス革命というのは複雑です。あっちに行ったりこっちに行ったり、右往左往です。水に漂う浮き草のごとく揺れていく。

 こういう革命の動きが、ドイツにはどうやって現れてくるかというと、ドイツはこの青い線の囲みのところなんだけれど、中心となる国は、もともとのドイツの王様を出してきたハプスブルク家のオーストリア帝国です。今のオーストリアは小さくなってますけど、この時は大きいです。しかしこの国はだんだん弱ってくるんです。それに対して、新しい勢いで北から攻めてきたドイツの一派、これが・・・ここに飛び地もあるんだけど・・・これがプロイセンです。プロシアと言ったり、プロイセンと言ったりする。
 ドイツの状況は、本家はオーストリアで古くて由緒正しいけれども、この国は弱くなる。それに対してこの新しいこのプロイセンが強くなる。いま強くなっている最中です。さてどちらが勝つか、ということでまた揺れていくんです。
 結論いうと、中心になるのはこっちのプロイセンです。


【ウィーン体制の崩壊】 では1848年のフランスの二月革命の後のヨーロッパで、その他の地域はどうなるか。二月革命の影響のもとヨーロッパ各地で反乱が起こる。
 まずオーストリアです。同じ年1848年の3月です。暴動が起こって、その首相クラスであった、オーストリアのメッテルニヒは国外逃亡する。こうやってオーストリアは弱くなる。

 イタリアはどうかというと、マッツィーニという人が今でいう政党・・・政治結社ですけど・・・青年イタリアというのを作るんです。これはちょっとブラックなんです。その前にイタリアにあったのは、カルボナリ党という。これは非合法的な秘密結社です。その影響がどうもある。だからこの人の動きはポイントのところがよくわからない。この動きの中で、ローマ共和国というものが瞬間的にできる。でもその瞬間にフランスが潰して崩壊する。これが1849年です。だからイタリアの統一はこのあと10年遅れる。



【イギリスの自由主義化】
 では一番メインのイギリスはどうか。これが大英帝国になっていく。世界ナンバーワンの植民地を持つようになっていく。イギリスは・・・何回も言うように・・・世界一番乗りで産業革命を達成したからお金持ちです。イギリスの工業力に勝つ国はない。自由に競争させれば勝つんです。だから貿易面では自由主義貿易です。自由に貿易させろとは、強いから言えることです。弱い国は自由にされたら負けるから、そんなこと言わない。
 イギリスは自信があるんです。だからラテンアメリカがスペインから独立しようと言ったとき、イギリス外相のカニングは独立していいじゃないか、と言う。宗主国のスペインは独立させたくない。自分の植民地として持っておきたいけれども、イギリスがラテンアメリカの独立を支持する。なぜか。独立させてイギリスが自分の商品を売りつけたいからです。イギリスの市場確保のためです。こうやってイギリスは自信満々で、自由貿易に進んでいく。これが1820年代カニング外交です。ナポレオン戦争が終わるとすぐに、イギリスはこういう動きをしています。
 これに同調したのがアメリカで、大統領モンローが「アメリカ大陸のことに干渉するな、自由にさせろ」と言って、1823年モンロー宣言を出します。
 ではイギリスが、ずっと自由貿易だったのかというと、それまで100年以上は保護貿易だったし、このあとアメリカに追いつかれるとまた保護貿易を主張するんです。
 ただ宗教面では開放します。政治面では1832年に選挙権をまず拡大する。金持ちの資本家や社長だけにですけど。これが第1回選挙法改正です。1回目の選挙法改正です。まだ一般の労働者や貧しい人は、選挙権はありません。
 経済面では、100年以上前の1600年代から1700年代初めにかけて、イギリスは経済では自信がなかったから、貿易にいろいろ条件をつけていた。つまり保護貿易をしてきた。穀物は輸入しないとか、小麦は輸入しないとか、輸入する場合は船はイギリス船に限るとか、オランダ船は入らせないとか、いろんな条件つけていたけれども、産業革命後イギリス製品はどこに持って行っても売れると分かったら、急に自由貿易に変わっていくわけです。保護貿易から自由貿易に急変する。自由にしていいじゃないかと。でもそれは強くなったから言えることです。これが1840年代のイギリスの動きです。
 さらに強引なことには、自由貿易をやれ、と他の国にも要求する。「政治経済」でも習うように、保護貿易が正しいのか自由貿易が正しいのかということは、実は結論は出ていない。
 正しいかどうか分からないことを、ほかの国にも要求していく。自国の利益のためなら他国の利益を踏みにじる。そして仕舞いには何を売りつけるか。麻薬です。中国にアヘンという麻薬、これを売りつける。自由貿易だからいいじゃないか、持ってきたから買え、という。当然中国はイヤだという。そこでアヘン戦争という戦争をふっかける、ということにこの後なります。

 イギリスはこうやって、自由という体制を他国に強制していく。もし相手がノーと言ったらすぐ軍事行動をとる。戦争ふっかける。そして植民地にして支配下に置く。ここらへんは教科書にはあまり書かれてないけど、やったことは非常に暴力的です。
 暴力が良いと言っているわけではないですよ。逆ですよ。歴史なんてこんなもんだ、とタカをくくっているわけでもないです。ただこういう歴史があるということを事実として言っているだけです。なぜなら歴史は繰り返す危険性があります。人間の一面には悪がある。人間は神様でも何でもないということがよく分かります。だから、成るように成るではどうにもならないのです。


 インドはすでに植民地化が始まっており、マラータ戦争やシク戦争を仕掛けて、支配領域を広げていきます。1817年には、第三次マラータ戦争が起こり、イギリスはインド全域を支配します。ウィーン会議後、イギリスはそれ以前からの海外侵略を一段と強化します。

 1824年
、イギリスはマラッカを獲得する。さらにそのインドシナ半島からマレーシア・・・ひょろ長い半島です・・・その先端にある貿易の最重要拠点、シンガポールを獲得する。早い話が奪うんです。ここもイギリス植民地になる。

 インドの東のビルマ・・・今のミャンマーです・・・そこにも戦争をふっかける。1824年、シンガポール獲得と同じ年です。当時はビルマと言っていたからビルマ併合です。1824年から軍隊を派遣している。

 今度はアフガニスタンに行きます。アフガニスタンの場所、インドの西隣です。1838年アフガン戦争を起こして、ここを保護国化する。保護国というのは、植民地の一歩手前ですが、実質的には植民地と同じです。こういうのは強者の言い方です。保護されてよかったなんて思わないでください。

 そして次には中国の広州に行く。広州は香港の隣です。そことの貿易を民間にやらせるんです。これがジャーディン・マセソン商会といって、1832年に設立される。何を売る会社か。アヘンです。麻薬です。
 翌年の1833年にはそれまで貿易の利を独占していたイギリス東インド会社の中国貿易独占権が廃止されます。これを見込んで多くのイギリス商社が対中国貿易に乗り出します。その中心がジャーディン・マセソン商会です。
 社長のウィリアム・ジャーディンは、1840年のアヘン戦争の時、盛んにイギリス政府にロビー活動を行い、外相のパーマストン・・・彼はのち首相になりますが・・・に対して、軍隊を派遣するよう手紙を出しています。利益のためなら戦争をも引き起こす、そういう会社です。この会社の後ろには、イギリスの大金融資本ロスチャイルド家がついています。

 このジャーディン・マセソン商会は幕末の日本にも触手を伸ばします。麻薬取引で儲けて、その約20年後の1859年に、そこの社員のトーマス・グラバーが長崎にやって来て、武器を売りつけます。あのグラバー邸のグラバーです。中国にはアヘン、日本には武器を売りつけます。

 1836年アメリカ第二銀行が廃止される。前にちょっと言いましたが、イギリス資本がアメリカに入っている。アメリカはそれを嫌った。だから廃止した。するとイギリス資本が一気にアメリカから引き上げられた。アメリカからお金がなくなった。

※ 1836年、アメリカ第2銀行が廃止されると、イギリスはアメリカへの各種貸し出しを即刻停止した。ロスチャイルドが掌握していたヨーロッパの主要銀行が、アメリカに対する貸し渋りを始めた。(宋鴻兵)

 そうすると翌年の1837年、アメリカは一気に恐慌になる。これが初の恐慌です。景気がガタッと落ちる。イギリスがアメリカの景気操作をやっているんです。恐慌はこうやって起こっていく。恐慌は急にガクッと景気が落ちることです。お金の動きだけでこういうことが起こる。物の動きとは別に起こせます。物をちゃんとつくって買う人がいても、お金の操作だけで景気は落とせます。今起こっていることとも似ています。

※ 1837年、フランクフルト・ロスチャイルド商会の代理人オーガスト・ベルモントがアメリカに派遣された。ベルモントは暴落した証券市場で債券や株式を大量に買い集めた。また破産寸前の現地銀行の多くに巨額資金を投入し生き返らせた。(宋鴻兵)

※ アメリカ第2銀行が廃止されたあと、ベルモントは中央銀行の役割を果たし、アメリカの銀行業を救った。彼を後ろで支えたロスチャイルドは、「遠隔操作の連邦準備銀行」であった。(宋鴻兵)


 ジャーディン・マセソン商会は何をするか、さっき言ったように、1840年にアヘンを買わないといった中国にアヘン戦争をふっかけてまず香港を取る。そして中国に対してアヘンを売りつける。

 イギリスは独特な金融体制を持っています。「政治経済」でしか言えないようなことです。歴史の範囲超えるかなと思うけども、1844年に紙幣を正式のお金にします。正式にイギリス政府が、紙幣を国のお金だとお墨付きを与えた。つまりイングランド銀行券が正式な通貨になる。イギリスは中央銀行をもっていて、これをイングランド銀行といいます。イングランド銀行券とは、日本でいえば1万円札です。1万円札の正式な名前は日本銀行券です。それといっしょです。日本国紙幣ではないですよ。これをのちの明治政府は真似していきます。
 同年の1844年には・・・意外に思うかもしれんけど・・・イギリスで株式会社の設立が許可される。あたり前みたいだけど、株式会社をつくって良いとなる。これは100年間禁止されていた。なぜだか覚えていますか。
 約100年前の1720年に南海泡沫事件というバブルが起こりました。南海会社の株が急速に10倍に上がったり、10分の1に下がったりして、株式会社というのは危険だとみんなが思った。こういうことが100年前にあって株式会社は禁止されたんだけれども、この1844年から株式会社がOKになる。今では会社といえば株式会社ですが、もともとは非常に危険なものです。
 ではなぜ株式会社が広まったのか。会社を作るためのお金を集めるのに非常に便利だからです。株を発行してその株を買ってと頼めば、見知らぬ人からでもお金を借りれる。これが株式です。しかも会社が借金して倒産した場合、株主はその借金返済の義務から逃れられる。つまり借金を返さなくていい。

 それから1848年というのも要注意です。銀行制度についてです。銀行というのは人のふんどしで相撲を取ってます。
 私が銀行に預けた100万円は銀行にありはしない。銀行は他人に貸してる。私が本をA君に貸して、それをA君が私に黙ってB君に貸したら、私は腹を立てますよね。これが良いのか悪いのかというのは、ずっと論争があった。それを政府がいいよ、と言った。借りた以上は、借りた人が勝手にしていい。
 エッそんな、と思いませんか。これが法的に決着ついた。だから今の銀行は全部そうしている。私は今でも、それでいいのかなと思う。私がA君に貸したものを、A君が勝手にB君に貸して貸し賃を取ったら、私は腹を立てるけどな。でも今は法的にそうなっています。こんな制度がイギリスから発生します。だからめったに人にものを貸すもんじゃない。貸したら最後、それを又貸しされても文句は言えなくなっています。日本ではそういう人はめったにいないですけどね。でも銀行は100年以上前からそういうことを当たり前にやっています。
 こういうのを難しくいうと、銀行の部分準備制度が認められた、ということになります。支払いのための部分的なお金さえ用意していれば、銀行はあとのお金をどうしたってかまわないということです。
 ということは、今まで箪笥の中に眠っていたお金を一手に集めて、そのお金を貸す権利を手に入れたということです。お金が欲しい人はいっぱいいます。お金を貸す力を持っている人は、巨大な力を手に入れます。これが金融資本です。

※ 1848年、マルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を行う。マルクスはドイツ系のユダヤ人です。共産党員の大半はユダヤ人が占めていた。(マリンズ)

※ 1849年、ビスマルクがロスチャイルドの支援を得て、第2プロシア議会の議員となる。(コールマン)

 それから1856年にはアロー戦争が起こります。2回目の中国との戦争です。第2次アヘン戦争ともいう。これによってアヘン取引は拡大します。中国人は麻薬中毒ばっかりになっていく。
 さらに連続してその翌年の1857年にはインド大反乱が起こる。これを鎮圧して、インドを正式に植民地にする。

 一気に50年いきましたけど、フランス革命中からその後の約30年間で、こういうイギリスの動きがあるということです。



【東南アジアの植民地化】 

 では個別に行きます。
 まずアジア方面でのイギリスの動きです。さっきも言ったように、1824年にイギリスはインドの東のビルマを占領していく。これがビルマ戦争です。これでビルマは英領インドとなる。英領とか、仏領とかいう言い方をします。英はイギリスです。

 そしてその2年後の1826年には海峡植民地をつくる。アジアで最も重要な海峡といえば、シンガポールのすぐ横のマラッカ海峡です。つまりここでシンガポールはイギリスの手に落ちた。そしてイギリスの貿易拠点として栄える。これをやったのがイギリスから役人として派遣されたラッフルズです。

 それからアジアで唯一の独立を保った国はタイです。イギリスとフランスに挟まれて、最後に一つだけ残った国、他はすべて植民地になって、最後の一つに手を出したらイギリスとフランスの喧嘩になるから取らなかっただけです。こういう事情があってタイは東南アジア唯一の独立国となる。他はほとんどが植民地にされた。植民地にされたらどうなるか。金持ちのヨーロッパ人が乗り込んできて、土地を買い占めて、これをつくれ、あれをつくれ、ゴムの木をつくれという。イヤそれでは食い物がなくなる、知るかそんなこと、で終わりです。
 こういうのをプランテーション農業という。バナナならバナナばっかりつくらせる。バナナは食い物だからまだいいとして、やはり世の中で何が一番大事か一つ選べと言われたら、私はやはり食い物と思う。これがなければ死ぬからね。。世の中で何もない時に一つだけと言われたら、やはり食い物だと思う。ゴムは食えない。しかしヨーロッパ人にとっては高く売れるんです。しかも単純に1品種だけつくらせる。こういうのをモノカルチャー経済という。

 農民は非常に貧しい。しかしイギリス人は儲かるからもっとやりたい。だから労働者は足らないんです。インドから貧しい人がやってくる。中国からも国を逃れてやってくる。そういう人たちをクーリーという。いま中国人は、東南アジアの経済を握ってますけど、彼らのご先祖は非常に苦労した人々です。
 日本の南米の日系人もそうですよ。今ブラジルに日系人がいる。日系3世、4世の世代だから。私が3世の世代ぐらい、君たちは4世ぐらい。曾爺ちゃんが明治時代に、家族連れて移住した。同じようなことをして、だんだんとその国でのし上がっていった人々です。

▼19世紀の東南アジア


【オランダ領東インド】 

 今度はオランダです。植民地の図を見てください。まずイギリスの植民地、インドもイギリスです。イギリスが取ったところは、ミャンマー、マレーシア、シンガポールです。
 ではフランスはというと、こっちです。今のベトナムがフランスの植民地です。だから東西からタイは囲まれている。いっちょ残しで、取らないです。喧嘩になるから。

 あとインドネシア。インドネシアは全部オランダ領です。
 日本は太平洋戦争時に、アジアの共栄を掲げて、ここからヨーロッパ人を追い出し、3年間だけ成功した。
 そのオランダは本国は小さい国だから、植民地のほうが圧倒的に大きい。数十倍ある。拠点となるのはジャワ島です。ここに首都がある。ジャカルタがあるところです。ここを拠点にして、1820年代からじわじわと侵略していくんです。ジャワ島中心だったから、この侵略戦争をジャワ戦争という。1825年です。
 周りの島々まで占領していく。しかし現地の人も黙ってはいない。島民は抵抗します。しかし殺され鎮圧される。そしてさっき言ったように、ゴムの木だけつくれと、強制栽培させる。これを強制栽培制度という。その結果、ゴムとかコーヒーとかばかりで食い物がないから農民は餓死する。それでもおかまいなしです。オレたちの知ったことかと。




【中国】 

 では中国に行きます。侵略のメインはイギリスです。
 1800年代の中国はまだです。ここは日本と同じで基本は鎖国です。唯一貿易を許可したのは広州だけです。香港はその近くにある。そこには政府系の商人がいる。貿易できるのは、許可をもらった特権商人だけという体制だった。これは日本もいっしょです。多くの東南アジアはこれです。自由貿易なんかやるものじゃない。国内経済が破壊されるだけだ。これは保護貿易の考え方です。これには一理あるんです。
 しかしそこにイギリスは自由貿易を強制してきた。自由に貿易させないか。貿易制限を撤廃しろという。それでフランス革命の最中から、イギリス人のマカートニーとか、アマーストという人を交渉に差し向けるんだけれども、中国は中国で、うちはこういうスタイルでやっている、とちゃんと断る。これが本来の国家というものです。一番大事なことは、自由貿易にしろ、保護貿易にしろ、それをどちらにするかは、それぞれの国家が決めることです。
 中国の商品を欲しかったのはイギリス人です。うわっおいしい、お茶です。イギリスはこれが欲しかった。ではイギリスの製品はというと、中国人はいらないという。綿製品は。中国人は持っている。生糸も持っている。2000年前から持っている、と言う。
 ということは、イギリスは売るものがないから、イギリスは輸入超過で貿易赤字です。ということはお金が流出する。イギリスはお金が惜しいんです。流出させたくないんですよ。この時には銀です。アジアは銀です。
 前にも言ったように、イギリス人が買ったお茶は中国人にとっては、下級のお茶だった。それをおいしいおいしいとイギリス人は飲んで、砂糖入れたらもっとおいしい、これが紅茶です。これはイギリス人の飲み物です。これはお茶が悪いからです。
 この砂糖はアメリカ大陸でつくる。黒人奴隷によって。これでイギリスの貿易商人は儲けている。お茶と砂糖で。ただ対中国貿易は赤字です。イギリスから銀が流出する。この銀がもったいない。
 だから・・・インドが植民地です・・・そこに何をつくらせるか。ここでアヘン、つまり麻薬を作らせる。麻薬取引というとなんか三流のヤクザドラマみたいですけど、実は南米あたりに生産地がある。日本の新聞はちょこっとベタ記事ぐらいでしか報道しないけど、かなり危ない麻薬代金の流入は今でもある。
 イギリスは、銀の代わりに、そのインドのアヘンを売ればいいじゃないかと言う。その会社がジャーディン・マセソン商会です。アヘンを密売する会社です。
 この結果、中国は今まで貿易黒字だったのに、アヘン輸入が急増して、アヘン中毒者ばかりになって、アヘンだ、アヘンだとなる。アヘンは人間の理性を奪うから、吸い出したらやめられない。そしたらアヘンは高価になって吊り上がり、逆にアヘンの輸入で輸入超過になった中国の清から銀が流出するようになる。中国経済は大混乱です。
 これがアジア三角貿易の実体です。イギリスは中国からお茶を輸入する。その代わりにイギリスはインドにつくらせたアヘンつまり麻薬を中国に輸出する。これでイギリスが貿易黒字になる。まともな貿易じゃないです。

※3 イギリスの第3段階の収奪として、奴隷三角貿易の衰退とともに、19世紀にイギリスはインドのアヘンと中国のお茶を結びつける三角貿易を始めます。イギリスで喫茶の習慣が拡がり、イギリスは中国のお茶を求め、銀で支払いをしていました。そのため、イギリスは輸入超過状態となり、銀の流出が止まりませんでした。そこでイギリスは銀の代わりにインド産のアヘンを中国に輸出し、茶を中国から得ました。
 ジャーディン・マセソン商会などの貿易商がアヘンの中国への輸出を担当し、大きな利益を上げて、逆に中国側の銀が流出しはじめました。ジャーディン・マセソン商会は1832年に、マカオで設立されて、イギリス東インド会社の別働隊のような役割を担った民間商社で、アヘン貿易を取り仕切ります。
 アヘン戦争の開戦に際し、ジャーディン・マセソン商会は議員に対するロビー活動で多額のカネをばらまき、反対派議員を寝返らせます。  ジャーディン・マセソン商会は、アヘン戦争でイギリスが占領した香港に本店を移し、さらに上海にも支店を開き、中国市場に進出します。
 ジャーディン・マセソン商会は、清朝政府に対して借款を行い、清崩壊後も鉄道の敷設権や営業権などを得て、莫大な利益を上げていきます。今日でも、ジャーディン・マセソン商会は国際的な複合企業です。
 アヘン戦争後、香港上海銀行が設立されます。香港上海銀行はジャーディン・マセソン商会をはじめ、サッスーン商会などのアヘン貿易商社の資金融通や、送金業務を請け負いました。香港上海銀行は香港で、アヘン戦争以降、今日まで続く通貨の発行もおこない、中国の金融を握ります。
 このようにイギリスの覇権は奴隷貿易の人身売買業者、アヘン貿易のドラッグ・ディーラーなどによって形成されたものであり、その犯罪的かつ反社会的な手法なくして、持続可能なものでなかったことは明白です。悪辣非道、弱肉強食、厚顔無恥、こうしたことこそが国際社会の現実であることを歴史は証明しています。(宇山卓栄 経済)



【アヘン戦争】 これが原因で、世に有名なアヘン戦争が起こる。1840年アヘン戦争です。中国はアヘンを輸入する。麻薬中毒患者も減らさないといけない。政府は、おまえ、アヘンの輸入をやめさせてこいと言って、役人を派遣する。これが林則徐です。
 アヘン貿易は実は密貿易です。政府は認めていない。密貿易だから当然密貿易品を没収する。ある教科書は中国が自由貿易を断ったみたいに書いてあるけれども、これは国家として正しいことです。密貿易品を見つけた国が、これは密貿易品だからと没収することは、これはどんな時でも正しいです。
 しかし、没収された、とイギリスは言いがかりをつけ、腹を立てる。それで戦争をふっかける。戦争まで持っていったら、イギリスはシメシメです。それでイギリスは勝つんです。清は負けた。するとどこまでもしゃぶられる。2年後に条約を結ばされる。それが1842年です。これが南京条約です。イギリスは、中国の鎖国体制がよくない、自由貿易だから一つの貿易港ではダメだ、5つ開きなさい、という。これは、そのあと日本にペリーが来たときの理屈と同じです。
 それに選ばれたのが、まず上海です。この時まではそんなに大きい都市ではない。そこから150年経って、今人口2000万人、東京の2倍、中国最大の都市です。
 それから、広州の近くにあった島、これを香港島というんですけど、これもらうよ、という。これでイギリスのものになる。やっと返還されたのはほんの20年前の1997年です。それまでイギリスものでした。そのあとは不平等条約です。日本にやったことといっしょです。日本も同じことをやられます。
 不平等条約とは、まず関税を自由にかけられない。つまり関税自主権がない。輸入品には輸入する国が自由に関税をかけるのが当然です。
 見解は割れるけど、アメリカのトランプさんは、いま非常に批判的に報道されているけど、トランプが言っているのは、そういう意味では理にかなっている。アメリカの国内産業を守るために、受け入れるアメリカが国の権限でもって関税をかけると言っている。これは正しいんです。
 それは今の自由貿易体制を基準にすれば、それに反するから賛否両論あるんだけれど、自由貿易を擁護するんだったら、保護貿易についても同等に説明してもらわないと正しく理解されない。トランプ発言が変に伝わるんじゃないか、と個人的には気がかりなんですけどね。自由貿易と保護貿易は、双方に利点と欠点があり、どちらが正しいというものではありません。そういう中でトランプは保護貿易を主張している。問題があるとすれば、その保護貿易が対等な保護貿易であるかどうかです。
 ただトランプの差別発言とか、移民のこととか、いろいろ悪いところはいっぱいあるけど、この貿易に関しては、きちっと報道していない。相変わらず自由貿易一辺倒です。

 二番目に、犯罪を犯したイギリス人は罪に問われない。これが領事裁判権または治外法権です。言い方が二つありますが、どちらも同じことです。これも誤解している人が多い。
 シンガポールは唾吐いただけで罰金10万円です。シンガポールに行った日本人が道に唾吐いて、タバコのポイ捨てして、罰金10万円取られる。これは取られて当然です。オレは日本人だから取られないとか、シンガポール人じゃないから関係ないなどというと、とんでもないです。そんなことしたら日本に来ている外国人は、犯罪しほうだいになる。何してもよくなる。

 それができるのは在日米軍ぐらいのものでしょう。沖縄で婦女暴行しても、パーンとアメリカに帰っていく。そんなことしたら国内は犯罪だらけです。現地で起こした犯罪は、現地の政府が国内ルールで対処する。これに国籍は関係ない。それが国際ルールです。
 しかし、領事裁判権とはこれができないことです。領事というのはイギリス人が、おまえ何したか、捕まる前に早く帰れと言って本国に返すから実質的には無罪です。そういうことは日本もやられます。押しつけられていく。


【太平天国】 こうやってイギリスによって清がかき乱されていく。そうすると、この国ダメなんじゃないか、中国人も腹を立てて、反乱を起こす。そして別の国を作ろうということになる。1851年に、太平天国という国ができるんです。
 最大領域はこれです。これは2回にわたってやるんだけれども、これが国の領域です。大きいです。中国の三分の一ぐらいを占めている。こういう国が13年間、1864年まで続きます。
これで終わります。ではまた。




「授業でいえない世界史」 34話 近代 イギリスの中国・インド侵略(19C前半)

2019-05-05 08:00:00 | 旧世界史11 18C後半~
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【太平天国】 アヘン戦争に行ってます。1840年、中国です。
 1856年から1860年まで4年間、第2次アヘン戦争ともいわれるアロー戦争が起こる。イギリスがアロー戦争を起こした時は、実は中国では天下を動かす大乱が発生しています。これが1851年から14年間続く、太平天国の乱です。この最中に・・・これを狙うかのごとく・・・イギリスは中国を攻撃する。
 これをアロー戦争というのだけれども、まず太平天国のことです。誰が起こしたか。洪秀全という人です。不満があるわけです。不満というのは、イギリスから攻められて、アヘンを売りつけられ、アヘン戦争でも勝てない、追い払らうことができない中国政府に対して、つまり清朝政府に対して不満がある。その不満の高まりが、こういう中国の国内に別の国を作ろうという運動にまで盛り上がっていく。その主導者が洪秀全です。きっかけになったのは彼が作った団体、これを上帝会という。これはイギリスから入ってきたばかりのキリスト教の影響が非常に強い団体なんです。それが中国の民間宗教と結合して、太平天国というのは一種の宗教団体なんです。これが国までつくる。

 1851年に「滅満興漢」を目指して蜂起する。満州の満、この清朝政府というのは、実は中国人じゃなかったんですね。300年前に朝鮮北方の満州というところから、中国に南下してきた異民族の国なんです。彼らを満州族という。これが中国人つまり漢民族を支配している。それを滅ぼそうという、滅満です。そして、中国人つまり漢民族の国を興そうという、興漢です。
 その漢民族の国が太平天国だということです。その中心領域が、中国の主要部の大半、半分ぐらい。この領域はかなり広い。日本よりも広い。首都をこの南京とする。北京はここです。北京、南京。最大都市は上海。有名な港は香港。首都は南京。南京を首都として、そこを占領する。そして天京と名づける。

 これに対して清朝政府は反撃する。地方の義勇軍も攻める。それからイギリスなどの外国人の軍隊もこれに加わるんです。反撃されて太平天国は、十何年の動乱の後に滅亡していく。これが1864年です。
 その14年のあいだに、次に言うアロー戦争でまた中国はイギリスからやられてるんです。中国の政府はこのとき、内部からの動乱によってもやられるし、外部からイギリスによってもやられる。もう踏んだり蹴ったりの状態になっていく。

 ではここで中国側の軍隊を率いて、太平天国を潰したのに功績のあった人、これが李鴻章です。ここで偉くなる。実はこの清朝政府がつぶれずに、この後も残って日本の明治政府と戦っていく。これが日清戦争です。その時に日本の内閣総理大臣伊藤博文と交渉していく人物がこの李鴻章です。日本史でも出てきます。
 それから外国人を指揮したゴードンというイギリス人、こういうイギリス人も加わっている。


【アロー戦争】 これと同時にイギリスがまた攻撃してくる。これがさっき言ったアロー戦争です。アロー号というのは船の名前です。1856年からです。太平天国の乱の最中です。そこを狙うかのように、イギリスがいちゃもんつけたんです。アロー号というのはイギリスの船です。ここに運んではいけないものを輸入していたから、中国政府がこれを差し止める。それに対してまたいちゃもんつける。理屈はメチャクチャですけれども、イギリスが勝ちます。
 なぜイギリスはこんなことをしたか。自由貿易をして輸出伸ばそうとした。そのために10年前にアヘン戦争をふっかけて中国に勝って、自由貿易をしようという了解まで取りつけたんですが、中国は豊かなんです。だからイギリスから輸入すべきもの、特に欲しいものはない。
 結局イギリスの輸出は伸びない。もっと本格的に売りつけてやろう。それがまたアヘンなんです。アヘン戦争でアヘンを売りつけようとしたけれど、買い方がまだ足りない。もっと買わせようというんです。アロー号事件で因縁をつけて、フランスを誘って、英仏軍つまりイギリスとフランス軍が出兵する。そして中国を攻める。攻められたら西洋は近代兵器だから、この時代の中国は軍事的に勝てない。清は敗北する。

 同時にこの1857年には、ヨーロッパでは世界初の恐慌が起こる。資本主義というのは景気がブレるんですね。ものが売れなくて困っている。売れるものは何でも売ってやれとますます売り込む。あたり構わず暴力的な貿易をする。

 そして戦争に勝ったら、また不平等条約を押し付けていく。これが1858年、中国の都市に天津という都市がある、そこで結ばれた天津条約です。
 中国はイギリス・フランスのいうとおり条約に印鑑を押す。何か買うときでも、ホイホイ印鑑押したらダメですよ。印鑑は強いです。ここで認めたのは、外国人は中国にいていい。北京に駐在していい。それから港も香港だけでなく、南京のほか10港も開港する。なんでも買わせられる。その中で最大のものがアヘンです。アヘンだって買うよね、アヘンですか、麻薬じゃないですか、文句あるか、ありません、と買わせられる。
 これではあんまりだということで、いったん清は、もう一回戦おうと再度決起する。そしたらまた負ける。軍事力の差です。そんなことでいいんですか、と聞いた生徒が昔いたけれども、良いも悪いも、戦争というのは暴力です。買ったものが支配するというルールだけが支配する。無理がとおれば道理が引っ込む、です。誰もこんな世界に戻りたくはない。でも歴史は繰り返すことがあるんです。

 翌年1859年には、中国に足がかりを得たイギリスが、今度は日本に進出しようとする。日本の貿易港は長崎です。おまえ長崎に行ってこい、といわれて日本に上陸したのが、トーマス・グラバーです。長崎のグラバー邸の主です。明治維新に大きな影響を与えた。この人が来日した。この人の正体は、このアヘンの売上代金を中国に送金する会社であるジャーディン・マセソン商会の社員です。だから武器も売っている。
 薩摩・長州に幕府を滅ぼせと、リボルバー式機関銃を7000挺も調達する。そういう動きをして幕府を倒していく。このお先棒を担いだのが土佐の浪人坂本龍馬です。戦後なぜか日本人は大の龍馬好きになった。これは司馬遼太郎の影響ですね。

 1860年には再度、不利な条約が結ばされる。北京条約です。何を認めさせられたか。九龍半島の南端、ここは香港の隣です。実は香港の領域が広がったんです。香港は島です。
 その香港にイギリスが作ったアヘンの売上代金を送るための会社、香港上海銀行ができた。名前は中国の銀行みたいですけど、これは今でもあるイギリス有数の巨大銀行です。れっきとしたイギリスの銀行です。これでイギリス本国にお金を送る。そのお金はアヘン代金です。こうやってますますイギリスが中国に接近した。

 もう一つ、ロシアも中国に接近している。今でも中国とロシアは国境を接してます。領域が重なって国境をちゃんと決めようと、国境問題が発生してくる。朝鮮北方のところで国境を決める。中国名は黒竜江、ロシア名はアムール川という。その川を国境にしよう。それが1858年のアイグン条約です。アイグンというのは中国の地名です。

 2年後には、さらに日本海側にロシアが進出してきて北京条約を1860年に結ぶ。そこで手に入れたのが沿海州です。これは日本海を挟んで、新潟の日本海の対岸です。そこにウラディボストークという都市をつくる。ここは今でも極東最大のロシアの軍港です。ここにロシアの軍港があることを、日本人はなかなか知らない。


【洋務運動】 その後、中国の清は、このままじゃいかん、このままではイギリスに勝てない、ということで、ヨーロッパ流も取り入れないといかんと考えるようになる。これが1860年代です。この運動を洋務運動といいます。しかしちょっとだけ取り入れただけなんです。日本の明治維新の場合は、180度変えていく。それに比べると、経済面だけです。政治体制は変えない。軍隊を一部西洋化して「中体西用」といって、体は中国のまま、技術面だけ取り入れて行こうとした。抜本的な改革には至らなかった。
 一旦ここでイギリスの侵略は止まって、1870年代は一時的な安定期にはいります。ただイギリスは甘い顔をしながら経済支配を強めようとする。中国は初めてイギリスから融資を受けます。中国はお金を借りる。イギリスは貸したがっています。しかしお金を借りて返せたらいいけれども、返せなかったら身ぐるみ剥がされる。それは国でも個人でもいっしょです。中国は初めて融資を受ける。それを返せなくなる。焦げつく。それを条件にイギリスはますます中国に進出していく。貸した銀行は、香港上海銀行、HSBCです。もう一つがジャーディン・マセソン商会という長崎のグラバーの親分の会社です。




【インド】
 イギリスは中国だけかというと、いろんなところに、食指を伸ばしてる。ほぼ同時にインドです。実はインドの方が早いんです。300年前からイギリスは東インド会社というのをつくって、インドに乗り出している。この話はすでにしたと思うけれども、インドには綿があった。いま我々が当たり前に着ているこういう綿、これはイギリスにはなかった。この着心地のよさに惚れる。この貿易取引をやっていく。

 100年さかのぼって、インドには帝国があった。ムガール帝国という。これが邪魔だった。ちょうどこの国が分裂して弱まっている。攻め時です。このムガール帝国と戦うのが1757年です。インドの場所の名前でプラッシーの戦いという。

 インドを欲しがったのはイギリスばかりではない。この時代、100年前は、イギリスとフランスもインドが欲しくて戦っている。
 この構図は、アメリカでもいっしょだった。独立する前のアメリカでは、やはりイギリスとフランスが戦ってました。1754年から何が起こっていたか。フレンチ=インディアン戦争というのが起こっていた。これとほぼ同時です。3年こっちが早いだけです。これがアメリカで起こっていたことです。
 アメリカではフレンチ=インディアン戦争、インドではプラッシーの戦い、ともに勝ったのはイギリスです。負けたのはどっちもフランスです。

 フランスはこの後、インドから撤退する。アメリカからも撤退する。こうやってアメリカでもインドでも勝ったイギリスが、このあともインドでチョコチョコ戦争をふっかけながら領土を広げていく。
 このプラッシーの戦いで、イギリスの植民地となったところがベンガル地方です。このあと全土に向けて、チョコチョコ戦争を仕掛けていく。そして植民地を広げていきます。こうやって侵略されていくのがインドです。

 そんななかでインドは、イギリスによって土地を奪われて、農村社会が強制的に変えられていきます。インド人も米作ったり、麦作ったり、いろいろしている。しかしイギリスが欲しいのは、米とか麦ではなくて、とにかく綿花なんです。これが高く売れるからです。インド人のことは考えていません。あくまで自分たちイギリス人のことだけを考えている。これだけつくれと。こういう栽培方法を、モノカルチャー栽培という。一つだけ作れ、オレが全部買い取るから。それを高く売って儲けようということです。

 20~30年経つと、イギリスはこのインド産綿花を原料として使って、製品である綿布国内生産していく。これが安くて飛ぶように売れていく。それであっという間にイギリスとインドの綿布生産は逆転していきます。もともとは綿布はインドからヨーロッパに輸出されていた。それがガタッと落ちいてる。それを図に赤でラインを引いてください。1810年を境に、イギリスからアジアに輸出された綿布がグッと伸びる。インドと逆転していく。
 
▼インド綿布とイギリス綿布

 こういうふうに綿布は、もともとインド産だった。それがイギリス産の綿製品に追い抜かれて逆転されていく。これがイギリスの産業革命なんです。戦って、土地を奪って、原料の綿花を作らせて、それを加工して高く売るのがイギリスなんです。


▼19世紀前半の世界


【シパーヒーの反乱】 19世紀後半に話を戻すと、中国でアロー号戦争が起こったのが1856年です。イギリスが、中国に難癖つけてアヘンを売り込んだ。
 インドでもその翌年の1857年シパーヒーの乱が起こります。別名はインド大反乱と言います。植民化されようとしているインド人が腹を立てた。おまえ、いいかげんしろよ、と大反乱が起こる。イギリスに対してです。その中心がシパーヒーです。昔セポイといっていた。発音の違いです。イギリス政府に雇われたインド人の兵隊のことです。金で雇われていたから、仕方なくハイハイと言っていたが、あんまりイギリス人がむごいことするから、雇われた兵隊も腹を立てた。雇われた兵隊でも腹を立てたんだからら、まわりのインド人の農民も当然反乱を起こした。それが1857年です。
 同時に1857年アメリカでは世界恐慌が起こった。景気がガクンと落ちた時期です。ついでに言うと、幕末の日本が貿易を始めるのは、この翌年の1858年です。

 しかしこれ戦ってみると、やはりイギリス軍が強い。イギリス軍がまた勝つんです。それでイギリス軍が勝つと、反乱鎮圧だけじゃなくて、もっと勢力を拡大する。もともとインドには王がいる。帝国がある。この帝国自体が邪魔なんです。つぶしてしまう。1858年、ムガール帝国滅亡です。これで本格的にイギリス政府がインドを支配するようになる。
 19世紀半ばは日本にペリーが来た頃です。貿易方法も今までは東インド会社に任せていたけれども、国家が自由貿易に乗りだす。貿易を独占していた東インド会社はここで解散し、イギリス人で貿易したい人間は誰でも貿易していいぞ、何でも売っていいぞ、という自由貿易をインドに押し付ける。
 政治経済でも言ったけど、自由貿易というのは強い者が好むものです。イギリスは強いんです。何でも売りつける。国は潰した。ではインドはどうやって支配するか。イギリスが直接支配する。直接統治という。どういうことか。インド人の王はいなくなった。イギリス人の女王・・・この時はヴィクトリア女王です・・・この人がおまえたちの女王だ。拝めという。
 イギリスの王様がインドの王様になった。これでインドはイギリスのものになってしまう。言葉も奪われてしまう。英語でしゃべれ。だからインド人は今も英語をしゃべれる。もともと押しつけられた言葉です。これでイギリスのインド支配が、このあと100年、第二次世界大戦後まで続いていきます。
 この間、中国では太平天国の乱が続いています。終結するのは1864年です。


【反乱後のインド】 これでインドという国はつぶれたけれども、その中の藩王国、日本でいう県、これは残った。日本の明治維新と逆です。日本は明治維新で藩がつぶれる代わりに、国が生き残ったんです。
 インドは逆です。国がつぶれて、地方のローカルな藩だけが残った。こういうことはイギリスはお手のものです。強い人間はいなくなって、小粒の人間ばっかりしかいないから、命令したら何でもできる。イギリスにとっては、敵は分裂させて小さくなったほうがいいんです。敵は分裂させたほうがいいんです。「分割して統治せよ」です。ローマ帝国以来の手法ですね。
 インドには宗教が二つあります。メインはヒンドゥー教ですが、もう一つはイスラーム教です。この分裂を利用します。これで分断させます。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が憎しみ会うように。

 もう一つはインドにはカーストがあった。バラモン、クシャトリア、バイシャ、シュードラ、これも分裂させるには好条件です。しめしめです。このカーストをさらに徹底して分断させる。敵は分断させる。宗教の分断に加え、階級の分断です。

 ムガール帝国は、少数派のイスラム教徒が多数派のヒンドゥー教徒を支配していた。イギリスは、この国を支配するときに、どちら側を応援しようとするか。敵を潰したい場合は、その敵に支配されている人と手を組む。これが常套手段です。相手を弱らせるためには、相手の中の弱い方と手を組む。だからヒンドゥー教徒を優遇する。イスラーム教徒はイヤだねー、オレも嫌いだ、よしいっしょに潰そう。それでヒンドゥー教徒とイスラーム教徒との対立が、ここで本格化する。
 それまでインドでは宗教間の対立はそれほど酷くなかった。これはのち、インドが植民地支配から独立するときに、イスラーム教徒は、ヒンドゥー教徒とはいっしょにやれない、オレたちは別の国つくるといって別の国をつくった。これが今のパキスタンです。イギリスがこれを後押しします。インドで反英運動が高まる中で、イギリスにとって敵であるのはインド。その敵のパキスタンは味方です。
 今でも、インドとパキスタンは仲が悪い。どこまで仲が悪いか。お互いを持っている。核を持ちながら国境を接している。怖いところです。何で隣同士でこうなるか。イギリスが植民地支配のためにそれを煽ったからです。
 そらにカーストの対立も煽る。カーストというのは、昔からありましたけど、今ほどには身分の差別が厳しくなかったんです。これが本当に4身分で、結婚もできない、同じ学校にも通えないように、厳しい対立になったのはイギリス植民地の100年間です。ここで決定的に階級対立が深まった。




【イギリスのヴィクトリア朝時代】
 この時代、イギリスは全盛時代です。王様は約60年間、このヴィクトリア女王です。60年間の女王というと、日本でも昭和が63年まであった。これが最長です。ビクトリア女王は、10代で即位して女王になって80歳ぐらいまで女王です。ここで起こっているアヘン戦争でも、インド大反乱でも、このヴィクトリア女王の時代です。
 いろんなことがイギリスでもおこっています。イギリスは議会を持つ民主国家として国内を治めていますけど、選挙権はまだ労働者に行き渡っていません。オレたちにも選挙権をくれと労働者たちが言いはじめたのが1838年です。この運動をチャーチスト運動といいます。貧乏人には選挙させないじゃなくて、貧乏人であろうが金持ちであろうが同じ人間じゃないか、そんなことは今では当たり前のことなんですけど、当時は当たり前ではなかった。

 その6年後の1844年になると・・・株式会社は危険な組織だということで約100年間禁止されていた・・・それが解禁された。株式会社が設立OKとなった。
 さっき言ったように1857年は、世界初の恐慌が起こった。その震源地は昔もアメリカです。アメリカが植民地から独立したら、どんどんイギリスを追いかけていって経済成長する。その代わり、経済成長が早い分もろい経済です。危ない成長です。
 イギリスは1867年にも2回目の選挙法改正があって、選挙権が貧しい都市労働者にも拡大されていった。


【第二次産業革命】 1867年というと、1868年が日本の明治維新ですからね。ではその1860年代は、イギリス以外に産業革命が全く起こらなかったのか。100年前からイギリスは産業革命、機械化が進んでいる。それを急速に追い上げてくるのが、アメリカです。イギリスから独立したアメリカです。その次の3番手がドイツです。ちょっと遅れて日本です。日本は早いほうです。ただアメリカ・イギリスから比べると遅れてる。1861年にアメリカは・・・あとでいうけれども・・・南北戦争が起こって、一時国がまっ二つに割れます。

 1860年代になると、今まで軽工業中心に発達したのが、重化学工業に変わってくる。軽工業から重工業っていうのは世界中のルールですね。その次は第三次産業、つまり情報とか、通信とか、テレビ・ラジオ・トランジスタ、今はパソコン・スマホです。そういう精密機器に変わっていきます。

 この重工業への変化とは何か。鉄、武器です。これを第二次産業革命という。しかしこれにイギリスは出遅れ始める。成功するのはアメリカです。それとドイツです。イギリスの焦りはここにある。
 アメリカではこのころ大財閥、ロックフェラーが出てくる。これは今でも強い企業です。世界最大の石油会社エクソン・モービルは、実はこのロックフェラーです。今では財閥を形成しています。最初は石油です、オイルです。ロックフェラーはこれをまず握る。石油は今でも最大のエネルギー源です。

 これで終わります。ではまた。



「授業でいえない世界史」 35話 近代 イギリス、フランス、イタリア(19C後半)

2019-05-05 07:00:00 | 旧世界史11 18C後半~
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では、19世紀後半のイギリスとフランスです。

【イギリス】
【第二次産業革命】 第一次産業革命は1700年代の後半です。それから100年経って1860年代になると、産業革命が別のバージョンに入っていく。これを第二次産業革命といいます。ここまで言ったと思います。

 これにナンバーワン国家イギリスが手遅れはじめるんです。イギリスは焦るんです。結論いうと、焦って何を狙うか。これが植民地なんです。焦ったぶん、植民地を早く取ろうとなっていく。

※ イギリスは、1880年、工業生産のシェアでアメリカに1位の座を奪われ、20世紀に入るとドイツにも抜かれてきます。(宇山卓栄 経済)

 その第二次産業革命の中身というのは重化学工業です。それまでは綿だった。たかが綿、されど綿です。 もう一つ言うと、お茶、中国茶です。ぼろ茶だったから、それに何を入れようとするか。そこが日本人にない発想です。お茶に砂糖入れて飲もうとする。お茶に砂糖を入れて、これが紅茶になる。その砂糖はアメリカの黒人奴隷に、サトウキビ栽培をさせている。そういうのが第一次産業革命だった。
 それが第二次産業革命になると、武器・弾薬です。まずは鉄です。造船、鉄道、機関車、大砲、そういうものが第二次産業革命です。

  ここで急速に成長していくのがアメリカです。1870年代からはイギリスの植民地であったアメリカが急速に伸びていって、19世紀の終わりにはイギリスを追い越すまでになる。その中心企業がロックフェラーです。世界最大の石油会社になる。石油、ガソリンなど、ロックフェラーは石油です。歴史的にはスタンダード石油というのを作るんですが、あんまり巨大独占企業になったため分割させられて、今はエクソン・モービルというこれも世界最大の石油会社になっている。

※ 1875年、ロスチャイルド財閥は合衆国での最重要戦略パートナーであるクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフをクリーブランドに派遣し、ロックフェラーの拡張計画を指導した。当時、ロスチャイルド財閥はモルガン銀行とクーン・ローブ商会を通じて、合衆国鉄道の95%を傘下に収めていたため、シフはサウス・インプルーブメント社というダミー会社を使い、非常に低価格でスタンダードオイル社の輸送を請け負った。・・・ロックフェラーは「石油王」となった。(宋鴻兵)

 その他には、金融業ではモルガン財閥。鉄はカーネギー、これはUSスティールといって今でもアメリカにある製鉄会社です。トランプ大統領はこれが大好きです。トランプが保護しようとしているのは、こういうアメリカの産業です。
 また鉄道事業はハリマン。まだ飛行機は飛んでません。長距離移動で早いのはまず鉄道です。自動車はあと20~30年経たないと出てこない。

 1873年になるとまた、アメリカで世界恐慌が起こる。・・・実はこの間にアメリカで南北戦争が起こってますが・・・この恐慌の原因は物がつくれなくなるというよりも、通貨制度がけっこう影響するんです。
 通貨制度をちょっといじって、このくらいはよかろうと思ったのが失敗すると経済全体がガクッと落ちる。銀貨をやめようということで・・・ここらへんは教科書外ですけど・・・これで恐慌が始まった。

※ 1873年、アメリカは「1873年の悪法」と呼ばれる「貨幣鋳造法」を成立させた。この法案は銀貨を流通市場から排除し、金貨を唯一の流通貨幣にするものであり、すでに陥っていた貨幣の流通不足にさらに追い打ちをかけた。
年々深鉱され増えていく銀鉱に比べ、金鉱はその探査も金の生産量も少なかったため、彼ら国際銀行は金鉱の採掘を完全に支配することができた。
1871年から、ドイツ、イギリス、オランダ、オーストリア、スカンジナビアと相次いで銀貨を廃止させた。各国の貨幣流通量は大幅に減少し、後に20年も続くヨーロッパ大不況(1873年~96年)へとのめり込んでいった。
アメリカでは「通貨緊縮法」(66年)と「貨幣鋳造法」(73年)が経済を衰退させた。(宋鴻兵)

※ 1870年代、世界の通貨が金本位制に変わる。ドイツは1871年、フランスは1878年、イタリアは1881年、ロシアは1897年。各国の通貨を自由に兌換する必要があり、各国に金本位制を採用させる必要があった。ロスチャイルド家が金市場を独占していた。(宋鴻兵)

※ 1873年から1877年にかけて、ロスチャイルド・ロンドン銀行はウォールストリートの銀行家たちとともに、2億6700ドルのアメリカ国債を引き受けていた。(宋鴻兵)


 1873年に2度目の恐慌・・・最大の恐慌は約50年後の1929年の世界恐慌ですが・・こういうふうに恐慌は何回も起こる。20年に一度ぐらい。これは今もそうです。最近起こったのは2008年のリーマン・ショックだった。アメリカ第3位の証券会社が倒産した。倒産したら潰れて終わりかというと、そのぶん借金を全部ヨーロッパに転売していたんです。それでヨーロッパが苦しみ世界全体が不況になった。 


  この時代は工業生産力が伸びた割には、その富を一部の金持ちたちが一人占めしてしまって、貧乏人たちにお金は行き渡らないから、購買力がなくて売れないんです。ものを作ればいいという時代は終わったんです。作ったら売らないといけないけど、しかし売れない。買う人がいないんですよ。
 そのようにして物が余ると、これは今の社会といっしょで、物が余ると、夕方6時過ぎのスーパーの食料品売り場は、300円の弁当を270円で売りますとなる。値段が下がるんです。物価が下落するんです。

※ イギリスは19世紀後半以降、慢性的なデフレ、低金利化、出生率の低下の三重苦に苦しめられます。当時のイギリスにおいて、低金利の貯蓄や国内投資を避け、高金利の新興国・植民地への対外投資へと向かう動きが活発でした。・・・特にイギリスは植民地領で積極的に起債をして、本国の投資マネーを植民地に呼び込みました。カナダ債とインド債が人気でした。・・・イギリスは自国の産業輸出によって稼ぐ国ではなく、対外資本投資で稼ぐ金利生活者の国家となります。(宇山卓栄 経済)

 それでも売れないと、強制的にでも売る市場を求めていく。これが植民地です。植民地獲得は早い者勝ちです。狙われたのは一番弱いアフリカです。ほとんど無法地帯となり、力のみで奪われていく。早い者勝ちです。だから植民地を巡る戦いになっていく。
 こういうことが1890年代から本格化します。これが何につながるか。第一次世界大戦です。そこで何百万人と死ぬ。果てしない殺し合いが始まります。
 こういう時代を帝国主義という。自分の国の外に領地を広げ、他の民族を支配していく。これをやったのがイギリスです。中心はイギリスです。こういうのを帝国という。そんな悪いことしたらダメじゃないかとイギリス国民は思ったか。逆にイギリス人は・・・これで景気が良くなるから・・・喜んだ。イギリス人は、帝国主義、いいんじゃない、という。売れて儲かるならそれがいいわけです。 


  そのイギリスでは、1870年代に二大政党制がほぼ完成する。1つは今でもある保守党です。もう一つは今は弱小政党になっている自由党です。ちなみに今は自由党の代わりに労働党です。これはまた別の政党です。100年前は保守党と自由党です。この中心人物が、保守党ディズレーリです。この人はユダヤ人です。後ろについていてるのはユダヤ人の大金持ち、ロスチャイルド家です。困った時にはここに、お金をちょっと貸してくださいという。教科書にもありますけど、これで買ったったのがエジプトのスエズ運河です。
 これに対して自由党の中心人物はグラッドストーンといいます。このころまでは、軍事面でも経済面でもイギリスが断トツ強いです。だから同盟を組む必要がない。イギリス人はそれを誇らしく思っている。オレは1人でも何でもできるんだ。これを「光栄ある孤立」といっている。
 ただこの先30年のことをいうと、これが保てなくなってイギリスも同盟を組み出す。同盟を組むのはうまい。同盟を組んでドイツを孤立させ戦争する。これが第一次世界大戦です。

※ 1874年、中国清朝政府が初めて海外から融資を受ける。香港上海銀行とジャーディン・マセソン商会を頼る。
極東の利益はイギリスの独占状態にあり、それに対抗していたのがフランスとロシアであった。(宋鴻兵)



【植民地合戦】 ではどのような植民地をつくっていくか。まずインドとエジプトですが、その他にもいっぱい植民地を持っています。まず1882年エジプトを占領する。エジプトという国は、それまで独立国ではなくて、オスマン帝国の領土だった。イギリスは、そのオスマン帝国からエジプトを実質的に奪い、植民地化してきます。

※ イギリスは、18世紀にインドを植民地化し、19世紀にはアフリカと東南アジアをも植民地化し、アヘン戦争により中国を屈服させて半植民地化します。(宇山卓栄 経済)

 6年後、1888年の東南アジアのボルネオ島というのは、今のインドネシアです。そこで何が出たか。石油が出るんです。そこを即取ります。その地点いまは、インドネシアと切り離された小さな国になっている。小さいですががっぽりお金持ちです。ボルネオ島にある今のブルネイです。ここを植民地化する。

 東南アジアの続きで、今のマレーシアです。まず植民地として1895年、英領にする。これはイギリス領ということです。英領マレーになる。

 それから100年後に出てくるけれども、イラクの先端のペルシャ湾のところに、クウェートという小さな国があります。ここにも石油が出た。1899年です。イギリスは即取ります。ここをイラクから切り離して保護国化してクウェートにする。 保護国化というのは外交権を奪って、ほぼ植民地にすることです。植民地のちょっと軽い植民地、こういうのを保護国という。こういうふうに巨大資本と政治が結託しているような状態になる。
 
▼議会を支配する独占資本


【議会を支配する独占資本の図】 ここにあるのが、国会の様子です。うしろの腹のふくれた金持ちたちはオプションです。漫画家が想像して描いている。漫画家というのはいいですね。絵が上手だと。これ分からない人は分からない。分かる人はハハーとわかる。漫画家というのは、有名な政治家の似顔絵書いて、名前はないんです。名前書くと名誉毀損になるから。
 例えばトランプの似顔絵を描いて何か悪いことしてるところを書いても、似顔絵を見ただけでは、トランプだとは書いてないから、言い逃れできる。 ここに名前を書くと裁判になったりするんです。だから似顔絵というのは便利なんです。そういう意味ですよ。なぜこういうのを似顔絵で描くかというのは。名前を書いてしまうと名誉毀損で負ける。これは書いただけですよ、誰ですか、トランプじゃないか、いや似ているだけじゃないの、勘違いじゃないですか、違いますよ。架空の人ですよ、と言えば罪にならない。これは新聞がよくやってる。似顔絵で批評というのは。だからネットでも、実名でやったらダメですよ。実名でやると名誉毀損になる。だからといって似顔絵を描けと勧めてるわけじゃないけど、まあそういう風刺画です。

 実際はこれは国会の様子なんです。国会議員には選挙がある。選挙にお金がかかったらいけないけど、実際問題としてお金がかかるんです。貸してという。後ろは資本家です。大企業家です。お金貸したら、俺の言うことを聞いてくれるか。それで当選する。持ちつ持たれつの関係です。政治家の裏に資本家がいる。こういう構図が早くも成り立っている。
 現在とは違う、ではないですよ。現在も言わないだけです。政治とカネの問題はずっと続いています。 資本主義というのは、貧しい人を豊かにするという発想は残念ながらないです。儲けたい人が儲けなさいという発想なんです。儲けた金で貧しい人を幸せにしなさいという発想はない。だから富が偏在していくんです。
 しかしイスラームにはそれがある。イスラーム教には、貧しい人たちに喜んで寄付をしなさいという喜捨という教えがある。そこらへんがキリスト教と違うところです。もともとはあったんですけど、16世紀の宗教改革期に変わってしまったんです。


【エジプトの植民地化】 ではイギリスの植民地。まずエジプトです。1869年。ここのスエズ運河は、ユーラシア大陸とアフリカ大陸の間です。スエズ運河というのは・・・イギリスが行きたいのはインドなんです・・・アフリカ大陸を回っていくと半年かかるけど、ここを通れば2ヶ月で行ける。掘ろうじゃないか、ここに運河を。これが世界史の1つの的になる。これがスエズ運河です。
 これがイギリスのものになるけれども、掘ったのは実はフランスです。レセップスというフランスの外交官です。フランスがエジプトを手なずけて特許を取り、エジプトと共同で掘ったんです。しかしエジプトは莫大な金をつぎ込んでお金が足りなくなる。
 それで6年後の1875年に、イギリスが、お金が足らなかったらオレがその会社の株を買おう、という。 この時の首相が、さっき言った保守党のディズレーリです。これには莫大なお金がいる。イギリスにはそれを買うお金がなかった。それで、ロスチャイルドに頼む。貸してください、ああいいよ、で即決です。これ以上言ったらいけないけど、「では担保は」とロスチャイルドに聞かれると「イギリス国家です」とディズレーリは答えたという。不気味な話ですね。そういう裏話がある。
 イギリスが欲しかったのは、第一にインドを手中におさめたい。1857年のシパーヒーの反乱以降、イギリスはインドへの本格的な直接統治を始めています。そこに半分の時間で行ける。目指すはインドです。 このスエズ運河の利権を手に入れることによって、イギリスはエジプトへの介入を強めていく。実質的にエジプト政府はイギリスのものになっていく。エジプトにもお金がないからです。
 この背景にはイギリスの軍事力があります。軍事力がないと、日本はいまアメリカにお金を貸しているけど、しかしアメリカのほうが軍事力が断然強い。だから軍事力がないと、貸したお金を返せと言えない。お金よりも、最終的には軍事力ですね。戦争しなさいと言っているんわけじゃないけれども、軍事力というのはやっぱりすごいもんです。軍事力とお金があれば、鬼に金棒です。

 しかし、これでいいのか、というエジプト人もいる。こんなことを白人にされていいのか、それで立ち上がって反乱を起こした。1881年です。アラービー・パシャという人、アラービー・パシャの乱です。エジプト人のエジプトを作ろう、今はイギリス人のエジプトになっている。しかしイギリスは強力な軍隊を持っているから、いとも簡単に鎮圧してしまう。軍事力というのはすごいものです。そして1882年には、軍事支配を受けていく。もうモノが言えない。イギリスはここを押さえると、すぐ目指すインドに行ける。


【インドの植民地化】 エジプトを手に入れて、インド支配が本格化していく。このとき実は、イギリスは工業生産力が低下して焦ってる。だから強制的にでも売れるところを求めています。
 スエズ運河株を買収した2年後の1877年には、イギリスのヴィクトリア女王がインド人の王様を兼ねて、インド帝国を成立させます。スエズ運河で、ここにすぐ行けるようになった。今から思うと船で時間かかるけど、それ以前アフリカの南端を回って行っていたのと比べると半分以下の時間ですぐに行ける。イギリスの王様はヴィクトリア女王です。約70年間、女王の地位にある。この時代をヴィクトリア時代といいます。

 こういう形で支配された後にインド人も、これでいいのか・・・反乱までは起こさなかったけれども・・・イヤだなと思う。インドでのグループで、インド国民会議派というのが1885年にできる。最初は、イギリス人が怖かったからイギリス人に協力しますと言っていたけれども、あんまりイギリス人が無理難題をふっかけてくるから、だんだんと、反英つまりイギリス反対の立場に変化していきます。10年、20年、30年のうちに反英の気分が高まって、これが独立運動に発展していく。しかしあと50年以上、イギリスは独立させない。インドの独立は、日本がアメリカの占領下から独立した時期と変わりません。第二次世界大戦後です。



【フランス】
【フランス第二帝政】 ではイギリスに負けて、ナンバーツーの地位にあったフランスです。結論いうと、まずドイツに抜かれる。フランス革命のあとのフランスはけっこう混乱しています。
 第二帝政時代になる。1852年から。王様になったのは・・・ナポレオン1世の子供は貴族として若くして死亡・・・ナポレオン1世の甥っ子であるルイ・ナポレオンが国民選挙で大統領になる。しかし大統領よりももっと上に登りたい。皇帝になりたい。それで国民投票で皇帝になって、1852年にはナポレオン3世と名乗る。イギリスに負けまいと、戦争好きです。しょっちゅう戦争する。

 まず東南アジアのベトナムです。ベトナムでは地形的に、インドと中国に挟まれている。中国はシナです。そのインドとシナの中間にあるからインドシナという。1858年、そこに出兵する。今のベトナムあたり、ついでカンボジアも支配する。こうやってまず植民地の第一歩をつくる。

 しかし急速に、追い上げてくるドイツ。これとの戦争を1870年に始める。ドイツはプロシアまたはプロイセン、フランスは仏です。これを普仏戦争という。普はプロシアです。まだドイツという国はない。今からできてくる。フランスが負けた。ナポレオン3世は捕らわれる。助けてください。それなら辞めろ、ハイ辞めます。これでフランスの第二帝政は崩壊します。

※ 普墺戦争と普仏戦争はロスチャイルド家によって演出された。(太田)

 このあとフランスは混乱する。市民がなんで負けるか、戦争に負けると不満が爆発する。戦争に負けて泣いた日本人との違いです。1871年、敗戦と連続して起こります。パリで起こった暴動だから、パリ・コミューンといいます。王がいない国、そればかりではなくて市民が国家管理をしていこうという一種の社会主義政権です。でも一瞬だけです。すぐドイツの支援を受けたフランス軍によって潰されますけど。


【フランス第三共和政】 その後は王様のいない政治が続きます。パリ・コミューンの時期を除いて1870年からです。王がいない政治を共和制といいます。これ3回目ですから第三共和政という。フランス革命からまだ100年も経ってないのに、帝政になったり、共和制になったり、帝政になったり、こんなコロコロ変わるということは、フランスは混乱しているということです。

※ フランスの第3共和制を支持した主要勢力は、ロスチャイルド家をはじめとするユダヤ銀行家たちであった。(宋鴻兵)

 しかし、この間もイギリスに負けまいと植民地にフランスも乗り出していく。さっき言ったナポレオン3世時代にはすでにインドシナを保護国化し、半分植民地化している。

 1873年には世界恐慌が起こって、過剰生産になり物が売れないから、力ずくでも売る場所つまり市場を求める。これが植民地なんです。早い者勝ちで植民地合戦をしていく。
 フランスは東南アジアを狙う。ベトナムまで広げる。これが1883年。実はベトナムというのは、親分がいて、中国の子分だった。オレの子分に何をするか、と中国が乗り出していく。この時の中国は清朝です。しかし清はフランスと戦って負ける。ベトナムはフランスのものになる。清は、アヘン戦争ではイギリスに負ける。ベトナムではフランスに負ける。 今度2回目、1884年。今度は勝つぞ、また大規模な戦争を起こす。清仏戦争です。ちなみにこのとき日本は明治維新になって20年ぐらい経っているときです。
 清はフランスに勝てない、ベトナムを手放さざるを得ない。完璧にフランスのものになる。フランス植民地です。フランス資本がかなり入っている。ベトナム、カンボジアはフランスの植民地です。それを仏領インドシナという言い方をする。フランス領インドシナのことです。1887年の成立です。さらにカンボジアの北方まで手を広げる。ここらへんはラオスという国がある。そこまでフランスのものになる。今でいうと、ベトナム、カンボジア、ラオスがフランスのものになる。

 弱いところに進出していくのはイギリスもフランスもおなじです。 ただフランスでは政治が安定してなくて、1つの事件が起こる。この時代、フランス国内でユダヤ人が非常に嫌われだす。その中でもあるエリート軍人として出世していった軍人がフランスにいた。ドレフュスという人です。しかし、おまえユダヤ人だろう、ドイツとフランスは仲が悪くて、おまえ探偵じゃないか、ドイツのスパイじゃないか、とんでもないですよ、証拠不十分のまま降格されていく。実はスパイでも何でもなかった。そういう冤罪事件が起こっていきます。1894年です。


【オランダ】 ちょっと落としがたいのはオランダです。オランダは東南アジアで最大の人口を持つところを征服して植民地にしています。インドネシアです。人口2億、日本の倍です。ここはオランダ領です。このオランダのインドネシア支配には500年の歴史があります。
 このあとイタリアとドイツを見ていきます。



【イタリア】
【イタリア統一】 ではそのイタリアです。イタリアもまだイタリアという国はありません。ローマ帝国以来、ここには中小国家ばかりで、まとまった国がなかった。フランス革命以後、1800年代の初めに国を作ろうとした。これがブラックなんです。秘密結社ができる。炭焼き党という。カルボナリ党という。スパゲッティーの名にカルボナーラというのがある。麺を炭で焼いたという意味です。それがカルボナーラですが、そのカリボナリ党です。

 こういう裏の世界の秘密結社から独立運動を始めた。秘密結社だから詳しくわからない。わからないんだけれども、裏で活動していたものの影響を受けて、1831年に表の政治結社としてできたのが、青年イタリアという団体です。これを結成したのが、またこれもよくわからないマッツィーニという人です。残念ながら、若い時何をしていたかよくわからないです。こういう人が運動の中心になっていく。ずっと何らかの秘密結社と繋がりがあったということです。秘密結社だから、詳しくは教科書に書いてない。

 一旦1849年に、瞬間的にローマ共和国というのを作るんだけれども、こんなの認めない、とフランスが介入する。内政干渉です。ヨーロッパの中でも強い国は弱い国を妨害する。

 しかしやっぱりつくらないといけないと言って、中心になるのは、今度はここです。この島、サルディニアという。これが中心になる。今でもここはイタリアですよ。この島が本土をまとめていく。サルディニア王国による統一です。首相はカブールという。彼は、負ける前のナポレオン3世と手を組んで、本土ロンバルディアという地方、ローマのちょっと北の方を手に入れる。
 だから北の方からサルディニアは統一していくんだけれど、そこにこんどは南側から統一しようという別働隊がいるんです。これがガリバルディという。この人も、秘密結社がらみでよくわからない。若いとき何をしていたのか。ただ真っ赤なシャツを着る。派手好きかというと、真っ白だったら血が目立つというんですね。真っ赤なシャツだったら、いくら血が流れても目立たない。だから赤にした。血みどろで戦うということです。赤シャツで血を隠すということです。そういう赤シャツ隊をつくる。彼は南イタリアを征服する。

 そして北と南で、北からはサルディニア、南からはガリバルディです。それでこの二つが戦争になるかというと、このガリバルディは脅されたか何なのか・・・話ができすぎているけど・・・あなたに差し上げますといって、サルディニア王に征服地を献上する。

※ 1860年にガリバルディがナポリを占拠した際には、イギリスのフリーメイソンの一団が彼を支援した。1861年のイタリア統一というフリーメイソンの蜂起は、イギリス秘密諜報部で計画され、資金提供されたものであり、イギリス外相パーマストンによって指揮されていた。(マリンズ)


 その瞬間にイタリア王国誕生です。これが1861年です。日本の明治維新が1868年だから、イタリアの統一国家はそんなに日本と変わらない。このあと言いますけど、 ドイツの統一はこの9年後、日本より2年あとです。このときの1860年のイタリアの領域はここまでです。1860年にはローマ教皇が反対して入っていないんです。ローマ教皇が入ってないのは痛い。ローマのシンボルだから。この赤の部分が1860年でのイタリア領土です。サルディニアがこれに入る。ここからイタリアが始まった。まだ国ができていないのが、次のドイツです。



【ドイツ】
【ドイツ統一】 ドイツ人は工業生産力はどんどん上げている。国よりも先に経済が発展する。国を作ろうという動きは50年前、1848年の三月革命というのが起こったんだけれども、うまくいかなかった。

 50年前に時間を戻せば、失敗したとはいえ、国家統一の動きは、フランクフルトというソーセージみたいな都市、これは逆ですよ、フランクフルトの名産がソーセージだったから、そのソーセージの名前がフランクフルトソーセージとして世界に知れ渡っています。立派なドイツの都市です。そこにフランクフルト国民議会ができて、統一ドイツを作ろうという運動をし始めるんです。しかし失敗して挫折した。その後、1857年には初の世界恐慌もアメリカからおきて、株が暴落しています。

 だから国を代表する議会ではなくて、それぞれの小さな王国が次の中心になっていく。その中心になる国がオーストリアではなくてプロイセンです。北にある主要な国家で・・・明治維新で言えば、薩摩藩みたいなものです・・・プロイセン、プロシアともいう。その首相がビスマルクです。伊藤博文のお師匠さんで、伊藤博文が理想とした人です。首相はこうあるべきだと。アメも与えるし、同時に軍隊の重要性も知っている。決めるのは最終的には軍事力だ。別に戦争を賛美しているわけではないけれど、実際それで決まっていく。

 まず1866年に同じドイツ人のオーストリアと戦う。これが普墺戦争です。そしてそれに勝つ。これでドイツ統一の主導権をプロシアが握る。負けたオーストリアは排除される。どっちもドイツ語をしゃべるドイツ人です。だから今もオーストリアはドイツから除外されて別の国になっている。でもどっちもドイツ民族です。しかしプロシアはそのオーストリアを除外して、1867年に北ドイツ連邦という小国の仲間をつくる。

 次には、西隣にある仲が悪い国、フランスと戦う。これがさっきやった1870年普仏戦争です。プロシアとフランスの戦いです。負けたのはのはフランスのナポレオン3世です。捕虜になって、おまえ皇帝を辞めろ。フランスの帝政は終わり、第三共和政に入っていきます。

※ 普墺戦争と普仏戦争は、ロスチャイルド家によって演出された。(太田)


 これでオーストリアに勝ち、フランスにも勝って、プロイセン中心にドイツをまとめる。これが1871年・・・明治維新の3年後でドイツが3年遅い・・・ドイツ帝国の成立です。

 ビスマルクが王様になったんではないです。彼はあくまで家来です。皇帝はまた別にいる。王の第一の家来がビスマルクという首相です。皇帝はヴィルヘルム1世という。この人はいい人ですが、孫になるとダメになる。そこまであと40年です。第一次世界大戦まで。
 余計なことをいうと、このドイツ帝国の国家成立の式典をどこでやったかというと、負けたフランスに乗り込んでいって、フランス王の別荘であったベルサイユ宮殿でドイツ帝国成立の式典を盛大にやるんです。フランス人にとっては、このやろーふざけるな、という感じです。ドイツ人なんか大嫌いだ、絶対仲間にならないぞ。これが第一次世界大戦にも結びついていく。
 敵陣のフランスに乗り込んでいって、ドイツ国家ができぞと式典をやる。すごいことです。その式典の場所が、負けたフランスのベルサイユ宮殿です。
 もう一つの負けたオーストリアは、反対の東側に勢力を伸ばします。このオーストリアはかつて神聖ローマ帝国の王家だったですね。

 これで終わります。ではまた。



「授業でいえない世界史」 36話 近代 ドイツ、ロシア、アメリカ(19C後半)

2019-05-05 06:00:00 | 旧世界史11 18C後半~
※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【ドイツ】続き
 ではドイツです。今1800年代です。フランス革命が起こったあとの世界を、イギリスを中心にみて、フランスに行き、そしてイタリアに行き、ドイツに来ています。このあともロシアに行ったり、アメリカに行ったり、中国に行ったり、日本に行ったり・・・日本もこれ以降は世界史に絡んできますから・・・そういったところを言っていきます。
 ドイツ帝国は、日本の明治維新よりも3年あとの1871年に誕生します。日本の明治維新が1868年です。日本はおそいおそいと言われるけど、そんなに遅くはない。ドイツ帝国の誕生です。このときの皇帝はヴィルヘルム1世という人です。イメージとしては穏健なんですが、ただ次の孫になるとちょっと違う。孫はヴィルヘルム2世というんですけど、2代目、3代目で失敗するというパターンがよくある。この時の政治的実権は皇帝ではなくて、首相ビスマルクです。
 実はドイツ人からいうと、これは国の半分なんです。中世以来800年ヨーロッパの中心であったのはドイツなんだけど、それは神聖ローマ帝国と言っていた。この神聖ローマ帝国はドイツ帝国から除外されたんです。それがオーストリアなんです。今は小さな国になっているけれども、この時はかなり大きい国です。西の方に行くんではなく、プロイセンからストップかけられて、逆の東の方に領土をのばそうということで、東のハンガリーを併合してしまう。オーストリアは1867年にハンガリーを併合して、オーストリア=ハンガリー二重帝国を形成した。ドイツ人は、ドイツとオーストリアの二つに分裂したんです。中心はプロシアが作ったドイツ帝国ということになる。これが今のドイツなんです。その中心人物は皇帝ではなくて、首相のビスマルクです。この人が1870年代から約20年間、ヨーロッパ世界に乗り出していく。


【ビスマルクの政策】 ちょうどこの頃は第二次産業革命の時期で、それまで約100年間、産業界をリードしていた国が出遅れていく。前回いいましたよね。これがイギリスです。イギリスの工業生産力が低下していく。逆に急速にドイツが工業生産力を伸ばしていく。そうするとイギリスとドイツはライバル関係になって、あまり仲がよくない。

※ 重工業という最も利益率の高いセクターをドイツが掌握するという構造が出来上がっていきました。植民地獲得に成功したイギリスやフランスは、その成功ゆえに従来型の軽工業のビジネスモデルに依存していました。・・・イギリスやフランスは、ドイツ産業資本の進出を放置することができず、ロシアとも協調しながら、ドイツを軍事的に包囲していき、1914年、第1次世界大戦となります。(宇山卓栄 経済)

 1873年には世界恐慌がおこります。これは工業生産力を急速に伸ばしてイギリスを追い越そうとしているアメリカ・ニューヨークから起こります。このパターンは2008年のリーマン・ショックに至るまで変わらないということも言いました。確かにこのちょっと前までは、作れば売れるという時代があった。しかし作り過ぎていくんです。それに一部の金持ちだけが豊かになって・・・資本主義というのは貧富の差が発生して貧しい人を豊かにしない・・・取り残された貧しい人たちは物を買えない。ということは、売れ残る。すると株価が下落して、今までウハウハ儲けていた人たちも儲からなくなる。それが嫌だから、強制的に売る場所、これを海外に求める。これが植民地になっていく。弱いところが次々に植民地になっていく時代です。

 このような世界のなかで、ドイツはどうなのかというと・・・その前に地図から行きましょう・・・地図、1871年に成立したドイツ帝国の領域です。どうですか。今のドイツと比べると、えらく広いです。これがドイツ帝国です。
 
▼ ドイツの統一
 

 今のドイツはベルリンの少し東の川のオーデル・ナイセ線が現在の国境です。なぜこんなに小さくなるか。第一次世界大戦でドイツは負ける。第二次世界大戦でもドイツは負ける。だから領土を削られて小さくなっていく。だからドイツ人としては、これが原型だどすれば、このドイツ領内の地は、今はポーランドなんです。ドイツの東は、オレたちドイツの土地だという意識がある。だから第二次世界大戦では、ポーランドに侵攻する。・・・第一次大戦はちょっと飛ばして・・・これをドイツは勝手だ、イギリスから見たら、アメリカから見たら、ドイツ潰そうとなる。
 しかしイギリスがやっていることは、弱い所を潰して、製品を買えという押し売りをしているんですけど。


 そのドイツは工業生産力が高まっている。イギリスを追い越そうとしている。実はドイツというのは、社会主義の発祥の地です。マルクスという人が社会主義というのを考えた国です。社会主義運動が盛んで、ビスマルクにとってはこれはありがたくないですよ。だから1878年に法律を出して鎮圧する。資本主義でいいんだ。これを社会主義鎮圧法といいます。社会主義なんてバカなこというな、デモを起こすな、革命を起こすなと言う。社会主義が革命によって成立するのは、このあとのロシア革命です。
 これがアメとムチのムチです。きびしい政策です。しかし飴玉を与えて、労働者の給料や労働時間を一方では保護していく。こういうちょっとバランスのいい政治を内政面でやっていく。外交面はこのあとの国を見ていく中で言っていきます。


 そういうのが20年間続いたんですが、あっという間に20年経ちます。20年経てば40才だって60才になって定年になる。このビスマルクは、1890年には辞任するんです。そして祖父のあとを継いだヴィルヘルム2世が1888年に新しい皇帝になる。この新しい皇帝はイギリスと積極的に対抗していこうとする。ビスマルクが、あのう皇帝さん、そんな簡単なものじゃないんですぞと言うと、新しい皇帝は、何を言うか、と反発する。それでビスマルクは、もうオレはつきあっていられない、首相を辞める、と言う。ドイツの苦難はここからです。ビスマルクは辞任していく。イギリスとドイツ、主にイギリスと対立していくようになります。

 さっきライン引いたのは何かというと、ここです。1871年でドイツ帝国、こんなに大きかったんです。



【ロシア】

【ロシアの南下政策】 ドイツ終わって、またあっちこっち行く。世界史の宿命です。こんどはロシアです。日本もこのロシアとは日露戦争を戦いました。ロシアは・・・イギリスは海軍で強くなった国です・・・これがうらやましくて仕方がない。
 ロシアは、世界地図を見たらわかるけれども、海軍に非常に不向きなんです。北の方には北極海があるけれども、なんで不向きか。冬場は氷に閉ざされてしまうんですよ。そしたらいくら強い軍艦を持っていても、氷には勝てない。冬場の間、足止めされてしまう。1年の半分の夏場しか動けない。1年の半分しか動けない軍隊は、屁のツッパリにもならない。いつでも動ける軍隊でないと、動けないときは、そこをちゃんと狙われるから。だから南下したいんです。北の海はダメだから、南の海を求める。
 このあとのことをいうと、北はまず氷でダメです。南はイギリスが防ぐ。今度は東に行くんです。これを極東という。東には何があるか。日本がある。しかし日露戦争で負ける。八方ふさがりです。そこにロシア革命が起こって、皇帝は殺され、ロシアは崩壊し、ソ連になる。
 ザッとこんな感じですけど、ここでいろいろ戦争が起こる。まず黒海に出たい。湖みたいですけど海です。黒海に出たら、こんな狭い海峡・・・ボスポラス海峡と言いますが・・・も通らないといけない。ここを通る戦艦は、ねらい撃ちされる。両岸が敵になったら、陸地から集中砲火される。だから本当は地中海まで出たいんですよ。そうすると困るのがイギリスです。ロシアみたいなあんな大きい国が地中海に出てもらっては、オレの立つ瀬がないというのが、イギリスなんです。


 ただロシアとしては、こうやって1年中凍らない港を求めたい。これを不凍港という。凍らない港のことです。それは南にあるから、ロシアは南下政策をとっていく。南下政策をとると、その南にある国は・・・さっき言わなかったけど・・・オスマン帝国なんです。オスマン帝国は・・・実はこれはロシアに負けたあとの地図ですけど・・・ここまで全部オスマン帝国なんです。これと戦わないといけなくなる。
 この半島をバルカン半島といいますが、そのバルカン半島には・・・ロシア人のことをスラブ人というんですけど・・・同じスラブ人がいっぱい住んでいる。このことが、南下して、俺のものにするという理由になる。
 本当は軍港をつくりたいんです。南下政策を取りたいということで、バルカン半島に乗り出す。でもバルカン半島はこの時、オスマン帝国の領土です。だからこれと戦うことになる。ロシアとしては、オスマン帝国の中にいる少数民族のスラブ民族・・・これがロシア人です・・・これを保護するという名目ですね。


 そのロシアとオスマン帝国のトルコとの戦いが1853年から始まる。実はこれには前哨戦があって、100年近く前、1768年からチョコチョコしたロシアとトルコの戦いは4回もあってる。これを露土戦争という。ロシアの露、トルコの土です。決着がつかずに本格的になる。第4回露土戦争のあとは、第5回とはいわない。攻防戦になった地域の名前をつけてクリミア戦争という。1853年からです。内容はロシアとトルコの戦争です。クリミア半島のクリミアはどこかというと、ここですよ。黒海に突き出たクリミア半島、ここには今でもロシア最大の黒海艦隊の基地、セバストポリという軍港があります。
 つい5年前の2014年、ここをロシアが軍事占領した。ソ連崩壊後はウクライナという国の一部になっていた。アメリカは当然反ロシアです。中国はそうでもないけど。今でも係争の地です。


 ここらへん新聞でも、4年前のことでも、どっちも自分の都合のいいようにしか言わない。本当に歴史的にどうなのか、よくよく考えてみないと双方に言い分があります。


 ロシアとトルコが戦う。通常ロシアが強い。西洋の軍隊が、近代兵器を持っているから強い。トルコはその点、遅れてるんです。だから逆転されたんです。しかしロシアに勝ってもらっちゃいけないのがイギリスです。

フランスも誘って、トルコを応援する。その結果、ロシアはトルコに負けた。というよりもトルコを応援したイギリスに負けたんです。

※ クリミア戦争中、ロスチャイルド銀行は、政府公債の取り扱いで不動の地位を守り続けた。


※ フランス政府が1854年と1855年にクリミア戦争債券を発行したとき、ロスチャイルド銀行はそれを引き受けるメイン銀行となった。トルコの戦争債権も、ロスチャイルド家がコンスタンチノープルに代理人を送り込んでいたために、ロスチャイルド家のものとなった。プロイセンの戦争債権も、ビスマルクの一存ですべてロスチャイルド・フランクフルト銀行が引き受けていた。(宋鴻兵)

※ ビスマルクのほかにロスチャイルド家に援助された政治家に、ディズレーリ。ロスチャイルド家の婿で首相になったローズベリー。そしてチャーチルがいる。(宋鴻兵)


【ロシアの改革】 こうやって南下政策はうまくいかない。近代化もロシアは日本とあまり変わらない。遅れてます。それをどうにか近代化しようということで・・・ロシアの農民は半分は奴隷状態です・・・ロシアの農民というのは。こういう土地に縛られた農民で、農奴というんです。農奴を解放しよう。皇帝がみずから言う。これが1861年農奴解放令です。ロシア皇帝はアレクサンドル2世です。しかしこれは農奴自身が、そんなに要求したことでもなくて、上から自由にしていいぞといわれても、何を自由にしていいか分からない、あまりうまくいかない。

 貴族の中にも、もっとロシアを早く近代化しないといけない、という動きが出てくる。これはロシア語だから、ナロードニキ運動という。1870年代のことです。
 日本語に訳すと「人民の中へ」という意味です。でもここは身分社会です。貴族と農民に、今まで接点はなく、農民は貴族を信用してない。貴族は、俺たちは信用されてないから、自分たちがまず農民や人民の中に入って、理解してもらわないといけないという運動です。こういうどちらかというと頭でっかちの、秀才型の改革を目指すんですけど、農民は貴族なんか信用できるかと思う。階級社会が強いと、300年ずっと痛められ続けて、急に甘い顔されても信用できない。それで一部はこの運動に失望して、暴力革命やテロに走ったりする。
 こういう不安定な状態がロシアです。こういう貴族たちの失望を描いた文学とか出てくる。ロシア人の絶望感はすさまじいです。ほんとに地の底をのぞくような絶望感を文学として描いたりもする。


【ベルリン会議】 今度はベルリン会議のことです。やっぱりロシアは南に行きたい。オスマン帝国を押しのけてでも南下したい。地中海まで行きたい。1877年にまた露土戦争が起こります。これが一番のメインですね。ロシアはオスマン帝国の領土を取る。そこにはロシア人と同じ民族のスラブ人が住んでる。彼らを支援するぞ、ということで、今度はイギリスが応援しなかったから勝つんです。ロシアが勝って、スラブ系の民族の国を立てた。
 1つがセルビアです。長いことなかったんですけれども、できたり、消滅したりする国です。それからルーマニアが独立する。ブルガリアも半独立です。ブルガリアはロシアの支援によって、オスマン帝国から自治権を獲得した。これが1878年のサン=ステファノ条約です。
 それが今さっき見せた地図の、もともとオスマン帝国の領土であったところから、まずセルビアです。それからルーマニア、ブルガリアです。いろいろ複雑で、領土も動くけれども、一応この3つが独立した。オスマン帝国からヨーロッパ系民族が独立した。しかしロシアに南下されたら困るというのがイギリスです。


 そこでイギリスが中心になってこれを阻止しようとする。これにドイツがこの時に加わる。イギリスとドイツは仲が悪くて、このあと第一次世界大戦で戦ってドイツが負けるんですけど、この時はビスマルクが首相です。イギリスにはゴマすっておかないといけないという政治判断をする。それで、うちでやりましょう、とドイツで会議を開く。ドイツの首都で開かれるから、これが1878年ベルリン会議です。
 イギリスさん、不肖私ビスマルクが一肌脱ぎますよ。これからもよろしくです。ビスマルクがうまく調停して、ロシアにはダメと言う。戦争に勝ったからと言って、人のものを勝手に取ったらダメじゃないかと言う。イギリスもフランスも、戦っては人のものをさんざん取ってばかりいますけど、ロシアにはそう言う。国際政治というのは理屈よりも力関係が優先する血も涙もない世界です。あまり美談じゃないです。

 これが1878年のベルリン条約です。この条約によって、ブルガリアの領域は削減され、ロシアの南下政策はまた挫折します。
 それでこの時に、ドイツとイギリスが仲良くなった。そしたら、挫折したロシアは仲間を求めてフランスと仲良くなっていく。これが1891年露仏同盟です。結局は仲間探しです。自分1人じゃだめだから、仲間の力に頼る。それでどうするか。お金がないから貸してくださいと言う。フランスもお金ないんだけど貸すんです。南がダメだったら、東に行きましょうと。これがシベリア鉄道です。西から東まで何千キロ、1週間かかる。それでロシアが中国・朝鮮に進出してくる。


 こうなるとまたイギリスとロシアの英露対立が激化していきます。東に行くロシアを食い止めないといけない。しかしイギリスが頭がいいところは、自分で手を下さないで、他の国にストップさせる。これが1904年日露戦争です。日本にとってはかなりリスクが高い。負けていたらどうなったか分からない。他のアジア諸国を見ると、1800年代にはほぼ植民地にされていますからね。
 
▼ベルリン会議後のバルカン半島


【バルカン半島図】 ではこのベルリン会議で、さっきも言ったけど、ベルリン会議で独立した国。それがまずルーマニア、ここでできる。それからセルビアです。ブルガリアはまだ半独立です。こうやってオスマン帝国の領土がヨーロッパ側にどんどん奪われていった。それほど単純じゃない、ロシアは進出しようとする。これを止めようとするイギリスがある。イギリスが止めようとするのは、オスマン帝国が好きだからじゃないです。イギリスよりもロシアが強くなるのが嫌なだけです。


【社会主義の発展】 資本主義は、戦争と結びついていく。資本主義が発展していくにつれて戦争がいっぱいおこった、ということはここ100年の歴史で明らかです。この資本主義は危険だという発想は昔からある。だから資本主義ではなくて社会主義を実現しようとする動きが出てくる。経済を国家によって管理して行こう、つまり計画経済にしていこう、こういうことを初めて空想物語じゃなくて経済学的にうち建てたのが、ドイツ人のマルクスエンゲルスです。そのためには政策を実現するための政党をつくらないといけない。1848年共産党宣言を出します。共産党とは社会主義の実現を目指す政党です。

 その理論的な本として「資本論」がある。500ページの本が30巻ぐらいある。読むのだけでも10年かかる。そのための組織を1864年につくる。第1インターナショナルです。国際労働者協会という。社会主義の特徴は、世界革命を起こさないといけないことです。世界革命というとドラマすぎて、どこかの漫画の世界みたいですけど、本気でやる。世界革命をしないと資本主義には勝てない。実際、ソ連というのは、一国社会主義で、一国だけでも勝てるといったが勝てなかった。世界でやらないといけない、という発想でやるから、それじゃ、うちも狙われるのか、とアメリカとか日本も非常に警戒するようになる。



【アメリカ】

【アメリカの膨張】 ではアメリカです。1776年に独立したアメリカは、その後どうなったのか。まずお金をどうするか、誰がつくるか、ということで揉める。1776年に独立してから10年ちょつとで、通貨をつくる銀行をつくろうとなる。1791年アメリカ第一銀行ができる。ただ反対が多くて20年間でやめる。1811年にアメリカ第一銀行が廃止された。するとこれに対してイギリスが腹を立てる。
 なぜ銀行をつぶすのか、とイギリスが腹を立て、翌年の1812年から米英戦争というアメリカとイギリスの戦争が起こる。イギリスはアメリカへの輸出をストップする。これでアメリカは非常に困る。そしてイギリスが勝った。勝ったのが1815年です。

 すると翌年の1816年に2番目のアメリカ第二銀行ができる。この銀行を通してイギリスのお金がアメリカに入っていった。だからアメリカ人は、イギリス人のお金持ちに頭が上がらなくなった。こうやって資本的にはイギリスがアメリカを牛耳っていく。
 独立戦争で軍事的にはアメリカがイギリスに勝ったけど、資本的にはイギリスが強い。これはお金の力です。しかしこの銀行も20年後の1836年に廃止されます。一部の人間に富が集まりすぎるということで。

 そうするとイギリスがアメリカからわざとお金を引き上げた。そこでアメリカ初の恐慌が起こる。これが翌年の1837年です。

 そういうゴタゴタしたせめぎ合いをしてアメリカ第二銀行がアメリカ経済に影響をもつ中で、アメリカは・・・ここからが教科書レベルです・・・アメリカ大統領モンローという人が、1823年モンロー宣言を出す。このときアメリカはイギリスの強い経済的影響のもとにあります。イギリスはアメリカを1ランク下に見ていた。しかし大統領のモンローは・・・マリリン・モンローというお尻の大きな女優じゃないですよ・・・モンローさんというのはよくみる名字です。
 モンローは、アメリカ大陸のことに干渉するなという。アメリカだけでなく、南北アメリカにヨーロッパは干渉するな。アメリカのことはアメリカが決めると言う。イギリスも外相カニングが南米諸国のスペインからの独立を認める方針を出す。そうなると経済力で南アメリカに乗り込んでいけるのはイギリスになります。結果的にアメリカのモンロー宣言はイギリスの南米支配を後押しすることになります。

 しかしそう言いながら、このあと南北アメリカで一番強い国はアメリカになっていきます。つまりアメリカ合衆国が南米と北米の双方に影響を及ぼすようになっていきます。そのために、ヨーロッパとは関係ない、ということを宣言する。この時はイギリスとアメリカは持ちつ持たれつの関係です。


【西部開拓】 建国当初のアメリカは実は今のアメリカじゃない。最初は東部地域のこれだけです。そこから、西部劇でインディアンを追い払って、どんどん西へ西へと開拓地を広げていくわけです。こういうことをしながら西へ西へとアメリカはインディアンの土地を奪っていった。オレたちのものだとアメリカ人は言うけど、ここはもともと何万年前からインディアスが住んでいた。人の土地をこうやって奪っていく。
 その活動が何十年も続いて、アメリカ人はそれを、ここは未開の土地で神がオレたちに与えた土地なんだ、という勝手な解釈をする。この未開の土地をフロンティアと呼び、ここを開拓していくことは、神から与えられた使命なんだという。今から考えるとおかしな話です。アメリカ人が勝手にそう思っただけです。やってることはインディアンの迫害です。でもアメリカ人はフロンティア・スピリットと言うこの考えが好きなんです。インディアンを迫害しながら、インディアンが追い払われることは当然だ、そうすることがオレたちの明白な使命だ、マニフェスト・ディスティニーだと言って正当化していく。ムチャクチャですけど、これがおかしいと言われ出したのは、ほんのここ20~30年のことです。私が高校生の時は、日本人はアメリカのフロンティア・スピリットを見習え、という雰囲気だった。


 そうやって領土が西へ広がっていく中で誕生した初の西部出身の大統領がジャクソン大統領です。1829年からです。アメリカ大統領はだいたい8年です。4年で1期、最高2期だから4×2の8年です。このジャクソン大統領の時に、アメリカの貧乏な人にまで選挙権が与えられて民主主義が進展した、という面があります。
 一方で、この人は銀行が大嫌いです。銀行なんかやめてしまえと、1836年アメリカ第二銀行を廃止する。やめるとすぐイギリスが資金を引き上げ、1837年には不況になる。
 この年、このアメリカ第二銀行を通じてアメリカ経済に強い影響を及ぼしていたヨーロッパ最大の金融資本家ロスチャイルドは、この1837年に自らの代理人としてオーガスト・ベルモントをアメリカに派遣して、巻き返しのための政界工作にあたらせます。彼は1856年にアメリカの二大政党の一つである民主党の党首になります。政界の大物にまで登りつめます。
 この人の人脈をたどっていくと、日本の政治を動かした人物とつながります。彼の結婚相手は日本を開国させたペリーの娘です。1849年にペリーの娘・・・キャロラインといいますが・・・と結婚して、その4年後の1853年にそのキャロラインの父のペリーが浦賀に来航し、日本に開国を要求することになります。

 そのジャクソン支持派がその民主党になる。ロスチャイルドに派遣されたオーガスト・ベルモントが近づいたのはこの民主党です。こうやって民主党とヨーロッパの金融資本家とのつながりができます。
 政治経済で言いましたが、アメリカ二大政党制は共和党と民主党です。どちらかと言えば共和党が出番が多いような気がしますが、しかし五分五分です。民主党に反対するのが共和党です。ちなみに今のトランプ大統領はどっちか。彼は共和党です。


 ただこの時には、アメリカの北部と南部で考え方が違って、民主党南部中心です。このあと南北戦争が起こります。アメリカ真っ二つに北と南で割れて、国民同士が血で血を洗う戦争をやっていく。それに対して共和党北部中心です。北部と南部で割れていきます。


 アメリカは西に領域を拡大しながら、メキシコ・・・実は今のカリフォルニアやテキサスまでメキシコ領土だった・・・このメキシコと戦ってここを奪う。これがアメリカ・メキシコ戦争1846年です。それに勝ってカリフォルニアを領有したら、そのカリフォルニアからとんでもないものが出た。金です。金が出た。するとアメリカ東部やヨーロッパから荒くれ男たちが一攫千金を夢見て、ここに押し寄せてくる。これがゴールドラッシュです。金だ、金だと言って、ならず者のような荒くれ男たちが、カリフォルニアの金を目指してやってくる。その時にはいていたズボンがジーパンです。こうやって西へ西へと領土が拡大します。最初の独立州は東部の一部だけです。それがアメリカは1848年までにこのカリフォルニアまで広がった。
 ここまできたら、次は何か。今まではアメリカはヨーロッパにしか目が向いてなかった。太平洋に出るにはぐるっと南アメリカまで回らないといけなかった。西海岸にまで出たら、ここに軍港をつくったら目の前は太平洋です。太平洋を渡って中国に行きたい。ペリーが日本に来るのは、その5年後の1853年です。カリフォルニアまで行ったのが1848年。その5年後にはペリーが日本に来る。この時にはまだ大西洋まわりできます。
 
▼アメリカの西部進出
 
 
【南部と北部】 そういう中でアメリカの利害対立が深まって、南部と北部が対立する。考え方が違うんです。
 工業が進んでいるのは北部なんですが、アメリカはまだ工業面ではイギリスには勝てない。世界ナンバーワン工業国家はイギリスです。
 だから貿易では勝てないから、自由貿易なんてとんでもないです。自由貿易したらイギリス製品が入ってくる。それを防ぐために保護貿易を取ります。それが第二次世界大戦に勝つと自由貿易に変わる。そしてそれから70年経って、ものが売れなくなると、今のトランプさんのように保護貿易に変わるんです。
 その時その時の自国の都合で変わるんです。どちらが正しいというものではありません。アメリカが儲かるようにするために、保護貿易になったり自由貿易になったりするだけです。日本は工業面ではまだ強いから今は自由貿易です。でも農業面では保護貿易です。

 アメリカはもともと東の13の小さな植民地だった。それが13全部まとまっているかというと、そうではない。バラバラになって、小さい国がいっぱい乱立する可能性もあったけれども、北部は大きい国にしたい。これを連邦主義といいます。支持する政党は、アメリカ北部は共和党です。 

 南部はその反対です。南部は農業地域です。綿花を作ってる。土地が広いから、インド産の綿花より安く売れるんです。でもその綿花を白人が自分でつくっているのかといったらとんでもなくて、アフリカから連れてきた奴隷にさせています。だから安く作れるんです。それで自由貿易を主張する。それを支える奴隷制度には大賛成です。そして自分たちが自由にやれるように小さくまとまろうという州権主義です。政党は民主党です。イギリスとのつながりも深い。この時の民主党党首がロスチャイルドから派遣されたオーガスト・ベルモントです。イギリスのホンネは南部支持です。しかしそうは言えない。なぜか。それが南部の奴隷制度です。ここに北部のリンカーンの打つ手があるわけです。
 このように全く北部と違う。だからまとまらない。すぐに戦争になる。
 これで終わります。ではまた。



「授業でいえない世界史」 37話 近代 南北戦争とイスラムの衰退

2019-05-05 05:00:00 | 旧世界史11 18C後半~
※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【北部と南部】 いま1850年代あたりです。場所はアメリカです。1800年代、ナポレオン戦争が終わった後のヨーロッパを中心に見ています。アメリカの前はロシアにいった。その前はドイツに行った。その前はフランスに行って、イタリアに行った。世界一周しないといけない。なかなか進まない。1800年代は。


 ここではアメリカのことです。今は世界帝国みたいなアメリカですけど、この時にはまだ新興国で、もとイギリスの植民地です。独立したものの北と南で利害の対立がある。向かうところは南北戦争です。これがどういう利害の対立かというところまで言いました。

 この時代に、今の二大政党制つまり共和党と民主党の原型ができます。ちなみに今の大統領はどっちですか。今のトランプ大統領は。政党の主張がわからんと、政治は分かりません。共和党です。では前のオバマ大統領はどっちですか。反対の民主党です。
 政治経済で言ったように、アメリカ人は時々、日本人にできないことをやる。大統領は共和党を選んで、議会では民主党を選ぶ。今もそうです。これが得意技です。わざと停滞させる。進むのを遅らせる。今もうアメリカは中身は二つという話があって、どっちに行くかわからないですね。日本政府も読めなかった。

 トランプが大統領選に勝ちましたが、安倍政権はもともとそう思ってなかった。ヒラリー・クリントンという女性候補が絶対勝つと信じていた。しかしトランプが勝った。安倍さんは真っ青です。それで外務省に、何をしてるんだ、おまえたちの情報なんか2度と信用しないぞ、と言ったという話がある。日本も今のアメリカを読めてないということです。

 この時にも、こういうふうに二つの利害の対立がある。これが北部と南部です。この時に自由貿易を主張しているイギリスは南部びいきです。南部は自由貿易を主張していますから。綿花の取引でイギリスと関係が深いのも南部です。
 向かうところは南北戦争ですけれども、これは何の対立か。表面的には奴隷州と自由州の対立ということになっています。奴隷州とは奴隷を認める南部の州、自由州とは奴隷を認めない北部の州です。これが表面なテーマになるんですが、実は本当のことをいうと、リンカンが奴隷解放宣言を出したのは、ヨーロッパを味方につけたかったからなんです。
 一番のメインは、自由貿易か保護貿易かの対立です。そのことはイギリスに近づくか距離を取るかということです。つまりイギリスとの関係をどうするかというのが一番の対立点です。
 
 ▼南部と北部の地域差

 それと同時にカリフォルニアまで領有して、今のアメリカの領土の形になって、太平洋が開けてくると、ペリーが日本にやってきたのが1853年です。本当に行きたかったのは中国なんです。このことは今も昔も変わりません。アメリカにとってメインは中国です。日本ではありません。
 その4年後の1857年には、初の世界恐慌が起きて、株が大暴落する。この時のアメリカのお札は、アメリカの各銀行が勝手に発行していたものです。今からは想像できないけれど、銀行がアメリカに1万6000銀行ぐらいあって、アメリカのお札つまり今のドル紙幣は一種類じゃない。銀行が勝手に、佐賀銀行券みたいな形で発行するから、7000種類もある。もう訳がわからない。福岡では福岡銀行券、長崎では長崎銀行券、みたいなものです。よくわからない複雑な世界です。経済も混乱している。

※ 1856年、アロー戦争    1857年、インド大反乱

※ 1857年、1870年、1907年と、国際銀行家たちは、アメリカ政府に私有中央銀行を設立させるため、3度にわたる不況を引き起こした。(宋鴻兵)

※ 1858年、イギリスでユダヤ人解放法が成立する。これによりユダヤ人が公職につけるようになる。ディズレーリがライオネル・ロスチャイルドを委員に加えることによって成立した。(コールマン)


【南北戦争】 そういう中で、1861年になると、北部と南部を分断する大戦争、南北戦争が起こる。ペリーが来てからアメリカがしばらく日本史にはでてこないのは、アメリカがこの戦争で分裂しそうになって、日本どころじゃなくなっているからです。イギリスは自由貿易をしたいから南部を支援する。もっと言えばイギリスは、今のような大きなアメリカを作って欲しくなかったという話もある。アメリカは小さな国に分かれていたほうがいい。
 この時ナンバーワン国家はアメリカではありません。イギリスです。アメリカがこれ以上大きくなったら、俺たちは追い越されるとイギリスは心配している。実際その通りになっていきますけど。
 この南部を支援する民主党の党首には、ヨーロッパのロスチャイルド家から派遣されたオーガスト・ベルモント1856年に就任しています。この人は・・・前にも言ったように・・・アメリカ第二銀行が廃止された翌年の1837年、21才の時にフランクフルトのロスチャイルド商会の代理人としてアメリカにやってきた人で、このオーガスト・ベルモントの奥さんであるキャロラインの父親が日本を開国させたペリー提督です。


 この時の大統領が共和党のリンカンです。彼は北部支持です。北部の利益を代表する。そうすると南部が腹を立てて、それなら独立するといって、一時別の国ができた。これをアメリカ連合国と言います。南部11州が連合したもので、南北戦争中の1861年から1865年まで存続します。
 だとするとこれはアメリカの内乱ではなく、正式な国と国との戦争です。この南部のアメリカ連合国を支援したのがイギリスです。金融面では、ヨーロッパの金融資本家であるロスチャイルドがついています。そして南部勢力の中心である民主党の党首が、約15年前の1837年にロスチャイルド商会の代理人としてアメリカにやってきたオーガスト・ベルモントなのです。アメリカが二つの国になり、北と南の別の国どうしが戦うのです。


※ ジョージ ・ピーボディーがアメリカの有価証券を大量に売り、価格を下落させた。その共同経営者の JP モルガンは、金をイギリスに郵送し、アメリカの金を涸渇させようとした。モルガンはアレクサンダー・ハミルトンの直系の子孫である。

※ リンカン大統領がイギリスとフランスによる南部支援への対応に苦慮しているとき、リンカンに援助の手を差し伸べたのはロシアのアレクサンドル2世でした。アレクサンドル2世はイギリスとフランスが南軍を支援するならば、それをロシアに対する宣戦布告とみなして、北軍側について参戦すると警告を発しました。アレクサンドル2世はリンカンと同じく、民間の中央銀行設立には応じず、1860年に国立の中央銀行を設立しました。南北戦争に際し、ロスチャイルド家が敵対していた北軍への支援の姿勢を明らかにしたアレクサンドル2世は、ロスチャイルド家などの国際金融資本家たちから恨まれることになったのです。アレクサンドル2世は1881年暗殺されました。(馬渕睦夫 「支配者の正体」)

 そして南北戦争が始まって2年後の1863年にリンカンが出したのが、奴隷解放宣言です。さっき言ったように、人道的に奴隷はかわいそうだから廃止しようではなく・・・これは言ってないけど・・・イギリスなどのヨーロッパではすでに奴隷制度はやめよう、人権の観点からこれはまずいぞということで、奴隷制度はいち早くヨーロッパが廃止していた。しかしアメリカは奴隷に産業の中心を背負わせているから、やめるわけにはいかなかった。
 その時にリンカーンが北と南で戦うなかで、ヨーロッパを味方につけようとして、ヨーロッパの風潮に合わせて奴隷解放を宣言したわけです。これによってヨーロッパの支持を得ようとした。北部に味方して欲しい。これが本当の狙いです。これが功を奏した。ヨーロッパを味方につけて、お金の力から言えば南部が強かったかも知れないけれど北部が勝った。この時アメリカの北部の工業はまだ弱いけど、北部が勝ったのです。


 もう一つは、戦争にはお金がかかるから、リンカンは銀行が勝手に発行していたお札を政府が発行するようにした。これを、緑のインクで刷っていたからグリーンバックスという。つまり政府紙幣を発行する。これで大砲とか鉄砲とか弾薬とかを買えるようになって北軍が勝った。これによりリンカンは通貨発行権を握ったのです。このころヨーロッパの金融資本家ロスチャイルドは、アメリカに中央銀行の設立を働きかけていましたが、リンカンのグリーンバックス発行はその動きを封じるものでした。

 しかし、戦争に勝ったその年の1865年リンカンは、劇場で劇を見ていたところで、後ろからバーンとやられて暗殺されます。犯人はジョン・ブースという役者で、彼も約10日後、農場の小屋に隠れていたところを殺され、秘密裏に埋葬されています。暗殺理由は分かりません。この政府紙幣の発行が関係している、という話しもある。謎です。


※ ジョン・ブースの持っていた暗号文の解読キーが、ユダ・ベンジャミンというロスチャイルドの親戚で、南部連邦の財務長官を務めたことのあるユダヤ人から発見された。(マリンズ)

※ 1865年、南北戦争に勝利した直後リンカン大統領はピストルで射殺されます。犯人はジョン・ウィルキス・ブースだとされていますが、最近ではブースは南部連合の財務長官であったユダ・ベンジャミンに雇われたことが明らかになっています。このベンジャミンはイギリスのディズレリー首相の側近であり、ロンドンのロスチャイルド家とも親しかったのです。リンカン暗殺の背後にイギリスがいたことは間違いないと思われます。だとすればリンカンが暗殺された理由が明らかになってきます。リンカンはイギリスのロスチャイルドたち銀行家の意向に反することを行ったのです。それは、南北戦争の戦費をまかなうためにロスチャイルドなど銀行家たちからの融資を断り、アメリカ財務省の法定通貨を発行したことが挙げられます。(馬渕睦夫 「国難の正体」)

 このあとも、ポイント、ポイントでアメリカの歴代大統領はよく殺される。戦後は1963年ケネディ暗殺です。犯人とされたオズワルトは2日後、こともあろうにダラス警察署内で、ジャック・ルビーに殺された。本当の真犯人はわからないけれども、なぜかアメリカ政府は2035年には公表しますと言っています。つまりすでにわかっているということです。


 暗殺されたアメリカ大統領は、全部で4人。
  1865年 リンカーン・・・グリーンバックという政府紙幣を発行
  1881年 ガーフィールド・・・民間中央銀行の創設に反対していた
  1901年 マッキンリー・・・傷回復後、急死
  1963年 ケネディ・・・政府紙幣発行
 さらに暗殺未遂事件は二人。
  1835年 ジャクソン・・・中央銀行であるアメリカ第二銀行に反対
  1981年 レーガン・・・当初、中央銀行であるFRBの必要性に疑問
 通貨発行権に関わろうとした多くの大統領が暗殺されています。謎だらけです。

 南北戦争は北部の勝利で1865年に終わりました。南部を応援したイギリスもロスチャイルド家も、すぐに次の手を打ちました。その同じ年の1865年にロスチャイルドは、同じ家に住んでいた18歳のジェイコブ・シフを渡米させ、2年後にはクーン・ローブ商会を設立させます。
 またその1865年にはロスチャイルドは、仲間のトーマス・サザーランドに香港上海銀行を設立させます。この銀行はもともとはイギリスのジャーディン・マセソン商会が中国とのアヘン貿易で稼いだ資金を、イギリス本国に送金するために設立されたものですが、このあと香港ドルの発券銀行の一つになり、やがて香港ドルの通貨発行権を完全に手に入れます。今も香港のお金である香港ドルは、この銀行によって発行されています。漢字の名前だから中国の銀行とよく間違いますが、れっきとしたイギリスの大銀行です。


 1859年に日本にやってきた。イギリス人トーマス・グラバーは1861年にこのアヘン貿易会社ジャーディン・マセソン商会の代理店として、長崎にグラバー商会を設立しています。
 そのトーマス・グラバーと関係の深かった土佐の浪人坂本龍馬が長崎に武器輸入会社として亀山社中を設立したのも、南北戦争終了と同じ1865年です。その亀山社中は海援隊と名前を変えます。この海援隊の隊長である坂本龍馬を仲介人として成立したのが、翌年1866年薩長同盟です。
 これによって幕末日本は倒幕に向けて大きく動いていくことになりますが、なぜ一介の土佐浪人にこれだけの大仕事ができたのか、グラバーの動きをよく見ていなければ分かりません。

 このことをイギリスから見ると、イギリスは南北戦争でアメリカ工作には失敗したが、明治維新という日本工作には成功したといえます。
 ちなみに、のち4度総理大臣になる長州藩の伊藤博文は、グラバーによって1863年イギリスに密航し、イギリスとの緊密なつながりを持っています。


【戦後の発展】 南北戦争で北部が勝って、北部中心にアメリカはまとまりを取り戻していきます。分裂を防ぎます。分裂を防いだあと発展期に入ります。インディアンが住んでいた広大な土地が西部に残っている。そこでインディアンを迫害すると同時に、そこのけ、そこのけで、まず鉄道を通す。1869年大陸横断鉄道といいます。飛行機がなく、クルマもない時代ですから、人間の足は鉄道に勝るものはない。ただこれには莫大な資本がかかります。レールを引くのに。これはイギリス資本です。世界の金持ちはやっぱりイギリスです。産業で負けても、お金は持っている。だからお金を貸すという商売に乗り出す。

※ 1860年代の南北戦争で、北部の産業ブルジョワ層が、南部の農業地主層に勝利し、主導権を握り、工業化と資本の集中化が進められます。鉄鋼業の基盤が形成され、1869年に大陸横断鉄道が完成します。アメリカ議会は保護貿易主義を取り、関税率の引き上げによって産業を育成します。
 こうした政府と産業の一体化の中で、石油産業のスタンダード石油会社(ジョン・ロックフェラー創立)、製鉄業の US スチール(アンドリュー・カーネギー創立)、電気業のジェネラル・エレクトリック(トーマス・エジソン創立)、金融業のモルガン(ジョン・ピュアモント・モルガン創立)、通信料の AT & T( グラハム・ベル創立)などの独占資本会社が形成されます。
 しかし、アメリカはドイツと異なり、自由競争を尊重する立場から、このような独占資本の活動を規制しました。・・・その結果、アメリカでは一定のバランスのとれた市場の発展が可能となり、新規企業の参入も増大しました。(宇山卓栄 経済)

 そういう時に、アメリカでも資本家が成長していく。その代表格がロックフェラーという人です。今アメリカのナンバーワン財閥といえば、ロックフェラーです。彼は何に目をつけたか。石油です。スタンダード石油という石油の独占企業を作りあげます。これあまり巨大企業になりすぎて独占禁止法に引っかかり、今は分割させられて、エクソン・モービル石油になってますが、今も巨大企業であることに変わりはありません。


 アメリカにはお金がまだ何千種類もあるんですね。そんななかで、アメリカは1873年に、「貨幣鋳造法」を制定し、銀貨を排除し、金貨のみを流通貨幣にします。そうなると流通するお金の量が減って、モノが買えなくなります。それで2回目の世界恐慌がおこります。これはヨーロッパにも及びます。もう日本では明治国家ができています。明治維新の直後は世界的には不況の時代です。
 前にも言ったけど、不況になるということは、ものは作る力があるけれど、買う人がいないから不況になるんです。だから過剰生産になってモノが余るんです。物価は物が余ると安くなる。売れ残る。売れ残るから強制的にでも売れる場所を求める。これを市場と言いますが、これをわかりやすくいうと植民地です。この植民地獲得時代に入る。そしてそこに売るんです。そのナンバーワンはイギリスです。

※ 1873年の世界恐慌は、ウィーンでの株価暴落とニューヨークでの銀行の倒産から発生します。この後、1890年代の半ばまで、デフレーション傾向が続きます。この間に、列強は保護貿易へ転換し、帝国主義の時代へと繋がっていきます。特にアメリカでは企業の独占が進展し、議会を支配するようになり、国家政策に影響力を持ちます。ロスチャイルドから派遣されたジェイコブ・シフのクーン・ローブ商会を通じて、アメリカのロックフェラー、 JP モルガン、カーネギー、ハリマンたちが、欧州のロスチャイルドから融資を受けて事業を拡大していきます。


※ ロスチャイルド・ロンドン銀行がアメリカ国債を引き受けています。

 工業面でぐっとイギリスを追い抜いていくのがこのアメリカです。19世紀の終わりにはイギリスを追い抜きます。アメリカが工業生産力で世界一になります。国土も広い。だからアメリカには多くの大金持ち、日本でいう成金が誕生する。アメリカはもともとキリスト教の信仰が非常に強い国で、真面目な人が多かったんだけど、お金を持つとどうも人間変わる。
 非常に軽い人たちがお金持ちになって、この1880年代以降は、俗に金メッキ時代、または金ピカ時代といいます。この時代にはこういうふうに蔑まれるんですよ。神様の教えとかクソくらえ、金さえ儲ければいいんだ、そういう成金です。そういうアメリカ人が多く誕生していく。
 こういう風潮のなかでお金が・・・半分以上は謎なんだけど・・・お金を整理して中央銀行を作ろうというイギリスの意向に対して、それはダメだ、そんなことをすれば貧富の差が激しくなる、と反対したのが時のガーフィールド大統領です。しかし彼はそのあとすぐ1881年暗殺される。謎です。まだ分からない。100年経っても。


 1901年には、マッキンリー大統領暗殺されています。傷は回復しつつあったが、8日後に死亡しています。その次の大統領になったのが、副大統領であったセオドア・ルーズベルトです。アメリカ大統領で暗殺されたのは4人です。あと一人が・・・さっき言った・・・1963年に暗殺されたケネディーです。
 そのあと1981年にはレーガン大統領暗殺未遂事件も起きています。犯人はヒンクリーと言われますが、よく分かりません。


【人種のるつぼ】 アメリカは、どうやって人口が増えるかというと、お母さんがいっぱい子供を産んだからではないですよ。移民の流入です。外国から移民を受け入れる。よそ横から来た人たちの人口で増えていく。
 その一方で、奴隷解放令が出たからといって黒人差別がなくなったかというとそうではない。もともとは南北戦争でヨーロッパの支持を取り付けて戦争に勝つためだったから、奴隷は解放されても、このあとも黒人差別はずっと続く。これは第一次大戦後も続くし、第二次世界大戦後も続く。黒人差別が解消され、黒人が選挙権を持つのは、私が生まれたあとの戦後です。まだつい最近です。


 アメリカの西部には何万年も前から誰が住んでるか。我々と同じモンゴロイドのインディアンが住んでいた。どけ、どけ、と彼らの土地を奪うんです。それで彼らは今は狭い居留地に住んでいる。ここに住めと言われて、閉じ込められている。インディアン迫害です。こういう明と暗が歴史にはあります。ただこういったことはアメリカ人は、言われるの嫌がります。今でも。
これでアメリカは終わります。




【オスマン帝国の衰退】 次はオスマン帝国にいきます。あっちこっち頭を切り替えてください。ここからはオスマン帝国です。
 1600年代以降の約200年間は世界の中心であった国です。今のトルコになっている。小さな国になっているけど昔は大帝国であった。この大帝国がだんだんとヨーロッパ勢に押されて衰退していく。
 1699年には領土だったハンガリーを奪われた。神聖ローマ帝国のオーストリアに。それからポーンと200年ぐらい飛びます。その間のことは一部はすでに言いました。


 オスマン帝国が弱くなると、そこで支配されてる異民族が強くなる。オレたち独立しようと、独立運動が起こる。自立化が進んでいく。これを下の地図からいきます。色がついているところが、もともとのオスマン帝国の領土です。
 しかし1912年のオスマン帝国は、これだけになる。あとは全部独立するんです。いま言ったのは、このハンガリーが独立した。そのあとは東ヨーロッパが全部独立して、ギリシアも独立していく。ギリシアはもともとオスマン帝国の領土だった。
 このギリシアが次に出てきます。その次に独立するのはエジプトです。これもオスマン帝国の領土です。ここも独立する。どんどん独立性されて、オスマン帝国は最終的には小さな国になる。こうやって20世紀の頭までには小さくなっていく。
 それと同時にヨーロッパから侵略されていく。こういうことを今から説明します。


 ナポレオンが負けたあと、1821年からはギリシアが独立するために、オスマン帝国と戦争していく。これがギリシャ独立戦争です。その結果ギリシアは独立する。そしてヨーロッパにはいっていく。
 1831年になると、今度エジプトが独立しようとする。これがエジプト・トルコ戦争です。ヨーロッパはどっちの味方か、トルコなんかつぶせ。エジプトをトルコから切り離したいわけです。だからイギリスはエジプトの味方です。こうやって最終的には、エジプトはイギリスの植民地になる。一方、オスマン・トルコ帝国はどんどん衰退していく。
 
▼オスマン帝国の縮小

 これじゃいかんと思ったトルコも改革しようと1839年から頑張ります。これをタンジマートという。改革という意味です。しかしこれうまくいかない。うまくいかない割には借金ばかり増える。外債です。これは外国からの借金です。お金を貸すのはイギリスです。こういうイギリスのような軍事力を持つ国からお金を借りると、末路は悲惨ですよ。ヤミ金から金を借りるようなものです。それで借金を返せなくなると追い詰められて身ぐるみ剥がされていく。

 ただその頑張りは続いて、ヨーロッパ流も取り入れよう、ヨーロッパは憲法というものがあるんだから、ウチでも作ろうと、大臣で偉い人が、ミドハトという人が憲法を作る。名前を取ってミドハト憲法という。1876年です。日本は1868年に明治維新を達成しています。トルコはアジア人です。これがアジア初の憲法と言われている。日本よりも10年ばかり早い。つくった人はミドハト・パシャという。パシャは大臣という意味です。これがアジア初の憲法です。
 しかし憲法さえつくれば成功すると決まったわけではない。失敗します。成功するのは次に憲法を作った日本です。だからトルコ人は日本人には好意的です。日本の成功を見習おうとした。


 これをつくった次の年にロシアがまたトルコに戦争をふっかける。トルコはそれに負ける。戦争の混乱のなかで、憲法どころじゃなくなる。この戦争が1877年からの露土戦争です。ロシアの露、トルコは土と書く。
 それで憲法を廃止し、昔の政治スタイルに戻す。結局憲法は失敗する。この戦争で、ロシアが奪ったところが、ここです。これは先に言いました。ここも取られた。戦争のたびに領土は小さくなっている。緑で囲んだ部分です。
 このページではここまでですけど、第一次世界大戦では、かすかに残った西アジアのこんなところまでイギリスが取ります。第一次世界大戦でもトルコは敗れます。


【アラブの改革】 次はアラビアに行きます。アラビアというのは、ここです。今のサウジアラビアを中心とした地域です。
 ここでは、イスラーム教がもともとの姿に立ち返ろう、俺たちの誇りを取り戻そう、こういう運動が起こる。これがワッハーブ運動です。ワッハーブというのは人の名前です。でも名前より中身が大事です。イスラームの姿に戻ろうと、正しいイスラムの姿に戻ろうとする。こういう動きは早く、18世紀からすでに起こっています。100年ぐらい前からジワジワ起こっている。それに火がついていくのが砂漠地帯のアラビア半島です。今のサウジアラビアです。ここが一番盛んになった地域です。今でもサウジアラビアはイスラームの厳格な教えを守っている国です。

 この運動の中心になっていくアラビア地方の親分、ちょっと暴力っぽいですけど、この親分をサウード家という。結論を言うと、サウジアラビアとは何か。サウード家のアラビアです。サウードのアラビアです。サウジアラビアです。サウード家が今の王家になります。ワッハーブ運動を経て厳格なイスラーム国家です。
 その始まりは、100年ぐらい前の1744年に、国を一旦つくるんです。ワッハーブ運動だったから、ワッハーブ王国という国を作りますが、これはすぐ滅亡します。滅亡したかと思うと、再建されたり、また潰れたりを繰り返す。
 これはヨーロッパが介入するからです。ヨーロッパは、国家統一の動きを妨害するんです。そこで、なぜ妨害するのか、ヨーロッパは信用ならない、と反ヨーロッパの動きが出てくる。
 これを始めた人がアフガーニーという人です。目標は反帝国主義です。反帝国主義というのは、反ヨーロッパです。ヨーロッパは俺たちを食い物にしようとしている。うまく乗せられたらいけない、口車に乗せられたらいけない、イスラーム主義こそ大事なんだ、という考え方です。この考え方はのちにエジプトの運動にも影響し・・・エジプトはイギリスの植民地にされてますから・・・イギリスから独立しようという動きにも結びついていくんですが、この時にはイギリスが強くて鎮圧します。押さえ込むんです。


【エジプトの改革】 ではそのエジプトです。一旦はオスマン帝国から独立したんです。しかし、これは完全な独立ではなくて・・・正式な国ではなく・・・半分独立した。その中心になったのが、ムハンマド・アリーです。エジプトの総督です。形的にはまだオスマン帝国領です。しかしオスマン帝国もとやかく言わない。だから半独立状態です。

 半独立状態の前から改革運動が起こっています。近代化を進めようとする。やっぱりオスマン帝国から独立したい。そこで戦争が起こる。1831年に・・・さっきやりましたが・・・これがエジプト・トルコ戦争です。順番が逆になったね。さっき言ったように、イギリスはトルコから独立させて、自分だけのものにしたいんです。だからイギリス中心に、列強つまりヨーロッパが干渉します。結果としてエジプトはトルコから自立する。イギリスの狙いは、エジプトを独立させてから、裸にさせてから侵略していこうということです。
 それを早速やるんです。世界地図はこうなってます。イギリスが行きたいところはインドです。しかしここに運河をつくれば、半分で行ける。最初はイギリスじゃない。この運河の名前がスエズ運河です。これを掘ろうともちかける。もちかけた最初はフランスです。半分はエジプトに金を出させる。この金が回収できなくなったんです。エジプトはお金が足らなくなる。そしたら甘いささやき、お金持ってるのはイギリスです。1875年にイギリスがスエズ運河を買収する。狙いはインドです。ここを通ればイギリスはインドまで半分の距離で行ける。

 この時イギリス実は十分なお金はありませんでした。イギリス一の大金持ちに、お金貸してくださいと頼む。これがロスチャイルドです。担保は、と聞かれると、ディズレーリという首相が、「イギリス政府です」と言ったという話がある。ちょっと怖い話です。相手はロスチャイルドです。

 こういうイギリスの侵略に対してエジプト人が腹を立てたのが、1881年アラービー・パシャの乱です。オレたちはエジプト人のエジプトをつくるんだ、今はイギリス人のためのエジプトになっている、おかしいじゃないかと。しかし鎮圧される。軍事力ではイギリスに勝てない。もうイギリスの思う壺です。イギリス軍がエジプトに乗り込んでくる。外国軍の国内への侵入を許せば、もう国として何もできません。戦後の日本と同じです。戦後ずっと国内に米軍がいる。だから頭が上がらない。こういう状態です。


【イランの動向】 次はイランです。昔のペルシャです。ここにはあまり有名ではないけれども、150年ばかり王朝があった。カージャール朝という。イギリスは中国に対して麻薬のアヘンを売りつけた。カージャール朝に対してはタバコを売りつけた。タバコボイコット運動がおこる。ボイコット運動が起これば、軍事力のある国はしめしめです。おまえたちが先に手を出した。イギリスが攻めていく。

 その前に・・・北の方ではロシアと国境を接してますから・・・ロシアも攻めてくる。ロシアとイギリスにねらい撃ちされて、草刈場のようになっていく。このように今のイランは、イギリスとロシアの草刈場になって半植民地化されていく。形だけは独立してるけれども全部干渉される。ああするな、こうするなと言って。イラン人のなかには、こんなことでいいのかと腹を立てる人たち生まれる。彼らが反乱を起こす。バーブ教徒の乱といいます。しかし軍事力が弱い。鎮圧されて逆に押さえ付けられてしまう。ほとんどのアジアはこのパターンです。日本ぐらいのものです、一応独立しているのは。
 これで終わります。ではまた。




「授業でいえない世界史」 38話 現代 列強の中国進出

2019-05-03 18:00:00 | 旧世界史11 18C後半~
※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【日本】
 いよいよ日本です。日本は南北戦争の前の1853年ペリーが浦賀にやってきた。さっき言ったように、この人は娘を通じて米民主党党首のオーガスト・ベルモントとつながっています。そしてそのベルモントの後ろにはヨーロッパ最大の資本家ロスチャイルドがいます。
  ペリーが大砲向けてやってくる。日本は大砲向けられても、勝てないことを知っています。海外情報を日本は持っているからです。鎖国の中でも、オランダ風説書という海外情報を手に入れています。中国もアヘン戦争で負けたことを知っている。だから戦わない。次の年の1854年には日米和親条約を結んで開港する。長崎の出島以外の貿易港として、下田・函館を開く。まだ貿易始まりません。4年後の1858年から始まります。これが日米修好通商条約です。ここから幕末の動乱、西郷隆盛とか、今年やってるあの世界に入る。通商というのがポイントですね。貿易です。貿易が始まって、日本の経済が混乱していく。経済が混乱すると庶民が苦しんで反乱が起こる。その最大の貿易港が神奈川なんですけれども、実際はもっと限定される。横浜です。横浜という名前は、横の浜だから、日本全国いっぱいある。もともと小さな寒村です。数百人ぐらいの村です。今や日本最大の貿易港です。

 ただ同時に、アメリカは他の国と同様に不平等条約を押し付けていきます。アメリカ人が日本でリンゴを盗んだらどうなるか。通常、海外旅行で犯罪を犯した場合、リンゴを盗んでも、日本人だから日本の法律で裁かれるかというと、とんでもないです。裁判は現地主義です。シンガポールで日本人がツバはいたら、シンガポールの法律で罰金10万円です。そうしないと日本に来た外国人は無罪になる。しかしこんなことをアメリカに認める。外国人は日本で裁判できない。これが領事裁判権です。日本で裁判できないということです。領事というのは、イギリス人で日本に来ている人です。彼が裁判をする。しかし実際はしない。叩かれる前に早くアメリカに帰れ、と言う。今の日本でも時々ある。沖縄の米軍の兵士が犯罪を犯しても、日本は裁判できないから、すぐアメリカに帰る。3日後に。日米行政協定でそうなっている。ひどい場合には、翌日返したりする。

 それから、貿易には輸入する場合は、国内産業の保護のために、関税を自由にかけるのが普通です。しかしそれがかけられない。つまり関税自主権がない。そういう当たり前の権利が欠如しています。だから不平等条約です。これを撤廃するのに日本は50年の時間を要します。
 約10年間の動乱ののちに、1868年に明治維新となる。幕府が滅んで新しい政権ができた。天皇を中心とする国家です。
 外交問題としては、琉球つまり沖縄がどうなるか。江戸時代、沖縄県だけは別の国だった。ここは王国です。琉球王国です。日本のようでもあり、中国のようでもある。中国にも服属している。どこの国にするかという時に、琉球の漁民の船が、台湾に漂着したんですよ。そこで琉球人が殺された。この時に日本はすかさず台湾に出兵した。そこで中国は、ごめんと言った。これで決定です。中国がもし琉球を、中国だと思っていたら、自分の国の国民が殺されたんだから、日本が文句いう筋合いないでしょう。中国がごめんと言ったということは、琉球は日本領土だと認めたことになる。だから琉球は日本に帰属する。

 戦後、日本の政府と琉球の県知事さんはとても仲が悪い。こういう経緯があるから、米軍基地問題で、普天間基地問題で、ほんとに仲が悪くなると、中国が沖縄に応援して、中国の領有権を主張するんじゃないか、という話は潜在的にある。沖縄の米軍基地が、中国は大嫌いです。あれはどこを向いているか。中国なんです。沖縄に米軍基地があれば、すぐ中国を攻撃できる。その隣にはグァムがある。グァムよりも中国にとっては、沖縄の米軍基地が嫌なんです。

 では次は朝鮮です。江戸時代の鎖国は日本だけじゃない。朝鮮も鎖国です。日本は開国した。それと同じようにイギリスは朝鮮に、開国しろという。しかし開国しないんです。逆に日本が開国したのは、おまえは戦いもしないで、白旗あげて恥ずかしくないのか、という。日本とは外交方針が違う。日本は開国したが、朝鮮は開国しなかった。このままだったら、朝鮮は外国から取られてしまう。植民地になってしまう。日本はこれがイヤだった。

 朝鮮と日本の地理関係は、朝鮮半島というのは、寝転んだ赤ん坊のノド元に短剣が突き刺さるような形になっている。もし朝鮮が敵になったら、そのノド元を刺される。ここが敵に取られることを、つまりロシアに取られることを、日本は非常に軍事的に恐れた。それで、ここはどうしても日本の仲間であってくれないと困る。それで侵略して、朝鮮半島が約50年間、このあと日本の領土になる。そういうことがあって韓国と日本はいまだに仲が悪い。
 この時の、朝鮮の実力者を・・・王様の親父なんですけど・・・大院君といいます。日本は軍隊を朝鮮に派遣し、軍事衝突を起こして・・・これを江華島事件といいますが・・・これを起こして、そのあと半ば強引に条約を結ばせる。この条約を日朝修好条規といいます。条約と同じ意味なんですが、名前としては条規という。こういう形で日本は侵略していって、朝鮮に不平等条約を押しつけた。西洋の逆のパターンです。

 こういう日本と朝鮮の行き違い、対立関係はその後も続いて、日本が朝鮮を植民地化するまでには、1880年代に軍事衝突が起こります。1882年には壬午軍乱です。日本と朝鮮の軍事衝突です。それに中国も絡むですが、ここらへん、詳しくは日本史で習います。
  さらに2年後の1884年には甲申事変が起こる。壬午とか甲申とかは西暦ではなく、中国流の年の数え方です。この事件は、日本に好意的な朝鮮人である金玉均という人物が、日本と仲間になろうとしてクーデタを起こし、失敗した。それで日本との関係がますます悪くなった、という事件です。

 こういう動乱の時代に朝鮮で流行った一つの宗教が東学です。学問みたいな名前ですけど、一種の新興宗教です。崔済愚(さいせいぐ)という人が始めた新しい宗教なんですけど、これが非常に広まって反乱を起こす。この東学グループの反乱が、朝鮮国内で戦争にまで発展していく。これが1894年甲午農民戦争です。
  これに日本が干渉して朝鮮半島に軍隊を派遣する。そうすると・・・朝鮮の親分は中国なんです・・・中国も軍隊を朝鮮に派遣する。それで日本と中国が戦う。これが1894年日清戦争です。これは朝鮮をめぐる戦いです。今も日本は韓国と仲が悪い。中国とも仲が悪い。日本は東アジアで特異な地位を占めています。この戦争の講和条約が下関条約です。

【下関条約】 日清戦争のところまでいきました。日清戦争は1894年です。清という中国は大国です。とてもチョンマゲ国家の日本が勝てるとは誰も思っていなかったけれども、勝ってしまった。
 その講和条約が翌年の1895年・・・首相伊藤博文のお膝元山口県下関で結ばれる・・・これが下関条約です。ここで日本はすぐ朝鮮を植民地にするんではなくて・・・朝鮮の親分が中国だったから・・・まず中国と朝鮮の関係を切るんです。清の宗主権、つまり親分の権利を否定する。ということは朝鮮を1人にさせる。それが言葉を変えれば独立させた、ということになる。その後何年かたって、日本は朝鮮を日本の領土にしていくわけです。このとき日本が中国から得た領土は、一つは遼東半島・・・あとで地図で確認してください・・・朝鮮半島北方にある小さな半島です。それからもう一つが、朝鮮での争いと全然関係ないところを日本は領有する。これが台湾です。ここから台湾は・・・太平洋戦争終了までの約60年間・・・日本の領土になる。そして中国から賠償金2億テールを得る。


 ただこの時、実は朝鮮をもう一つの国が狙っている。それがロシアです。この遼東半島というのは、朝鮮半島の付け根にある小さな半島です。こんなところがなぜ必要か。ここに旅順という最大の軍港があるからです。良い港が。ロシアはこの凍らない港が欲しいんです。それでロシアは日本に言いがかりをつけるんです。


 ロシアが、フランスとドイツを誘って・・・これで三国です・・・日本に内政干渉する。これを三国干渉という。独立国というのは自分のことを自分で決めていいんですね。他の国からとやかくいわれる筋合いはないんだけれども、遼東半島を返せ、中国のものを奪ったらダメじゃないかと言って、遼東半島を中国に返還させる。内政干渉です。そして日本が返したところでどうするか。ロシアが自分のものにする。日本は、このやろうと思う。これが10年後の日露戦争の説明の半分です。

 こうやってロシア・フランス・ドイツで日本に三国干渉を行う。遼東半島を返せということです。そんなこと聞かなかったらいい。しかし聞かなかったらどうなるか。ロシアと戦うことになる。この時にはロシアに勝てない。
 アジア諸国でヨーロッパに勝った国はまだないです。あのチョンマゲ国家が、大国ロシアに勝てるものかとみんな思っている。このあと戦争が始まってもそう思っている。


【中国の変法運動】 戦争に負けた国というのは、この時代は悲惨なものです。日本が戦争で負けたら日本もそうなるはずですが、日本に負けた中国も、弱い国だと狙われたら最後です。次から次に侵略される。
 
 まずイギリスです。イギリスが領有した所は上海です。中国を潰しはしなかったけれども中国は虫食い状態です。中国人口最大の上海、それを中心にその西に支配地を伸ばしていく。これがイギリス領です。
 もう一つは香港です。香港は島です。対岸の半島、これを九龍半島という。香港と一体化してます。ここもイギリス領になります。この時代は国が弱いとこうなる。


 ロシアはここです。ポイントはここに軍港がある。これがさっき言った遼東半島です。軍港が先端の旅順です。ロシアはこの凍らない港が欲しかった。だから日本に返還させたうえで、自分がもらった。


 もう一つ、フランスです。フランスはベトナム中心に中国南部です。ここはフランス領です。ちなみに約50年後の1940年、日本がここに軍事侵攻していくことになる。これが太平洋戦争で、アメリカと戦うきっかけになっていく。
 こういうふうに中国は国があってもなきがごときもので、形だけです。

 日清戦争における日本の勝利は、こうやって西洋列強の東アジア支配を強めることになります。きっかけは朝鮮をめぐる日本と中国の対立でしたが、結果は西洋列強が中国に乗り込んでくることになってしまいます。
 このことは大きく見ると、ヨーロッパ流の「分割して統治せよ」がアジアで実現したことになります。ヨーロッパ、特にイギリスから見ると、アジアは分裂していたほうが進出しやすい。敵は敵同士で戦わせたほうがいい。イギリスが中国と直接戦うよりも、日本を中国と戦わせたほうがいい、ということになります。日本の意図とは別に、日清戦争における日本の勝利によって、ヨーロッパ列強による中国進出が進んでいきます。このパターンはこのあとも現れます。
 日清戦争は1894年8月に始まりますが、その1ヶ月前の1894年7月には、日英通商航海条約が調印され、イギリスは日本での治外法権を撤廃しています。ここにイギリスの意図が隠されています。その50年前の1840年にイギリスはアヘン戦争を起こして、露骨に中国侵略を始めるわけですが、50年後の日清戦争ではいつの間にかその役割を日本が担っています。しかしそれはイギリスが日本を重視したからではありません。イギリスが欲しいのはあくまで中国です。
 これは日本の近代史の問題でもあるのですが、それはイギリスを中心とする世界史上の問題です。日本の近代史ではアメリカのペリーばかりが言われますが、実はイギリスとの結びつきが大きいのです。それは明治維新前の1859年に長崎にやって来たイギリス人、トーマス・グラバーから始まります。しかしこの話をしようとすると、すぐ坂本龍馬の話にばかりなってしまいます。そんな下級武士中心の話ではないのです。

 つまりこの日清戦争は、西洋列強にとっては日本が中国に勝ったことが大事なのではなくて、中国が日本に負けたことが重要なのです。西洋列強は自分たちの手を汚さず、日本を中国というアジアの国同士を戦わせて中国を弱体化した。そして中国が弱体化したあとは、中国を植民地化していく。
 日本をそういうふうに仕向けたのはイギリスです。イギリスは日清戦争の始まる1ヶ月前に、日英通商航海条約を結び、日本に有していた治外法権を撤廃します。日本はイギリスをバックにつけて日清戦争を戦ったといわれますが、世界史的に見ると、イギリスが日本への治外法権を撤廃する見返りとして、日本を中国と戦わせたのです。
 日本が欲しかったのは朝鮮です。欲しかったというよりも、朝鮮がロシアに領有されることを恐れたのです。ところがそのロシアが三国干渉を行って、遼東半島を領有した。これに続いて、フランス、ドイツも中国に進出します。香港中心に中国に進出していたイギリスは焦ります。敵の中心はロシアだ。ロシアの中国進出を食い止めなければ、そういう思いに駆られます。
 この時ロシアはドイツと組んでいます。イギリスにとっては、ロシアもドイツも敵です。イギリスはいつも「敵同士を戦わせる」作戦に出ます。これはいつでもそうです。このあとやはりロシアとドイツが対立し、イギリスがロシア側について、第一次世界大戦が起こります。そこまであと20年間、どういうことが起こるか、表面だけを見ていてもなかなか分かりません。
 結論だけいうと、第一次大戦によって、ロシア帝国もドイツ帝国も崩壊します。

 ところで、これじゃいかんということで、中国も国を変えようと頑張ります。この運動を変法運動といいます。1898年です。日清戦争の4年後に改革を進めていこうとする。その中心人物が康有為です。皇帝を説得し、光緒帝という皇帝を担いで改革を目指すんだけれども、それに反対する人がいる。それが皇帝の第二婦人の西太后です。女傑ですね。自分の敵は情け容赦なく、むごい殺し方をしていく。しかし政治力がある。皇帝であろうと自分の意見と違えば、皇帝を辞めさせたりする。それで康有為を失脚させて、変法運動をやめさせる。そして同じ年に、変法運動はすぐストップさせられる。これを戊戌の政変という。戊戌は年の数え方です。皇帝の光緒帝を幽閉して牢屋に閉じ込め、康有為は命をねらわれて日本に亡命する。国を追われる。中国はなかなか改革ができない状態が続きます。


【列強の中国進出】 その一方でヨーロッパは、さっき地図でも言った通り、中国も狙い目だ。ロシアを中心に日本に三国干渉をして、そんな弱い者いじめをしたらダメじゃないか、中国から奪ったらダメじゃないかと言って、遼東半島を返還させたあと、ロシアがそこをもらう。
 この時にはロシア・フランス・ドイツです。第一次世界大戦に結びつく国際関係がこのあと結ばれていきます。ロシア・フランス・ドイツがこの時には仲間ですけど、このあとはイギリスがそこに割り込んでいきます。
 結論をいうと、第一次世界大戦とはドイツだけが仲間から外されるんです。みんなでドイツを潰す。そういうふうになっていく。そこにまた日本が日露戦争で一枚噛むことになります。
 このドイツが何を恐れているか。ヨーロッパの南東の方、オスマン帝国方面、つまりロシアがバルカン半島に南下することを恐れている。まず南に行くなと言う。そしたら、ロシアは凍らない港を南には捜せなくなって、それで東に行こうとする。それでアジアの東の中国の遼東半島、旅順という軍港を手に入れた。
 次にやることは、そこに物資を運ぶための鉄道をつくること・・・これをシベリア鉄道という・・・この何千キロもの鉄道、世界最長の鉄道を引いていく。そのことにドイツが、東だったらいいから行け行けと支持する。
 しかし、ロシアにそんな危険な軍港を与えたらダメだというのがイギリスです。そして、同じようにロシアに来てもらったら困るというのが東にある日本です。だからこのあと日本とイギリスが結びつく。


 要はフランスがどう転ぶかということ。だからロシアが中国に行くのだからということで、それならオレも中国だという。アメリカを含めて中国進出がどんどん激化していく。
 その結果さっき言った地図のようになる。中国は弱いんだ、簡単に取れるぞ。1898年、日清戦争の4年後には、ドイツは膠州湾を取る。膠州湾は山東半島の南です。それからロシアも朝鮮北方に乗り出す。早いもの勝ちです。1年の間に一気に変わる。彼らの動きはあっという間です。
 この19世紀終わり、日本はよく独立していたものだと思う。日本が取ったのは、旅順、それから大連。遼東半島にある二つの都市を取る。旅順は軍港です。
 それからイギリスもロシアに対抗して素早く取る。面積は大きかったけれども、ポイントは九竜半島です。ここは香港の隣です。そのずっと南はフランスが取った。

※ 1896年、香港上海銀行が中国政府に3200万ポンドの資金を提供する。

※ 1898年、イギリス外務省の支援のもと、中国の中英公司に香港上海銀行、ジャーデン・マセソン商会、ロスチャイルド商会、ベアリング商会が関与する。



 中国はこうやって虫食い状態です。国は看板のみ、形だけしか残っていない。これに出遅れたのがアメリカです。アメリカはペリーが日本に来てから・・・本当は日本なんか目じゃなかった・・・中国に行きたかったんです。日本はそのための足がかりに過ぎなかった。しかしアメリカは南北戦争でここでも出遅れた。
 そしたらアメリカは中国に対して、1899年に門戸開放宣言を出す。つまり、みんなに窓を開きましょうと言う。自分の地域ばかり独占したらダメじゃないかと言う。なぜか。出遅れたからです。自分も欲しいということです。アメリカはその間、南北戦争があって、日本どころじゃなくなって、中国どころではなくなっている。この門戸開放宣言というのは、大統領に次ぐナンバー2のポストの国務長官ジョン=ヘイが発表した。門戸開放を提唱した。本当はアメリカも中国が欲しいんです。
 そして同時にスペインと戦っている。アメリカ大陸のメキシコから南はほぼ全部スペイン領土です。そのメキシコの一部、ニューメキシコ州をアメリカに併合する。そういう戦いをやっている。これが1898年の米西戦争です。西はスペインのことです。米は言うまでもないでしょう。
 
▼列強の中国進出

 日本から見ると、やっと中国から手に入れた遼東半島を、ロシアが返せと言ったから返したのに、ロシアは自分の懐に入れた。これズルいじゃないかと思う。それで日露対立が激化する。深刻化していく。そして10年後には日露戦争になる。これはまたあとでいいます。日本は、このときなぜノーと言えなかったのか。弱いからです。国を強くするためにはまず産業をヨーロッパなみに上げないといけない。だからもっと上げよう、上げようとした。もう少し時間がかかるけど、一方では近代化に成功していく。
 それがうまくいかない国がアジアではほとんどです。中国もうまくいかない。だから中国も焦って、ではどこがうまくいってるかと見てみると、この時点では日本だけです。よく東京あたりに中国人が勉強しに来る。遣唐使の時代から見ると全く逆です。昔は日本人が中国に学びにいっていた。
 この時代から中国人が東京に学びに来る。または東南アジアからの留学生が東京に学びに来る。日本はアジアから注目されていく。あの中国に勝ったぞ。10年後にはあのロシアに勝ったぞ。みんなびっくり仰天なんです。日本を応援していたイギリス自体が驚く。
 イギリスはすごい国で、このあと日英同盟を結んで、日本とロシアを戦わせておいて、その一方で賭けをする。どちらが勝つかと。1対9だったという。日本が1です。勝つと思ってないんです。それをなぜ戦わせるのか。ロシアを消耗させるのが目的です。変な意味ですごい国です。この時代のナンバーワン国家はアメリカではない。このイギリスです。当時は大英帝国です。




【技術の発達】 どんどん技術も発展して、今の電話とか、電信機はモールス。無線電信は、言葉ではないくて、ツートンツートンとやる、そういう電信機も生まれる。それから電話、人の声が有線で伝わる。まだ無線電話はない。なんで電話のベルと言うか。発明した人の名前です。1876年です。電信機は1830年代ぐらいで、音信の、ツートンツートンが早い。私は、無線になると仕組みがよくわからない。無線で通信できるようになる。これがマルコーニです。1895年です。日清戦争頃です。


 あと、いろんな学問で世界観を変えていくのは、人間は万物の霊長で神に近い、とか思われていたけど、猿から進化したという、ダーウィンの進化論。それを書いたのが「種の起源」。人間は猿であった。神じゃない。子供のころは、人間が動物ということは知らないときがありますが、人間は動物です。


 それから音を貯める。この音を貯めるというのが今のレコードとかCDのもとですけど、発明したときには、なぜ音を貯めなければならないのか、そんなもの何の役に立ちのか、バカじゃないかという話があって、利用価値がなかった。しかしなんでも特許をとっておくと、世の中の発展次第でどうなるか分からない。何の役に立つのか、音を貯めて何するのか、手紙で書けばいいじゃないか、でもこれが蓄音機になる。今では欠かせない。


 それから白熱電球です。ローソクじゃなくて、ランプじゃなくて、明るいからすぐ売れたみたいですけど。これはエディソンです。アメリカ人です。小学校しか出てない。このエディソンの企業というのが、アメリカ最大の電機メーカーになる。

 アメリカもこうやって産業革命がどんどん進んでいく。さらに鉄が空を飛ぶ。これも1903年です。ライト兄弟の飛行機です。

 それから自動車。それまで金持ちの道楽だったのが、庶民でも普及し始めるのが1920年代のアメリカです。これをやったのがフォードです。庶民が買える値段で発売する。T型フォードという。Tを逆にして、こういう車になる。金持ちの道楽ではなくなる。


【社会の変化】 それから、こういう無線とか電話とかの通信技術が発達すると、情報産業、マスメディアというものも同時に発達して、これが現代社会の隠れた権力になる。政治経済でもやりましたが、これが社会に与える影響は大きい。テレビ・ラジオ・新聞、今はネットなど。


 1920年代、もうちょっと先になると、自動車が、金持ちの道楽ではなくて、ちょっとした人たちでも持てるようになる。これがT型フォードです。音も飛ぶ、鉄も飛ぶし、音も飛ぶ。ラジオです。なにもないところから、人間がはいってないのに機械から人の声が出る。そしてニュースがとどく。しかも即時で。


 こういう技術の変化と同時に、政治的には植民地合戦が起こります。それを帝国主義といいます。これまたあとで詳しく言いますけど。土地を求めて、植民地を求めて、強い国同士がどんどん競争していく。これが第一次世界大戦の理由の大半です。世界を巻き込む大戦争になっていく。


 こういう戦争の時代と同時に民主主義が発展するんです。民主主義は戦争をしない体制だと思っていませんか。それはウソです。この100年の歴史から見ると、民主主義が発展するに従って戦争が拡大した。一番悲惨な戦争をやったのは、この20世紀です。この時代が一番悲惨な戦争をやって、一番人が死んだ時代です。それは同時に民主主義が拡大していった時代です。その民主主義の母体となっているのが選挙権の拡大です。ここらへんは、まだ詳しく解明されてないけど、ちょっと怖いところです。


 この民主主義にも、当初はなんの政治的知識もない人に選挙権を与えて良いのかという話があって、ちゃんと知識を持った人、力を持った人が、政治を行うべきでないのかというのも、ある一定の支持を集めていた。選挙権は拡大していきます。それと同時に、独裁政権というものも20世紀には誕生していく。代表格としてよく言われるのがドイツのヒトラーです。これは50年ぐらい先です。政党としてはドイツのナチス党です。ファシスト党はイタリアです。
 これで終わります。ではまた。




「授業でいえない世界史」 39話 現代 帝国主義とアフリカ分割

2019-05-01 17:00:00 | 旧世界史11 18C後半~
※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【帝国主義】 では帝国主義です。1880年代になると帝国主義の時代に入る。一言でいうと植民地争奪合戦の時代です。なぜ植民地が必要なのか。物がかなり大量につくれるようになった19世紀の後半、1870年代ころからは、綿とか軽工業ではなくて、鉄とか大砲とか軍艦とか第二次産業革命が起こっていく。こういうのを重工業といいます。
 これはすぐ軍事力に結びつく産業です。大砲がつくれる、戦車がつくれる、軍艦がつくれる。その一方で、こういう会社を経営する資本が大きくなって、自由競争というのは強い人間が、弱い人間をつぶしていく過程でもあります。または大きい会社が小さい会社を合併していく過程でもある。そうやって成長し、ある一定以上、市場の半分以上を占めるような大企業を独占資本といいます。
   お金を持ってるところは銀行です。そのお金を企業が借りて、規模を大きくしていく。こうやって金融と企業が結びついていく。
 そして次には、これが国家が結びついていく。結びつくとはどういうことか。企業と仲が良い人を資金援助して国会議員に通せばいいんです。これで自分たちの仲間が、半分以上国会議員に通れば、議会を支配できる。
 そうすると企業が儲けるために作れ、作れとなる。作ったものは売らないといけない。売れるところを市場といいます。景気が良い時には国内でも売れるけれども、景気が悪くなると国内では売れなくなって、国外で売ることになる。その市場を独占するために植民地という形をとる。これで他の国の商品が入って来れなくする。
 売れないと植民地をもつ。そこにはルールがなくて早い者勝ちだった。西から東からどんどん早い者勝ちで植民地にしていくと、どこかでゴッツンコする。そしたら戦争になる。こういう争いが起こるのが帝国主義の時代です。このぶんどり合戦の結果、第一次大戦が起こるといっても間違いではない。

 そういう中で、アメリカが急速にのし上がってくる。アメリカナンバーワンの大富豪というと、今でもある大財閥のロックフェラーという一族です。ニューヨークのウォール街にロックフェラーセンターというビルもある。石油で儲けた一族です。今は巨大財閥化している。母体はスタンダード石油です。前にちょっと言ったけど、あまり巨大すぎたため分割されて、今はエクソン・モービルという石油会社になっていますが、それでも巨大石油会社です。そのロックフェラーが活躍しだして、アメリカを支配していくのがこの時代です。
  アメリカがのし上がっていく。そうすると、今までナンバーワンだったイギリスは、ここらへんから、貿易額の図を見ると、30%、20%、19%、15%と減っている。代わりにアメリカです。23%、28%、30%、35%と増えていく。イギリスの倍以上になる。 
 
▼工業生産の各国割合
 
 
▼工業生産と植民地
 

 ではこの間、イギリスは植民地を減らしていったのか。1900年頃、工業生産力はすでに圧倒的にアメリカです。しかし植民地支配で圧倒的なのはどこか。アメリカではない。イギリスです。経済が衰えていけばいくほど、イギリスは植民地を獲得していく。 
 これよく逆にとらえる人がいる。イギリスは経済を大きくしていったから、それに比例して植民地を拡大していった、と。そうではない。逆です。イギリスは、経済が縮小し小さくなっていくにつれて、それをカバーするために植民地を広げていったのです。
 では植民地にされる側はどうなるのか。そんなことは考えてない。
 イギリスが景気が良くて植民地をウハウハ占めていったんじゃない、ということです。

 イギリスがそういったことをすると・・・この時代は景気も悪いんですよ・・・1873年世界恐慌が起こる。この原因は前にもいったけど、物の作りすぎです。作る能力は大きくなった。しかしお金を一部の人間が独占しているから、買う人がいない。作っても売れない。そうすると物価は落ちる。だから儲からないんです。だからその余った物を売るための場所を求める。これが市場です。そしてこれが植民地になる。1800年代の後半で景気がよかったのはイギリスじゃなくて、アメリカです。さっき言ったロックフェラー、銀行界ではモルガン、鉄ではカーネギー、鉄道ではハリマン、こういう人たちがアメリカの経済を牛耳るようになる。そしてどんどん事業を拡大する。

 もう一つ、なぜ急速に拡大できたのか。この資金源はどこか。どうもイギリスのロスチャイルド家、それとの関係が見え隠れする。あのスエズ運河をイギリスにポンとお金を貸して買収させた家です。ここまでは教科書に出ています。ロスチャイルドはその子分を、おまえアメリカに行って商売してこいと言って、名前を変えた支店を出さしている。そこらへんと結びつく。例えば1865年には、ロスチャイルドは、同じ家に住んでいたジェイコブ・シフを渡米させて、クーン・ローブ商会を設立させている。そこを通じてアメリカへの資金提供を行っている。

 あとの日露戦争で、日本はお金が足りないから、アメリカから借りるんです。ではアメリカで誰が貸したのか。その資金源はどうもヨーロッパのロスチャイルド財閥です。橋渡しをしたのがアメリカに渡米したジェイコブ・シフです。こうやって日本はイギリス資本と結びついていく。
 イギリスとしては、今までは工業生産力が強くて自由貿易でよかったけど、アメリカが追いかけてそれに追い越されると、イギリスは保護貿易に180度方向転換する。今アメリカが保護貿易に変わろうとしていることと同じです。アメリカがトランプに変わってから、何が変わろうとしているのか。中国との交渉が、いま非常にもめているんですけど、どうなるか、この時代と非常に似ています。

 それでイギリスは物作りはあきらめて、金貸し商売をやる。世界の銀行となっていく。これも今のアメリカがたどっている道と非常に近いです。アメリカも金貸し商売に力を入れだして、うまく行っていたのが2000年代までです。これが失敗して世界中が一気に不況になったのが、2008年の忘れもしないリーマン・ショックです。その年はほとんど就職がなかった。
  それと同時に、資本主義はやっぱりまずいんじゃないか、という話もあって、政治経済でも言ったように、ここから社会主義が出てくる。


【帝国主義と社会主義】 イギリスは産業革命は、もう落ち目になっている。アメリカに抜かれている。それと反比例して、イギリスは植民地獲得に乗り出して、世界で一番大きい植民地帝国になっている。こういう時代を帝国主義といいます。この帝国主義というのは、物を作って売りたい社長・・・これを資本家という・・・この資本家の資金と国家の動きが結びついている。本当は、資本家のお金によって国が動かされている。植民地を狙えと言っているのは資本家なんです。
 この資本家と対立するのが、社会主義という考え方です。資本主義は一部の人間に富が集まるから良くないという考えです。帝国主義が盛んになるに従って、この社会主義運動も激しくなっていきます。


 その代表的な政党がドイツに生まれたドイツ社会主義労働者党です。これは名前を変えて社会民主党となって、今でも非常にドイツで勢力を持ってる政党です。
 もう一つは、今でもイギリスの二大政党制の一つである労働党、これも社会主義政党です。イギリスでは自由党に代わって労働党が強くなっていく。今のイギリスはこの労働党と保守党の二大政党制です。この1890年頃にこういう労働党という社会主義政党が現れます。

 ではイギリスの多くの国民はそのことをどう思っていたか。アフリカとかアジアの人たちを苦しめたらダメだと思ったかというと、イギリスが植民地を増やせば景気が良くなるから、やれやれ、やってくれ、オレたちの生活がよくなるからやってくれと言う。踏み台にされたアジアの人間はどうなるか、そういうことはあまり考えない。国民は帝国主義には反対していない。民主主義国家では、国の政策は国民が賛成しない限りできない。イギリス国民は植民地をもっと取ってくれと思っている。

 もう一つの動きが、こういう資本主義の金持ちに多かったのがユダヤ人なんです。ユダヤ人というのは3000年の歴史があって、ヨーロッパ住んで、彼らは金融業をやっていたために、けっこうお金持ちになっている。そういうお金持ちが、お金の力で国を動かしている。そのことに対して国民の不満も高まっていく。反ユダヤ主義が、この19世紀後半に起こっていく。これは悲惨な結末になる。このあと50年後、ナチスドイツのヒトラーによってユダヤ人大虐殺が行われていく。これはよく知られていることです。

 その現れで、けっこう偉くなってるユダヤ人たちも多い。そのフランスのユダヤ人で有力な軍人がいた。ドレフュスという人です。1894年に、この人がドイツのスパイ容疑をかけられ、無実の罪で捕まえられた。ユダヤ人だということで。そういう事件も起こっていく。

※ 1897年 第1回シオニズム会議・・・イスラエル建国のための初のユダヤ人会議

※ 1895年、ジェイコブ・シフの要請を受けたウォーバーグ兄弟のポールとフェリックスはニューヨークに移り住み、クーン・ローブ商会に加入した。ウォーバーグ家の長男マックスは、ヴィルヘルム2世の金融顧問を務め、第1次世界大戦後にドイツの金融界の実権を握り、ドイツ帝国銀行の理事を務めた。ヒトラー時代のシャハトの黒幕である。(宋鴻兵)

※ 1898年、ドイツのウィルヘル2世は、シオニズム擁護の姿勢を明らかにしたが、その場でオスマン帝国の反対にあった。1518年からパレスチナはオスマン帝国の統治下にあった。(宋鴻兵)

※ 1898年、ドイツは、ユダヤのシオニズム支持を放棄した。(ドイツは、オスマンとユダヤのうちオスマンを選んだ。)ドイツの説得に失敗したシオニストは、ドイツに敵対するイギリスに近づき、両国間で戦争を起こし、オスマン帝国を解体してパレスチナを手に入れようとした。(イギリスはオスマンとユダヤのうちユダヤを選んだ。)シオニストは、イギリスとアメリカに対して、ユダヤ人のパレスチナ入植を支持するよう説得し、ドイツへの宣戦を煽った。(宋鴻兵)


 これは全然関係ないけど、この時代、1889年のアメリカで起こったことが、株式会社の株を買うのは人間だった。それがある会社が別の会社の株を買うということが起こる。これはアメリカのニュージャージー州というところから始まる。今はほとんどこれですね。会社が会社の株を持つ。
 いま日産ゴーンの手が後ろに回っている。フランスのルノーが日本の日産自動車を買収したんです。会社が会社の株を買った。そういうことが、いつの間にか気づいてみたら全世界的に広がっている。これが今でいう持株会社です。
 これをやられると、大きい資本がどんどん小さい会社の株を買って、いわゆる独占企業になっていく。そういうことが小さく始まる。そして気づかないうちに、どうしようもないことになっていく。こういうのもこの時代です。


【社会主義政党】 資本主義に対する社会主義の広まり・・・さっき言ったけど・・・その中心になったのがドイツ社会主義労働党です。これが1890年に社会民主党という政党に名前を変える。この時のドイツ帝国の中心人物は・・・この時までビスマルクなんですが・・・彼は資本主義側だから、この社会主義を弾圧していく。
 しかしこんな弾圧に負けるものか、俺たちは世界革命をやるんだ、という社会主義組織を作っていく。それが第2インターナショナルです。インターというのは相互のという意味、ナショナルは国です。国家同士を結びつけて、全世界で社会主義革命をやるんだということです。世界革命というとタチの悪い漫画みたいですけど、これを大まじめでやる。これは世界革命組織です。結果的には失敗しますけど。この時代には大まじめで取り組まれる。


【国際組織】 社会主義がそうだったら、オレたちも別の意味での世界組織をつくろうという動きが出てくる。国際赤十字社です。これは病人を助けようという慈善事業から発生したんですが、言いたいのは世界規模ということです。世界規模の組織がこの頃からできはじめる。国際赤十字社は1864年です。
 世界規模の組織と言えば、いまのスポーツ業界というのも一種の産業、それどころか巨大産業になっています。力持っているんです。そのはじまりが第1回オリンピック大会です。近代オリンピックが始まります。古代オリンピックはギリシャであっていた。それをマネしたんです。これが1896年からです。1800年代の後半から、こういう世界を動かす組織ができ始めます。

 今でもオリンピック組織委員会なんかは、日本の首相が頭を下げて飛んでいくぐらい、一国の力よりもっと大きい。どこに今度は開催しようかな。それを取るために、あの日本のバカ騒ぎよう。国ぐらい吹っ飛ばす勢いです。スポーツは産業としては、見ていて楽しいから、テレビも放映権を欲しがるし、その放映権を莫大なお金を使って買う。そしてそれを十分取り戻すだけの利益が出る。オリンピックはお金になる。


【アフリカ分割】 植民地の狙い目はどこか。狙われたのがアフリカです。アフリカの奥地はまだ未知の土地だったんだけれども、この1800年代後半になると、好んで探検に行く人たちが出てくる。これがリビングストンです。イギリス人です。もともとは宣教師なんです。アフリカ人にキリスト教を教えてやろうとする。しかし結果的にはイギリスが植民地化していく。しかし彼は探検途中で行方不明になる。その行方不明になったリビングストンを救助しにいった人、これがスタンリーです。あの広大なアフリカで、またまたよく会えたなあと思う。奇跡的にと教科書にも書いてあるけど、どこにいるか分からない人間を探しに行って、たまたま会うなんてことがあるのかな、不思議なことです。彼はそこで救出される。

 アフリカ最初の植民地として狙われたのはコンゴです。アフリカの真ん中あたりにある。そこを狙ったのはイギリスではない。ベルギーという小さな国です。ここはオレの土地だ、とそこの王様が言う。えっ、それでいいのかと、それなら早い者勝ちだ。オレもオレもと、一気にそうになるから、これはまずいと言うことで、1884年にビスマルクが出てきて、大変なことになる前に、ルールを決めておきましょう、皆さん、集まってください、と言う。ウチでやりましょう。ドイツの首都はベルリンです。ここでコンゴの領有をめぐり、ベルリン会議を開く。1884年です。ヨーロッパ各国を集めて会議を行う。中心はビスマルクです。
 でもアフリカを取るのはドイツ中心ではない。やはりイギリス、フランスです。ルールは早いもの勝ちです。きれいな言葉で書かれているけど、けっきょく早い者勝ちです。ルールなんてないんですよ。取ったと言ってくれればいいとする。俺のものと宣言してくれればいい。これは強い者の論理ですね。そこには何が抜けているか。そこに人は住んでないのか。住んでる人がいる。そんなこと全く無視です。彼らにとってはアフリカ人は人間ではないかのようです。

 そこからはイギリスが、どんどんアフリカに進出していく。イギリスは北と南を結ぼうと縦に行きます。これをアフリカ縦断政策といいます。まず北のエジプト、南の南アフリカをまず取るんです。そして縦につなげようとする。
 あと一つの国がある。オレは横から行こう。これがフランスです。その二つはいずれぶつかる。これが1898年ファショダ事件です。しかしこれが第一次世界大戦ではありません。逆にここでは両国は結ぶんです。あの英仏が結んだ。もともと仲が悪い二つの国が手を組む。
 取り残されたのはドイツです。ドイツはなぜ取り残されたのか。ドイツでは切れ者のビスマルクが引退する。若造の皇帝とは意見が会わない。この若造皇帝はビスマルクの言うことを聞かない。今から向かうところはイギリスドイツの戦いです。これが第一次世界大戦です。

 もう一つあとの第二次世界大戦は、これにアメリカが加わってまたドイツと戦う。日本は第一次世界大戦はイギリス側について勝った。第二次世界大戦では、ドイツ側についてこてんぱんにやられる。ピカドンは落ちる、空襲はある、何百万人死んだかわからない、君たちの親類縁者にも亡くなられている方がいる。


 以上が概略ですが、このことを見ていきます。

 イギリスがエジプトを支配した。そのエジプトの拠点として、この約20年前にイギリスは早々とスエズ運河を押さえていた。スエズ運河というのは、ここにある運河です。人間が切り開いた河、これが運河です。そこが拠点となっていた。そうするとエジプト人もバカじゃないから、なんでこんな暴力的なことをされるのか、俺たちの国じゃないか、ということで1881年に反乱が起こる。これをアラビー・パシャの乱という。エジプト人のエジプトをつくろう、と言うことです。前にも言ったけど、今はイギリス人のためのエジプトになっている、おかしいじゃないかということです。
 そうすると、この南にまた別の国がある。ここも貧しい国なんです。スーダンという。そこでもまた同じ1881年に反英運動が起こる。マフディーの乱という。イギリスはこれも一気に潰していく。彼らはちゃんと抵抗したんです。そうですかと言って黙ってみていたんじゃない。ちゃんと抵抗したが、しっかり潰される。

 次に、さっき言ったように、西からはフランスが進んでいる。ここでイギリスとゴッツンコする。あわや戦争かというところまで行く。この事件を、さっきも言いましたけど、この地点の名前をとってファショダ事件という。1898年です。縦断策はイギリスです。横に行っているのがフランスです。アフリカ横断政策です。これがぶつかる。あわや戦争かというところまで。
 しかしそこをうまくイギリスが交渉して、有利の内に、お互い刀のさやをおさめる。まあ仲良くしようじゃないかという。それであの仲の悪かった英仏が手を組む。これが英仏協商です。1904年です。もう20世紀にはいりました。

 その3年後には、あの仲の悪かった・・・これが本当に一番仲が悪かったんですけど・・・イギリスとロシア、そのロシアが1904年日露戦争に負けて、イギリスと手を組む。1907年英露協商です。
 これに取り残されのがドイツです。ドイツはイギリスにも囲まれ、フランスにも囲まれ、ロシアにも囲まれ、もう逃げ場がなくなる。蛇がじわりじわりと獲物を締め殺すような感じで取り囲まれていく。なぜそんなことになるか。1890年に・・・さっき言ったように・・・ビスマルクは、こんな皇帝とはやっとられんと言って、首相をやめていく。そのとたんに外交ベタになる。でもこれはドイツのお家事情であって、外交事情ではありません。イギリスは初めからドイツ外しを狙っていたようなところがあります。

 もう一つ、一番南のところには・・・今の南アフリカ共和国ですけれども・・・都市の名前でケープタウンというところがある。当時はケープ植民地と言っていた。そこがイギリスの重要拠点になる。しかし、最初からイギリスだったかというと、当初はブール人・・・これはオランダ人です・・・彼らが200年も前からそこに進出して住んでいます。ブール人とは、イギリス人がオランダ人を蔑んで呼んだ名です。日本人がジャップと呼ばれるようなものです。豚やろうという意味です。ジャップと言われて、頭かいてヘヘッーと笑っていたらダメですよ。そんなことすればどこまでもバカにされます。
 オランダ人は戦ったら負けるからそこから逃げて、トランスバール共和国、それからオレンジ自由国という別の国をつくる。しかしその逃げた国から金が出てきた。ダイヤが出てきた。イギリス人がこれを見過ごすわけはない。追いかけて行って、つぶして、併合して、南アフリカ連邦になる。この戦いが1899年から起こっていた。これをブール戦争という。1902年まで続きます。
 だからイギリスは、1902年まではロシアのことまで手が回らない。ロシアはロシアで、東のほうの朝鮮北方にまで進出している。イギリスはそれを誰に食い止めさせたか。それが日本です。これが1904年日露戦争です。ここでもイギリスは戦争で勝っている。南アフリカでも勝っている。朝鮮・満州でも勝っている。日本を使って。
 これが南アフリカ連邦、今の南アフリカ共和国です。ここは圧倒的に黒人が多い。しかし数%の白人が支配層です。これがくつがえったのは、君たちが生まれるちょっと前のことです。初の黒人大統領ネルソン・マンデラが出る。これは政治経済の教科書にも書いてあることです。それまでは徹底した黒人差別をしていた。これをアパルトヘイトといいます。トイレだって白人専用、黒人は使えない。学校だって、食堂だって、白と黒を分けて、すごい差別をしている。つい最近までです。200年前のことではない、たった20年前までやっていた。

 では、半分言ったけど、フランスです。フランスはアフリカ横断政策をとっていた。しかしファショダ事件で、イギリスに譲歩した。そこで1904年英仏協商を結んで、イギリスと手を組んだ。

 では出遅れたドイツは・・・ベルリン会議を行ったけれども出遅れた・・・ドイツはどこかというと、西の方にあるモロッコです。モロッコを拠点に、軍艦を率いてここに上陸したんだけども、この時には、イギリスとフランスが手を組んで、通せんぼされて、すいません、と言って帰った。ドイツはこのやろーと思う。これが1905年第一次モロッコ事件です。

 次はイタリアです。イタリアはイタリアで、みんなやるんだったらオレもしようということでイタリア半島の向かい側のリビアを取る。最近ここの指導者カダフィ大佐がアメリカによって殺されました。今も混乱の極みです。あれから10年経っても。

 アフリカ分割、植民地の先鞭をつけたのは、小さな国ベルギーです。このベルギーの大様が、コンゴをオレの土地にする、オレ個人の土地にすると勝手に言い始めてから、オレもオレもと一気になった。罪深いところです。

 ここまで来るのに、ベルリン会議が1890年ですから、やり始めたらとも10年ぐらいで一気にやる。ふと気づいたら、1910年で独立していたのは二つだけです。侵略を受けなかったのは、一つはエチオピア、もう一つはリベリア、これだけです。

 それから東南アジアも、独立している国はない。日本以外には。わずかに独立している国はどこか。東南アジアで日本以外で独立しているのは、タイだけです。その他はほとんど西欧列強の植民地です。アフリカの状況とたいして変わりません。
 
▼アフリカ分割



【アフリカ分割図】 帝国主義の植民地地図の色分けを、ここでやります。19世紀の後半、アフリカがヨーロッパ列強によって植民地にされていく。イギリス領はに行く。赤で囲んでください。南は一部ちょっとつながってないけれどもほぼ縦に繋がってる。これがイギリス植民地です。
  それから青でフランス領を囲んでください。フランスは西から東ににいく。これがフランス領です。そしてポーンと飛んでマダガスカル島、ここもフランス領です。  わずかに残った独立国を、黄色で印をつけてください。エチオピアとリベリアだけです。ここしかない。ほぼすべて植民地になる。
  あとドイツ領とか、ポルトガル領とか、ベルギー領コンゴとか、イタリア領とかに分割される。早い者勝ちです。これは東南アジアもいっしょです。その右の図が東南アジアです。
 
▼東南アジア分割


  次は東南アジアです。イギリス領は、インドからずっと東へ延びています。インドから東の方、今のミャンマー、それからマレーシア、マレーシアの飛び地もイギリス領です。
 それから青でフランス領は、中国南部から、今のベトナム、ラオス、カンボジア、ここはフランス領です。それからここは、この後日本が第二次世界大戦で最初に進駐するところとして関係してきます。
 オランダ領東インド、ここもです。今のインドネシア一帯はオランダ領です。フィリピンはアメリカ領です。独立国は、ほぼないです。太平洋の島まで行っている。ここはドイツ領です。
 唯一残った独立国はタイだけです。タイが強かったからではありません。1つ残しの原則、東のフランスが手を出すと、西のイギリスが腹を立てる。逆にイギリスが手を出すと、フランスが腹を立てる。大ごとになる。だからまんじゅうの1つ残し、まんじゅうの最後の一つには手を出さない。東南アジアもアフリカとあまり変わらない。その結論が何かというと、第一次世界大戦になっていく。



【太平洋地域の分割】 イギリスはまだまだやります。今度はどこに行くか。オーストラリアです。ここもイギリスの植民地だった。オーストラリア連邦です。オーストリアじゃない。カンガルーがいるところです。ではそこには人は住んでいなかったのか。ちゃんと住んでいます。どけ、アフリカ人といっしょです。彼らをアボリジニーといいます。今は非常に不便なところに住んでいる。なんでこんな不便なところに住んでいるか。好き好んで住んでない。追いやられたんです。インディアンだってそうです。インディアンは今辺鄙な居住区に追いやられています。

 オーストラリアの東の方には、南北に分かれた島国がある。ニュージーランドです。そこもイギリスの植民地になる。やはり同じように人も住んでいる。彼らはマオリ族です。先住民マオリです。やはり追い払われていく。100年前にオレたちは住んでいた土地を奪われたんだ、返してくれ、と原住民たちが言い始めたのは、ほんのここ10年ばかりです。

 このイギリスの影に隠れて、意外と分からないのがアメリカなんです。アメリカは、東海岸から西海岸、カリフォルニアについた。そしたら目の前に太平洋が広がってる。どこに行きたいか。やっぱり中国なんです。太平洋を渡って。そのためには拠点が必要です。そのための島がいくつかある。日本の沖縄もその一つなんです。戦略的には今でも重要です。どんどん占領していきます。まずハワイ領有です。ここにはカメハメハ王国と言って別の王国があった。それを滅ぼしまて領有します。それから南方のグァム、ここにも米軍基地がある。
 ハワイに米軍基地があるというのは知っていますか。軍港がある。日本が攻めたのは何というところですか。真珠湾です。パールハーバーという。
 それからフィリピンも、米西戦争でスペインから取ります。こういうところを次々に領有していきました。


【ラテンアメリカ】 ラインアメリカも、ちょっと捨てがたい。アメリカがイギリスによって領有されるまでは、一番最初、コロンブスの時代にここを植民地にしていったのはどこだったか。スペインだった。ほとんどスペイン領だった。メキシコもです。ただ例外的に一つだけ、ブラジルだけがポルトガル領だった。
 スペインとポルトガルのうち、メインはスペインです。この南北アメリカ大陸を支配し、のし上がっていくのがアメリカなんです。どこをまず叩くか。スペインです。アメリカを米と書くように、スペインを西と書く。
その南米社会では支配層は誰かというと、黒人じゃない。原住民でもない。白人なんです。またはその子孫です。南米生まれの白人の子孫、肌は白い。彼らをクリオーリョという。彼らが巨大な土地を持っている。彼らが、黒人や原住民を働かせている。

彼らに、工業製品を売りたいのがイギリスです。そこをイギリスが狙っている。


【メキシコ】 アメリカの一番近くにあるメキシコはどうか。メキシコはもとスペイン領だった。メキシコ語なんかないです。メキシコ人は何語をしゃべってるか。スペイン語です。もうちょっとメキシコは大きかった。北の方に伸びていた。テキサスもカリフォルニアもメキシコ領だった。アメリカはスペインから、どさくさにまぎれてテキサスをぶんどる。もっと取りたいから1846年には、アメリカ・メキシコ戦争をふっかけて、カリフォルニアを取る。ここにあるニューヨークに次ぐ全米2番目の都市がロサンゼルスです。ここがアメリカものになる。これが1848年です。
 こうやってアメリカは太平洋に面する西海岸までたどり着いた。そこで起こるのが国内の戦争です。1861年、アメリカが北と南に真っ二つに割れて、血で血を洗う戦争が起こる。これが南北戦争です。

 そうすると、アメリカが国内の戦争で手が及ばないときに、フランスがそこをねらう。これがフランスのナポレオン3世によるメキシコ出兵です。1861年です。油断も隙もないけど、これは失敗する。失敗したから、メキシコは国として維持できた。しかしお金もないし、独裁政権です。これをディアス政権という。そこに甘い汁を吸おうと思って、お金貸します、とイギリスが言う。こうやってイギリスの金融資本が入ってくると、お金持ちしか儲からない国になる。庶民の生活は非常に苦しい。
 それで世界初の革命、1910年メキシコ革命が起こる。こんな一部のお金持ちしか豊かになれない国はおかしいじゃないか。それで革命が起こる。マデロとサパタという人です。これが1910年までの動きです。ロシア革命が1917年ですが、その7年前にすでにメキシコで革命が起こっています。


【カナダ】 イギリスはというと、アメリカ大陸ではカナダも支配しています。ここはイギリス領です。イギリスはどれだけ植民地を持っているか。インドを手始めに、アフリカ、アジア、オーストラリアにも、そしてカナダまで植民地です。ただこのカナダは、それ以前に手をつけていたのがフランスです。今でもカナダにはフランス語をしゃべるカナダ人と、イギリス語をしゃべるカナダ人がいて、お互いに仲が悪い。こういう植民地です。そこをイギリスが取る。だから公用語はイギリス語です。
 それから、未開の土地、寒いアラスカ。ここはロシア領だったんだけれども、ロシアはこんな不便なところは要らないと言って、1867年にアメリカに売るんです。そしたらそこから石油が出てくる。ロシアは歯ぎしりして悔しがったけど、後の祭りです。
 
▼アメリカの海外進出


【米西戦争】 ではアメリカはその後どういう動きをするか。南北戦争のあとは、こうやって領地を増やして、次には南米、スペインの植民地を奪う。これが・・・さっきちょっと言った・・・1898年から起こる米西戦争です。「西」はスペイン、南アメリカはほとんどスペイン領です。メキシコもキューバも。キューバはアメリカの目と鼻の先、アメリカのすぐ南にあるところです。

 今では世界帝国になっている世界ナンバーワン国家のアメリカですけれど、19世紀の終わりの南北アメリカというのは、特に中南米から南米にかけてはどこの植民地だったか。ブラジル以外はほとんどスペイン領なんです。アメリカはそのスペイン領を虎視眈々と狙う。それを狙って戦争をしていく。その戦争を米西戦争といいます。1898年です。まずどこが欲しいか。キューバです。アメリカのすぐ南のキューバ、ここもスペイン領だった。ここを米西戦争で取る。
  もう一つのスペイン領土はフィリピンです。ここもアメリカが取る。だからフィリピンの公用語は英語なんです。宗教は、スペイン植民地が200~300年続いていたからキリスト教カトリックです。アジアで唯一のキリスト教国です。
  それから今でもアメリカ空軍最大の米軍基地があるのはグァムです。沖縄から東に行けばすぐグァムです。ここを取る。そしてどさくさにまぎれてハワイを取る。ここに太平洋艦隊最大の軍港を築く。これが真珠湾です。英語でいうとパールバーバーです。約50年後に日本が太平洋戦争で最初に攻撃するのはここです。ハワイに海水浴にいってけっこうですけれど、そういう軍港があること、軍事基地があることも知っておかないといけない。

 そしてもう一つはアラスカです。ここはロシア領であった。ロシアはこんな不便なところいらないと言って、アメリカに売る。するとそこからがっぽり石油が出てくる。ロシアは地団駄踏んで悔しがったけど、後の祭りです。19世紀終わりにアメリカはこれだけの領土を取っていく。
  この米西戦争で、アメリカが取ったのがまずキューバ。ここもスペイン領だったところです。キューバも長らくスペインの植民地にされていて、それに嫌気がさしてる。そこで独立運動が起こって、アメリカは、いいぞいいぞ、独立したほうがいいぞ、とたきつけて応援するふりをしながら、いざ独立したらアメリカの半植民地にしていく。この時には、アメリカとスペインがキューバをめぐって対立している。アメリカはキューバに対して、砂糖産業や工場にいっぱいお金をつぎ込んでる。そういう経済的な利害関係もある。

 それからさっき言ったフィリピン。ここもスペイン領だった。米西戦争はスペインとの戦争ですから、スペイン領をアメリカが次々に押さえていく。フィリピンでもスペインから独立したいという独立運動が起こっている。その指導者の1人がホセリサール、もう1人がアギナルドという。アギナルドは一時革命政府を樹立してその大統領になりますが、スペインから独立したあと、対アメリカ戦争が起こり、アメリカが上から押さえてしまう。この米西戦争自体はアメリカの勝利です。それでアメリカの領地になったのがフィリピンです。
 それから今もアメリカの軍事基地として大事なところに、グァムがあります。軍事基地として重要な地点です。沖縄は沖縄で大事な軍事基地です。
 そしてどさくさの中で、太平洋の真ん中のハワイもアメリカが領有する。ハワイとアメリカは地理関係からいって全く関係がなく、アメリカの領土であるは必要ないです。全然アメリカと違う場所なのに、ハワイはアメリカの領土になる。
  アメリカの目の前の海はカリブ海です。ジョニー・デップの10年ばかり前の映画、「パイレーツオブ・カリビアン」のカリビアンというのは、カリブ海ですね。アメリカはそこが欲しいわけです。そこにいろいろアメリカがちょっかいを出していく。これをアメリカのカリブ海政策といいます。  目の前のカリブ海、そして南米、太平洋の向こうではやはり中国です。これはペリーの来航の時から一貫して変わらない。どうにか中国に進出して、中国から利権をもらいたい。これは今もそうです。中国企業のファーウェイがこの間、アメリカから押さえられた。
 それでスペインから独立したかに見えたキューバを植民地とまではいかないけれど、半植民地状態にする。これを保護国化といいます。保護国化されたら、キューバは自由な外交とかできません。

   そしてもう一つは、パナマ運河をつくる。これはパナマという国が最初からあったんじゃなくて、もともとコロンビアの一部で、一つの県、地方県だった。おまえたち、独立させてやるぞと言って独立させると、独立したとたんに、「オレの言うこと聞け、運河をとおせ」と言う。それでパナマ運河を建設する。利権はアメリカのものです。アメリカの領土じゃなくても、勝手に借りるんです。半永久的に借りるよと言って、90年ばかり借りている。返したのは君たちが生まれた頃です。1999年だから。私にとってはついこの間みたいです。エジプトのスエズ運河はイギリスのもの、エジプトにあってイギリスのものです。パナマ運河はパナマにあってアメリカのものです。


▼20世紀初頭の世界


これで終わります。ではまた。



オーガスト・ベルモント(1856年 アメリカ民主党党首)

2019-04-30 07:12:54 | 旧世界史11 18C後半~

◆ 1837年、フランクフルト・ロスチャイルド商会の代理人オーガスト・ベルモントがアメリカに派遣された。ベルモントは暴落した証券市場で債券や株式を大量に買い集めた。また破産寸前の現地銀行の多くに巨額資金を投入し生き返らせた。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P167)

 ◆ アメリカ第二銀行が廃止されたあと、ベルモントは中央銀行の役割を果たし、アメリカの銀行業を救った。彼を後ろで支えたロスチャイルドは、「遠隔操作の連邦準備銀行」であった。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P167) 

日本に、アメリカ南北戦争の前の1853年にペリーが浦賀にやってきた。このペリーは娘を通じて米民主党党首のオーガスト・ベルモントとつながっています。そしてそのベルモントの後ろにはヨーロッパ最大の資本家ロスチャイルドがいます。

(南北戦争時の)南部を支援する民主党の党首には、ヨーロッパのロスチャイルド家から派遣されたオーガスト・ベルモント1856年に就任しています。この人は、アメリカ第二銀行が廃止された翌年の1837年、21才の時にフランクフルトのロスチャイルド商会の代理人としてアメリカにやってきた人で、このオーガスト・ベルモントの奥さんであるキャロラインの父親が日本を開国させたペリー提督です。

この時(南北戦争時)の民主党党首が、ロスチャイルドから派遣されたオーガスト・ベルモントです。オーガスト・ベルモントの後ろにはイギリスの金融資本家がいますから、イギリスの本音はオーガスト・ベルモントの民主党支持です。つまり南部支持です。南部はイギリスの利益と合致しているのです。


1848年イギリス、銀行家だけは泥棒してもよい

2019-01-22 09:08:07 | 旧世界史11 18C後半~

火曜日

他人のものを、あたかも自分のもののように使うことができれば、それは自分のものと同じである。
しかもそれへの返済の義務は有限責任で、自分は全額返済する必要がないとすれば、他人のものをいくらでも借りて、それを意のままに使った方がましである。
しかしこのことは泥棒と何が違うのだろうか。
他人のものを奪って使おうが、借りて使おうが、それが返済されなければ同じことである。
つまり、銀行家は他人の金を無断で借りて、無断で消滅させることができる自由を手に入れた。
これを国家としてはじめて認めたのがイギリスである。

1848年のイギリスの判決、つまり『銀行家は預けられた預金を随意に処理する権利を有する』という判決は、このような泥棒行為を、国家が正当な行為として認めたということである。
このことは、『一般人の泥棒行為は禁止するが、銀行家だけは泥棒をしてもよい』ということと何が違うのだろうか。
これで銀行家は無限の富を手に入れた。人が働けば働くほど、その富が自分のものになるのである。

この1848年に、他にどういうことが起こっているのか。
フランスで二月革命が起こって王政が崩壊し、ルイ・ナポレオンを中心とする第二共和制に移行した年である。
同時に、ドイツのユダヤ人マルクスが「共産党宣言」を発表した年である。
さらに、アメリカがカリフォルニアをメキシコから奪って併合した年であり、併合すると同時にそこから金が発見されてゴールドラッシュが起こった年である。
また、アメリカ最大の証券会社ゴールドマン・サックスの創業者であるドイツ出身のユダヤ人マーカス・ゴールドマンがアメリカに移住した年である。

さらに翌年の1849年は、ロスチャイルドによってアメリカに送り込まれたオーガスト・ベルモントが(この人物は南北戦争時のアメリカ民主党の党首になる)、日本を開国させることになるペリー提督の娘キャロラインと結婚した年である。

その4年前の1844年には、イギリスで「共同出資法」が発令され、それまでその危険性のため許可制であった株式会社が誰でも自由に設立できるようになった。


南北戦争から明治維新へ、イギリスの影

2019-01-05 10:34:51 | 旧世界史11 18C後半~

土曜日

 今は世界帝国みたいなアメリカですけど、19世紀には新興国で、もとイギリスの植民地です。独立したものの南北対立がある。利害の対立がある。南北戦争という有名な戦争がありますが、そこにはどういう利害の対立があったのでしようか。
 この時代に、今の二大政党制、今の共和党、民主党の原型ができます。ちなみに今の大統領トランプ大統領は共和党です。前のオバマ大統領は民主党です。アメリカ人は時々、日本人にできないことをやる。大統領は共和党を選んで、議会では民主党を選ぶ。今もそうです。これが得意技です。わざと停滞させる。進むのを遅らせる。今アメリカは中身は二つという話があって、どっちに行くかもわからない。日本政府も読めなかった。
 トランプが大統領選に勝ちましたが、安倍政権はそう思ってなかった。ヒラリー・クリントンが、絶対勝つと思っていた。しかしトランプが勝った。安倍さん真っ青です。それで外務省に、何をしてるんだ、おまえたちの情報なんか2度と信用しないぞ、と言ったという話がある。日本も読めてない。アメリカ人自身もわからない。

 この時にも、こういうふうに二つの利害の対立がある。これが北部と南部です。この時に自由貿易を主張しているイギリスはどっちかというと南部びいきです。向かうところは南北戦争ですけれども、これは何の対立かというと、表面的には、奴隷州、これは奴隷を認める南部の州、それと、自由州、奴隷を認めない北部の州、これが表面なテーマになるんですが、実は本当のことをいうと、リンカンがその奴隷解放宣言を出したのは、ヨーロッパを味方につけたかったからなんです。
 それと同時にカリフォルニアまで領有して、今のアメリカの領土の形になって、太平洋が開けてくると、ペリーがやってきたのが1853年です。本当は中国なんです。今も昔も変わりません。日本が中心じゃない。アメリカにとってはやはり中国です。

 その4年後の1857年には、初の世界恐慌、株が大暴落する。この時のアメリカのお金は、銀行が勝手に発行している。今からは想像できない。銀行が1万6000銀行ぐらいあって、アメリカのお札、今のドルは一種類じゃない。銀行が勝手に、福岡銀行券みたいな形で発行するから、7000種類もある。もう訳わからない。熊本では熊本銀行券、福岡では福岡銀行券、みたいなものです。よくわからない世界です。経済も混乱している。

 そういう中で、1861年になると、北と南を分断する大戦争、南北戦争が起こる。ペリーが来てからアメリカがしばらく日本史にはでてこないのは、アメリカがこの戦争で分裂しそうになって、日本どころじゃなくなるからです。イギリスは自由貿易をしたいから南部を支援する。もっと言えばイギリスは、アメリカに強大な国家を作って欲しくなかったんじゃないかという話もある。分断してもらったほうがいい。この時ナンバーワン国家はアメリカじゃない。まだイギリスです。アメリカがこれ以上大きくなったら、俺たちの上をいくと心配している。実際その通りになっていく。

 この南部を支援する民主党の党首には、ヨーロッパのロスチャイルドから派遣されたオーガスト・ベルモントが1856年に就任しています。この人は、アメリカ第二銀行が廃止された翌年の1837年、21才の時にフランクフルトのロスチャイルド商会の代理人としてアメリカにやってきた人で、このオーガスト・ベルモントの奥さんの父親が日本を開国させたペリー提督なのです。

 この時の大統領が、共和党のリンカンです。彼は北部支持です。北部の利益を代表する。そうすると南部が腹を立てて、それなら独立するといって、一瞬国ができた。
 これをアメリカ連合国と言います。南部11州が連合したもので、南北戦争中の1861年から1865年まで存続します。だとするとこれはアメリカの内乱ではなく、正式な国と国との戦争です。
 このアメリカ連合国を支援したのがイギリスです。金融面では、ヨーロッパの金融資本家であるロスチャイルドがついています。そして南部勢力の中心である民主党の党首が、約15年前にロスチャイルド商会の代理人としてアメリカにやってきたオーガスト・ベルモントなのです。アメリカが二つの国になり、別々の国どうしが北と南で戦うのです。

 南北戦争が始まって2年後の1863年にリンカンが出したのが、奴隷解放宣言です。さっき言ったように、人道的に奴隷はかわいそうだからではなくて、イギリスはヨーロッパでは奴隷支配やめよう、人権の観点からまずいぞということで、奴隷はいち早くヨーロッパが廃止していく。しかしアメリカは奴隷労働に産業を背負わせているから、やめるわけにはいかなかった。その時にリンカーンが北と南で戦うなかで、世界を味方にしようとして、特にヨーロッパに味方してもらいたいから、ヨーロッパが奴隷解放にすすんでいるんだったら、いち早く奴隷解放を宣言してヨーロッパの支持を得ようとした。北部に味方して欲しい。これが本当の狙いです。これが功を奏した。ヨーロッパを味方につけて、お金の力から言えば南部が強かったかも知れないけれど、北部が勝った。この時アメリカの北部の工業は弱いけど、北部が勝った。

 もう一つは、戦争にはお金がかかるから、リンカンは銀行が勝手に発行していたお札を政府が発行するようになる。緑のインクで刷っていたからグリーンバックスという。つまり政府紙幣を発行する。これで大砲とか鉄砲とか弾薬とかを買えるようになって北軍が勝った。これによりリンカンは通貨発行権を握ったのです。このころヨーロッパの金融資本家ロスチャイルドは、アメリカに中央銀行の設立を働きかけていましたが、リンカンのグリーンバックス発行はその動きを封じるものでした。勝った1865年にリンカンは、劇場に行って劇を見ていたところで、後ろからバーンとやられて、暗殺される。犯人はジョン・ブースという役者で、彼も約10日後、農場の小屋に隠れていたところを殺され、秘密裏に埋葬されています。何でかな、この政府紙幣が関係しているという話しもある。謎です。
 ポイント、ポイントでアメリカの歴代大統領はよく殺される。戦後は1963年のケネディ暗殺です。犯人とされたオズワルトは2日後、こともあろうにダラス警察署内で、ジャック・ルビーに殺された。真犯人はわからないけれども、なぜか2035年には公表しますと政府は言っている。わかっているということです。ケネディも政府紙幣を発行しようとしていました。
 他にも、半分以上は謎なんだけど、お金を整理して中央銀行を作ろうというイギリスの意向に、それはダメなんだ、そんなことをすればもっと貧富の差が激しくなる、と反対したガーフィールド大統領も1881年に暗殺されます。謎です。まだ分からない。100年経っても。
 さらに1901年には、マッキンリー大統領も暗殺されています。傷は回復しつつあったが、8日後に死亡しています。その次の大統領になったのが、副大統領であったセオドア・ルーズベルトです。アメリカ大統領で暗殺されたのは4人です。
 最近では、1981年にはレーガン大統領暗殺未遂事件も起きています。犯人はヒンクリーと言われますが、よく分かりません。レーガンもアメリカ中央銀行FRBの制度に疑問を持っていました。

 南北戦争は北部の勝利で1865年に終わりました。南部を応援したイギリスもロスチャイルド家も、次の手を打ちました。その同じ年の1865年にロスチャイルドは、同じ家に住んでいた18歳のジェイコブ・シフを渡米させ、2年後にはクーン・ローブ商会を設立させました。この人物は40年後の日露戦争で日本に戦争資金を貸した人物です。
 また、その1865年にはロスチャイルドは、仲間のトーマス・サザーランドに香港上海銀行を設立させます。この銀行はもともとはジャーディン・マセソン商会が中国とのアヘン貿易で稼いだ資金をイギリス本国に送金するために設立されたものでしたが、このあと香港ドルの発券銀行の一つになり、やがて香港ドルの通貨発行権を手に入れます。現在も香港ドルはこの銀行によって発行されています。
 1859年に21歳で日本にやってきたイギリス人トーマス・グラバーは1861年にこのアヘン貿易会社ジャーディン・マセソン商会の代理店として、長崎にグラバー商会を設立しています。そのトーマス・グラバーと関係の深かった土佐の浪人坂本龍馬が長崎に武器輸入会社として亀山社中(のちの海援隊)を設立したのも、南北戦争終了と同じ1865年です。そしてこの坂本龍馬を仲介人として成立したのが翌年1866年の薩長同盟です。これによって幕末日本は倒幕に向けて大きく動いていくことになります。
 ただ坂本龍馬は、このあと大政奉還を唱え、倒幕に反対したため、明治維新直前の1867年11月に暗殺されます。
(グラバー商会は倒産したことになっていますが、実質的には土佐の岩崎弥太郎によって三菱に受け継がれます。坂本龍馬と同じ土佐の岩崎弥太郎は、海援隊のメンバーとして長崎で活動しています。グラバーが興した長崎造船所やキリンビールは、今でも三菱グループです。)

 このことをイギリスから見ると、イギリスは南北戦争でアメリカ工作には失敗したが、明治維新という日本工作には成功したといえます。ちなみに、のち4度総理大臣になる長州藩の伊藤博文は、グラバーによって1863年にイギリスに密航し、すでに帰国しています。この時24歳です。
 1902年の日英同盟はこの延長です。ただ伊藤博文は、ロシアと戦うことには反対でした。ということは日英同盟にも反対でした。そういう意味ではイギリスの裏側を知り尽くした人物だったのでしょう。1909年、伊藤博文は暗殺されます。


アヘンを売るイギリス、強者の自由主義

2018-07-29 09:18:27 | 旧世界史11 18C後半~

日曜日

19世紀イギリス、自由主義の流行。
政治的な自由とともに、
経済的な自由が正当化された。

経済的な自由とはお金のやりとりのことである。
そしてこの自由なお金のやりとりは、強者に都合のよいものである。
買いたい者がいるからそれを売って何が悪いんだと言われれば、なかなか反論できない。
自由な金のやりとりは正しいのだ。
押し売りでも強奪でもなく、お金が介在する物の取引は、一見すると非常に合法的である。
お金は一見平等に見えて、実は強い者の味方である。

政治的な自由は弱い者の味方であるが、
経済的な自由は強い者の味方である。

イギリスでは政治的な弱者が、経済的な自由のもとに強い者の味方をするという構造を確立していった。
だから選挙権の拡大とともに、自由貿易が支持された。
たとえ僅差であろうと、イギリス議会は中国へのアヘンの密売を承認した。
ここにイギリスが求めた「自由」の本当の意味が隠されている。
近代史の歴史的論証に必要なのは、この「自由」のもつ論理構造である。

しかし、前にも書いたが、イギリス史にはこのアヘン戦争が出てこない。イギリス史として書かれていないのである。
中国史の一部としてしか書かれていない。
このことは何を意味しているか。
イギリスの論理で考えなければならないものを、中国史として書くことにより、歴史の論証を思考停止にしてしまうのだ。
アヘン戦争は中国の論理で考えるべきものではなく、あくまでイギリスの論理として考えるべきものだ。
それは「自由」を考えるときに、避けては通れないものである。
この避けてはならないものを避けているのが、イギリスの近現代史である。

経済的な自由は強者の味方である。
この強者の味方に、政治的な弱者をいかに引き込むか、そのことに成功したのがイギリスである。

他方、アイルランドでは、ジャガイモ飢饉により、大量の餓死者とアメリカへの国外移民をだした。

政治的な自由が、経済的な自由のために使われたのである。

19世紀の近代イギリス史の書き方は巧妙である。
政治的な自由の成功のみが賞賛されている。
経済的な自由の負の側面は、うまくごまかされている。


西洋近代システムとは何か

2017-12-17 01:24:34 | 旧世界史11 18C後半~

日曜

西洋の近代システムが圧倒的強さを持って世界に君臨できたのはなぜか。
普通は、民主主義と資本主義だと言われるが、これで西洋文明の中身が分かるだろうか。

本当は、植民地支配と、それを可能にした銀行システムにあるのではなかろうか。
両者は戦争と分かちがたく結びついている。
1700年代には、英仏百年戦争が北アメリカとインドで繰り広げられた。
それをイギリスの勝利に導いたのは、イギリスの中央銀行システムである。
そしてその結果手に入れたのが、北米植民地とインド植民地である。

ロックの民主主義も、ウェーバーの資本主義の精神も、西洋近代システムの本流ではなかったのではないか。

科学の発達さえ脇役にすぎない。
科学発達を必要とする何かがあったはずだ。
どういう必要があって近代科学が生み出されたのか。

資本主義という言葉には謎が多い。
その意味するところは何か。
資本主義にとって民主主義が必要条件であるかは、今の中国の成長を見ると疑わしい。

民主主義と資本主義は必ずしもセットではない。
それは別々のところから発生してきた。
もしくは民主主義には何かを隠すための煙幕がある。

民主主義はなぜ三権分立を生んだのか。
それは何か恐ろしいものの出現を防ぐためである。
だから互いに牽制し合う必要があった。

三権分立がこの時代に必要だったとすれば、それ以前にはなぜ必要でなかったのか。
このことと資本主義の発生は結びついているのではないか。
資本主義と結びついた権力の発生が、それ以前にはなかった形を取って現れたのではないか。

この時代、何が出現しようとしていたのか。
放っておくととんでもないものが出現する時代だったのかも知れない。

民主主義は資本主義に対する抑制システムではなかったのか。
民主主義と資本主義は車の両輪ではなく、互いに抑制し合う対立概念ではなかったのか。
民主主義の中にもその痕跡は残っている。
自由と平等の対立として。この二つは対立概念である。

自由の名で何が出現しようとしていたか。
もしかしたらそれは「支配」ではなかったか。

民主主義の裏には恐ろしいものが隠されている。
民主主義は美しく化粧されているが、20世紀の2度の世界大戦を防ぐことができなかった。
もっとも民主主義が発達したといわれる20世紀において、最も悲惨な戦争が2度も繰り返されたのはなぜなのか。

この2度の世界大戦は、いくら民主主義を調べても分からない。
いったい民主主義は何を隠そうとしているのか。

資本主義と民主主義の中で、何が温存されているのか。