ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい。
2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

ペルセウス・アンドロメダ型神話とシンデレラ物語

2009-02-28 19:40:46 | 旧世界史4 古代ギリシャ

ペルセウス・アンドロメダ型神話は男から見た神話だが、
これを女から見るとシンデレラ物語になる。

シンデレラ物語は、それまで受身の立場に過ぎなかった女の立場を、
王子との結婚というかたちで、女の立場からの積極的動きとして描いたものである。

歴史的には、王子が美女を手に入れる物語が先にあると思われるのだが、
それはあくまでも男の物語にすぎず、女性をその物語のなかに引き込むにはあまりにも一面的な筋書きであった。

ペルセウス・アンドロメダ型神話という男性中心の物語を、女性の側から見た物語として描き、男女共有の価値観を形成したのがシンデレラ物語である。

ペルセウス・アンドロメダ型神話は、出雲神話のスサノオとクシナダ姫の物語にも見られるように日本にも存在する。
ところが日本にはシンデレラ物語は存在しない。

日本では、シンデレラ物語は、『玉の輿』という言葉で表されるのだが、
それは多分に功利的な意味合いを含んでおり、シンデレラ物語のもつ純粋性を獲得しえない言葉である。

このことは、日本の女性の権利のあり方と、恋愛のあり方を同時に含んでいる。

ペルセウスとアンドロメダ型神話にみる恋愛と国家

2009-02-27 22:53:34 | 旧世界史4 古代ギリシャ

一人の英雄が、怪物に人身御供にされる女性を助けるため、その怪物と戦い、勝利を得たあとその女性と結婚し、地域の支配者となるという神話は、
ギリシャ神話にあやかって、ペルセウスとアンドロメダ型の神話といわれ、ギリシャだけではなく、世界の各地に分布している。

日本神話ではスサノオによる八俣の大蛇退治がそれにあたる。

この神話は世界の高文明地域に見られるもので、国家の形成と結びついている。
国家を形成しなかったアメリカインディアンや日本のアイヌ民族には見られない神話である。

国家が形成される際には、女性の処女性を高めることによって、男性の持つ性的エネルギーを別のものへと転化し、昇華することが求められた。

処女を助け、それを自ら手に入れようとするエネルギーは、それを妨げる外敵との戦いとなって発動され、政治的なエネルギーへと高められた。
内的な性エネルギーが外的政治エネルギーへと昇華されたのである。

一方で抑圧された性エネルギーは、それまでおおらかであった性風俗に変化をもたらし、抑圧された性行動を発生させた。
恋愛は、このようにして発生した。
恋愛は、男女間の性結合に至るまでの心理過程である。

恋愛の基本形は処女性を前提としている。
恋愛とは性結合に至るまでの精神的葛藤である。

女性を手に入れることは、その処女性を手に入れることであり、
処女性を手に入れることにより、女性との包括的合体が可能となりえたのである。

そのための処女性のタブーは、それを乗り越えるための試練として、英雄的な心理を発生させた。

女性との合体は、権力との合体でもある。



(そのことを示す良い例が、
ノルウェー王朝史ともいうべき『ヘイムスクリングラ』という本の中にある。
この本は13世紀にアイスランドの史家スノッリ・ストゥルルソンという人物によって書かれたノルウェー王朝史である。
ノルウェーを統一したハラルド美髪王(在位860~933)についてこう書かれている。

ハラルド美髪王がまだ国土を統一する以前のこと、
ホルダランドの王(部族の長)にギュザという娘があって、美人の聞こえが高かったため、
ハラルド美髪王(このときはまだハラルド王)は、この美女を妃に迎えたく思い、使者をやって意向を伝えさせた。

ところが、
『(娘の)ギョザは、いくつかの地方の国しか支配していない王を夫にもつためにみずからの純潔を捧げる意志はないと答えた。』
そしてこう言うのであった。

『もしも全ノルウェーを支配下におき、ノルウェーを自由におさめることをわたくしめのために成し遂げてくださいますならば、王の正式の后となることに同意いたしましょう。』
(「ヘイムスクリングラ -北欧王朝史- 1」P147~148 北欧文化通信社)

ハラルド美髪王は、全ノルウェーを平定するまでは決してこの髪をけずらぬ、という誓いを立て国土統一に邁進した。そして約10年後に見事ノルウェーを統一したのである。
そこで沐浴し、髪をけずると見違えるほど美髪の好男子となった。それが『美髪王』の名前の由来である。
ギョザ姫は、喜んでハラルド美髪王の妃になった。

ここでは、美女(ギョザ)は怪物の生け贄とされる女性ではないが、
自分の嫁入りの条件として国土統一を要求することは、
美女そのものが英雄が戦うべき怪物をつくりだしているということができるのであり、
事実、ハラルド美髪王は海に陸に敵対勢力と戦い、彼らを退治していくのである。
(これが歴史的事実であるかどうかはまた別の話である。)
ここでは、王が美女を手に入れようとしたことが発端となって、国土統一が成し遂げられ、王権が確立されたことが端的に語られている。
つまり、恋愛による内的な性エネルギーが、外的政治エネルギーへと昇華されたのである。
ハラルド美髪王の話はノルウェーにおける英雄の誕生である。)



女性と合体し、その力を自分のものとすることは、
宇宙と合体し、宇宙の力を自分のものとすることでもある。
男女の合体を通して、宇宙との合体は擬似体験される。
それは性的結合そのものによってよりも、恋愛という精神的過程を通して体験される。

そのことは、一方では、自分の命の永遠性を手に入れるものとして擬似体験されるが、
それがたんなる擬似体験以上のものであるのは、男女の性的結合を通して、新たな生命が誕生するという実体をともなっているからである。

国家は宇宙秩序をモデルとして形成される。
宇宙秩序の人為的再構成として国家は誕生する。
だから国家誕生の際には、宇宙を形成した神が誕生する。
その神の秩序のもとで国家が誕生する。

新たな神を誕生させるためには、それまでの古い神を殺してしまわなければならない。
そのような古い神が怪物として描かれ、一人の英雄がそれを退治することになる。

人身御供とは元来、神に捧げられるものである。
アンドロメダが人身御供に供されようとしていた海の怪物も、
クシナダ姫が生け贄にされようとしていた八俣の大蛇も、
もともとはそのような神である。



(さきほどのハロルト美髪王の話で、怪物が登場しないのは、
ノルウェーの国土統一期はキリスト教布教の時期と重なり、新たな神としてはすでにキリスト教の神が既成事実として存在したため、それ以外の新たな神を必要としなかったからであろう。

国家形成における価値観の再構築は、すでにキリスト教的国家観によって準備されていたのである。
そういう意味で英雄的行動と、怪物退治という価値観の再構築は結びつく必要がなかったものと考えられる。
つまり美女が神に捧げられる生け贄となるという設定は、キリスト教という新しい価値観を前提としていたことにより、古い神々を殺す必要は物語のなかに発生しなかったのである。)



女性の処女性を神に代わって手に入れようとするものが英雄である。
これらの英雄によって国家が形成される。

もちろん、国家が形成されたからといって、支配者階層ですぐに自由恋愛がさかんになったわけではない。
支配者層の婚姻形態は、さまざまな政治的思惑による政略結婚が主流であり、そのことは近代になるまでそうであった。

しかし、男女の間に恋愛が一つの理念として発生し、それが社会的に認知されたということの意味は、権力の発生の点で重大である。

新自由主義的教育改革への見直しは?

2009-02-25 20:57:40 | 教育もろもろ

昨年末の金融危機以来、新自由主義(市場原理主義)への反省が求められつつあるが、
それは主に経済面に限られているように思える。

ところが、新自由主義(市場原理主義)的改革は経済面に限ってではなく、
教育面に対しても行われてきた。

1 学校選択制
2 中高一貫教育
3 私学重視
4 学力テスト結果の公開
5 学習塾による授業補習(いわゆる夜スペ)
6 総合学習
7 体験学習(企業訪問)
8 小学校英語
9 高校の世界史必修(グローバル化)
10 PISA型学力観の導入
11 観点別評価
12 習熟度別授業(少人数教育)
13 学校評価
14 教員評価
15 教員免許更新制
16 管理職の企業研修
17 単位制高校の設置
18 学校運営の経営化(いわゆる学校マネジメント)
19 職員会議の伝達機関化(校長権限の強化)
20 主任教諭、主幹教諭の設置
  など

これらはどれも新自由主義的な競争原理を背景にもたらされたものである。
これらの見直し論をマスコミは報道しない。

しかし、その後起こってきた教育問題は、

1.学力低下
2.学級崩壊
3.いじめ
4.不登校
5.教育格差
6.受験の低年齢化
7.子どものモラルの低下
8.教師の精神疾患の増加
9.教師の士気の低下
10.スポーツ推薦(特待生)の横行
  など

これらに対する予防策は何ら講じられていない。
講じられたのは対処療法だけである。
考え方を変えない限り予防策は講じようがない。

経済面に関してはこれほど新自由主義の見直し論が盛んなのに、
教育に関しては全くの無風状態である。
このことに関しては自民党も民主党も何も言わない。

アメリカのオバマ新大統領と比べるとその違いは明白である。
日本はアメリカの悪いところはまねするが、良いところはまねできないようだ。
アメリカのオバマ新大統領は、短期的利益にとらわれず、長期的視野に立った政治の転換をはっきりと言葉で表明しつつある。今日の就任初の議会演説でもそうだ。

自民党内にはまだ小泉一派がある一定の力を保っているし、
民主党内にも隠れた新自由主義者は潜在的に存在する。

『新自由主義の総括』を誰が行うのか。

国民が期待しているのはそのことであろうに、自民党も民主党も政局にばかり関心を示すだけで、政策論争で『新自由主義の総括』を行おうとはしない。

今、マスコミ、テレビ、雑誌、週刊誌など、教育問題を取り上げるのは皆無に等しい。
そのことがこの国の政策論争の浅さを物語っているように思える。

新自由主義の『負の遺産』は表面に現れているものだけではない。
小泉改革以来その『負の遺産』はガン細胞のように体の隅々まで行き渡っている。

顔にできた吹き出物を取り除く程度ではどうにもならないところにまで及んでいるのだ。
そのことを認識している政治家は本当にいるのだろうか。

本当のことをいえば、自民党でも民主党でもどちらでも良いのである。
体の隅々にまで増殖したガン細胞を本気で取り除こうとする政治家であれば、
自民党であろうが民主党であろうが、どちらがやっても良いことなのである。

ところがマスコミはそのような報道をしない。
私には日本のマスコミ自体がいまだ新自由主義から脱皮しきれていないように思える。
(そのなかで毎日新聞だけが多少まともな記事を時々書いているようだ。)

自民党が小泉改革の膿を出せるかどうか

2009-02-21 12:34:49 | 小泉竹中改革

自民党にしろ、民主党にしろ、小泉から離れたほうが勝つ。

麻生内閣の支持率低下を食い止めるには、いかに小泉改革からの決別を国民にアピールするかにかかっている。

自民党も民主党も党内がまとまっていないのは同じなのだが、
党内をまとめる必要により差し迫られているのは自民党である。

麻生VS小泉
麻生自民党がこの戦いに勝たなければ、次の総選挙で勝てる見込みは少ないだろう。

国民はこれ以上『官から民へ』の構造改革を望んでいない。
むしろ逆に『民から官へ』へと政治の大きな流れは変わっている。

『官から民へ』の構造改革を進めたのは自民党である。
一時は小泉劇場に熱狂した国民も、それにいつまでも騙されるほど馬鹿ではない。
『自分たちは騙されていた』と多くの人は気づいている。

(ただし大阪は別である。
大阪だけは橋下徹という大衆扇動家による小泉改革の継承に気づいていない。
橋下知事は、競争、自己責任、小さな政府、財政再建という小泉改革の焼き直しである。
地方は疲弊しているが、大阪は決して地方ではない。東京に次ぐ大都市である。
それを『地方からの発言』として橋下徹はカモフラージュしているが、
彼が目指しているのは地方を切り捨て、都市部へ利益誘導することである。
だから大阪府民の支持率は高いのである。)


小泉劇場の狂乱は確かに日本の大衆政治の危うさを見せつけるものだったが、
日本人にまだ大衆政治に陥らないだけの浄化作用が残っているとするならば、
それは小泉改革への『NO』をはっきりと意思表示することだろう。

そういう意味で、今国民は小泉政治を『総括』してくれる政治家を求めているのであり、
その可能性は、小沢民主党と麻生自民党の双方に向けられている。

どちらがより明確に小泉改革の総括を示しえるか。

残念ながら民主党の発言には、野党という有利な立場にありながらも、国民に訴えるだけの力を持っていない。小泉改革の総括はできていない。

それに対して麻生自民党は、いち早く小泉一派という膿を出せるかどうかの瀬戸際に来ている。
そしてそれは自民党が小泉改革という負の遺産から立ち直った新しい自民党として、国民の前に姿を現せるかどうかの大きな分かれ目である。

民主党が党内を統一できずに、グズグズしている間に、自民党が反小泉色を鮮明に打ち出し、
小泉からの距離を民主党よりもより遠くに置くことができれば、
自民党旧支持者層はまた自民党に戻ってくる可能性が高い。

本来のスタンスから言えば、民主党よりも自民党のほうが反小泉色を打ち出しやすい構造を持っている。
小泉が『自民党をぶっつぶす』と言ったように、小泉改革とは本来自民党とはなじまないものであり、
西洋的な自己責任に基礎をおく点で、野党革新陣営に近いものを持っていた。
だから逆に民主党はそういうところが足かせになって反小泉色を出そうにも出せないでいる。党内をまとめるのに苦労している。

自民党がこのままズルズルと小泉路線を残したまま、信用できない政党として国民から相手にされなくなるか、
自らの非を認めてはっきりと小泉改革からの決別を打ち出し、改めて国民に信を問おうとするか、
政局の目に見えない山場に来ている。

自民党がどう変わるか、それが自民党と民主党の対決に大きな影響を及ぼすであろう。

小泉純一郎の除名

2009-02-19 19:18:49 | 小泉竹中改革

すべての混乱は小泉改革から始まった。

現在の政治状況の混乱を作ったのは、小泉・竹中改革である。
小泉・竹中改革自体が従来の自民党の政治の方向転換を示すものであった。
小泉が『自民党をぶっつぶす』と言ったことは、そういう意味で本当である。

定額給付金は愚策ではあるが、小泉改革が目指したものの再修正であることは間違いない。

その定額給付金に対して、
小泉純一郎が『3分の2を使っての再可決には欠席する』と言うのであれば、
麻生太郎はそれに対して堂々と受けて立つべきだ。

今の自民党の生命線は、いかに小泉改革からの脱却をアピールするかに掛かっている。

悪夢の小泉政治、
その脱却が明示されるのであれば、
国民にとっては自民党であろうと民主党であろうとたいした違いはない。

小泉政治からの脱却、
それを国民にアピールする最も効果的な方法は、
小泉純一郎を自民党から除名することである。

それができるかどうかが、次の衆議院選で自民党が勝てるかどうかの分かれ目になる。

麻生太郎に政治家としての熟慮があるかどうかは未知数だが、
国会答弁で小泉純一郎を『奇人変人』と呼んだ以上、
そういう事態まで想定しての発言でなければ、
国会答弁としての意味はない。

自民党のこれまでの手法を考えれば、
小泉純一郎が除名になるのは当然だと思う。

そういう力が自民党にないとすれば、もはや自民党には何の期待もできないだろう。

英雄 美女 野獣

2009-02-17 18:41:24 | 旧世界史4 古代ギリシャ

英雄・美女・野獣は一つのセットになって多くの神話で語られる。

ギリシャ神話では、
英雄……ペルセウス
美女……アンドロメダ
野獣……海の怪物 メドゥーサの首

日本神話では、
英雄……スサノオ
美女……クシナダ姫
野獣……八俣の大蛇(やまたのおろち)

北欧神話(エッダ)では、
英雄……ジークフリート(シグルト)
美女……ブリュンヒルデ
野獣……眠りの茨 オーディン

グリム童話(いばら姫 眠れる森の美女)では、
英雄……王子
美女……いばら姫
野獣……糸引きの錘(つむ) 老婆
(いばら姫は北欧神話の変形だとグリムは見ている)

グリム童話(灰かぶり シンデレラ)では、
英雄……王子
美女……灰かぶり(シンデレラ)
野獣……継母


このような神話は、アメリカインディアンなどの未開の民族にはなく、
ある程度文明の発達した地域に限定して発生している。
日本でも、国を形成しなかったアイヌ民族には見られない。
ということは、この神話・昔話は文明の発生と何らかの関係がある。

英雄は野獣と戦い、それに勝利することで美女を手に入れる。
なぜならば美女はもともと野獣のものであったからだ。
そしてそのことは古来、女性の持つ神々とのつながりを暗示している。

英雄は王に変わり、
助けた美女との間に恋愛が発生し、
それと同時に古い秩序が崩壊し、新しい秩序がもたらされる。

その新しい秩序とは、新しい神と言い換えても良い。
古い秩序とは古い神と言い換えても良い。
であるならば、野獣とは滅びゆく古い秩序、つまり滅びゆく古い神々のことである。

英雄……王
美女……恋愛
野獣……神

神々との交信は古くは女性を通じて行われた。
だから女性は処女でなければならなかった。
女性の処女性は本来神々に捧げなければならない神聖なものであった。
神に対する処女の人身御供の話は、広く世界中に分布している。
スサノオが助けるクシナダ姫も、八俣の大蛇に対して人身御供にされる処女であった。

人間の青年期とはこのようなことを体得するための自己の内面への集中期間であった。
処女性を獲得するための試練に耐えうる内面的成長を遂げて初めて、一人前の男になれたのである。
未開社会の成人式(イニシエーション)では青年に大きな試練が与えられ、彼らは勇気と能力を試される。
その試練は若い女性の見守るなかで行われる。

青年期に異性への関心が高まることと、神話が下ネタが大好きなことは深いところで関係している。

日本神話でも、アマテラスが天の岩戸に隠れて、世の中が真っ暗になったとき、
ある女の神が自分のホト(女陰)を見せて裸踊りをしたから、
アマテラスは気を取り直してまた出てきて、やっと世の中に光が戻ったという。
ホトまで見せる裸踊りとは、並みの裸踊りであるはずがない。
そんなことを一所懸命に語る神話の意味とは何なのか。

女性の秘所はカンノンサマという隠語もある。
それは性的なものというよりも、聖的なものである。

英雄は野獣を退治することによって王になる。
王がかつて野獣を退治したという神話は、王が古い神々に代わる新しい神として人々の前に立つことを保障する。
王は美女を手に入れることによって、新しい神と交信する権利を手に入れるのである。

古代エジプトのように王が神の化身そのものになることもあるが、多くの地域では王は神そのものではない。

王の祖型は祭司王である。
祭司王とは神を祭る王のことである。
日本でも中国でもメソポタミアでも王は祭司王である。
エジプトですら、王は祭司王の要素を兼ね備えている。

沖縄では神々との交信は、『ユタ』や『ノロ』のような巫女的な女性に限られていた。
ところが王はそのような権限を、美女(処女)を手に入れることにより自らの手に握ったのである。

王の出現以前にも、首長(インディアンの酋長)や将軍のような指導者はいた。
首長が部族内外のもめごとなどの判断を行うものだとすれば、将軍はその判断を軍事面に限って指導するものである。
彼らは決して宗教的権限を持たない。

王の祖型は宗教的権限の獲得にある。
そのためには美女が必要であるし、野獣が必要である。
そして野獣を退治するための試練(冒険)が必要である。

そのような価値観を共有する人々の間に国ができる。

『英雄色を好む』とは、権力者が力によって女性を手に入れることばかりではない。
英雄であることと、美女を求めることは同じ所から出てくる。
英雄であることも、美女を求めることも聖なるものを求める作業である。
英雄は女性の処女性を通して神に触れようとする人である。
女性の処女性を通して新しい神に触れようとするそのエネルギーが、国をつくっていく。

文明段階にある国家で一夫一婦制が多く見られ、女性の処女性が尊ばれるのもそのことと大きく関係している。
国と家族は女性の処女性から生まれた双子のようなものである。
(イスラム社会が一夫多妻をとっているのは女性の救済という別の理由がある)

人が恋愛に突き進んでいくエネルギーもそのようなものである。
人間は経験を積めば積むほど何事も上達するはずだが、恋愛だけはそうではない。
本当に人の心を打つ恋愛というのは、その処女性を前提としている。
経験のない恋愛ほど人の心を打つものであるのは、恋愛がその処女性を前提としているからである。

『トリスタンとイゾルデ』にしろ、そこからヒントをえた『ロミオとジュリエット』にしろ、
イゾルデやジュリエットが処女でなく、経験豊富でベッドテクニックばっちりの女性だったとしたら、
想像しただけで、その物語のおもしろさは半減する。

これは、経験を積めば積むほど人は上達し人の心を打つ恋愛ができるはずなのに、おかしなことである。

女性の処女性に秘められた謎は、人間に偉大なことをなさしめてきた。

英雄が美女を獲得するとき、その美女が穢(けが)れなきものであればあるほど、英雄の成し遂げたことは偉大さを増す。

その偉大さが国を形成する。

国の発生は恋愛の発生でもある。
恋愛をするエネルギーは国をつくるエネルギーでもある。

私は処女でなければ恋愛はできないなどと言いたいわけではない。
恋愛するのは人の自由である。
しかし、自由だからといって誰でも恋愛ができるわけではない。
現代は恋愛がうまく成立しない時代になっている。

処女でなければ恋愛はできないことよりも、
処女であっても恋愛ができなくなっていることが、問題の本質であろう。

本当の意味で女性の処女性が失われた場合、
人はどのようにして国を維持し、恋愛に突き進むエネルギーを保ちうるのであろうか。

恋愛の価値をなくした社会は、国家を成り立たせている価値までなくしてしまうであろう。
ロマンスのない社会は、英雄も生まない。
それは多分、英雄が野獣に逆に飲み込まれた社会であろう。

現代社会で神がどこまで可能かは未知数だが、
少なくとも英雄は自分の命よりも高い価値を追い求める存在である。
だから英雄の最期は悲劇的な死で終わる。

恋愛は喜劇的ではなく、その本質において悲劇的である。
英雄もまた悲劇的存在である。
英雄の誕生は悲劇の誕生でもある。

悲劇とは自分の存在がなくなったあとも、その存在と引き替えに何かが残りうるという信仰である。
人間の感性はこの種の事態によって、持てる力を数段高めることができる。

ロマンは神とは違うが、何らかの形で自分の命を超えようとする点では神の存在と共通している。
恋愛は個人的なものだと思われがちだが、実は恋愛こそが個人を超える力を人間に与えている。

個人的な恋愛は性的であるが、個人を超える恋愛は聖的である。
恋愛を個人のレベルに落とさせない知恵が現代社会には求められている。

恋愛が神と結びついているのと同じ程度に、
また国家が神と結びついているのと同じ程度に、
ロマンは何らかのかたちで神と結びついている。

『すべての人間が利己的であるということを前提にした社会契約説は、想像力のない合理主義の産物である。』
(人生論ノート 三木清 新潮文庫 P92)

日本はいま新自由主義を中心とした19世紀的な合理主義という野獣に、経済だけではなく、政治的にも文化的にも食い荒らされて、
公的な意味での国家や私的な意味での恋愛までもが、ボロボロに崩れ去っていこうとしている。

「郵政民営化を堅持し推進する集い」に出席した18人の議員

2009-02-14 22:30:51 | 労働者派遣、郵政民営化、地方分権

 【町村派】伊藤公介(9)、中川秀直(9)、小池百合子(5)、木村太郎(4)(以上衆院)、山本一太(3)(参院)
 【津島派】伊藤達也(5)、棚橋泰文(4)
 【古賀派】塩崎恭久(4)
 【山崎派】武部勤(7)、石原伸晃(6)、広津素子(1)
 【無所属】小泉純一郎(12)、水野賢一(4)、菅原一秀(2)、小野次郎(1)、片山さつき(1)、佐藤ゆかり(1)、藤田幹雄(1)(以上衆院)

小泉発言「狙いはキングメーカー」菅代表代行が警戒感

2009-02-14 21:14:47 | 自民党政策

小泉発言「狙いはキングメーカー」菅代表代行が警戒感

(2009年2月14日20時04分 読売新聞)より
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090214-OYT1T00720.htm?from=nwla

 民主党の菅代表代行は14日、仙台市で街頭演説し、麻生首相を批判した小泉元首相の発言について、「小泉元首相の狙いはキングメーカーになることだ。小泉さんの得意技はサプライズだから、一番びっくりするような人を(後継首相に)据えて、自民党の人気をもう一度高めようとしている」と述べ、民主党が埋没することへの警戒感を示した。

 菅氏はこの後、記者団に「(小泉氏は)第2次小泉劇場型政治に持ち込もうとしており、許せない。小泉さんも麻生政権を作った張本人だから、麻生さんを引きずり下ろすなら、2人そろって引退してもらわないといけない」と批判した。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【私見】
民主党にとって目の前の敵は麻生太郎だが、
本当の敵は小泉純一郎であるはず。

そのことをきちんと国民に説明しなければならない。

民主党はまだ一枚岩にまとまっていないが、
今回の発言は一つの方向を示したものといえる。

民主党も日本の将来像をどう描くか、
従来の小泉政治からどういう方向転換をするか、
そのことを早く国民の前に示さなければならない。

小泉純一郎の『笑っちゃう』発言

2009-02-14 09:40:35 | 政局

日本のマスコミは麻生降ろしに傾いているようだ。
では民主党が好きなのかというと、そうではなくて、
麻生太郎が『奇人変人』と皮肉った小泉純一郎を逆に持ち上げたいようだ。

日本のマスコミは構造改革派であり、小泉純一郎が大好きなのである。

小泉が麻生を批判して『笑っちゃう』発言をしたとたん、
それを応援するような報道をどんどん繰り広げた。
反麻生の動きにエールを送っているかのようだ。

小泉 ←→ 麻生 ←→ 民主党

反麻生の動きには2つある。

民主党寄りになるか、小泉寄りになるか、
これは同じ反麻生でも全く違ったことである。

世の中は小泉改革の行き過ぎにようやく気づき始めたが、
マスコミはもう一度、小泉構造改革路線に世論を誘導しようとしているように見える。

本当に『笑っちゃう』のは、小泉改革のお粗末さである。

小泉改革で一番被害を受けたのは、若年層や低所得者層である。
しかし小泉改革を応援していたのもこの階層である。
ところが今彼らは自分たちが被害者であったことにようやく気づき始めている。

小泉はこれ以上彼らをだますことは出来ないだろう。

今、小泉を支持しているのは財界やマスコミなどの大企業と、その影響のもとにある一部の人たちである。

マスコミは、小泉を政界の目玉に据えることによって、もう一度若年層や低所得者層を扇動し、
小泉改革の狂乱政治を再現しようとしているように見える。

日本という国の体質は、
毒まんじゅうであれ何であれ、うまく売ってくれる人がいい人であり、
『みんなで食べれば怖くない』ことにすぐなる。

だから、マスコミがうまく世論を扇動すれば、
『麻生降ろし』の名の下に、
若年層や低所得者層を含んだ国民世論が、もう一度小泉路線を復活させる方向に形成されるかも知れない。

そうなれば今度こそ日本はズタズタになると思うのだが、
そうなることを望んでいるかのようなマスコミの報道ぶりであった。

鳥取の小学校は「学級委員長」なし 「なれない子供が傷つくから」?

2009-02-13 06:57:00 | 教育もろもろ

鳥取の小学校は「学級委員長」なし 「なれない子供が傷つくから」?

2月12日19時25分配信 J-CASTニュースより
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090212-00000002-jct-soci

 鳥取県の公立小学校には「学級委員長」がいない。リーダーを決めれば差別につながる、との抗議を人権団体などから受け自粛した結果なのだそうだ。しかし、2009年春から鳥取市で1校だけ20年ぶりに「学級委員長」が復活する。市の教育委員会が2、3年前から子供達の社会性、自主性を育てるために復活を呼び掛けてきた成果らしいが、後に続く学校が現れるかはわからないという。

■徒競走もコースを変え、同時にゴールする

 鳥取県の公立小学校が「学級委員長」を無くしたのは、人権団体などから「委員長になれなかった子供が傷つく」「自分にはできないと劣等感が生まれる」などの抗議があり、自粛が全県に広がったためだという。図書委員、保健委員といった担当者はいるが、これらの委員は全て横並びの関係にしている。また、「差別」の観点から、運動会の徒競走でも全員が同時にゴールできるように、走るのが遅い子供に対しては、コースをショートカット(近道)したり、スタートラインを他の生徒より前にしたりする学校もあるのだそうだ。

 そうした中、鳥取市では2009年春から1校だけだが「学級委員長」を復活させる。鳥取市教育委員会はJ-CASTニュースの取材に対し、

  「横並びで生徒は『誰かがしてくれるだろう』と考え社会性、自主性が育たない。2、3年前から市内の小学校に委員長の復活を呼び掛けてきた」

と打ち明ける。人権団体とも交渉し「苦情は受け付けない」と突っぱねたのだそうだ。

 その学校は「鳥取市立湖南学園」。08年に小中一貫校の指定を受け09年春から本格的な一貫教育が始まる。同校の金田吉治郎校長はJ-CASTニュースに対し、子供の保護者などから自分の意見を大勢の前でも堂々と表明できるような子供を育てて欲しい、という要望が多くあり、09年春の一貫校としての新制度策定がいい機会だったと明かした。

■愛媛県は半数の小学校に「委員長」がいない

 そのうえで、

  「指導要領を見ても、子供の自主、自立という言葉が盛んに使われている。さらに、みんなをまとめて行くような人材、リーダーを育てていかなければならないとも考えている」

と復活する理由を語った。

 ただし、市の教育委員会によれば、「湖南学園」に続き市内で復活させる小学校が出るのかどうかは分からず、県内の地方の小学校ほど復活は難しいのではないか、と話している。小学校の「学級委員長」を「人権」の視点から無くす自治体は大阪以南に多い。愛媛県が04年に調査したところ、同県の約半数の小学校が「学級委員長」を置いていなかったそうだ。同県の教育委員会はJ-CASTニュースに対し、

  「様々な子供に活躍の場を与えることを目的に、リーダーの固定を避けているのだろう。必ず学級委員長を置かなければならないという規定はないため、それぞれの学校の判断に任せている」

と話している。

鳩山総務相 「三位一体失敗も」 自治体に厳しい影響

2009-02-12 22:06:07 | 労働者派遣、郵政民営化、地方分権

鳩山総務相 「三位一体失敗も」 自治体に厳しい影響

2月12日20時35分配信 毎日新聞より
2009年2月12日
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090212-00000022-maip-pol


 鳩山邦夫総務相は12日の衆院本会議で、
小泉政権が進めた国と地方の税財政を見直す「三位一体の改革」について
「急激にやりすぎた。失敗の部分がある。地方をここまで苦しめているのは、三位一体改革が必ずしも正しくない部分があったからと考える」
と述べ、改革の副作用を認めた。
担当閣僚の総務相がマイナス面に言及するのは異例で、麻生太郎首相の郵政民営化に関する発言に続き、現役閣僚が小泉政権の構造改革路線に異論を唱える形となった。

 原口一博氏(民主)の「三位一体改革で地方が疲弊している」との質問に答えた。
鳩山氏は「地方交付税の算定(方法)を検討すべき時に来ている」と述べ、交付税増額が必要との認識を示した。

 民主党がこの日の衆院本会議開催に反発し、質問内容を事前通告しなかったため、鳩山氏はアドリブで答弁。
このため「失敗」という表現に踏み込んだと見られる。
鳩山氏はその後の答弁で
「改革すべては否定していない。地方税財政改革の第一歩で、いい部分も大きければ影の部分も強い。09年度(予算案)は規定とは別枠で交付税を1兆円増額した」
と軌道修正した。

 三位一体改革は
(1)国の補助金4兆円削減
(2)地方へ税源移譲3兆円
(3)地方交付税削減をセットにしたもので、
05年12月に決着。
結果として地方の歳入が減り、自治体に加え与党内の不満も大きい。

 税制改正法案などの09年度予算関連法案は12日の衆院本会議で、趣旨説明と質疑をして審議入りした。
税制法案には消費税引き上げ方針が盛り込まれている。【野口武則】

麻生首相、教育面で麻生カラーを打ち出し政府の教育再生懇談会で議論するよう要請

2009-02-11 10:31:53 | 教育もろもろ

麻生首相、教育面で麻生カラーを打ち出し政府の教育再生懇談会で議論するよう要請

FNNニュースより(2009.02/10)
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00149098.html

麻生首相は9日夜、
「国際」、
「安心」、
「スポーツ」など
教育面で麻生カラーを打ち出し、
政府の教育再生懇談会で議論するよう要請した。

麻生首相は
「国際的に通用する人材の育成、
そして安心できる教育、
スポーツというものをもう少し重要視する」
と述べた。

懇談会では、
「大学教育への公的支援の大幅増額」や
「必要ない限り、小中学生に携帯電話を持たせない」
ことなどを盛り込んだ第3次報告が麻生首相に手渡された。

これを受けて、麻生首相は、新たなテーマとして、
「国際社会に通用する人材育成」、
「経済状況が厳しくても安心して教育を受けられる公立学校教育の充実」、
「ノーベル賞を受賞できるような科学技術分野での人材育成」、
「スポーツ立国」
を挙げ、検討するよう要請した。

麻生首相としては、「経済」や「外交」で売ってきたイメージに加えて、「教育の麻生」を打ち出し、2009年度予算成立後の政権課題の1つにする狙いもあるとみられる。




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【私見】
学校スポーツは過熱気味だと思うのだが。

これ以上学校教育の中にスポーツをもちこんで一体どうするつもりなのか。
学校スポーツは今『勝利至上主義』に陥っている。
競争原理の見本のような姿になっている。

『青少年の健全育成』の名の下に、これほど『勝利至上主義』がまかり通っている世界もない。
一昨年、高校野球の特待生問題がクローズアップされたばかりなのに、
『のどもと過ぎれば何とやら』、
この首相の政治的発言にきちんとした教育的裏付けがあるようには思えない。
高校入試の『スポーツ推薦制度』は、今高校現場を大きく混乱させている。

学力のない生徒がスポーツ能力だけで高校に合格し、その後、高校の勉強についていけないという事態が多く発生している。

麻生太郎は、また思いつきを言って、教育改革の失敗をさらに加速させるつもりなのか。

経済面では今までの構造改革の見直しが急速に進みつつあるのに、
教育面ではそれが全く及んでいない。

本当に教育のことを考えている首相ならこんな発言はしないはずだ。

与謝野経財相:自民、実は社民主義 新自由主義を批判

2009-02-11 08:01:10 | 小泉竹中改革

与謝野経財相:自民、実は社民主義 新自由主義を批判

毎日新聞 2009年2月11日 東京朝刊


 与謝野馨経済財政担当相は10日の参院財政金融委員会で「この10年間の自民党の政策は外国から輸入したものを無理やりに移植してきたのではないか」と述べ、新自由主義的な経済政策に疑念を呈した。峰崎直樹氏(民主)の質問に答えた。

 与謝野氏は「この10年間の経済界の動きは決して我々が目指している社会ではない」と指摘。「『強者が栄え、弱者が滅びる』という感じは自民党内にはあまりない。自民党は実は社会民主主義の政党だと思っている」と述べた。【田中成之】


自民・尾辻氏が構造改革路線を全否定

2009-02-10 18:13:11 | 小泉竹中改革

自民・尾辻氏が構造改革路線を全否定、下野の勧めも 代表質問
2009.1.30 22:15 産経ニュースより
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090130/stt0901302220002-n1.htm

「政府の経済財政諮問会議が唱えてきた市場原理主義は間違いだった。規制改革会議も、多くの人を失業に追い込んだ。両会議を廃止すべきだ!」

 自民党の尾辻秀久参院議員会長は30日の参院本会議の代表質問で、構造改革路線の全否定を求めた。「首相!野に下ることは恥ずかしいことではない」と下野の勧めを説いたため、野党から喝采(かつさい)が起きた。

 麻生太郎首相はあまりの懐古主義に困惑顔。「今後とも経済財政諮問会議などでわが国が直面する課題の克服に向け精力的に審議する。内閣の最終的な政策決定は閣議で行う」とにべもなかった。

 本会議後、民主党の簗瀬進参院国対委員長は「尾辻氏は大変果敢だ。自民党は完全に自己分裂状況に陥った」と絶賛。国民新党の亀井久興幹事長は「自民党内でもそういう考えの人がだんだん増えている」などとべた褒めした。

 一方、自民党では「構造改革路線を全部ひっくり返すのは乱暴だ」(山本一太参院議員)など反発の声が上がった。安倍晋三元首相も講演で「小泉以前に戻そうとする動きは阻止しなければならない」と強調。尾辻発言は党内で新たな火種になりかねない。


竹中平蔵は企業原理主義

2009-02-10 08:44:19 | 小泉竹中改革

竹中平蔵の言いたいことは2つ。

1 日本の法人税は高すぎる。
2 日本人の給料は高すぎる。

1は、企業が国に対して払う税金を軽くするものだし、
2は、企業が人に対して払う給料を軽くするものである。

どちらも企業にとって願ってもないことである。

つまり竹中にとっては、
国よりも企業が大事にされているし、
国民よりも企業が大事にされている。

竹中平蔵の頭の中には、国家も国民もなく、あるのは企業だけである。
企業が一番大事であり、企業のために国家や国民があることになる。

彼の考え方はこのような意味で無政府主義に近い。

企業 → 国家 → 国民

このような優先順位が竹中平蔵の頭に中にはある。

その結果もたらされる結論は、

1 企業が活動しやすいように、国は企業活動の負担となる規制を緩和し、国民は企業の利益のために奉仕しなければならない、
2 そのために国は労働者の保護を撤廃し、労働者が安い賃金で働かざるをえない労働環境を整備しなければならない、
3 国の使命はいかに安い労働者を企業に供給するかにある、
4 国の使命は企業活動の活性化である、

そういう結論になる。

派遣労働の正当化はこのような発想から生まれた。

彼によれば、企業活動の活性化のためには、国はすすんで規制緩和を行わなければならないが、
それを突き詰めると、何も規制を行わない国というのは、国がないのと同じである。
竹中平蔵にとって、究極の国家の姿とは、国が無くなることであろう。

資本主義社会というのは多くの資本を持つ者が多くの利益を上げるように出来ている。
だから所得の再配分機能が必要なのである。

しかし、企業の利益向上を最優先にする竹中流の企業原理主義では、所得の再配分などは考えなくてもよいことなのである。

このように竹中平蔵の経済学は人のことを考えない企業原理主義なのであり、
国民全体の生活の向上という本来経済学が追い求めるべき目標をはじめから捨ててしまった、著しく偏った経済学なのである。
その適用領域は非常に狭いものである。

にもかかわらず彼は一国の経済担当大臣として、その著しく狭く偏った経済理論によって日本経済全体を作りかえようとした。
その失敗の責任は当然問われるべきである。
それとともに彼を任命した小泉純一郎という変人宰相の責任も大きく問われなければならない。

彼ら二人に共通するのは、ある種の無政府主義、あるいはニヒリズム、国家への怨み、人の痛みへの無理解、そういうものである。