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「授業でいえない世界史」 16話 中世ヨーロッパ フランク王国~ノルマン朝

2019-02-10 05:00:00 | 旧世界史7 中世ヨーロッパ

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【ヨーロッパの地形】 ヨーロッパの地形で、大きな川は黒海から流れ出るドナウ川です。それからドイツの西部を流れるライン川です。今までイスラム世界をやったところから600年ぐらいまた過去に戻ります。

 イスラム世界は13世紀、1200年代まで行ったんですけど、そこが実は一番世界で進んでいる地域です。それを先にやりました。
 それからみると今ヨーロッパというと、イギリスだったり、フランスだったり、ドイツだったりして進んでいるように見えるけれども、この当時は田舎です。もともとアルプスの南の地中海沿岸地域がヨーロッパの中心だったけど、そこが廃れて田舎になっていきます。そこから見て、アルプスの北側というのはもっと田舎なんです。つまり田舎の田舎です。さらにそこから見た海の向こうのイギリスは、とんでもない田舎になります。
 ではなんでこんなド田舎のことをやるのかというと、これから1000年後に圧倒的にここが発展して、日本でもペリーが大砲を向けて来て脅されるまでになる。ここの文明、近代ヨーロッパ文明が発展してくるからなんです。
 今の段階でここが進んでいるとは思わないでください。今までヨーロッパをやったときに中心はどこかというと、ローマだった。ではこの時ヨーロッパの中ではローマが中心かというと、でもローマはもう捨てられた。
 どこに移ったか。ここの今のイスタンブール、この時にはコンスタンティノープルといいますが、ローマからここに中心が移った。ヨーロッパではここが中心です。

 ローマ帝国は二つに分裂しました。そして東の帝国だけが生き残る。これが何帝国だったか。東ローマ帝国です。それが中心です。

 しかし今からはその西の田舎をします。人があまり住まないような、オオカミが出るようなところです。ヨーロッパには「赤ずきんちゃん」のお話がある。赤ずきんちゃんは、何に食べられるのか。森のオオカミです。オオカミが出るような、森がうっそうと茂っている地域が西ヨーロッパです。
 そこにお姫様がいたら、何ヶ月も森をかき分けて行かないといけないようなところです。そういう「眠れる森の美女」の話もあります。ここはそういう森に覆われた地域なんです。この田舎のことを今からやっていきます。イメージを間違わないようにしてください。

 中心はここの東ローマ帝国です。でも本当はもっと東のイスラーム世界が栄えています。ヨーロッパで栄えているのは東ローマ帝国だということもです。
 ここに昔あったローマ帝国が分裂し、西半分の西ローマ帝国は滅亡したんです。このあとは廃れていく一方です。

 ローマは地中海側です。しかしローマの北のアルプス山脈を越えたら田舎です。険しくてなかなか越えられない山脈です。太陽の光が降り注ぐローマから見てアルプスの北側は、森に覆われた別世界です。今はそこがヨーロッパの中心ですけど、フランス・ドイツはもともと、アルプスの北の森の世界です。その田舎から見て、海の向こうにあるイギリスは、さらにとんでもない田舎です。

 フランス人は今でも、英語を田舎言葉だとして、使いたがりません。でもそのイギリスから、ずっとのち産業革命と近代社会が出現します。
 なぜそんなことになったのか。この地域は現代の社会をひもとく鍵なのです。


▼ヨーロッパの言語分布



【ヨーロッパの言語分布】 それが今の民族分布を見ていくと、ここはライン川です。その西側が西ローマ帝国があった地域で、まずその西ローマ帝国が滅ぶ。ここはまだ森に覆われた田舎のイメージです。

 発展したあとの民族分布をみると、もともとのローマ帝国のローマ人はラテン系の人々です。彼らが住んでいるところは、イタリアから、フランスから、スペイン、こういったところがラテン系の人々が住む地域です。ヨーロッパを西と東に分ける目印は、さっき言ったライン川です。ドイツとフランスのほぼ中間にあります。

 今からいう主役はこの東の田舎側に住んでいた人たちです。彼らをゲルマン人といいます。彼らゲルマン人がライン川を渡り、押し寄せてくる。

 むかし橋がない時代には、大きな川はなかなか渡れなかった。それを何千人・何万人というゲルマン人たちが大挙してライン川を渡って、そこに自分たちの国を作っていく。そのゲルマン人のもともとの地域が、だいたいドイツからオーストリアです。こういった領域をこれからやるいうことです。
 それから北のスウェーデンとノルウェー、ここもゲルマン人です。
 これからこのゲルマン人の動きを見ていきます。


【ゲルマン人の登場】 主役はゲルマン人です。西ローマ帝国が滅ぼうとしているときに、まず東のゲルマン人を押し出すのが、さらに東の方から西側のヨーロッパ側に進んできたフン族です。多分これは中国史でやった匈奴またはその一派だろうといわれる。それが東から西にどんどん進んで、そこに住んでいた人間を押し出します。押し出されたのがゲルマン人です。

 彼らが大移動を始める。旧ローマ帝国の領域は、ライン川の西側まで、今のフランスまでだった。そこにゲルマン人が入ってきたものだから、ついに476年に西ローマ帝国は滅んだ。

 しかしすでに東に引っ越していたもう一つの東ローマ帝国は生き残り、繁栄が続きます。

 もう一つ生き残ったのが、ローマ帝国の宗教です。国教になった宗教は何だったか。キリスト教ですね。これは総本山は今でもローマにある。そのまま生き残ったんです。これがローマ教会です。西ローマ帝国は滅んでも、そこにあったローマ教会は生き残った。
 これが一つの隠し味、ヨーロッパの底流を流れる伏線です。このあとのヨーロッパはこのあと新しく出てくるゲルマン人の国と、昔からあるローマ教会のライバル競争です。ローマ教会から見たら、新しく侵入してきたゲルマン人たちは野蛮人にしか見えない。一見仲が良いように見えて、ローマ教会と王様が、それでオレが偉いんだ、オレが偉いんだ、とケンカし出す。


【ゲルマン諸国】 ではゲルマン人が作った国、これはいっぱいある。西はスペインから、さらにジブラルタル海峡を南に渡って、アフリカの北岸にまで及ぶ。ゲルマン人が何千キロと移動してさまざまな国を作ります。


▼ゲルマン人の移動




【フランク王国】

【メロヴィング朝】 しかし、それを全部省略して、一つだけ代表的なものだけ取り上げると、これがフランク王国です。
 これは481年メロヴィンク家クローヴィスが、フランク諸部族を統一して建てた国です。クローヴィス一族の王朝をメロヴィング朝といいます。フランスという国の名前はここに由来します。フランクが訛ってフランスになっていきます。


【クローヴィスの改宗】 ローマ人から見るとゲルマン人というのは野蛮人だったんです。それがどうにかキリスト教の教えには従った。キリスト教徒にはなったんだけれども、ローマ教会の教えとは違った別の宗派のキリスト教の教えに従っていた。これを異端といいます。キリスト教にもいろんな宗派が発生します。のちにローマ教会によって弾圧されますが。

 ただこのフランクの王様、クローヴィスは、キリスト教にも何種類かあるが、どうせならこの生き残ったローマ教会の教えに変わったほうが何かと得だぞ、と考えた。この正式な教えをカトリック、本当はアタナシウス派という。これに改宗した。
 ここからフランク王国とローマ教会の仲が良くなります。ゲルマン人のフランク王国は、ローマ教会と手を組むことによって発展していくんです。


【聖像禁止令】 ただ忘れてならないことはヨーロッパの中心は東ローマ帝国であった。そこにもまた別の教会があるんです。国も二つになっていたし、教会も二つになっていた。それぞれ教会の教えも違ってくるようになる。

 西のローマ教会はゲルマン人にキリスト教を教えるときに、ゲルマン人は字も読めない野蛮人だと思っているから、キリストさんの像、またはマリアさんの像を見せて、これを拝むと良いことがある、と言っていた。
 日本人は仏像を拝むからそのことに違和感はないですけど、実は一神教の世界ではこんなことは絶対にしたらいけないんです。偶像を、神様の像を彫ってはならない。人間の形を神様はしてない。それを拝むなんてとんでもない。そういう教えです。これは「モーセの十戒」に書いてあるもっとも基本的な教えです。
 これを東ローマ帝国が黙って見ていられずに、禁止令をだした。それを聖像崇拝禁止令といいます。726年です。
 しかし、これを出されたら、字が読めないゲルマン人に絵もみせられない。像も見せられない。それだったら難しいキリスト教の教えを野蛮なゲルマン人に伝えられない、とローマ教会は反発していく。

 それで教会も、西と東で仲が悪くなっていくんです。ローマ教会と東の教会が対立するようになります。
 この聖像禁止は、もともと1000年以上前の「モーセの十戒」にも定められていたことです。ということは、ローマ教会は最初からこの禁を破っていたのです。そしてそのことを問い詰められると、何が悪いんだと開き直ったようにも取れます。
 私はキリスト教徒ではないから、聖像禁止が正しいのかどうかは分かりません。しかし歴史を見ると、一神教ははじめから聖像禁止なのです。
 このようにキリスト教には、ご都合主義のところがあります。これを柔軟だととらえるか、二枚舌だととらえるか。
 キリスト教の難解さはこういうところにもあります。これを悪用する人だって出てくるかも知れません。
 そのことへの恐れから、少なくともイスラム社会は今も偶像崇拝を認めません。イスラーム教徒が神様の像を拝んでいるのを見たことはないでしょう。それが一神教の原型です。
 だから同じ一神教でも、キリスト教とイスラーム教は対立します。


【ツール・ポワティエ間の戦い】 世界の中心はイスラム世界です。前に言ったイスラム帝国のウマイヤ朝は、昔のメソポタミア、今のイラクあたりを征服し、北アフリカに軍隊を広げて国がどんどん大きくなっています。さらに地中海の出口のジブラルタル海峡を越えて、ヨーロッパに攻め込んできた。ヨーロッパのスペインからフランスに攻め込もうとする。しかしこれ以上攻め込まれたらとても耐えられないということで、ゲルマン人のフランク王国は戦った。そしてヨーロッパがイスラム軍の侵攻をなんとか食い止めた。

 この戦いが732年ツール・ポワチエ間の戦いです。これでヨーロッパはどうにか潰れなくて済んだ。ゲルマン人の国のフランク王国がここで生き残りました。もし負けていたら、ヨーロッパはキリスト教国ではなく、イスラム教国になっていたと思います。このあともヨーロッパは防戦一方で、イスラム教徒の脅威におびえます。



【カロリング朝】
 そこからまた息をふき返したゲルマン人の国であるフランク王国は、ツール・ポワティエ間の戦いで手柄を立てたカール・マルテルの一族であるカロリング家に実権が移り、王家が変わります。カール・マルテルは、メロヴィング朝の宮宰だった人です。宮宰とは日本でいえば、大名家の家老のようなものです。8世紀の751年にはメロヴィング朝からカロリング朝に変わります。自分が王になります。


【カール大帝の戴冠】 この家から出た王様がカール大帝です。もともとカールというただの王様だった。ここで何とも不思議なことが起こります。

 ちょうど800年のことです。たんなるフランク王のカール王が、ここでローマに出向いていくと、そのローマ教皇から「おまえを皇帝にする」といって冠をかぶせられるんです。
 日本の天皇は冠とか別に要らないけれども、ヨーロッパの王は頭に王冠をかぶります。こういうのを難しい言葉で「戴冠(たいかん)」という。戴冠とは冠を頂戴することです。
 このローマ教皇が、カール王に冠をかぶせて、どこの国の皇帝にしようとしたかというと、それが不思議なことに、滅亡したはずの西ローマ帝国の皇帝にする、と言ったんです。これが西ローマ帝国の復活です。ここで476年に滅んだ西ローマ帝国が復活した、という言い方をするようになります。
 これは変なことで、何が復活したのか説明するのはけっこうむずかしい。でもヨーロッパ人はそう思ったんです。あのローマ教皇が王に冠をかぶせたんだから間違いないだろう。でもなぜローマ教会が、西ローマ帝国の皇帝を任命できるのかは、日本人にはなかなかわからない。

 ここで教科書に書いてない裏話を言うと、このときローマ教会に伝わっていた文書に「コンスタンティヌスの定め」というのがあったんです。約500年前の3世紀のローマ帝国時代にコンスタンティヌス帝という皇帝がいた。キリスト教を公認した皇帝ですが、覚えていますか。彼が決めたという文書が残ってたんです。その文書に、「ローマ教皇は西ローマ帝国の王を任命することができる」と書かれていたんです。何百年も前からそういうことをローマ皇帝が認めていたという文書が。

 ただこれは今となっては、偽書だということが分かっています。捏造文書です。最近のモリカケ問題の捏造文書じゃないけれども、公文書偽造です。嘘の文書をつくってそれを証明書にしている。
 ただこういうウソの文書でも本物だと信じられてきた。だからローマ教皇が冠をかぶせた人は、西ローマ帝国の皇帝になれる。だから西ローマ帝国は復活した、とヨーロッパ人は信じてきたというふうになっています。

 なんとも不思議な話ですが、ここで大事なのは、ローマ教会はそんな捏造文書まで使って皇帝を生み出し、そのことによってヨーロッパの政治的な支配を狙っていたということです。

 ここで起こったのは、ローマにいる教皇がカール王というフランク王に、田舎の王様に冠をかぶせた途端に、この田舎の王様が突然「オレは西ローマ皇帝だ」と名乗り始めた。つまりゲルマン人の王がローマ皇帝だという不思議なことがおこるわけです。これがヨーロッパという田舎で起こったことです。

 再度言うと、ヨーロッパの中心は実はコンスタンティノープルという東ローマ帝国です。ただ、これが名前を変えるところが覚えにくい。東ローマ帝国と言わずに、この時にはビザンツ帝国というふうに名前が変わっているんです。ビザンツとは、コンスタンティノープルが昔はビザンティオンという名前であったからです。

 東京の昔の名前が江戸というようなものです。だから江戸帝国になったみたいなものです。東ローマ皇帝はビザンツ皇帝です。こっちが実はヨーロッパの中心です。


 このビザンツ帝国では、皇帝とキリスト教の教皇の関係では、皇帝が上なんです。皇帝が東ローマ帝国の教会を支配している。これを皇帝教皇主義といいます。だから西に残ったローマ教会も支配しようと圧力をかけていく。
 しかしこのローマ教会はビザンツ皇帝の命令に従いたくないから、それをはねのけようとしている。800年の事件が起こったのはそういう時なんです。
 そのためにはこれと同じような形で政治的な後立てが必要になるから、この田舎の王様を、「おまえが東ローマ皇帝なら、こちらは西ローマ皇帝がオレのバックについているぞ」、という形を作りたかった。




 しかしここでは皇帝と教皇の関係が逆になっています。皇帝が教皇を任命するのではなく、教皇が皇帝を任命しています。

 ところがヨーロッパでは教皇が皇帝を任命していい、と信じられてきた。その定めに従って、西ローマ帝国が復活したと。ここにはかなり無理があります。無理を重ねると道理が引っ込みます。道理が引っ込んだ世界では、戦争で解決するしか方法がなくなります。

 この背景にあるのは、ローマ教皇ビザンツ総主教というキリスト教内の宗教対立があって、その対立を有利にするために、ローマ教会は西ローマ帝国を復活させたということです。それで田舎のゲルマンの王であるフランク族の王に冠をかぶせたわけです。それが800年におこったことです。


【ヴェルダン条約】 この時のフランク王国というのは、今のフランスよりもかなり大きい。フランス・ドイツ・イタリアにまたがるような大きな国だったんだけれども、このカール大帝が死ぬと、息子が3人いて、その3人に分割相続する。国家が王の私的な領土だと考えられていたから、国民の同意なく分割もできるのです。またこのことは、逆に王様と隣の国の女王様が結婚したら、その二つのことは合体して一つの国になることだってあります。15世紀に誕生したスペイン王国はこうやって誕生したものです。ヨーロッパでは近代になるまで国家は非常に私的なものです。
それで割れてしまう。この取り決めがヴェルダン条約です。843年です。

 どういうふうに三つに分裂したか。東フランク、西フランク、イタリア王国の三つに分裂した。西フランクの国境は、ほぼ今のフランスと重なる。フランスの形になった。ここでフランスができたと思って半分は正しい。これが今のフランスです。

 次に、ドイツに相当するのが東フランク王国です。今のヨーロッパの二大国家、フランスとドイツの原形がここでてきた。イタリアもです。
 さらにその後、870年メルセン条約でこの形がはっきりします。
 西ローマ帝国の滅亡して約400年後、東がドイツ、西がフランス、南がイタリアの原型ができた。

 では何が入ってないか。イギリスがはいっていない。イギリスはまた別です。イギリスは島国です。海の向こうの田舎のまた田舎じゃないか、いるもんか、という感じです。イギリスが国になるのはあと200年ぐらい後です。イギリスは統一国家にさえなってないということです。
 まえ言ってなかったけど、4~5世紀のゲルマン民族の移動の時に、イギリスに渡ったゲルマン民族のことをアングロ・サクソンといいます。イギリス人はアングロ・サクソン人です。本当はアングロ族とサクソン族、二つあったけれども、それを一つにした言い方です。アングロ・サクソンというゲルマン人の一派がイギリスに渡って行った。だからイギリス人のことを今でもアングロ・サクソンといいます。
 ここはアングロ・サクソン人による小国家が分裂している状態です。7つの国があったから、これを七王国といいます。ヘプターキーとも言います。それをどうにか統一したのが829年です。でもここはフランク王国の枠外の国です。


【東フランク王国】 中心はフランスとドイツのうち、ドイツなんです。ドイツは東フランク王国という。もともとはこのドイツがゲルマン人の本拠地です。

 そこから一部がライン川を渡って西に行ってフランスまで占領した。ただ本拠地はドイツです。
 このフランク王国は、王様といっても日本と違って、家来たちが王を選挙で選ぶという形をとります。ヨーロッパ人は選挙をやる。ギリシャ国家もそうだった。日本の王は、親から子、子から孫へと受け継がれる。これを世襲というけど、ヨーロッパはそれとは違って選挙原理というのが強い。
 生きるか死ぬか、荒々しい戦争がしょっちゅうあるときに、そういう地域では選挙で選ぶ。

 なぜかというと、平和なところでは、親が偉ければ、息子がボンクラでも、おまえが次の王になっていい。それでも戦争がないから滅びることがないんですよ。しかし戦争がいっぱいあって、いつ滅ぼされるかわからないところで、親が偉かったからといっても息子がボンクラで、そういうボンクラ息子が王になったら、そんな国はすぐ潰れる。滅んで自分たちも殺される。

 だから王権は一代限りで、では次の王は、親が偉いといっても関係ない、おまえはバカで何の能力もないから、この中で一番能力のある者を選挙で選ぼう、そういう実力主義です。選挙というのは実力主義です。
 一番力の強いものを選ばないと生き残れない。そういう世界で選挙が行われる。
 カロリング朝は911年に断絶します。


【オットー大帝】 ここで選ばれたのが、962年にオットー1世というザクセン家の人です。これをザクセン朝といいます。このあとも王家はコロコロと変わります。
 ドイツ人です。オットーという名前です。カール大帝から約150年経った。その間、ローマ教皇が王様に冠を被せる、これが空白になっていた、忘れられていたんです。これが150年ぶりぐらいに復活します。

 このオットー1世が久々にローマ教皇から、ローマ皇帝の冠を受けた。被せられた。さっきも言ったけど、これを「戴冠」といいます。オットー大帝といいます。




 この帝国は意味合いとしては、西ローマ帝国なんだけれども、ただこのあと何と呼ばれていくか。いつとはなくちょっと名前がアレンジされて、神聖ローマ帝国と言われるようになる。ローマ教皇という神の使いがからむから「神聖」なんです。

 これがドイツのもとです。962年の時のドイツという国は、何というか。神聖ローマ帝国です。でも支配領域は実質的にドイツのみです。ローマのあるイタリアも併合しようという努力はしますが、うまくいきません。一番簡単に言うと、神聖ローマ帝国とはドイツのことです。
 ドイツはこうやってローマの名前を受け継ぐ名誉ある地位を手に入れます。ヨーロッパで最も権威ある国になる。フランスじゃない。ドイツです。

 理念的には、このドイツが全ヨーロッパを支配する帝国です。フランスはその下にある王国に過ぎません。あとで言うイギリスは、さらにそのフランスの支配下にある国にすぎません。
 これは理念的なものに過ぎませんが、20世紀になってドイツのヒトラーが目指した第三帝国というのはこれなのです。第一がローマ帝国、第二が神聖ローマ帝国、そして第三がヒトラーの帝国です。こうやってバカにできない形で理念が復活することがあります。
 ドイツ人の中には今もこの理念が息づいています。今のEU、つまり欧州連合もそういう理念の一つでしょう。
 この神聖ローマ帝国は、ヨーロッパを一つにまとめることはできませんでした。そこが中国との違いです。中国は分裂と統合を繰り返しながらも、必ず一つにまとまります。今の中国も激しい内乱のあとにできた国です。
 この違いは何なのでしょうか。一つの違いは、皇帝権の上に、さらにまた別の組織があるということです。それがローマ教会です。上が二つに分裂していると、社長が二人いるようなもので、会社はまとまりません。


 悔しがったのがフランスです。なんでドイツだ、俺たちだってフランク王国の領地じゃないか、ドイツにしてやられた。ドイツめ、いつか見返してやる。だからドイツとフランスは仲が悪い。
 20世紀までずっと仲が悪いです。第一次世界大戦では、ドイツとフランスは敵同士です。第二次世界大戦でもドイツとフランスは敵同士です。

 この時の神聖ローマ帝国の構造はさっきのカール大帝の時の構造に似ています。ローマ教会トップのローマ教皇が今度は東フランク王に冠をかぶせた。そういう二番煎じで、ローマ帝国が復活したんです。このためにローマ教会は偽書まで用意していたということは先ほど話しました。ローマ教会はそのワンパターンです。その復活したローマ帝国は名前がちょっと変わって、神聖ローマ帝国という。その皇帝が神聖ローマ皇帝です。

 ローマ教会としてはこういう政治的な後ろ盾、バックボーンが欲しかった。宗教だけでは力にならないから、軍事力を持っている国が欲しかった。そして国王に命令したかった。
 神聖ローマ皇帝という政治的な後ろ盾を得たローマ教会は、以前から対立を深めていたコンスタンティノープル教会(ギリシャ正教会)と、1054年に分離します。東西教会の分離です。ビザンツ皇帝の指示は受けないということです。ローマ教皇は自分たちで決めるようになります。これがコンクラーベという選挙です。

 しかし一方で、神聖ローマ皇帝は、自分の皇帝位が、ローマ教皇によって決められるのはおかしなことだと気づく。ローマ教皇はビザンツ皇帝から命令されたくないし、また神聖ローマ皇帝もこのローマ教皇から命令されたくないのです。
 こういう社会トップの命令系統の混乱があるのが、ヨーロッパです。皇帝が上か、教皇が上か、これがよくわからないのです。だから政治と宗教を切り離すしかないのです。しかしこの問題はヨーロッパ特有のものです。

 それで皇帝と教皇で、オレが上だ、いやオレだ、それで対立する。ローマ教皇は、じゃあおまえをキリスト教会から破門するぞ、キリスト教から除外するぞ、そういって脅すんです。
 これがローマ教皇のもつ伝家の宝刀で、教皇と対立する皇帝にとってはこれが何より恐い。これはキリスト教社会では、人間でなくなることと同じなんです。この感覚もなかなか日本人にはわかりませんね。どうもキリスト教社会では、キリスト教徒でないものは人間ではないと考えられている。
 でもそうやって、皇帝と教会がこのあと対立していく。これがヨーロッパの歴史です。日本にはこういう宗教勢力がないから、日本人にはちょっとピンとこない。


【西フランク王国】 では冠をかぶせられそこねた西フランクはどうか。これが今のフランスです。カロリング朝という王様の家も断絶して、はがゆい思いをしながら力が弱くなる。すぐには復活できない。

 そのあと、また新しい王になった家がカペー朝です。987年です。ユーグ・カペーという人の家柄、カペー一族です。ただ王権は弱いです。


【ノルマン人】 この9世紀頃にまた、田舎の暴れ民族が、フランク王国に押し寄せてくる。荒らしまわるといっていい。彼らをノルマン人という。基本的にはドイツ人です。つまりゲルマン人の一派なんだけれども、その親戚筋です。

 400年前のゲルマン人の大移動の時にはまだ移動していなかった。400年遅れて彼らが移動し始めた。ノルマンというのは、北の人という意味です。ドイツ人から見て北にいる一族という意味です。
 今のスウェーデン一帯から海を超えて船に乗ってやってくる。彼らは海賊です。その海賊が船に乗ってやってくる。舳先がクッと曲がった海賊船に乗って。海から川に入って、急流があると丘に登って、百人ぐらい乗れるから皆で船を担ぐ。えっさほっさと担いで行く。
 また船を浮かべて、川をさかのぼって、村々を荒らし回る。これにさんざん痛めつけられていく。彼らの別名がヴァイキングです。海賊です。ヨーロッパはこの海賊がこのあと500年ずっと活動する。

 ジョニー・デップの映画、パイレーツ・オブカリビアンというのはこの伝統です。これがのち大西洋に乗り出していく。そういうお話です。このヴァイキングの経路を見ると、もともと北にいた人たちで、現住地はスカンジナビア半島です。今のスウェーデンです。彼らは西に行って、フランスにも入っていく。フランスを荒らし回る。

※ ノルマン人はバイキングと呼ばれ、海賊というイメージが強いのですが、海運業によって沿岸部をネットワーク化し、経済・産業を振興した創造者というのが実体です。・・・水上の広域ネットワークを独占したノルマン人は巨万の富を蓄積し、自らの国を築いていきます。(宇山卓栄 経済)


【ノブゴロド国】 もう一つ、東に行った人たちは、ロシアをつくる。ロシアはこんな小さいところから始まる。そしてその東に伸びていく。この土地をめぐっては戦争はないです。こんな寒いところ・・・つまり今のシベリアですけど・・・ここに他のヨーロッパ人は誰も興味を示さなかったから。取りたければ取っていいよ、という感じです。

▼ノルマン人とイスラーム勢力の侵入


 しかし、これがどんどん大きくなって、今や世界最大の領土をもつ国家はロシアになる。ヨーロッパ人こんなところは要らないと言う。だからこのあとシベリアまで広げていく。

 これもノルマン人の動きで、ロシアも彼らが作った国です。862年にまずノブゴロド国をつくる。これがロシアの始まりです。しかしすぐ引っ越しする。その南のキエフというところに引っ越しする。キエフ公国です。882年頃です。これが本格的にロシアのルーツになる。


【フランスのノルマンディー公国】 西では、さっき言ったようにノルマン人がフランスに侵入する。フランスの海岸にノルマンディー海岸というところがある。そこに族長のロロが国を作る。ノルマンディー公国という。

 つい最近、といっても70年代前、第二次世界大戦の戦場にもなった。アメリカ軍のノルマンディー上陸作戦が70年前にあった場所です。そこに国をつくる。北フランスです。ノルマン人が国をつっくたから、ノルマンディーという名前になります。
 ただしこれは王国ではなく、フランスの一地方領主という立場で認められた公国です。つまりフランスの一部です。日本でいえば大名のようなものです。



【イギリスのノルマン朝】
 次はイギリスです。このイギリスに乗り込んできたのも彼ら海賊のノルマン人です。
 今でこそイギリス王室というのは、おしゃれで、バッキンガム宮殿に住んで、綺麗な馬車に乗ってというイメージですが。でももとを正せば海賊です。だからエリザベス女王でも、暗殺されたダイアナ妃でも、背は170センチぐらいあって、体格が良い。背が高く、肉付きもよくて、しかも美人です。やわな血筋じゃない。ご先祖は海賊です。あの王家一族は、気性は荒いです。
 このイギリス王家が現代世界に及ぼした影響は計り知れません。

 すでに800年代後半から、ノルマン人の一派のデーン人のイギリス侵入が始まり、アルフレッド王により抵抗が続けられていましたが、アングロ・サクソン人の小王国の大半は滅ぼされました。
 そして1016年には、デンマーク王のカヌートによって、イギリスは支配されることになりました。まずデンマークの支配下に入ったのです。
 しかしさらに別のところから、新しい支配者が乗り込んできます。
 フランスの一大名であるノルマンディー公ウィリアムがイギリスを征服します。1066年のことです。このことをノルマン征服といいます。その戦いをへースティングズの戦いといいます。そこから王朝が築かれます。その王朝をノルマン朝といいます。

 まずデンマーク王が征服し、それをさらにフランスのノルマンディーという大名が征服したんです。もとはと言えばどちらもノルマン人です。逆に支配されたのがゲルマン系のアングロ・サクソン人です。イギリスは少数のノルマン人が、多数のアングロ・サクソン人を支配する国です。だから前に言ったように、イギリス人のことをノルマン人とはいいません。イギリス人はアングロ・サクソンといいます。
 それと同時にイギリスはフランスの子分になります。フランス王の家来のフランスのノルマンディー公が、イギリスを支配するという形になったからです。子分の子分です。子分でもワンランク下です。

 しかしこのあと、イギリスは子分はイヤだという。フランスは、何でだといって怒る。それでイギリスとフランスは仲が悪くなる。だから、このあとイギリスとフランスの間には百年戦争が起こります。
 ドイツとフランスは仲が悪い。イギリスとフランスも仲が悪い。隣同士で仲良くしていそうな感じだけれどもそうではない。それは日本もあまり言えない。日本と中国は仲があまり良くない。日本と韓国はもっと仲が悪い。隣同士の国というのは、歴史的に非常に仲が悪い国が多い。アジアの中で国同士がいがみ合うのは、アメリカにとって非常に都合のいいことです。こういう国は操りやすい。
 ただ日本はペリーが来る以前までは、朝鮮とも中国ともけっこう仲良かったんですけどね。その後、険悪な関係になった。
 

 ここでメイン三国ができた。やっとイギリスができた。その前にフランスができた。ドイツができた。イギリス・フランス・ドイツです。それにイタリアも。

 イギリス・フランス・ドイツ・イタリア、この4ヶ国は特に重要です。英、仏、独、伊。イギリス、フランス、ドイツ、イタリア。有名な外国は日本は漢字一文字で書く習慣があります。
 これで終わります。ではまた。



「授業でいえない世界史」 17話 中世ヨーロッパ ビザンツ帝国~百年戦争

2019-02-10 04:00:00 | 旧世界史7 中世ヨーロッパ

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【ビザンツ帝国】

 だいたいヨーロッパの1000年ごろまで行きました。ここ2~3時間で説明したた地域は、アルプス山脈の北側の、今でいうフランス、ドイツです。しかしこの地域は田舎です。ヨーロッパで進んだところはもっと東のほうです。そこに東ローマ帝国があります。
 西側は、以前に西ローマ帝国があったけれど、これは滅んだんです。滅んだから、田舎のゲルマン人が侵入してあちこちに国をつくっては滅んでいった。そのなかで生き残ったのがフランク王国です。
 中心は東方の東ローマ帝国です。ただこれが紛らわしいのは、ローマを支配していないのに東ローマ帝国というのはおかしいじゃないかということで、この時の首都はコンスタンティノープルといいますが、それ以前はビザンティウムと言ったから、東ローマ帝国ではなくビザンツ帝国と名前を変えたんです。
 しかし本当の世界の中心はどこかというと、もっと東の今のイラクとかイランあたりにはイスラーム帝国がある。イスラーム文化圏がある。ヨーロッパよりこっちが栄えてるんです。

 キリスト教の開祖のキリストさんはローマ人だったんですか。キリストさんはどこで生まれたんですか。エルサレムですよ。今でもよく爆弾が飛んでいる。
 ここをヨーロッパが征服するぞと言って遠征に出かける。結局200年もかけて遠征して、結局失敗するんだけれども、この過程で彼らは、ここは進んでいる、ここはすごいじゃないか、と気づく。イスラーム社会の文化に接触して、オレは田舎者だったんだ、と気づくわけです。
 こういう文化をヨーロッパに運んで来るのは商人なんです。商人は地中海を船で行き来している。それがイスラーム商人ビザンツ商人です。

 そのヨーロッパはさらに田舎の北のノルマン人という人たちが荒らし回っている、というところまで言いました。これが900年代~1000年代です。10Cから11Cです。

 ではその東の東ローマ帝国はどうなるか。さっき言ったようにビザンツ帝国と名前が変わります。これは西ローマ帝国が476年に滅んだあとも、約1000年間存続する。1453年まであるんです。つまりこのあともずっとある。この時のコンスタンティノープルは、今は名前を変えてイスタンブールといいます。1000年の都です。非常に有名な都市です。


【ユスティニアヌス帝】 また500年もどります。そのビザンツ帝国が支配した地域はどうか。西ローマ帝国が滅んだあとの6世紀、もう1回大帝国を奪い取るぞ、復活するぞ、という皇帝が出てくる。

 これがユスティニアヌス帝です。527年から565年まで約40年。政治のこと、領土のことは、次に言いますけれども、ここで問題になるのは、日本人が不得意なキリスト教会との関係です。
 ビザンツ帝国も西ローマ帝国も、キリスト教国であるということには変わりがなかった。しかし国が分裂し、そのあと西ローマ帝国は滅亡した。

 では生き残ったビザンツ皇帝はというと、この人は会社でいえば本店の社長だと思ってください。この社長はキリスト教のお坊さんの一番偉い人だって任命できる。しかしそのキリスト教会が今2つに分裂している。西の教会はローマ教会です。そのトップをローマ教皇といいます。

 もう一方の東のビザンツ総主教というのが、コンスタンティノープルにあるキリスト教会のトップです。そしてビザンツ皇帝はその両方の任命権を持っている。いってみれば、社長が東京支店と大阪支店の支店長を任命する権限をもっているようなものです。
 しかし問題は西のローマ教会です。オレは言うこと聞きたくない、独自の動きをしたいということで、東フランク王に神聖ローマ皇帝の王冠をかぶせて、政治的に結びついた、という話を前回したんです。ローマ教会から見れば、ビザンツ皇帝の支配下から脱して、独自に政治権力を持ちたいんです。


【皇帝教皇主義】 しかしビザンツ皇帝から見れば、俺は西のローマ教会に対しても命令権を持っているんだ、そこに命令を出すのはオレだ、と言いたい。これが皇帝教皇主義です。
 なぜなら、オレは東ローマ帝国の皇帝、ビザンツ皇帝だから、ローマ皇帝の権限を受け継ぐのはオレだ、西ローマ帝国は滅んだんだから、その権限を受け継ぐのもオレだ、だからオレがローマ教会に命令する、と考えた。

 だからローマ帝国を復活しようと、領土を広げていくわけです。それで大征服活動をしていきます。

 先に領土からいきます。このあとのビザンツ帝国は、いったん小さくなったけれども、ユスティニアヌス帝の時代の6世紀には多くの領土を復活しました。ギリシャを含めてイタリアまで。さらに広大な領土を治めた。ほぼ地中海を覆うまで。しかしこれは長く続かなかった。王様の個人的な勢いでやったからです。

 200年経って8世紀になると、本拠地以外にはギリシアの一部、それからイタリアの南の一部を領有するだけになります。
 さらに200年経って、10世紀頃にはますます減る。
 そして滅亡する14世紀になると、コンスタンティノープルの周辺だけになる。

 それでも1000年間モツんだから大したものです。日本人には意外と知られていませんが、こういうローマ帝国が繁栄していたんです。

 だからビザンツ皇帝は、ローマ教会に対して、俺の命令を聞け、ということをいろいろやっていきます。


【聖像崇拝禁止令】 それが、ビザンツ教会が726年に出した聖像崇拝禁止令です。

 神様は人間の目ではとらえられない、捉えられないものをなぜ彫るのか、そんなものを拝んだらダメだ、像をつくったらダメだ、キリストの像を拝ませるな、それは神を冒涜することだ、これはモーセの時代から決まっていることだ、と言うんです。

 これでローマ教会と対立する。ローマ教会はそんなこと言われたら困ると言う。困る理由は何か。それはあんたたちのいるビザンツ帝国は文化水準が高いから、字を読める者もけっこういて、頭がいい者もいるから理屈で説明してわかるけど、オレたちが教えているのは、あのゲルマン人だぞ、フランク王国だぞ、田舎の人間だぞ。こういう人間に理屈で説明して、キリスト教の難しい教えが理解できると思うか。何でもいいから、きれいな像を見せて拝ませる。これが一番てっとりばやいじゃないか。あんたの言うとおりにしたら、とても布教などできない。キリスト教の教えは広まらない。

 そう言ってローマ教会は反発するんです。それでビザンツ皇帝とローマ教皇は仲が悪くなる。


【東西教会分裂】 この聖像問題がネックになって、もともとビザンツ皇帝の支店みたいなものだったローマ教会が、独立して別会社になる。決定的なのが、1054年東西教会の分裂です。

 ローマにある西のローマ教会と、コンスタンティノープルにある東のギリシア正教会が正式に分裂する。これでキリスト教会は2つになったんです。
 今のキリスト教は3つある。1つはローマ・カトリック教会、2つ目はギリシア正教会、そして3つ目はこの500年後に出てくるのがプロテスタントという新しい宗派です。
 我々日本人に一番なじみの薄いキリスト教は、実はこのギリシア正教会です。今はその代表格がロシアです。ロシアはギリシア正教会を受け入れたキリスト教国です。
 ロシアは今やっているビザンツ帝国とは全然場所が違うじゃないか、と思うかも知れないけれど、1000年後にこのビザンツ帝国が滅ぶときに、ビザンツ皇帝の姪を嫁に迎えて、オレがその後継者だと名乗るんです。それはあとで触れます。

 この東西教会の分離の何十年かあとには、西ヨーロッパが、胸に十字架を縫い付けて征服活動をする。目指すはここエルサレムです。キリスト教の聖地、キリストが生まれたところを征服しに行く。

 この軍隊を十字軍といいます。さっき言ったように200年間かけて、何回も何回も行ったあげくに失敗する。しかしその間に、オレたち田舎者だったと気づくんです。進んだものがあるんだ。オレは知らなかっただけなんだ。早くマネして取り入れようとなります。

 そのビザンツ帝国は1453年に滅ぼされる。東隣に隣接するイスラーム教の国、オスマン帝国によってです。

 ビザンツ帝国が滅亡するとそれと同時に、残されたギリシア正教会を受け継ぐのはオレだと名乗り出たのがモスクワ大公国です。これがのちのロシアになります。

 十字軍で西ヨーロッパが征服しに行ったところはエルサレムです。ではエルサレムは、この時どうなっているか。イスラーム世界になっています。キリスト教の聖地をイスラーム教徒が支配している。

 実際には、その中にキリスト教徒もいっぱいいて、大きな混乱はなかく平和は保たれていたんだけれども、ここで本格的に血が流れ出すのはこの十字軍からです。


【封建社会】 ではこの頃の西ヨーロッパはというと、もともと未開の土地で、赤ずきんちゃんがいてオオカミがいる。そういう森に覆われたところを、ちょこちょこ開墾しだしていった。森の木を切り倒していった。

 だんだん農地が広がっていき、それに伴って食糧が増産して、田舎のヨーロッパがじわじわと・・・こういうのは目立たないけどボディーブローのように効きます・・・じわじわと力をつけて行った。

 そういった中で、田舎の親分さんは自分の土地を広げていくと、だんだんと王様の命令を聞かなくなる。王に税金を払わない。王様の役人が農地を検査しに行くと、帰れと追い返す。オレは検査を頼んでいないぞ、と追い返す。こうなると国の中に別の独立国ができたようなもので、こういう領主ばかりになると王様が困りだす。

 田舎の親分さんは王様の命令に対して、王様がなんだ、あさっておいで、と役人を追い返すんです。自分の領地に立ち入らせない。
 こういうのを不輸不入権という。不輸というのは税金払わない、輸送しないということです。不入というのは検査官を立ち入らせない、追い返すということです。
 こうやって田舎の親分さんの私有地が成立していく。こういう領主の私有地のことを「荘園」といいます。


【ローマ教皇の隆盛】 ではローマ教会のことに行きます。西のキリスト教会のことです。さっきビザンツ総主教のあるビザンツ帝国のことを言いました。

 1054年に正式に東西教会が正式に分裂したということは、ギリシア正教会のところで言いましたけれども、それは同時に西のローマ教会が正式に独立したということです。

 これがローマ・カトリック教会です。俗にカトリックをはずして、ローマ教会という。宗派でいうとカトリックです。こちらも自分の力を上げようと必死です。

 田舎の親分さんも、王に税金を払わなくていいように必死です。
 王様も、このままでは誰もオレの命令を聞かなくなる、自分の力を上げるのに必死です。

 まず対立するのは、この王様とローマ教皇です。

 田舎の西ヨーロッパでの中心はドイツです。ただドイツとはいわない。神聖ローマ帝国という。
 ローマを支配してもないのに、神聖ローマ帝国と名乗っている。それはおかしいじゃないか、と言われる。だから、そのうちにローマ支配をしますから、ローマ支配をしますから、とずっと政策の中心は、ローマ、ローマでいく。でも結局うまくいかずにローマを支配することはできません。

 その皇帝をハインリヒ4世という。11世紀のドイツの王様です。というより正式には神聖ローマ皇帝です。王にはいろいろランクがあって、王様のワンランク上が皇帝です。王様より偉いんです。


【カノッサの屈辱】 それに対して、ローマ教会のボスは教皇という。名前はグレゴリウス7世という。この2人がケンカする。

 なぜケンカするかというと、帝国の領内にある教会のお坊さんを誰が任命するかという問題です。ローマ教皇は、教会のことは当然オレが任命すると言う。それに対して神聖ローマ皇帝は、いや教会は土地をもっている領主だから、オレの子分だ、だからオレが任命するんだと言う。
 その任命権をめぐって、お互い争って対立する。


 そしたらローマ教皇が神聖ローマ皇帝に対して、それならおまえは破門だと言う。破門というのは、キリスト教徒と認めないということです。これは我々日本人にはあんまりピンと来ないけど、キリスト教社会の中でキリスト教徒ではないと名指しされた人間は、ほとんど人間ではないと言われたのと同じです。

 人間ではない者を、皇帝の子分の大名たちが、皇帝として拝めるわけがない。皇帝にとってローマ教皇からの破門はそれだけ恐ろしいものです。
 破門されて、おまえはキリスト教徒ではない、だからキリスト教の仲間に入れないと言われたら、ますますこの皇帝は孤立していく。そうすると子分の領主が誰もついてこなくなる。

 こういう形で、神聖ローマ皇帝に対して、ローマ教皇と地方の領主であるドイツ諸侯が手を組むわけです。この皇帝の子分であるドイツ諸侯は、もし破門が解除されなければ、お前を皇帝とは認めないと決定する。皇帝はこれが怖くて怖くて、もうローマ教皇に謝罪するしかない。

 孤立した皇帝は謝りに行った。謝った場所がイタリア北部にあるカノッサというところです。このローマ教皇がたまたまそこに滞在していたんですね。雪降る中にわざわざ出向いて行って、謝りますからどうぞ中に入れてください、と言う。
 しかしローマ教皇は、オレは会わないという。皇帝は三日三晩、裸足で立ち尽くした。そして四日目に、そこまで言うなら仕方ない、会ってやろう、となった。そこで皇帝は教皇に頭を下げた。皇帝がです。それでやっと破門は取り消しになった。それでどうにか皇帝の座を維持できた。
 これがカノッサの屈辱です。このことを皇帝のハインリヒ4世は一生忘れない。1077年です。
 こうやって皇帝と教皇を比べると、日本人の感覚では皇帝が偉く見えるんだけれど、ヨーロッパでは教皇が強い。キリスト教のボスが皇帝よりも強い。そのことを天下に知らしめることになった。

 このローマ教皇の絶頂期が、このあと12世紀、1100年代のインノケンティウス3世の時です。何世と言っても王様じゃない。ローマ教会のボスです。彼のときが全盛です。

 「皇帝は月、教皇は太陽」。オレが太陽だ、皇帝は月のようなもんだ、俺がいなければあいつは輝けない、と彼は言ったといいます。 


【十字軍】 その間、さっき言った西ヨーロッパという田舎は、エルサレムを征服しに行く。これを十字軍といいます。エルサレムはイエス・キリストさんが生まれた所、キリスト教の聖地なんだけれども、そこを今イスラーム教徒が支配している。それを奪い返しに行くのです。何のためか。キリストの栄光のため、神の国を作るため。それで人を殺すんです。さんざん殺します。

 殺し方はキリスト教徒のほうがひどい。イスラーム教徒はそこまでもムチャクチャに人を殺さないけど、キリスト教徒は無残に殺します。
 コロンブスがアメリカ大陸を発見した後などは、アメリカ大陸の現地人は悲惨ですよ。アジアも悲惨ですよ。日本はすんでのところで植民地にならなかったけれども。

 十字軍の目的はキリスト教にとっての聖地、エルサレムを取り戻すため。

 この時には・・・これもあとで言うけど・・・セルジューク朝というイスラーム帝国が攻めて来ている。
 このエルサレムはイエス・キリストの生まれた場所です。イエス・キリストはローマ人じゃない。だからここを取り戻しに行った。この十字軍をやるぞと言ったのが、1095年です。
 キリスト教会の会議のことを、なぜか公会議という。これもまたわかりにくい。公の会議とは何かな、国会かな。いやキリスト教の会議です。
 これはローマ教会のボス、つまりローマ教皇が招集するんです。会議を開くぞ、キリスト教徒は集まれと言う。こう呼びかけたのがローマ教皇ウルバヌス2世です。キリスト教徒が会議を開いて何を決定したか。戦争するぞ、ということを決定する。
 そして大名たちや王たちに、戦争にいこうと呼びかける。十字架を付けて。これが神の栄光なんだと言って。どんどん殺していく。十字軍というのは征服軍です。これを命令したのは皇帝じゃない。まして王でもない。キリスト教会の教皇です。皇帝よりもオレが上なんだ、オレに命令する権利があるんだと言って、戦争さえも行っていく。神様のためだと言って、戦争を正当化するんです。一神教世界ではこういう戦争の正当化がよく起こります。
 これが200年も続きます、10回近く、何回も何回も、何十年に一度ずつやっていくんです。しかしその結果はというと、エルサレム回復には失敗します。


【商業の発達】 ただこの間、さっき言ったように、オレたちは田舎者だ、もっと進んだ世界があった、と気づく。

 まずそこに商人が乗り込んでいく。もっとも利益を得たのが北イタリア商人です。なかでもヴェネチア商人などはがっぽり儲ける。

※ イスラーム商人が支配する地中海世界では、十字軍運動を契機にイタリア諸都市の商業活動が活発になった。商業とともに起こってきたイタリア金融業の成長には、手形、小切手などを普通に使っていたイスラーム商人の影響が大きい。(宮崎正勝 お金の世界史)

 商工業が発達していく。商売人たちが力を蓄え仲間を組む。これをギルドといいます。今でいう商工会議所みたいなもの、商人の連合会みたいなものです。

 そして征服活動があっている間に、田舎のヨーロッパにお金が入ってくる。お金は人間の発明です。お金が流通する社会というのは、かなり高度な文明です。そこでしかこれは成り立たない。ヨーロッパはやっとこの12世紀ぐらいに、地方にもお金が回りだした。

 ここまで200年かかる。11世紀から13世紀まで200年です。何回も、何回も、十字軍は7回もやる。個別にはもう見ません。200年間これが繰り返し続くんだということです。その200年の間にヨーロッパが発展しだす。戦争によって多くの人は苦しみますけど、その一方で富を蓄える人もいます。彼らが蓄えた富によって、貨幣経済が発達しだす。

※ 1215年の第4回ラテラン公会議では、支払い期日を守らない債務者によって債権者の損害が発生した場合、利子が認められるとされました。これが教会法の抜け穴となります。・・・人々は資金の貸し付け時に、極端に短い返済期限を設定し、それ以降の期間についての返済の遅延を延滞利息として計算する、という方法をとりました。・・・このような手法を駆使し、銀行業で華々しく成功する事業家一族が次々に登場します。(宇山卓栄 経済)


【農民の自立】 その一方で地方の封建領主は潰れていきます。そうすると・・・それまで田舎の西ヨーロッパの農民は農奴といってほとんど奴隷と変わらなかったんですよ・・・こうやって封建領主が力を失うと、この農民たちが力を持ちだす。勤勉に働くとお金を貯められる。お金を貯めて自分の土地を買ったら農奴身分から解放される。


【ドイツ】 では個別に見ていくと、田舎のヨーロッパの中心はドイツであった。正式には神聖ローマ帝国といいます。しかしここの皇帝とは名ばかりです。それほど力はない。なにせカノッサの屈辱で、皇帝が裸足になって三日三晩、ごめんなさいと言い続けないと、王でいられなかったような皇帝だから。


 その300年ぐらい後には、皇帝を出す家は、ほぼ家柄が決まっていく。これがハプスブルク家です。

 ハプスブルク家の王が、だいたい親・子・孫とずっと続いていく。なんでこうなったか。強かったからじゃない。一番力がなくて無害だったからです。わざと弱い王を立てた。
 しかしこのあとハプスブルク家は、300年の間にじわじわと力をつけていく。あれよあれよという間に。このあとも出てきます。ドイツはハプスブルク家です。神聖ローマ皇帝はハプスブルク家という。



【イギリス】
 今度はイギリスです。9世紀以降ノルマン人による侵略が続き、1066年に、すでにフランスに領土を確保していたフランス貴族となっていたノルマンディー公ウィリアムによって征服されます。この征服をノルマン征服といい、そのイギリス王朝をノルマン朝といいます。これはすでに言いました。

 ノルマン朝以後、13世紀、1200年代のジョン王という人は、まずフランスとケンカします。当時イギリスはフランスの中に領地を持っていて、イギリス王はフランス王の家臣であるという関係だった。


【マグナ・カルタ】 ジョン王はフランスとケンカして、その領地を全部奪われてしまう。それに家来たちは腹を立てて、おまえの言うことなど聞けるか、逆に王に対して命令する。これだけのことを守れと。家来がですよ。家来が王様に要求する。この要求がマグナ・カルタといいます。1215年のことです。

 マグナというのは大きいという意味です。カルタは約束です。これを漢字で書くと大憲章といいます。大憲章の憲は、憲法の憲なんです。憲法のルーツはここにあります。
 憲法とはバカな王に対して、バカな事をするなよと、家来が王に要求したものです。上から下に命令するんじゃないです。逆に下から上に要求したんです。これが憲法です。だからこういうことするな、こういうことするときには、会議を開いて国民の意見を聞いて、その承認を受けろ、そういう要求をしている。
 日本人の多くは、日本国憲法を「上が下に」与えたものだと思っています。自分たちが守らなければならないものだと。これ違いますよね。憲法は「下が上に」要求したものです。権力はよく腐敗します。そうならないように守らなければならないことをしっかり書いて上に要求したものです。憲法を守らなければならないのはまずは国なのです。国は憲法の抜け道を常に探します。憲法九条の問題はまさにそうですね。

 税金を上げる時には、オレたちの了解をもらえ、勝手にするな、これがマグナ・カルタです。これが憲法の原型になっていく。貴族が王に勝手に税金あげるなという。まずはお金のことです。

 だからこの国は基本的にお金がない。勝手に税金を上げられないからです。ではなんで稼ぐか。これが海賊なんです。ノルマン人自体が海賊だから海賊行為はお手のものです。

 海賊で何をするか、海でどんどんこのあと植民地をとる。海賊は植民地をつくる。だからころの小さな島国はつい100年前まで、世界最大の植民地帝国を築いていた。大英帝国です。グレートブリテンです。アメリカの前の世界の覇権国はイギリスです。

 もう一つは植民地の奴隷で稼ぐ。アフリカ人をアメリカに連れて行って売り飛ばす。1人あたり1000万ぐらいかな。

 奴隷はロボットと同じぐらい高価です。どんな精巧なロボットでも、コーヒー沸かせと言ってもできない。これが人間の奴隷だったらやってくれる。だから奴隷はものすごく高価です。だから高価で売り渡す。人間が人間を売り渡すんです。
 先のことを言うと、これでお金を儲けて、そのお金で産業革命が起こります。奴隷貿易で稼ぐのです。あこぎな話です。

 話が先に行きすぎました。もとに戻します。
 この時の貴族の要求は、議会を開けということです。とにかく王に、議会だ、議会だ、俺たちの意見を聞け、と言う。議会は、王が下の者の意見を聞く場です。


【百年戦争】 しかしイギリスはフランスとの仲が悪い。

 そこでフランスがカペー朝からヴァロア朝に王家が変わった際に、王位継承をめぐって戦争が起こる。100年間も。これを百年戦争という。1339年からです。ヨーロッパは戦争だらけです。百年戦争、三十年戦争、ざらです。
 日本だって、関ヶ原の戦いとかあったじゃないか、と言って、関ヶ原の戦いが100年も続いたと思っている人がいます。これはたった1日で終わる。もっと言えば半日で終わる。日本は半日で300年の平和を維持する。

 ここでは百年戦争です。日本は平和が基本です。例外的に戦争がある。ヨーロッパはその逆です。戦争が基本です。例外的に平和がある。

 百年戦争は英仏間の戦争です。英はイギリス、仏はフランスです。こうやってヨーロッパの有名な国は、漢字一文字で出てくる。

 最初はイギリス有利だった、これを跳ね返したのが、フランスの16才の少女だったというのです。ジャンヌ・ダルクという16歳の田舎少女が出てきて、フランス軍を率いてイギリスに戦いを挑む。そして勝つ。

 この話は不思議です。私にはよく分からない。しかも最後は魔女裁判にかけられて火あぶりの刑で死ぬんです。

 これはイギリスの撤退が政策的に進められていく中で、一種の話題作りと戦意高揚のためにでっち上げられたフランスの広告戦略であり、ジャンヌ・ダルクはそれに利用された広告ガールに過ぎないのが実体でしょう。

 これでフランスがイギリスに勝ちます。終わったのが1453年です。このことでイギリスはフランス国内の領地を失い、フランスとははっきりと別の国になります。

 この戦いの中心地はフランドル地方です。フランスみたいですけど、今のベルギーです。オランダの南にある小さい国です。ここはけっこう豊かなんです。狭いけど、お金になる地域です。フランスもイギリスも本音ではここが欲しかったのです。

 ここが何をつくっているかというと、ウールです。ウールというのは毛織物です。

 我々が着ているのは木綿です。逆にいうと、ヨーロッパには木綿がないんです。だからこのウールに頼るしかない。これがこの時代の衣料品事情です。その生産地がフランドル地方で、これで儲けている豊かな地域です。

※ 百年戦争中、非常に興味深い現象が起こります。戦場となったフランドル地域を離れて、フランドル毛織物業者が大挙してイギリスへ引っ越しをし始めます。戦争によって経済活動が阻害され、原料の羊毛が安定的に入手できない状況に追い込まれたフランドル毛織物業者たちは原料の生産地であるイギリスに海外移転します。(宇山卓栄)

※ 十字軍運動の中で頭角を現したのが、銀の取引で王と諸侯に対して担保をとる前貸しにより利益を上げたロンバルディア人だった。ちなみに彼らの一部は、14世紀にロンドンのシティに移住し銀行家として活躍した。ロンドンの金融の中心ロンバード街の名の起こりは「ロンバルディア」にある。(宮崎正勝 お金の世界史)

※ ヨーロッパ最古のアラビア数字の使用は、10世紀のこととされる。イスラーム世界を媒介にしてインドの記号が移植されたのである。
 イスラム世界に起源を持つ簿記は、1340年にジェノバで「複式簿記」として定着した。(宮崎正勝 お金の世界史)


 この後の衣料品事情について触れておきます。
 真夏でも毛糸を着ておかないていけない。だから汗で臭い。木綿がない時代に、上質なウールはなくてはならないものです。

 ヨーロッパ人がアジアに行って、涼しい木綿を知ると、これが欲しくてたまらない。しかしつくれない。気候が合わずに栽培できないんです。これをいかに安く仕入れるか。それが課題になる。この仕入れ先がインドです。インドには木綿がある。
 これに目をつけたのがイギリスです。こういった細かいところに、近代に結びつく要素がある。

 毛糸しかなければ、ウールで満足してたけど、それは木綿を知らないからです。毛糸なんか夏に着ていたら、日本人はバカだと思う。あんなのをよく着るぞと。しかしそのウールしかないわけです。このウールは洗うと縮むので、なかなか洗うことができません。
 しかも彼らは風呂にはいりません。ヨーロッパで、なぜ香水が流行るかというと、彼らは不衛生で臭いからです。夏に毛糸を来ている人には臭くて近寄れない。香水はそのにおい消しです。日本人は毎日風呂に入る。だから香水なんか本当は要らないのです。

 サングラスといっしょで、青い目のヨーロッパ人には、光を防ぐサングラスは意味がある。しかし黒い目の日本人には意味がありません。それといっしょで、香水は日本人には意味がない。
 それにトイレがない。どうするか。オマルの生活です。用を足したあとは、二階からそのまま捨てる。オーイ、どけどけ、と言って、バシーっと道端にものを捨てる。だから中世のヨーロッパの都会の道ばたは糞尿の山です。

 中世のヨーロッパの都会は、お洒落だというイメージがありますが、これがヨーロッパの都市の実体です。この時代の都市は我々の想像を絶する汚さです。
 衛生的に劣悪です。そこで何が流行るか。伝染病です。ペストです。真っ黒に皮膚がなるから黒死病という。これでとんでもない数の人が死にます。
 これで終わります。ではまた。



「授業でいえない世界史」 18話 中世ヨーロッパ バラ戦争、レコンキスタ、ロシア

2019-02-10 03:00:00 | 旧世界史7 中世ヨーロッパ

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


 前回はイギリスの百年戦争まで行きました。1339年から1453年、約百年間、本当は百年以上です。イギリスフランスの戦いです。英仏と書いています。こういうふうに、ヨーロッパの主要国は漢字1文字で表す慣例は今でもある。

 このイギリスとフランスがちょっとねじれているのは、イギリスから見ると、イギリスの領土はフランスにもまたがっていたんです。今はイギリスとフランスは別の国でしょ。しかしイギリスの領土がフランスの1部にまたがっていた。
 これは正確に言うと、フランスの王様の子分のノルマンディー公というフランスの大名が、海を越えたイギリスを征服して今のイギリスという国ができたんです。だからこのフランスから見るとイギリスはオレの子分だ、ということになる。それが100年もかけて戦ってる。
 おまけとしては16歳の少女がフランスを勝利に導いた。有名な少女です。これがジャンヌ・ダルクです。最後は火あぶりいで殺されましたけれども。

 この14世紀というのは、もう一つ、ヨーロッパ人が3人に1人死ぬ。人口の3人に1人が死ぬということは、今の日本の人口からいうとどのくらい死ぬのか。日本人の1億2000万の3分の1というと、4000万人が死ぬ。恐ろしい死に方です。
 これが伝染病の黒死病、つまりペストです。非常に不衛生であった。尾籠な話までしました。トイレがないから、どんどん二階から捨てていた。ヨーロッパの中世の町は不衛生きわまりない。だから疫病が流行る。


【バラ戦争】 やっとこれが終わったかと思うと、イギリスはまた30年間にわたって戦争します。これをバラ戦争といいます。1455年から1485年です。15世紀のイギリスは戦争に明け暮れます。イギリスはもともと海賊の国です。ノルマン人の別名はバイキング、海賊です。まだ海賊に飽きずに、のちにアメリカ大陸を見つけたらそこでも海賊をやる。王自らではないけども海賊を雇う。
 この40年間の戦争をなぜかバラ戦争という。今までの王家はランカスター朝といいます。それが百年戦争で負けて立場が悪くなると、皇位継承問題で「おまえ、やめろ、オレが代わりに王になる」といったのがヨーク家です。ではバラというのはなぜか。
 日本でも家紋がある。家の紋章です。天皇家は菊の紋とか。ヨーロッパにもあったんです。ランカスター家の家紋は赤いバラだった。ヨーク家の家紋は白いバラだった。どっちもバラだから誰が名付けたのか、バラ戦争です。一種のしゃれです。バラの花がいっぱいあって、華麗な戦いのようなイメージが起こるかも知れないけど、全然華麗じゃない。凄惨な戦いです。



【フランス】
 今度はイギリスと戦ったフランスですけれども、フランスも1328年までカペー朝が続いていましたが、それがヴァロア朝に変わるんです。王家が変わったんです。
 この王位継承に異をとなえたのがイギリスです。そしてそこから起こったのが、百年戦争です。ちょっと順番が逆になりました。
 この百年戦争には、どうにかフランスが勝った。イギリスの領地があったフランスの国内からイギリスの領地を奪いとって国内統一に成功していく。
 それからもう一つは、やっぱりイギリスにも議会が出てくるように、フランスにも三部会という会議がある。これは身分制議会です。一番偉いのが王とお坊さん、次に貴族、その次が平民。身分ごとに会議を持っている。
 この辺の感覚も日本人にはちょっとわかりにくいんですね。ヨーロッパは日本と違って、強い身分制社会です。これも王に要求をつきつける場所です。議会をもっているかどうか、これは日本との大きな違いです。



【イベリア半島】
 イベリア半島というのは今のスペインです。スペインがある半島をイベリア半島といいます。
 ここはこの時代から500年くらい前に、南のアフリカからキリスト教徒でない人たちが攻め上がって国をつくっていた。それがイスラーム教徒です。
 スペインはもとイスラーム教徒の国だった。紀元1200年ころまで。南のアフリカからジブラルタル海峡を渡って、イスラーム教徒が乗り込んできてイスラーム教徒の国家になった。
 そこにキリスト教がじわじわと勢力を盛り返して、北の方からキリスト教徒が圧力をかけてきます。そういうふうにイスラーム教とキリスト教がミックスしている地域なんです。このほかにユダヤ教徒もいました。

 イベリア半島には、イスラム教ユダヤ教キリスト教、こういういろいろな宗教がありました。この中で力を持ち出すのがキリスト教です。キリスト教は自分とは違った宗教の共存を許しません。ここは全部キリスト教国にするんだ、異教徒は追い払らおう、という。彼らはこれを、追い払い運動とは名づけないで、国土を回復する運動という。回復するというわりには、ここが全部キリスト教の国になったことはないんですけど、なぜかそう言うんです。これが国土回復運動です。これをレコンキスタといいます。異教徒の排除です。キリスト教以外は認めないということです。
 キリスト教徒以外は人間じゃない。こういう発想をする。キリスト教徒以外は人間じゃなかったら犬猫といっしょです。奴隷にしてかまわないという発想になる。キリスト教徒ではない黒人を、アフリカから奴隷として連れて行って何とも思わない。そういうことに繋がっていきます。

 さらに複雑なのは、ここにも多くのユダヤ教徒が多数いたことです。ユダヤ教徒はこれから約1000年前に国を失って、世界中に離散、これを英語でディアスポラというんですけど、国を失ったまま信仰だけ持ち続けている人たちです。彼らもまたイスラーム教徒といっしょにこのイベリア半島から追い出されていきます。
 彼らユダヤ教徒は、ユダヤ教徒独自のネットワークを使いながら、その一部はのちのオスマン帝国内に住み着いていきます。
  またその他のスペインにとどまったユダヤ人は、のちオランダに移住します。それが1492年です。この年はコロンブスがアメリカ大陸を発見した年でもあります。この年をきっかけにスペインのユダヤ人はオランダに移住します。
 1500年代のオランダの繁栄には、このユダヤ人たちが大きな影響力を持ちます。彼らは貿易国家オランダの中で、その中核となるお金の両替や貿易決済などの金融業を営みます。
 さらに1600年代になって、オランダ総督のオレンジ公ウィリアムが、1688年の名誉革命のあとイギリスに乗り込んで国王ウィリアム三世となると、それにともなってさらにイギリスに移住し、そこでもまた金融業に従事します。
 本格的な中央銀行である1694年のイングランド銀行の成立はこういう動きの中で起こります。



【ロシア】
 ヨーロッパの歴史は、なにか日本の歴史と違うな、という感じです。とにかく、このあと起こるのはぜんぶ戦争です。戦争、戦争です。本格的にこのあとヨーロッパが戦争しはじめます。
 そういう戦争の結果、ヨーロッパが軍事的に強くなるんです。だから文化水準が高かったから世界を征服したというよりも、ヨーロッパの場合には軍事力が強かったのです。だから世界に乗り出して支配していくようになった。

 それからもう一つ言うと、この百年戦争が終わった1453年というのは、もう一つ大事なことが別のところで起こっています。
 これがビザンツ帝国の滅亡です。これも1453年です。ビザンツ帝国、つまりわかりやすくいうと東ローマ帝国です。西ローマ帝国が滅んだ後のヨーロッパの中心はもともとこの国だった。それが滅んだんです。千年の都が。
 ここはローマ・カトリック教会とは違うキリスト教の宗派だった。これをギリシア正教といいます。このビザンツ帝国の首都が今のイスタンブールです。この時はコンスタンティノープルと言います。
 これが滅びると、ここのギリシア正教会も滅びるのかというと、それはオレが面倒見ると言った国がある。ビザンツ帝国が滅んだとき、その皇帝の姪を后にもらっていた関係から、ビザンツ皇帝の跡継ぎはオレだ、と名乗った国がある。
 それがモスクワ大公国です。これが発展したのが今のロシアです。ここから本格的にロシアが始動します。ロシアの首都モスクワのことを第三のローマと言ったりするのはそのためです。
 だからロシアの宗教は、同じキリスト教でも西ヨーロッパのキリスト教とは違う。ギリシア正教という別の宗派です。その時のロシアの王様をイヴァン3世といいます。



【中世ヨーロッパの文化】
 15世紀までのヨーロッパ、ここまでをヨーロッパ中世といいます。16世紀から近世というんだけれども、この中世文化の特徴を3ついいます。
 一つ目はスコラ哲学です。このスコラが訛って、君たちが必ず知ってる英語になる。スクールです。学校です。学校のルーツは、このスコラ哲学のスコラです。スコラとはという意味です。もともとは勉強なんかする人間は暇人なんですよ。
 なんで暇していて食っていけるのか。ギリシアの昔から日本と違ってヨーロッパは何を持ってるか。何を持っているから勉強できたのか。働かなくてよかったのか。暇ができたのか。奴隷社会だったんです。ギリシアのアテネは人口の3倍くらいの、スパルタとかはその10倍ぐらいの奴隷がいるんです。ローマ社会も奴隷社会です。だから暇です。暇になったら人間は勉強する。これが文明ですね。普通はみんな忙しくて勉強する暇なんかないから、恵まれた人たちの哲学です。
 文明以前の社会は、暇なときは寝っ転がっているんです。またはおしゃべりしているんです。それでなければみんなでお祭りしているんです。そのことが悪いとは言いません。ただなぜこんな勉強する社会になったのか、考えてみれば不思議です。
 これを文明社会に応用すると、学生は暇だからで勉強できる。仕事をし出すと勉強したくても、暇がなくて勉強できない。仕事しながら勉強するのは大変です。暇なときにこそ勉強すべきです。そんな時間は一生のうちでそれほどない。

 二つ目です。そこで使われている書き言葉は何か。この時代は今のフランス語やイギリス語やドイツ語ができつつあるんだけれども、勉強には使わない。勉強に使うのは、古代ローマで使われていた言葉、ラテン語です。これはローマの言葉です。正確にいうとローマ帝国の言葉です。

 三つ目です。スコラ哲学というのは、何を勉強するのか。勉強と言えば、キリスト教です。このキリスト教の考え方をまとめたのが「神学大全」です。ヨーロッパで神といえばキリスト教しかない。ほかに仏教大全とかありません。神学といえばキリスト教です。
 これをまとめたのが、トマス・アクィナスです。彼が偉いのは、キリスト教の考え方の中に、キリスト教とは全然違ったギリシャ哲学の考え方・・・これが今の科学に近いのですが・・・そういう科学的なものの見方を取り入れたことです。
 矛盾するものを一つにまとめて矛盾がないように見せるという非常に不思議なことをやった。違った意見をまとめて、まとまったように見せる才能というのは、正しいものを真正面から追求する才能とはぜんぜん別の才能です。
 これで終わります。ではまた。



「授業でいえない世界史」 19話 中世ヨーロッパ 中世都市と商業

2019-02-10 02:00:00 | 旧世界史7 中世ヨーロッパ

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【都市と商業】
 ここから商業にいきます。

 地図を見ると、アルプス山脈がこんなところにある。マッターホルンとかあるんです。その北はローマ帝国から見ると田舎だったんです。
 ではどこがヨーロッパの都会かというとコンスタンティノープルです。当時はコンスタンティノープル、今のトルコのイスタンブールです。ここが中心です。コンスタンティノープルはビザンツ帝国の首都です。千年の都といわれる。
 でも本当に世界で最も栄えてるのはここじゃない。もっと南東のイスラム世界です。
 だから活動する商人も文明が高い順でいうと、まずはイスラム世界のイスラム商人です。次がビザンツ帝国のビザンツ商人です。物を運ぶのは、新幹線もなにもないから、大八車で引いてもラチあかない。何で運ぶのか。大八車で運ぶのと、船で運ぶのとどっちが効率的か。風の知識さえあれば断然、船なんです。その海がこの地中海です。
 まずこの地中海ルート。イスラムもこの地中海に出れます。コンスタンティノープルも地中海に出れます。
 そこにヨーロッパがエルサレムを軍事征服をする。エルサレムというのはキリスト教の聖地で重要な都市です。200年かけて征服しようとしたが失敗した。これが十字軍です。失敗したけれども。
 そのことによってこの地中海商業圏に西ヨーロッパ勢が入ってくる。これは儲かる、オレたちもおこぼれにあずかろう、となる。そうすると、イタリア半島の西の人間よりも東の人間が地中海に出やすいです。これがイタリア半島の東にあるベネチアです。ベニスともいう。海の中に浮かんだ都市です。今も車が走れない都市です。ぜんぶ船で行く。水路で移動する。ここが繁栄していく。ここを中心にヨーロッパとイスラム世界の交易が発達する。


【ビザンツ商人】
 この地中海には、それ以前からビザンツ商人が活躍していました。このビザンツ帝国というのは、何回も言うように昔の東ローマ帝国のことです。この首都がコンスタンティノープルという都であった。
 ここがヨーロッパの中心で、そこから地中海に乗り出してイスラム圏と東西交易をはじめる。地中海を渡ってイスラム世界と貿易する。それで一時はビザンツ商人が中継をしてガッポリ儲けた。それで繁栄した。
 この利権を奪ったのが、さっき言ったベネチアです。地中海利権を奪われると、このビザンツ帝国は成り立たない。農業国ではないから。商売で儲けている国だから。
 第4回十字軍などはエルサレムを攻めずに、このコンスタンティノープルを攻めます。これは本末転倒もいいところです。味方を攻めています。これを仕掛けたのがベネチア商人です。つまり十字軍という聖地回復運動は、ベネチア商人によって、地中海貿易の利権獲得という別の目的にすり替えられたのです。
 その被害者がビザンツ帝国です。その利権を奪ったのがベネチアです。


【ムスリム商人】
 ビザンツ商人が取引していたのがイスラム商人です。彼らをムスリム商人という。イスラム教徒のことをムスリムというからです。彼らはイスラム商人です。
 彼らムスリム商人が地中海に出る時には、今はここにスエズ運河がありますが、その横にカイロ、さらにカイロの近くに港町のアレクサンドリアというところがあって、そこから地中海に出る。それでカイロが繁栄する。

 アフリカのことをここでだけ言うと、アフリカの北部にも国があった。アフリカは未開の土地ばかりじゃない。文明があった。
 アフリカにもちゃんと国があったし非常に栄えた。なんで今アフリカは遅れているのか。それはこのあとの500年後、ぜんぶヨーロッパの植民地にされて、ヨーロッパ人がアフリカの勇壮な男たちを根こそぎ奴隷として連れて行ったからです。だから人手不足で社会が荒廃していく。
 一度そういうことやられると水田といっしょで、水田を豊かにするのは何年もかかるけど、一度荒らされると水田はなかなかもとに戻らない。だから今でもまだアフリカの社会は回復していない。その原因はヨーロッパ人の侵略です。


【北イタリア商人】
 今この地中海商業圏というのをやっています。
 このあと田舎であった北部ヨーロッパにも商業権が出てくる。これを北ヨーロッパ商業圏といいます。フランスとドイツの間、ここをフランドル地方という。今のベルギーです。ここがヨーロッパを代表する毛織物の産地です。綿織物はヨーロッパにはありません。
 そこに出てくるのが北イタリア商人です。そのきっかけになったのが、さっき言ったように征服運動です。十字軍です。田舎のヨーロッパ人が、エルサレムをイスラム教徒から取り戻すぞといって、200年かけて7回も行く。でも成功しない。
 しかし、そのことでヨーロッパにプラスになったのは、これで北イタリアの商人が活躍しだして、金儲けしだしたことです。
 進んだイスラム世界の文化が、ヨーロッパに伝えられた。それでヨーロッパが豊かになっていく。このことが重要です。その運び屋となった都市がベネチアです。さらにこの都市は地中海貿易の利権を、ビザンツ商人から奪っていきます。
 もう一ついうと、ベネチアはイタリア半島の東にありますが、もう一つ、西側に都市がある。ジェノバです。これが二大都市です。ここが儲け出す。

 このジェノバが大事なのは、ここの船乗りの一人にコロンブスがいるからです。彼はもともとジェノバの船乗りです。しかしジェノバの商人は彼の企てを支援しなかった。だから彼はスペインの女王のところに行って、話を持ちかけます。こういう企画がある、プロジェクトがある、一枚噛みませんか、金さえ出してもらえれば、オレが行きますよ。そうやって西回りでインドに行こうとした。
 コロンブスは、アメリカ大陸を発見しようとして行ったんじゃない。インドに行こうとしたんです。そしたら予想より早く着いた。彼は死ぬまでそこをインドだと信じていた。だからそこに今でも西インド諸島という名前があります。だから死ぬときには大ウソつきです。歴史に名前が残っただけで、死ぬときには不幸です。
 しかしコロンブスが見つけたアメリカ大陸との貿易は、このあとヨーロッパに莫大な富をもたらします。
 そのことによってヨーロッパ人が、それまでの二大商人であるビザンツ商人やムスリム商人の優位を覆す。ここから田舎のヨーロッパ市場が盛り上がっていくんです。しかしそれはもうちょっと後のことです。

 それ以前、この北イタリア商人が、東のムスリム商人たちから欲しがったのは何か。ヨーロッパには絶対ない香辛料です。香辛料というのはスパイスです。肉を食うのに、冷蔵庫がないから、肉を保存したくてたまらない。そういうときに胡椒、スパイスを振りかけると保存できる。肉が腐ると臭いから、腐りにくくしたい。だからこれが欲しくて、欲しくてたまらない。これをどこから手に入れるか。それがインドです。
 これが非常に珍しくて高く売れた。すると胡椒バブルが起こって、胡椒1グラムを金1グラムで買う。つまり金といっしょです。しかしバブルは、数十年でストーンと落ちますけど。
 バブルの間は金と同じ値段で売れる。それならインドに行くぞ。ここでインド貿易に火が付くんです。
 これで終わります。ではまた。




「授業でいえない世界史」 20話 中世ヨーロッパ 北方商業圏と東西交易

2019-02-10 01:00:00 | 旧世界史7 中世ヨーロッパ

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


 いま12~3世紀の商業のことなんですよね。中心はヨーロッパの北なんですか、南なんですか、伝統的なものは。

 今は北が栄えているから、北だと思いがちなんですけれども、実は南の方なんです。伝統的には、1000年前は。
 十字軍がむかったエルサレムは東にある。イスラーム世界というのは、もっと南東のここらへんにあるんです。ではコンスタンティノープルというのはどこにあるか。
 ビザンツ帝国の都は。ギリシアがあって。ここは黒海といって海です。まん中は地中海です。その南はアフリカです。そしてジブラルタル海峡を越えると大西洋です。黒海の入り口のここがコンスタンティノープルです。
 十字軍というのは・・・ちょっと補足すると・・・イスラームがエルサレムを取るんです。もともとエルサレムはコンスタンティノープルを拠点とするビザンツ帝国(東ローマ帝国)の領土だったんです。そのビザンツ帝国が自分だけでは戦えないということで、ローマ教皇に助けを求めたんです。
 それで援軍として遠征軍を送ろうとして、エルサレムまでヨーロッパ軍が攻め込んだんです。これが十字軍です。
 十字軍というのは十字架・・・キリスト教の象徴は十字架でしょう・・・その十字架を胸に縫い付けて、オレはキリスト教徒だといって戦うわけです。ひどい殺しかたをしていきます。
 さらに変なことには、そのうち物資輸送でベネチア商人が、貿易の利益を求めて、助けを求めたこのビザンツ皇帝を滅ぼしに行くんです。これは敵が違うんですよ。助けを求めたから、その相手の敵のイスラムを殺しに行ったのに、助けを求めた本人を潰すんです。
 これがなぜかというと、商売の利権を奪いたいからです。こんなことをやってベネチアというのは、栄えていきます。旅情豊かなロマンのベネチアみたいに日本では映画とかでよく言われますけれども、歴史的にいうととんでもないところです。やったことを見ると、仲間を裏切るのは当然、という感じです。


【ルネサンスと交易】 十字軍のあと商業が栄えて、このベネチアがこのコンスタンティノープルに商館を置く。ビザンツ商人を潰して自分たちの拠点、支店を置くんです。のちビザンツ帝国はもう一回復活するんですけどね。細かいことはカットします。
 でももうちょっと補足しないといけないですね。進んだイスラムの文化が、ここまで行くことによって、このイスラムの文化がヨーロッパに伝えられていく。
 なぜ伝えられたかというと、古代文明の発祥地ギリシアはどこですか。ギリシャはここです。
 ここの文化がヨーロッパにすぐに伝えられたように思うでしょう。そうじゃないんですよ。ここが滅んだあとの世界の中心はどこかというと、イスラム世界です。そこにまず伝わるんです。
 そのあとヨーロッパ人は、十字軍によってこのイスラーム世界に攻めることによって、ギリシア文化を初めて、ああこんなすごい文化があったんだ、と知るんです。そしてオレの本家は、ここだ、ギリシアだ、と言いだす。これはウソですよね。直接の本家はイスラームです。その前がギリシアなんですね。途中を省略しすぎています。
 その後、ギリシアに戻るんだといって、ギリシア文化を復興する。元に戻ろうとする。こういう文化運動がヨーロッパにこのあとでおこる。
 まだ言ってないけれども、これをルネサンスといいます。漢字で書くと「再生」です。何を再生するのか。ギリシャ文化の再生です。オレたちのご先祖様だ、と言って。ちょっと違うんですけどね。
 ギリシャ文化はヨーロッパに伝わる前にイスラームに伝わって、その二番煎じでヨーロッパに伝わったということです。


【モンゴル帝国の交易】 しかしさらに広げてアジア大陸全体でみると、交易が活発になった最大の帝国は、実はモンゴル帝国です。
 この国の規模はヨーロッパでも及ばない。ここで東西交易がものすごく活発になる。だから商売は危険も伴うけれども、もし生きて帰れれば利益が百倍ぐらいのとんでもない利益になる。
 これを求めてヨーロッパ人がアジアに出向いていく。東が豊かです。アジアは貧乏だと思ったらダメです。アジアが豊かなんです。
 まず陸でいく。これがシルクロード、草原の道です。これが中国からヨーロッパに繋がる。行けると思ったら、次は一気に大量に運ぶために今度は船です。海の道になる。
 そんならオレも陸で行くぞと言って、やはりベネチア商人が中国に行く。これがマルコ・ポーロです。実際に中国に行って、20~30年いて、ベネチアに帰って来た。どうしてたと聞かれると、中国に行ってきたよ。聞かせたら話を信じてもらえずに、ホラ吹きだと言われる。しかしだんだんとこれは本当だということで、この時の話がマルコ・ポーロの「東方見聞録」という本になる。「世界の記述」ともいいます。


【利子】 ではカトリック教会はどうするかというと、商業には元手がいるんです。お金がない人は商売できないかというと、借りたらいいんです。お金を貸す商売というのがでてくる。
 しかしヨーロッパは、キリスト教は基本的に利子禁止なんです。利子禁止なんだけれども、目の前の必要に押されて、ツベコベ言うなと、利子OKになる。
 そうすると金貸しが栄える。金貸しという言葉が悪ければ銀行です。これでガッポリ儲ける。銀行はたいして儲けないと思うかも知れないけど、1%、2%はたいしたことないと思うかもしれないけれど、1兆円の1%は100億円になる。1兆円の預金もっている銀行は日本でもザラです。都市銀行とかは10兆円とか、100兆円とか持ってる。
 これがフィレンツェのメディチ家という金貸しです。こういう商売が栄えていく。


【インド洋交易】 こういう交易の活発化があって、次にヨーロッパ人が太平洋を渡っていく。コロンブスの時代に。これはあとで言います。大航海時代と言いますけれど、これは東西交易の活発化の産物です。
 そこで変なものが、爆発的に高い値段で売れるようになる。西洋は肉食です。冷蔵庫がない。だから腐る。臭いがたまらない。臭い消しと保存料。つまり胡椒ですよ。たかが胡椒、されど胡椒です。
 胡椒1グラムが金1グラムで取引される。つまり金と同じです。胡椒を米俵いっぱい持ってくると、もう億万長者です。
 その欲につられて、またヨーロッパ人がアジアに乗り出すようになるんですが、ではヨーロッパ人がもともとインド洋貿易を行っていたのかというと、彼らは新参者です。
 そこのインドや東南アジアとの貿易を前から仕切っていたのは、船乗りシンドバットたちなんです。船乗りシンドバッドはヨーロッパ人じゃない。イスラム教徒です。ムスリム商人が中心なんです。文明が栄えていたのはイスラム圏です。だからその貿易の中心はインド洋です。
 今までインド洋のことをあまり言ってないけど、太平洋と大西洋はよく言うんですが、それは最近500年のことです。ずっと歴史のメインはこのインド洋です。ユーラシア大陸の東西交易はインド洋です。ここが貿易の中心でした。


【北方商業圏】
 先に行きすぎたからまた元に戻ります。
 そういう地中海から始まって、ヨーロッパの田舎のアルプスの北にも商業圏ができた。ここらへんからヨーロッパが力を持って行くんですが、その前段階にあるのは、その前200~300年まで海賊たちがヨーロッパの海を荒らし回っていたということです。
 これが北方のゲルマン人です。北のゲルマン人を何人と言ったか。ノルマン人といっていた。イギリス王室をつくったのもこのノルマン人です。イギリス王室やエリザベス女王は海賊の子孫です。ご先祖さんはヤワな人たちじゃない。そういうバイキングが活躍していた。
 人が動けば商業が発達していきます。そのうちに今の北ドイツあたりのリューベックやハンブルグができると、今の商工会議所といっしょで、商人たちが同盟を組むようになる。
 この商工会議所をハンザ同盟といいます。その中心がフランドル地方です。フランドル地方は、今のオランダの南のベルギーあたりといいました。ここは小さいけれども豊かなところです。だからみんなが欲しいところです。
 オランダは小さい国です。しかし唯一、日本が江戸時代に貿易していたヨーロッパの国はオランダです。オランダ人というのは、こんな日本にまでやってくる商魂たくましい人たちです。

※ フランドルのブリュージュにはジェノバ船やベネチア船が入港し、北方経済圏と南方経済圏を繋ぐ役割を果たし、レバントの香辛料がもたらされました。(宇山卓栄 経済)

 もう1つ、フランドルのもうちょっと南、フランスの西側あたりにシャンパーニュ地方というのがあるんです。ここも定期市が立って非常に商業が栄えていく。そこで売られた酒が何でしょう。
 シャンパーニュだから、そこで売られた酒はシャンパンです。名前はここからくる。酒蔵があるところはだいたい豊かです。酒蔵もっている地域は、だいたい豊かな地域です。
 それからもう1つは、ちょっと田舎なんですけど、ドイツもそれなりに頑張っている。南ドイツのアウグスブルクです。
 しかし、この3つ、フランドルとシャンパーニュと南ドイツ。こういったところが、アルプスの北で田舎ですけど、ここが初めて発展しはじめた。この田舎を強調するのは、この田舎が全世界の文化になっていくから。
 我々は何のまねしているか。そこの一言でいうと、ヨーロッパの文化です。なんでズボンにベルトをしているのか、なんで紋付き袴はしていないのか、女がスカートをはいているのか、フンドシをせずにパンツをはいているのか、日本の伝統的なものではないです。
 フンドシというのを一度してみたいですね。銭湯行ったとき、スーパー銭湯で若いお兄さんがフンドシしてた。カッコイイと思ったね。オレもしてみようと思いました。私の爺さんは当たり前のごとくフンドシだった。おやじはフンドシしていなかったけど、でも若い頃はしていた、と言っていました。



【イベリア半島】
 今度はイベリア半島です。今のスペインです。スペインでは、ムスリムの支配が長く続いていた。イスラム教徒の支配地であった。
 そこをキリスト教徒が巻き返して、イスラム教徒を追い出そうとした。これを追放運動じゃなくて、なぜか国土回復運動といいます。昔ここがすべてキリスト教国であったことはないんですけどね。
 これをレコンキスタと言って、国土回復運動と訳します。コンキスタは征服、レは再びです。再び征服するという意味です。ここがいつキリスト教の国だったのかはよく分からないけど、ローマ帝国の時代はそうだったということになっています。それほどローマ時代にここにキリスト教が普及していたとは思えないんですけどね。
 ヨーロッパ人はギリシャ文化をこのイスラム世界を通じて学びます。ギリシャから直接ではない。
 ギリシャ哲学はまずイスラム世界に伝わったんです。だからイスラム教徒によってアラビア語に翻訳された。アラビア人はイスラム教徒です。
 ヨーロッパ人がさっき言ったように、十字軍に行ってイスラム文化に触れ、そのレベルの高さに驚き、本を持って帰って自分たちの言葉に変えようとする。それでラテン語に翻訳する。こうやってイスラム世界から学んだのです。

 また中国から学んだものがある。この時代にやっとを使いはじめるんです。中国はすでにその1000年前から紙があります。
 紙がない生活はトイレットペーパーが困るとか、そんなものじゃない。紙がないと行政ができないんです。お金の信用取引もできないです。紙がなかったら命令ひとつ出せない。
 我々は出張に行くのも勝手に行けない。ちゃんと会社から、何月何日に、どこどこに行きなさいと文書が来る。それを持って行くんです。勝手に行ったら職務放棄で給料が出ないです。
 そのためには紙が必要です。紙は今の社会の基盤になっている。これがやっとヨーロッパに伝わったのがこの時代です。
 それまでヨーロッパに紙がなかったということは、ヨーロッパ人の多くは読めないです。でも中国人は読めるんです。字が読めない社会が文明社会とは言えない。紙がなかったとはそういうことです。



【ユーラシア全体】
 東西交易は最初は陸路です。陸路は唐の都の長安を出発して西へ行く。これが絹の道のシルクロードです。マルコ・ポーロは、逆にベネチアからこの道を伝って中国に行った。
 しかし物を運ぶにはラクダよりも船がいい。これは今も昔も変わりません。中国の南のベトナムから東南アジアへ。そしてインド洋へと出るとき一番近いルートは、今も昔もこのマラッカ海峡です。
 ここが安全であれば、わざわざ南に遠回りして行くことはない。だからここを支配する人というのは、この地域のポイントなんです。アジアで日本以上の金持ちはというと、今でもこのマレー半島先端のシンガポールです。シンガポールは日本よりお金持ちです。8割方は東南アジア人ではなく中国人です。中国人は目ざといから、ここが儲かると思ったらすぐ移動していく。
 そして帰りはインドに戻り、西のペルシャ湾に行って、地中海からベネチアまで帰っていく。このルートです。
 その他にもちょっと寄り道して他のところにも行こうかな。そういう経路もある。その周辺にも行ける。アラビア半島に行ったりできる。
 メインの海はこのインド洋です。

 現在のエネルギーを支えているのもこの地域です。100年前に石油が出たんです。ペルシャ湾岸に石油が出る。ここが安全でなかったら、日本に電気はつきません。石油が来ないから。ペルシャ湾の出口のホルムズ海峡は狭い。ここを誰かが通せんぼしたら、日本は電気がつきません。日本を潰すには、ここを通せんぼするだけでいいです。
 ホルムズ海峡が封鎖されたときに、ヨーロッパに行くための抜け道がアラビア半島の西の紅海を通っていくことです。
 しかしこの航海の北ではいったん陸にあがらないといけない。300年後、ああ面倒だと言って、水を通せと、運河を掘ったんです。イギリス人がエジプト人に掘らせるんです。これがスエズ運河です。そういうルートができて、現在も利用されています。
 物を運ぶ時には基本は海です。1に海、2に陸です。海は交通をさえぎるものという考え方が鎖国以降の日本には強いけれども、逆に海は外に開かれているものです。海を通って物は運ばれていく。そういう意味では海が流通の動脈です。

 砂漠のラクダ使いと比べて、海のルートを知っていれば、物を運ぶのに海が有利です。風さえつかめば大量のものを乗せて自分で動いてくれるんです。
 このアジア大陸の東と西を結んだ大帝国がモンゴル帝国であった。13世紀のことです。これで東西交易がますます盛んになった。
 しかし困ったものまでヨーロッパに運ぶ。ペストまで運ぶんです。ペストはどこが原産かよくわからないけど、たぶんインドの北の中央アジアのネズミだろうといわれます。
 人が行き来するから、ネズミもそれに乗ってヨーロッパまで運ばれる。当時のヨーロッパはものすごく不潔です。不衛生きわまりない。もう一発で流行する。3人に1人が死ぬ。


【海の道】 海の道としてはインド洋がメインです。太平洋でも大西洋でもない。伝統的にはインド洋航海です。そこで往来している船乗りたちはヨーロッパ人ではなく船乗りシンドバットです。それがイスラム世界の商人です。
 イスラム世界がまん中だとすれば、東の豊かな国に中国がある。中国とイスラム社会がメインです。西のヨーロッパはおまけです。まだ田舎なんです。
 世界で最も栄えたところは、アッバース朝時代の・・・最近はアメリカの空爆で粉々になっているところですが・・・バグダードです。2003年のイラク戦争以後のここ十数年間は悲惨なところです。アメリカによって家もろとも破壊され、難民続出です。親兄弟にも会えない。難民は遠いアメリカには避難せずに、近いヨーロッパに避難する。アメリカは破壊しただけです。
 それから第2の都としては、エジプトのカイロがある。ここにはむかしファーティマ朝がエジプトにあった。そのときにできた都です。


【ダウ船とジャンク船】 そこの商人たちはムスリム商人という。イスラム教徒のことをムスリムといいます。そういう船に乗ったムスリム商人の活躍がある。
 イスラムの船と中国の船、東と西でこの2種類の船があります。何千キロも離れたところからやって来てこの二つが結びつく。
 ムスリムの船をダウ船といいます。一枚のものすごくでかい帆を持ってる。三角の帆です。こういう船は速いと思う。
 中国のほうはジャンク船です。帆はそんなに大きくないから遅いかもしれません。速さはダウ船、頑丈さは中国のジャンク船でしょう。アラビアには台風こないからかな。日本もさんざん台風の被害受けますけど。そんなことも関係あるかもしれません。


▼12世紀頃の海域世界


 そのダウ船を使って、イスラム商人はアフリカの東側にも行く。アラビア海は当然です。その船乗りシンドバットたちは東南アジアにも行く。
 人口で世界最大のイスラーム国家はどこか。アラビア地域ではない。東南アジアのインドネシアです。ここが世界最大のイスラム国家です。東南アジアになぜイスラーム国家があるのか。イスラーム教徒がアジアに乗り出していくからです。
 東南アジアはもともとはインド勢力です。その前は中国です。ここでイスラーム化していく。イスラーム教徒が乗り出していくから。

 また東アフリカでは、もともとバンツゥー語というアフリカ言語があった。そこにアラビア人の船乗りシンドバットたちがやってくる。そこでアラビア語とバンツゥー語が混じり合う。
 それで生まれた新しい言語がスワヒリ語ですう。スワヒリ語圏の文化のことを、スワヒリ文化という。文化も混じり合う。
 何が取引されたか。やっぱり中国からの絹は大きい。シルクです。それから肉が腐らないように香辛料も。胡椒を調味したものです。こういうのが金1グラムと変わらない価値で取引される。
 またヨーロッパ人は風呂にはいらない。木綿がなくて、夏でも毛糸を着ている。汗で臭くて仕方がないから、体臭を消すための香水が必要です。風呂に入っている日本人にはこういう発想はない。

 南シナ海がある。シナは中国です。シンというのが訛ってシナ、英語では訛ってチャイナ。中国です。中国ではジャンク船という。
 こういう船で商売圏が広がっていく。だから西から東に行くと、西イスラム圏から運ぶのはまずダウ船。これはイスラムの船です。
 それが東南アジアに行って、そこまでやってきている中国人の船に積み替えられる。この船がジャンク船です。
 それが中国の各港、とくに広州とかに運ばれて中国の国民が消費する。こういう広い交易圏がすでにアジア大陸では成立している。そこではイスラーム文化圏が中心です。
 これからあとに言うのは、インド洋以外、最初は大西洋です。アメリカ大陸を発見するから。それまでその存在を知らない。アメリカはあるんですよ。でもヨーロッパ人は知らないんです。


【東南アジア】 ユーラシア大陸のネットワークを結んでいるのは、東南アジアです。東南アジアは海の道です。
 そこにはいろんな人たちが行き交って、早くはインド文化、それから中国文化もやってくる。次にイスラム文化もやってくる。3つの文化がやってくる。
 教科書でみると、普段の街の写真で、顔つきがぜんぜん違う人たちが、無造作にバス停に並んでいたりする。いろんな人が住んでいます。


【マラッカ海峡】 そのなかで東南アジアの注目点というのは、マラッカ海峡です。マラッカ海峡はさっき言ったところで、海の一番の近道です。
 東南アジアで大きい島はスマトラ島。ジャワ島の西隣にある一番大きい島です。ここにシュリービジャヤ王国というのがあった。
 今の中心、インドネシアのジャワ島にはシャイレーンドラという王朝があった。これが伝統的な王朝なんです。ジャワ島には、ボロブドゥールという仏教寺院跡もある。こういう文化が栄えていた。


【マラッカ王国】 しかしイスラーム教徒との接触によって、ポイントとなる地点が新たにできる。これがマラッカ海峡です。マラッカに王国ができる。これがマラッカ王国です。東南アジア初のイスラーム国家です。港がそのまま国家になる。
 ここが拠点になって、イスラーム教が広がっていく。現在世界最大のイスラム国家はインドネシアです。人口2億です。
 マラッカ王国が小さいからといってバカにしたらいけない。その後どうなるか、わからないんだから。これが拠点です。ここからイスラーム教が広がっていく。

 さらにその後、ヨーロッパ人の植民地になっていく。ヨーロッパ人がどんどん進出して占領していく。軍事力にものを言わせて。まずはポルトガルが占領する。それをまたオランダが奪っていく。イギリスも乗り込んでくる。
これで終わります。ではまた。




野蛮な軍事行動と、それを遂行するためのお金のトリック

2017-06-19 09:23:22 | 旧世界史7 中世ヨーロッパ

月曜日

1.平和に暮らす人々は、武力に関心を持たない。軍事に興味を示さない。そして文化を高めていく。
2.それに対し、食うや食わずの生活をしている人は、人の物を分捕っても生きていこうとする。ギリギリの生活のなかで武力に頼ろうとする。文化に興味を示さない。

前者と後者が対立したとき、武力の勝負となる。
文化の高い地域が、文化の低い地域に負けることになる。後者が前者を支配する。

このとき二つのことが起こる。
① 一つは、勝者で低い文化の人たちが、敗者で高い文化の人たちの文化を取り入れようとする場合である。北方遊牧民と中国漢民族の関係がそれである。
② もう一つは、勝者で低い文化の人たちが、敗者で高い文化の人たちの文化を根こそぎ破壊しようとする場合である。西ヨーロッパのキリスト教社会と、中東のイスラム教社会との関係がそれである。
ローマ帝国崩壊後の西ヨーロッパは辺境である。

中世において世界の中心は、西ヨーロッパにあるのではなく、中国とイスラム世界にあった。
そのイスラム世界に野蛮な西ヨーロッパが襲いかかったのが、十字軍の蛮行である。
十字軍そのものは失敗に終わるが、西ヨーロッパ社会はこのあと次々と同じことを繰り返していく。
ヨーロッパ近代というのはその歴史である。

その背景にはヨーロッパの一神教文化がある。キリスト教文化である。
同じ一神教文化でもイスラーム世界は他の宗教に対して寛容であった。税金さえ払えば、どんな宗教を信仰しようと気にしなかった。
ところがキリスト教は頼まれもしないのに、キリスト教を教えることがあたかも正しいことだと言わんばかりに布教に乗り出し、それが激しい異教排斥につながった。
何のことはない。お布施が欲しかっただけである。
同じ一神教でもイスラーム教にはキリスト教のような牧師はいない。
このお布施の獲得に一番熱心だった宗教組織がローマ教会である。

国家は税金で成り立ち、教会はお布施で成り立つ。
ヨーロッパの王権は徴税権を議会に奪われた。
また、ヨーロッパの教会はその強引なお布施徴収に対して抗議の声が上がった。これがプロテスタントの発生である。その始まりがルターの抗議である。それはローマ教会が売り出した『贖宥状』に対する抗議であった。
つまりこの二つによってヨーロッパは国家も教会も、自由にお金を集めることができなくなった。

そこで勝手にお金をつくることにした。
それが銀行の発生である。その背後にはユダヤ人の活動がある。
この民間銀行はやがて国家と結びつき、中央銀行になる。
その中央銀行はイギリスを中心に発展し、ヨーロッパが戦争に明け暮れるなかでその戦費を供給する。
その戦費の供給力が戦争の勝敗を分けた。戦争を決するのは、武力とその武力を供給するための資金力である。
中央銀行はいわば湯水のごとく戦争資金を供給することができた。紙幣を刷ればいいのだから。
そして国家は一枚の紙切れでその紙幣を買った。これが国債の発生である。
国債の発生と中央銀行の発生はほぼ同時である。(2年違い)
このことに最も早く気づいたのがイギリスである。
これがイギリスがヨーロッパと新大陸での戦争に勝利できた原因である。

イギリスはいち早くお金の作り方のトリックに気づいたのである。
トリックはその仕掛けが分からないからトリックである。
資本主義はこのトリックの上に成立する。


ゲルマン人はなぜキリスト教徒になったか

2014-12-14 16:19:24 | 旧世界史7 中世ヨーロッパ

もともとゲルマン人は異教徒であったが、5世紀にローマ帝国内に侵入し西ローマ帝国を滅亡させた。
この時ローマ帝国は東西に分立しており、西ローマ帝国が滅亡したのに対して、東ローマ帝国はその後1000年間存続した。
東ローマ帝国は、教科書には『存続』と西ヨーロッパ中心史観で書かれているが、実際には繁栄を極めたのであり、ヨーロッパの中心は、ローマから現在のトルコの首都であるコンスタンティノープル(現イスタンブール)に移ったのである。
現在のフランス・ドイツ・イタリアの地域は、寂れたヨーロッパ西方の辺境になっていく。そこに侵入してきたのが蛮族で異教徒のゲルマン人である。

ところで我々にとって理解しにくいのが、このローマ帝国とキリスト教会の関係である。それまでローマ帝国によって迫害されてきたキリスト教は、4世紀にローマ皇帝コンスタンティヌス帝によって公認され、ついには国教の地位にまで登りつめた。この時からローマ帝国とキリスト教会は一枚のコインの裏と表の関係になり、切っても切れない関係になる。

ところがローマ帝国が東西に分裂したことから事態は複雑になる。さらに西ローマ帝国が滅亡したあとも、ローマ教会だけは生き残ったことが、その後のローマ教会と東ローマ帝国との関係をさらに複雑にさせる。なぜなら東ローマ帝国の首都のコンスタンティノープルにはコンスタンティノープル教会があり、東ローマ皇帝は遠く離れたローマ教会より、近くにあるコンスタンティノープル教会を重視し始めたからである。

このことはローマ教会にとっては死活問題であり、もし東ローマ皇帝がローマ教会を保護せず、お膝元のコンスタンティノープル教会による帝国内の宗教政策を重視したら、ローマ教会はお払い箱になる危険性が出てきたのである。

このことがローマ教会が政治的な保護者を東ローマ皇帝とは別に求める最大の理由になる。

そこに現れたのが異教徒のゲルマン人である。
このゲルマン人は国家をつくるとすぐにキリスト教に改宗した。当時ゲルマン人の間ではローマ教会とは異なり、イエスを人間とするアリウス派キリスト教が流行っていたが、ゲルマン人の王クローヴィスはアリウス派を選ばず、ローマ教会と同じくイエスを神とするアタナシウス派を選んでそれに改宗した。
このゲルマン人の国をフランク王国というが(現在のフランスの名前の由来)、この国が本当に国としての体裁を整えていたのかは疑問であって、王は首都をもたず、常に地方を巡回しその先々で税金を徴収することによって、かろうじて地方を支配することができたというから、それはまだ部族国家のレベルを抜け出せない状態だったのだと思われる。

フランク王国はまだ国をつくる段階だったのだろう。古来から国の発生には神様が必要になる。それは古代メソポタミアの時代から一貫してみられる国家発生のルールである。それは王権強化のために神が必要とされるということである。王権が宗教的権威を身にまとうことは、多くの国で見られる。
ゲルマン人の王はそれをローマ教会に求めた。
ローマ教会はゲルマン人の王を国王として認め、そのことによってゲルマン人の王は神から祝福された王としての権威をより高めるという効果を得た。
しかしローマ教会がゲルマン人の王を王として認めたのは、単にそれが目的ではなかった。ローマ教会はゲルマン人国家を認める程度では満足しなかったのである。

ローマ教皇は自分たちのライバルである東ローマ皇帝に匹敵するだけの国家を必要としていた。
ゲルマン人の王が単に国王としての権威を求めたのに対し、ローマ教会が求めたのは単なる国家ではなく、東ローマ帝国に対抗しうるだけの帝国であった。

帝国という概念は国家を越えたものである。帝国の概念は複数の民族を包含し、複数の国家を統合するものである。それは地方を治めるものではなく、世界を治める理念である。
一神教であるキリスト教の理念には、世界中をキリスト教徒で埋め尽くすという欲望がある。

彼らはキリスト教徒以外を人間として認めない。ヨーロッパ社会に近代にいたるまで根強く奴隷制社会が残るのはキリスト教の持つそのような人間観のためである。

ローマ教皇は東ローマ皇帝の権威に対抗しうるだけの強力な帝国を欲した。
その形が800年のカール大帝の戴冠である。ローマ教皇はフランク王カールに戴冠させる(冠を授ける)ことにより、西ローマ皇帝を復活させたのである。
これまでの歴史では、部族国家が宗教的権威を借りることにより国家システムを作ることが行われてきたが、800年のカールの戴冠によって、ローマ教会という宗教システム自身が帝国システムを創りだしたのである。このような宗教システムの動きは史上初めてのことである。

このことが当時いかに異常なことであったかは、ローマ教会が『コンスタンティヌスの定め』という偽書まで準備してカールの戴冠を正当化したことである。その『コンスタンティヌスの定め』とは4世紀のローマ皇帝コンスタンティヌスが、ローマ教会に対して、皇帝を任命する権限を与えていたとする文書である。もちろん偽書であるが、その偽書が当時はまことしやかに信じられていた。
800年のカールの戴冠とは、そういう偽書に支えられた一種の虚構である。

古代ローマ帝国は同じ帝国であっても宗教システムが創りだしたものではなかった。これは国家の枠組みのなかから自然発生的に生まれたものである。しかしカールの西ローマ帝国は宗教システムにより創られたまったく新しいシステムである。
このローマ教会という宗教システムはこのあとも常に国家という枠組みを突き破ろうとしていく。

このあとカール大帝のローマ帝国は、ローマ教会がローマ皇帝をしのぐ力をもつようになる。『皇帝は月、教皇は太陽』という言葉はそのことを示している。
そして皇帝はカール大帝のローマ帝国の枠組みを越えて、イェルサレムに向けて十字軍の征服活動に乗り出していく。これが成功したか、そうでないかは、ここではさして重要ではない。重要なのはローマ教皇によって成立したキリスト教帝国が常に外部への膨張願望を持っているという点である。
これはその後は、近代における植民地の拡大や大英帝国の拡大、帝国主義の成立へとつながっていく。それはヨーロッパの歴史において繰り返し現れる。

ローマ教会というシステムは単に国家を創ることを目指してはいない。国家とは無関係にシステムの拡大を目指している。

このシステムの拡大ということがのちに西洋システムの拡大につながっていく。

その行き着く先が第一次世界大戦や第二次世界大戦の惨事である。この世界大戦がこれで終わったのかどうかはまだ分からない。


エルサレム → ギリシャ → ローマ

2009-01-18 21:34:46 | 旧世界史7 中世ヨーロッパ

エルサレム → ギリシャ → ローマ

これはキリスト教が伝わったルートである。

キリスト教はヨーロッパで発生した宗教ではない。
ヨーロッパの東方、オリエントで発生したものである。
それが西に伝わってローマにたどり着くまでには、その中間にギリシャを通過しなければならない。

ギリシャではキリスト教の発生以前に、すでにプラトンやアリストテレスなどのギリシャ哲学が発生していた。

キリスト教はエルサレムで発生してからローマに伝わるまでに、ギリシャ哲学の洗礼を受けなければならなかった。

キリスト教にとってギリシャ哲学と矛盾しない形でどのようにキリスト教の理論を作り上げるかということは大きな課題であった。

プラトン学派の方でも3世紀になるとプロティノスによって一神教的なプラトン哲学がつくられ、これを新プラトン主義というが、キリスト教もこの新プラトン主義を取り入れることによって、ローマの知識人への布教に利用した。

このように古代キリスト教の理論の中にはギリシャ哲学の影響が見られるのであって、
それが中世のルネサンス以降のギリシャ文化の再流入によって加速され、
そこから近代の科学的な思想が発生したということができる。

ただこの科学的思考は、物事の論理から精神性を抜き取ってしまうところに発生したものであった。

このことが近代人の精神に不安を与えたのである。

普遍論争 実在論と唯名論

2008-12-30 09:45:00 | 旧世界史7 中世ヨーロッパ

中世キリスト教世界で起こったこの神学論争は、観念的また抽象的で日本人にはなかなか理解できないものである。
この理解できないところが日本とヨーロッパの違いを考える上で大事なところだと思う。

多神教の日本では物そのものの背後に何らかの霊的存在を想定してきたが、それはアニミズム的思考を持つ多くの民族で共通に見られるものである。

しかし一神教(キリスト教も一神教)はこの世の中に唯一の神しか認めず、その唯一の神以外の霊的存在を一切認めない。
だから物を観察するときにその背後には霊的なものなど一切存在しないのだという考え方が出てきた。これは非常にキリスト教的なものである。
それが唯名論である。

この世を支配しているのは唯一の神だけであり、その神のルールによってのみ物事は存在し運行している。それ以外の一切の神は不要なのである。

(逆に物それぞれには霊的な存在が実在するという日本人にも親しみのある考え方が実在論である。)

このような考え方が理性尊重の考え方を養い、それが科学的な思考方法につながっていく。
理性的・科学的な考え方とキリスト教は矛盾しないのであり、
逆にいえば科学的な思考の裏には絶えずキリスト教の存在があったのである。

科学の発展はキリスト教と矛盾するものではなかった。
そこが科学的思考によって宗教的態度が失われている日本と違うところである。

神聖ローマ皇帝とローマ法王

2008-09-27 22:38:18 | 旧世界史7 中世ヨーロッパ

中世ヨーロッパでは皇帝と法王が絶えず争ってきた。
この争いはどちらが勝ったともいえず、最後まで決着がつかなかった。

この曖昧な関係のまま、互いに足を引っ張り合った結果、どちらも強力な権力を持つことができずに、国内は封建領主の割拠するきわめて不安定な状態におかれた。

この皇帝と法王の争いが決着がつかないなかで、教会の腐敗が進み、皇帝と法王のどちらともが否定された。

それが宗教改革である。
宗教改革とは、腐敗した教会から信徒に対して『救い』の保証が得られるとするカトリック教会の教義に対する疑問であり、『救い』は教会を通してではなく神から直接与えられるとするものである。

皇帝と法王の両方が否定されたあとに力をもったのは、
法王を経ずに神から直接王権を授かったとする国王であり、
次に同じ論理で力をもったのが人民である。

人民主権とは、ローマ法王を経ずに神から直接人民に対して主権が与えられたとする考え方である。

皇帝も法王も否定してしまった人たちは、新たな政治組織を作る必要に迫られた。

そこから生まれてきたのが社会契約説という歴史的実体を無視した政治理論である。
それはあくまで理念の産物にすぎない。

王と将軍 本地垂迹説との類似

2008-07-28 06:43:09 | 旧世界史7 中世ヨーロッパ

日本の第1権力である王(天皇)は、中世以降は自分で権力をふるうことをせず、自分の下士官として征夷大将軍を任命し、政治の実権を委ねた。

しかしそうやって成立した幕府政治は、絶えず天皇の意向に制約され、朝廷の動向を気にせずにはいられなかった。

そういう意味では中世以降も日本の第1権力は天皇だったといえる。
この天皇が、征夷大将軍の権威の源だったからである。

こういうところが、本地垂迹説の神と仏との関係に似ている。
本地垂迹説とは、日本の神は仮の姿であり、その実体は仏であるとするものだが、本物は絶えず表面的な権力者の後ろに構えていて、表面上の権力に影響を与えているとする日本の政治思想と似ている。
そして政治の背後に控えている者こそが、究極者とのつながりを持ったまま、政治の安定に対して目を光らせているから、日本の政治的安定がもたらされているという感覚を国民に与えている。

天皇が絶えず幕府政治に対して批判的な目を光らせていたことが、幕府政治の暴走を防ぐことにつながっていたのである。

日本にヨーロッパのような政治権力者の暴政が少ないのはこのような政治構造と関係がある。

ところが日本は明治以降になって第1権力である天皇がその政治的発言権を失っていくに従って、好戦的になり、多くの戦争を仕掛けていくようになり、昭和になるとその政治的暴走を食い止められなくなり、ついには太平洋戦争で国を崩壊させるところまで行き着いてしまう。

軍部の暴走は政治に対する慎みがなくなり、政治を何でも自分の思うように操れるとする傲慢な態度を国自身が食い止めることができなかったところから生じている。

第2権力に過ぎないものが第1権力のような顔をして政治を操るところからこういう事態が生ずる。

このような構造は基本的には戦後の日本も変わっていないように思える。

カール大帝の戴冠

2008-07-09 00:06:23 | 旧世界史7 中世ヨーロッパ

『800年のクリスマス、教皇レオ3世はカールにローマ皇帝の帝冠をあたえ、「西ローマ帝国」の復活を宣言した。』
(詳説 世界史B 山川出版社 P122)

このことは有名な事実であるが、日本人にとって意味がよくわからないのも事実である。
ローマ教皇がフランク国王カールに冠をかぶせることが、なぜローマ帝国の復活になるのか。
そうであるためには滅亡前のローマ帝国で、ローマ教皇によってローマ皇帝に冠がかぶせられ、そのことによってローマ教皇がローマ皇帝を任命していたという事実がなければならない。
しかし、歴史的にそういう事実はない。

にもかかわらず、ローマ帝国の滅亡後300年も経ってから、ローマ教皇がフランク王に冠をかぶせただけで、なぜローマ帝国を復活したことになるのか、そのことがよくわからないのである。

このことは高校の教科書には載っていないが、次のようなことである。

『ローマ教皇座には「コンスタンティヌスの定め」という有名な文書が伝承されており、その文書によれば、ローマ皇帝を任命する権利は教皇にあるとされていたのである。これは偽文書であるのだが、この時代には教皇庁で、この文書は本物であると信じられていた。』
(地上の夢 キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ 五十嵐修 講談社選書メチエ P162)

この偽文書は8世紀に書かれたとする説が有力であるが、

『「コンスタンティヌスの定め」によれば、(コンスタンティヌス)大帝は「ローマ教会に皇帝の権力と栄光、力、名誉の威厳を与えよう」と願い、ローマ教皇に帝冠を含む皇帝の権標を渡した。そして、それだけではなく、ラテラノ宮殿とローマを含む帝国の西部属州を譲った。コンスタンティヌスはローマ教皇の頭上に帝冠を載せようとした。しかし、ローマ教皇は帝冠を被ることを拒んだ。こうして、ローマ教皇は自ら皇帝にはならなかったが、コンスタンティヌスから皇帝の地位を委ねられた。』
(地上の夢 キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ 五十嵐修 講談社選書メチエ P171)

このような事情を知ってはじめてカール大帝の戴冠の意味が理解できる。



しかし、ここでより重要なのは、ローマ教会がこの当時どのような国家観を持っていたかということである。
この偽文書には、教会が国家をつくり、その国家を教会が支配しようとする意図が隠されている。

新約聖書には『神のものは神に、カエサルのものはカエサルに』と書かれており、キリスト教の誕生時にはイスラム国家のような宗教国家を建設する意図はなかったことがわかるのだが、
ローマ帝国が滅んだあとのローマ教会は、教会の権威によって国家を建設し、その国家を支配しようとしたのである。

いわばイスラム教と同じような聖俗一致の宗教国家を目指していたということである。そしてその聖俗両権をローマ教会が握ろうとしていたということである。
イスラム教もキリスト教もともに一神教である。一神教にはもともとこのような聖俗一致の宗教国家を建設しようとする傾向がある。

滅亡前のローマ帝国下では、実際にはキリスト教はローマ皇帝の権威を飾るために利用されたに過ぎない。「皇帝はキリスト教の神から恩寵を得ている」という『神寵帝』理念のために利用されたに過ぎない。ローマ皇帝はこの理念により皇帝の権威を高めたかったのである。

この理念は東ローマ帝国に受け継がれていき、東ローマ帝国はその後1000年の寿命を保つのだが、西ローマ帝国は早くも5世紀には滅んでしまう。

しかし、西ローマ帝国が滅亡したあともローマ教会は生き残っていく。
生き残ったローマ教会は、今度はカール大帝に冠をかぶせることにより『神の国』を西ローマ帝国の跡地に建設しようとしたのである。そして聖俗両権に渡る支配権を握ろうとしたのである。そこでは少なくとも教皇が皇帝の上に立つことになる。教皇が皇帝に冠をかぶせるということはそういうことである。

このように、現実の政治世界にローマ教皇の力を及ぼそうとする意図は、ウルバヌス2世によってはじめられた『十字軍』にもあらわれている。これによってローマ教皇のかけ声のもと、西ヨーロッパ諸国の軍隊が動員された。
結果的に十字軍は失敗するが、このようなキリスト教の特質はその後も現れ、16世紀には宗教改革を引き起こすことになる。

イギリスのカルヴァン派であるピューリタンは、いわゆる新大陸に移住し、そこで神の国を建設しようとする。
アメリカ合衆国は、彼らピューリタンがメイフラワー号に乗り、アメリカのプリマスに上陸するところから始まる。いわゆるピルグリムファーザーズによる上陸である。
彼らにとって新天地アメリカは宗教国家として始まったのである。

ゲルマン人の国家

2008-07-04 22:19:03 | 旧世界史7 中世ヨーロッパ

●『(古代ゲルマン人の)部族社会の上層には、優れた祖先の血をひいているとみなされ、多くの家畜を所有する貴族層が君臨していた。その中でもひときわ好奇な血統の者が「王」とよばれる存在である。王は法と豊穣と平和の守護神ティワズの祭司でもあった。』
(世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成 中央公論社 P39)

●『ゲルマンの伝統的な王権のありようは、王が宗教的な祭司の役割を兼ねたところからも推測されるように、神聖王権とでも呼べるような性格が濃厚であった。それがマルコマンニ戦争をきっかけとして、部族間の衝突が頻繁になったり、なかには長距離の移動を行う部族も多くでてくる。このような状況に対応する形で、王権の性格にも変化が生まれた。』
(世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成 中央公論社 P53)

●2世紀後半のゲルマン社会
『2世紀後半にゲルマン社会は、マルコマンニ戦争と呼ばれる戦乱と激動の時代を迎える。その結果、多くの伝統的な部族が解体し、新しい部族が誕生した。フランク族やアラマン族などがその例である。
社会は完全に戦士中心に編成されたし、また王の性格にも変化が生じた。王となる者は血統より、むしろ軍隊の指揮者としての才能が求められるようになる。
信仰の対象である神もまた交替した。彼らが豊穣と平和をつかさどるティワズを退けて、新しく拝跪しはじめたのは戦争の神オーデンであった。』
(世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成 中央公論社 P41)

●軍事指揮者としての王
『ゲルマン人の間で「王」は、何よりも軍隊の指揮能力に優れた人物が、王位につくことが望まれた。血統の原則は全く棄てさられたわけではなかったが、背景に退く。戦士であった部族民を率いて戦い、定着するための豊かな土地を彼らに与えることができた王のみが、成功した指導者として生き残った。』
(世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成 中央公論社 P53)



『(5世紀、ゲルマン人の)大移動時代にはすでにかれらは国王を頂点とする部族にまとまっており、大移動はすべて部族単位に行われた。』
(世界の歴史9 ヨーロッパ中世 鯖田豊之著 河出書房新社 P34)

こう記述する本がある一方、

『5世紀にいたって、多数の(ゲルマン人の)王国が成立した。しかしながら、その政治的支配者が、それ以前の部族首長に比較して、実質上の変容を遂げたかどうかを決定することはむずかしい。むしろ、ラテン語の話者たちが、消滅した帝国の後継国家を、帝国との差異を強調すべく、あえて王国とよんだと理解するほうが自然である。』
(天皇と王権を考える1 岩波書店 樺山紘一著 P214)

このように違った記述をする本もある。

私には後者のほうが本当らしく思われる。
ゲルマン国家の王はまだ首長の段階にとどまっていたのではないかと思われる。
彼らゲルマン人の首長は宗教的な祭司の役割を兼ねてはいても、王自体を神とするような宗教的権威が備わっていなかった。
だからかれらはこのあと王になるために、キリスト教会の権威づけを必要としたのだと思われる。

496年には、フランク王国の王(?)であったクローヴィスは、ローマ教会の正統教義あったアタナシウス派への改宗をいちはやく行い、ローマ教会との関係を深めていく。

756年には、フランク王国カロリング朝のピピンは、来たイタリアのラヴェンナ地方をローマ教皇に寄進し、ローマ教会との関係をさらに深いものにしている。

そして800年には、カール大帝が、ローマ教皇レオ3世よりローマ皇帝の帝冠を授かっている。
このことによってゲルマン人国家であったフランク王国は、一つの帝国としてはっきりとした姿を示すようになっていく。