土曜日
選挙の争点は二つ
①日本の借金、
②米国への軍事協力
あとは些末なこと。
しかしこの些末なことを、あたかも大問題であるかのように選挙の争点にしていくのがマスコミの手法である。
①アベノミクスに変わる経済政策を打ち出せるかどうか。
しかしこれは、日本単独ではできない。
米欧日がそろって金融緩和をしているなかで、国際的な了解がどう取れるかの問題がある。
しかも日米間の経済関係は緊密に結びついている。
アメリカが量的金融緩和をやめたとたんに、日本が追加の金融緩和を打ち出したことでも分かるように、日本の金融緩和は多分にアメリカからの要請である。
②の米国への軍事協力もその延長線にある。
アメリカはとにかくお金が欲しいのだ。
お金をはぎ取った上に、米国の軍事費の負担までさせようとしている。
日本の安全保障など実は二の次である。
つまり日本の政治は対米関係をどうするかの一点にかかっている。
日本ではいまだにアメリカ中心の国際社会などといっているが、
ドイツはとうの昔にアメリカを離れているし、
中国・ロシアもアメリカに対してタッグを組んでいる。
インドやブラジルもその流れにシフトしている。
世界はとうの昔にアメリカから離れているのだ。
その中心は経済政策である。
金融制度はその焦点である。
中国もロシアもアメリカ中心の金融制度に変わるものをつくろうとしている。
今までどれだけのお金がアメリカに吸い取られたか分かっているから。
おめでたいのは日本である。
日本ほどアメリカを盲信している国はない。
今に至るまで日本の政治はアメリカがすべてである。
アベノミクスもアメリカのためである。
日本がアメリカを離れるかどうか、これが日本の未来を左右する。
今のアメリカを支えているのは、世界広しといえども日本だけである。
ここに触れない限り、誰が政治を行おうと今のまま、何も変わらない政治が続く。
①誰も量的緩和に触れようとしない。
②9条改憲論ばかり。
日本が日米同盟を強化するということが、何を意味するのか。
結局は自国の国民に働かせて、そのお金をアメリカに持っていくだけなのだ。
この上納金制度に触れようとする政治家は現れない。
『都民ファースト』『希望』
これが何を意味しているのか全く分からないが、
小池百合子がアメリカに触れる気がないことは確かである。(少なくとも今のところは)
土曜日
ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B1%A0%E7%99%BE%E5%90%88%E5%AD%90
小池百合子経歴
1992年の第16回参議院議員通常選挙を前に、複数の政党から立候補の誘いを受けていたが、「政治を変えるには大きな中古車を修理するのではなく、小さくても新車の方がいい」[13]との理由で、前熊本県知事の細川護熙が結党した日本新党に入党し、比例区から出馬して初当選した。
細川とは、同年5月に「ワールドビジネスサテライト」に細川がゲスト出演した際が初対面であり、番組出演をきっかけに細川が参議院議員候補として小池に白羽の矢を立てたという[11]。
翌1993年、第40回衆議院議員総選挙に参議院議員を辞職して立候補、旧兵庫2区から日本新党公認で出馬し、当選した。
同選挙で日本新党は躍進、議席を大きく減らした自由民主党に代わって細川内閣が成立し、総務政務次官に就任するが、連立政権は1年足らずで崩壊する。
1994年、新進党結党に参加する。
1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い兵庫6区(伊丹市・宝塚市・川西市)から出馬し、再選。
新進党では、初代幹事長でありのちに新進党党首に就任した小沢一郎の側近となり、1997年の新進党解党後は小沢率いる自由党に参加。
1999年、小渕第2次改造内閣で経済企画政務次官となり、第1次森内閣まで務める。
2002年、民主党を離党した熊谷弘らの合流に伴う保守新党結成を前に保守党を離党し、保守クラブ(自民党へ合流するため、一時的に結成した形式上の政治団体)を経て自由民主党に入党。
清和政策研究会に入会した。
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【私のコメント】
フリーアナウンサー
日本新党
新進党
自由党
保守党
自民党
国会議員辞職
東京都知事
都民ファーストの会
希望の党
この動きを見ても分かるように、
小池百合子には一定の基盤がない。
政界渡り鳥そのものである。
絶えず浮動票を追い求めている。
しかも話題の多い、その場しのぎの政党を渡り歩いている。
そういう意味でいつも世間の脚光を浴びてきた。
そうなるようにマスコミが仕向けている。マスコミに支持されなければ何もできない政治家である。
今回も突然降ってわいたように、マスコミ報道のおかげで、最大の反自民の目玉となった。
この動きは今も続いている。
この先に何があるのか全く分からない。
国民はこんな政治家に白紙委任状を差し出すのか。
誰に入れればいいか。
どうすればいいか。
国民には選択肢がない。
この政治家には実績がない。
イメージだけが先行している。
そして迷走してもマスコミに叩かれない。
そこに変な力学が働いている。
小泉政治と同じ力学が。
今回もマスコミが作り上げた劇場政治である。
裏舞台に何があるのか。
その裏舞台が見えない。
しかしこの舞台装置はかなり大がかりなものだ。
小泉一派がまだうごめいているかもしれない。
親子二代でまだ何か画策している。
民進党の前原もそれにからんでいるか。
もと維新代表の橋下徹も、この動きをいぶかしんでいる。
それほど変な動きが、一気に出てきた。
それにしても何だこのマスコミの持ち上げ方は。
誰がこの動きを操っているのか。
この選挙はマスコミの書き方一つでどうにでもなる。
いろいろな情報が乱れ飛んでいる。
そんななかでマスコミがどういうウソの作品をつくり出すか。
現在確かなものは何もない。
リスクの高い博打のような選挙になる。
国民に確かな情報は何も与えられない。
めくら版で投票するしかないか。
これが民主国家日本の現状。
泥棒と詐欺師が立候補して、どちらかを選べといわれても、国民は困るだけ。
金曜日
21世紀の貨幣論 | |
フェリックス・マーティン | |
東洋経済新報社 |
ドル消滅 国際通貨制度の崩壊は始まっている! | |
ジェームズ・リカーズ | |
朝日新聞出版 |
アニマルスピリット | |
ジョージ・アカロフ | |
東洋経済新報社 |
上の本を読むと、
リーマン・ショック後の金融緩和に、世界がどれほどの危機感を持っているかがよく分かる。
アベノミクスはその金融緩和の一環である。(それは多分にアメリカの利益のためだが)
日本ではそのことがほとんど議論されていない。
ほとんど、つんぼ桟敷状態である。
日本は何も知らない。
危機があっても、それを知らなければ危機がないことと同じこと、
それでみんなが安心できる。
しかしその危機は世界のみんなが知っている。目の前にあることだ。
あることをないことにはできない。
日本人が知らないのを、アベは知っているから選挙が打てるのだ。
(アベがマスコミを誘導したのだが)
金曜日
物価上昇率2%、この目標はどうなった?
2年で2%、しかしすでに5年経っている。見事に失敗している。
何でこれが選挙の争点にならないのか。
大企業の株価だけ上がって、我々の給料は増えない。
預金金利はつかない。全く利息がもらえない。
その分、国民の資産は実質的に減っている。
なのに消費税増税。
国民は二重に搾り取られている。いったい国民からいくら搾り取る気だろう。
財政難といいながら、軍事費だけは伸びている。
そして国民からは税金を搾り取る。
量的緩和も限界に来ている。
日銀にお金を刷らせて市中の国債を買い取らせようとしても、国債自体が残り少なくなっている。
毎年70~80兆円もの国債買い取りを日銀が5年も続けていれば、当然市中に出回る国債は減る。
こんなことがいつまでも続けられるわけがない。
これで景気が回復しないことはこの5年間で証明済みだ。
この失敗が何の検証もないまま、総選挙だけが行われようとしている。
国民は十分すぎるほどの税金を払っている。
給料は上がらない。預金利息は付かない。消費税は上がる。そして過労で死ぬ人が増えている。
そんななかで国の借金だけは増え続けている。
明らかにアベノミクスは失敗である。
そしてそのことを誰も気づかないように仕向けている。
おまけに民進党まで潰れ、国民の選択肢はますます狭くなっている。
『希望の党』?
何をしたいのか全く分からない。
政策不明だ。
国会議員を辞めて東京都知事になった小池百合子という人物が、『都民ファーストの会』という地域政党をつくり、それが母体となって今度は全国政党の『希望の党』を立ち上げ、その党首に自分が収まった。
ではなぜこの人物は国会議員を辞めたのか。
訳が分からない。
マスコミも小池百合子の批判はしない。
でもそんな訳の分からない政党が反自民の唯一の選択肢になりつつあるというのが、日本の悲しい現実である。
よく言われるように『希望の党』は反自民勢力ではなく、自民党の補完勢力である。
クールビズしか実績のないこの政治家は、小泉純一郎とつるんだ頃から急速に頭角を現してきた。
小泉と一緒に毒まんじゅうを食らった政治家だ。
そういう意味で自民党よりも自民党的な政治家である。
そういう政治家が反自民勢力の中心になるということはいったいどういうことか。
当然、この政党もアベノミクスの失敗についてはスルーである。
これほど意味のない選挙は見たことがない。
これでは戦前の翼賛選挙(1942年)と同じだ。
国民には選択肢がない。
日本はそこまで追い込まれているということだ。
次に何が起こるか。
日本はアメリカよりも先にデフォルトするだろうという話もある。
そういう筋書に沿った選挙だ。
月曜日
森友学園、加計学園、ともに首相アベシンゾーがらみの疑獄事件。
この問題、ともに新学校建設のための用地買収にアベシンゾーがからんでいる。
国の学校認可に不公正な政治圧力がかけられている。
アベシンゾーの妻が学園の名誉校長を務めていたり、理事長がアベシンゾーの旧知の仲であったり。
森友学園の旧理事長だけがブタ箱に入って、それで終わりか。
ブタ箱に入れて、解散して、この問題は幕引き。
あれほど報道していたマスコミも、森友学園旧理事長のブタ箱入りを契機に、ぱったりと報道するのをやめた。
アベシンゾーによって日本の政治は私物化されている。
そのことを追求しないダメな日本のマスコミ。
民進党はダメだが、アベシンゾーにも票は入れられない。
さてどこに入れるか。
笑い事ではないが、いくら選挙があっても入れるところがなければ選挙の意味がない。
それを見越したように行われるアベの解散。
自分のスキャンダルをもみ消すために、公金(税金)を使って行われる総選挙、これが政治の私物化である。これは国民のための選挙ではない。私的なことに公金を使う、だから違法である。
それで勝てると思われている。我々国民はバカにされている。
火曜日
通貨は不安定なものである。そして複雑である。通貨そのものの意味さえ分かっていない。
とにかくそれは人間がつくりだしたものである。
貝殻、塩、麦、牛、馬、羊、銅、鉄、金、銀、小切手、手形、預り証、交換券、兌換紙幣、不換紙幣……あらゆるものが通貨として使用されてきた。最近ではビットコインなどの仮想通貨まである。
人間がつくり出すものに完璧なものはない……という一般論に、通貨ほど当てはまるものはない。
どんな通貨もそれぞれの欠点を抱えている。
大事なことは、完璧なものをつくり出すことではなく、その場その場で状況に最も適したものを選ぶことだ。どうせ通貨システムは変わる。30年もてばいいほうだ。
現代のように、国家間をまたいだ取引が拡大すると、通貨の価値は一国内だけの価値ではなく、国際的に世界に共通した価値を持たなければならなくなる。
為替の安定というのはかけ声だけはかまびすしいが、1970年代以降それが実現したことはない。
国際社会は絶えず為替の変動リスクに脅かされてきた。
国の経済を生かすも殺すも為替次第といってもいい。
では国際的に最も共通する価値として認められてきたものは何なのか、という視点で通貨を眺める必要がある。
国際社会は政治的にも複雑で、それに経済がからむとますます複雑である。
そんななかで金(きん)は単純である。
金(きん)は燃えない、錆びない、変質しない、原子番号79の元素である。これ以上分解しようがない。
この単純さは世界に共通する。
この単純さは人間にとって大地の恵みのようなものだ。
人間はこれほど単純なものを作れないだろう。
単純で稀少で変化せず世界に共通して価値のあるもの、そしてシニョリッジ(通貨発行益)を発生させにくいもの……たとえ通貨の意味は分からなくても、通貨に適した条件はそれである。
シニョリッジを認めると、通貨は大地の恵みから人間が支配するものに変わり、そこから富の独占が始まる。
富の独占を手に入れたものが、その富を世界に分散した試しは、古今東西ない。
シニョリッジを特定の人間に与えてはならない。
一国の通貨が、世界の基軸通貨であるということは、その国が世界のシニョリッジを独占しているということである。
不換紙幣のシニョリッジは恐ろしいほど簡単である。
リーマンショックを口実に、十分すぎるほどのシニョリッジを手に入れている。
ダウ平均株価の伸びはそのことを裏付けている。
リーマンショックを起こした国が、他のどの国よりも、株価を上昇させていることが、シニョリッジの恐ろしさである。
月曜日(祝日)
金貨と紙幣の違いは、それがハードマネーなのかソフトマネーか、の違いである。
しかし金貨だからそれだけでハード貨幣と言えるかといえば、それも人によって見解の違いがある。
①通貨とは金貨に限らずその価値が保証されるのなら、本質的にはその素材は何であってもいいというのが私の考えであるが、(偽造の問題は経済上の問題ではなく倫理上の問題なので、ここではひとまず横に置いておく)
②しかし近代以降はそれに加え、通貨の発行量を自由に増減できるもの、という条件が加わった。
近代以降の資本主義は、生産量を格段に増大させてきたためである。生産量が増大するならば、その増大した生産物の価値を表す通貨の量も増大しなければならないという理由からである。
しかし通貨量の増大が本当に生産量の拡大によって必要とされたものかどうかは疑問である。
古代ローマ帝国は生産量が逆に縮小していくなかで、貨幣を増発して(貨幣改悪を繰り返して)、最後には滅亡していった。それは単に帝国の財政上の問題で、ローマ帝国は財政難のために貨幣を改悪して通貨を増大させたにすぎなかった。
『私に通貨を発行させてくれれば、あとはどんな法律を作ろうと構わない』
金融王ロストチャイルドはそう言った。
最大の問題は、通貨発行には必ず、シニョリッジという通貨発行益が発生することである。
無から価値が創造されるのだ。それは通貨発行権者にだけ与えられる特権である。
日本の通貨発行益は日本銀行という日本の中央銀行がもっている。
アメリカの通貨発行益は連邦準備理事会(FRB)という中央銀行がもっている。
ただ日本銀行とFRBの違いは、日本銀行が単に日本国内でのみ通用する円という通貨の通貨発行益をもっているのに対し、
アメリカのFRBは全世界で通用するドルという世界の基軸通貨の通貨発行益をもっているという点だ。
この違いは絶大である。
2008年のリーマンショック以降、日本銀行もFRBもこの通貨発行益を求めて、紙幣を刷り続けている。
(日本銀行はアベノミクスが始まった2013年からだが)。
このシニョリッジの魔力が貨幣の秘密である。
金(きん)であろうと紙幣であろうと、通貨にはこのシニョリッジという通貨発行益が発生する。
この魅力に目がくらんだ人間は、ロスチャイルドばかりではない。
古今東西、権力や財力を持った人間は必ずこのシニョリッジという通貨発行益の虜となってきた。
なぜならこれはお伽噺に出てくる打ち出の小槌そのものだからだ。
何もないところから、莫大なお金が発生するのだ。
よく誤解されていることだが、そのことは金(きん)であろうと紙幣であろうと、シニョリッジは必ず発生することである。紙幣だけにシニョリッジが発生するのではなく、金(きん)にもシニョリッジは発生する。
例えば、現在1グラム5000円の金(きん)を貨幣に鋳造して、1万円の価値を持たせることは可能である。鉛か錫を混ぜて重さを増やし、そうしてできた金貨の表面に国が1万円と表示すれば良いだけのことである。
そうやって1万円どころか、1グラムの金(きん)で100万円の金貨をつくってきたのが古代ローマ帝国である。もともと5000円の金の価値が、金貨にしただけで100万円の価値に化けたのである。
そうなると紙を印刷して100万円紙幣とするのと変わらない。
だから、紙幣をソフトマネー(表券通貨)、金貨をハードマネー(金属通貨)と区分けしても、その境界は曖昧で、両者をハッキリ分ける基準は存在しない。
権力者は自分が不利な状況に立たされたとき、必ずこのシニョリッジを利用してきた。
このシニョリッジの魅力に勝てる人間は古今東西いなかった。
これは西洋に限られたことではない。日本でもそうであった。江戸時代、5代将軍徳川綱吉の治世下、勘定吟味役の荻原重秀は、財政難のため、貨幣改悪を行い金の含有量を減らした元禄小判を発行した。
為政者がこのシニョリッジの魅力に負けてしまうと国家は滅ぶ。
中国の宋王朝は交子という紙幣の乱発により、元王朝は交鈔という紙幣の乱発により滅んできた。
分かっていながら人間はそれを繰り返してきた。
それほどシニョリッジの魅力は絶大である。人間が勝てる代物ではない。
であればどうすべきか。
シニョリッジが発生しにくい通貨をつくるしかない。
今のところそれは紙幣ではなく、金貨である。
紙を印刷することの簡単さに比べれば、地下資源である金(きん)は、その採掘から加工・精錬を経て金貨に鋳造するまでの工程は、シニョリッジの発生のしにくさという点では、紙幣よりもはるかに優れている。
現在の経済学者は、金本位制を過去の遺物と一笑に付しているが、彼らが通貨膨張による現在の金融危機に対してそれを予見したことも、金融危機が発生したあと有効な対処法を生み出したことも、今まで一度もない。
ただ右往左往するばかりである。
そして金持ちにますますお金が集中することを黙って見ていただけである。
(ビットコインはこれ以上は増えないという発行限度額がプログラム設定されている点で優れているが、サイバー攻撃に対してシステムがダウンしたときにどうなるか、という安全保障上の疑問がある。お金という人間生活に一瞬たりとも欠かせないものを、実生活よりも脆弱性の高いサイバー空間の上にのせることに対する疑問である。人間の娯楽ではなく、実生活の根本である通貨がサイバー空間の上に乗ってしまうことへの不安である。)
通貨のシニョリッジの問題は、偽造の問題がそうであるように、倫理上の問題を含んでいる。その倫理上の問題が解決される必要を私は否定しない。
銀行の成立やその信用創造の機能についても、その端緒において倫理上の問題が発生し、訴訟が起こったことは確かである。その訴訟は100年以上続いたのである。
しかしそれは歴史的な問題であり、それを是認した政治的または法律的問題であって、重要な問題ではあるが、経済上の問題ではない。いずれ別の機会に考えることにする。
ここで問題を経済上の問題に限定すると、近代資本主義以降の通貨は、シニョリッジの魅力に負けて通貨量を増大させ続けてきた歴史であると言える。
その傾向は、金貨から紙幣への移行に伴ってますます増幅された。
そしてそのことによって恒常的に金融危機が発生するようになった。
そのことが金(きん)とリンクしない紙幣の問題点であることは、今や周知のことであるが、その問題は全く手つかずのまま放置されている。
通貨戦争 崩壊への最悪シナリオが動き出した! | |
ジェームズ・リカーズ | |
朝日新聞出版 |
金曜日
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170914-00000141-jij-cn
ビットコイン中国、取引停止へ=政府が指示―価格は一時30%急落
【上海、北京時事】仮想通貨「ビットコイン」を扱う中国3大取引所の一つで、上海市に拠点を置く「ビットコイン中国」は14日、今月末で取引を全面停止すると発表した。
同日付で取引口座の新規開設も停止した。中国政府が今月初めに出した通達に基づく措置だという。
これを受け、同取引所のビットコイン価格は急落。一時30%を超える下げを記録した。
中国のニュースサイト、第一財経網が上海の金融当局筋の話として報じたところによると、同市はすでに、市内のすべてのビットコイン取引所に対し、今月末までに取引を停止するよう、口頭で命じた。
3大取引所はこのほか、北京市に本拠を置く「火幣(フオビ)」と「OKコイン」。
中国人民銀行(中央銀行)などの当局は4日、独自の仮想通貨を発行して資金を調達する「新規仮想通貨公開(ICO)」について、「金融秩序を著しく乱している」として即日禁止の緊急措置を講じた。ビットコインは禁じていなかったが、マネーロンダリング(資金洗浄)や違法な海外送金に利用される恐れがあると警戒しており、市場関係者らの間では、規制強化の観測が出ていた。
一方で「世界的にこれだけ広がったビットコインをいまさら全面禁止とするのは困難」(専門家)との意見もある。中国当局も、ビットコインを支えるシステム「ブロックチェーン」と呼ばれる新技術については、将来性を有望視しているといわれる。取引を規制しながら、規則策定を急ぐ見通しだ。
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https://www.jiji.com/jc/article?k=2017090400967&g=int
2017/09/04-19:27
仮想通貨での資金調達禁止=「金融の混乱招く」-中国
中国当局は、法整備が追い付かない中、仮想通貨「ビットコイン」が自国を中心に急速に広がったことに頭を痛めている。ビットコインの取引禁止までは踏み込みにくい状況だが、小規模の仮想通貨が続々と登場する事態を防ぐ措置を講じた。
ICOは、新規株式公開(IPO)より容易に資金調達ができ、日本でも活用に向けた動きが出始めている。ただ、先行する各国では詐欺などの被害も出ている。中国当局は「金融秩序を著しく乱している」と判断し、企業や個人による利用を禁じた。(2017/09/04-19:27)
水曜日
マネーがもともと担保だとしたら、担保の経済的価値とは何なのか。
男が『この借りはいつか返す』というのが口約束だけだとしたら、男はいつか心変わりして借りを返さないかもしれない。
それを防ぐために、『借用書』を取れば口約束よりもリスクを減らすことができる。
それでも、男が商売に失敗したり、あるいは病気で死んだりすれば、男の借りは返されない。
そのときのために、親の形見の腕時計を担保に差し出しておけば、『借用書』だけの時よりもさらにリスクを減らすことができる。
この場合、担保の要素となるのは2つある。1つは腕時計そのものの価値である。
もう1つが金貨の付加的な価値としてより重要なのだが、それは親の形見という男の個人的な価値である。その個人的な価値が、男の返済意欲を高める点において、時計の担保としての価値を高める。
このように担保とは、裸の信用貸しのリスクを少なくするためのものである。
リスクがゼロになることが最も望ましいが、ゼロにならなくても、裸の信用貸しよりもそのリスクは少なくなる点で、担保の経済的価値は存在する。
人間社会が信用で成り立っているとするならば、あらゆる信用には必ずリスクが伴うのであり、人間社会には必ず信用リスクが存在する。そのリスクとは借りが返されないリスクである。それは意図的であろうと、そうでないにかかわらず発生するリスクである。
それは、人間社会には動物界とは違った人間特有のリスクが常に存在するということである。
だから人間はそのリスクを絶えず少なくする方法を探し続けてきた。
その究極の方法をつきつめれば『人を信用しない』ということになるが、それでは人間社会は成立しない。人はそういう事態を避けるため、信用を社会に存在させたまま、そこから発生するリスクを減らす方法を模索し続けてきた。
そこから生まれたのが、担保の発明である。
そしてその担保の発明が、貨幣を生み出したのである。
では貨幣の担保的価値とは何なのか。
1つには、金貨には金としての価値が存在することである。そしてもう1つは、1グラム5000円の金を1万円金貨と打刻した金貨発行者の信用である。
貨幣の発行者が1グラム5000円の金を使って、それに1万円と打刻したからその1グラムの金は1万円の価値をもつのである。それを支えるのは発行者の信用力である。彼を信用できる場合、1グラム5000円の金は、10万円金貨にも100万円金貨にもなり得る。
このように金貨には、貴金属としての価値と、信用力としての価値が併存している。この場合の人間の新たな発明は、信用力としての貨幣を発明したことである。
しかし貨幣の存在によって取引における全てのリスクがゼロになったのではない。
貨幣の持ち主が本当に欲しいのは貨幣ではないからである。貨幣で買えるその先のものが本当に欲しいものだからだ。
例えば、ある人にとって生きるために最低限必要なものが、1日3合の米であるとする。
ある時、米3合の価値が1万円金貨と同じだったとすると、その日は1万円金貨1枚で米3合を確保できる。この場合、1万円金貨は米3合を担保している。
しかしその年の秋は凶作で、米3合の値段は3万円に高騰した。
1万円金貨1枚で米3合を確保できると思っていた男は、米1合しか確保できず、飢え死にしてしまった。
こういうことは常に起こりうる。だから貨幣のリスクはゼロではない。貨幣は担保であり、その担保は価格の変動のためそのリスクは絶対にゼロにはならない。
しかし完全にリスクをゼロにすることはできなくても、リスクを少なくすることはできる。
このリスクを少なくできるものとして発明されたもののなかで、現在最も有効なものが貨幣である。
貨幣の最初は貴金属の価値がその裏付けとして存在したが、だんだんと貨幣発行者である有力者の信用力がその裏付けとしての比重を増していく。
たとえ貴金属としての価値がなくても、発行者の信用力があれば貨幣は成立する。だから紙に発行者の信用力を宿せば、それは紙幣になる。貨幣と紙幣、両者の間に根本的な相違はない。
だから貨幣の中身は信用力である。
先の実業家の男とその秘書の女の場合、貨幣の発行者は男である。
女は、大物政治家と寝れば、男がマンション一室を買ってくれるだろうという思惑で男に貸しをつくった。この場合、男の信用力はマンション一室と等価かそれ以上ということになる。
しかし女が大物政治家と寝たことの対価を、マンション一棟を建ててくれることだとしたら、この借りを返すことは男にとって難しいだろう。
この場合、借りは返せない。男は債務不履行になる。
この場合、返す対価が何なのか敢えて不鮮明にしているが、世の中に景気変動と、価格変動がある限り、借りたものの対価は絶えず不鮮明である。そこにもリスクがある。
通常、借りたものの対価は金額で示される。しかし金額そのものの価値が一定ではない。米1合が100円の時もあれば、1兆円の時もある。これは本当に1923年のドイツのハイパーインフレで起こったことだ。
取引のリスクを少なくするために、人は全てのものの価値を金額で表そうとしてきたが、金額そのものの価値が一定しないのである。
このようにお金の価値は不安定なものである。
これは貸した側の思惑と、借りた側の思惑が一致しないときに起こる現象である。
貸した側はマンション一棟を対価だと思い、借りた側はマンション一室を対価だと思った場合、マンション一棟を10億円、マンション一室を1億円として、男の財力が1億円であった場合、マンション一棟の価値は男の財力の10倍であるという関係は変わらない。
紙幣の発行者である男が無理に10億円の紙幣を発行したとしても、マンション一棟の値段がその10倍かかることに変わりはないのである。
このことの意味は何なのであろうか。
マネーとは、貨幣や紙幣に限られたものではない。
『21世紀の貨幣論』の著者フェリックス・マーティンが言うように、『マネーとは、信用取引をしてそれを精算するシステム』である。
だとすれば、マネーとは手形や小切手などを含め、信用取引に関わる全ての証券や債券が含まれることになる。また信用とは『未来の取引を予約』するものであるから、マネーには先物取引に関わる書類証書なども含まれる。
全ての貸し手と借り手の思惑が一致する場合、担保の量と信用の量は一致するようになる。マネーとは取引で使われる担保のことだが、その担保の量は信用の量と一致する。
昔の日本は向こう三軒両隣の世界、このような気心の知れた世界こそ、物々交換の場だと思われがちだが、そうではない。みんな貧しかったから物々交換しようにも物がなかったのだ。
本来こういう場所こそ信用取引の場所であった。醤油が切れれば右隣の家に借りに行き、塩が切れれば左隣の家に借りに行き、味噌が切れれば前の家に借りに行った。その場で何かと交換したりはしない。全て信用取引である。それは、ある時払いで催促なしの信用取引である。しかしそれはみんな貧しかったから、長い目で見れば、その貸し借りの多くはバランスが取れていた。
当然お金は介在しない。貸し借りの量も目分量でどんぶり勘定である。正確な金額で表したりはしない。
しかしこのような社会が維持できなくなると、貨幣による信用取引が始まる。貨幣の役割は貸し借りの量を担保することである。
担保は、対価を支払ってその担保を再び受け取ったときに担保ではなくなるが、今ではそれが省略されて貨幣という担保が貯蓄の手段になっている。
マネーが発生するには、独立した家計をもち、しかもその家計が貧しいことが条件である。貧しいから貸し借りが発生するのだから。
逆に、自給自足できる豊かな家計のところでは、貸し借りが発生しないから、マネーは発生しない。
人は力があるときには貸す力としての信用が増え、力が衰えるとその信用も減る。
だからマネーを発行する者は、自分の力の量に合わせて、マネーの量を調整しなければならない。つまり国はその生産力に合わせて、マネーの量を調節しなければならない。しかし往々にして人は自分の力を過信しがちである。
古代ローマ帝国が滅んだのは、主要通貨である銀貨の質を落とす貨幣改鋳を繰り返していったためだとされるが、それは答えの半分である。
正しくは、ローマ帝国自体の生産力が落ちているなかで、銀貨の質を落とす貨幣改鋳によって逆にマネーの量を増やしていったためである。貨幣の質が落ちたことそのものが悪いのではなく(それには別の悪い面がある)、貨幣の量が増えていったことが悪かったのである。
それとは逆に、産業革命期のイギリスは国の生産力の増大に合わせて、中央銀行であるイングランド銀行の発行する銀行券というマネーを増やしていった。そのことが国力を増大させ、イギリスという小国が大英帝国という大国に発展する原動力となったのである。(暴力的ではあったが)
生産力が増えれば、取引量も増える。
そして取引とは本来、信用取引である。
その信用取引が増えるとき、マネーの量もそれに合わせて増えていく。それがうまくかみ合ったときに、国力が増大するのである。
しかしそのイギリスも19世紀後半になると、生産力が落ちていくなかで、金融力を増大させていった。しかしこれはまた次の問題である。
水曜日
男が女に預けた腕時計は、『金貨』に相当する。
この腕時計は腕時計(商品)としての価値があるが、決してそれだけではない。親の形見というプレミアがついている。
男が女に『この借りはいつか返す』と一筆書いて、そのメモを女に渡せばそのメモは『借用書』になる。この『借用書』が譲渡性を得て広く社会に流通すれば、いずれ『紙幣』になる。
どちらの場合もそれは『担保』である。
担保とはそれを取り戻すための行為を要求するものである。
確かに『借用書』には金貨のような価値はないが、『この借りはいつか返す』と明言している以上、その約束を履行しなければ男は社会からの信用を失う。
人間として最大の価値はこの『信用』である。
男は必死でその信用を維持しようとする。この借用書は男のその行為を保証するもの、担保するものである。だからこれは担保である。
時計に商品としての価値があるように、金(きん)にも商品としての価値がある。
現在、金1グラムは約5000円であるが、1グラムの金を金貨にした場合、その金貨を100万円金貨とすることもできる。これが金と金貨の違いである。だから金貨は商品ではない。
だから金貨と紙幣の本質的違いはない。1枚の紙を千円にも1万円にもできるように、1グラムの金を5000円にしようと100万円にしようとそれは発行者の自由である。
その差額がプレミアである。
紙幣にも紙代とインク代がかかっているとすれば、紙幣と金貨のプレミアの差はその比率の大小の差にすぎず、それが発行者の裁量によって自由に変えられることを考えれば、そこに本質的な違いはない。
男が女に渡した形見の腕時計は、男にとっては1000万円の価値があるかもしれない。
男はそれを取り戻そうと必死になる。この腕時計は男のその行為を保証するもの、担保するものである。だからこれは担保である。
女が欲しいのはこの腕時計ではなく、男にとってはこの腕時計と等価のマンションである。
女にとって腕時計も男のメモも本来価値がないものであるように、
金貨も紙幣も、ともに本来欲しい商品ではないという点では同じである。
だから、紙幣がもともと商品ではないように、金貨もそれが金貨となった瞬間から商品ではない。
何か別のものに変質したのである。
水曜日
『この借りは、いつか返すから』
そう言って実業家の男は部屋を出て行こうとした。
人間関係は『貸し借り』でできている。
『貸し借り』を成立させるものは信用である。
しかし、なかには信用できない者もいる。
『ちょっと待って、その証拠はあるの』
と秘書の女は聞いた。
『証拠か、この腕時計を渡そう。これが証拠だ。オヤジの形見だ。俺にとっては大切なものだ。』
『分かったわ。あなたが借りを返してくれるまで、預かっとくわ』
『そうしてくれ』
そう言って男は部屋を出て行った。
男が腕時計を取り戻すとき、男は女にいくら払えば良いか。
時計の時価2万円なのか。
そうではないだろう。
男の『借り』は何なのか。
時計なのか、
それとも女が大物政治家と寝てくれた見返りなのか。
この腕時計にはオヤジの形見というプレミアがついている。
だから女は男の『借り』の証拠として時計を預かることに合意したのだ。
女は腕時計が欲しかったのではない。
男にして欲しかったことは別にある。
女はその身代わりとして形見の時計を受け取ったにすぎない。
男が女に返すべきものは別にある。
男は女に時計を渡さなくとも、『この借りは必ず返す』と一筆書いて渡しても良かったのだ。
このメモは、男にとって『借用書』になる。
女が男に、大物政治家と寝た対価としてマンション1軒を望めば、男にとってマンション代金と同額の『負債』になる。
女にとってこのメモは『債権』になる。
この場合、『女が大物政治家と寝たこと』と『男がオヤジの形見の腕時計を手放す』ことが、等価とされている。
しかも、女は腕時計が欲しいのではないし、男は腕時計を手放したくもない。
つまりこの腕時計は女がマンションを手に入れるまでの『担保』なのだ。
マネーには、金貨や銀貨や紙幣などがあるが、そのいずれも、もともとは『担保』なのではないか。
決してマネーそのものが欲しいわけではない。
マネーを貯めることそのものを喜ぶ人もあるが、その場合でも、マネーそのものが欲しいわけではなく、マネーの持つ債権の担保としての性格が、そうさせるのである。
担保は、本来支払われるべき対価を払って、取り戻さねばならないものである。
フェリックス・マーティンは、『21世紀の貨幣論』のなかで、
『マネーは商品ではなく、信用取引をしてそれを精算するシステムなのだ』と書いている。
人間社会は信用で成り立っている。
商取引も、信用取引から始まったのではないか。
商取引は、
物々交換 → 現金払い → 信用取引、の順番に発展していったと思われているが、
実は、
信用取引 → 現金払い → 物々交換、の順番で出現したのではないか。
マネーが担保だとすれば、広い意味では『現金払い』も『信用取引』の一種である。
『信用取引』の入る余地のない最も安全な取引は、『物々交換』である。これが最も安全で確実な取引である。しかしこれは今も昔も実際に行える余地は少ない。
人間社会が信用で成り立っているとするなら、人を信用するという行為は人類の出現と同時に成立していたはずだ。
21世紀の貨幣論 | |
フェリックス・マーティン | |
東洋経済新報社 |
火曜日
アメリカに従属することで、どれだけ日本が不利益を被ってきたか。
それに荷担した日本の政治家は誰か。
現状は、①政治面・②経済面の不利益だが、
将来的には、③文化面・④教育面での不利益が大きい。
①②は立ち直ることができるが、③④は根元から日本を腐らせる。
それを突き止めないと、日本の将来は描けない。
マスコミは真実を伝えない。
アベノミクスがアメリカ主導であることにも誰も触れない。
日曜日
1図.米国株(以下すべて2007~2017年の10年間)
2図.日本株
3図.ドイツ株
4図.ドル円為替
5図.ユーロ円為替
6図.ユーロドル為替
7図.人民元円為替
8図.日本国債10年利回り
9図.米国債10年利回り
10図.NYMEX金先物(参考)
11図.WTI原油先物(参考)
2008.9月のリーマン・ショック当時、心配されていたこと。
1.米国株の暴落。
2.ドルの暴落。
3.米国債の暴落(国債金利の高騰)。
2ヶ月後の2008.11月から、アメリカがQEという量的金融緩和を行い、紙幣を刷りまくっていたとき心配されたこと。
4.貨幣価値の減少 → 物価上昇 → ハイパーインフレ。
結果はどうか。
不思議なことにそのいずれもが回避された。
1.米国株。11000㌦ → 22000㌦に高騰(1図)。
2.ドル円相場。107円 → 78円 → 107円に回復(4図)。
逆にユーロがドルに対して1.4㌦ → 1.2㌦へと下落している(6図)。
つまりドルはユーロに対して下がるどころか値上がりしている。
3.米国債の金利も、上がるどころか、4% → 2%へと低下している(9図)。
ということは米国債の価格は下落していない。
4.米国金利も低下しているから、米国内の物価も2%前後の軽いインフレ率で推移している。
ハイパーインフレも今のところ起こっていない。
確かに現状はそうだが、この現状あまりに出来過ぎているのではないか。
リーマン・ショックから4年後の2012.10月頃に一つの変化がある。
その前月の2012.9月にそれまで死んだふりしていたアベシンゾーが突然、自民党総裁選に立候補し、あれよあれよという間に総裁選に勝利して自民党総裁になると、
次の月の2012.10月から円安・ドル高になり始めた(4図)。
ドルはその後約3年間で、80円 → 125円へと高騰した。
中国の人民元も高騰した。約3年間で人民元は12円 → 20円へと高騰した(7図)。
ドルと人民元の高騰は、3年後の2015.8月まで続いた。
アベシンゾーが自民党総裁になる13日前の2012.9.13日に、米国はQE3(量的金融緩和第3弾)を決定している。それは2年後の2014.10月まで続いている。
この頃アメリカはお金が欲しくてたまらなかったのだ。
量的金融緩和を実行しお金をジャブジャブとばらまき続けている米国ドルがなぜ高くなったのか。
通貨を増刷してばらまき続ければ貨幣価値が薄れ、通貨安になるのが当然なのに、なぜこんなことが起こるのか。
疑問は4つある。
1.アメリカはなぜ、企業実績が向上しないまま、どうやって米国株の暴落を防ぎ、株価を上昇させたのか。
2.アメリカはなぜ、ジャブジャブとドルをばらまきながら、ドルの暴落を防げたのか。
3.アメリカはなぜ、貿易赤字と財政赤字を改善しないまま、米国債の暴落(国債金利の高騰)を防げたのか。。
4.アメリカはなぜ、生産力が向上しないまま、物価上昇によるハイパーインフレを防げたのか。
答えは次の通りだ。
1.株高について
QE(量的金融緩和)で増刷したお金は、実体経済には回らず、金融機関を通じて株の購入に流れた。
2.ドル高について
日本を中心とした西側諸国に米国債を売りつけた。米国債を買うことはドルを買うことと同じであり、米国債を購入した国は自国通貨を売ってドルを買うのだから、需給関係からドル高になった。
対円ではドルは一時80円前後までドルは下落(円高になった)したが(4図)、対ユーロではドルは上昇している(ユーロが下落)(6図)。
2012.12月にアベシンゾーが首相になると、翌年2013.4月から日銀の黒田東彦とともに『異次元金融緩和』という円の増刷し始めた。するとドルは対円でも高騰した(4図)。アメリカの財政赤字の穴埋めに日本の円が使われたものと思われる。
これによってアメリカは株価上昇のための新たな資金源を手に入れた。
アメリカのQE(量的金融緩和)政策は
QE1(2008.11~2010.3)、
QE2(2010.11~2011.6)、
QE3(2012.9~2014.10)
と続くが、QE3は2014.10.29日に終了が決定された。
するとその2日後(時差を除くと1日後)の2014.10.31日、日本は即座に追加の量的金融緩和を発表した。
マスコミは報道しなかったが、日本の金融緩和資金でアメリカをファイナンスするということが、これほどおおっぴらに行われたことはなかった。
日本がアメリカをファイナンスするためには、日本の円を売ってアメリカのドルに交換(ドルを買う)する必要があったから、ドル高・円安傾向は続いた。
前に言ったように、そのドル高傾向は10ヶ月後の2015.8月まで続いた。
3.米国債について
暴落の可能性のある米国債は買い手のつかない『札割れ』を起こす危険があったが、
2009.9月の民主党への政権交代後、翌月には米国債の購入を渋っていた自民党の中川昭一元財務大臣が死に(2009.10)、
それを引き継いで米国との距離を置こうとする民主党政権の鳩山首相や小沢一郎を政権中枢から外し(2010.6.2)、
それと同時に菅直人という米国の言いなりになる人間を日本の首相に据えることにより(2010.6.8)、
TPPという米国に有利な貿易協定を受け入れさせる方向に進んだ(2010.10)。
そしてさらに2年後、アベシンゾーを自民党総裁にさせて自民党が政権の座に復帰すると(2012.12)、
4ヶ月後に『異次元金融緩和』を実施させることにより(2013.4)、
米国債をいっそう日本に購入させた。
これにより米国債の『札割れ』の心配はなくなった。
4.ハイパーインフレについて
日本に『異次元金融緩和』をさせ、その資金によってアメリカをファイナンスさせると、米国債暴落の心配はなくなり、米国債の信用もドル紙幣の信用も一時的には維持された。米国債もドルも高騰した。
未来のことは分からないが、これにより米国のハイパーインフレは今のところ食い止められている。
以上が私の答えである。
(ちなみに、2013.4月以降のアベノミクスによる株高は、『外国人買い』によるものである。外国人が日本株を買っているだけである。それも米国政府と結びついた機関投資家による『外国人買い』である。
アベシンゾーは、アメリカに資金を貢ぐ見返りとして、日本株をつり上げてもらっている。そのことによって見せかけの好景気をつくるためだ。
しかし外国人は日本の景気が良いから日本株を買っているのではない。
量的金融緩和によって、日本の経済がジャブジャブになり円が安くなったため、外国人が安い日本株を買っているのである。円安になると、外国人にとっては為替の関係で日本株も安くなる。そこを買っているのである。
だからすこし円高になると、外国人にとっては日本株も高くなるため、そこを売る。
円安になると日本株が買われ、円高になると日本株が売られるのはこういうためである。
外国人にとってはゲームのようなもので、別に日本に本気で投資しているわけではない。日本株が有望だと見ているわけでもない。
ただ日米政府間の合意で日本株を買うことになっているから、円安で買い、円高で売っているだけである。
そしてこのゲームでも勝っているのは、多くのインサイダー情報をもつ外国人投資家であり、負けているのは日本の個人投資家である。それを分かっていながら、政府は証券業界と一緒になって株式投資を勧めている。あこぎなことである。)
ここ10年近くのアメリカの株上昇の推移(1図)は、グラフを見れば分かるように非常になだらかである。
このなだらかさから何を感じるか。日本の株のグラフ(2図)の変則性と比べたらそのなだらかさは一目瞭然である。
10年近くもこのようななだらかなグラフが続くことは株の世界ではない。非常に人工的ななだらかさである。ほとんど一直線だと言って良い。それは人為的に株高がつくられたからである。一定の傾斜配分で。そうでなければこのような直線にはなり得ない。
ということは、今の米国株価は人工的につくられたものであり、本来の米国企業の実力を反映したものではないということである。
そのことはドル高についても、米国債についても言える。
日本からの資金流入(ファイナンス)がなければ、こんなことは起こりえなかったのである。
2008年のリーマン・ショック当時、クレジットデフォルトスワップ(CDS)という市場には現れない、いわば企業間の闇取引(相対取引)の不良保険債権の額が莫大なものであることが心配されていた。
しかしその後、この不良債権のことはトンと報道されない。まるでなかったことのようにマスコミ報道から消されてしまっている。
しかしその不良債権は厳然として残っている。
それが発火して大火事にならないように、そこにも日本の金融緩和資金が使われたはずだ。
その証拠には、リーマン・ショックの被害が少なかったはずの日本が、その後の10年近くの間、先進国中、最も低金利で、最も経済成長率(GDP)が低く、最もひどいデフレに苦しんでいるなかで、相変わらす巨額の国債発行を続けている。アメリカの好景気は日本の景気を犠牲にした好景気である。
こんな見せかけの好景気がいつまで続くか。
アメリカ株が下落するタイミングはいつか。そのことが焦点になる。そのとき日本株の『外国人買い』が終わる。アメリカはそれどころではなくなるから。当然、日本株も下落する。
日本人がやるべきことは何なのか。アベノミクスではあるまい。
株高も円安も、日本人を豊かにしてはいない。
金融策だけでは経済は豊かにはなれないのだ。
それは日本の政治の失策が大きい。
もっと愚直に、もっと厳しく、世界と対峙することだ。
政治の役割は大きい。政治がちゃんと経済を育てていかなければ。
今の日本は、政治が経済の足を引っ張っている。
日本の政治が二流だということはみんな知っているが、これ以上二流の政治家が増えると日本がもたない。
土曜日
2008.9月のリーマン・ショックから来年で10年になる。
日米の株価は、その半年後の2009.3月に底値をつけたあと、予測に反して、
米国は、7000㌦ → 22000㌦、
日本は、7000円 → 20000円、
へと上昇した。
アメリカが一貫して上昇し続けたのに対して、
日本の株価はかなり変化に富む複雑な動きをしている。
日本は、リーマン・ショックのあと4年間はおよそ8000円台だった。上昇し始めたのは、アベシンゾーが首相になった2012.12月からである。
その間の経緯は本ブログでも何回か書いたが、
一言でいえば、金融緩和で余った資金が株に流れただけのことだ。実体経済は何も良くなっていない。
ここ10年間で進んだ株高は、もうそろそろ限界なのではないか。
今年に入って、ビットコインなどの仮想通貨が、急速に値上がりしている。約5倍である。
最近では金(きん)も値上がりしている。
ドル円相場もここ10年間で、80円 → 110円、へと上昇したが、それも限界ではないか。
ビットコインの急上昇といい、金(きん)の値上がりといい、ドルの信用不安の裏返しではないか。
このことはすでにリーマン・ショックが起こった当時からいわれていたことだが、
あれから10年近くたって、やっとそのことが現れてきているのではなかろうか。
この10年間は、カンフル注射にだまされた10年間だった。
ドルの増刷、そしてその後の円の増刷という量的金融緩和というカンフル注射だ。
カンフル注射では一時的に元気になったような錯覚に陥るが、病気は決して良くなったわけではない。
日米の株高は、国民をそういう錯覚に導くための手段にすぎない。そうやって次に起こる混乱を先延ばしにしてきたわけだ。
しかしそれにも限界がある。
いつまでもお金ばかり刷ってはいられない。
実体経済が良くならないのにお金ばかり刷り続ければ、やがてバブルが起こる。
どこかで何かが吹き出てきて、止まらなくなるのだ。
それがビットコインかもしれないし、金(きん)かもしれない。あるいはまた石油の値上がりかもしれない。
または他の資源が急に高騰するかもしれないし、食糧が急騰するかもしれない。
今は余っているが、もし米などの穀物が高騰すれば、食糧自給率が先進国中最低の日本などはかなり大変なことになる。
何かのきっかけで、ハイパーインフレが起こることもある。
北朝鮮有事なども不気味だ。
日本もアメリカも、お金が暴れ出すには十分なお金を刷った。ヨーロッパもそうだ。
それらのお金はこれからどこに行くのだろうか。
それを決めるのはお金を握っている少数の人間かもしれない。
見せかけの株高が、このまま上昇し続けるとは考えにくい。
今の株高は実体経済を反映していないのだから。
もう提灯がつく時期は過ぎた。
インサイダー情報を知っている外国のヘッジファンドなど機関投資家は、そろそろ株の空売りを仕掛けてくるかもしれない。
そういうことが起こっても不思議ではない時期に来ている。
土曜日
金貸しと銀行業の違いは、
金貸しが自分のお金を人に貸し付けて儲けるのに対して、
銀行は預かった他人のお金を人に貸し付けて儲けるという点だ。
金貸し業は多くの社会で嫌われる商売だった。あくどいイメージがつきまとった。
それはお金を人に貸し付けて儲けるということが一種の不労所得だと認識されていたからだ。
しかし金貸し業の時代、それはまだしも自分のお金であった。
しかしそのルールさえも壊したのが銀行業である。
銀行業の始まりは、他人から預かったお金をこっそりと人に貸し付けたことから始まる。
そのこと自体、すでに不道徳なことである。
(17世紀、イギリスでピューリタン革命が起こった頃、イギリスの金細工師などの金匠たちが他人から預かって金庫に保管したお金をこっそりと人に貸し付け、利息を取り始めた。ただしこのこととピューリタン革命の資金源がどう関係しているかは、また別の問題。)
しかし現在の銀行業の本質は、他人のお金を人に貸し付けることにさえない。
その証拠には、預金を貸し出しに回せば預金が減るはずだが、
実際に銀行が貸し付けを実行するとき、預金が減ったりはしない。
銀行の複式簿記を見ればすぐに分かることだが、
銀行が貸し出しを実行するとき、預金は減るどころか逆に増える。
(私がA銀行から100万円借りるとき、そのお金はA銀行の私の口座に入り、A銀行の預金残高が100万円増える)
この増えた分の預金はいったいどこから来たのか。
実に奇妙なことである。
(複式簿記は引き算はしない。最初はすべて足し算である。銀行は、貸出金という資産を100万円増やせば、預金という負債を100万円増やせば良い。これで資産と負債のバランスがとれるという実に奇妙なものである。では銀行の貸出金の原資となるお金はいったいどこから来たかという疑問である。)
つまり銀行は、人にお金を貸すとき、
自分のお金を使うのではなく、
まして他人から預かったお金を使うのでもなく、
全くの『無』から新たなお金をつくり出して、それを他人に貸し付けているのである。
これは天から降ってきたお金である。
銀行は複式簿記によって、そういう特権を手に入れたのである。
銀行は実際に紙幣を刷ってはいないが、天から降ってきたお金で通貨量(私の預金)を増大させるのであるから、これは紙幣を刷ったのと同じことである。
(私は、天から銀行に降ってきた架空のお金を私の預金にしてもらい、その預金を現金にして、実際に物を買うことができる。そしてそれを返済するために働き、利子を上乗せした金額を銀行に返済する。このときに通貨量はもとに戻るが、新たに利息分の通貨量が増大する。ただし利息がどこから来るかは、また別の問題。)
世間ではこれを『信用創造』の一言で済ませているが、その実態はかなり怪しい。
こういうシステムを世界ではじめて確立したのが、17世紀のイギリスである。
イギリスの植民地支配のための資金源(戦争費用)はこういうところから生み出された。
1694年のイングランド銀行(世界初の本格的中央銀行)の創設の意味は根深い。