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ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい

新「授業でいえない世界史」 16話の1 中世ヨーロッパ 西ローマ滅亡~メロヴィング朝

2019-08-26 08:37:00 | 新世界史8 中世ヨーロッパ

【ヨーロッパの地形】 ヨーロッパの地形で、大きな川は黒海から流れ出るドナウ川です。それからドイツの西部を流れるライン川です。

 今までイスラーム世界をやったところから600年ぐらいまた過去に戻ります。イスラム世界は13世紀、1200年代まで行ったんですけど、そこが実は一番世界で進んでいる地域です。それを先にやりました。
 今ヨーロッパは、イギリスだったり、フランスだったり、ドイツだったりして先進地域のように見えますが、この当時は田舎です。もともとヨーロッパの中心地域はアルプスの南の地中海沿岸地域だった。しかしそこが廃れて田舎になっていきます。そこから見るとアルプスの北側というのはもっと田舎なんです。つまり田舎の田舎です。さらにそこから見た海の向こうのイギリスは、とんでもない田舎になります。

 ではなぜこんなド田舎のことをやるのか。これから1000年後に圧倒的にここが発展して、日本でもペリーが大砲を向けて来て脅されるようになるからです。ここから発生した文明つまり近代ヨーロッパ文明が発展してくるからなんです。
 ただ今の段階で「ここが進んでいる」とは思わないでください。今まで古代のヨーロッパをやったときに中心はローマだった。ではこの時もヨーロッパの中でローマが中心かというと、でもローマはもう捨てられた。そしてどこに移ったか。今のイスタンブール・・・・・・この時には東ローマ帝国の首都でコンスタンティノープルといいますが・・・・・・ローマからここに中心が移った。今のトルコです。ヨーロッパではここが中心です。西ヨーロッパが中心ではありません。
 ローマ帝国は2つに分裂しました。そして東の帝国だけが生き残る。これが何帝国だったか。東ローマ帝国です。それが中心です。


 しかしこれからは逆にその西側の田舎を説明します。人があまり住まないような、オオカミが出るようなところです。ヨーロッパには「赤ずきんちゃん」のお話があります。赤ずきんちゃんは、何に食べらそうになるか。森のオオカミです。オオカミが出るような、森がうっそうと茂っている地域が西ヨーロッパです。
 そこにお姫様がいたら、何ヶ月も森をかき分けて行かないといけないようなところです。そういう「眠れる森の美女」の話もあります。ここはそういう森に覆われた地域なんです。この田舎のことを今からやっていきます。イメージを間違わないようにしてください。


 中心は東ローマ帝国です。でも本当はもっと東のイスラーム世界が栄えています。ヨーロッパでは栄えているのは東ローマ帝国だということです。ここに昔あったローマ帝国は分裂し、西半分の西ローマ帝国は滅亡したんです。このあとは廃れていく一方です。
 ローマは地中海沿岸です。しかしローマの北のアルプス山脈を越えたら田舎です。アルプス山脈は険しくてなかなか越えられない山脈です。太陽の光が降り注ぐ南のローマから見るとアルプス山脈の北側は、森に覆われた別世界です。今はそこがヨーロッパの中心ですが、それは近代に入ってからのことであって、フランス・ドイツはもともと、アルプスの北の森の世界です。



【ヨーロッパの森 シュバルツバルト】 Wandern im Schwarzwald | Der Querweg Freiburg Bodensee | 180km 9 Tage



 その田舎から見て、海の向こうにあるイギリスは、さらにとんでもない田舎です。フランス人は今でも、英語を田舎言葉だとして使いたがりません。でもそのイギリスから、ずっとのち産業革命と近代社会が出現します。
 なぜそんなことになったのか。この地域は現代社会をひもとく鍵なのです。 





【ヨーロッパの言語分布】 それが今の民族分布を見ていくと、ドイツとフランスの境はライン川です。その西側が西ローマ帝国があった地域で、まずその西ローマ帝国が滅ぶ。ここはまだ森に覆われた田舎のイメージです。
 ここが発展したあとの民族分布をみると、もともとのローマ帝国のローマ人はラテン系の人々です。彼らが住んでいるところは、イタリアから、フランスから、スペイン、こういったところがラテン系の人々が住む地域です。ヨーロッパを西と東に分ける目印は、さっき言ったライン川です。ドイツとフランスのほぼ中間にあります。


▼ヨーロッパの言語分布



 今からいう主役はこの東側のさらに田舎に住んでいた人たちです。彼らをゲルマン人といいます。彼らゲルマン人がライン川を渡り押し寄せてくる。
 むかし橋がない時代には、大きな川はなかなか渡れなかった。それを何千人・何万人というゲルマン人たちが大挙してライン川を渡って、そこに自分たちの国を作っていく。そのゲルマン人がもともと住んでいた地域が、今のドイツです。それに、今はでてこないけど、北のスウェーデンとノルウェー、ここもゲルマン人です。これからこのゲルマン人の動きを見ていきます。



【ゲルマン人の登場】 主役はゲルマン人です。西ローマ帝国が滅ぼうとしているときに、まず東のゲルマン人を押し出すのが、さらに東方から西側のヨーロッパ側に進んできたフン族です。多分これは中国史でやった匈奴またはその一派だろうといわれます。彼らが東から西へとどんどん進んで、そこに住んでいた人間を押し出します。押し出されたのがゲルマン人です。

 彼らが大移動を始める。旧ローマ帝国の領域はライン川の西岸までです。今のフランスまでだった。そこにゲルマン人が入ってきたものだから、ついに476年に西ローマ帝国は滅びました。
 しかしすでに東側に引っ越していたもう一つの東ローマ帝国は生き残り、繁栄が続きます。


 このようにゲルマン人がライン川を渡って、西に移動してくると、今までそこに住んでいたケルト人たちがヨーロッパの端に追い詰められることになります。

 上の地図に見れるように、ケルト人たちはアイルランド島、イギリス北部のスコットランド、イギリス西部のウェールズ、フランス西部のブルターニュ地方に追い詰められています。このケルト人たちはヨーロッパがキリスト教に染まる前の独自の宗教と文化を持っていました。
 スコットランドとは、ケルト人の一派のスコット族の国という意味ですが、イギリスでは、現在でも南のイングランドと北のスコットランドとの対立があり、スコットランドの独立運動が続いています。


 ヨーロッパはこのような土着文化の上に、キリスト教文化が乗っかっていくわけですが、時々、今まで押さえ込まれてきた土着文化が頭をもたげてくることがあります。例えば、ハリーポッターの使う魔法の世界は、どう見てもキリスト教世界ではありません。この物語はスコットランドのエディンバラで書かれたものです。

 ケルト人の世界は、深い森のなかで、妖精たちを崇めていた多神教の世界でした。そこにはドルイド僧といわれる司祭もいました。そこにキリスト教が入ってくるわけです。



【ローマ教会】 もう一つ生き残ったのが、ローマ帝国の宗教です。国教になった宗教は何だったか。キリスト教です。これは総本山は今でもローマにあります。これだけが、そのまま生き残ったんです。これがローマ教会です。西ローマ帝国は滅んでも、そこにあったローマ教会は生き残った。これが一つの隠し味です。ヨーロッパの底流を流れる伏線です。

 今まで国家の守護神の多くは国家の滅亡とともに、「ダメな神」としてその責任を負って滅びてきました。しかし、ここではローマ教会は生き残ります。

 紀元前6世紀、ユダ王国が滅んだときのユダヤ教も生き残りました。その時は「異教の神を拝んだからユダヤの神の怒りに触れて国が滅んだのだ」として、逆に、より強力な信仰を要求する形で生き残りました。
 この5世紀にも、「キリスト教が禁止した異教の神々の怒りで滅んだのだ」という批判がわき起こります。どういうふうにその批判をかわしたのか、アウグスティヌスの「神の国」という本に書かれています。彼はキリスト教とは水と油の関係だったギリシア哲学、とくにアリストテレスの哲学を、キリスト教の神様を正当化するための補強材料として取り入れていきます。

※ ローマ帝国の混乱が、市民の間に厭世的気分をうみ、また従来の神々を棄ててキリスト教をとったことが、これらの災厄の原因であるとする考えが、ローマ市民の間に広まった。西方教父の代表者であるアウグスティヌス(354年~430年)の「神の国」は、このような背景の中で書かれたのである。 彼の思想そのものは新プラトン主義である。 神は唯一の絶対的存在であって、すべての存在するものの源泉であると。・・・・・・神を哲学的に表現する場合、新プラトン主義的になるのは自然である。・・・・・・一般的に言って彼の思想は多くの矛盾を含んでいる。キリスト教の伝統的考え方と新プラトン主義の要素も、彼の思想の中で矛盾なく統一されているとは言いがたい。(キリスト教の歴史 小田垣雅也 講談社学術文庫 P70)

※ 科学に関しては、宇宙が唯一絶対的な神が支配しているはずだから、その神が支配しているその支配の法則を知りたいというところから近代科学が出発したということは、一般に言われていることですね。・・・・・・世界を統一した原理で捉えるという考え方は一神教的な物の見方でなければ成立しないというのは、少なくとも科学史では常識として言われていることでしょう。(一神教 VS 多神教 岸田秀 新書館 P211)

※ 新プラトン主義は、「一」から世界万物が流出するとし、多くの異教の神々は「一者」なる最高神の地上における現れと解した。キリスト教徒はこの「一者」を彼らの「唯一神」と説明して、知識人への布教に利用した。(高校教科書 新世界史B 柴田三千雄他 山川出版社 P52) 


 ただここでは、国教であったキリスト教は、国家の滅亡や危機に際しても、その政治的責任を免れることができる宗教になっていきます。宗教としての責任がないのです。キリスト教はこのあとも、ますます広がっていきます。そしてますます政治と結びついていきます。しかしその責任は王が持ちます。こういう関係は不思議ですね。

 このあとのヨーロッパの政治抗争を一言でいうと、新しく出てきたゲルマン人の国と、昔からあるローマ教会との、持ちつ持たれつの関係と主導権争いです。この関係はヨーロッパ独特のもので、日本人にはなかなか理解できないところです。神様と王様との関係がずっとでてきます。世界史では、こういう日本人の考え方とは違ったものも理解しないと、わけが分からなくなります。

 ローマ教会から見たら、新しく侵入してきたゲルマン人たちは野蛮人にしか見えない。基本的には見下している。しかしゲルマン人は、王になってもなお見下されていることに納得できない。一見仲が良いように見えて、ローマ教会と王様が、「オレが偉いんだ、いやオレが偉いんだ」と偉さ比べをしていきます。



【ゲルマン諸国】 ではゲルマン人が作った国、これはいっぱいある。西はスペインから、さらにその南のジブラルタル海峡を越えて地中海を渡り、アフリカの北岸にまで及ぶ。ゲルマン人が何千キロと移動してさまざまな国を作ります。でもこれらの詳細はカットします。


 ローマ人から見るとゲルマン人というのは野蛮人だった。でもそれ以前から部族社会にはなっていた。親戚同士が集まって暮らす氏族社会から、まわりの人たちも集めて、それより大きな部族社会になっていく。血のつながりがなくても、あったことにして、ひとまわり大きな社会になっていくわけです。その仕組みは、まだよく分からないけど、結婚などを通じて人をやりとりしながら、氏族どうしが結びついていったようです。
 すでに王らしき者はいたようです。フン族からの圧迫や、まわりの部族との抗争などを通じて、その王の力が強まっていきます。この時の王の気持ちになれば、まだあやふやな自分の王としての立場をどうやってより強いものにしていくか、そのことはかなり大事な関心事であったのでしょう。


 彼らは、それ以前からキリスト教の教えには従っていた。キリスト教徒にはすでになっていたんだけれども、しかし彼らは、ローマ教会の教えとは違った別の宗派のキリスト教の教えに従っていた。これを異端といいます。キリスト教にもいろんな宗派が発生します。のちにローマ教会によって弾圧されますが。

※ ゲルマン人も昔はそうであった。ヴァイキングの男は、死ぬときに手に剣を持って死ぬと、大威張りで先祖の霊の集まっている静かな北の海に帰れること、また自分の子孫に再生してくることができると信していたと言われる。ヴァイキング版の靖国神社である。さればこそゲルマン人も名誉を重んじて勇敢であり、家を重んじ、子孫の絶えることを何より怖れたのであった。
 キリスト教になると北の海が天国になり、先祖の霊に会見するよりも、神とかキリストに対面するということが、強調された。死後に自分が対面するのは、全能の神と一対一であることを原則とするという信仰は、家族中心であったゲルマン人を、心の底から個人主義者に変えてゆく作用があった。(日本史からみた日本人・古代編 渡部昇一 P84)


※ 2世紀後半にゲルマン社会は、マルコマンニ戦争と呼ばれる戦乱と激動の時代を迎える。その結果、多くの伝統的な部族が解体し、新しい部族が誕生した。フランク族やアラマン族などがその例である。 社会は完全に戦士中心に編成されたし、また王の性格にも変化が生じた。王となる者は血統より、むしろ軍隊の指揮者としての才能が求められるようになる。 信仰の対象である神もまた交替した。彼らが豊穣と平和をつかさどるティワズを退けて、新しく拝跪しはじめたのは戦争の神オーデンであった。(世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成 佐藤彰一・池上俊一 中央公論社 P41)

※ 流血の惨をみる強制によってキリスト教徒に改宗させられた事実が忘れられてはなるまい。これらの民族はみな「粗末に改宗させられた」のであり、キリスト教という薄いうわべ飾りの下で、彼らは野蛮な多神教に忠誠を誓っていた彼らの先祖と何ら変わらないままであった。(モーセと一神教 フロイト著 ちくま学芸文庫 P156)

※ 693年にイングランドのウェセックス王国で成立した「イネ法典」は、新生児に30日以内に洗礼を受けさせなかった両親から、全財産を没収するという厳しい定めを設けている。(世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成 佐藤彰一・池上俊一 中央公論社 P82)


(仮)ゲルマン人の移動1(音声なし)


▼ゲルマン人の移動





【フランク王国】
【メロヴィング朝】 ゲルマン人国家の中で一つだけ代表的なものを取り上げると、それがフランク王国です。
 これは481年メロヴィンク家クローヴィスが、フランク諸部族を統一して建てた国です。クローヴィス一族の王朝をメロヴィング朝といいます。フランスという国の名前はこのフランク王国に由来します。フランクが訛ってフランスになっていきます。

※ ゲルマン人の間で王というものがどのように理解されていったかを、じかに語る史料はほとんどない。何よりも軍隊の指揮能力に優れた人物が、王位につくことが望まれた。血統の原則は全く棄てさられたわけではなかったが、背景に退く。戦士であった部族民を率いて戦い、定着するための豊かな土地を彼らに与えることができた王のみが、成功した指導者として生き残った。そうした王のありようが、この時代の王権の姿であった。(世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成 佐藤彰一・池上俊一 中央公論社 P53)

※ フランク王クロヴィスは、成功した軍隊王の典型である。彼は王権が直面するであろう将来の危険を感じとっていた。クロヴィスは死の直前の数年間をかけて、由緒ある一門に属するフランクの小王クラスの者たちを、陰険きわまりないはかりごとを巡らして、根絶やしにしたと、伝えられている。(世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成 佐藤彰一・池上俊一 中央公論社 P54)

※ 未開の人々はときとして、自らの安全と、さらにはこの世の存続さえも、人間神もしくは神の化身である人間の生命に、結びついていると信じている。・・・・・・自然の成り行きがこの人間神の生命にかかっているのであれば、彼の力が徐々に弱まり、最後には死という消滅を迎えることには、どれほどの破局が予想されることだろうか? これらの危険を回避する方法はひとつしかない。人間神が力の衰える兆しを見せ始めたならばすぐに、殺すことである。そうして彼の魂は、迫り来る衰弱により多大な損傷を被るより早く、強壮な後継者に移しかえられなければならないのである。こうして人間神を、老齢や病で死なせる代わりに殺してしまう。・・・・・・殺してしまえば、まず第1に崇拝者たちは、逃げ出す魂を確実に捕らえ、適切な後継者にしかと移しかえることが可能になる。そして第2に、人間神の持つ自然力が衰える前に彼を殺すことで、崇拝者たちは、人間神の衰弱で世界が衰退するという危険を、確実に排除できるのである。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P303)

※ コンゴの人々は、彼らの大祭司チトメが自然死を迎えることになれば、世界は死滅し、もっぱら彼の力と功徳によってのみ維持されていた大地は、即座に消滅する、と信じていた。したがって彼が病に倒れたり死にそうに見えたりすれば、その後継者となる運命にある男は縄か棍棒を持って大祭司の家に入り、これを絞め殺すか殴り殺すのであった。メロエのエチオピア人の王たちは神として崇拝された。だが祭司たちは、そうすべきと判断すればいつでも、に遣いを送り、死ぬことを命じ、その命令は神々の託宣であると主張できた。王たちはこの命令につねに従順であった。(初版金枝篇 上 J.G.フレイザー ちくま学芸文庫 P305)
(●筆者注) クロヴィスは、祭司たちの要求に従わず、逆に彼らを殺したのではないか。




【クローヴィスの改宗】 
ただこのフランク王国の王様クローヴィスは「どうせならこの生き残ったローマ教会の教えに従ったほうが得だぞ」と考えた。このローマ教会の正式な教えをカトリック・・・・・・本当はアタナシウス派・・・・・・といいます。これに改宗した。
 ここからフランク王国とローマ教会の仲が良くなります。ゲルマン人のフランク王国は、ローマ教会と手を組むことによって発展していくんです。



【聖像禁止令】 ただ忘れてならないことは、ヨーロッパの中心はもう一つの東ローマ帝国であったことです。そこにもまた別の教会があるんです。国も2つになっていたし、教会も2つになっていた。それぞれ教会の教えも違ってくるようになる。

 西のローマ教会はゲルマン人にキリスト教を教えるときに、ゲルマン人は字も読めない野蛮人だと思っているから、キリストさんの像またはマリアさんの像を見せて「これを拝むと良いことがある」と言って教えていた。
 日本人は仏像を拝むからそのことに違和感はないですけど、実は一神教の世界ではこんなことは絶対にしてはいけないんです。偶像つまり神様の像を彫ってはならない。人間の形を神様はしてない。それを拝むなんてとんでもない。そういう教えです。これは「モーセの十戒」に書いてあるもっとも基本的な教えです。

 これを東ローマ帝国が黙って見ていられずに禁止令をだした。それが726年聖像崇拝禁止令です。しかし、西のローマ教会は「そんなことをしたら、字が読めないゲルマン人に絵もみせられない。像も見せられない。そうなれば難しいキリスト教の教えを野蛮なゲルマン人に教えられない」と反発していく。
 それで教会同士が、西と東で仲が悪くなっていくんです。西のローマ教会と東の東ローマ帝国の教会が対立するようになります。

 この聖像禁止は、もともと1000年以上前の「モーセの十戒」にも定められていたものです。ということは、ローマ教会は最初からこの禁を破っていたのです。そしてそのことを問い詰められると、「何が悪いんだ」と開き直ったようにも取れます。私はキリスト教徒ではないから、聖像禁止が正しいのかどうかは分かりません。しかし歴史を見ると、一神教のルールは、はじめから聖像禁止なのです。
 このようにキリスト教には、ご都合主義のところがあります。これを柔軟だととらえるか、二枚舌だととらえるか。キリスト教の難解さはこういうところにあります。これを悪用する人だって出てくるかも知れません。

 そのことへの恐れから、少なくともイスラーム社会は・・・・・・イスラーム教も一神教です・・・・・・今も偶像崇拝を認めません。イスラーム教徒が神様の像を拝んでいるのを見たことはないでしょう。それが一神教の基本です。だから同じ一神教でも、キリスト教とイスラーム教は対立します。



【ツール・ポワティエ間の戦い】 この時代の世界の中心はイスラーム世界です。前に言ったイスラーム帝国のウマイヤ朝は、昔のメソポタミアつまり今のイラクあたりを征服し、北アフリカに軍隊を広げて国がどんどん大きくなっています。
 さらに地中海の西の出口のジブラルタル海峡を越えて、ヨーロッパに攻め込んできた。スペインからフランスに攻め込もうとする。

 しかし、これ以上攻め込まれたらとても耐えられないということで、ゲルマン人のフランク王国は戦った。そしてイスラーム軍の侵攻をなんとか食い止めた。
 その戦いが732年ツール・ポワチエ間の戦いです。これでヨーロッパはどうにか潰れずに済んだ。ゲルマン人の国のフランク王国がここで生き残りました。
 もし負けていたらヨーロッパはキリスト教国ではなく、スペインのようにイスラーム教国になっていたと思います。しかし、このあとしばらくはヨーロッパは防戦一方で、イスラーム教徒の脅威におびえます。
続く。


新「授業でいえない世界史」 16話の2 中世ヨーロッパ カロリング朝~オットー大帝

2019-08-26 08:36:51 | 新世界史8 中世ヨーロッパ

【カロリング朝】 そこからまた息をふき返したゲルマン人の国であるフランク王国は、ツール・ポワティエ間の戦いで手柄を立てたカール・マルテルの一族であるカロリング家に実権が移り、王家が変わります。カール・マルテルは、メロヴィング朝の宮宰だった人です。宮宰とは日本でいえば、大名家の家老のようなものです。732年には、トゥール・ポワティエ間の戦いで、イスラーム軍を撃退します。
 751年にはメロヴィング朝からカロリング朝に変わります。カロリング家のピピンが王になります。

※ (751年にカロリング朝が創始されたとき)ピピンが受けた塗油(とゆ)式(額に油を塗る儀式)は、血統にかわるカリスマ性を付与する新たな儀礼として、はじめて国王戴冠式に取り入れられた。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P157)

※ ピピンはゲルマン古式による即位式を挙げると同時に、すでに大司教になっていたボニファティウスから塗油を受けた。これがカロリング朝フランク王国の成立である。・・・・・・ピピンが即位にあたって塗油礼を受けたことは、画期的な出来事だった。塗油はもともと、聖職者を一般俗人から区別し、一般俗人の上に置く儀式である。それがピピンに対して行われたことは、彼が国王になるとともに、ふつうの人間とは違う聖的存在になったことを意味する。・・・・・・言い換えれば、カロリング朝の成立を契機として、それまでともすれば反発しがちだったゲルマン的伝統とキリスト教的伝統とは、お互いに固く握手しだした。ともかく、フランク人の国王が、同時にキリスト教の聖者的存在になったのである。(世界の歴史9 中世ヨーロッパ 鯖田豊之 河出書房新社 1989年 P82)




【カール大帝の戴冠】 このカロリング家から出た王様がカール大帝です。768年に即位します。もともとカールというただの王様だった。12年前の756年には、西のスペインに後ウマイヤ朝が成立し、イスラーム教徒がイベリア半島(今のスペイン)に押し寄せてきています。
 ここで何とも不思議なことが起こります。


Fall of Umayyad & Charlemagne Franks



 ちょうど800年のことです。たんなるフランク王のカール王が、ここでローマに出向いていくと、そのローマ教皇が「おまえを皇帝にする」といって冠をかぶせるんです。



▼ カールの戴冠



▼ (比較)ハンムラビ法典

ハンムラビ王が、神様から法を授かっている図



 日本の天皇は冠とか別にかぶらないけれども、ヨーロッパの王は頭に王冠をかぶります。こういうのを難しい言葉で「戴冠(たいかん)」という。戴冠とは冠を頂戴(ちょうだい)することです。
 このローマ教皇がカール王に冠をかぶせて、どこの国の皇帝にしようとしたか。それが不思議なことに、滅亡したはずの「西ローマ帝国の皇帝にする」と言ったんです。これが西ローマ帝国の復活です。ここで「476年に滅んだ西ローマ帝国が復活した」という言い方をするようになります。

 ただこれは変なことで、何が復活したのか説明するのはけっこうむずかしい。でもヨーロッパ人はそう思ったんです。「あのローマ教皇が王に冠をかぶせたんだから間違いなかろう」と。でも「なぜローマ教会が西ローマ帝国の皇帝を任命できるのか」、日本人にはなかなかわからない。

 ここで教科書に書いてない裏話を言うと、このときローマ教会に伝わっていた文書に「コンスタンティヌスの定め」というのがあったんです。約500年前の3世紀のローマ帝国時代にコンスタンティヌス帝という皇帝がいましたね。キリスト教を公認した有名な皇帝です。その彼が決めたという文書が残っていたんです。
 その文書に、「ローマ教皇は西ローマ帝国の王を任命することができる」と書かれていたんです。何百年も前からそういうことをローマ皇帝が認めていたという文書が。ただこれは今となっては「偽書」だということが分かっています。捏造文書です。最近のモリカケ問題の捏造文書じゃないけれども、公文書偽造です。ローマ教会は嘘の文書をつくってそれを証明書にしていました。
 ただこういうウソの文書でも本物だと信じられてきた。だから「ローマ教皇が冠をかぶせた人は、西ローマ帝国の皇帝になれる。だから西ローマ帝国は復活した」とヨーロッパ人は信じてきたというふうになっています。
 なんとも不思議な話ですが、ここで大事なのは「ローマ教会はそんな捏造文書まで使って皇帝を生み出し、そのことによってヨーロッパの政治的な支配を狙っていた」ということです。

※ なぜ、ローマ教皇が皇帝戴冠の話をもちだしたのか。不思議に思われるかもしれない。しかし、それには確かな伝統があった。ローマ教皇座には「コンスタンティヌスの定め」という有名な文章が伝承されており、その文書によれば、ローマ皇帝を任命する権利は教皇にあるとされていたのである。後で述べるように、これは偽文書であるのだが、この時代には教皇庁で、この文書は本物であると信じられていた。(「地上の夢 キリスト教帝国」 五十嵐修 講談社選書メチエ  P162)


※ 「コンスタンティヌスの定め」によれば、大帝は「ローマ教会に皇帝の権力と栄光、力、名誉の威厳を与えよう」と願い、ローマ教皇に帝冠を含む皇帝の権標を渡した。そして、それだけではなく、ラテラノ宮殿とローマを含む帝国の西部属州を譲った。コンスタンティヌスはローマ教皇の頭上に帝冠を載せようとした。しかし、ローマ教皇は帝冠を被ることを拒んだ。こうしてローマ教皇は、自ら皇帝にはならなかったが、コンスタンティヌスから皇帝の地位を委ねられた。ローマ教皇はあらためて、帝冠をコンスタンティヌスに託した。コンスタンティヌスが帝国東方に移り、新たな都を帝国東部のビザンティウムに定め、こうしてビザンツ帝国が始まった。
 この偽文書の作者は、当時の人々によく知られていた歴史的事実に反しないように気を配りながら、実に巧みに物語を創作し、ビザンツに対するローマ教皇の優位を示そうと努めた。この偽文書によれば、このキリスト教世界での最高の指導者はローマ教皇であって、ビザンツの皇帝ではなかった。(「地上の夢 キリスト教帝国」 五十嵐修 講談社選書メチエ  P172)


 ここで起こったことは、ローマにいる教皇が、カール王というフランク王つまり田舎の王様に冠をかぶせた途端に、この田舎の王様が突然「オレは西ローマ皇帝だ」と名乗り始めたということです。
 つまりゲルマン人の王がローマ皇帝だという不思議なことが起こるわけです。これがヨーロッパという田舎で起こったことです。

 再度言うと、ヨーロッパの中心は実はコンスタンティノープルという東ローマ帝国です。ただ、これが名前を変えるところが覚えにくいところです。東ローマ帝国と言わずに、この時にはビザンツ帝国と名前が変わっています。ビザンツとは、コンスタンティノープルが昔はビザンティオンという名前だったからです。東京の昔の名前が江戸だから江戸帝国というようなものです。東ローマ皇帝はビザンツ皇帝です。こっちが実際はヨーロッパの中心です。

 


 このビザンツ帝国では、皇帝とキリスト教の教皇の関係は、皇帝が上なのです。ビザンツ皇帝は東ローマ帝国の教会を支配しています。これを皇帝教皇主義といいます。ビザンツ皇帝は、さらに西に残ったローマ教会も、もとのように支配しようと圧力をかけていきます。しかしローマ教会はビザンツ皇帝の命令に従いたくない。だから、それをはねのけようとしている。

 800年カールの戴冠が起こったのはそういう時なのです。
 そのためには、ローマ教会は政治的な後立てが必要になる。このフランク王という田舎の王様に冠をかぶせて、「そっちがビザンツ皇帝なら、こっちには西ローマ皇帝がバックについているぞ」という形を作りたかった。




 しかし、ここでは皇帝と教皇の関係がビザンツ帝国とは逆になっています。皇帝が教皇を任命するのではなく、逆に教皇が皇帝を任命しています。それは、西ローマ帝国では偽書によって「教皇が皇帝を任命していい」と信じられてきたからです。その「定め」に従って「西ローマ帝国が復活した」とします。
 これが面倒くさいのは、もともとかなり無理があるからです。無理を重ねると道理が引っ込みます。道理が引っ込んだ世界は、分かりにくくなります。

 この背景にあるのは、ローマ教皇ビザンツ総主教というキリスト教内の宗派対立があって、その対立に負けないように、ローマ教会は西ローマ帝国を復活させたということです。それでローマ教皇が、田舎のゲルマンの王であるフランク族の王に冠をかぶせたわけです。それが800年におこったことです。



【ヴェルダン条約】 この時のフランク王国は、今のフランスよりもかなり大きい。フランス・ドイツ・イタリアにまたがるような大きな国だったんですが、このカール大帝が死ぬと、彼に息子が3人いて、その3人に分割相続します。

 当時は国家は王の私的な領土だと考えられていたから、国民の同意なく分割もできるのです。この考え方は日本や中国とは違います。国家が王の私的な都合で動きます。「公」の概念が発生していない非常に未熟な地域です。中国が「天」の思想により、「公」的な国家をつくりあげていったのと大きな違いです。よくヨーロッパは、パブリックという「公」の観念が発達しているといわれますが、少なくともここではそうではありません。

 またこのことは、逆に王様と隣の国の女王様が結婚したら、その二つのことは合体して一つの国になることだってあります。15世紀に誕生したスペイン王国はこうやって誕生したものです。ヨーロッパでは近代になるまで国家は非常に私的なものです。こういった国が新大陸に乗り出していくのです。

 それでフランク王国は割れてしまう。この取り決めがヴェルダン条約です。843年です。どういうふうに三つに分裂したか。東フランク西フランクイタリア王国の三つに分裂した。西フランクの国境はほぼ今のフランスと重なります。フランスの形になった。ここでフランスができたとほぼ思っていい。次に、ドイツに相当するのが東フランク王国です。今のヨーロッパの二大国家、フランスとドイツの原形がここで出来た。さらにイタリアもです。
 その後、870年メルセン条約でさらにこの形がはっきりします。西ローマ帝国の滅亡して約400年後、ここで東がドイツ、西がフランス、南がイタリアの原型ができました。

 ではこれにどこが入ってないか。イギリスが入っていないのです。イギリスはまた別です。イギリスは島国で、「海の向こうの田舎の、そのまた田舎じゃないか」という感じです。イギリスが国になるのはあと200年ぐらい後です。イギリスはまだ統一国家にさえなっていません。
 ゲルマン人の移動のところで言ってなかったけど、4~5世紀のゲルマン民族の移動の時に、イギリスに渡ったゲルマン民族のことをアングロ・サクソンといいます。本当はアングロ族とサクソン族の2つがあったけれども、それを一つにした言い方です。アングロ・サクソンというゲルマン人の一派がイギリスに渡って行った。だからイギリス人のことを今でもアングロ・サクソンといいます。
 イギリスはこのアングロ・サクソン人による小国家が分裂している状態です。7つの国があったから、これを七王国といいます。ヘプターキーとも言います。それをどうにか統一したのが829年です。でもここはフランク王国の枠外の国です。



【東フランク王国】 中心はフランスとドイツのうち、ドイツです。ドイツは東フランク王国という。もともとはこのドイツがゲルマン人の本拠地です。そこから一部がライン川を渡って西に行って、フランスまで占領したのがフランク王国です。でも彼らの本拠地はドイツです。

 このフランク王国は、日本や中国と違って、家来たちが王を選挙で選ぶという形をとります。ヨーロッパ人は選挙をします。ギリシャ国家もそうだったですね。王が宗教的権威をまとわないところでは、王権は「世襲」にはならず、「選挙」になるところが多いようです。中国やオリエントでは、王は必ず宗教的な権威を身にまとってきました。

 選挙というと、近代的なイメージがありますが、選挙自体は国家成立以前の部族制社会の中にもあります。村のリーダーである首長とは別に、隣の村との戦争の時に臨時的にいくさのリーダーを選びます。将軍のイメージですね。でも戦争は普通はめったにないから、平和になると将軍は任を解かれます。この職が親から子へと受け継がれることはありません。

 しかし日本の王は親から子、子から孫へと受け継がれる。これを「世襲」というけど、ヨーロッパはそれとは違って選挙原理が根強い。生きるか死ぬか、そういう荒々しい戦争がしょっちゅうある地域ではリーダーは選挙で選ぶ。
 なぜか。平和なところでは、親が偉ければ、息子がボンクラでも、息子が次の王になっていく。それでも戦争がないから滅びることがないんです。しかし戦争がいっぱいあって、いつ滅ぼされるかわからないところで、親が偉かったからといって、そのボンクラ息子が王になったら、そんな国はすぐ潰れる。滅んで自分たちも殺される。

 だから王権は一代限りです。では次の王はというと、親が偉かったこととは何の関係もない。「王の息子はバカで何の能力もないから、この中で一番能力のある者を選挙で選ぼう」、そういう実力主義です。選挙というのは実力主義です。一番力の強い者を選ばないと生き残れない。そういう世界で選挙は行われます。
 カロリング朝は911年に断絶しています。

※ 西フランク国王は、911年、ロロにひきいられたノルマン人の一団に、キリスト教への改宗などを条件として、セーヌ下流域への定住を認めなければならなかった。以後、この地方はノルマンディーと呼ばれることになる。こうした混乱から一般農民を何とか守ったのは地方の小権力者たちだった。彼らは各地で城砦を築き、それを抵抗の拠点にした。農民たちは近くの城主をたより、城砦の周辺に住居を移していった。これら群小城主の自立性が高まるにつれ、国王権力はますます影を薄くし、見せかけの権力の維持さえ難しくなる。このような騒然たる状勢の中でカロリング家は、東フランク911年、西フランクが987年についに断絶した。(世界の歴史9 中世ヨーロッパ 鯖田豊之 河出書房新社 1989年 P95)



【オットー大帝】 ここで東から侵入してきた異民族のマジャール人を撃退した功績を買われたのが、936年に即位していた東フランク王国のオットー1世です。ザクセン家の人だから、この王朝をザクセン朝といいます。しかし、このあとも王家はコロコロと変わります。

※ 
ロリング家の断絶と同時に東フランクではフランケン家コンラート一世(在位911~918)が西フランクではカペー家のユーグ(在位987~996年)が新たに国王に推薦された。ドイツ王国およびフランス王国はこの時から始まる。(世界の歴史9 中世ヨーロッパ 鯖田豊之 河出書房新社 1989年 P103)

※ 主としてカール大帝の遠征によってフランク王国に組み入れられたここ(ドイツ)では古いゲルマン部族の伝統が強く、部族間の融合が進んでなかった。・・・・・・コンラート一世の権力が実際に及ぶのは、彼が部族太公たるフランケン地方に限られた。・・・・・・何人かの部族太公に振り回されているのがドイツ王権である。(世界の歴史9 中世ヨーロッパ 鯖田豊之 河出書房新社 1989年 P105)



 この人はドイツ人です。オットーという名前です。カール大帝の戴冠から約160年経った。その間に、ローマ教皇が王様に冠を被せることが、しばらく空白になっていた。これが復活します。

※ ドイツ王国初代の国王たるフランケン家コンラート一世(在位911~918)は、臨終の床で、次代国王としてザクセン家ハインリヒ一世(在位919~936)を指名した。自由選挙による無用の摩擦を避けるため、かつて対立したことのあるザクセン家に王冠をゆだねようとしたのである。これに対してハインリヒはスラブ人、ハンガリー人、デーン人などの侵入を撃退したすえ、同じく臨終の床で長子オットー一世(在位936~973)の次の国王に指名した。・・・・・・ところが、オットー一世は、父王の事業を受けつぎ、極力外敵の侵入を防止すると同時に、部族太公を抑えて、国内統一の実を上げるため、教会勢力との提携を推し進めた。・・・・・・かれは、955年にアウグスブルク近郊のレヒフェルトの戦いでハンガリー人に大勝するや、961年にはローマに遠征して、法王ヨハネス12世によりローマ皇帝に戴冠された(962)。これが神聖ローマ帝国の始まりである。東フランク王アルヌルフの死(899)後、皇帝のいなくなったヨーロッパ地域に、再び皇帝が誕生したことになる。(世界の歴史9 中世ヨーロッパ 鯖田豊之 河出書房新社 1989年 P140)


 962年にこのオットー1世が久々にローマ教皇から、ローマ皇帝の冠を受けた。被せられた。さっきも言ったけど、これを「戴冠(たいかん)」といいます。そうすると、彼がまた西ローマ帝国の皇帝になったととらえられます。だから彼はオットー大帝と呼ばれます。
 この帝国は意味合いとしては、西ローマ帝国と同じなんですが、ただこのあと何と呼ばれていくか。いつとはなく、ちょっと名前がアレンジされて、神聖ローマ帝国と言われるようになります。ローマ教皇という神の使いがからむから「神聖」なんです。

 このときの神聖ローマ帝国の構造は、さっきのカール大帝のときの構造と同じです。ローマ教会トップのローマ教皇が、今度は東フランク王に王冠をかぶせた。その二番煎じで、ローマ帝国が復活したんです。このためにローマ教会は偽書まで用意していたということは先ほど話しました。今度もそれと同じで、ローマ教会はワンパターンです。その復活したローマ帝国は名前がちょっと変わって、神聖ローマ帝国という。その皇帝が神聖ローマ皇帝です。
 なぜ「神聖」という言葉がつくのか。ローマ教皇が皇帝に王冠をかぶせているからです。ローマ教皇の存在があるから「神聖」なのです。だから「神聖」ローマ帝国という言い方は、西ローマ皇帝に対して、キリスト教のローマ教皇がその上に立っていることを暗示している言い方です。実際にこのあと、キリスト教会のローマ教皇は神聖ローマ帝国に対して強い力を及ぼしていきます。





※ カール大帝であるにせよ、オットー大帝であるにせよ、基本的には教権を政権のために利用したのであったが、これは教皇の側でも同じであり、教権を政権の上に立たしめようとした。(キリスト教の歴史 小田垣雅也 講談社学術文庫 P84) 


※ ドイツ王が、アルプスを越えてローマに赴き、教皇からローマ皇帝の冠を受けることが期待される神聖ローマ帝国としての土台が築かれた。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P162)


 これがドイツの原型です。962年の時のドイツは何というか。神聖ローマ帝国です。ローマ帝国ですが、支配領域は実質的にドイツのみです。しかしローマ帝国だから、ローマのあるイタリアも領土に加えなければなりません。その努力はしますが、うまくいきません。このあともずっとその努力は続きますが、結局うまくいきません。それはもともとの構造自体に無理があるからです。
 しかしドイツはこうやって、ローマの名前を受け継ぐ名誉ある地位を手に入れます。ヨーロッパで最も権威ある国になります。フランスじゃない。ドイツがです。イギリスはまだ問題外です。

※ 中世ヨーロッパの君主は、首都を定めず、統治領域を宮廷とともに、くまなくめぐる移動宮廷を基本としていた。その理由の一つは、王位の承認にある。王に選出されると、王国を構成するすべての人民から承認される必要があり、戴冠後も領土を巡回しながら王としての資質をつねに示しつづけなければならなかった。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P162)


 理念的には、このドイツが全ヨーロッパを支配する帝国です。フランスはその下にある王国に過ぎません。さらに、これもあとでいいますが、イギリスはそのフランスの支配下にある国にすぎません。
 これは理念的なものに過ぎませんが、20世紀になってドイツのヒトラーが目指した第三帝国というのはこれなのです。第一がローマ帝国、第二が神聖ローマ帝国、そして第三がヒトラーの帝国です。こうやってバカにできない形で理念が復活することがあります。

 ドイツ人の中には今もこの理念が息づいています。今のEU、つまり欧州連合もそういう理念の一つでしょう。しかしこの神聖ローマ帝国は、ヨーロッパを一つにまとめることはできません。そこが中国との違いです。中国は分裂と統合を繰り返しながらも、必ず一つにまとまります。今の中国も激しい内乱のあとにできた国です。
 この違いは何なのでしょうか。一つの違いは、皇帝権の上に、さらにまた別の組織があるということです。それがローマ教会です。上が二つに分裂していると、社長が二人いるようなもので、会社はまとまりません。

 悔しがったのがフランスです。「なんでドイツだ。俺たちだってフランク王国の領地じゃないか。ドイツにしてやられた。ドイツめ、いつか見返してやる」と。だからドイツとフランスは仲がこのあとずっと悪い。20世紀までずっと仲が悪いです。第一次世界大戦では、ドイツとフランスは敵同士です。第二次世界大戦でもドイツとフランスは敵同士です。



【東西教会の分裂】 ローマ教会としてはこういう政治的な後ろ盾、バックボーンが欲しかった。宗教だけでは力にならないから、軍事力を持っている国が欲しかった。そしてその国王に命令したかった。カールやオットーの戴冠は、キリスト教会が動いたもので、彼ら二人はそれに従ったに過ぎません。

 神聖ローマ皇帝という政治的な後ろ盾を得たローマ教会は、以前から対立を深めていたコンスタンティノープル教会(ギリシャ正教会ともいいますが)と、1054年に正式に分裂します。いままではぼんやりと一つの組織のイメージがありました。これが東西教会の分裂です。これは「ビザンツ皇帝の指示は受けない」ということです。ローマ教皇は自分たちの教皇は、ビザンツ皇帝の指示を受けず、自分たちで決めるようになります。これが「コンクラーベ」という選挙です。これはけっこう時間がかかります。根気よくやります。「こんくらべ」です。ここ、笑うところですよ。

 しかし一方で、神聖ローマ帝国の皇帝は「自分の皇帝位が、ローマ教皇によって決められるのはおかしなことだ」と気づく。ローマ教皇は、ビザンツ皇帝から命令されたくないし、また神聖ローマ皇帝もこのローマ教皇から命令されたくないのです。
 こういう社会トップの命令系統に混乱があるのです。それがヨーロッパです。「皇帝が上か、教皇が上か」、これがよくわからないのです。だから政治と宗教を切り離すしかないのです。しかしこの問題はヨーロッパ特有のものです。

 それで皇帝と教皇で「オレが上だ、いやオレだ」、それで対立する。
 ローマ教皇は「じゃあおまえをキリスト教会から破門するぞ、キリスト教から除外するぞ」、そういって神聖ローマ皇帝を脅すんです。
 これがローマ教皇のもつ伝家の宝刀で、教皇と対立する皇帝にとってはこれが何より恐い。これはキリスト教社会では、キリスト教徒以外を人間と認めないようなところがありますから、人間でなくなることと同じなんです。法の保護の外に置かれるのです。つまり殺されたって文句は言えなくなる。

 この感覚もなかなか日本人にはわかりませんね。どうもキリスト教社会では、キリスト教徒でないものは人間ではない、と考えられている。このことが、のちにヨーロッパが世界に乗り出していくときに、どういったことが起こるのか、ということと関係していきます。
 でもそうやって皇帝と教会が対立していく。これがヨーロッパの歴史です。日本にはこういう宗教勢力がないから、日本人にはちょっとピンときませんが、宗教とはそれほど強いものだということも分かってください。



【西フランク王国】 では冠をかぶせられそこねた西フランク・・・・・・今のフランスですが・・・・・・はどうか。これが今のフランスです。カロリング朝という王様の家も断絶して、はがゆい思いをしながらだんだんと力が弱くなる。すぐには復活できない。
 そのあと、また新しい王になった家がカペー朝です。987年です。ユーグ・カペーという人の家柄、カペー一族です。ただ王権は弱いです。



新「授業でいえない世界史」 16話の3 中世ヨーロッパ ノルマン人の活動

2019-08-26 08:36:20 | 新世界史8 中世ヨーロッパ

【ノルマン人】 この9世紀頃にまた田舎の暴れ民族が、フランク王国に押し寄せてきます。荒らしまわるといっていい。彼らをノルマン人といいます。基本的にはドイツ人です。つまりゲルマン人の一派ですが、その親戚筋です。
 400年前のゲルマン人の大移動の時にはまだ移動していなかった。400年遅れて彼らが移動し始めた。ノルマンというのは、北の人という意味です。ドイツ人からみて北にいる民族という意味です。

 今のスウェーデン一帯から海を超えて船に乗ってやってくる。彼らはおもに海賊です。その海賊が船に乗ってやってくる。舳先がクッと曲がった海賊船に乗って。
 海から川に入って、急流があると丘に登って、百人ぐらい乗れるから皆で船を担ぐ。「えっさほっさ」と担いで行く。そしてまた船を浮かべて、川をさかのぼって、村々を荒らし回る。
 これにさんざん痛めつけられていく。彼らの別名がヴァイキングです。ヨーロッパはこの海賊がこのあと500年、ずっと活動する。
 ジョニー・デップの映画「パイレーツ・オブカリビアン」というのはこの伝統です。これがのち大西洋に乗り出していく。そういうお話です。このヴァイキングの出所は、もともと北にいた人たちで、原住地はスカンジナビア半島です。今のスウェーデンあたりです。

※ ノルマン人は「ヴァイキング=海賊」というイメージが強いのですが、海運業によって沿岸部をネットワーク化し、経済・産業を振興した創造者というのが実体です。・・・・・・水上の広域ネットワークを独占したノルマン人は巨万の富を蓄積し、自らの国を築いていきます。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P73)

※ スカンディナヴィアでは、10世紀末から11世紀初めにかけて、スヴェーア人・デーン人・ノルウェー人が、それぞれスウェーデン・デンマーク・ノルウェーという統一王国を形成した。なかでもデンマーク王国では、統一をはたした王ハーラル=ゴームソン(青歯王)が960年、オットー朝の働きかけで、自らキリスト教の洗礼を受け、多神教の地域信仰からキリスト教への改宗をはたした。その息子スヴェン(双叉髭王)はイングランドを征服してデーン朝を興し、孫のクヌーズ(カヌート)は、イングランド・デンマーク・ノルウェーの王位を兼ね、北海をまたぐ海域世界に覇権を確立した(北海帝国)。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P163)

※ シルクロードの主要な商品だったは、カイコと桑が伝播してビザンツ帝国やペルシア地方で生産されるようになったことから主たる奢侈品の地位を失い、それに代わってロシアの黒テン、キツネ、リス、ミンク、ビーバーなどの高級毛皮が、バグダードで歓迎されたのです。毛皮はヴォルガ川などのロシアを緩やかに流れる「川のネットワーク」を使い、北欧のスウェーデン系のバイキング商人によりカスピ海北岸に集められ、船でカスピ海を横断して大消費地のバグダードにもたらされました。・・・・・・
毛皮取引のセンターになったのが、カスピ海北岸に建てられたハザル・ハーン国の都イティル(現アストラハン付近)でした。・・・・・・そうしたハザル・ハーン国について、アラブの地理学者マスウーディは「王も、王に仕える者も、王の民もユダヤ教徒である。ハザール人の王はカリフ、ハールーン・アッラシードの治世にユダヤ教に改宗し、イスラームとビザンティウムのすべての町からユダヤ人が王のもとにやってきた」と述べています。ハザル・ハーン国の王が、有能なユダヤ商人を呼び寄せるためにユダヤ教に改宗し、ユダヤ教を国教としたのは、東南アジアの交易の中心のマラッカの王がムスリム商人を集めるためにイスラーム教に改宗したのと同じです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P42)

※ ハザル・ハーン国はビザンツ帝国とイスラーム帝国の中間に位置していましたから。両勢力の緩衝地帯として独自性を保つ必要があり、他方でユダヤ商人を呼び集める目的もあって、740年頃、王(ハーン)のブランがユダヤ教に改宗したとされています。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P45)



【ノブゴロド国】 もう一つ。西ではなくて、東に行ったノルマン人たちはロシアをつくる。ロシアは下図のように、こんな小さいところから始まる。そしてその東に伸びていく。この土地をめぐっては戦争はないです。こんな寒いところ・・・・・・つまり今のシベリアですけど・・・・・・ここに他のヨーロッパ人は誰も興味を示さなかったから。「取りたければ取っていいよ」という感じです。


▼ノルマン人とイスラーム勢力の侵入



シベリア 世界一寒い村・オイミャコンへ



 ここがノルマン人の動きで征服されていく。ロシアも彼らノルマン人が作った国です。
 862年にまずノブゴロド国をつくる。これがロシアの始まりです。



【キエフ公国】 しかしすぐその南のキエフというところに引っ越しします。これがキエフ公国です。882年頃です。これが本格的にロシアのルーツになる。
 しかし、これがどんどん大きくなって、今や世界最大の領土をもつ国家になる。ヨーロッパ人は「こんなところは要らない」と言う。だからこのあとシベリアまで広げていく。
 もともとシベリアは白人の世界ではなく、われわれと同じモンゴロイドの狩猟民が住んでいる地域でした。ロシア人は、そこに住んでいたモンゴロイドの狩猟民と戦っていきます。そして彼らを征服していく長い歴史が始まります。しかしこのことは高校世界史では触れられません。

※【もう一つのユダヤ人】
※ 7世紀から、カスピ海の北に興ったハザールという王国があった。この国は、イスラム教を国教とするイスラム帝国と、キリスト教を国教とする東ローマ帝国に隣接しているという非常に難しい地域にあった。・・・・・・(ハザール王は)キリスト教もイスラム教も認める旧約聖書の真理を選択し、王国の宗教としてユダヤ教を選んだのであった。ハザールは、隣国両国との争いを避けるために、ユダヤ教を選んだのだ。ハザール王国について調べると、彼らは髭の赤い強いたくましい人たちだったようだ。その下に奴隷民族がいた。ロシアと蒙古人の攻撃を受けたために、王国の支配階級が宝を持ってヨーロッパに逃げた。そうして、ヨーロッパの貴族と結婚したり、最初から金融特区に住んで、ユダヤ人の彼らだけの町を作っていた。・・・・・・
 こうしたことで、今からおよそ1000年前に、血縁的にはほとんどユダヤ人と関係のない大量のハザール人がユダヤ教に改宗して、いわゆる「アシュケナージ」といわれるユダヤ人が大量に含まれることになった。・・・・・・この逃亡者の多くは、ロシアポーランドドイツなどに住み着き、のちに、ドイツのホロコーストで迫害され、アメリカなどに移住していったユダヤ人たちである。(日本を貶めた「闇の支配者」が終焉を迎える日 B・フルフォード KKベストセラーズ 2010.4月 P99)

※ 現在イスラエルにいるユダヤ人たちは、大ざっぱに言えばハザール人の血を継ぐアシュケナージ支配階級で、「本当の血統を受け継ぐユダヤ人」であるセファルディ被支配階級という構図になる。(日本を貶めた「闇の支配者」が終焉を迎える日 B・フルフォード KKベストセラーズ 2010.4月 P103)

※ 965年、スウェーデン系バイキングがウクライナに建国したキエフ公国によりハザル・ハーン国の首都イティルが占領され、繁栄の時代は幕を下ろしました。その後も細々とハザル・ハーン国は続きますが、1243年になるとチンギス・ハーンの孫バトゥの遠征軍により滅ぼされました。ハザル・ハーン国の領域はキプチャク・ハーン国に併合されます。やがてモンゴル帝国が解体期に入ると、旧ハザル・ハーン国のユダヤ人、ユダヤ教徒たちは荷馬車にテント、家財道具などを積み込み、ウクライナ経由で比較的治安のよいポーランドなどの西方地域への移住を余儀なくされました。 (ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P47)

※ ユダヤ人の新たな落ち着き先となったポーランド、リトアニアでは、有能な人材の不足に悩んでいた領主や貴族が、経済的な才覚を持つユダヤ商人を職業集団として歓迎しました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P47)

※ (ユダヤ人には)大きく分けるとセファルディアシュケナージの2系統の人たちがいます。セファルディは、もともと中東を発祥とするセム族の流れをくむ人々です。彼らは我々と同じ有色人種で、パレスチナ地方に多く住んでいましたが、かなりの人々がスペインポルトガルなどの南ヨーロッパに移り住んだとされています。ちなみにセファルディとは、ヘブライ語で「スペイン」を指す言葉です。
 一方、アシュケナージとは、ポーランドドイツ東欧ロシアに行ったユダヤ人を指します。アシュケナージは「ドイツ」という意味のヘブライ語です。金融分野のユダヤ人たちは、どちらかというとこのアシュケナージです。ロスチャイルドは(ドイツの)フランクフルト出身です。
 こうしたユダヤ人の系譜については様々な説があります。アシュケナージについては、先祖がパレスチナ出身であるという説もありますが、コーカサス地域出身であるという説もあります。カスピ海付近のコーカサス地域に8世紀頃にハザール王国というものが誕生して、8世紀、9世紀、10世紀と栄えました(彼らは、コーカシアンですから白人であり、中東を発祥とするセム族ではありません)。ハザール王国では、国王以下みなユダヤ教に改宗しました。ユダヤ教徒はユダヤ人ですから、改宗したハザール人はユダヤ人となるわけです。
 そのハザール王国は、最終的にロシアに滅ぼされ、その際にハザール王国のユダヤ人たちがヨーロッパ各地に広がりました。その人たちがアシュケナージであるという説もあります。それゆえに、彼らはロシア人を憎んでいるというのです。・・・・・・
 私はイスラエル大使館に赴任していた時に多くのアシュケナージやセファルディの人たちと接しましたが、セファルディは、見かけ上はパレスチナ人と区別がつきません。彼らの顔つきを見ると、我々と同じ有色人種の流れをくんでいると感じます。・・・・・・一方、アシュケナージは肌の色が白いので、セファルディとの違いを感じます。顔つきなどの風貌も違います。どう見ても有色人種には見えません。・・・・・・
 そして今、イスラエルの支配権はアシュケナージが握っています。ネタニヤフ首相もアシュケナージです。一方、土着系のセファルディは B 級市民と見なされていました。さらに言うなら、ウォールストリートや、ロンドンシティなどで世界の金融の実権を握っているのもアシュケナージたちです。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P106)



【フランスのノルマンディー公国】 西側ではさっき言ったように、ノルマン人がフランスに侵入する。フランスの海岸にノルマンディー海岸というところがある。
 そこに911年、族長のロロが国を作る。ノルマンディー公国といいます。ただしこれは王国ではなく、フランスの一地方領主という立場で認められた公国です。つまりフランスの一部です。日本でいえば大名のようなものです。

 つい最近・・・・・・といっても70年ぐらい前ですが・・・・・・第二次世界大戦の戦場にもなった。アメリカ軍のノルマンディー上陸作戦があった場所です。そこに国をつくる。北フランスです。ノルマン人が国をつっくたから、ノルマンディーという名前になります。



【イギリスのノルマン朝】 次はイギリスです。このイギリスに乗り込んできたのも彼ら海賊のノルマン人です。今でこそイギリス王室というのは、おしゃれで、バッキンガム宮殿に住んで、綺麗な馬車に乗ってというイメージですが、もとを正せば海賊です。
 だからエリザベス女王でも、暗殺されたダイアナ妃でも、背は170センチぐらいあって体格が良い。背が高く肉付きもよくて、しかも美人です。やわな血筋じゃない。ご先祖は海賊です。あの王家一族は気性は荒いです。このイギリス王家が現代世界に及ぼした影響は計り知れません。

 すでに800年代後半から、ノルマン人の一派のデーン人イギリス侵入が始まり、イギリスのアルフレッド王により抵抗が続けられていましたが、アングロ・サクソン人の小王国の大半は滅ぼされました。
 その後、1016年には、デンマーク王カヌートによって、イギリスは支配されることになります。まずデンマークの支配下に入ったのです。

 しかしさらに別のところから、新しい支配者が乗り込んできます。さっき言ったフランスの一大名であるノルマンディー公ウィリアムがイギリスを征服します。1066年のことです。このことをノルマン征服といいます。その戦いをへースティングズの戦いといいます。
 ブリテン島という一つの島の支配を狙って、いろんな民族がやって来て、あい争ったという感じです。異民族によって支配された国は、異民族を支配することにも貪欲です。19世紀には、逆に世界中の多くの地域がイギリスの植民地になります。


Normans Conquest of Kalbid Sicily


1066年ヘイスティングスの戦い 再現ノルマン・コンクエスト 楽しい舞台裏【英国ぶら歩き】ノルマンディー公ウィリアム1世 vs イングランド王ハロルド2世 コンクェスト



 そこからノルマン人の王朝が開かれます。その王朝をノルマン朝といいます。1066年にフランスのノルマンディー公のウィリアムが征服したんです。もとはと言えばノルマン人です。逆に支配されたのがゲルマン系のアングロ・サクソン人です。だからイギリスは少数のノルマン人が、多数のアングロ・サクソン人を支配する国になります。普通のイギリス人のことをノルマン人とはいいません。イギリス人はアングロ・サクソンといいます。

 それと同時に複雑なことに、イギリスはフランスの子分になります。フランス王の家来のフランスのノルマンディー公が、イギリスを支配するという形になったからです。神聖ローマ皇帝から見ると、子分の子分です。子分でもワンランク下です。しかしこのあとイギリスは「子分はイヤだ」という。すると、フランスは「何でだ」といって怒る。それでイギリスとフランスは仲が悪くなる。
 だから、これは後のことですが、イギリスとフランスの間には1339年から百年戦争が起こります。ドイツとフランスは仲が悪い。イギリスとフランスも仲が悪い。隣同士で仲良くすればよさそうですが、そうではない。

 でもそれは日本もあまり言えない。今の日本と中国は仲があまり良くない。日本と韓国はもっと良くない。隣同士の国というのは、歴史的に非常に仲が悪い国が多い。アジアの中の国同士がいがみ合うのは、覇権国アメリカにとって非常に都合のいいことです。こういう地域は操りやすくなるのです。
 ただ日本は、ペリーが来る以前までは、朝鮮とも中国ともけっこう仲良かったんですけどね。アメリカに負けてから、険悪な関係になった。  

 ここでメイン三国ができた。やっとイギリスができた。その前にフランスができた。ドイツができた。イギリス・フランス・ドイツ、それにイタリアも。イギリス・フランス・ドイツ・イタリア、この4ヶ国は特に重要です。英・仏・独・伊、有名な外国は日本は漢字一文字で書く習慣があります。
 
 これで終わります。ではまた。

 


新「授業でいえない世界史」 17話 中世ヨーロッパ ビザンツ帝国、カノッサ、十字軍、百年戦争

2019-08-26 08:35:59 | 新世界史8 中世ヨーロッパ

【ビザンツ帝国】 だいたいヨーロッパの1000年ごろまで行きました。ここ2~3時間で説明した地域は、アルプス山脈の北側、今でいうフランス、ドイツです。しかしこの地域は田舎です。ヨーロッパで進んだところはもっと東のほうです。そこに東ローマ帝国があります。
 西側は以前に西ローマ帝国があったけど、これは滅びました。田舎のゲルマン人が侵入してあちこちに国をつくりました。多くは滅んでいきましたが、そのなかで生き残ったのがフランク王国です。
 しかし中心は東方の東ローマ帝国です。ただこれが紛らわしいのは、「ローマを支配していないのに東ローマ帝国というのはおかしいじゃないか」ということで、この時の首都はコンスタンティノープルといいますが、それ以前はビザンティウムといったから、東ローマ帝国ではなくビザンツ帝国と名前を変えたんです。

 しかし本当の世界の中心はどこかというと、もっと東の今のイラクとかイランあたりにあるイスラーム帝国です。イスラーム文化圏がある。ヨーロッパよりこっちが栄えてるんです。
 キリスト教の開祖のキリストさんはローマ人だったんですか。キリストさんはどこで生まれたんですか。ヨーロッパではないですよ。エルサレムです。今でもよく爆弾が飛んでいる。
 ここをヨーロッパが「征服するぞ」と言って遠征に出かけた。200年もかけて遠征して、結局失敗するんだけど、この過程で彼らヨーロッパ人は「ここは進んでいる、ここはすごいじゃないか」と気づく。イスラーム社会の文化に接触して「オレは田舎者だったんだ」と気づくわけです。
 この進んだ文化をヨーロッパに運んで来るのは商人たちです。商人は地中海を船で行き来している。それがイスラーム商人ビザンツ商人です。ビザンツ商人とはビザンツ帝国の商人です。

 そのヨーロッパでは、さらに田舎の北のノルマン人という人たちが荒らし回っている、というところまで言いました。これが900年代~1000年代です。10世紀から11世紀です。

 ではその東の東ローマ帝国はどうなるか。さっき言ったようにビザンツ帝国と名前が変わります。これは西ローマ帝国が476年に滅んだあとも、約1000年間存続する。1453年まで存続します。つまりこのあともずっとある。この時のコンスタンティノープルは、今の名前はイスタンブールといいます。今のトルコにあります。1000年の都です。非常に有名な都市です。



【ユスティニアヌス帝】 また500年もどります。そのビザンツ帝国が支配した地域はどうか。西ローマ帝国が滅んだあとの6世紀、「もう1度大帝国を奪い取るぞ、復活するぞ」という皇帝が出てくる。
 これがユスティニアヌス帝です。527年から565年まで約40年。政治のことと領土のことは次に言いますが、ここで問題になるのは、日本人が不得意なキリスト教会との関係です。

 ビザンツ帝国も西ローマ帝国も、キリスト教国であるということには変わりがなかった。しかし国が分裂し、そのあと西ローマ帝国は滅亡した。では生き残ったビザンツ皇帝はというと、この人は会社でいえば本店の社長だと思ってください。この社長はキリスト教会のお坊さんの一番偉い人だって任命できる。

 しかしそのキリスト教会が今2つに分裂している。西の教会はローマ教会です。そのトップをローマ教皇といいます。もう一方の東のビザンツ総主教というのが、コンスタンティノープルにあるキリスト教会のトップです。そしてビザンツ皇帝はその両方の任命権を握っています。いってみれば、社長が東京支店と大阪支店の支店長を任命する権限をもっているようなものです。
 しかし問題は西のローマ教会です。ローマ教会は「オレは言うこと聞きたくない、独自の動きをしたい」と言っていて、ちょうど800年にフランク王カールに西ローマ皇帝の王冠をかぶせてフランク王国と政治的に結びついた、という話を前回しました。ローマ教会はビザンツ皇帝の支配下から脱して、独自に政治権力を持ちたいんです。



【皇帝教皇主義】 しかしビザンツ皇帝は、「俺は西のローマ教会に対しても命令権を持っているんだ、勝手なことはするな」と言いたい。これが皇帝教皇主義です。なぜなら、「オレは東ローマ帝国の皇帝、つまりビザンツ皇帝だから、ローマ皇帝の権限を受け継ぐのはオレだ、西ローマ帝国は滅んだんだから、その権限を受け継ぐのもオレだ、だからオレがローマ教会に命令する」と考えた。

 そのために「ローマ帝国を復活しよう」と領土を広げていくわけです。それで大征服活動をしていきます。
 先に領土からいきます。このあとのビザンツ帝国は、いったん小さくなりますが、ユスティニアヌス帝の時代の6世紀には多くの領土を復活しました。ギリシャを含めてイタリアまで。さらに広大な領土を治めた。ほぼ地中海を覆うまで。しかしこれは長く続かなかった。王様の個人的な勢いでやったからです。

 200年経って8世紀になると、本拠地以外にはギリシアの一部、それからイタリアの南の一部を領有するだけになります。さらに200年経って、10世紀頃にはますます減る。そして滅亡する14世紀になると、コンスタンティノープルの周辺だけになる。
 それでも1000年間モツんだから大したものです。日本人には意外と知られていませんが、こういうローマ帝国が繁栄していたんです。だから西ローマ帝国が滅亡してからも、ビザンツ皇帝はローマ教会に対して「オレの命令を聞け」ということをいろいろやっていきます。



【聖像崇拝禁止令】 その一つが、ビザンツ教会が726年に出した聖像崇拝禁止令です。
 「神様は人間の目ではとらえられない、捉えられないものをなぜ彫るのか、そんなものを拝んだらダメだ、像をつくったらダメだ、キリストの像を拝ませるな、それは神を冒涜することだ、これはモーセの時代から決まっていることだ」と言うんです。
 
 これでローマ教会と対立する。ローマ教会は「そんなこと言われたら困る」と言う。困る理由は何か。
「それはあんたたちのいるビザンツ帝国は文化水準が高いから、字を読める者もけっこういて、頭がいい者もいるから理屈で説明してわかるだろうが、オレたちが教えているのはあのゲルマン人だぞ、フランク王国だぞ、田舎の人間だぞ。こういう人間に理屈で説明して、キリスト教の難しい教えが理解できると思うか。何でもいいから、きれいな像を見せて拝ませる、これが一番てっとりばやいではないか。あんたの言うとおりにしたら、とても布教などできない。キリスト教の教えは広まらない」。
 そう言ってローマ教会は反発するんです。逆にいうと、ゲルマン人たちは「お粗末」に、ギリスト教に改宗させられたわけです。それでビザンツ皇帝とローマ教皇は仲が悪くなる。



【東西教会の分裂】 この聖像問題がネックになって、もともとビザンツ教会の支店みたいなものだったローマ教会が、独立して別会社になる。決定的なのが、1054年東西教会の分裂です。
 ローマにある西のローマ教会と、コンスタンティノープルにある東のギリシア正教会が正式に分裂する。これでキリスト教会は2つになったんです。

 今のキリスト教は3つあります。1つはローマ・カトリック教会、2つ目はギリシア正教会、そして3つ目はこの500年後に出てくるのがプロテスタントという新しい宗派です。そのキリスト教のなかで、我々日本人に一番なじみの薄いキリスト教は、実はこのギリシア正教会です。今はその代表格がロシアです。ロシアはギリシア正教会を受け入れたキリスト教国です。
 「ロシアは今やっているビザンツ帝国とは全然場所が違うじゃないか」と思うかも知れませんが、1000年後にこのビザンツ帝国が滅ぶときに、ビザンツ皇帝の姪を嫁に迎えて「オレがその後継者だ」と名乗るんです。それはあとで言います。

 この東西教会の分離の何十年かあとには、西ヨーロッパが、ローマ教会の呼びかけによって、胸に十字架を縫い付けて征服活動に行く。目指すはエルサレムです。キリスト教の聖地、キリストが生まれたところを征服しに行く。この軍隊を十字軍といいます。前に言ったように200年かけて、何回も何回も行きますが、行ったあげくに失敗する。
 しかしその間に「オレたちは田舎者だった」と気づくんです。「もっと進んだものがあるんだ。オレは知らなかっただけなんだ。早くマネして取り入れよう」となります。

 そのビザンツ帝国は1453年に滅ぼされます。東隣に隣接するイスラーム教の国、オスマン帝国によってです。ビザンツ帝国が滅亡すると、それと同時に残された「ギリシア正教会を受け継ぐのはオレだ」と名乗り出たのがモスクワ大公国です。これがのちのロシアになります。

 十字軍で西ヨーロッパが征服しに行ったところはエルサレムです。ではエルサレムは、この時誰が支配しているか。イスラーム世界になっています。キリスト教の聖地をイスラーム教徒が支配している。
 実際には、その中にキリスト教徒もいっぱいいるんですが、イスラーム教は一神教のなかでも他宗教には寛容で、大きな混乱はなく平和は保たれていました。しかし、この十字軍で本格的に血が流れます。



【封建社会】 この頃の西ヨーロッパはもともと未開の土地で、赤ずきんちゃんがいてオオカミがいる。そういう森に覆われたところを、ちょこちょこ開墾しだしていった。森の木を切り倒していった。

 だんだん農地が広がっていき、それに伴って食糧が増産され、田舎のヨーロッパがじわじわと・・・・・・こういうのは目立ちませんがボディーブローのように効きます・・・・・・力をつけて行った。
 そういった中で田舎の親分さんが自分の土地を広げていくと、だんだんと王様の命令を聞かなくなる。王に税金を払わない。王様の役人が農地を検査しに行くと「帰れ」と追い返す。「オレは検査なんて頼んでいないぞ」と追い返す。

 こうなると国の中に別の独立国ができたようなもので、こういう領主ばかりになると王様が困りだす。
 田舎の親分さんは王様の命令に対して、「王様がなんだ、あさっておいで」と役人を追い返すんです。自分の領地に立ち入らせない。
 こういうのを不輸不入権といいます。不輸というのは税金払わない、輸送しないということです。不入というのは検査官を立ち入らせない、追い返すということです。こうやって田舎の親分さんの私有地が成立していく。こういう領主の私有地のことを「荘園」といいます。



【ローマ教皇の隆盛】 ではローマ教会のことに行きます。西のキリスト教会のことです。さっきギリシア正教会のあるビザンツ帝国のことを言いました。1054年に正式に東西教会が正式に分裂したということはギリシア正教会のところで言いましたが、それは同時に西のローマ教会が正式に独立したということです。
 
 これがローマ・カトリック教会です。一般にカトリックをはずして単にローマ教会といいます。宗派でいうとカトリックです。こちらも自分の力を大きくしようと必死です。
 一方で、田舎の親分さんも、王様に税金を払わなくていいように必死です。さらに王様も「このままでは誰もオレの命令を聞かなくなる」と自分の力を引き上げるのに必死です。

  このなかでまず対立するのは、この王様とローマ教皇です。
 田舎の西ヨーロッパでの中心はドイツです。ただドイツとはいわない。神聖ローマ帝国といいます。しかしローマを支配してもいないのに、神聖ローマ帝国と名乗っている。「それはおかしいじゃないか」と言われる。だから「そのうちにローマ支配をしますから、ローマ支配をしますから」とずっと政策の中心は、ローマ、ローマでいく。でも結局うまくいかずにローマを支配することはできません。



【カノッサの屈辱】 この時の皇帝をハインリヒ4世といいます。11世紀のドイツの王様です。というより正式には神聖ローマ皇帝です。王にはいろいろランクがあって、皇帝のワンランク下が王様です。皇帝は王様より偉いんです。それに対して、ローマ教会のボスは教皇という。名前はグレゴリウス7世といいます。この2人がケンカする。

 なぜケンカするか。帝国の領内にある教会のお坊さんを誰が任命するかという問題です。ローマ教皇は「教会のことだから当然オレが任命する」と言う。それに対して神聖ローマ皇帝は「いや教会は土地をもっている領主だからオレの子分だ、だからオレが任命するんだ」と言う。
 その任命権をめぐってお互い争って対立する。そしたらローマ教皇が神聖ローマ皇帝に対して「それならおまえは破門だ」と言う。破門というのは、キリスト教徒とは認めないということです。

 これは我々日本人にはあんまりピンと来ない。例えば、日本人が「おまえを仏教徒とは認めない」と言われても、「いいもーん、認めてくれなくても、オレは勝手に仏様を拝むから」ですむけど、キリスト教社会の中でキリスト教徒ではないと名指しされた人間は、ほとんど「人間ではない」と言われたのと同じです。
 人間ではない者を、皇帝の子分の大名たちが、皇帝として拝めるわけがない。皇帝にとってローマ教皇からの破門はそれだけ恐ろしいものです。破門されて「おまえはキリスト教徒ではない、だからキリスト教の仲間に入れない」と言われたら、ますますこの皇帝は孤立していく。そうすると子分の領主が誰もついてこなくなる。

  こういう形で神聖ローマ皇帝に対して、ローマ教皇と地方の領主であるドイツ諸侯が手を組むわけです。この皇帝の子分であるドイツ諸侯は「もし破門が解除されなければ、お前を皇帝とは認めない」と決定する。皇帝はこれが怖くて怖くて、もうローマ教皇に謝罪するしかない。
 孤立した皇帝は謝りに行った。謝った場所がイタリア北部にあるカノッサというところです。このときのローマ教皇グレゴリウス7世がたまたまそこに滞在していたんです。雪降る中にわざわざ出向いて行って「謝りますからどうぞ中に入れてください」と門の外で言う。しかしローマ教皇は「オレは会わない」と言う。皇帝は三日三晩、雪のなかで裸足で立ち尽くした。そして四日目に「そこまで言うなら仕方ない、会ってやろう」となった。そこで皇帝は教皇に頭を下げた。皇帝がです。それでやっと破門は取り消しになった。それでどうにか皇帝の座を維持できた。

 これが1077年カノッサの屈辱です。このことを皇帝のハインリヒ4世は一生忘れない。
 こうやって皇帝と教皇を比べると、日本人の感覚では皇帝が偉く見えますが、ヨーロッパでは教皇が強い。キリスト教のボスが皇帝よりも強い。そのことを天下に知らしめることになった。

※(●筆者注) 古代日本では、中央政府から地方に派遣された国司の最初の仕事は、まず地方の神々を祭ることであった。天皇家の神が地方の神々のうえに君臨するという形を取ってはじめて地方支配が可能であった。このように古代においては中央政府による地方支配、つまり国土の統一というのはまず宗教権の吸収という形を取る。 各々の地域で祭られていた神々を中央政府が地方に代わって祭るということが、地方支配の第一歩だった。
 日本は多神教の国であるから、アマテラスと地方の神々の共存をはかるには、アマテラスを頂点とする血縁関係のなかで神々の序列化を行うことにより、アマテラスと地方神との共存をはからなければならなかった。地方神を滅ぼすことなくあくまで共存の道を探ったことが日本の古代政治の大きな特徴である。それまでの地方豪族を滅ぼすことなく、彼らにも生きる道を残し、郡司という地方のかなめとなる官職を与えた中央政府は、地方の郡司たちの神々を決して滅ぼそうとはしなかった。
 ところが西洋の場合だいぶ事情が違っている。 ローマ帝国が崩壊した後ゲルマン民族が跋扈した西ヨーロッパには、政治的統一よりも先にキリスト教が浸透していった。ゲルマン民族は固有の神々をもっており、部族ごとにそれら異教の神々をを祭る寺院をもっていたのだが、彼らがキリスト教に改宗するとそれらの寺院はそのままキリスト教の教会となっていった。多神教の日本では神々を統合するのに多くの時間を要したが、一神教の場合には宗教の浸透と同時にすべてが同じキリスト教の神となり、神々の統合に苦労することはなかった。
 当時西ヨーロッパを支配していたフランク王国は、軍事活動により領域を広げたが、まだ地方支配のための組織は十分でなく、地方がまたすぐにバラバラに分解していく危険をはらんでいた。そこで考え出されたのが、当時地方の拠点として力を拡大していたキリスト教会をフランク王の統制下に置こうとするものであった。そして地方のキリスト教会を通して地方政治を行おうとしたのである。
  日本でもヨーロッパでも政治的統一をねらうものは、その前に宗教的統一を手に入れる。日本では天皇から派遣された国司が、地方の神々の祭祀権を手に入れたが、それと同じようにヨーロッパでは、フランクの王が地方のキリスト教会の司教の任命権を握ろうとした。どちらも宗教的統一を実現することが政治的統一につながることを理解していた点では共通している。このように王権と宗教は切っても切れない関係にある。
 ところがここに新たな問題が発生する。 多神教の日本では、アマテラスを祭る伊勢神宮が全国の神社を傘下におさめて全国支配をねらうようなことはなかった。しかし、キリスト教はローマ教会という組織をもち、地方の教会はすべてこのローマ教会のもとに支配されなければならない。
 この状況は、神聖ローマ皇帝とローマ教会の教皇が、地方のキリスト教会の支配権を巡って相争う事態になった。これが叙任権闘争といわれるものである。この闘争が神聖ローマ帝国(ドイツ)の全国統一を阻んでいくことになる。
 その原因は一神教と多神教の違いにある。一神教では、ローマ教会という宗教組織そのものが、王権と競合するかたちで、王権とは別に政治的統一に乗り出そうとする。そのことは典型的な一神教であるイスラーム教が大帝国を作りあげたのを見るとよく分かる。その政治指導者はカリフであるが、そのカリフは同時に宗教指導者でもある。
 ヨーロッパの歴史からいえることは、宗教的統一に失敗した国は、政治的統一にも失敗するということである。政治的統一は、宗教的統一と一体のものである。
  日本は多神教であり、地方ごとに崇める神が違うという地方分権的な要素をもちながら、アマテラスを中心とする神々の共存という独自な発想によって政治的統一が行われた。


 このローマ教皇の絶頂期が、このあとの12世紀です。1100年代インノケンティウス3世の時です。何世と言っても王様じゃない。ローマ教会のボスです。彼のときが全盛です。
 「皇帝は月、教皇は太陽」と言われます。「オレが太陽だ、皇帝は月のようなもんだ、俺がいなければあいつは輝けない」と彼は言ったといいます。 



【十字軍】 その間、さっき言った西ヨーロッパという田舎がエルサレムを征服しに行く。これを十字軍といいます。エルサレムはイエス・キリストさんが生まれた所、キリスト教の聖地ですが、そこを今イスラーム教徒が支配している。それを奪い返しに行くのです。
 何のためか。「キリストの栄光のため、神の国を作るため」。それで人を殺すんです。さんざん殺します。
 殺し方はキリスト教徒のほうがひどい。イスラーム教徒はそこまでムチャクチャに人を殺さないけど、キリスト教徒は無残に殺します。
 コロンブスがアメリカ大陸を発見した後などは、アメリカ大陸の現地人は悲惨ですよ。アジアも悲惨ですよ。日本はすんでのところで植民地にならなかったけれども。

  十字軍の目的はキリスト教にとっての聖地、エルサレムを取り戻すため。
 この時には・・・・・・これもあとで言うけど・・・・・・セルジューク朝というイスラーム帝国が攻めて来ている。
 このエルサレムはイエス・キリストの生まれた場所です。イエス・キリストはローマ人じゃない。だからここを取り戻しに行った。この「十字軍をやるぞ」と言ったのが、1095年です。

 キリスト教会の会議のことを、なぜか公会議といいます。これもまたわかりにくい。公の会議とは何かな、国会かな。いやキリスト教の会議です。
 これはローマ教会のボス、つまりローマ教皇が招集するんです。「会議を開くぞ、キリスト教徒は集まれ」と言う。こう呼びかけたのがローマ教皇ウルバヌス2世です。キリスト教徒が会議を開いて何を決定したか。「戦争するぞ」ということを決定する。
 そして大名たちや王たちに「戦争にいこう」と呼びかける。十字架を付けて。「これが神の栄光のためなんだ」と言って。どんどん殺していく。十字軍というのは征服軍です。

 これを命令したのは皇帝じゃない。まして王でもない。キリスト教会の教皇です。「皇帝よりもオレが上なんだ、オレに命令する権利があるんだ」と言って戦争さえも行っていく。「神様のためだ」と言って戦争を正当化するんです。一神教世界ではこういう戦争の正当化がよく起こります。
 これが200年も続きます。何回も何回も、何十年に一度ずつやっていくんです。しかしその結果は、無残に失敗します。


十字軍『鋼の騎士団』



【歴史ミステリー】秘密結社の元祖・テンプル騎士団 歴史編



※ 民衆十字軍はラインラントでユダヤ人を攻撃した。ユダヤ人は皇帝や司教の保護のもとで平和裏に暮らしていたが、当時の人々には、イスラーム教徒同様の不信心者と思われていた。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P173)



 【商業の発達】 ただこの間、さっき言ったように、ヨーロッパ人は「オレたちは田舎者だ、もっと進んだ世界があった」と気づく。
 まずそこに商人が乗り込んでいく。もっとも利益を得たのが北イタリア商人です。なかでもヴェネチア商人などはがっぽり儲ける。


Fall of Constantinople (Fourth Crusade)



※ 遠隔地間交易を担う商人の大部分はユダヤ人イタリア人であった。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P174)

※ イスラーム商人が支配する地中海世界では、十字軍運動を契機にイタリア諸都市の商業活動が活発になった。商業とともに起こってきたイタリア金融業の成長には、手形、小切手などを普通に使っていたイスラーム商人の影響が大きい。(知っておきたいお金の世界史 宮崎正勝 角川ソフィア文庫 P37)


 商工業が発達していく。商売人たちが力を蓄え仲間を組む。これをギルドといいます。今でいう商工会議所みたいなもの、商人の連合会みたいなものです。
 そして征服活動をしている間に、田舎のヨーロッパにお金が入ってくる。お金は人間の発明です。お金が流通する社会というのは、かなり高度な文明です。そういう社会でしかこれは成り立たない。ヨーロッパはやっとこの12世紀ぐらいに、地方にもお金が回りだした。

 ここまで200年かかる。11世紀から13世紀まで200年です。何回も、何回も、十字軍は7回もやる。個別にはもう見ません。200年間これが繰り返し続くんだということです。
 その200年の間にヨーロッパが発展しだす。戦争によって多くの人は苦しみますが、その一方で富を蓄える人もいます。彼らが蓄えた富によって、貨幣経済が発達しだす。

※ 十字軍以後、ヨーロッパではキリスト教の倫理感が急速に浸透することになり、商人たちの間で利子を取ることを忌避する傾向が強まりました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P68)

※ 1215年の第4回ラテラン公会議では、支払い期日を守らない債務者によって債権者の損害が発生した場合、利子が認められるとされました。これが教会法の抜け穴となります。・・・・・・人々は資金の貸し付け時に、極端に短い返済期限を設定し、それ以降の期間についての返済の遅延を延滞利息として計算する、という方法をとりました。・・・このような手法を駆使し、銀行業で華々しく成功する事業家一族が次々に登場します。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P79) 



【農民の自立】 その一方で地方の封建領主は潰れていきます。そうすると・・・・・・それまで田舎の西ヨーロッパの農民は農奴といってほとんど奴隷と変わらなかったんです・・・・・・こうやって封建領主が力を失うと、この農民たちが力を持ちだす。勤勉に働くとお金を貯められる。お金を貯めて自分の土地を買ったら農奴身分から解放される。



【ドイツ】 では個別に見ていくと、田舎のヨーロッパの中心はドイツであった。正式には神聖ローマ帝国といいます。しかしここの皇帝とは名ばかりです。それほど力はない。なにせカノッサの屈辱で、皇帝が裸足になって三日三晩、「ごめんなさい」と言い続けないと、王でいられなかったような皇帝だから。
 
 その300年後ぐらいには、皇帝を出す家は、ほぼ家柄が決まっていく。これがハプスブルク家です。ハプスブルク家の皇帝が、だいたい親・子・孫とずっと続いていく。なぜこうなったか。強かったからじゃない。一番力がなくて無害だったからです。わざと弱い王を立てた。
 しかしこのあとハプスブルク家は、300年の間に力をつけていく。あれよあれよという間に。このあとも出てきます。ドイツはハプスブルク家です。神聖ローマ皇帝はハプスブルク家といいます。



【イギリス】
 今度はイギリスです。9世紀以降ノルマン人による侵略が続いています。
 1066年に、すでにフランスに領土を確保していたノルマン人でフランス貴族となっていたノルマンディー公ウィリアムが乗り込んできて、イギリスは征服されます。この征服をノルマン征服といい、そのイギリス王朝をノルマン朝といいます。これはすでに言いました。
 


【マグナ・カルタ】 ノルマン朝以後、13世紀、1200年代のジョン王は、フランスとケンカします。当時イギリスはフランスの中に領地を持っていて、イギリス王はフランス王の家臣であるという関係だった。
 しかしジョン王はフランスとケンカして、その領地を全部奪われてしまう。すると家来たちは腹を立てて「おまえの言うことなど聞けるか」と逆に王に対して命令する。「これだけのことを守れ」と。家来がですよ。家来が王様に要求する。この要求をマグナ・カルタといいます。1215年のことです。

 前に言ったように、イギリスの王様は、フランスからやって来たノルマン人です。でもイギリス人はアングロ・サクソン人です。これは顔は似ていても、日本人と中国人ぐらい違う。つまりイギリス人にとって、王様は「よそ者」なのです。今のイギリス王室が、なぜ国民に「親しみの持てる」王室をめざそうとするか。王室がよそ者だからです。国民がそっぽを向くと王室は維持できないのです。このイギリスの構造は、400年後に、イギリス国王が国民によって殺されるところまで行きます。


 マグナというのは大きいという意味です。カルタは約束です。これを漢字で書くと大憲章といいます。大憲章の憲は、憲法の憲なんです。憲法のルーツはここにあります。憲法とはバカな王に対して、「バカな事をするなよ」と家来が王に要求したものです。上から下に命令するのではないです。逆に下から上に要求したものです。これが憲法です。だから「こういうことするな、こういうことするときには、会議を開いて国民の意見を聞いて、その承認を受けろ」と、そういう要求をしている。

 日本人の多くは、日本国憲法を「上が下に」与えたものだと思っています。自分たちが守らなければならないものだと。これ違いますよね。憲法は「下から上に」要求したものです。権力はよく腐敗します。そうならないように守らなければならないことをしっかり書いて、政府に要求したものです。憲法を守らなければならないのは、まずは王なのです。だから王は憲法の抜け道を常に探します。憲法九条の問題はまさにそうですね。
 「税金を上げる時には、オレたちの了解をもらえ、勝手に上げるな」、これがマグナ・カルタです。これが憲法の原型になっていく。貴族が王に「勝手に税金を上げるな」という。まずはお金のことです。だからこの国は基本的にお金がない。勝手に税金を上げられないからです。

 ではなんで稼ぐか。これが海賊なんです。ノルマン人自体が海賊だから海賊行為はお手のものです。海賊で何をするか。海を渡ってどんどん植民地をとる。海賊は植民地をつくる。だからこの小さな島国はつい100年前まで、世界最大の植民地帝国を築いていた。大英帝国です。グレートブリテンです。アメリカの前の世界の覇権国はイギリスでした。
 もう一つは植民地からの奴隷で稼ぐ。アフリカ人をアメリカに連れて行って売り飛ばす。1人あたり1000万ぐらいかな。奴隷はロボットと同じぐらい高価です。どんな精巧なロボットでも「コーヒー沸かせ」と言ってもできない。これが人間の奴隷だったらやってくれる。だから奴隷はものすごく高価です。だから高価で売り渡す。人間が人間を売り渡すんです。
 もっと先のことを言うと、これでお金を儲けて、そのお金で産業革命が起こります。奴隷貿易で稼ぐのです。あこぎな話です。話が先に行きすぎました。話をもとに戻します。

 この時の貴族の要求は「議会を開け」ということです。とにかく王に「議会だ、議会だ、俺たちの意見を聞く場所を設けろ」と言う。議会は、王が下の者の意見を聞く場です。

※ 1179年と1215年のラテラノ公会議で、キリスト教徒とユダヤ教徒の隔離が法的に決議されて、13世紀以後にドイツではユダヤ教徒の強制隔離が進み、1290年にはイギリスのエドワード1世がユダヤ人追放令を出した。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P69)



【百年戦争】 しかしイギリスはフランスとの仲が悪い。
 ちょうどフランスがカペー朝からヴァロア朝に王家が変わった。そこで王位継承をめぐってイギリスとフランスの間で戦争が起こる。100年間も。だからこれを百年戦争といいます。1339年からです。ヨーロッパは戦争だらけです。百年戦争、三十年戦争などザラです。

 日本だって「関ヶ原の戦いとかあったじゃないか」と言って、関ヶ原の戦いが100年も続いたと思っている人がいます。これはたった1日で終わります。もっと言えば半日で終わる。日本はたった半日で300年の平和を維持します。しかし、ここでは百年戦争です。
 日本は平和が基本です。例外的に戦争がある。ヨーロッパはその逆です。戦争が基本です。例外的に平和がある。百年戦争は英仏間の戦争です。英はイギリス、仏はフランスです。

※ (ロンドンの)シティとは、14世紀にロンドンの1区画に建造された、イングランド銀行をはじめとしたイギリスの金融機関が密集する城塞都市である。シティには、有事に備えて、イギリス政府と同格の行政機能が与えられていた。いわば独立した「都市国家」に近い区域なのだ。(マネーカースト B・フルフォード かや書房 2018.5月 P51)


 最初はイギリスが有利でしたが、これを跳ね返したのがフランスの16才の少女だった。ジャンヌ・ダルクという16歳の田舎少女が出てきて、フランス軍を率いてイギリスに戦いを挑む。そして勝つ。
 この話は不思議です。多分に脚色されています。彼女は、最後は魔女裁判にかけられて火あぶりの刑で死ぬんです。

※ これはイギリスの撤退が政策的に進められていく中で、一種の話題作りと戦意高揚のためにでっち上げられたフランスの広告戦略であり、ジャンヌ・ダルクはそれに利用された広告ガールに過ぎないのが実体でしょう。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P123)


【歴史ミステリー】秘密結社の元祖・テンプル騎士団 伝説編


 
 これでフランスがイギリスに勝ちます。終わったのが1453年です。このことでイギリスはフランス国内の領地を失い、フランスとははっきりと別の国になります。それまではイギリスはフランスの子分でした。
 この戦いの中心地はフランドル地方です。フランスみたいな名前ですが、今のベルギーです。オランダの南にある小さい国です。でもここはけっこう豊かです。狭いけど、お金になる地域です。フランスもイギリスも本音ではここが欲しかったのです。

 ここが何をつくっているかというと、ウールです。ウールというのは毛織物です。
 我々が着ているのは木綿です。でもヨーロッパには木綿がないんです。だからこのウールに頼るしかない。これがこの時代の衣料品事情です。その生産地がフランドル地方で、これで儲けている豊かな地域です。

※ 百年戦争中、非常に興味深い現象が起こります。戦場となったフランドル地域を離れて、フランドル毛織物業者が大挙してイギリスへ引っ越しをし始めます。戦争によって経済活動が阻害され、原料の羊毛が安定的に入手できない状況に追い込まれたフランドル毛織物業者たちは原料の生産地であるイギリスに海外移転します。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P121)

※ (十字軍運動の中で)頭角を現したのが、銀の取引で王と諸侯に対して担保をとる前貸しにより利益を上げた(イタリアの)ロンバルディア人だった。ちなみに彼らの一部は、14世紀にロンドンのシティに移住し銀行家として活躍した。ロンドンの金融の中心ロンバード街の名の起こりは「ロンバルディア」にある。(知っておきたいお金の世界史 宮崎正勝 角川ソフィア文庫 P37)

※ ヨーロッパ最古のアラビア数字の使用は、10世紀のこととされる。イスラーム世界を媒介にしてインドの記号が移植されたのである。
  イスラム世界に起源を持つ簿記は、1340年にジェノバで「複式簿記」として定着した。(知っておきたいお金の世界史 宮崎正勝 角川ソフィア文庫 P41)



【黒死病】 この後の衣料品事情について触れておきます。
 木綿がないと、真夏でも毛糸を着ておかないていけない。だから汗で臭い。木綿がない時代に、上質なウールはなくてはならないものです。
 しかしヨーロッパ人がアジアに行って涼しい木綿を知ると、これが欲しくてたまらない。しかしヨーロッパでは作れない。気候が合わずに栽培できないんです。これをいかに安く仕入れるか、それが課題になる。この仕入れ先がインドです。インドは木綿の産地です。

 これに目をつけたのがイギリスです。こういった細かいところに、近代に結びつく要素があります。
 毛糸しかなければウールで満足していたけど、それは木綿を知らないからです。夏に毛糸なんか着ていたら、日本人はバカだと思う。「あんなのをよく着るぞ」と。しかしそのウールしかないわけです。このウールは洗うと縮むので、なかなか洗うことができません。
 しかも彼らは風呂にはいりません。ヨーロッパでは、なぜ香水が流行るか。彼らは不衛生で臭いからです。夏に毛糸を来ている人には臭くて近寄れない。香水はその臭い消しです。日本人は毎日風呂に入る。だから香水なんか本当は要らないのです。サングラスといっしょで、青い目のヨーロッパ人には光を防ぐサングラスは意味がある。しかし光をさえぎる黒い目の日本人には意味がありません。それといっしょで、香水は日本人には意味がない。
 それにトイレがない。どうするか。オマルの生活です。用を足したあとは、二階からそのまま捨てる。「オーイ、どけどけ」と言って、「バシーッ」と道端にアレを捨てる。だから中世のヨーロッパの都会の道ばたは糞尿だらけです。

 中世のヨーロッパの都会は、お洒落だというイメージがありますが、これがヨーロッパの都市の実体です。この時代の都市は我々の想像を絶する汚さです。衛生的に劣悪です。

 そこで何が流行るか。伝染病です。ペストです。真っ黒に皮膚がなるから黒死病といいます。これでとんでもない数の人が死にます。


中世に暮らす人の一日



※ ペスト1346年に黒海とカスピ海の近くで発生した。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P176)


※ (ペストの流行は)ユダヤ人に対する暴力に結びついた。ユダヤ人迫害は中央ヨーロッパ・西ヨーロッパ中に広がり、多くのユダヤ人共同体を破壊した。虐殺から逃れるため、多くのドイツのユダヤ人ポーランドへ移住した。権力者は高額納税者としてのユダヤ人を歓迎した。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P176)

  これで終わります。ではまた。


新「授業でいえない世界史」 18話 中世ヨーロッパ バラ戦争、レコンキスタ、ロシア

2019-08-26 08:31:32 | 新世界史8 中世ヨーロッパ

 前回はイギリスの百年戦争まで行きました。1339年から1453年、約百年間、本当は百年以上です。イギリスフランスの戦いです。英仏と書いています。
 このイギリスとフランスがちょっとねじれているのは、イギリスから見ると、イギリスの領土はフランスにもまたがっていたんです。今はイギリスとフランスは別の国です。しかしこの時はイギリスの領土がフランスの1部にまたがっていた。
 これは正確に言うと、フランスの王様の子分のノルマンディー公というフランスの大名が、海を越えたイギリスを征服してそこを領地にしたのです。だからフランスから見ると「イギリスはオレの子分だ」ということになる。それが原因で、100年もかけて戦ってる。
 おまけとしては16歳の少女がフランスを勝利に導いた。有名な少女です。これがジャンヌ・ダルクです。最後は火あぶりいで殺されましたけれども。

 この14世紀は、もう一つ、ヨーロッパ人が3人に1人死ぬ。人口の3人に1人が死ぬということは、今の日本の人口からいうとどのくらい死ぬのか。日本人の1億2000万の3分の1というと、4000万人が死ぬ。恐ろしい死に方です。
 これが伝染病の黒死病、つまりペストです。ヨーロッパの都市は非常に不衛生であった。尾籠な話までしました。トイレがないから、どんどん二階からアレを捨てていた。ヨーロッパの中世の町は不衛生きわまりない。だから疫病が流行ります。
 ヨーロッパの中世のお城や都市というと、日本人はメルヘンチックでかわいいお姫様が住んでいるようなイメージばかりが強調されますが、それはそれでいいとしても、それはお伽話のことであって、ここでやっているのはそんな世界ではありません。そこを勘違いすると歴史の意味まで変わってしまって結局分からなくなります。



【バラ戦争】 この百年戦争がやっと終わったかと思うと、イギリスはまた30年間にわたって国内で戦争します。これをバラ戦争といいます。1455年から1485年です。
 15世紀のイギリスは戦争に明け暮れます。イギリスはもともと海賊の国です。ノルマン人の別名はバイキング、海賊です。のちにアメリカ大陸を見つけたらそこでも海賊をやる。王様自ら海賊を雇って国家プロジェクトを行う。

 この40年間の国内戦争をなぜかバラ戦争という。今までの王家はランカスター朝といいます。それが百年戦争で負けて立場が悪くなると、皇位継承問題で「おまえ、やめろ、オレが代わりに王になる」といったのがヨーク家です。ではバラというのはなぜか。
 日本でも家紋がある。家の紋章です。天皇家は菊の紋とか。私のような庶民の家にも家紋はあります。ヨーロッパにもあったんです。ランカスター家の家紋は赤いバラだった。ヨーク家の家紋は白いバラだった。どっちもバラだから誰が名付けたのか、バラ戦争です。一種のシャレです。バラの花がいっぱいあって、華麗な戦いのようなイメージが起こるかも知れないけど、全然華麗じゃない。凄惨な戦いです。



【フランス】 今度はイギリスと戦ったフランスですが、フランスも1328年までカペー朝が続いていましたが、それがヴァロア朝に変わります。王家が変わります。
 この王位継承に異をとなえたのがイギリスです。そしてそこから起こったのが百年戦争です。ちょっと順番が逆になりました。
 この百年戦争には、どうにかフランスが勝った。イギリスの領地があったフランスの国内からイギリス勢力を追い出して、フランスは国内統一に成功していく。

 それからもう一つは、イギリスにも議会が出てくるように、フランスにも三部会という議会がある。これは身分制議会です。一番偉いのが王とお坊さん、次に貴族、その次が平民。身分ごとに議会を持っている。
 この辺の感覚も日本人にはちょっとわかりにくいですね。ヨーロッパは日本と違って強い身分制社会です。これも王に要求をつきつける場所です。議会をもっているかどうか、これは日本との大きな違いです。

 議会は戦争のリーダーを選ぶためのものです。ギリシアでも言ったように、民会は戦士の集会です。そこで話し合って、選挙してリーダーを選ぶんです。議会のあるところ選挙があります。



【レコンキスタ】 イベリア半島というのは今のスペインです。スペインがある半島をイベリア半島といいます。
 ここはこの時代から500年くらい前に、南のアフリカからキリスト教徒でない人たちが攻め上がって国をつくっていました。それがイスラーム教徒の後ウマイヤ朝です。
 スペインはもとイスラーム教徒の国だった。紀元1200年ころまで。南のアフリカからジブラルタル海峡を渡って、イスラーム教徒が乗り込んできてイスラーム教徒の国になった。

 そこにキリスト教がじわじわと勢力を盛り返して、北からキリスト教徒が圧力をかけてきます。そういうふうにイスラーム教とキリスト教が対立している地域です。このほかにユダヤ教徒もいました。
 イベリア半島には、イスラム教ユダヤ教キリスト教こういういろいろな宗教がありました。この中で力を持ち出すのがキリスト教です。
 キリスト教は自分とは違った宗教の共存を許しません。「ここは全部キリスト教国にするんだ、異教徒は追い払らおう」という。彼らはこれを、追い払い運動とは名づけないで、国土を回復する運動という。回復するというわりには、ここが全部キリスト教の国になったことはないんですけど、遠いローマ帝国の時代にはキリスト教国だったということになっています。だから国土回復運動といいます。これをレコンキスタといいます。


スペインの世界遺産「古都 トレド」(天然の要塞都市) 



 でも中身は異教徒の排除です。キリスト教以外は認めないということです。「キリスト教徒以外は人間じゃない」、こういう発想をする。キリスト教徒以外は人間じゃなかったら犬猫といっしょです。だから奴隷にしてかまわないという発想になる。キリスト教徒ではない黒人を、アフリカから奴隷として連れて行って何とも思わない。そういうことに繋がっていきます。

 さらに複雑なのは、ここにも多くのユダヤ教徒が多数いたことです。ユダヤ教徒はこれから約1000年前に国を失って、世界中に離散し・・・・・・これを英語でディアスポラといいますが・・・・・・国を失ったままユダヤ教の信仰だけ持ち続けている人たちです。

※ ムスリム・スペイン社会へのユダヤ人の進出は、後ウマイヤ朝(756~1031年)の統一王朝時代に盛んになり、その後半から黄金時代を現出する。首都のコルドバやトレド、セビリャにはユダヤ人街が発達した。この社会では、これまでにない新しいタイプの指導者が出現した。王や支配者から信任を得て王宮の重臣として活躍する者が、世俗的にユダヤ人社会を代表するという仕組みである。(ユダヤ教の歴史 市川裕 山川出版社 P78)

※ 10世紀、シーア派の蜂起によりバグダードが衰退すると、地中海周辺のユダヤ人の経済・文化の中心が、コルドバに移りました。コルドバのユダヤ人は、ギリシャ語文献のアラビア語、ラテン語への翻訳を進め、イスラーム世界に保存されていたギリシア文明を、キリスト教世界に伝える役割を果たします。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P51)

※ 彼( ユダヤ人のマイモニデス)は、当時の学問と文化の中心(スペインの)コルドバでラビの家系に生まれ、早くから図抜けた才能を示したが、少年の頃、1148年にもムワッヒド朝がコルドバを攻めたため、一家は北のキリスト教圏へ逃れ、以後放浪生活に入り、その10年後には、モロッコのフェズに移った。(ユダヤ教の歴史 市川裕 山川出版社 P86)

※ 12世紀の後半、キリスト教圏のユダヤ人社会から、今日、ユダヤ神秘主義と称される一群の思想が生まれた。・・・・・・その流れの一つは(ドイツの)ライン地方のアシュケナズの敬虔者たちであり、他の一つが南仏のプロヴァンスから北スペインにかけてのスファラディ系ユダヤ人社会で発展したカバラー思想である。(ユダヤ教の歴史 市川裕 山川出版社 P90)


 彼らユダヤ教徒もまたイスラーム教徒といっしょにこのイベリア半島から追い出されていきます。彼らは、ユダヤ教徒独自のネットワークを使いながら、その一部はのちのオスマン帝国内に住み着いていきます。

 
またその他のユダヤ人はのちに追放され、オランダに移住します。それが1492年です。この年はコロンブスがアメリカ大陸を発見した年でもあります。この年をきっかけにスペインのユダヤ人はオランダに移住します。するとそこからオランダは発展していきます。1500年代のオランダの繁栄には、このユダヤ人たちが大きな影響力を持ちます。彼らは貿易国家オランダの中で、その中核となるお金の両替や貿易決済などの金融業を営みます。

※ (ユダヤ教の聖典である旧約聖書の)申命記の23章28節ははっきりと、「外国人には利息を取って貸してもよい。ただ兄弟には利息を取って貸してはならない」といっている。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P373)

※ (ユダヤ人の)「あなたは同胞にくらべ、外国人に対してはそれほど顧慮する必要はない」という基本的な考え方はトーラー(ユダヤ教の聖典)の頃から現代にいたるまで、全く変わっていない。聖書(とりわけトーラー)、さらにはタムルード、それに、応答歌のなかの外国人に関する法を、とらわれのない気持ちで研究すれば、つねにこうした印象が残るものだ。・・・・・・(それらには)外国人をより少ない権利を持つ者としてあつかえとの指示(あるいは許可)がすでに与えられていた。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P375)
(●筆者注) トーラーとは旧約聖書のモーセ五書のこと。

※ (ユダヤ人にとって)金貸しが、未知のものであったという意味ではなく、むしろ、その逆である。彼らにとって金融業が未知の事柄ではなかったということこそ、わたしが重視し確認したい事実である。ユダヤ人の経済史を研究し、それを数世紀にわたって追求できるかぎりでは、つねに金貸しは、民族経済生活のなかで、まことに巨大な、驚愕すべき巨大な地位を占めている。金貸しは、ユダヤ民族共同体の発展のありとあらゆる局面に必ずつきまとっている。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P472)

※ ディアスポラ(離散)にいたって、いよいよ金貸し業は飛躍的発展を遂げた。・・・・・・ヘレニズム時代およびローマ帝国時代においては、富裕なユダヤ人が王たちの出資者として登場し、そしてそれ以下の貧しいユダヤ人たちは民族の下層社会の中で金貸しをしていた。いずれにせよ、当時のローマの世界ではすでに、ユダヤ人による「悪徳商法」が問題になっていた
 これと同様に、イスラム教以前の時代にもすでに、ユダヤ人から利息つきで金を借りているアラビア人の間では、「悪徳商法と高利」はユダヤ人の天性だという風評が広まっていた。
 また、それと同様に、西洋文化圏においても、数多いユダヤ人がはじめから出資者として登場した。われわれは、すでにメルビンガ王朝の王たちの下に、代理人ないしは財務管理者(要するに本質的に債権者)としての彼らの姿を見た。
 しかし、ユダヤ人が最も意のままに活動することができたスペインでは、早い時期に、民衆たちは彼らからの借金を背負い込んでいる。他の国々でユダヤ人問題(=暴利問題)が発生するはるか以前に、カスティリアでは、立法がユダヤ人の借金に取り組んでおり、この問題がすでに重大で実際上の意味をもっていたことを如実にうかがわせている。
 「十字軍以降」金貸しがユダヤ人の本業を構成しているのは、なんぴとにも論争の余地がない。したがって、われわれはユダヤ人の経済生活を考究すれば、彼らの経済生活のなかで、金貸し業が一頭抜きんでた役割を演じていたと確定できる。
 今や現実に、このような物語、つまり、ユダヤ人が金貸し業に足を踏み入れたのは中世期ーー厳密には「十字軍以降」ーーのことであり、それは彼らには、ありとあらゆる職業が閉ざされていたためであったという物語が、雲散霧消すべきときであろう。中世にいたるユダヤ人による金貸し業の二千年の歴史が、十分すぎるほど明確に、あの歴史構造の誤謬を証明している。・・・・・・こうしたヨーロッパ中世や近代にあっても、ユダヤ人には「高利」以外のありとあらゆる職業にいたる道程がけっして閉ざされているわけではなかった。しかし、それでもなおかつ、とくに好んで彼らは担保を取り金貸しをしていた。・・・・・・いや、それどころか、中世やそれ以後も、諸政府がユダヤ人に他の職業部門をあてがおうとしたが果たせなかったということも、判明している。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P476)



 後のことですが、1600年代になるとオランダ総督のオレンジ公ウィリアムが、1688年の名誉革命のあとイギリスに乗り込んでイギリス国王ウィリアム3世となります。するとそれにともなって彼らユダヤ人もイギリスに移住し、そこでもまた金融業に従事します。すると今度はイギリスで金融業が盛んになります。
 世界初の本格的な中央銀行である1694年イングランド銀行の成立はこういう動きの中で起こります。このことは非常に大きい意味をもちます。



【ロシア】 ヨーロッパの歴史は「なにか日本の歴史と違うな」という感じです。とにかく、このあと起こるのはぜんぶ戦争です。戦争、戦争です。本格的にこのあとヨーロッパが戦争しはじめます。
 そういう戦争の結果、ヨーロッパが軍事的に強くなります。だから文化水準が高かったから世界を征服したというよりも、ヨーロッパの場合には軍事力が強かったのです。この軍事力によって世界に乗り出して支配していくようになります。

 それからもう一つ言うと、百年戦争が終わった1453年というのは、もう一つ大事なことが別のところで起こっています。それがビザンツ帝国の滅亡です。これも1453年です。ビザンツ帝国、つまり東ローマ帝国です。西ローマ帝国が滅んだ後のヨーロッパの中心はもともとこの国だった。それが滅んだんです。千年の都が。
 ここはローマ・カトリック教会とは別派のキリスト教の国だった。これをギリシア正教といいます。このビザンツ帝国の首都が今のイスタンブールです。この時はコンスタンティノープルといいます。

 この国が滅びると同時に、ここのギリシア正教会も滅びたのかというと、そこで「オレが教会の面倒を見る」といった国があった。ビザンツ帝国が滅んだとき、その皇帝の姪を后にもらっていた関係から「ビザンツ皇帝の跡継ぎはオレだ」と名乗った国がある。それがモスクワ大公国です。これが発展したのが今のロシアです。

 ここから本格的にロシアが始動します。ロシアの首都モスクワのことを第3のローマと言ったりするのはそのためです。第1のローマは今のローマで、第2のローマがコンスタンティノープルです。第3のローマがモスクワです。
 だからロシアの宗教は、同じキリスト教でも西ヨーロッパのキリスト教とは違う。ギリシア正教という別の宗派です。その時のロシアの王様をイヴァン3世といいます。



【中世ヨーロッパの文化】 15世紀までのヨーロッパ、ここまでをヨーロッパ中世といいます。16世紀からは近世といいます。この中世文化の特徴を3ついいます。
 1つ目はスコラ哲学です。このスコラが訛って、君たちが必ず知ってる英語になる。スクールです。学校です。学校のルーツは、このスコラ哲学のスコラです。スコラとはという意味です。もともとは勉強なんかする人間は暇人なんですよ。
 なぜ暇していて、食っていけるのか。ギリシアの昔から日本と違ってヨーロッパは何を持ってるか。何を持っているから勉強できたのか。働かなくてよかったのか。暇ができたのか。奴隷社会だったんです。ギリシアのアテネは人口と同じくらいの、スパルタとかは人口の10倍ぐらいの奴隷がいるんです。ローマ社会も奴隷社会です。だから支配階級は暇になる。 
 文明以前の社会は、暇なときは寝っ転がっているんです。またはおしゃべりしているんです。それでなければみんなでお祭りしているんです。それが普通です。
 ただなぜこんな勉強する社会になったのか、考えてみれば不思議です。暇になった特権的な人間が勉強する。これが西洋文明ですね。普通はみんな忙しくて勉強する暇などないから、恵まれた人たちの哲学です。
 今の社会でいえば、学生は暇だからで勉強できる。それはもともと特権的なものです。仕事をし出すと、勉強したくても勉強できない。仕事しながら勉強するのは大変です。暇なときにこそ勉強すべきです。そんな時間は一生のうちで限られた特権的な時間です。

 2つ目です。そこで使われている書き言葉は何か。この時代は今のフランス語やイギリス語やドイツ語ができつつありますが、勉強には使われない。勉強に使うのは、古代ローマで使われていた言葉、ラテン語です。これはローマの言葉です。正確にいうとローマ帝国の言葉です。

 3つ目です。スコラ哲学は何を勉強するのか。勉強と言えばキリスト教です。このキリスト教の考え方をまとめたのが「神学大全」です。ヨーロッパで神といえばキリスト教しかない。ほかに仏教大全とかありません。神学といえばキリスト教です。
 これをまとめたのが、13世紀のトマス・アクィナスです。彼が偉いのは、キリスト教の考え方の中に、キリスト教とは全然違ったギリシャ哲学の考え方・・・・・・これが今の科学に近いのですが・・・・・・そういう科学的なものの見方を取り入れたことです。これは一神教的なユダヤ人的な見方と、多神教的なギリシャ人的な見方をまとめる作業です。難しくいうと、ヘブライズム(ユダヤ)とヘレニズム(ギリシャ)の融合になります。

※ キリスト教信仰とアリストテレス哲学の結びつきこそがスコラ哲学である。(キリスト教の歴史 小田垣雅也 講談社学術文庫 P75)



 矛盾するものを一つにまとめて、矛盾がないように見せるという非常に不思議なことをやります。違った意見をまとめて、まとまったように見せる才能というのは、正しいものを真正面から追求する才能とはぜんぜん違う別の才能です。このことの意味はどういうことなんでしょう。
 これで終わります。ではまた。


新「授業でいえない世界史」 19話 中世ヨーロッパ 中世都市と商業

2019-08-26 08:30:31 | 新世界史8 中世ヨーロッパ

【都市と商業】 ここから商業にいきます。地図を見ると、アルプス山脈がこんなところにある。マッターホルンとかあるんです。その北はローマ帝国から見ると田舎だったんです。
 ではどこがヨーロッパの都会かといえば、コンスタンティノープルです。当時はコンスタンティノープル、今のトルコのイスタンブールです。ここが中心です。コンスタンティノープルはビザンツ帝国の首都です。千年の都といわれる。

 でも本当に世界で最も栄えてるのはここじゃない。もっと南東のイスラーム世界です。
 だから活動する商人も文明が高い順でいうと、まずはイスラム世界のイスラム商人です。次がビザンツ帝国のビザンツ商人です。物を運ぶのは、新幹線もなにもないから、大八車で引いてもラチがあかない。何で運ぶのか。大八車で運ぶのと、船で運ぶのとどっちが効率的か。風の知識さえあれば断然、船なんです。その船が航海する海がこの地中海です。
 まずこの地中海ルート。イスラームもこの地中海に出られます。コンスタンティノープルも地中海に出られます。

 そこにヨーロッパがエルサレムを軍事征服する。エルサレムというのはキリスト教の聖地で重要な都市です。200年かけて征服しようとしたが失敗した。これが十字軍です。
 そのことによってこの地中海商業圏に西ヨーロッパ勢が入ってくる。「これは儲かるぞ、オレたちもおこぼれにあずかろう」となる。そうするとイタリア半島の西の地域よりも東の地域が地中海に出やすくなる。西だとイタリア半島に阻まれることになります。イタリア半島の東にあるベネチアが有利になります。ベニスともいいます。海の中に浮かんだ都市です。今も車が走れない都市です。ぜんぶ船で行く。水路で移動する。ここが繁栄していく。ここを中心にヨーロッパとイスラム世界の交易が発達します。



【ビザンツ商人】  この地中海にはそれ以前からビザンツ商人が活躍していました。このビザンツ帝国は、何回も言うように、昔の東ローマ帝国のことです。この首都がコンスタンティノープルという都であった。
 ここがヨーロッパの中心で、そこから地中海に乗り出してイスラーム圏と東西交易をはじめる。地中海を渡ってイスラーム世界と貿易する。そこで一時はビザンツ商人が中継貿易をしてガッポリ儲けた。それで繁栄した。

 この利権を奪ったのが、さっき言ったベネチアです。地中海利権を奪われると、このビザンツ帝国は成り立たない。農業国ではないから。商売で儲けている国だから。
 ヨーロッパ勢は、第4回十字軍では敵のエルサレムを攻めずに、仲間のビザンツ帝国のコンスタンティノープルを攻めます。これは本末転倒もいいところです。味方を攻めています。これを仕掛けたのがベネチア商人です。つまり十字軍という聖地回復運動は、ベネチア商人によって地中海貿易の利権獲得という別の目的にすり替えられたのです。その被害者がビザンツ帝国です。その利権を奪ったのがベネチアです。ゴンドラの浮かぶ美しい水の都ベネチアのもう一つの顔です。



【ムスリム商人】 ビザンツ商人が取引していたのがイスラーム商人です。彼らをムスリム商人という。イスラーム教徒のことをムスリムというからです。彼らはイスラーム商人です。
 彼らムスリム商人が地中海に出るには、今はエジプトの入り口にスエズ運河がありますが、その横にカイロ、さらにカイロの近くに港町のアレクサンドリアというところがあって、そこから地中海に出ます。それでカイロが繁栄する。
 アフリカの北部にも国があった。アフリカは未開の土地ばかりじゃないです。文明があった。アフリカにもちゃんと国があったし非常に栄えた。

 なぜ今アフリカは遅れているのか。それはこの500年後、ぜんぶヨーロッパの植民地にされて、ヨーロッパ人がアフリカの勇壮な男たちを根こそぎ奴隷として連れて行ったからです。だから男がいなくなって社会が荒廃していく。
 一度そういうことをやられると水田といっしょで、水田を豊かにするのは何年もかかるけど、一度荒らされると水田はなかなかもとに戻らない。だから今でもまだアフリカの社会は回復していない。その原因はヨーロッパ人による奴隷貿易です。



【北イタリア商人】 このあと田舎であった北部ヨーロッパにも商業権が出てくる。これを北ヨーロッパ商業圏といいます。フランスとドイツの間、ここをフランドル地方といいます。今のベルギーです。ここがヨーロッパを代表する毛織物つまりウールの産地です。綿織物はヨーロッパにはありません。
 そこに出てくるのが北イタリア商人です。そのきっかけになったのが、さっき言ったように征服運動です。十字軍です。田舎のヨーロッパ人が「エルサレムをイスラーム教徒から取り戻すぞ」といって、200年かけて7回も行く。でも成功しない。  

 しかし、そのことがヨーロッパにプラスになったのは、これで北イタリアの商人が活躍しだして、金儲けしだしたことです。
 進んだイスラーム世界の文化がヨーロッパに伝えられた。それでヨーロッパが豊かになっていく。このことが重要です。その運び屋となった都市がベネチアです。ここには多くのユダヤ人がいます。この都市は地中海貿易の利権を、ビザンツ商人から奪っていきます。
 もう一ついうと、ベネチアはイタリア半島の東にありますが、もう一つイタリア半島をまたいで西側にも都市がある。ジェノバです。これが二大都市です。ここが儲け出す。

※ レオナルド・フィボナッチが(北アフリカのムワッヒド朝から)帰国後の1202年、アラビア数字、位取りと計算法を紹介する「算盤の書」を発刊したことがきっかけになり、イタリア諸都市でアラビア数字が一挙に普及しました。・・・・・・イタリア商人は、資産管理のための複式簿記の技術もユダヤ人などを通じてイスラーム世界から導入しました。簿記の「借方」と「貸方」を釣りあわせる発想は、「ハカリ」に基づく等号を基礎とする「代数」と同じです。複式簿記の技術は・・・・・・1300年頃にイタリアに伝えられ、1340年にジェノバで定着します。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P64)

※ 1314世紀に、ベネチア、フィレンツェなどのイタリア諸都市はアジア経済との結びつきを強め、良質の金貨の発行を競います。・・・・・・「コイン革命」以後、などの為政者がコインの発行益を独占してきましたが、イタリアでは都市が分立して強力な為政者が不在だったために、都市の有力商人がコインをつくり、発行益を手にすることができたのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P66)


世界の車窓から イタリア フィレンツェ~ヴェネツィア



「ヴェニスの商人」 予告



※ 遠隔地間交易を担う商人の大部分はユダヤ人とイタリア人であった。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P174)

※ 13世紀イタリア近代式銀行業が始まりました。この時から、お金は銀行から融資を受けた時に創られる(=信用創造)ようになったのです。よく考えてみれば、預かっている金貨は金細工師の金貨ではありませんし、勝手にそれを貸し出しているのですから、これは横領です。しかし、その方法は秘密にされていたため非難されることはありませんでした。(日本人が知らない恐るべき真実 安部芳裕 晋遊舎 P222)

※ ヨーロッパの銀行の起源は、12世紀後半から14世紀のイタリア諸都市で活躍した両替商にあるとされています。・・・・・・当時のヨーロッパでは金貨・銀貨が併用されており、金と銀の相場の変動で価値が変わりましたし。各国の金貨・銀貨の品位も変わりますから、両替には高度の専門知識が必要になり、多様な貨幣を操作することで利子両替料に組み替えることは可能だったのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P70)


 このジェノバが大事なのは、ここの船乗りの一人にコロンブスがいるからです。彼はもともとジェノバの船乗りです。彼はスペインの女王のところに行って、話を持ちかけます。「こういう企画がある、プロジェクトがある、一枚噛みませんか、金さえ出してもらえれば、オレが行きますよ」、そうやって西回りでインドに行こうとした。

 コロンブスは、アメリカ大陸を発見しようとして行ったんじゃない。インドに行こうとしたんです。そしたら予想より早く着いた。彼は死ぬまでそこをインドだと信じていた。だからそこは今でも西インド諸島という名前がついています。だから死ぬときには彼は大ウソつきです。歴史に名前が残っただけで、死ぬときには不幸です。
 しかしコロンブスが見つけたアメリカ大陸との貿易は、このあとヨーロッパに莫大な富をもたらします。
 そのことによってヨーロッパ人が、それまでの二大商人であるビザンツ商人やムスリム商人の優位を覆します。ここから田舎のヨーロッパ市場が急速に盛り上がっていくんです。しかしそれはもうちょっと後のことです。

  それ以前、この北イタリア商人が、東のムスリム商人たちから欲しがったのは何か。ヨーロッパには絶対ない香辛料です。香辛料というのはスパイスです。肉を食うのには冷蔵庫がないから、肉を保存したくてたまらない。そういうときに胡椒、スパイスを振りかけると保存できる。腐ると臭い肉を腐りにくくしたい。だからこれが欲しくて、欲しくてたまらない。これをどこから手に入れるか。それがインドです。
 これが非常に珍しくて高く売れた。すると胡椒バブルが起こって、胡椒1グラムを金1グラムで買う。つまり金といっしょです。バブルの間は金と同じ値段で売れる。「それならインドに行くぞ」、ここでインド貿易に火が付くんです。しかしバブルは、数十年でストーンと落ちます。
 これで終わります。ではまた。


新「授業でいえない世界史」 20話 中世ヨーロッパ 北方商業圏と東西交易

2019-08-26 08:28:15 | 新世界史8 中世ヨーロッパ

 いま12~13世紀の商業のところです。この時のヨーロッパの中心は北なんですか、南なんですか。今は北が栄えているから、北だと思いがちなんですが、この時は実は南の地域なんです。
 十字軍がむかったエルサレムはもっと東にある。イスラーム世界というのは、それよりもっと東の地域です。

 ではビザンツ帝国の都、コンスタンティノープルはどこにあるか。ギリシアがあって、ここは黒海といって海です。まん中は地中海です。その南はアフリカです。そしてジブラルタル海峡を越えると大西洋です。黒海の入り口のここがコンスタンティノープルです。

 十字軍というのは・・・・・・ちょっと補足すると・・・・・・まずイスラーム勢力がエルサレムを取るんです。もともとエルサレムはコンスタンティノープルを拠点とするビザンツ帝国(東ローマ帝国)の領土だったんです。そのビザンツ帝国がエルサレムを取られて、自分だけでは戦えないということで、ローマ教皇に助けを求めたんです。それで西ヨーロッパが、援軍として遠征軍を送ります。エルサレムまでヨーロッパ軍が攻め込みます。これが十字軍です。
 十字軍というのは十字架・・・・・・キリスト教の象徴は十字架です・・・・・・その十字架を胸に縫い付けて「オレはキリスト教徒だ」といって戦うわけです。それで、「おまえたちはキリスト教を信じない野蛮人だ」と、ひどい殺しかたをしていきます。

 さらに変なことには、そのうち物資輸送でベネチア商人が、貿易の利益を求めて、助けを求めたこのビザンツ皇帝を滅ぼしに行きます。これは敵が違うんですよ。ビザンツ帝国が助けを求めたから、その敵のイスラームと戦いに行ったのに、ビザンツ帝国という助けを求めた本人を攻めるんです。
 なぜこんなことをするのか。ビザンツ帝国の商売の利権を奪いたいからです。こんなことまでしてベネチアは栄えていきます。「旅情豊かなロマンのベネチア」みたいに日本では映画とかでよくいわれますが、歴史的には、とんでもないところです。自分の利益のためなら何でもやる。仲間を裏切るぐらい当然という感じです。

※ ベネチアは全くユダヤ人の都市であった。1152年の記録によれば、ヴェネチアにはその頃すでに1300人のユダヤ人居住者がいたという。16世紀においては、ヴェネチアにおけるユダヤ人人口は6千人と推定される。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P110)



【ルネサンスと交易】 十字軍のあと商業が栄えて、このベネチアがこのコンスタンティノープルを占拠して、そこに商館を置く。ビザンツ商人を潰して自分たちの拠点、支店を置くんです。のちビザンツ帝国はもう一度復活しますが、細かいことはカットします。

 でも、もうちょっと補足しないといけないですね。進んだイスラームの文化が、十字軍によってヨーロッパに伝えられていきます。
 なぜか。古代文明の発祥地ギリシアの文化は、滅んだ後すぐにヨーロッパに伝えられたように思うでしょうが、そうじゃないんですよ。ここが滅んだあとの世界の中心はどこか。イスラーム世界です。ギリシャ文化は、まずそこに伝わるんです。
 そのあとヨーロッパ人は、十字軍がこのイスラーム世界に攻め込むことによって、ギリシア文化を初めて知るわけです。「こんなすごい文化があったんだ」と知るんです。そして「オレの本家はここだ、ギリシアだ」と言い出すんです。これはウソですよね。伝えた直接の本家はイスラームです。その前がギリシアなんですね。途中を省略しすぎています。

 その後「ギリシア文化に戻ろう」といって、ギリシア文化を復興する。元に戻ろうとする。こういう文化運動がこのあとでヨーロッパにおこる。まだ言ってませんが、これをルネサンスといいます。漢字で書くと「再生」です。何を再生するのか、ギリシャ文化の再生です。「オレたちのご先祖様だ」と言ってね。ちょっと違うんですけど。そうではなくて、ギリシャ文化はヨーロッパに伝わる前にまずイスラームに伝わって、その二番煎じでヨーロッパに伝わったということです。



【モンゴル帝国の交易】 しかしさらに広げてアジア大陸全体でみると、交易が活発になった最大の帝国は、実はモンゴル帝国です。
 この国の規模はヨーロッパの比ではない。ここで東西交易がものすごく活発になる。だから商売は危険も伴いますが、もし生きて帰れれば利益が百倍ぐらいのとんでもない利益になる。
 これを求めてヨーロッパ人がアジアに出向いていく。東が豊かです。アジアは貧乏だと思ったらダメです。アジアが豊かなんです。

 まず陸でいく。これがシルクロードです。これがヨーロッパから中国に繋がる。行けると思ったら、次は一気に大量に運ぶために今度は船です。海の道になる。
 「それならオレも行くぞ」と言って、やはりベネチア商人が中国に行く。それがマルコ・ポーロです。実際に中国に行って、20~30年滞在し、ベネチアに帰って来た。「どこに行ってたんだ」と聞かれると、「中国に行ってきたよ」という。中国の話を聞かせたら信じてもらえずに、ホラ吹きだと言われる。しかしだんだんとこれは本当だと分かって、この時の話がマルコ・ポーロの「東方見聞録」という本になる。「世界の記述」ともいいます。



【利子】 ではカトリック教会はどうするか。商業には元手がいるんです。ではお金がない人は商売できないか。借りたらいいんです。お金を貸すという商売がでてくる。
 この貸し借りに必ず出てくるのが、利息の問題です。ヨーロッパのキリスト教社会では利子禁止です。利子禁止なんですが、目の前の必要に押されて「ツベコベ言うな」と利子OKになる。そうするとますます金貸しが栄える。金貸しという言葉が悪ければ銀行です。これでガッポリ儲ける。これで儲けるのがユダヤ人です。

 「1%、2%の利息など大したことない」と思うかもしれませんが、1兆円の1%は100億円になる。1兆円の預金をもっている銀行は日本でもザラです。都市銀行とかは10兆円とか、100兆円とか持ってる。
 これで栄えるのがイタリアにあるフィレンツェのメディチ家という金貸しです。こういう商売が栄えていく。

※ メディチ家はヨーロッパの主要都市に支店を設けて、為替手形の発行と決済で大儲けをし、後にローマ教皇庁の財産管理を任され、一族から2人の教皇を出すなど権勢を送りました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P47)



【インド洋交易】 こういう交易の活発化があって、次にヨーロッパ人が太平洋を渡っていく。コロンブスの時代になります。これはあとで言います。大航海時代と言いますが、それはこのような東西交易の活発化の産物です。
 そこで変なものが爆発的に高い値段で売れるようになる。西洋は肉食です。冷蔵庫がない。だから腐る。臭いがたまらない。臭い消しと保存料。つまり胡椒ですよ。たかが胡椒、されど胡椒です。
 胡椒1グラムが金1グラムで取引される。つまり金と同じです。胡椒を米俵いっぱい持ってくると、もう億万長者です。
 その欲につられて、またヨーロッパ人がアジアに乗り出すようになりますが、ではヨーロッパ人がもともとインド洋貿易を行っていたのかと言えば、彼らは遅れてきた新参者です。

 インドや東南アジアとの貿易をそれ以前から取り仕切っていたのは、船乗りシンドバットたちなんです。船乗りシンドバッドはヨーロッパ人じゃない。イスラーム教徒です。ムスリム商人が中心です。文明が栄えていたのはイスラーム圏です。だからその貿易の中心はインド洋です。
 今までインド洋のことをあまり言っていませんが・・・・・・太平洋と大西洋はよくいいますがそれは最近500年のことです・・・・・・それまでの東西交易のメインはずっとこのインド洋です。ここが貿易の中心でした。



【北方商業圏】  話をまた元に戻します。
 そういう地中海から始まって、ヨーロッパの田舎のアルプスの北にも商業圏ができた。ここからヨーロッパが力を持つようになるのですが、その前段階にあるのは、その前200~300年まで海賊たちがヨーロッパの海を荒らし回っていたということです。
 これが北方のゲルマン人です。北のゲルマン人を何人と言ったか。ノルマン人といっていた。「北の人」という意味です。今のイギリス王室をつくったのもこのノルマン人です。イギリス王室やエリザベス女王は、もともとは海賊の子孫です。ご先祖さんはヤワな人たちじゃない。そういうバイキングが活躍していた。

 人が動けば商業が発達していきます。そのうちに今の北ドイツあたりのリューベックやハンブルグができると、今の商工会議所といっしょで、商人たちが同盟を組むようになる。この商工会議所グループをハンザ同盟といいます。
 北ヨーロッパ商業圏の中心がフランドル地方です。フランドル地方は、今のオランダの南のベルギーあたりです。ここは小さいけれども豊かなところです。だからみんなが欲しいところです。
 その隣のオランダは小さい国です。しかし唯一、日本が江戸時代に貿易していたヨーロッパの国はオランダです。オランダ人というのは、こんな日本にまでやってくる商魂たくましい人たちです。


※ フランドルのブリュージュにはジェノバ船ベネチア船が入港し、北方経済圏と南方経済圏を繋ぐ役割を果たし、レバントの香辛料がもたらされました。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P76)
(●筆者注) レバントとはヨーロッパとオリエントとの東方貿易のこと。


 2つ目、フランドルのもうちょっと南、フランスの西側あたりにシャンパーニュ地方というのがあるんです。ここも定期市が立って非常に商業が栄えていく。そこで売られた酒が何でしょうか。シャンパーニュだから、そこで売られた酒はシャンパンです。シャンパンの名前はここからくる。日本でも酒蔵があるところはだいたい豊かです。
 それから3つ目、ちょっと田舎なんですけど、ドイツもそれなりに頑張っている。南ドイツのアウグスブルクです。

 この3つ、フランドルと、シャンパーニュと、南ドイツ。こういったところは、もともとアルプスの北の田舎ですが、ここが発展しはじめた。この田舎を強調するのは、この田舎が世界の中心になっていくからです。われわれ日本人は誰のマネをしているか。一言でいうとヨーロッパ文化のマネをしているんです。なぜズボンをはいて、ベルトをしているのか、なぜ紋付き袴はしていないのか、女性がスカートをはいているのか、フンドシをせずにパンツをはいているのか、これらは日本の伝統的な衣装ではないです。ヨーロッパのマネです。
 フンドシというのを一度してみたいですね。銭湯行ったとき、スーパー銭湯で若いお兄さんがフンドシをはいていた。カッコイイと思ったね。「オレもしてみよう」と思いました。私の祖父は当たり前のごとくフンドシをしていました。私の父も若い頃はフンドシでしたが、そのうちにしなくなりました。それを私が復活させようと思います。冗談ですよ。



【イベリア半島】 今度はイベリア半島です。今のスペインです。スペインでは、ムスリムの支配が長く続いていた。つまりイスラーム教徒の支配地であった。
 そこをキリスト教徒が巻き返して、イスラーム教徒を追い出そうとした。これを追放運動じゃなくて、なぜか国土回復運動といいます。
 これをレコンキスタと言って、国土回復運動と訳します。レは「再び」、コンキスタは「征服」です。「再び征服する」という意味です。ここは、ローマ帝国の時代にキリスト教が普及していたということになっています。ローマ時代にこんなヨーロッパの西の端に、キリスト教が普及していたとは思えないんですけどね。

 ここはローマ帝国が滅びると、異教徒であるゲルマン人の西ゴート王国になります。その西ゴート王国の王がキリスト教に改宗してまたキリスト教国になります。
 しかしそのあと8世紀には後ウマイヤ朝に征服されて、イスラーム教国になります。こういうふうにもともといろいろな宗教が入り混じっている地域なのです。

 だからここには、2世紀にエルサレムを追われたユダヤ人も多く住んでいます。ユダヤ人の系統には主に2つあって、このスペイン系ユダヤ人をスファラディといいます。これに対して、ヨーロッパの東部に住んでいる主にドイツ系のユダヤ人をアシュケナージといいます。彼らのなかには、差別を逃れるためにキリスト教徒を装った隠れユダヤ人もいます。彼らのことをマラーノまたはマラノスといいます。

※ (ユダヤ人に)律法があるというたんなる事実が、律法信奉者を、まわりの人々とのすべての交流から隔てた。おのれの律法をきびしく守ろうとするならば、ユダヤ人は不信者(ゴイム)から隔絶された生活をしなければならなかった。ユダヤ人自身が、非ユダヤ人の立場からすれば、もともとは認可、特権であって、けっして敵対を意味しないゲットーをつくりあげた。彼らは、周囲の低級な民族よりもすぐれていると自負し、自ら選ばれた聖職者の民族であると感じていたために、隔離されて生活することを欲した。・・・・・・
 結束、これはまさに本質的にユダヤ人の積極的な国際主義を基礎づけたバビロン捕囚(前586年)からはじまる。多くの、とくに富裕な人々は(注意して欲しい、自発的に)バビロンにとどまった。しかし彼らはユダヤ教を捨てることなく、熱心にこれを維持した。彼らは故郷の土地に戻っていった同胞と活発な交流を保ち、彼らの運命に深い関心を寄せ、彼らを支援し、時々彼らに新移住者を送りこんだ。・・・・・・
 結束、そしてそれがための隔離。ユダヤ人が抱く外国人に敵対的な考え方や、彼らの自ら隔絶する傾向は古代以後も続いていった。・・・・・・「異民族との結婚拒否」がかねがね諸民族を驚かせていた。・・・・・・
 最も有名なのは、タキトゥスの次のくだりである。
 「ユダヤ人同士は互いにきわめて忠実である。そしてつねに同情を示す用意がある。しかし、他のどの人々に対しても、彼らはひたすら憎悪と敵意を示す。彼らは食事のとき離れたところに座り、また離れた場所で眠る。種族としては彼らは肉欲にふける傾向があるが、外国人の女性との性交渉を避ける」(「歴史」5巻5章)・・・・・・
 たしかにユダヤ人は結束が堅かったし(また今でもそうである)、たしかに彼らの居住地の原住民が、その法律によって、また敵対的態度をとることによって、ユダヤ人を排斥しているためにしばしば結束を固めたことはある。しかしもともと、本質的には、ユダヤ人自身がそのように望み、運命に他ならない彼らの宗教にしたがって生きなければならなかったからである。このことが事実であったことは、ユダヤ人が快適に暮らしていけた土地、原住民が当初彼らに対していたって同情的であった土地に住んでいたユダヤ人の態度からはっきり察知することができる。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P368)

※ 集団の安全保障のためにユダヤ人は狭い小さな居住区にみずから閉じこもった。この居住区がゲットーと呼ばれたのである。近年になってユダヤ人は、彼ら特有の厚かましさで、ユダヤに対して宿主が示した偏見のせいでゲットーに強制的に住まわされたと主張している。しかし、あらゆる高名なユダヤ人学者が同意しているように、離れた場所に住むことを主張したのはユダヤ人自身だったのである。おそらく彼らは、みずからの邪悪な習慣を非ユダヤ人の目から隠すためにそうしたのだった。(衝撃のユダヤ5000年の秘密 ユースタス・マリンズ 日本文芸社 P144)
 

 前にいったように、ヨーロッパ人はギリシャ文化をこのイスラーム世界を通じて学びます。ギリシャから直接ではありません。ギリシャ哲学はまずイスラーム世界に伝わりました。だからギリシャ文化はイスラーム教徒によってまずアラビア語に翻訳されました。アラビア人はイスラーム教徒です。
 ヨーロッパ人が十字軍に行ってイスラーム文化に触れ、そのレベルの高さに驚き、本を持ち帰って自分たちの言葉に変えようとします。それで初めてヨーロッパのラテン語に翻訳する。こうやってイスラーム世界から学んだのです。

 また他にも学んだものがある。ヨーロッパはこの時代にやっとを使いはじめるんです。中国はすでにその1000年前から紙があります。これもすでにイスラーム社会に伝えられていました。
 紙がない生活はトイレットペーパーが困るとか、そんなことじゃない。紙がないと行政ができないんです。お金の信用取引もできないです。紙がなかったら命令ひとつ出せない。契約書一つ書けないです。
 我々は出張に行くのも勝手に行けない。ちゃんと会社から、何月何日にどこどこに行きなさいと文書が来る。それを持って行くんです。勝手に行ったら職務放棄で給料が出ないです。
 そのためには紙が必要です。紙は今の社会の基盤になっている。これがやっとヨーロッパに伝わったのがこの時期です。
 それまでヨーロッパに紙がなかったということは、多くのヨーロッパ人は文字が読めなかったということです。でも中国人は読めます。イスラーム教徒も読めます。字が読めない社会は文明社会とはいえない。「紙がなかった」とはそういうことです。



【ユーラシア全体】 東西交易は最初は陸路です。陸路は唐の都の長安を出発して西へ行く。これが絹の道のシルクロードです。マルコ・ポーロは、逆にベネチアからこの道を伝って中国に行った。
 しかし物を運ぶにはラクダよりも船がいい。これは今も昔も変わりません。中国の南のベトナムから東南アジアへ。そしてインド洋へと出るとき一番近いルートは、今も昔もこのマラッカ海峡です。
 ここが安全であれば、わざわざ南に遠回りして行くことはない。だからここを支配する国は繁栄する。マラッカ海峡は、この地域のポイントなんです。アジアで日本以上の金持ちはというと、今でもこのマレー半島先端のシンガポールです。シンガポール人は日本人よりお金持ちです。でも8割方は東南アジア人ではなく中国人です。中国人は目ざといから、ここが儲かると思ったらすぐここに移動していく。
 そして帰りはインドに戻り、西のペルシャ湾に行って、地中海からベネチアまで帰っていく。このルートです。

 その他にもちょっと寄り道して他のところにも行こうかな、という経路もある。その周辺にも行ける。アラビア半島に行ったりもできますが、メインはこのインド洋です。
 現在の日本のエネルギーを支えているのもこの地域です。100年前に石油が出たからです。ペルシャ湾岸に石油が出る。ここが安全でなかったら、日本に電気はつきません。石油が来ないから。ペルシャ湾の出口のホルムズ海峡は狭い。ここを誰かが「通せんぼ」したら、日本は電気がつきません。日本を潰すには、ここを「通せんぼ」するだけでいい。
 ホルムズ海峡が封鎖されたときにのヨーロッパに行くための抜け道が、アラビア半島の西の紅海を通っていくことです。
 しかしこの紅海の航路ではいったん陸にあがらないといけない。300年後「ああ面倒だ、水を通せ」と運河を掘る。フランス人がエジプト人に掘らせるんです。これがスエズ運河です。そういうルートができて、現在も利用されています。

 物を運ぶ時には基本は海です。1に海、2に陸です。「海は交通をさえぎるもの」という考え方が鎖国以降の日本では根強いですが、逆に海は外に開かれているものです。海を通って物は運ばれていく。そういう意味では海が流通の動脈です。
 砂漠のラクダ使いと比べて、海のルートを知っていれば、物を運ぶのに便利です。風さえつかめば大量のモノを乗せて運んでくれます。

 このアジア大陸の東と西を結んだ大帝国がモンゴル帝国であった。13世紀のことです。これで東西交易がますます盛んになります。
 しかし困ったものまでヨーロッパに運ぶ。ペストまで運ぶんです。ペストはどこが原産かよくわからないけど、たぶんインドの北の中央アジアのネズミだろうといわれます。
 人が行き来するから、ネズミもそれに乗ってヨーロッパまで運ばれる。当時のヨーロッパはものすごく不潔です。不衛生きわまりない。すぐに流行する。3人に1人が死ぬ大惨事が起こります。



【海の道】 海の道としてはインド洋がメインです。太平洋でも大西洋でもない。伝統的にはインド洋航海です。そこで往来している船乗りたちはヨーロッパ人ではなく船乗りシンドバットたちです。それがイスラーム世界の商人です。
 イスラーム世界が世界のまん中だとすれば、東の豊かな国が中国です。中国とイスラーム社会がメインです。西のヨーロッパはおまけです。まだ田舎なんです。

 世界で最も栄えたところは、アッバース朝時代の・・・・・・最近はアメリカの空爆で粉々になっているところですが・・・・・・バグダードです。
 ここは2003年のイラク戦争以後は悲惨なものです。アメリカによって家もろとも破壊され、難民続出です。親兄弟にも会えない。難民は遠いアメリカには避難せずに、近いヨーロッパに避難する。アメリカは破壊しただけです。
 それから第2の都としては、エジプトのカイロがあります。ここにはむかしファーティマ朝があった。そのときにできた都です。



【ダウ船とジャンク船】 そこの商人たちはムスリム商人といいます。イスラーム教徒のことをムスリムといいます。そういう船に乗ったムスリム商人の活躍がある。
 イスラムの船と中国の船、東と西でこの2種類の船があります。何千キロも離れたところからやって来てこの2つが結びつく。

 ムスリムの船をダウ船といいます。1枚の大きな帆を持ってる。三角の帆です。こういう船は速いと思う。
 中国のほうはジャンク船です。帆はそんなに大きくないから遅いかもしれません。速さはムスリムのダウ船、頑丈さは中国のジャンク船でしょう。アラビアには台風はこないからかな。日本もさんざん台風の被害を受けますけど。そんなことも関係あるかもしれません。

▼12世紀頃の海域世界
 


 そのダウ船を使って、イスラーム商人はアフリカの東岸にも行く。アラビア海は当然通ります。
 そこで活躍した船乗りシンドバットたちは東南アジアにも行く。人口で現在、世界最大のイスラーム国家はどこか。アラビア地域ではありません。東南アジアのインドネシアです。ここが世界最大のイスラーム国家です。東南アジアになぜ世界最大のイスラーム国家があるのか。イスラーム教徒がアジアに乗り出していくからです。
 東南アジアはもともとはインド勢力です。その前は中国です。それがここからイスラーム化していく。イスラーム教徒が乗り出していきます。

 また東アフリカでは、もともとバンツゥー語というアフリカ言語があった。そこにアラビア人の船乗りシンドバットたちがやってくる。そこでアラビア語とバンツゥー語が混じり合う。そこで生まれた新しい言語がスワヒリ語です。スワヒリ語圏の文化のことを、スワヒリ文化という。文化も混じり合う。

 このようなインド洋交易では何が取引されたか。やっぱり中国からの絹は大きい。シルクです。それから肉が腐らないように香辛料も。胡椒を調味したものです。こういうのが金1グラムと変わらない価値で取引される。
 またヨーロッパ人は風呂にはいらない。木綿がなくて、夏でもウールを着ている。汗で臭くて仕方がないから、体臭を消すための香水が必要です。風呂に入っている日本人にはこういう発想はないですけどね。

 南シナ海がある。シナは中国です。シンというのが訛ってシナ、英語では訛ってチャイナ。ぜんぶ中国のことです。中国ではジャンク船という。こういう船で商売圏が広がっていく。
 だから東から西に行くと、西のイスラーム圏を航海しているのはダウ船です。これはイスラームの船です。
それが東南アジアに行って、そこにやってきている中国人の船に積み替えられる。この船がジャンク船です。それが中国の各港、とくに広州などに運ばれて中国の国民が消費する。こういう広い交易圏がすでにアジア大陸では成立していた。そこではイスラーム文化圏が中心です。

 しかしアメリカ大陸を発見したあとに注目されるのは大西洋です。それまではこの大西洋の向こうには何もないと考えられていた。でもアメリカ大陸があるんですよ。ヨーロッパ人もまだそれを知らないんです。




【東南アジア】 ユーラシア大陸のネットワークを結んでいるのは、東南アジアです。東南アジアは海の道です。
 そこにはいろんな人たちが行き交って、早くはインド文化、それから中国文化もはいってくる。次にイスラム文化もはいってくる。この3つの文化がはいってくる。
 今、東南アジアの街角の写真を見ると、顔つきがぜんぜん違う人たちが、無造作にバス停に並んでいたりする。いろんな人が住んでいます。



【マラッカ海峡】 そのなかで東南アジアの注目点というのは、マラッカ海峡です。マラッカ海峡はさっき言ったところで、中国に行くための海の一番の近道です。
 東南アジアで大きい島はスマトラ島。これはジャワ島の西隣にある一番大きい島です。ここにシュリービジャヤ王国というのがあった。
 今の中心、インドネシアのジャワ島にはシャイレーンドラという王朝があった。これが伝統的な王朝なんです。ジャワ島には、ボロブドゥールという仏教寺院跡もある。こういう文化が栄えていた。



【マラッカ王国】 しかしイスラーム教徒との接触によって、ポイントとなる地点が新たにできます。これがマラッカ海峡です。
 そのマラッカに王国ができる。これがマラッカ王国です。東南アジア初のイスラーム国家です。港がそのまま国家になる。ここが拠点になって、イスラーム教が東南アジアに広がっていく。現在世界最大のイスラーム国家はインドネシアです。人口2億です。
 マラッカ王国が小さいからといってバカにしたらいけない。その後どうなるか、わからないんだから。ここが拠点です。ここからイスラーム教が広がっていく。

  さらにその後、ここはヨーロッパ人の植民地になっていく。ヨーロッパ人がどんどん進出して占領していく。軍事力にものを言わせて。まずはポルトガルが占領する。それをまたオランダが奪っていく。イギリスも乗り込んでくる。そういう時代がつい70年前まで続きます。

これで終わります。ではまた。