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新「授業でいえない日本史」 25話 近代 ペリーの来航~金の流出

2020-11-01 04:50:11 | 新日本史4 近代
【ペリーの来航】
まだ、江戸時代は終わってないけれども、1853年、アメリカのペリーが軍艦率いて浦賀にやってくる。実質ここから「近代」になります。近代のきっかけは外からやってきたということです。
このときのペリーが見た日本の政治構造は、こんなになっている。この三角形を書くのは、これでこれで3回目です。三角形が二重になっている。ここにあるのは、天皇です。ここは将軍です。天皇と将軍の関係です。




鎌倉時代から室町時代は、天皇の三角形は大きかったから、誰にも分かったけれども、太平洋の向こうから日本を見たら、上の三角形は見えずに、将軍が日本語の王のように見える。だからそこを目指してしてくる。だから江戸に来るんです。天皇は京都にいます。でも京都には行かない。見間違いなんです。
ただ日本は、この13年前にはあの中国が、あの島国の小さいイギリスに、こてんぱんにやられているという情報を、すでにキャッチしている。1840年アヘン戦争です。
だから、来たぞ、というときには、戦えないことを知っている。これを卑怯というと、日本は1500年代の戦国時代に何を学んだか。武将たちがどういう戦いをしたか。勝てない相手とは戦わないです。勝てる相手かどうかを判断する。これがイクサで一番大事だということを学んだんです。
勝てない相手でも当たって砕けろ、そんなことをすれば命がいくらあっても足りない。ではどうやって生き延びていくか、家臣団を食わしていくために、それを懸命に考えてきたのです。勝てない相手と戦ったらダメなんです。


それでも戦わざるをえなかった唯一の戦いが、太平洋戦争だと私は思うんですけどね。いろいろやらせもあって、逃れられなくなるんだけれども、あそこまで戦うというのは、私にもちょっと謎なんです。日本の伝統には、ああいう戦い方はないです。あれが日本の伝統的な戦い方じゃないです。勝てない相手と戦って、どうするんだということなんですよ。

そういうペリーがやってきた。大砲向けてね。4艘の軍艦で、大砲を向けてやってくるということは非常に失礼なことです。失礼なことを承知でやってきている。よくペリーの来航を喜ぶ人がいますが、当時の人にとっては、これは平和的な開国要求でも、友好的な開国要求でもありません。武力的な開国要求です。もう断れないわけです。非常に屈辱的なものです。だからこのあと、天皇(王)を中心にして、外国人(夷)を追い払っていこうという「尊王攘夷運動」が起こるのです。
アメリカの目的は150年たった今でも変わらない。アメリカの本当に友好国として、仲間として欲しいのは、日本じゃなくて中国です。

この時の幕府の中心、将軍もあとで出てくるけど、将軍は、この時代は天下泰平で、よきにはからえ、なんです。
実権は老中首座にある。阿部正弘という。まだ若い。30代の異例の若さで老中になる有用な人です。でもこの時代、タイミングよく人が死ぬんです。暗殺と分かっていればまだしも、とにかく死んだとしか記録は残ってない。何でこのタイミングで死ぬの、というのがよくある。
この後、明治維新の1年前に、将軍が死んで、天皇が死ぬんです。こんなことあるのか。ナンバーワンとナンバーツーが、ふつう同じ年に相次いで死ぬか。ここらへんが明治維新なんです。

ペリーから開国を要求されて、私は答えられない、という。こんな大事なことは天皇じゃないと分からないと。将軍はそこにいるから聞いてこい、と言われても、これで代わすんです。
将軍は王じゃない。王はずっとむこうの京都にいる。行くのに1ヶ月ぐらいかかる、往復するのに2ヶ月かかる。これで逃げたんです。1年間待ってくれと。それでペリーは、1年後にまた来るからと言って、いったん帰る。
ただこの回答によって、江戸時代300年間ほとんど目立たなかった天皇が表舞台に出てくるきっかけになる。


【諸藩の動き】 この間、そのしもじもの下級武士は、どうしていたかというと、参勤交代で江戸に行く人はいっぱいいる。
佐賀藩の副島種臣は、京都に遊学というか、半分学び、半分仕事、京都の情勢をおまえ見てこいといわれる。ペリー来航の前年、1852年、24才です。いったん帰ったあと、1855年から再度京都に上っています。

この1853年、土佐の坂本龍馬、これも高知県から江戸に出ている。このとき17才です。まだ剣術修行していただけで、政治的活動はまだしてない。こういうふうにして、地方武士と京都や江戸とのつながりがある。


【幕府の対応】 ついでに言うと、ペリーがやってきた航路は、ほとんどの人は太平洋を渡ってきたイメージを想定しますが、太平洋航路はまだないです。
アメリカは、やっとこの5年前に、西海岸にたどりついたばかりです。世界史でやったように、アメリカ合衆国というのは、東のこんな小さいところから始まって、それがどんどん西に開拓して、やっと西までたどりついたのであって、新しい西海岸に軍港なんかない。軍港なんかないから、今までどおり東海岸から出発するしかない。これが世界標準地図です。日本は一番東にある遠い国です。アメリカから東へ東へと、こうやってくる。よっぽどアジアが欲しかったんです。

このあと、1年後にまた来る。困ったぞ。今まで幕府のことは、300年間、幕府で決めていた。こんなことはなかった。どうしましょうかと、天皇にお伺い立てたんです。こんなことは、はじめてです。ついでに大名からも意見を聞いてみた。
このとき困ったことには、海外情勢を一番知っているのは幕府です。天皇も大名も、海外情勢を知らない。アヘン戦争がどうなっているのかも知らない。無礼なヤツとは戦え、勝てるのか、勝てるに決まっている、と思っている。現状認識がまったくともなってないわけです。現状認識が伴っていない相手に、いくら相談しても、解決はしません。逆に現状認識が誤っている相手には、相談しないほうが良い。相談すればいいというものではない。知恵がない人に相談しても、判断を誤るだけだから。
彼らは圧倒的に、開国反対だという。ということは、ペリーと戦わないといけないということです。勝てるのか、勝てないんですよ。
このこと自体が、まず従来の慣例を破っている。幕府自体で決めてない。今まで300年間は、幕府独裁、というよりも幕府のことは幕府で決めていた。
それが外様大名まで含めて発言しだした。薩摩藩も外様です。身分は一番低いけれども力がある。長州もそうです。土佐も肥前もそうです。彼らが、言っていいんだと思って、発言力を持ち出します。




【日米和親条約】 
そういう結論が出ていない間に1年過ぎ去った。あっという間に決ます。約束通り1年待て、ペリーが来ました。1854年です。ノーといえないです。条約を結びます。日本は開国します。でも貿易はまだです。これが日米和親条約です。和親だから親しくするだけです。


【諸藩の動き】 このとき、ペリーの日記に、何もない一介の若い武士が出てくるんです。それが吉田松陰という長州の武士です。神奈川沖に停泊しているペリーの艦隊に向かって、家来と2人で、小さな小舟で、夜の闇に紛れて舟をこぎ出して、オーイ、俺をアメリカに連れて行け、という。帰れ、帰れ、オレたちは大事な交渉の前だ、おまえなんか相手にできるものか、と言ったら、それでも引かずに、大声で叫んでいる。ペリーは政治判断から、いや帰れ、という。ここで変なことすると、結べる条約も結べずにアメリカに帰ることになる。オレも子供の使いじゃないから、仕事を果たしたい、だから帰れ、と言って追い返す。
吉田松陰は、何年かあとに打ち首になりますが、その時は、おまえ長州にもどれ、と言われて、謹慎です。ただ家から出なければ、活動していい、という。塾で教えるんです。これが松下村塾です。ここに集まった下級武士たちが、この後、名だたる政治家になる。伊藤博文、井上馨、桂小五郎、山県有朋、ほとんど総理大臣クラスの人間ばかりです。このあとの4~5年、この松下村塾で学ぶんです。多数の下級武士が集まってくる。

昔、見に行ったことがあるけど、本当にお世辞にも、豪邸とはいえない。今は公園化されて神社になり、周囲はお金をかけているけど、建物自体は小さな小屋みたいなところです。こんなところでどうやって講義するんだろう、と思うようなところです。

実は松下村塾は吉田松陰が開いたものではなく、松陰の叔父が開いている塾で、松陰はいわばそこの居候です。だから松陰がそこで授業をしたというよりも、そこが若手下級武士たちの溜まり場のようになり、彼らはそこでいろいろな不満を語り合っていたようです。そこがたまたま塾の一室だったということです。そのリーダーが吉田松陰なのです。


【条約の内容】 1854年、和親条約が結ばれる。それまでは鎖国で、長崎の出島しか、外国船の入る港はなかった。追加して、下田です。伊豆半島です。それから、なぜか函館です。北海道の。供給するのは、薪水、これは水と薪の供給です。
水は水兵さんのお飲み水です。海水は飲めないから。冷蔵庫がない時代に、長期の船のなかで水は貴重です。塩水は飲めないでしょ。水は貴重です。


これは戦争の時に海軍の本当の話なんですが、あの戦友と2人で、戦闘で軍艦から投げ出されて、ボートで海を漂っていた。それから1週間ぐらいで、救助されたから、戦死せずにすんだけれども。その間どうやって咽の乾きをしのいだか。食い物よりもまずは水なんです。何したか。靴をコップ代わりにして、お互いのオシッコを飲みあうんです。これは理にかなったことです。海水飲んだら死ぬんだから。死ぬよりもオシッコ飲んだ方がいい。お互いに飲み合うんです。オレのオシッコ、少し残しとけ、とか言いながら。想像を絶する世界ですね。戦争のサバイバルゲームは。
その水と薪です。薪は蒸気船の薪です。あと食い物も供給する。つまりまだ貿易はしてないです。でも貿易しろというのは、時間の問題です。

後々問題になるのが、最恵国待遇といって、不平等条約のはしりです。アメリカが押しつけてくる。最恵国とは何かというと、このあと、いろんな国と条約を結ばせられる、その結んだ条約の中で、アメリカは一番恵まれた条件になっていないといけない。自動的に条件をスライドさせないといけない、というものです。
本来条約とは、一対一で、どういう内容で結ぶか、お互いの自由です。でもこうなるとその自由がない。これが最恵国待遇です。ひとつの国にこういうことを認めると、アメリカがいいならオレもだ、となる。イギリスは大英帝国です。オランダも、さらにロシアも、それを要求します。なんでアメリカと結んで、オレとは結べないのか、と詰め寄る。理屈が立たないようになる。こうやって次々に不利な条約を結ばされていく。イギリスとは日英和親条約、オランダとは日蘭和親条約、ロシアとは日露和親条約、ずっと結ばせられる。
日露和親条約では、ロシアとの国境も決められた、日本領はこのまえ言ったように、エトロフまでが日本領。その東のウルップ島からはロシア領です。北海道の北にある今のサハリン、つまり昔の樺太は雑居の地です。これが今でも生きていて、日本の主張です。北方領土問題です。これが根拠になっています。でも今はそこにはロシア人が住んでいます。70年前から。


【諸藩の動き】 この1854年、西郷隆盛は27歳です。藩主島津斉彬のお庭番になります。そして島津斉彬に付き従って江戸までついていきます。お庭番というのは表向きで、本当は情報担当です。島津斉彬の指示で、他藩の江戸藩邸に出入りし、藩主の秘密の手紙を渡し、そこで情報を仕入れます。また京都に出向き、近衛家などの公家に会い、朝廷と接近しながら京都の情勢を探ります。すべて藩主の代理として密かに行動します。そのうちに江戸の上級武士やや京都のお公家さんたちの間で顔が利くようになり、自然と人のつながりを持つようになります。このあと西郷は島流しになりますが、あとあとまで西郷が薩摩藩に必要とされるのは、このような江戸や京都での人のつながりを持つ者が他におらず、西郷の人脈に頼らざるを得なかったからです。


1854年、佐賀の大隈重信江藤新平が、藩校の弘道館を退学しています。大隈重信は中級武士です。江藤新平は下級の下級です。大隈は16才。江藤は20才。大隈重信は成績は1番だったらしい。藩校の弘道館で。しかし、藩校の授業内容が気に食わない。今からはオランダでしょうが、という。藩校では儒学ばっかりやっている。儒教ばっかりでオランダ語がないじゃないか。ヨーロッパのことがわからないじゃないか、と言って、こんなところで勉強できるか、と飛び出す。退学です。成績トップでこういうことを言ってみたいですね。これ2番じゃ、ひがみっぽくなる。
でも江藤新平は単純に学費がないからです。彼も切れ者で頭がよかったけど、貧乏で学費が払えないのです。


【国内改革】 幕府は和親条約を結ぶと、まず、これからは海外とのつきあいだ、海軍だ、と言って、1855年に長崎の出島の近くに海軍伝習所をつくる。長崎の防備は、もともとどこが管理していたか。佐賀藩です。ここで学ぶ人を、佐賀藩は48名だします。全国で90人ぐらいだから、半分以上は佐賀藩です。ここで佐賀藩の有能な人物が長崎に行く。長崎は海外情報の宝庫です。


【諸藩の動き】 同じ1855年、大隈重信は、お前がいうことが正しかった、中国の儒教ばかりしている場合じゃない。佐賀藩は、藩校弘道館に、蘭学の専門のコースを設けます。おまえ、そこにはいれ、と言われる。大隈は、1年前には、なぜ蘭学がないか、と言って退学していた。藩が動いたということです。

2年後の1857年には、アメリカで株の暴落が起きて、景気がガタッと落ちる世界恐慌が起こっています。資本主義が乱れ始めています。


【幕府の動き】 このあと4年後に貿易条約をむすぶんですよ。その前に、その4年間の幕府内の動きです。
1857年、まだ30代で元気いっぱいだった老中阿部正弘、この条約を結んだ人が、ぽっこり死ぬ。よくわからない。こういう死に方が流行る。恐いですね。ここらへんは。流行るというか、こういう死に方をする人もいっぱいでてくる。大半は謎です。


平成になってからも、もと財務大臣の中川昭一、大臣クラスで次期首相と目されていた人が、自宅の二階で死んでいた。約10年前です。ある日突然、奥さんが行ったら、冷たくなってた。これは新聞に出ていることです。こういう不審死は今でもあります。

次に座ったのは、老中首座になったのが、堀田正睦です。
この時に徳川一族では、一つのお家問題を抱えてるんです。13代将軍の徳川家定、この人に子供が生まれないんですね。将軍にとって1番大事な仕事は、男の跡継ぎをつくることです。皆な、近くの家来たちは知っているんです。この人は、もともと女性に興味を持てない人だったんですよ。ということは、われわれは、性の自由でいいんだけれども、将軍になると、それじゃあ困る。世継ぎができないのが確定した。できないでしょ、女性に興味がない男だったら。子供できない。これが確定したということは、次の14代将軍を決めないといけない。でもこうなると政治が割れるんです。

それで対立したのが、1人目は、一橋慶喜です。結論いうと、この人が15代将軍になる。14代ではない。一橋家は、徳川の分家で三卿といって三家よりも身分が一ランク下です。といっても実の父は水戸藩主の徳川斉昭です。三家の水戸徳川家から三卿の一橋家に養子に行ったのです。もともとは水戸黄門さんの血筋です。水戸黄門の徳川光圀は「大日本史」の編纂をはじめた人で、この藩は尊王論の強いところです。しかも「大日本史」は現在の天皇家である北朝を正統とせず、南朝を正統とした歴史書です。
もう一人、徳川慶福(よしとみ)という。この人は三家です。紀州藩、和歌山です。家柄はバッチリです。家柄で決定です。徳川慶福が次の14代将軍になります。一橋慶喜は15代将軍になります。ここで一橋慶喜が将軍になっていたら、徳川幕府はつぶれてなかったんじゃないかという話もある。
この徳川慶福を推したのが、譜代大名の井伊直弼(いいなおすけ)です。彦根藩の殿様です。彦根ってどこですか。正月にマラソンがあるところという人がいますが、あれは箱根です。彦根は琵琶湖のほとりです。滋賀県です。




【日米修好通商条約】
このときには、まだ決着つかないまま、世継ぎ争いが続いてる。そうこうしているうちに、イギリスが中国にまたちょっかい出している。1856年に、第2次アヘン戦争ともいう戦争をまたふっかける。アロー戦争です。中国は、またけちょんけちょんに負ける。粉々になって、虫食い状態にされていく。
それをちらつかせる訳です。どうしましょうか。丁寧な言葉で。中国やられましたね、いやぁ、独り言ですよ、と。恐喝はしないけど、事実を念押しする。やっぱり脅しですね。
こういうのは、交渉に当たった本人が一番困る。攻められたら勝てない。一歩譲って、ここは結ぶしかない。しかし結んだら、周りはそんなこと気にせず大反対でしょ。開国反対です。
老中の堀田正睦は身が危ない、と思う。この時代、よく殺されるから。オレの責任じゃないように、天皇の責任にしないといけない。天皇さま、よろしいでしょうか。天皇の許し、これを勅許という。勅は天皇です。教育勅語の勅とか、この字は明治によく出てくる。天皇を指す言葉です。
しかし天皇も海外情勢を知らない。天皇も開国反対です。即座に拒絶です。
その間に、14代を押していた彦根藩主の井伊直弼は、そんな悠長なことしている場合じゃない、早く次の手を打ったほうがいい、と思う。
堀田正睦が京都に行っている間に、幕府内でクーデターを起こすんです。オレが幕府を仕切る、と。非常の時にしか、めったにならない大老になる。クーデター成功です。井伊直弼が大老に就任する。


そして1858年、大老の井伊直弼が、日米修好通商条約を結ぶ。通商とは貿易です。
これで物騒になってきた。ここからですよ、本格的に幕末の騒乱状態にはいるのは。
堀田と違うのは、いやオレの責任でいい、と無勅許でやる。つまり天皇の許可なしでやる。しかし殺されはしないぞ。徹底して反対派と戦うつもりなんです。
しかしこの2年後、やはり殺されます。無勅許でやって、自分の責任でやって、こんなことやったのは誰だ、と非難が高まる。

それで貿易がはじまるのが、神奈川長崎、新潟、兵庫、と四つでできるようになった。
ただ最大の貿易港なっていくのは、神奈川といったけど、神奈川の中心地からはずれた、ひなびた漁村で、横浜村というのがあったんですよ。実際には、横浜に変わる。
横浜は今は大都会だけれども、この時はひなびた漁村です。福岡市から西のほうに行った今宿の近くに、横浜という地名がある。横浜というのは、横の浜でしょ。浜はどこにだってあるし、よくある地名です。この時までどこにでもあるような小さな漁村なんです。

これも不平等条約です。同時に不平等条約を押し付けられる。まず関税自主権がない。貿易する時に、外国製品に関税をかけるのは、国として当然の権利なんです。でもそれがない。自由にかけられない。関税自主権がない不平等条約です。
もう一つある。まず考え違いをいうと、例えば他の国に唾はいたら罰金10万円だとする法律があれば、オレは日本人だから関係ない、と思っている人がいる。その国で、唾はいたら10万円の罰金という決まりがあったら、当然そこに行った日本人は、その国の法律に従わないといけない。これが当然なんです。裁かれなかったら、どうなるか。人を殺したって日本人だから帰っていいことになる。日本でこれができるのは沖縄の在日米軍だけで、だから問題になっているでしょ。そんなことがあっていいわけないじゃないですか。日本でリンゴを盗んだアメリカ人は、当然、日本の裁判で裁かれないといけない。でもそうじゃないんです。
日本にいるアメリカ人の領事が裁く。といっても、実際には裁かない。はやく逃げろという。実質的に無罪なんです。こういう不平等条約を、別名で治外法権ともいう。外国人を裁くことができないということです。
この条約も次々に、アメリカと結んで、なんでオレと結ばないか、オランダと結んで、イギリスと結んで、フランスと結ぶ。ここでフランスが来たました。これで世界の二大国家、イギリスとフランスが日本にやって来ました。右に行けばイギリス、左に行けばフランス。ヘビ二匹からにらまれたカエルみたいなものです。イギリスとフランスではさまれて、タダですんだ国はないです。そして貿易が始まった。


【五品江戸廻送令】 アメリカとイギリスが欲しかったのは、実は日本製品の生糸です。江戸時代の300年間で日本は作れるようになった。これが良質だった。そしたら外国人商人が、横浜で買い占める。
江戸に近い横浜で買い占めると、本来は江戸に入っていた生糸が、江戸にはいらなくなる。それで、生糸に4品目を加えて、1860年にまず江戸から回せ、それが余ったら横浜だ、と幕府が命令した。これを五品江戸廻送令といいます。しかしこれ何がおかしいか。江戸の商人は従来通り100円で買うとする、でも横浜のイギリス人が120円で買うとする、すると売る方はどっちに売るか。
経済ルールと政治ルールと違うんです。モノを売りたい時に、100円で買う人と、120円で買う人がいたら、どっちに売るか。120円に決まっている。これは政治は、こんなことまで変えられない。
それで生糸を売る在郷商人が反対する。だから失敗する。幕府の統制が効かなくなっているということです。


【金の海外流出】 それからもう一つ。外交が始まると、日本は300年のあいだ鎖国していたから今まで関係なかったですけど、貿易がはじまると、取り引きするお金は、金か銀なんですよ。日本は金もつかっていたし、銀もつかっていた。江戸の金遣い、大坂の銀遣いです。その交換比率は、金対銀で、1対5です。しかしアメリカやヨーロッパは、金と銀の交換比率が、1対15なんです。頭の回転のいい人は分かる。ぼろ儲けできるでしょ。
イギリスから15グラムの銀を持って日本に来ると、日本の交換レートは、1対5=3対15です。15グラムの銀で3グラムの金を買う。
この3グラムの金をイギリスに持っていったら、イギリスの交換レートは、1対15=3対45ですから、これは45グラムの銀になる。これ合法でしょ。つまり15グラムの銀を日本に持って来ただけで、日本で金を買って往復すれば3倍に増える。
ということは日本のが外国に流出する。これで日本は、金が足らなくて、なかなかのちの金本位制が確立できなくなる。経済的には二流国家になります。
ちなみに現在の金と銀、1対40、もっと銀は下がってる。金が上がった、このあと150年間で、金が上がって、銀は落ちている。ヨーロッパは金中心の取り引きをしていくからです。


そうなると、政府は、1860年に大判小判の小判の量を三分の一に落とす。これを万延小判といいます。ということは、1枚の小判が3枚になるということで、そうなると小判の量が3倍になる。すると政治経済の授業と同じで、通貨量が増えれば物価はどうなるんですか。物価は高騰するんです。
庶民はモノの値段が上がると喜ばない。今ぐらいのものですよ。政府が物価を2%上げるぞー、といって、そうだそうだと連呼している。これはアベノミクスです。
ふつうは物価が上がると庶民は困る。不満がたまる。その不満は誰に向けられるかというと、開国した幕府が悪いんだ、ということになって、幕府への不満が増大していく。幕府不利です。
ここから多くの日本人が幕府に対して頭にくるんだけれども、ペリーと戦ったらどうなるか、中国のアヘン戦争のようになってよかったのか、ということはあまり言いません。
これで終わります。

新「授業でいえない日本史」 26話 近代 井伊直弼~薩英戦争

2020-11-01 04:40:00 | 新日本史4 近代
【井伊直弼の独裁】 こういう幕府への不満が増大する中で、幕府の大老に就任したのが彦根藩主の誰だったか。井伊直弼です。歴史上では悪役で有名で、よく出てくる人ですけれど、これは善人でも、悪人でもないですよね。政治的なスタンスの違いです。私は個人的には好きです。この人は、理屈が分かっているから。対立して一歩も引けないという時になると、人も処罰していく。代わりに命取られて、殺されていく。それはそれで仕方がない。殺されていいとか、変にとったらダメだよ。そんなこと言っているわけじゃない。
このときに女に興味を持てない将軍さんがいた。よく死ぬんです。1858年、13代将軍徳川家定が死ぬ。そうすると、井伊直弼が押していたのは、一橋慶喜じゃなくて、紀州藩主の徳川慶福だった。この人が14代将軍になって、将軍になって名前を変える。徳川家茂(いえもち)という。14代将軍です。


【安政の大獄】 それで反対派の不満を押さえる。1858年に反対派を牢に投獄する。これを、安政年間だから、安政の大獄という。獄に入れる、牢屋に入れるということです。反対派をこうやって弾圧する。一番文句言っていた人間は、長州の吉田松陰です。前に言ったけど、ペリーの船に夜の闇に紛れて近づいて、アメリカに連れて行け、オレはどうしてもアメリカが見たいんだ、という。なぜ見たいのか、と問うと、日本をよくするんだ、という。すごい日本人だな、とペリーが日記に書いていた。
この人、自分の考えを曲げろと言われても、いや曲げない、という。ふつう、ハイわかりました、と言って、牢屋から出て、また信念が変わりました、とかいって出ればいいのに、そういう方便がきかない。それで処刑です。
この4~5年のあいだに、彼の松下村塾というところで学んでいた若者たちが、後のそうそうたる政治家、総理大臣クラスになるという話はしました。


【諸藩の動き】 この1858年、通商条約が結ばれた年から、動乱は本格的に始まる。人がよく死にます。1858年、まず薩摩の殿様の島津斉彬が死ぬ。原因不明の高熱。どうも2~3日で死ぬ。ピンピンしていて病弱でもなんでもないのに。この殿様のお抱えで、身分はお庭番だけれども、信頼を集めていた情報担当、これが西郷隆盛です。
西郷はこのとき後ろ盾を失って、鹿児島桜島の浮かぶ錦江湾にお坊さんと2人で入身自殺をする。坊さんは死ぬ。しかし西郷隆盛だけ、助けられて息を吹き返した。ここからこの人の不幸が始まる。何で死なしてくれなかったのか、と。そして奄美大島に島流しになる。

翌年の1859.9月、あるイギリス人が長崎にやって来ます。トーマス・グラバーです。あの長崎の観光名所グラバー邸の主人になる人物です。イギリス商社の代理人として長崎やってきたのです。この商社は、ジャーディン・マセソン商会といって、今でもあるイギリスの大商社、大財閥です。日本人はアメリカの大企業は知ってても、イギリスの大企業はあまり知らないのです。今でもあるイギリスの大企業です。この企業はどうやって成長したかというと、アヘン戦争です。中国にアヘンを売りつけることで成長した企業です。

1840年のアヘン戦争は、この会社の社長ウィリアム・ジャーディンがイギリス外相パーマストン(のち首相)に手紙を書いて、引き起こしたものです。その背後には、ヨーロッパ最大の金融財閥ロスチャイルド家が見え隠れします。またグラバー園内のリンガー邸脇には、フリーメーソンのマークの彫られた石柱もあります。私が見に行ったときにもありました。
そのジャーディン・マセソン商会の代理人としてやってきたグラバーはまだ若干20歳、非常に若くしてやってくる。彼が日本に売りつけるものは鉄砲・大砲などの武器です。武器商人です。
このころ、1855~1865年までの約10年間、イギリスの首相を務めたのはパーマストンです。この人は1840年のアヘン戦争の時のイギリスの外務大臣です。イギリスの植民地政策の基本は、相手国の対立を利用して「分割統治」することです。相手国の反政府勢力に目をつけ、それを支援しながら、親英国家をつくり、影響力を強めていきます。

佐賀藩は、それまでお城の北方に精錬方を設置して、鉄を作り、大砲をつくっている。そういう日本随一の近代科学工場をもっていた。1858年には、筑後川支流の早津江川沿いに、数年前に世界遺産になった三重津海軍所をつくります。

1859年、アメリカ人のフルベッキが長崎に来た。これはどうもオランダがらみみたいです。アメリカは移民の国で、日本はオランダと江戸時代つき合ってる。そのオランダからアメリカに移住した人です。本業は宣教師なんですが、憲法・政治に非常に明るい人です。そういう人が長崎に来て、佐賀藩と繋がりができ英語を教える。このあと佐賀の大隈重信に教えたことは、宗教じゃなくてアメリカ憲法だったんです。

1859年、佐賀の江藤新平は、この時に藩校の弘道館を1度やめて、またオランド語を学んでいるんですが、やっぱりお金が続かずに蘭学寮をやめ、下級役人の仕事を始める。どうも佐賀にいないような、情報担当みたいなことをやる。情報担当というと、アメリカのCIAとか、かっこいい上級官僚みたいですけれども、身分の低い人がやる仕事です。なぜか。危険な仕事だからです。殺されてもかまわないような人間じゃないとダメです。忍者がそうです。ただ実力はある。そういう動乱期に入っていく。

伊藤博文はもともと萩から遠く離れた瀬戸内海に面した山口県東部の農民の生まれですが、萩で来原良蔵という武士に出会ったのを手始めに、吉田松陰、木戸孝允、高杉晋作と次々に明治維新の重要人物と出会っていきます。
伊藤はすでに、1858.10月には、来原良蔵の手付き(雑用係)として長崎の毛利藩邸に出向き、翌年1859.6月まで西洋式の練兵や砲術を学んでいます。長崎の事情には明るい人物です。
来原良蔵は木戸孝允の義弟にあたったため、その縁から次には木戸孝允の手付きとして活動しはじめます。
同年1859年には木戸孝允について江戸勤務となっています。そして江戸で吉田松陰が処刑されると、その遺体を伊藤博文らが受け取りに行っています。




【開国後の政局】
【尊王攘夷運動】
 そういう中で幕府は、藩の反対を押し切って貿易を始めた。何も知らない藩は「外国人なんか大嫌いだ」と、幕府への反発を強める。幕府の代わりに尊王が出てくる。王は誰を指すか。将軍じゃない。天皇を指します。

そして外国人が大嫌いだ、打ち払おうという攘夷です。これが尊王攘夷です。夷は外国人です。天皇を敬い、外国人を打ち払おう、という運動が激化する。これを尊王攘夷運動といいます。
それと同時に、日本の本来の姿を探る国学も、江戸の末期から流行っていた。この国学も尊王攘夷運動と結びつきます。


【桜田門外の変】 そういうなかで開国を実行し、貿易を実行した人物を殺ってしまおう、という動きが出てくる。江戸城の入口にいくつか門がある。1860年桜田門外の変が起こる。雪が降っていた。真っ白な雪に、真っ赤な鮮血がパーッと散る。殺されたのは大老の井伊直弼です。その門の外で井伊を待ち伏せしていたんです。
暗殺の主体は水戸です。それに薩摩の一部です。これによって幕府の中心人物である井伊直弼の独裁も崩壊する。


【諸藩の動き】 1861年、薩摩の小松帯刀が長崎に行きます。このとき26歳ですが、翌年の1862年には薩摩藩の実権を握る家老になります。小松家は西郷や大久保とは違って名家ですが、肝付家から小松家に養子にはいったまだ若い小松帯刀が長崎に行くと、翌年には急に家老に取り立てられるという動きも、ちょっと不思議です。この小松帯刀が島流しになった西郷隆盛を鹿児島に連れ戻すことになります。


佐賀藩主の鍋島直正が、翌年の1861年に、どうも嫌気がさして引退するんです。隠居する。活動をやめてはいないけど。もうあとはまかせた、と。しかし佐賀は隣の長崎との関係は切れません。
同じ1861年に、オランダ語でめきめき頭角を現した大隈重信は、弘道館の蘭学教授になります。このとき23歳。そして今からはオランダ語じゃなくて英語だ、長崎にフルベッキという人が来たぞ、と教えを請いに行きます。
佐賀藩は、この1861年に長崎のイギリスの武器商人グラバーにアームストロング砲を注文しています。


【公武合体運動】 井伊直弼は、幕府の運動は、今までは天皇には頼らない、幕府だけの力で行こうとした。しかし井伊直弼は殺された。
やっぱり天皇の力が必要だ。これが公武合体運動です。公とは何をさすか。天皇です。武は幕府です。天皇と将軍が力をあわせようという動きです。具体的には政略結婚です。これを進めたのが、このあとの中心になる老中安藤信正です。

ちょっと複雑なことに、薩摩は、殿様の島津斉彬が死んだでしょ。では薩摩の実権を誰が持つかというと、島津斉彬の腹違いの弟、昔はこんなのはいっぱいある。殿様はいっぱい嫁さんもっているから。島津久光という。しかし、この人は殿様にはならない。ただ実力者ということです。これと西郷隆盛が仲が悪い。この人はこの人で、私はそれなりに好きですけどね。
個人的なことは言うなという人がいるけど、歴史ほど個人的なものがなくなったら、無味乾燥で面白くないものはないです。それこそ年代、何月何日に、何が起こった、何が起こった、と並べただけで歴史になる。それをどう評価するかは、どうしても個人的な判断がかかわらざるをえない。

ではその公武合体というのは具体的には何か。天皇の妹がいた。この時の天皇は孝明天皇といいます。明治天皇のお父さん。その妹。だから皇女和宮です。
14代将軍になったばかりの徳川家茂はまだ若くて独身なんです。タイミングがあう。2人を結婚させよう。いわゆる政略結婚です。これが1861年です。だから一般的には、政略結婚の犠牲になった不幸の中心人物が皇女和宮だ、というイメージなんだけれども、人間の人生というのは分からないもので、どんな形で結婚しようと、男と女の相性というのは、やってみないとなかなか分からない。
結婚するといたって仲睦まじいんです。だからこの人の本当の不幸は、政略結婚させられたことではなくて、夫の将軍家茂が早死にすることです。この将軍は数年後に死にます。明治維新直前で。さらに同じ年に、皇女和宮の兄である孝明天皇も死ぬ。不思議ですね。なぜ。死んだと書いてあるだけです。
政略結婚というのは、こういう風によくある。洋の東西を問わず、ヨーロッパでもあります。


【坂下門外の変】 それでは反対派の動きです。こんどは江戸城の入口に坂下門というのがある。そこで、安藤信正のヤツ、いらんことしやがって、殺ってやろう、という人がいる。安藤信正暗殺、これは未遂です。だから安藤信正襲撃です。1862年坂下門外の変です。
これをやったのは水戸浪士です。一命はとりとめたんだけれども、人間は突然ブスッとやられると、この人は腰が立たなかったらしい。それは無理もないと思う。お命ちょうだいと言って、籠で揺られている時に、外から突然ブスッとやられて腰が立たないというのは、私は仕方がないと思うけれども、人間の本能で危ないと思ったら、その場を動かないといけない。
動く様が腰が立たないから、犬猫のように四つんばいで逃げた。それをみんな見ている。それが一人歩きして、こいつはヘナチョコだということになって失脚していく。

そういうことがあって、明治になって、板垣退助が暴漢に襲われて、腹をブスッとやられた時に、毅然として、板垣死すとも自由は死なず、と言ったといわれる。あれはウソです。腹を包丁で刺されて、言えない。
そういうことで、この安藤信正は失脚する。その後どうなるかというと、井伊直弼は暗殺、そのあとの安藤信正も失脚。いよいよ、幕府は屋台骨が崩れはじめた。


【文久の幕政改革】 そこで出てくるのが、さっき言った薩摩藩の実力者の島津久光です。同年の1862年、幕府に、しっかりせんかと、幕政改革を要求する。これを文久の幕政改革といいます。ここで注意は、薩摩はここでは、幕府を支える側に立っていることです。薩摩の藩論は、倒幕ではなく佐幕です。佐幕とは幕府を支えることです。
でも時代は変わったもので、薩摩という外様大名が、実力があるとは言え、将軍家の徳川に指図しに行くんだから。鹿児島から江戸まで。それをまた幕府がハイ分かりましたと聞く。こういう時代になったということです。


西郷隆盛は、この1862年にやっと島流しから赦免される。許される。連れ戻したのは家老の小松帯刀です。鹿児島に戻ってきたかというと、また島津久光と意見が対立して、おまえまた島に戻れと、今度は沖永良部島に2回目の島流しになる。
こうやって島流しされたあと、西郷隆盛の場合には、ヤクザがムショ入りしたら逆に箔がついて帰ってくるように、藩主に楯突いて2回も島流しになって、死なずに生きて帰ってきた人だと、だんだん格が上がる。そうでないと島流しにされた人が、このあとなぜ薩摩の実権を急に握るのか分からなくなるでしょ。この西郷を取り立てたのが家老の小松帯刀です。小松帯刀と西郷隆盛は薩摩の実権を握って、次には幕府軍の実権も握っていくんです。そのメカニズムが不思議ですね。



【生麦事件】 ただ島津久光による文久の幕政改革は後からみると、おまけです。メインはこの直後に起こる。この人がこの仕事を成し遂げて、今度は江戸から薩摩に帰る1日目、横浜村の隣の生麦村で生麦事件が起こる。1862年です。
大名行列の前を、それを知らないイギリス人が道を横切った。馬に乗って。すると、無礼者、無礼打ち一発です。薩摩藩がイギリス人を殺した。それはそれで、法的に裁かれればいいけれども、相手はイギリス人です。
政治がからむと、1人が死んだことによって、強い国はいろいろ条件を突きつけてくるんです。どうしてくれるんだよ、オイ、オレの大事な弟分を殺してくれたな、落とし前をどうしてくれるんだ、と。いろんな条件を突きつけてくる。


【諸藩の動き】 このころ、藩の力とは別のところで動いていくのが坂本龍馬です。この10年近く前に、17歳の時に剣道を学びに、江戸に1度出たことがあったけれど、土佐藩に帰って、下級武士だからイヤになって、1862.3月に脱藩して藩を飛び出す。普通は脱藩は捕まったら死刑です。
坂本龍馬は誰を訪ねていったか。これも幕府の下級武士です。ただ能力だけで伸びていく勝海舟という人を訪ねていく。勝の家には、いろんな人がいて、勝のお化け屋敷と言われるぐらい、行く度に客人が10人ぐらいいて、勝海舟に「あの人誰か」と聞いても、「オレも知らない」という。自分の家に留めている客人の名前さえ知らない。何が出てくるかわからないから、お化け屋敷といわれる。いろんな人が動いている。

佐賀の江藤新平も、坂本龍馬の脱藩の3ヶ月後の1862.6月に脱藩する。そして戻って来て捕まえられる。裁きを受ける。ふつうは脱藩は死刑ですけど、なぜか蟄居で済むんです。謹慎処分です。背振山系の山奥のお寺に。見に行ったら、その金福寺というそのお寺は今は廃寺になっていて、住職さんも誰も住んでいない。いまは荒れ果ててますが、そのお寺で、おまえ謹慎しろ、ということです。2年間ぐらいはそこにいて、2年後の1864.7月に許された。
しかし、佐賀の背振山系の山奥の寺にいるはずの江藤新平が、このあとで言う1863.5月の長州による外国船砲撃のあと、隣の筑後久留米藩の記録に出てきて、久留米水天宮宮司の真木和泉が佐賀藩の江藤新平と会い、さらに久留米に来ていた長州藩士ともあって、佐賀藩から長州藩への大砲の供給について話し合ったという記録が出てくる。おかしい。つまり蟄居してない。蟄居させるつもりがないんです。公式記録は蟄居ですが、しかし実際には動いている。こういうのを忍者とは言わないけど、やっぱり密偵です。情報探索です。それをやっている。

そういう意味では、長州の伊藤博文もそうです。日本初の総理大臣になる人です。さらに4度も内閣総理大臣になる人です。総理大臣在任期間も長い。この人も長州の下級武士です。この時には、長州の武士たちの中でも一番下です。
何してるかというと、1862.12月には、東京の品川あたりのイギリス公使館の焼き打ちの実行部隊をやってる。これは公式記録で、裏の記録ではありません。その一週間後には、伊藤は国学者の塙次郎を斬っています。
裏の記録は、この人は女好きだったということ。よく京都の祇園あたりに遊びにいっている。なじみの女がいて、その女の話では、今日は人を殺ってきた、というのが分かったといいます。どうも多くの人を殺ってる。だからドスが効いている。この時代の伊藤は一種のテロリストです。長州には藩全体にこういう気風があります。

その翌年の1863年に伊藤博文はイギリスに密航します。だからイギリスで英語を覚えるんです。テロリストが英語を覚えて帰ってくるんです。頭がいいし、ドスが効いてる。すごみのある人です。
だから本当は若い頃、子供のころから何をしてたか、本を探すけど、あるのか知らないけど、私が探したところではないです。だから分からない。10代半ばまで何してたのか。これほど有名な人が、調べようとしてもなかなか分からない。



【長州】 では次、その伊藤博文の長州、山口県です。ここは、幕府も嫌いだし、外国人も嫌いなことで一貫しています。藩論は尊王攘夷、これ一本です。特に1862年に開国派の長井雅楽(うた)が失脚してからはそうです。天皇を中心にして、外国人を打ち払おう、これでまとまる。そのためには、政治の中心はもう江戸じゃない、天皇がいるところだと、つまり京都で活動する。だから一時、京都の町は長州の侍だらけです。

その中心人物が高杉晋作です。この人も松下村塾出身です。吉田松陰の弟子です。しかし彼もまた遊び好きです。しかも女にもてる。伊藤博文は女好きだったけど、女からどうも怖がられるようなところがあった。彼は上手に三味線ひいて、今でいうギターですよ、ギターをひいて、あっ晋作さんだ、と女が寄っていくようなタイプです。


【攘夷決行】 翌年1863.3月、将軍が約200年ぶりくらいに京都に入ってくる。天皇から呼ばれて。将軍に任命するのは、誰が任命するのか。任命するのは、天皇ですね。そしたら任命されに来なさい、と言われる。約200年ぶりに。
今まで、そんな将軍いないのに。それを言うと、それなら任命しないぞ、という。天皇と将軍の力関係が逆転している。それで200年ぶりぐらいに将軍が京都に入る。そこで将軍に任命する代わりに、条件を出される。外国船を打ち払え、と。おまえは征夷大将軍だろ、征夷だから悪さをする外国人(夷)を打ち払うのが征夷大将軍じゃないか、打ち払えよ、と言われて、ハイという。ここらへんは騙しあいです。では、いつするのか。期日を決めとかないと政治は動かない。

何年か前、憲法には、4分の1の国会議員の賛成があると、臨時国会を開かなければならない、と書いてある。1/4の賛成があった。安倍さんは、でも開かない。それで済んだんです。なぜか。いつ開けと書いてないからというんです。だから、いつか開きますよ、と言ったまま開かない。首相が開き直るとこんなことができる。だから、日にちはきっちりと書かないと、そのうちに、とかいう約束は、政治のなかでは約束したうちに入らない。不誠実な世界ですよね。

いつまでにするか。これが大事です。その2ヶ月後の1863年5月10日と決めた。将軍が全国に命令を出す。それで、全国が一斉に外国人を打ち払ったかというと、そこは、わかっている、ハイと言ってしないんですよ。ハイと言って本当に実行したのは、長州藩だけ。長州藩が下関海峡から、そこを通る外国船に向かって砲撃する。

このあたりを説明するのは、命令どおりになってないから、非常に説明しにくいというか、考えれば考えるほど理屈どおりではないから、ある学校では文句をいう生徒がでてきたりする。なんでだ、理屈通りなってないじゃないか、納得いかない、と言うんです。そうなんですよ、納得いかないことで動いているんです、この時代は。攘夷決行宣言を約束通り実行した。1863年5月10日、でもこれは長州藩だけです。


【諸藩の動き】 その2日後、伊藤博文や井上馨ら長州藩士5人が、密かにヨーロッパに密航した。ヨーロッパのイギリスへです。俗に「長州ファイブ」といって、これは有名で映画にもなったから、秘密でもなんでもない。



映画「長州ファイブchosyu five」予告編



これを仲介したのは、イギリスのジャーディン・マセソン商会横浜支店の支配人です。でも実は、段取りを整えたのは長崎のグラバーだとも言われる。グラバーもジャーディン・マセソン商会の長崎での代理人です。イギリスでは、このジャーディン・マセソン商会の社長ヒュー・マセソン直々に彼らの面倒を見ます。伊藤はそのヒュー・マセソンを通して、イギリス政財界の重要人物と接触していきます。わずか22才の下級武士に対する対応としては破格の扱いです。

佐賀藩は、この1863年ごろにイギリスからアームストロング砲を購入している。ということは、誰から購入するか。長崎の防備は佐賀の管轄であった。管理地であった。そこにトーマス・グラバーという武器商人がいる。イギリス人です。アームストロング社という大砲会社は、イギリスの大砲会社です。
ただこのアームストロング砲は、有名な割には、どうやって購入したかという経緯がよくわからない。手に入れたことだけは事実なんですけど。この大砲を持っているのは、この段階で佐賀藩だけです。


【奇兵隊】 長州ではこのあと変な動きがある。下関海峡での攘夷決行の1ヶ月後の1863.6月に、高杉晋作が、変わった兵隊をつくる。これが奇兵隊です。何が奇か。兵隊は武士と決まっていた江戸時代に、農民を集めて兵隊をつくる。農民兵です。このための資金を提供したのが下関の廻船問屋の白石正一郎という豪商で、その白石正一郎の家が奇兵隊の本拠とされました。

戦国時代、長州の藩主毛利家はもと広島を根拠地にしていた戦国大名でした。しかし関ヶ原で敗れたのち大きく石高を減らされて山口に移されます。そのとき知行地の不足から、家臣に加えてもらえない人々が多く生じますが、そういう人々が農民身分となってついてきます。これらの農民身分の人々には「オレはもともと毛利家の家臣だ」という意識があったといわれます。

江戸時代の兵農分離のなかでの奇兵隊の結成は、そうでも考えないと考えられないことです。高杉晋作が農民兵である奇兵隊をつくれたのも、そういう長州の気風が農民層にまで及んでいたからだといわれます。奇兵隊そのものが明治維新の一つの奇跡です。ただこれにはもっと身分の低い人たちの動きもからんでいます。

伊藤博文は農民の出です。といっても村の庄屋の親戚筋に当たり、村のリーダー格です。本名は林利助といいます。彼の生家は萩城下ではなく、広島県に近い山口県東部の瀬戸内海に面した光市にあります。生家跡は今は記念館になっています。そこは萩城下から遠く離れた場所です。10才までそこで過ごしました。そこから日本海側の萩城下に引っ越し、14才の時に足軽の伊藤家に養子に入った人です。
伊藤博文の生家のある光市近辺からは多くの政治家が出ています。隣の田布施町からは戦後の首相岸信介が出ます。彼の実弟は佐藤栄作、外孫は安倍晋三。ともに日本の首相です。戦前の外務大臣を務めた松岡洋右も、伊藤博文と同じ光市の出身です。

この光市では、下関で奇兵隊が結成されたあと、それに続いて、田布施町との境界の石城山にある石城(いわき)神社を本拠地として第二奇兵隊が結成されています。のちの幕府が攻めてくる長州戦争のときには、ここが守りの前戦基地になります。


【薩英戦争】 でも忘れてはいけない。1年前の生麦事件を。生麦事件は村の名前です。生麦・生米・生卵とかじゃない。たんに村の名前です。薩摩藩によってイギリス人が殺された事件です。
その仕返しにイギリスがやってくる。これが薩英戦争です。薩摩とイギリスが戦う。長州藩による下関での攘夷決行から2ヶ月後の1863.7月です。薩摩は完敗します。薩摩の錦江湾に浮かぶイギリス船まで、薩摩の大砲がとどかない。逆にイギリスの船から撃った大砲が鹿児島の市街まで届く。ふつう船から撃ったら、船が揺れて、あまり飛ばないんです。それでもイギリスの大砲は届くんです。
それ見て、何がわかったかというと、勝てないというのがわかる。これが薩摩の開国派が力を強めます。それ以前から薩摩は藩論としては、開国した幕府を支持する佐幕開国派です。まだ開国派と攘夷派が入り乱れる中で、開国派が力を強めます。開国という点ではイギリスの方針と同じです。イギリスも開国方針をとる薩摩には接近しやすいのです。

そして薩摩もイギリスの武器が欲しい。翌年の1864年、開国派の小松帯刀は、長崎にいるイギリスの武器商人グラバーから船2隻を購入します。こうやって小松帯刀と長崎のグラバーとのつながりができていきます。

これで終わります。

新「授業でいえない日本史」 27話 近代 八月十八日の政変~1865年

2020-11-01 04:30:51 | 新日本史4 近代
今、ペリーが来てから10年ばかり経った1863年のことです。
ペリーが来てから5年間は、たいしたことなくて、実際に動乱状態になって行くのは1858年の日米修好通商条約からです。ポイントは、修好じゃなくて、通商です。貿易が始まったのです。
300年間の鎖国が破れて、日本の経済状態は混乱していく。そういったところから動乱が起こって、幕府は何だ、いらんことしやがって、条約なんか結びやがって、開国なんかしやがってと不満が高まっていきます。
今では開国するのが正しいとみんな思っています。明治維新が不思議なのは、その開国という判断をした幕府がつぶれることです。幕府がつぶれたあとの薩長政府も、よりいっそう開国方針を強めます。それなのに最初に開国方針をとった幕府がつぶれる。幕府のどこが悪かったのかよく分からないのです。

でもこの時は開国なんかして、バカじゃないか、と思っているんです。その批判を一身に浴びているのが幕府です。

徹底的に反幕府で、幕府なんかつぶしてしまおうというのが長州です。山口県です。ここは一貫して倒幕です。
これを4文字熟語で教科書流にいうと尊王攘夷となる。王は天皇です。ということは将軍は要らない。代わりに天皇を尊重する。攘夷の意味は、夷は外国人です。外国人を追い払うということです。


これに対して薩摩は藩内で賛成、反対ありながらも、幕府いいんじゃない、支えていたほうがいいんじゃない、となる。これを4文字熟語で書くと、佐幕開国となる。佐幕というのは幕府を支えること。尊王の反対です。開国というのは説明は要らないでしょう。外国人を討たない。つまり薩摩と長州は敵同士なんです。複雑な明治維新の結論を先にいうと、この水と油の薩摩と長州が手を組むなんていうことは、ありえなかったんです。こういうありえないことが起こったんです。これが1866年の薩長連合になっていく。坂本龍馬が有名なのは、この立て役者だから、という筋書きになってる。本当かどうかは、よく分からないけれども。
違った主張を言い張っていても結論が出ないから、そこは政治はいつも妥協の産物です。どこをお互い譲歩するかです。半分ずつにするんです。
結論は何か。半分ずつにした何になるか。明治維新それから平成に至るまで、日本の路線は、尊王と開国です。日本の近代化とは尊王開国です。これが結論です。つまり「尊王攘夷」と「佐幕開国の半分ずつを取って「尊王開国となる。だから天皇がある。年号もある。なんでこんなことになったのか。そうなるまでのことを、これから見ていきますが、まず薩摩と長州は、ここでは徹底して憎み合っています。




【八月十八日の政変】
その薩摩から見たら、外国船を討つなんていうことは、きちがい沙汰だ、ということを長州がやった。これが、1863.5.10日の長州による外国船砲撃です。全国一斉と言ったけれども、他の藩はホンネを知っているからしなかった。
こんなことをしていたら、外国からつぶされてしまうぞということで、薩英戦争の1ヶ月後、1863.8.18日に、薩摩藩が長州藩を京都から追い出したんです。これを8月18日の政変といいます。

イギリスに勝てないといち早くわかった薩摩藩にとって、外国人を打ち払おうとしている長州は危険極まりない藩です。こんなの相手と戦ってどうするんだ、これは国を滅ぼすことだ、と。それで薩摩藩が、長州の政治活動の中心である京都を制圧して、公武合体派と手を組んでいく。
尊王攘夷派の公家、というのは長州に味方する公家グループです。外国人を打ち払え、外国人と戦うぞという公家たちです。これを罷免する。クビです。そして京都から追放する。これが七人のお公家さんだったから、七卿落ちという。行く当てがないから、雨の中、長州に逃れて行った。
これで、薩摩と長州の憎しみはピークに達した。天皇がいる京都が政治の中心地になっていた。この結果、長州の勢力は京都から廃除された、ということです。これが1863年です。ここから動き出す。いろんな人物が蠢いています。


次の年の1864年になると長州は、やられてばかりじゃ、武士のメンツが立たない。やられたらやり返すぞということで、今度は長州が薩摩に対して・・・・・・京都は薩摩が握っているから・・・・・・京都を攻める準備をしだす。



【諸藩の動き】 この間に主要人物は、いろんな動きをしてます。土佐を脱藩した坂本龍馬は前年の1863.1月から勝海舟の門下生になっています。龍馬は、1864.2月に、勝海舟に連れられて長崎に来ている。長崎には、トーマス・グラバーがいます。アヘンを密売している会社の代理店を勤めてる人で、武器商人です。
長崎に行くと、グラバー邸の下にある記念館がある。それは香港上海銀行というイギリス最大の銀行の支店で、これは今も記念館としてあります。その香港上海銀行の設立にも、グラバーの親分のジャーディン・マセソン商会が関係しています。こんなものが、ごく平然と記念館になっているところが、すごいことです。

西郷隆盛は龍馬が長崎に来た同じ月の1864.2月、西郷は2回目の島流しから鹿児島に戻ってくる。そしたら箔がついている。あいつは不死身だ。島流しになるとたいがい死ぬんですが、死なずに戻ってきた。それが人望を集める。この年に幕府軍が長州を攻める。次に言うけれども。その司令官になる。島流しの牢獄にいた人間が司令官になる。激動の時代には、こういうことが起こる。
南アフリカで大統領になったネルソン・マンデラは、大統領になる以前は何だったか。禁固20年間の政治犯です。政治犯が大統領になる。これが動乱です。幸いにしてこの70年間、日本にはそんなことはないけど。動くときはこうなります。


【禁門の変】 5ヶ月後の1864.7月禁門の変が起こります。禁門とは京都御所の門の一つです。京都御所というのは、このとき天皇が住んでいたところです。

これは長州の動きです。勢力回復のため上洛する。上洛とは、京都に上ることです。天皇がいるところに上ることです。この時、長州は京都に攻め上るんです。
それを迎え撃つのは薩摩です。薩摩と会津です。会津が親幕府的な藩として、ここで出てくる。佐幕つまり幕府を支えようという立場です。薩摩と会津はこうやって手を組みあって、長州と戦っていく。オレたちは仲間だと思っている。

しかし先のことを言うと、明治維新直前に、薩摩は倒幕側に寝返る。そしてこの間まで手を組んでいた会津を攻め滅ぼしていく。その一つが白虎隊の戦いです。
聞くところによると、100年経って、この時に生きていた人の孫の世代というから、今から30~40年前までは、会津にいって喫茶店にはいって、どこから来なさった、と言われて、鹿児島から、と言ったら塩を入れられる、とか。それくらい憎しみは100年すぎても残っていた。


禁門の変では薩摩と会津がいっしょになって、長州と戦った。長州はまた負けた。



【第一次長州戦争】 
禁門の変で負けた長州は、負けたばかりか、天皇の御所に向かって大砲を撃ったんだから、朝廷の敵だ、と名指しされ、朝敵だから問答無用で藩を取りつぶそうということになる。禁門の変の1ヶ月後の1864.8月、幕府は長州を滅ぼしに行く。これが第一次長州戦争です。主導権は幕府ですが、この軍の参謀になって実質的にこれを動かしていくのが、島流しから帰還したばかりの薩摩の西郷隆盛です。
ただ西郷は、長州を潰すことまでは考えていない。でも正面から、いいえ、とは言わない。ハイと言いながら、長州はやっぱり生かしていたほうがいい、と腹の中ではそう思っていた。だから長州を取り囲んだだけで戦わなかった。西郷は幕府の方針と違うことをやったわけです。これが薩摩が倒幕へ舵を切る第一歩になります。西郷はこのときまだ明確に倒幕をめざしていたわけではないにせよ、西郷もまたイギリスに接近していきます。


【諸藩の動き】 伊藤博文は、前年の1863.5月の下関での外国船砲撃のとき、密かにイギリスに密航していた。それが、1年後のこの年1864.6月にイギリスから帰国します。なぜこんなに早く帰ったか。
伊藤博文は帰国すると、まず横浜で迎えに来ていた長崎のグラバーと会い、ただちに英国公使オールコックに会いに行き、計画中の下関砲撃をやめるように頼んでいます。そして帰国した翌月の1864.7月イギリス軍艦バロッサ号に乗って地元の下関に帰ってきています。

伊藤博文という一介の下級武士をグラバーが出迎え、国の代表たるイギリス公使が面会を受け入れ、さらに彼をイギリス軍艦で藩まで送り届ける。イギリスは伊藤博文に対して特別待遇で接しているように見えます。なぜ特別待遇のように見えるのでしょうか。
グラバーもイギリス公使のオールコックも、今後のことについての指示を伊藤博文に与えているのではないでしょうか。だからこの下級武士に会う必要があるし、軍艦で長州まで送り届ける必要があったように思えます。
伊藤博文は藩に戻ると、藩の上層部に対して和平の説得に当たります。なぜ、わずか23才の下級武士がこんなことができるのか、これも不思議です。これ以後、伊藤博文は、長州藩にとって重要な英国担当窓口になり、イギリス軍の接待にあたります。

伊藤がイギリスから下関に帰ったのと同じ1864.7月、佐賀藩の江藤新平は赦免されます。このときまで佐賀山間部の富士町の金福寺というところで、形上は謹慎していました。しかしその間も極秘の活動をいろいろしていたみたいです。極秘だから、なかなか歴史に残っていないけど、他藩の記録に残っている。そういう人がいろいろ蠢いている。

その1ヶ月後の1864.8月には、京都で西郷隆盛坂本龍馬が初めて会っています。その1ヶ月後の1864.9月には西郷は幕府軍艦奉行の勝海舟と初めて会って「外国に取り囲まれているときに、身内で争ってどうするんだ」という話を聞きます。その1ヶ月後の1864.10月には、坂本龍馬が塾頭を務めていた神戸の海軍操練所が閉鎖になったため、大坂の薩摩藩邸に龍馬をかくまっています。薩摩の西郷隆盛と坂本龍馬のつながりはここでできています。


【四国艦隊下関砲撃事件】 前年の1863.5月に長州は、フランス船、アメリカ船、オランダ船に向けて、大砲をぶっ放していました。

その翌年1864.8月、第一次長州戦争で幕府軍が長州を取り囲んでいるちょうどその時、その仕返しが来るわけです。4ヶ国連合で。これを四国艦隊下関砲撃事件といいます。四国艦隊、これは日本の四国じゃないです。イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四カ国です。特にイギリスとフランス、この2カ国ににらまれて生き延びた国はないです。

これを主導したのは、イギリス公使のオールコックです。しかしイギリスは砲撃を受けていないのです。1863年に長州による砲撃を受けたのは、フランス、アメリカ、オランダであって、イギリスは砲撃を受けていません。それにもかかわらずイギリスが主導して長州を攻撃します。

イギリスはこのとき、1856年には中国でアロー戦争を起こし、1861年からは南北戦争でアメリカと対立し、1863年には薩摩の鹿児島湾で薩英戦争を起こし、そしてこの1864年には四国艦隊下関砲撃事件で長州を攻撃しています。
さらに言えば、1852年には第2次ビルマ戦争でビルマを植民地化し、1854年にはクリミア戦争でロシアと対立して参戦し、1857年にはシパーヒーの乱を鎮圧してインドを植民地化しています。これらすべての戦争においてイギリスは勝利しています。
ちなみに翌年の1865年に、日本担当のイギリス公使はオールコックからパークスに変わりますが、このパークスは20年以上中国に滞在し、広東領事として1856年のアロー戦争に火をつけた人物です。
ヨーロッパではその数年後の1866年にプロイセン=オーストリア戦争、1870年にプロイセン=フランス戦争が起こり、イギリスの宿敵フランスが敗れています。日本の明治維新前後にイギリスの覇権が確立しています。日本はイギリスの世界進出の一環なのです。よく明治維新は、若い下級武士たちの動きによって成し遂げられたと賛美されますが、それはあまりにも劇画的で視野の狭い見方です。

この四国艦隊下関砲撃事件がどのくらいの軍事力の差かというと、四ヶ国軍は攻撃して上陸したあと、記念写真を取って帰るんです。きれいに記念写真が残っている。イギリス、フランス、アメリカ、オランダの軍服を着た人たちが集まって、記念写真撮って、みなさんどうもおつかれさまでした、といって帰るんです。圧倒的な軍事力の差です。

これで長州は、幕府軍とは戦わずして降伏した。第一次長州戦争と、四国艦隊下関砲撃事件がうまく重なる。偶然です。でも偶然にしては、話ができすぎてませんか。これで幕府軍の実質的な主導権をもつ薩摩の西郷隆盛は、戦わずして長州に勝ったわけです。
見方によっては、西郷隆盛を応援するために、イギリスは他の三国を誘って下関を砲撃したようにも見えます。西郷隆盛が、長州を取り囲んだまま、じっと動かなかったというのも、イギリス主導によって四国艦隊が下関砲撃を際立たせることになります。


※ この時期、薩摩藩は、割拠のための資金づくりのために密貿易の規模を拡大させた。佐々木克著「幕末史」では、西郷が密貿易を行っている様子が描かれている。1864年、西郷は京都藩邸の御用金2万両で生糸の買占めを行った。・・・・・・薩摩藩は買い占めた生糸や他の物産を奄美群島の各港に送り、西洋諸国の商人たちと交易をしていた。物産の仕入れのための資金は、イギリスのゴロウル商社(ジャーディン・マセソン商会がグラバーを代理人として設立)とオランダ貿易会社との間で契約を結んで資金提供を受けていた。(「 真実の西郷隆盛」(再び召還され政治の表舞台へ、の項) 副島隆彦 コスミック出版)


しかし、これで長州もやっと分かる。とても勝てないと。藩論が変化し、攘夷、つまり外国人と戦うことは不可能だ。これがポイントです。イギリスは長州が幕府軍に負けたのではなく、あくまでもイギリス軍に負けた形にしたかったのです。

ここで薩摩と長州は何が一致したんですか。攘夷不可能で一致したのです。これは戦えない。これで勝てると思ったら戦さの素人でしょうね。
そうすると、戦争しても勝てないから、外国と仲良くしないといけないということになる。特にイギリスと。

アメリカはこのとき南北戦争が起こっていて、日本どころじゃなくなって、しばらくは来ないです。そのあと40年ぐらい経って、またヒタヒタとやってくるんですけど。

ここで攘夷か開国か、その結論は出ました。長州も攘夷から開国路線に切り替えたのです。これで日本の開国路線は決まりました。しかしこのことは幕府の取った開国方針は正しかったということにもなります。それに反対して攘夷をとなえていた長州は「ごめんなさい、私が間違ってました」と幕府に謝るはずです。
ところが長州はますます倒幕方針を強めます。ここがおかしいのです。謝るどころか幕府が悪いとするのです。そしてその長州に、それまで佐幕方針をとってきた薩摩が協力していきます。明治維新がよく分からないのはここなのです。これでは理屈が通らないけど、通らない理屈が通っていく。
なぜそんなことになるのか。この無理筋を理解するときにどうしても欠かせないのが、薩摩・長州の裏にいたイギリスの存在です。この幕府と薩長の対立は最終的には軍事力の問題になっていきます。このときの軍事力は単純な兵士の数ではありません。武器の違いです。イギリスの最新式の武器をどちらが持っているか、そのことが決定的に重要になっていきます。

イギリスは、この1864年の四国艦隊下関砲撃事件の勝利により、最初、長州に対して300万ドルの賠償金を要求します。長州からそのイギリスとの交渉に出向いたのは高杉晋作です。しかしイギリスは、高杉晋作と交渉している途中で賠償金300万ドルを請求する相手を、長州ではなく幕府に変更します。これも変なことです。長州が不祥事を起こし、長州と対立する幕府が責任を追求されるという変なことが起こります。その一方で西郷隆盛によってほとんど責任を問われなかった長州はますます勢いを強めます。逆に幕府は、長州が起こした外国船砲撃に対して責任を追及され、イギリスから300万ドルという莫大な賠償金を要求されることになり窮地に立たされます。ここにイギリスの狙いが透けて見えます。


【長州の動き】 その後、長州はどうなるか。外国と戦うのはムリだ、という革新派が出てくる。これはいいとしても、しかし彼らは倒幕派です。その第一が高杉晋作です。この時点で高杉晋作のバックにはイギリスがついています。もう一人が木戸孝允です。高杉晋作は明治維新前に血を吐いて死にますが。木戸孝允は明治維新後も生き残ります。嫁さんは京都の幾松という芸者さんです。明治の大臣クラスというのは、よく色町の女性を自分の嫁さんにしています。それがどうしたというのではなく、彼らの活動場所がよく分かります。


高杉晋作は、奇兵隊という農民兵をつくっていた。四国艦隊の攻撃から4ヶ月後の1864.12月、奇兵隊を率いて長府の功山寺で挙兵する。この挙兵に、伊藤博文も力士隊を率いて加わります。その他の諸隊もこれに加わります。この動きも非常に不思議です。そして戦ってみたら農民兵が勝ってしまった。彼らは新式銃を持っているのです。そして軍事的に長州藩をおさえてしまう。これが高杉晋作です。

つまり長州では、上級武士に対して下級武士と農民が反乱を起こし、下級武士と農民が藩の実権を握ってしまったのです。こんなことが起こるんです。これは日本の中に独立国ができたようなもので、普通は幕府によって潰されてしまうところですが、討伐に向かった幕府軍に対し、イギリスからの最新式武器を手に入れた長州藩が勝ってしまうというのが明治維新の流れです。ではなぜ長州藩は武器・弾薬を手に入れることができたのか、というのが次の流れです。

イギリスにとって、それまで尊王攘夷を唱えていた長州は邪魔な存在でした。しかしここで長州藩は攘夷論から開国路線に変わります。尊王開国路線です。イギリスはこの時すでに植民地帝国で、その時にもちいる手段は一貫して「分断して統治せよ」です。これはインドを植民地にする過程でも見られたことです。彼らは反政府勢力を応援し、国を分裂させていくのが常套手段です。

あと残る課題は、倒幕か、佐幕かです。つまり幕府を倒すか、幕府を支えるかです。それまでイギリスにとって攘夷方針をとる長州藩は邪魔な存在でした。しかし長州藩が倒幕路線をとりつつ、攘夷方針から開国方針に切り替わると・・・・・・その過程に正当な論理はありませんが・・・・・・これこそがイギリスの望むものなのです。イギリスがそう仕向けたのです。それを受け入れた長州に、イギリスは急に接近していきます。イギリスは、薩摩藩の下級武士たちを応援したのと同じように、長州の下級武士たちを応援するようになります。これで、つぶれるはずの長州が一気に台風の目玉になっていくわけです。でもその裏にイギリスありです。イギリスは長州を表に立てて、幕府を倒すことを考えていきます。

このあと長州はイギリスからますます武器を購入していきます。しかし当時、長州は幕府から武器輸入を禁止されていましたから、これは密貿易です。長州の下関は、幕府の認めた貿易港ではありませんが、下関には多くの船舶が往来し、下関は武器・弾薬など密貿易の拠点となっていきます。これらの武器商人のうち、最も代表的なのが長崎にいるイギリスの武器商人グラバーです。

しかし、このようなイギリスによる長州への武器密貿易は他国の公使からも警戒され、フランス、アメリカ、オランダの公使は、イギリスと交渉して、1865年に「四国共同覚書」を作成します。これは幕府と長州の戦争に対して、中立・不干渉・密貿易禁止を約束したものです。これは、イギリスと長州の下関における武器密輸を事実上、禁止したことを意味します。イギリスが長州藩を支援しないよう、フランス、アメリカ、オランダの三国がイギリスを牽制したのです。
この1865年に、アメリカは、南北戦争でイギリスと対立するアメリカの北部が勝利し、ますますイギリスと対立していきます。しかしイギリスはその巻き返しを考えています。アメリカはイギリスの動きを警戒していますが、同年の1865年には北部を勝利に導いたアメリカ大統領リンカーンが暗殺されます。
フランスは、1856年にイギリスが中国に仕掛けたアロー戦争に協力しましたが、その結果は中国利権をほぼイギリスに独占されたことから、イギリスへの反発を強めています。
イギリスには、長州との露骨な武器密貿易がやりにくい国際状況が発生しています。しかしイギリスのグラバーは、この「四国共同覚書」を無視して、長州への武器密輸を継続しようとします。そのための手段を考えます。


【フランスの動き】 この戦いのメインはイギリスとフランスです。これらの国と日本は仲良くしないといけない。幕府は生き残るだろう、これが大方の予想です。フランス公使はロッシュです。フランスは幕府に近づきます。


【イギリスの動き】 しかしイギリスは、どこと仲間になればいいかと考えた時に、幕府ではなく、薩摩を選ぶ。たぶん薩摩が幕府を倒すだろうと考える。この狙いが当たるんです。でも自然にそうなったわけではありません。そうしむけるわけです。戦争を決するのは軍備です。イギリスがどちらに武器を供給するか、これが勝敗を決します。

四国艦隊下関砲撃事件の翌年1865.閏5月、ここでイギリス公使がオールコックからパークスに変わります。
ここからはイギリスの力技です。イギリスは白を黒にしていく力をもっています。そこに、長崎の武器商人グラバーが絡んでいきます。

この1865.10月にそれまで約10年間イギリスの首相を勤めてきたパーマストンが死亡し、ラッセル内閣に変わります。ラッセル内閣は、パーマストンのような露骨な侵略方法はとらずに、裏から影響を及ぼすことを考えます。


※ イギリス担当であった寺島宗則について、マリアス・ジャンセン著「新装版 坂本龍馬と明治維新」(平尾道雄・浜田亀吉訳、時事通信社、1965年初版・2009年)の中に、次のような記述がある。
 『グラバーの助力でイギリスへ渡った薩摩人たちの1人松木弘安(寺島宗則)は、1866年春ロンドンで、前閣僚のローレンス・オリファントと会見した。松木(寺島宗則)はオリファントに対し、外国人が憎まれるのは徳川が貿易を独占できるようになっているからで、天皇を中心に広く諸大名の意見を代表する新政府ができた暁には、日本は必ず国際的な約束を受け入れ、忠実に履行するようになると保証した。この話はオリファントからクラレンドン卿に伝えられ、クラレンドン卿は自身でもう一度松木に会った。そしてこの同じ気分が、日本のハリー・パークスに送られた訓令でも中心を占めるようになった。訓令は、将軍がこの方式で政治の道すじをひろげることに関心を向けるよう、機会をみて将軍に説いてみることを指示していた。すなわち薩摩の考えが、外務省のハリー・パークスあて訓令の中心的内容をなしていたのである』(「坂本龍馬と明治維新」320ページ)
 ここに出てくるローレンス・オリファント(1829~1888)は1861年6月に英国公使館の1等書記官に任命され、日本に赴任したイギリスの外交官だった。赴任直後の7月5日に公使館だった東禅寺を攘夷派浪士に襲撃され、オリファントは負傷し、帰国した。その後、1865年には下院議員に当選した。寺島率いる薩摩藩の留学生たちが接触を持ったのはこの時期だ。オリファントは外交官の先輩で、当時外相だったクラレンドン卿に寺島宗則を紹介した。クラレンドン卿とは、クラレンドン伯ジョージ・ヴィリアーズ(1800~1870)のことだ。クラレンドン卿は外交官出身で、歴代内閣で通商大臣、アイルランド総督、外務大臣を歴任した。寺島が面会した時には、第2次ジョン・ラッセル伯(1792~1878)内閣の外相を務めていた時だ。
 芳即正著「西郷の巧みな対英外交・・・イギリス外交官との接触にみる」(「敬天愛人」第13号、1995年)では、この時の寺島宗則がイギリス側に行った主張について簡潔にまとめている。寺島はオリファント、クラレンドン卿との会談で、「条約批准権を幕府から朝廷に移すことにより、全国市場の支配権を朝廷の手に帰し、諸藩も加わった対外貿易を展開しようというものであった」(56~57ページ)と主張した。この寺島の主張をイギリス外務省は了承した、ということである。
 しかし、真実は逆だろう。イギリスは、幕府が貿易を独占したままの状態では、幕府に肩入れをしているフランスに貿易を独占されてしまう可能性を恐れ、その状況を打開するために朝廷を引き出そうとした、と思われる。そして、その役割を薩摩が担う、と約束させられたと私は断定する。
 芳即正は論文の中で、イギリス外務省はハリー・パークス公使宛て訓令と書簡(1866年2月23日付と3月12日付)の文面を紹介している。芳によると、イギリスは、軍備をともなわない貿易の自由な発展を目指す「小英国主義」を日本に対して適用しようとしていた、ということだ。そのため、訓令文(クラレンドン卿発)、書簡(ハモンド外務次官発)では、「日本の内紛に対する中立を堅持しながら、貿易発展のため、朝廷、幕府、大名で話し合いをさせる。幕府には大名に貿易参加をさせるように進言し、大名には朝廷、幕府と話し合いをするように勧める。しかし、表立って動かないようにする」という内容が書かれていた。パークスはこの方針で動いた。ハモンドからの書簡の結びを芳の論文から引用する。
 「貴下は、日本政府の国内的動きに対して、あまりに熱心な干渉を行って、英国政府の名声を傷つけることがないように留意されたい。日本における体制の変革は、日本側だけから発するように見えねばならず・・・・・・徹頭徹尾、見本的性格の印象を与えるものでなければならない」(「西郷の巧みな対英外交・・・・・・イギリス外交官との接触にみる」65ページ)
 イギリスは「貿易を幕府に独占させない」という方針で、大名、特に西南雄藩にも貿易に参加させる、そのために体制を変革する」という目的を持っていた。しかし、体制変革は、日本側が行ったように「見えねばならず」、「日本的性格の印象を与える」ものでなければならないとしている。ここにイギリスの本音がある。「日本の体制を変革して、イギリスに有利なものにつくり替える。そのために薩摩藩を利用する。しかし、それがあからさまにわかってはいけない」といういうことなのだ。(「 真実の西郷隆盛」(薩摩藩対外情報将校であった寺島宗典と五代友厚、の項) 副島隆彦 コスミック出版)



【薩摩の動き】 薩摩は、薩英戦争でイギリスと戦って、勝てないというのを早々と知っている。だからイギリスに近づいている。
この藩を牛耳った二人が、西郷隆盛と弟分格の大久保利通です。明治維新後は、大久保が主流になっていきますが、しかしそれはあとのことです。彼らをまとめている薩摩藩の家老は小松帯刀です。彼ら二人よりも若いですが、有能な開明派の武士です。


そこで何をするか。西郷は、長州をつぶしたらいかんと密かに言う。密かにというのは、今では日本の教科書に載っていて秘密でも何でもないようなことでも、この当時は10人もしらない。まず幕府は知らない。そしてあろうことか、薩摩藩の殿様も知らない。そういう下級武士たちの動きが起こります。

西郷の、長州をつぶさない、ということの意味は、逆に幕府を倒すということです。このような大きな変化が、薩摩藩の正式決定ではなく、一部の下級武士たちの動きによって決められていったということです。だから薩摩の殿様さえ、このことを知らないのです。

この間、長崎のグラバーは薩摩と仲が良いから、また別の人間を密航させる。まだ江戸時代です。江戸幕府は滅んでいない。1865.3月、五代友厚寺島宗則という薩摩の人間を密かに密航させる。ヨーロッパに出向かせます。


【諸藩の動き】 イギリス公使がパークスに変わったころの1865.5月に、土佐の坂本龍馬が日本初の株式会社と言われる会社をつくります。亀山社中という。亀山というのは長崎の地名です。いま観光客が行く亀山社中は、普通の小さな狭い民家です。長崎は坂が多くて山が多いから、岩肌に坂道にへばりつくような家で、車は通れないです。しかし当初の亀山社中は、長崎の豪商小曽根英四郎の自宅にありました。小曽根の自宅はちょうどグラバー邸を降りたところにありました。つまりグラバーの家と目と鼻の先にありました。これがのちに名をあらためて、海援隊という運送会社になります。
なぜ文無しの一介の浪人が、会社をつくれるのか。そのお金の出所に触れた本がないです。会社つくるのに、まずお金がかかるでしょう。運送会社をつくるのに、お金がかかるでしょう。次に、イギリスの機関銃を7800挺も買う。買っていいけれども、なぜそんなにお金があるのか、そこには薩摩藩家老の小松帯刀の援助があります。購入先は、長崎にいるイギリスの武器商人グラバーです。

その2ヶ月後の1865.7月、長州の伊藤博文と井上馨が長崎に出向いてグラバーと会い、薩摩に名義を借りて、約10万両の小銃購入の契約をしています。彼ら二人を長崎の薩摩藩邸に泊め、グラバーとの仲をとりもったのは薩摩の小松帯刀です。長州は、第一次長州戦争後、武器の購入を禁止されているからです。薩摩藩は、名義を貸すことで、それまで戦っていた長州と接近していきます。それと同時に長州藩はイギリス武器商人グラバーに接近していきます。この1865年は、アメリカの南北戦争が終わった年で、急に武器が売れなくなった年です。


しかし長州はどこからそんなイギリスの小銃を大量に買えるほどのお金を手に入れたのでしょう。このときグラバーは伊藤博文たちに「100万ドルを用立てる」と申し出ています。彼はお金を貸して長州に武器を買わせているのです。
その貸したお金は、もともと幕府が賠償金としてイギリスに支払ったものではないかと言われます。もしそうであれば、幕府のお金が長州に流れていたことになります。そういう流れをつくったのがイギリスなのです。
長州藩内の上級武士は幕府と協調する佐幕方針に傾いていましたが、伊藤博文などの下級武士たちはイギリスから支援され、逆に彼ら倒幕派が力をもつようになります。伊藤博文などの長州の倒幕派はイギリスの支援を得ることによって、力を持ち出すのです。

ここでイギリスの手口をまとめると、まず幕府と対立していた長州が起こした外国船砲撃の責任を、逆に幕府に押しつける。次に、幕府から賠償金を取る。さらに幕府が支払った賠償金を敵の長州に貸し付ける。
そして、幕府がその賠償金があまりにも巨額でもう払えないというと、イギリスは払えないならその代わりに、まだ朝廷が許可していない通商条約の勅許を朝廷からもらえという。その結果、1865.10月、孝明天皇は通商条約の勅許を下します。幕府も朝廷も脅されているのです。

1865年、香港にイギリスの銀行である香港上海銀行が設立されます。グラバー邸を降りたところに香港上海銀行の長崎支店の記念館がある。これは中国の銀行みたいな名前ですけど、ぜんぜん違ってイギリスの銀行です。頭文字でHSBCと略号で書きますが、今でも5本の指に入る世界の巨大銀行です。これはアヘンの売上代金を本国イギリスで送金するための銀行です。グラバー邸の真下に、このような曰く付きの銀行の支店の建物があります。今は記念館になってますが、ちょっと前まで長崎県警の警察署だった。
このあいだ長崎に行ったとき、タクシーの運転手さんに、グラバー邸の下の香港上海銀行までいってください、と言うと、思い出話をして、あそこはもと警察署で、オレは高校の時はわるさばかりしていて何回もお世話になったから行きたくない、と世間話をしていた。そうやってずっと使われていた建物です。

同年の1865年には、大隈重信が中心になって、フルベッキというアメリカ人をトップに据えて、学校をつくる。これは長崎につくった佐賀藩の英学校です。大隈もそこの先生になります。このあと大隈重信は明治維新まで長崎で活動しています。このあと大隈重信の政治デビューはこの長崎です。



続く。

新「授業でいえない日本史」 27話の2 近代 薩長連合~小御所会議

2020-11-01 04:20:10 | 新日本史4 近代
【薩長連合】 
翌年1866.1月、密かに薩長連合が成立します。薩摩の小松帯刀西郷隆盛と、長州の木戸孝允が、京都の小松帯刀の別邸で結んだ密約です。ただ西郷隆盛は直前までこれを拒否しています。西郷隆盛には「幕府を倒してどうなるのか」と、それを探しあぐねていたところがあり、また西洋文明に対しても疑問を持っていたところがあります。それが分からないまま、倒幕方針に乗っかっていったというのが正しいようです。しかも自殺未遂から息を吹き返したり、島流しになった経験から、自分の死に場所を探していくようなメンタリティがあります。しかしそれが逆に、このあとの武力倒幕路線と結びついて、格好の活躍場所を与えられていくことになります。そのことは明治政府が誕生したあと、彼がすぐには新政府に出仕しなかったことにも現れています。明治政府の目指すものが、自分の思いとは違うことを感じたのでしょう。


この薩長連合は密約だから文書の取り交わしもありません。内容が分かるのは、のちに木戸孝允が記憶を頼りに書き留めたからです。土佐の坂本龍馬が同席して、薩摩と長州の証人となります。
この薩長連合が明治維新のポイントです。これができた瞬間に、明治維新は8割方は完成です。

いままで、薩摩と長州は敵と味方です。憎んでも憎みきれない相手が薩摩だ、と長州は言っているタテマエ上、公にはできない。幕府も知らないし、また薩摩も長州も殿様さえ知らない。
下級武士たちが勝手に密かにやる。ただお金の出所は、下級武士はお金を持たないはずなんだけれども、お金の出所がよく分からない。ただその周りにお金持ちのイギリス人がいる。これがグラバーです。

豪遊した高杉晋作でも、20代で京都の祇園というのは、私たちが遊べるところではない。銀座で遊んだら座っただけで5万円とか取られる。それを毎晩遊んでいるんですよ。
私が不思議なのは、お金です。そういうお金が20代であることが不思議でしょう。君たちは20代でそんなところで遊べるかな。座っただけで5万も10万も取られて、仲間を連れて行ったら100万ぐらい簡単に飛ぶんですよ。それを毎晩繰り返して、1000万、2000万の金がどこから来たのか、これが分からないんです。


坂本龍馬は、イギリス人グラバーから武器を買って、これを長州に輸送する。海援隊という船会社で。なぜ長州がイギリスとつながったか。
さっきも言ったように、その半年前の1865.7月、長州の伊藤博文と井上馨が長崎に出向いてグラバーと会い、薩摩に名義を借りて、小銃購入の契約をしています。伊藤博文の動きがあるわけです。イギリスとの窓口は伊藤博文になっているのです。でもイギリスとつながりがあっても、長州は武器の購入を禁止されている。だから薩摩の名義で買ってもらう。名前だけ借りる。

それを坂本龍馬が、長崎で銃を船に積んで、鹿児島に行くと見せかけて、長州に行く。これで決定です。お互い信用してないときに、敵に武器を渡すというのは絶対ありえないことです。武器を敵に渡した。そこまでしないと信用できないということです。


ただこれを坂本龍馬がすべて仲介したかどうかは分かりません。武器を売るか売らないか、決定権はイギリス商人のグラバーにあります。そうみると、坂本龍馬は、グラバーの指示通りに動いた運送会社の社長にすぎないとも言えます。グラバーは政治的判断から表に出たくないのです。坂本龍馬はグラバーの名代として、この薩長同盟の密約に立ち会ったのだと思われます。


薩摩と長州が手を組んだといっても、薩摩が長州といっしょに幕府軍と戦うというのではありません。しかし薩摩は長州に名義貸しをして、長州への武器の供給を手伝うと言っているのです。そのことの意味は、幕府を支えてきた薩摩が、ここではっきりと討幕へと舵を切ったということです。
そしてその背後には、イギリスの武器商人グラバーが、さらにその後ろにはイギリス公使パークスの存在があります。

その翌月の1866.2月には、長崎にいるイギリス人グラバーが、薩摩を訪問しています。
さらにその4ヶ月後、第二次長州戦争が勃発した直後の1866.6月、イギリス公使パークスが、グラバーとともに薩摩を訪問しています。

その途中の下関で、パークスは伊藤博文と会っています。
パークスは帰途、再度、下関に立ち寄っています。
イギリスは長州の伊藤博文を足がかりにして、薩摩に接近しているように見えます。
伊藤はこのころ、萩にはほとんど戻らず、下関を拠点に動き回っています。そして下関の芸者梅子と昵懇になり、妻のすみ子と離婚し、梅子と結婚しています。伊藤の女好きはかなり有名です。


※ 西郷とイギリスの関係については、前出の芳即正著の「西郷の巧みな対英外交・・・・・・イギリス外交官との接触にみる」(「敬天愛人」第13号14号、1995・1996年)という論文に詳しくまとめられている。この論文をもとに記述していきたい。
 西郷隆盛はイギリス公使のハリー・パークスとは2回会っている。最初は1866年6月28日のパークスの鹿児島訪問時、2度目は1868年3月28日頃に西郷が官軍を率いて江戸に向かう途中の横浜で会談を行った。
 1863年の薩英戦争で敵対した薩摩とイギリスであったが、その後の関係は改善した。その象徴が1866年のパークスの鹿児島訪問であった。パークス1866年6月28日に3隻の軍艦をともなって鹿児島を訪問した。パークス訪問に対する薩摩藩の接待掛となったのが西郷であった。・・・・・・6月29日にパークスは西郷隆盛と会談を持った。この時、西郷はパークスに対して、日本の制度と現状について語り、「天皇と将軍という王が2人いる状態は外国に対して恥ずかしい、薩摩と長州が手を携えて朝廷を盛り立てていくことで国際問題を解決することができる」と述べた、とされる。・・・・・・
 私はこれらの逸話が本当なのかどうか疑っている。パークスは、王が2人いる状態は諸外国にもないことで、異常なので是正すべきだ、そのためには雄藩が手を組んで、朝廷を盛り立てる必要があると西郷隆盛に教えたのではないかと考えている。イギリスの支援が受けられるのならばそのように行動したいと西郷が考えたのではないか、と私は思う。イギリスが幕府を倒すとなると、国際問題に発展してしまう。だから、内部勢力を焚きつけて、内戦というかたちにして、イギリスは中立のふりをして、長崎にいるグラバーを使って薩摩と長州を支援するというシナリオができていたのだろうと思う。(「 真実の西郷隆盛」(西郷隆盛とイギリスの情報将校アーネスト・サトウとのかかわり、の項) 副島隆彦 コスミック出版)



【第二次長州戦争】 

薩長連合を知らない幕府です。でも長州の動きが、どうもおかしいと、そのくらいは気づきます。
薩長連合が成立した5ヶ月後の1866.6月に、幕府は、第二次長州戦争を起こします。第一次長州戦争では、長州を潰さなかった、やっぱり潰しておけばよかった、と。幕府が各藩に呼びかけて長州を攻めます。しかし肝心の薩摩は出兵を拒否するんです。
それはそうでしょう。誰も知らないところで薩摩と長州と手を組んでいるんだから。知らないのは幕府です。つまり情報力の差なんです。知っていたら、幕府はこんなことしてない。でもイギリスはそのことを知っています。同月その開戦直後に、さっき言ったように、イギリス公使パークスがグラバーをともなって、薩摩を訪問します。


その敗れゆく幕府方の総大将になったのか、小笠原長行(ながみち)という唐津藩の殿様格の人物です。唐津藩は譜代大名です。
戦ってみたら、幕府不利です。幕府軍は相手が、300年前の関ヶ原の火縄銃しか持たないと思っている。そんな旧式の鉄砲とばかり思っていたら、最新鋭のイギリスの機関銃を撃ってくる。話と違う。これでは戦えない。幕府が負けそうになる。


【徳川家茂の死】 幕府が負けそうになると、こういうところでよく人が死ぬんです。第二次長州戦争の最中の1866.7月、将軍徳川家茂が急に死ぬ。ピンピンしていた人が急死する。それで幕府はこれを理由に、将軍が死んで、長州なんか相手にできるか、おまえなんか相手にしている場合じゃないんだ、と言って戦争を中止する。これウソです。ウソなんだけれども、これで戦争中止です。
しかし見ていた人は、ははー、幕府は負けたんだと、分かるわけです。幕府の権威失墜です。


【孝明天皇の死】 そして、将軍徳川家茂が死んだ半年後の1866.12月に、今度は孝明天皇が死ぬ。将軍が死んで、天皇が死ぬ、こんなことが、たった半年間で起こるのか。そんなことが起こった。へーそうなんだ、と納得する人はそれでいいけど、こんな偶然があるのかなと思うと、どこまでも不思議です。

孝明天皇は外国人嫌いで攘夷論を支持していました。攘夷論から開国論に転換した長州にとっては、もはや不要なわけです。さらに孝明天皇は幕府を倒す気などまったくありません。公武合体をめざす佐幕派なのです。倒幕をめざす長州にとってはもはや邪魔な存在なのです。
やはり暗殺説があります。皇女和宮から見ると、自分の夫である将軍の徳川家茂が死に、その半年後には兄である孝明天皇が死ぬということになる。彼女に悲劇はここにあるわけです。彼女にはこれは決して偶然には見えなかったと思う。



※ 西郷はイギリス公使の日本語通訳を務めたアーネスト・サトウとは5回も会っている。1866年12月7日の兵庫、1867年4月の大坂、7月28日の大坂、11月21日の大坂、1868年の京都である。
 サトウと西郷の接触は1867年に集中している。1867年は大政奉還が行われた年であることを考えると、イギリスによる日本の体制変革へ向けた「最後のひと押し」が行われていたと見るべきだろう。
 サトウは1866年に「ジャパン・タイムス」紙に3回に分けて論説を発表した。この記事をまとめて翻訳したものを徳島藩主蜂須賀斉裕にパンフレットのかたちで提供したものが拡散していった。「英国策論」という題名をつけられて出版され、広く読まれた。その内容は、「将軍は主権者ではないので、条約を結んでもその内容を実行できない。主権を持つ天皇と諸大名の連合政府との間で条約を結び、自由な貿易を促進すべきだ」というものであった。当時のイギリス政府の「小英国主義」を反映した内容になっていた。この「英国策論」は、幕府に反対する勢力にとっての「指示書」のような役割を果たした。
 芳即正は論文「西郷の巧みな対英外交(二)」の中で、1866年12月西郷とサトウの会談では、「サトウから兵庫開港問題と長州処分問題の二つで幕府に迫れと示唆され、一つの方向性が見えてきた」と書いている。・・・・・・
 サトウは幕府を攻撃し、薩摩が政治の主導権を再び握り返すためのヒントとして、兵庫開港問題と長州処分問題で幕府を揺さぶるように、と西郷に伝えた。1867年になり、倒幕の動きが加速していったのだが、この会談がきっかけとなったと思われる。イギリスの最後のひと押しがサトウによって発動したと言える。(「 真実の西郷隆盛」(西郷隆盛とイギリスの情報将校アーネスト・サトウとのかかわり、の項) 副島隆彦 コスミック出版)



【明治天皇即位】 この次の天皇が、孝明天皇の息子の明治天皇が即位します。明治天皇はこのとき15歳です。この明治天皇の即位については、その詳細に触れた本を読んだことがありません。明治天皇の在位は1867年~1912年となっています。孝明天皇が死亡したのが1866.12月で、その翌月の1867.1月に新天皇として即位していることになっていますが、その即位の経緯も、その後の明治維新政府の成立の動乱期も、この新天皇の動きは全く描かれていません。

明治新政府の国家元首になる天皇の動きがまったく描かれていないというのは不思議な話です。歴史というのは、勝った側の薩摩・長州の歴史観によって描かれていくものですが、その勝った側の代表である明治天皇の動きこそ克明に描かれるべきものなのに、それがまったく描かれていないということは一体どういうことなのでしょうか。よほど描きたくないことがあったのでしょう。
しかも15歳の明治天皇が即位した途端に、それまで外国人が大嫌いで、攘夷を唱えていた朝廷が、開国方針に変わるのです。しかもそれまで孝明天皇は幕府を倒す気はさらさらなく佐幕方針であったものが、倒幕方針に変わります。この孝明天皇から明治天皇への方針の変化はまったく説明されていません。
明治天皇が描かれるのは、即位から22年後の1889年に大日本帝国憲法が発布されるときの式典の描写として描かれるだけです。明治天皇の人物像はよく分かりません。

孝明天皇の死に関しては、岩倉具視が殺ったのだという暗殺説があります。これは以前からよく歴史の本に書かれていることです。NHKの大河ドラマの配役で、岩倉具視をお笑いタレントの笑福亭鶴瓶にしたらダメですよ。あれほどイメージの違うキャスティングはない。岩倉具視はあの手の人物じゃないです。うかつにつきあっていたら殺されてしまう。彼は怖い人間です。
さらに最近では、にわかには信じれないことかも知れませんが、長州の伊藤博文がこれに係わっていたという話もあります。この話をたどっていくと、なぜ北朝の明治天皇が、明治末に南朝を正統としたかという南北朝正閏論の恐ろしい謎にたどりつきます。

1867.4月、土佐の岩崎弥太郎が長崎に着任し、グラバーと会います。岩崎はのち三菱財閥をつくります。三菱財閥は、船会社から始まります。今でもある日本郵船です。


【15代将軍徳川慶喜】 幕府は、あと小指でちょっと押せば倒れそうです。こういう時、1867.1月に15代将軍になったのが徳川慶喜です。この人は幕府を潰した将軍として有名なんだけれども、このときには、将軍になって威張ろうなんか、小指ほども考えてない。ふつう自分の利害を考えたら、こんな時に将軍にならないです。借金1億円かかえて今にも倒産しそうな会社の社長にしてやるぞ、と言われて、社長になるか。ならないでしょう。


幕府はいよいよ滅亡に向かうんだけれども、新しい将軍の徳川慶喜は、政治的には、幕府が滅ぶことと、徳川が滅ぶことは違うということに気づいたんです。どういうことか。幕府は滅んでいいけれども、家臣団を何万人と抱えてる徳川家はつぶれてもらったら困る。これが1867年10月14日の大政奉還です。これで幕府はつぶれても徳川は生き残れる・・・はずだった。


【坂本龍馬の船中八策】 この大政奉還をはじめて考えた人というのは、坂本龍馬になっている。船の中で考えたから、船中八策といって。大政奉還の4ヶ月前の1867年6月のことです。


昔ある女子高校生が、坂本龍馬は薩長連合を仲介して幕府を潰そうとしたのに、なぜ急に幕府の延命策を考えるのか、と言っていました。不覚にも私は、それまでその矛盾に気づきませんでした。しかし、考えてみれば確かにそうです。
坂本龍馬が明治維新を目の前にして殺されたことを考えると、ますますその疑問は大きくなるばかりです。坂本龍馬は、一度グラバーの手引きで密航していたのではないかと言われますが、彼はそこで何を見たのでしょうか。
彼は薩長連合に立ち会いながらも、途中で考え方を変えたようです。考えてみれば、幕府はすでに早くから開国路線をとり、長州もここでは開国路線に変わっていたのですから、貿易をしたい坂本龍馬にとってはこれで目標は達成されたわけです。なぜこれ以上、日本人同士で戦わなければならないのか、そう考えると、幕府が滅ばなければならない理由がよく分かりません。坂本龍馬はそのことに気づいたのです。彼が暗殺されたのは、そのことと関係しているようです。彼はグラバーの後ろに何を見てとったのか。

佐賀の大隈重信と副島種臣も、坂本龍馬の船中八策の3ヶ月前の1867.3月、佐賀藩どころじゃないということで、脱藩して京都にいって、何を唱えたか。やっぱり大政奉還です。
しかしここは政治力の差です。この二人の大政奉還はカットされた。それどころか、佐賀に強制送還される。何をしているんだ、早く帰ってこないか、と。
しかし坂本龍馬の大政奉還はつながる。土佐の殿様の山内豊信から将軍徳川慶喜へと伝えられる。これは幕府が自分からつぶれる、ということです。最後の将軍の徳川慶喜が、頭が悪かったら理解できないはずです。幕府はつぶれたほうがいいですよ、と言われて徳川慶喜は、ウーンそれしかないな、と思った。それで自分から潰れる。頭の回転が速くなければできないことです。


【討幕の密勅】 しかし1867.10.14日には幕府をつぶそう、という討幕の密勅が出る。密勅の勅というのは、天皇の命令です。秘密の命令です。幕府はまだあるから。これにも、これ本当かという話もある。また岩倉具視が、偽文書をつくったんじゃないか、という話があります。

亡くなった孝明天皇は倒幕の意志などまったく持っていませんでした。このときの天皇は新帝である若い明治天皇です。若い明治天皇がどう考えたのかまったく記されていません。結局、薩長側がこのあと幕府方との戦争に勝つことによって、偽文書かどうかは不問にされます。勝手に自分の名前で討幕命令を出された明治天皇のことも何も触れられていません。ふつうは天皇である自分に無断で、天皇の命令を勝手につくられたら腹を立てると思うのですが。明治新政府で神格化までされる明治天皇ですが、その明治天皇の動きが一番わかりません。




【大政奉還】 

これを受けて、というか事前に察知して、同日の1867.10.14日、徳川慶喜が大政奉還を行う。政権を朝廷にお返しします、幕府はここで滅びます、ということです。これは政治的な論理として、敵は「討幕」で幕府を討つんでしょ。でも幕府がつぶれたら、もう討つ相手がいないわけです。あくまでもつぶすのは幕府でしょ。討幕だから。でも幕府はここでなくなったんです。理屈上は。これ手品じゃないですよ。論理が通っています。
ただ江戸城はあるし、徳川はある。しかしそれは幕府ではない。だから政治的に討てない。意味分かるかな。
もう一度説明すると、幕府はある。幕府の実権は徳川にあるんです。幕府というのは将軍がトップです。その将軍の上に天皇がいる。そしたら徳川は、天皇からもらった征夷大将軍を返上するんです。征夷大将軍を返上したら、幕府はその瞬間になくなるでしょう。すると、なくなった幕府は討てないでしょ。こうやって結局、徳川が行き残る。
こういう、ややこしいじゃなくて、これはかなり高度な政治的戦略ですよ。小学生には、こういうクドクドとした説明をしようとは思わない。いくら言っても小学生が理解する限界を越えているから。しかし、高校生なら理解できるんです。ここで徳川は自ら、政権を朝廷に返上する。これが大政奉還です。幕府は自らすすんで滅びる。
江戸幕府の消滅は、ここです。1867年です。約270年続いた江戸幕府の消滅はここです。大政奉還です。
討幕をかわした徳川家は、将軍家ではなくて、最大の大名として生き残り、力を全国に及ぼそうとする。何だ、今までと変わらないじゃないか、ということです。

ここから論理の第2回戦が始まります。でも、それじゃダメだというのが、西郷隆盛とか大久保利通なんです。ここはどうしても、徳川につぶれてもらわないといけない。



【王政復古】 

2ヶ月経って1867.12.9日に、朝廷は、王政復古を行う。政権は天皇にもどった。しかし、天皇は千年近く政治をやったことないから、何も組織がないわけです。まずとりあえず総裁議定参与という三職を設ける。

※ 1867.12.9朝、薩摩兵らが京都御所の宮門接収に出動する。会津・桑名の兵の抵抗が予想されたが、混乱なく接収する。会津・桑名の兵は、徳川慶喜とともに京都の二条城に待機する。 


上から順番に。総裁が天皇の親戚で一番偉いようだけれども、それは名目上のことで、実権は参与の下級武士たちです。
薩摩が入っている。長州が入ってる。そして天皇中心の政治を行います。これで終わります、みなさまお疲れ様でした。さあそのまま隣の部屋へどうぞ。ここからが本番です。


【小御所会議】 夜半過ぎから。その場所が、大広間の隣の小御所というところです。小御所会議です。これも京都御所の中です。土佐の山内容堂は酒を飲みはじめたとも言われます。そんな雰囲気の中で重大決定が行われます。
西郷隆盛はこの席には上がらずに、軍隊率いて、全部京都御所を取り囲んでいる。どういうことですか。脅しです。文句あるか、と。武力を使ってでも徳川を潰すつもりです。


すでに将軍ではない徳川慶喜に対して、細かいことをいうと、彼は将軍職ではなくて、すでに内大臣という天皇の家来になっていた。これを認めない。官職を辞退させる。辞官です。
それからもっとも大事なことは、徳川の領地400万石、この領地を天皇に返上させる、ということです。納地です。
これでは、徳川はメシ食っていけない。こういうことが小御所会議で決定された。これが最終決定です。辞官・納地の決定です。

徳川慶喜は、このとき約1万の兵(幕府軍・会津軍・桑名軍)とともに京都の二条城にいました。1867年も差し迫った12月のことです。


以下はあまり知られていないことですが、戊辰戦争が起こるまでのこのあとの流れです。


※ 1867.12.10 小御所会議に出席していた越前藩主の松平春嶽が、昨夜の朝議を伝えるべく二条城徳川慶喜をたずねる。これに対し慶喜は、老中の意見も聞き、旗本らの人心をしずめたうえでお答えする、と応える。西郷隆盛と大久保利通は、これでは領地返上が明確でないので許せないと主張したが、朝議は徳川慶喜の願いをいれた。

※ 1867.12.13 徳川慶喜が大坂城に入る。 

※ 1867.12.16 徳川慶喜は、フランス公使ロッシュのすすめで、フランス、イギリス、アメリカ、プロシャ、オランダの六ヶ国の公使を引見し、日本への内政干渉をしないこと、外国との交渉は引き続き徳川政権にあることを承認させた。


※ 1867.12.24 朝議において、決定された徳川慶喜の領地返上に対して、領地のことを調べた上で、新政府への負担金を諸大名会議で決定すると変更された。事実上の納地の取りやめである。山内容堂ら公議政体派が最終的に全面的に勝利した。

※ 1867.12.25 江戸で幕府側の庄内藩兵(山形県)が、江戸の薩摩藩邸を焼き打ちするという事件が起こる。これをうけて西郷隆盛は、わがこと成れりと、にっこりした。
 これより先1867.10月、徳川慶喜の大政奉還により、戦争の口実を失った西郷隆盛は、ただちに薩摩藩士の益満休之助らに秘計をさずけて、京都から江戸におもむかせた。江戸浪士・無頼漢を集めて、市中および関東各地の治安をみだし、騒乱状態をつくり出そうというのである。益満は京都から一人の有能な人物を江戸へともなった。相楽総三といい、平田流の国学を一通りおさめた勇気も胆力もある数え年29歳の壮者である。
 1867.12.23 13代将軍徳川家定夫人天璋院の住んでいた江戸城二の丸が、女中部屋から火を出して全焼した。同日、浪士らは幕府を挑発して、江戸の庄内藩兵の屯所に発砲した。
 1867.12.25 江戸で幕府側の庄内藩兵(山形県)が、江戸の薩摩藩邸を焼き打ちした。

※ 1867.12.28 徳川慶喜も、ことここにいたっては、もはや主戦論をおさえることはできなかった

※ 1868.1.2 幕府側1万5千の大軍は、大坂を発し京都に向かった。


これで終わります。

新「授業でいえない日本史」 28話 近代 鳥羽・伏見の戦い~五稜郭の戦い

2020-11-01 04:10:16 | 新日本史4 近代
【明治政府の成立】
【鳥羽・伏見の戦い】
 ここから明治維新です。小御所会議が1867年12月9日です。大晦日むかえて年が明け、1868年1月3日、幕府軍と薩長軍が京都を主戦場に戦った。幕府軍は二手に分かれていたため、京都の鳥羽と伏見が戦場になる。これが鳥羽・伏見の戦いです。ここで決着はつかなかったけれども、薩長軍が優勢です。薩長軍はイギリスから購入した新式銃を持っています。この薩長軍の総大将は西郷隆盛です。
徳川慶喜は徹底抗戦せずに、京都ではいったん軍を引いて、船で江戸にさっと帰ります。



※ 1868.1.10 江戸にもどる途中、徳川慶喜は随従の外国奉行山口駿河守を、ひそかに浦賀に上陸させ、横浜のフランス公使館に直行させた。このことは、徳川慶喜がこのときはまだ、新政府と対決する意図が十分にあったことを示している。

※ 1868.1.18 フランス公使ロッシュが、徳川慶喜に会い、軍艦・武器・軍資金を援助するからだんこ交戦せよとすすめたが、慶喜はさすがにその援助を受けるとは言わなかったらしい。

※ イギリス公使のパークスは、各国公使に対して、薩長政府の承認を説いてまわった。
 1868.1.21 薩長政府は、イギリス公使パークスの勧めにしたがい、諸外国の公使に「徳川方に対して兵力を助ける」ことのないよう申し入れをした。
 1868.1.25 各国公使は薩長政府と徳川政府とを対等の交戦団体とみとめ、両者の戦争の局外に中立することを宣言した。こうやって、イギリスはフランスとの戦争になることを避けた。

※ 勝海舟は、ひたすら謝罪恭順するしかないことを徳川慶喜に熱心に説いた。

(上記の各※は、おもに「日本の歴史20 明治維新 井上清 中公文庫」を参考)


ここで注意すべきは、世界史上、他の国では内乱が起こって負けそうになると、外国勢の応援を頼むんです。しかしこれは勝っても負けても、命取りなんです。これを幕府側はしない。同じように薩長軍もイギリスに援助を頼まない。
奇特なイギリス人が個人的に、何人か参加したことはあるけど、これをもって何万人のイギリス軍が、またはフランス軍が入ってきたということはない。そういう応援を頼まない。ここらへんは目立たないけれど、他国とは決定的に違うところです。
でもだからといって、このあとの日本の政治にまったくイギリスの影響がなかったかというと、それはよく見ていくしかありません。

明治になってるから、薩長軍が政府軍です。幕府軍はないから賊軍という形になる。天皇をいただいているのは、薩長側です。こういうのを錦の御旗といって、象徴な意味をもつんです。
この時の天皇は孝明天皇の死を受けて即位した若い明治天皇なんですけど、いつの間にか明治天皇は、薩長側について倒幕をめざすということになっているんです。この段階で、明治天皇の姿は全く歴史に現れません。その前の孝明天皇は、倒幕には反対であった。その息子の明治天皇はどうなのか。そのことはまったく分かりません。ただここでは、明治天皇は、薩長軍を新政府軍だとする錦の御旗になっているということです。

このことと関連して語られるのは、明治政府が、日本の歴史問題で、それまで否定されていた南北朝期の南朝を正統だとしたことです。日本の天皇家は、北朝であったにもかかわらずです。

この戦いを戊辰戦争といいますが、この戦いは、先に開国方針をとっていた幕府側が、あとで開国方針をとった長州側に潰されるというものです。とするといったい何が戦争の目標だったのか分からないのです。どっちが勝っても開国方針をとることには変わりないのに、なぜ戦争を引き起こす必要があったのでしょうか。狙いがよく分からない戦争なのです。



【諸藩の動き】 1868.1月、伊藤博文は下関から、イギリスの軍艦で神戸に向かい、神戸にいたイギリス公使のパークスと会っています。なぜ伊藤だけがイギリスの軍艦に乗れるのか、よく分かりません。自分の仕事の都合で移動するときに、外国の軍艦に乗って移動する人はまずいないでしょう。伊藤は新政府の人事でも大抜擢で参議になり、兵庫県知事になります。わずか26才です。

幕末の志士といわれる人たちは確かに若いのですが、そのほとんどは1830年代生まれです。西郷隆盛などは若いといっても1827年生まれです。その中で伊藤博文は1841年生まれで、飛び抜けて若いのです。そしてこの最も若い伊藤博文が、早くもこの6年後には、実質的な政府のトップの座につきます。内閣総理大臣の座はまだありませんが、それができるまでの実質的な日本政府のトップの座は、内務省の長官の内務卿です。伊藤博文は早くも明治維新から6年後の1874年に、その内務卿の座につきます。1885年の初代内閣総理大臣も伊藤博文です。その後も伊藤は合計4回総理大臣の座につきます。
農民として生まれ、足軽となり、それから内閣総理大臣にまで登りつめた伊藤博文の出世のスピードは幕末の混乱期でさえ異例の早さです。このあとも伊藤博文とイギリスとのつながりは、しばらくは見え隠れします。

佐賀藩は、鳥羽・伏見の戦いが起こると、オレも行かなければ、となる。それまではずっと動くな、だったんです。それまで積極的に討幕派に加わることはしなかった藩です。
ただ新政府から味方となって戦うよう要請が来る。アームストロング砲を持っているから。普通は1キロしか飛ばないのに、これだけが2キロも3キロも飛ぶ。このアームストロング砲はこのあとの戊辰戦争で活躍します。
江藤新平も、まっ先に伊万里港から出発する。そして、京都について薩長軍に加わる。江藤新平は何をしたか。おまえ、乞食のかっこうできるか、ハイやります、という。東海道を乞食のかっこうでずっと歩いて行け、と言われる。これは何ですか。隠密です。情報収集です。的確な情報を探っていく。
軍隊というのは、この時代まで、1000人で出発して、江戸に1000人でついたら失敗です。1000人で出発した兵隊は、1万人になっていないといけない。周りからどんどん人を集めてこないといけない。それができるかどうかです。そういうことを江藤新平はやっている。

大隈重信も、このときに新政府の役人となり、ひきつづき長崎勤務となります。その年1868.5月に、長崎で浦上信徒弾圧事件が起こります。これは長崎の隠れキリシタンが名乗りを上げたため、新政府に捕まえられて投獄された事件です。これにイギリス公使のパークスが猛烈な抗議を行います。大隈はそれへの対応のため長崎から京都に向かい、パークスと渡り合います。
大隈はこう言います。「宗教上の対立でどれだけの人が苦しみ、どれだけ多くの血が流れるか、その悲惨さを一番知っているのはキリスト教徒であるあなたたちではないか。ここでキリスト教を認めたら日本の宗教上の混乱は甚大なものになる」。大隈はヨーロッパの宗教戦争のことを言ったのです。
パークスは下役人だと思っていた大隈の見識の深さに驚き、引き下がったと言います。「佐賀に大隈あり」、これが実質的な大隈重信の政治デビューになります。それ以降大隈は中央政府で活躍することになります。ここにも長崎つながりで、新しい政治家が登場します。伊藤博文も長崎との関係の深い人でした。

長崎つながりの意味は、イギリスつながりだと言うことです。のちのことですが、大隈重信は立憲改進党の党首になります。その立憲改進党は、イギリス流の立憲政治を目指します。今の日本の議院内閣制も、イギリスの議院内閣制を取り入れたものです。しかし大隈がそれまで長崎でフルベッキから学んでいたのは、アメリカ憲法なのです。大隈はここでイギリス公使パークスとのつながりができるわけです。このパークスはこのあと異例の長さで1883年まで日本の公使を務めますが、その後のパークスの動きはほとんど触れられることがありません。伊藤や大隈との接触はなくなったのか。そんなことはありえない、と私は思います。
例えば、伊藤博文の首相時代、のちの「鹿鳴館時代」のことですが、その最も華麗な舞踏会のひとつとして知られる1887年4月20日の仮装舞踏会「ファンシー・ボール」があります。この舞踏会は、実は鹿鳴館ではなく首相官邸で行われます。伊藤博文首相・梅子夫人の主催ということで開かれたこの舞踏会は、実際には時のイギリス公使夫妻が主催したもので、伊藤は好意で官邸を会場に貸し出しています。この舞踏会は、当時の国粋主義者たちから「亡国の兆し」と口を極めて罵られることになりますが、伊藤はそれにもかかわらず、イギリス公使の申し出を断り切れなかったのです。 

イギリス人グラバーのグラバー商会は、長崎に来ていた土佐の岩崎弥太郎に引き継がれ、のちの三菱財閥になります。大隈の資金源はこの三菱なのです。これも長崎つながりです。
のちの伊藤博文内閣の外相を務める陸奥宗光も坂本龍馬の海援隊のメンバーです。坂本龍馬が重要ではなく、幕末の長崎で活動していたということが重要なのです。そのような人々のつながりがイギリスを中心にして維持されていきます。


【五箇条の誓文】 江戸に着くには3ヶ月かかる。その3ヶ月で、江戸に着くまえに、薩長軍ははやばやと、1868年3月五箇条の誓文を出す。これもむかしは御誓文と御をつけていたけれども、御はつけるなとなって、五箇条の誓文となりました、こういう政治をやるとか、みんなで話し合いをするとか、五箇条の方針を発表する。
ただこれは国民は知りません。まだ国民というのはいないけど、国民には別に立て札を立てる。これを五榜の掲示という。政権は変わったけれども、江戸時代と何も変わらないぞ、という通知をしている。キリスト教も禁止のままです。



※ 1868.3.17 薩長政府は神仏分離令をだします。薩長政府は諸神社に対して、仏教僧侶が社務に従うのを禁止します。仏像を神社の前にかけたり、梵鐘や仏具類を神社に置くのを禁止し、その後もいろいろの法令をだして神仏をきびしく分離させます。倒幕・王政復古の推進力となった草莽の士は、たいてい多かれ少なかれ国学の影響を受けていたので、彼らおよび従来とかく僧侶に圧倒されて不満を持っていた神職らが先頭にたって、神社と仏道の分離、社地と寺域の分離を強行した。(日本の歴史20 明治維新 井上清 中公文庫 P126)


【無血開城】 新政府軍は江戸に着きました。戦うかどうか、徳川慶喜の判断のしどころです。結論は戦わなかった。これを美談として無血開城という。1868年4月です。これがもし戦っていたら、必ずイギリスが来る。フランスが来る。
幕府は、戦わずになぜ負けを認めたか。この狙いは外国の介入を防ぐことです。そういう判断をしたのは、薩長じゃない。幕府将軍の徳川慶喜です。徳川慶喜が意図していたのは外国軍とくにイギリス軍の介入を防ぐことでした。ということは徳川慶喜が本当の敵とみていたのは薩摩・長州軍ではなく、イギリス軍だったとも言えるわけです。
幕府軍は決して徳川だけが孤立していたわけではありません。すぐ後で言うように東北諸藩は徳川方として薩摩・長州軍と戦います。この戦いには約1年かかります。この東北諸藩に徳川方の軍勢が加わっていれば、戊辰戦争はどっちが勝ったか分かりません。しかしどっちが勝つにしろ、壮絶な戦いとなり両軍とも甚大な被害を被ることは間違いありません。
そうなったときに、どこが出てくるか。イギリスの動きはそこを狙っているようにも見えます。敵同士を戦わせて、相手が弱ったところを叩く。この論理はこのあと起こる日露戦争でも見られることです。徳川慶喜の目は利いています。明治維新で誰がいちばん遠くを見ていたか。

いざ江戸に近づいて、総攻撃だというその直前に、勝海舟西郷隆盛の会談がある。どこまで本当なのか分からないけれども、これが非常に美談に語られて、ドラマ上では一つの明治維新の見せ所になっている。
幕府方の勝海舟が言った条件というのは、将軍を殺したんじゃ、俺のメンツはたたない。主君を殺させておいて、家臣であるオレがそのままノウノウと生きていられるわけがない、それだけはやめてくれ、というんです。
西郷隆盛は、イヤ将軍がいてもらっては困る、と言う。しかし、そこまで言うのだったら、命は助けましょう。

でもホンネは、ここで戦えば、他の外国の例では、必ず外国軍の介入を受けるんです。そういう単純な美談じゃないだろう、と思う。結局これをどうやって防ぐか、というところまで見ていたかどうか、の問題だろうと思います。将軍徳川慶喜を助命する代わりに、江戸城を黙って引き渡したのではなく、それはあくまでもイギリスとそれを取りまく諸外国との関係がそうさせたとみるべきでしょう。

西郷隆盛はこのことが不満だったようです。幕府を消滅させるならば、諸藩の大名も消滅させるべきですが、西郷がそういうことを構想していたフシはありません。逆に西郷は、のちに廃藩置県で藩が消滅し、武士が消滅することを悔やんでいたようなところがあります。幕府を滅ぼしてそのあとどうするか、西郷にはその明確な構想はありません。それがこの明治維新の不思議なところです。つまりこの明治維新は、下級武士たちの明確な構想によって成し遂げられたというよりも、長州・薩摩の下級武士たちを援助したイギリスの意向によって、明確なビジョンがないまま、ここまでやって来たというほうが当たっているのです。そして原野のただ中まで来て、ハタと気がつくと、その先には道がなくなっていたというのが実情のようです。あとはどうすることもできなくて、イギリスをはじめとするヨーロッパのマネをするしかなくなっていたのです。問題が山積し、矛盾を抱えたまま、もう立ち止まることは許されないところまで来てしまったのです。そうなるとすでにイギリスに密航した経験のある伊藤博文が俄然有利になります。彼のイギリスびいきは一貫しています。


※ 西郷がパークスと2回目に会ったのは、西郷が官軍の参謀として江戸城総攻撃中止を決定した直後であった。1868年3月28日だった。この2週間ほど前の3月13日(西郷隆盛と勝海舟の会談が行われた日)に西郷は、15日に江戸総攻撃となれば多数の死傷者が出ることを予想し、横浜にあるイギリス軍の病院を収容施設として借り受けたいとパークスに依頼するために使者を送った。ところが、協力的であるはずのパークスからは「病院の使用を拒否する。慶喜は恭順の意を示しているのだから攻撃には反対だ。これは万国公法にかなったものだ」という回答が返ってきた。西郷はこの回答を受けて愕然としたという記録が残っている。
 そして江戸城総攻撃を延期とした。その後、パークスのほうから西郷に会いたいという意向が通訳のサトウを通じて伝えられた。西郷は横浜まで出向き、パークスに面会した。このときパークスは恭順の意を示している慶喜を処刑するようなことがあれば、ヨーロッパ各国からの非難を浴びる、と警告を発し、西郷は慶喜や周囲の人々に対しては寛大な措置をとると語った、という記録が残っている。
 西郷はパークスが江戸城総攻撃に反対であることを知り愕然とした。その日付が3月13日で勝海舟との会談の一日目であることが重要だ。パークスが西郷の申し入れを拒絶した翌日の14日には江戸城総攻撃を中止しているのだから、パークスからの圧力があって江戸城総攻撃を中止したということになる。勝がパークスを利用したという説もあるが、ここではパークスの意向のほうがより重要だ。江戸城総攻撃となれば、幕府を援助していたフランスの部隊とも交戦するということになりかねない。そうなれば、イギリスも巻き込まれる可能性が出てくる。フランス軍が官軍に攻撃されるとなったら、イギリスはどちらに味方するのか、という問題が出てくる。これでは「小英国主義」に反することになる。だからパークスは江戸城攻撃を中止させたのである。(「 真実の西郷隆盛」(西郷隆盛とイギリスの情報将校アーネスト・サトウとのかかわり、の項) 副島隆彦 コスミック出版) 



そういう意味では、日本を狙っているイギリスにとって、江戸城総攻撃をさせなかった徳川慶喜は、手強い相手だったのです。もし西郷隆盛が江戸城を総攻撃して、それに対して旧幕府軍が徹底的に抵抗すれば、勝負は簡単にはつかない。その時にイギリスが薩長の新政府軍を応援すれば、膠着していた戦いを薩長軍の優位に導くことができる。そうなったとき、薩長軍はイギリスに対して頭が上がらなくなるわけです。イギリスは日本を思うように操ることができる。
しかし西郷隆盛は、徳川慶喜が恭順の意を示している以上、江戸城総攻撃ができなかった。それはイギリスの指示だったわけです。侵略方法の露骨なイギリスは、国際的な非難を受けることを恐れたのです。だから平和的な江戸城受け渡しになったのです。
それを分かって恭順の意を示した徳川慶喜は、イギリスにとって目障りな人物だったのではないでしょうか。イギリスにとってもここで徳川慶喜が戦わずに恭順の意を示すことは予想外の展開だったのではないでしょうか。おまえが恭順の意を示さなければ、もっとうまくいったのに、と。本当はイギリスは、日本をもっと露骨な親英国家にしたかったのだと思います。しかしこうなるとイギリスを取りまく西洋列強の状況がそれを許さなかった。
だからイギリスは江戸城総攻撃をしなかった。しかしよく考えると、徳川慶喜は恭順の意を示し、徳川家を生かすも殺すもすでに自分たちの思い通りにできるのです。そのことは徳川の後ろにいるフランスの介入を防ぐには十分です。とすれば、なにもこれ以上戦って血を流す必要もなくなり、イギリスとすれば新政府の陰に隠れて、これからも薩長新政府を操る条件はすでに十分整っているのです。
イギリスは、本当はここで強力な親英国家である日本を一気につくりたかったのでしょうが、それをひとまず先延ばしにして、日本の新政府の誕生後にそれをジワジワと実行していく長期戦略の方針に切り替えたのだと思います。


このあと、存続を認められた徳川家は、駿府つまり静岡に移って、廃藩置県で藩がなくなるまでは、大名として存続します。徳川慶喜はこのあと、政治の表舞台に立つことなく、ひっそりと明治を生きます。


【蝦夷共和国】 ただ、戦わずに幕府がつぶれることを潔しとしない幕臣たちは、東京から旧幕府の軍艦をかっさらって、オレは日本とは別の独立国を作るんだと言って、北海道の五稜郭に立てこもって蝦夷共和国という別の国をつくる。これが榎本武揚です。戊辰戦争の最終決戦は、この函館の五稜郭の戦いです。

またその蝦夷共和国を、イギリス、フランス、アメリカは喜んで承認する。ここらへんに、イギリス、アメリカ、フランスのホンネが透けて見えるんです。日本が割れて欲しいわけです。
だから大国が承認したこの蝦夷共和国は、われわれ日本人には有名じゃないのに、世界史的には独立国が成立してます。1年間ですけど。我々は知らないけど、イギリスなどの大国が承認するんです。

これも尾ひれがついて、1年後の1869.5.18日に降伏する寸前に、榎本武揚は一冊の外国の本を持ってきて、オレは殺されてもいいから、この本は日本で一冊しかないからと言って、敵軍の大将の黒田清隆に、あなたが預かってくれ、という。燃やすな、と言う。それを聞いて、黒田清隆・・・・・・この人はのちに総理大臣になる薩摩の人間なんですけど・・・・・・こいつは殺したらいけない人間だ、と思って、オレの下で働けといって、北海道の役人として使っていった。これもたぶん美談ですね。榎本武揚は、明治維新を生き残ります。


【会津戦争】 結局、この江戸城総攻撃は中止された。しかし、これだけの藩、東北の藩は、薩長とは手を組まない。戦うぞという藩が、これだけあるんです。これらの藩との戦いが始まります。これを戊辰戦争といいます。
東北諸藩はほぼ反薩摩、反長州です。その中心がどこかというと、薩摩と一番仲がよかった会津です。会津藩の中心は会津ですが、会津は明治維新で県庁所在地にならなかった。敵の中心だったから。会津には最近まで大学もなかった。ここで最大の激戦になった会津戦争が戦われます。
その会津を中心に東北諸藩が組んだ同盟がある。奥州、羽州、越後をあわせて、奥羽越列藩同盟という。



この戦いで、藩は総動員で、君たちのような高校生も、白虎隊というのを組織して、後方攪乱しろと言われる。しかし、夜が明けてみたら、まだ未熟な若者たちは早とちりして、お城が炎上しているように見えて、、お互いに腹刺し違えて死んでいった、という悲劇の白虎隊の話がある。
なぜこんな話が、伝わるかというと、腹刺し違えてたまたま1人生き残ったらしい。その人は、生き残って恥じているわけです。生きながらえて、嫁さんにも子供にも何も言わなかったけれども、死ぬ間際に、実はな、と語って、これが分かったのはだいぶ後のことです。そういう明治維新の裏側を生きた人たちも、東北にはいっぱいいます。


【五稜郭の戦い】 明治維新は、基本的に西日本の、薩長の西日本の勝利だから、東北人は冷や飯食いです。最後は、榎本武揚が独立国をつくっている五稜郭の戦いです。お城があります。五角形の五稜郭というお城です。変な城で、日本風のお城じゃない。幕末にオランダ式のお城を、幕府がここにつくっていた。しかしここで負けた。このとき1869年です。1年ちょっとかかっている。


ここで戊辰戦争は終わるんだけれども、われわれ勘違いしているのは、新政府の軍隊だから当然、東京に帰るはずと思うんですけれども、そんな新政府はまだありはしないのです。
では、どこに帰るかというと、薩摩の人間は薩摩に帰る。薩摩の兵隊が、新政府軍として戦っただけで、長州の兵隊たちも、東北まで転戦して、あと帰るのは長州です。土佐も肥前もそうです。
しかし負傷して帰ってくる。藩に戻ってきたら、まだ江戸時代のままです。変わったの表面上だけです。

まず一世一元の制をここでとり、天皇は終身制となります。この終身制を廃止したのは何天皇ですか。これが前の平成天皇です。
1868.10月には江戸城が皇居となります。京都御所にいた明治天皇は江戸城に入り、江戸が東京と改められます。さらに翌年の1869年の3月に、首都を東京に移す。東京遷都です。遷都というのは都を移すことです。東京とは東の京という意味です。京都がそれまでは首都だったからです。


【まとめ】 ここで大きな流れが決定しました。今までの大きな流れをまとめると、明治維新は、幕府による開国から始まりました。それに反対していたのが攘夷を唱える長州でした。しかし、長州が勝っても開国はそのままです。ここがおかしいのです。攘夷を唱える長州が第一次長州戦争で敗れ開国論に転換しても、長州は攘夷論とともに滅びるはずでした。

しかしその開国論に変わった長州を応援したのがイギリスです。それは長州がまだ倒幕を唱えていたからです。イギリスとフランスは長年の敵です。幕府はそのフランスに支援を求めます。そこでイギリスは、フランスと組む幕府を廃除するため、倒幕を唱える長州を応援したのです。
その長州と組んでいくのが薩摩です。その薩摩もまたイギリスと組んでいます。そしてそれが日本全体を巻き込んでいくことになります。
この薩摩・長州とイギリスとの隠れた結びつきが、明治維新の柱なのです。イギリスは、先に言ったように、その結びつきに対して目立たないように密かな動きを取ってますから、うまく表面から隠れています。このことがなかなか分かりません。
しかしこのことが、このあと日本が日清戦争や日露戦争を戦っていくことにつながっていきます。

続く。

新「授業でいえない日本史」 28話の2 近代 版籍奉還~士族の反乱

2020-11-01 04:05:00 | 新日本史4 近代
【中央集権体制】
【版籍奉還】
 こういうふうに戊辰戦争は終わっても、実体は江戸時代のまま、これを全国一つの国にするためには、2つ手を打ちます。1869年です。戊辰戦争が終わってすぐです。
1番目、版籍奉還という。奉還というは、みずから進んでお返しすることです。何をか。版籍というのは藩です。まだ藩があります。版は土地を意味する。籍は人を意味する。
明治維新を成し遂げた四つの藩は、誰の目にもあきらかです。俗に薩長土肥という。薩摩、長州、土佐、肥前を、まとめてこういうふうに言います。彼ら4藩主が自分から進んで、土地と人を全部、天皇にお返ししますと言ったんです。でも本当は自分から言うはずないんですね。
それぞれ、新政府に加わった家来たちが、殿様に、こうしてください、と頭を下げて、悪いようにはしませんから、と説得して実行するわけです。ここでは確かに、悪いようにはしません。しかし2年後には藩そのものを潰していく。
悪いようにはしませんから、名前だけというんです。藩主は、そのままでいいです。ただ名前を、知藩事に変えてくれたらいい、という。政治はまずこうです。名前からです。
しかし、これは従来と決定的に違う。知藩事になった瞬間に、藩主は新政府から任命されるものになるんです。天皇から任命されることを認めたということです。

おまけに、土地と人は天皇に返している。あとは天皇の考え次第でどうにでもなる。おまえこっちに転勤とか、天皇の名前でできる。実質的にそれを考えているのは新政府の役人です。

表面的には何も変わらない。藩の軍事権もある。侍もいる。侍は軍隊です。そのままです。藩の徴税権もある。農民は相変わらず藩に年貢を納める。そのままです。この段階では、何も変わらない。しかし意味が変わっています。


【廃藩置県】 2番目はその2年後1871年廃藩置県をやる。藩をなくして、県を置く。これが本番です。県とは何か。詳しく言わないところがミソですね。ただその意味を知ると、これは必ず反乱が起こるということで、反乱にそなえて、まず東京に1万人の兵隊を集める。薩摩と長州から。土佐、肥前は半分はずされ気味です。
中心は大久保利通です。ここらへんから。西郷隆盛ではない。西郷は、そこまでやるつもりはないです。薩長連合に二の足を踏んでいた西郷の予感はあたったようです。西郷は、明治政府のやり方に疑問を感じ始めたようです。1868年の五箇条の誓文には、「広く会議をおこし」という言葉がありますが、それは原案では「列侯会議をおこし」となっていて、この段階では藩をつぶすことは考えていなかったことが分かります。列侯とは大名のことですから。
なぜこれが急に藩の取りつぶしに変わったのか。イギリスとつながりの深い伊藤博文は早くからこれを主張していました。

藩を取りつぶし、お殿様も地方を引き払う。藩の権利を没収して、大名は東京に引っ越させる。こんなことをしたら当然、藩の大反乱が起きると思っていたら、なぜかなかった。
それは、藩の借金を新政府が、全部引き受けるというその条件です。藩は戊辰戦争を戦い、勇壮な若者たちが、これから働いてもらう人たちが、手を失ったり、足を負傷して働けない。そして給料だけは払わないといけない。だから藩の財政は火の車なんです。大名たちも頭を抱えています。それで、従うしかないとなる。

ここで藩が消滅したということは、それまで持ってた藩がもっていた軍事権、つまり侍の特権が消滅ということです。
農民はそれまで藩に年貢を納めていた。その藩が年貢をもらう徴税権も、ここで消滅です。本当に藩がつぶれた。
そしてお殿様は、東京に引っ越しです。
ではお殿様の代わりに、誰かがやって来るかというと、若い中央官僚が来る。大久保とか木戸とかのもっと下の役人です。これが県知事になる。ただまだ県知事とは言わない。県に命令する人、県令といいます。これがいまの県知事です。

武士にとっては、さあ大変です。お城には、お殿様がいると思っていたら、もういなくなった。そしてどこの馬の骨かわからんような、20代30代の若い、ハイカラ頭で背広を着た人がやってきて、私が今から命令します、と言う。これが全国にわたって一斉に行われた。でもここでは血が流れないです。こうやって日本は一気に中央集権化に成功したのです。


※ 15代将軍となった徳川慶喜はフランスとの連携を深めていく。フランス公使のロッシュは江戸幕府をより中央集権的な政府にすべきで、そのためには雄藩諸侯の力を削ぐべきだと慶喜に訴えた。フランスが江戸幕府にも勧めた諸政策はほぼ明治新政府が行った政策と一致しているという指摘もある。(田中惣五郎著「西郷隆盛」192~199ページ)。このことから考えると、「江戸幕府が続いていたら、日本の近代化は不可能だった」という主張は正当性を持たない。(「 真実の西郷隆盛」 副島隆彦 コスミック出版) 


これで武士が消滅しました。武士たちのうち新政府や地方政府の役人として召し抱えられたのは一部に過ぎず、多くの武士は主君を失って失業し、路頭に迷います。明治維新が世界の中でも他に例を見ないのはこの点です。
戦いで勝った者はふつうは次の政権を担います。戊辰戦争を戦ったのは、地方武士たちなのです。この武士たちが次の新しい政府を担うのかというと、まったく逆に武士はつぶれて消滅していきます。この点は西南雄藩といわれる、薩摩・長州・土佐・肥前も変わりません。戊辰戦争を戦って勝った武士が、日本からいなくなるのです。

戦ったあとには必ず利益が発生します。ではこの利益は誰がもらったのか。それがよく分からないのです。では利益がなかったのかというとそんなことはありません。利益をもらったものは必ずどこかにいます。でもそれが分かりません。
武士がつぶれて農民が利益を得たわけでもありません。あとでいうように、農民の年貢が軽くなることはありません。奇兵隊に応募した長州の農民兵はこのあと捨てられます。抵抗すれば処罰されました。

少なくとも明治維新で利益を得たのは武士でも農民でもありません。職を失った武士たちの多くは、多くの不満を抱えながら、役人になるか、軍人になるかの道を選びます。特に軍人には政府への不満が残ります。
明治維新にシコリが残らなかったというのはウソで、多くのシコリが残ります。そしてそれは明治以降へ持ち越されます。

もともと明治維新というのはペリーによる開国要求から始まりました。西洋列強は、自分たちの要求通りに貿易してくれる政府を日本を求めたのです。さらに自分たちの要求通りに動いてくれる政府を日本に求めたのです。これを防ごうとするところから幕末の動乱は始まりました。結果はどうだったのでしょうか。

明治維新によって、藩のなかでの売り買いに限られていた市場が、全国市場化していきます。地方の物だって、大坂で売っていいし、東京で売っていい。こういう市場があって、誰にでもその才能によって、売ることができる。こういうことが資本主義の土台です。
こういう大変困難な時に、血が流れないということは、非常に効率がいい。これが正しいとすればですけど。
そして県知事が登場する。この県知事、今と違って選挙なしです。中央の役人が転勤族として来ます。

反乱が起こらなかったもう一つの理由があります。藩がつぶれたら、武士も消滅することは今述べました。では武士の給料はどうなるか。仕事もないのに給料だけは払う、としたんです。この給料を家禄という。しかしこんなことは、ふつう考えて、ありえないです。仕事もないのに給料だけもらえるというのは。これはウソというか、方便なんです。3年後にはやはり給料を打ち切ります。

だから明治維新の本当の革命は、この1871年でしょうね。武士がつぶれ、藩がつぶれたからです。これで新政府に対抗する勢力は無くなりました。それが大事です。明治維新の1868年ではなくて、廃藩置県1871年が意味的には大事です。
本当はここで、他の国だったら血が流れるんだろうけれども、日本の場合には血が流れない。何が起こったのかよく分からないまま、静かに行われる。ヨーロッパだったら、これだけのことをやるには革命がおこります。それが日本の場合には非常に静かに行われた。うっかりすると見落としてしまいます。

もう一つ不思議なことは、イギリスの動きが新政府が成立した途端に分からなくなることです。幕末であれだけ薩摩と長州に影響を与えたイギリスが、下級武士による政府が成立した途端に介入をやめるとは考えられません。ただこれから十数年間は動きがわからなくなりますが、それは終わったのではなく、1890年代になると日本とイギリスとのつながりははっきりとした形を取って現れてきます。それが日清戦争直前の1894年に結ばれた日英通商航海条約であり、もう一つは日露戦争前の1902年に結ばれた日英同盟です。


【藩閥政府】 その結果、日本をリードするのは藩閥政府になる。この藩閥政府によって、日本全国が動かされる。薩摩、長州に、土佐、肥前を加えて、これを藩閥政府といいます。しかし8割がたは薩摩長州です。土佐、肥前はほとんど出てこない。
あとは、地方で新政府に対する反乱が起きても、鎮圧されることになる。




【欧米視察】 
ただ不思議なことに、さあ今から本格的に改革していこう、という時に、このあと何していいのか分からなくなって、政府の中心人物たちは、オレたち欧米を見に行く、と言う。
1871.10月から欧米視察に行くんです。約2年間も。一国の政府のトップがこぞって国を離れ、総勢107名という大人数で、2年間という長期間外遊する。これは極めて異例なことで、不自然なことです。
ヨーロッパでの主な訪問先は、やはりイギリスです。このイギリスと日本との外交関係はこのあとも見え隠れします。30年後の1902年には、日英同盟も結ばれます。ペリーの来航以降、日本の外交を引っ張ってきたのは、アメリカではなく、このイギリスです。この時の世界ナンバーワン国家はイギリスです。

ちなみに、イギリスの日本での拠点であるイギリス大使館は、この翌年の1872年5月、約1万坪の広大な土地を、法外に安い値段でイギリスが借り受けたものです。江戸城のすぐ西、今の皇居のお堀(半蔵濠)のすぐ西に隣接した土地です。他の大使館に比べて、その広さは驚くほどです。まるで皇居を見張るっているかのようにイギリス大使館があります。所在地は東京都千代田区一番町一です。

(皇居の隣のイギリス大使館)


その使節団に参加しなかったのが、西郷隆盛です。江藤新平もいかない。おまえたちに任せておく、という。これを留守政府という。ただ2年間も留守して、この激動の時代に何もしないことは無理なんですね。
次から次に、手を打たないといけない。すると意見が対立する。欧米視察組は完全に、ヨーロッパに魅了されて、うわーすごいんだというヨーロッパ一辺倒で帰ってくる。
その中心は大久保利通です。伊藤博文もついていきます。それに対して、オレは行かない、イヤだと言うのが、西郷隆盛です。彼と行動をともにした佐賀の江藤新平がいる。
特命全権大使は岩倉具視(46才)で、副使は、大久保利通(41才)、伊藤博文(30才)、木戸孝允(38才)、山口尚芳(32才)の4人。大久保利通よりも11才も年下の伊藤博文が、大久保と同格の副使として加わっている。これは異例の大抜擢です。伊藤博文はなぜこんな力をもつことができたのでしょうか。


【伊藤博文の動き】 さっきも少し言いましたが、伊藤博文は明治維新幕開けの1868.1月、まず神戸にいたイギリス公使のパークスに会っています。そしてパークスが外国公使に新政府が誕生したことを知らせるべきだ、というと、それを新政府に伝え、それを実現させています。翌年1869年には会計官(大蔵省の前身)となり鉄道建設に取り組もうとするが、その資金は外資に頼るしかなく、そこでもイギリス公使パークスの助力を得ています。
先にも言いましたが、このイギリス公使パークスは・・・・・・外国の公使はふつう4~5年で交代するものですが・・・・・・1865年から1883年まで、18年間という異例の長さで日本の公使を務めています。しかも皇居から目と鼻の先にイギリス公使館は広大な敷地を構えています。パークスは、皇居のお堀の横からじっと日本政府の動きを見ているわけです。

また伊藤は、欧米視察団が派遣される直前の1870.11月から1871.5月まで財務会計の調査のために自ら願い出て、アメリカに派遣されています。伊藤にとっては2回目の海外渡航です。2回目ということよりも、自ら願い出たら、政府がそれを認めるという伊藤の立場に尋常ならざるものを感じます。
そしてその年1871年10月からの欧米視察団の副使として、3度目の海外渡航に出向きます。これも実は伊藤博文の建議によって具体化したものです。
約100人の視察団を2年間にもわたって、世話ができる日本人がいたのでしょうか。言葉も通じず、電話もない時代に、どうやって100名もの日本人の、移動の手配や、宿泊先の手配、見学や研修の手配をできる日本人がいたのでしょうか。これは外国人が手はずを整えてくれなければ、できないことではないでしょうか。
それにしてもなぜ伊藤だけがこんなに多く海外渡航できるのでしょうか。伊藤の動きには分からないことが多いのです。


【四民平等】 では政治じゃなくて、庶民がどう変わっていたかというと、今まで武士身分、農民身分に分かれていたけれども、京都の貴族は華族、それから旧武士は士族、それ以外の農工商は平民に変わる。ある学校の、明治30年代の学籍簿を見たとき、出身身分が書いてありました。士族出身とか、書いてあるんです。
あと平民の名字、ここから名字が出てくる。これはそれ以前の戸籍がないから、確かめようがないけど、農民もすでにそれ以前から名字をもっていた、という考えがいまは強い。
ただ、戸籍がはじめてできるから、名前を太郎だけではなくて、山田太郎とか、名字を正式にここでつけた。
それから引っ越してもいいぞ、それまでは勝手に藩の外に出て行くと、打ち首だった。そういう転居の自由も認められた。


【文明開化】 ヨーロッパ思想をいろんな人たちが広めるけれども、一番よく広めたのは、1万円札の福沢諭吉ですね。この人は、九州の人です。大分です。しかも大分の小藩です。小さな藩の下級武士です。ベストセラーになった「学問のすゝめ」を書く。学問に身分はない。しかし、それで平等を説いたかというと、よく読んだら、人の上に人をつくらす、人の下に人をつくらず、の3行あとに、努力によって差は出ますよと、ピシャッと書いている。努力によって、人間には差がつく。だから学問をしなければならない。あまりにも、天は人の上に人をつくらず、というあのフレーズが有名すぎて1人歩きしてる部分がありますけど、きちっと厳しいことは言っている。

それから、その学問、学制、学校制度です。ヨーロッパは大学から行く。お金持ちの教育です。でも日本は違う。小学校からつくっていく。日本の小学校の優秀さは、この20~30年あとから約100年間、世界ナンバーワンだったけれど、たぶん20年ぐらい前からそうではなくなった。その代わり、ゆとりとか個性とか自由化とかが出てきています。

最初は、小学校の就学率は低い。子供が勉強しなければならない時代じゃない。8割方の日本人は農家ですから。うちの親父が言ってましたが、小学校から帰ってきたら、農作業の手伝いをさせられるわけです。今のように蛇口ひとつで、田んぼに水は入らない。踏み車といって、田んぼに突き刺すように立てて、それに乗って踏み車をずっと回していく。人間の足で。大人だったら、あまり重すぎるけど、小学生だったらちょうどいい。小学3、4年ぐらいの体重が一番ベストという。もう延々と、2時に帰ってきて7時まで、5時間ずっと、これを延々と回していました。田植えの時にはこれをしなければならなかった、と。
だから親は小学校になんかやりたくないわけですよ。しかも最初は無償ではない。義務教育じゃないから、働き手を取られたうえに、金を払って学ばせないといけない。だから最初は就学率は低い。しかし20~30年でポーンと上がっていく。特に男子は。

それから、月暦を改めて、今の太陽暦に代わる。これが明治6年です。

それから日本の仏教のこと。仏教は外来宗教だからダメだ。そんなバカな、というかも知れないけれども、伝統的な仏教を否定する。日本の古来の宗教は何か。神社です。お寺は仏教です。神道を国教化するといって、神仏分離令を出す。
今はあまりないけれども、お寺の中に神社があったり、神社なのか、お寺なのか、よくわからなかったりたり、合体したものが昔はよくあったです。
しかし明治政府の、仏教はインドの宗教だからダメだという。それでお地蔵さんのクビを全部、ナタでそぎ落としていく。村々にはずれのお地蔵さんは、満月の夜になると、よだれかけのところから真っ赤な血が出てるぞ、とか、そういう伝説化した話がある。血あび地蔵の話とか、君たちはあまり知らないけど結構あるんです。首を切り落とされたお地蔵さんがいっぱいある。こんなことをしても、宗教は信じる者は信じるんです。だからこれはみごと失敗です。だからお寺は生き残り、今でもふつう我々は死んだらお寺のお墓にはいる。
つまり明治政府は神仏習合の否定をやろうとして失敗したのです。しかし明治初年は、まだ血気盛んで、神道が日本の宗教だとして、国教化をどんどん目指していく。これにはある種の狂気を感じます。ここには西洋のキリスト教のように、一つの宗教によって国家をまとめようとする一神教的発想があります。




【征韓論】
では政治です。留守政府です。1871年から政府の主要人物は欧米視察に行ってる。大久保利通、木戸孝允、岩倉具視などです。どうもその実権は、伊藤博文です。
そんな中、1872年に征韓論が起こります。これは非常にわかりにくいだけれども、軍事的な問題です。日本は昔から、チンギス・ハーンが日本に攻めてくる時には、どこからかというと、朝鮮半島からなんです。朝鮮半島が敵になった時には、日本は危ない。
これは、こういうふうに言われる。子供が寝ているとすると、朝鮮半島というのはその咽元に突きつけられた刀のようになっている。ここを敵にしたら、日本は勝てない。これは800年前の元寇のときも、そうだった。だからここは絶対に仲間にしておかないと、日本の軍事的安全は守れない。
日本は開国したけれども、江戸時代のように鎖国しているのは日本だけじゃない。中国も、朝鮮も鎖国状態です。
ある面、朝鮮は1本筋が通っていて、ずっと鎖国してきたんだから、ヨーロッパ人が開国しろと迫っても、外国には関係ない、鎖国するかしないかはオレたちの問題だ、と一貫している。しかしそうは言っても、朝鮮がこうだったら・・・・・・早い話がロシアですよ・・・・・・ロシアが攻めてきて占領されるぞ、そしたら、オレが困るというのが日本の立場です。日本の咽元に、剣先が突きつけられたら困る、という。だから朝鮮の鎖国をやめさせないと、日本はまずいことになる、日本と同じ開国の方向でしてやってくれ、という。これが西郷隆盛です。

これは2回ねじれる。けっこう複雑なんです。そこに、もしイヤと言ったら、武力行使だ。戦争してでも開国させる、という。そこに、ちょっと待て、と大久保利通が外国から帰国する。今はそんな戦争をするべき時じゃない、と言って、取り止めさせる。それで西郷と喧嘩わかれです。では大久保利通は、朝鮮半島を攻めないかというと、3年後の1875年の江華島事件でしっかり朝鮮を攻めます。昭和になっても、満州・朝鮮は日本の生命線です。軍事的にも最重要地点です。
良い悪いは別にしても、こういうことがあって今も日本と朝鮮は仲が悪いでしょ。韓国は日本に補償を求めるでしょ。われわれの税金から、何十億とかかるかも知れない。そういう補償問題に今でもなってます。

そのような西郷の主張する征韓論がここで負けた。では何でこんな論争が起こったのかというと、これは留守政府と欧米視察組の勢力争いです。おまえたちに主導権を持たせて朝鮮半島を取るとらせはしない、取るのは俺たちだ、という欧米視察組は思っているんです。つまり政府の主導権争いです。

なぜこんなことになるのか。西郷隆盛は、江戸城総攻撃をしないことによって、イギリスが日本の政治に介入することを防いだ。イギリスはそのことを苦々しく思っている。西郷はイギリスのやり方を見抜いている。イギリスはその西郷が目障りなんんです。
この征韓論争に西郷隆盛も、江藤新平も敗れます。そして下野して、地元に帰る。つまり政府の高官を辞める。おまえたちといっしょにはできない、と言って、地元に帰るわけです。
逆に勝ったその欧米視察組の中心が、大久保利通です。西郷隆盛の弟分格です。この時に内閣総理大臣はまだありませんが、もし内閣総理大臣があったら大久保利通だろう、と言われる。その拠点が内務省です。内務官僚といえば、官僚のトップです。絶対的な権力を持ちます。明治維新から5年目の1872年に、西郷隆盛と大久保利通の力関係が逆転するわけです。

西郷はどうもイギリスに嫌われている。大久保とイギリスの関係はよく分かりませんが、西郷よりも嫌われてはいない。何よりも欧米視察組の中には伊藤博文がいます。このあとは薩摩の大久保利通、長州の木戸孝允、伊藤博文などの欧米視察組が力をもちます。彼らはすっかりヨーロッパに感化されて帰ってきます。ヨーロッパ視察の中心地はイギリスです。この征韓論争が1872年です。


【軍制】 次には、これから軍事は大事だ、農民であろうと兵隊になってもらおう、という。これが1873年の徴兵令です。ただ長男だけは、死んでもらっては農家の跡取りがいなくなって困るから、長男は免除です。それからお金持ちは、どうにかなりませんか、というと、そしたら270円で免除してやる、という。今の270万ぐらいかな。当時は貧しくてそんな大金お金持ちしか払えません。
1882年には天皇のお言葉として、軍人勅諭を出す。軍人とはこうあるべきだという勅諭です。軍隊の最高司令官も天皇ということになる。


【秩禄処分】 こうやって、今まで戦うのは武士だったけど、武士の仕事はますますなくなる。武士は仕事もないのに給料だけもらってる。しかしこんなことは長くはつづかない。一時しのぎだと言いました。これが1876年に打ち切られる。これを秩禄処分という。
こういう分かりにくい言葉を使うのは、分かって欲しくないからですよ。今でも政治家が妙に横文字を使ったり、難しい言葉を使うときは、中身を隠したがっているときだと思っていいです。中身をわかって欲しくないんですよ。
秩禄というのが武士の給料です。この強制的な打ち切りです。これが1876年です。
さらにこの1876年には、武士が腹を立てるようなことを、次々にやる。武士の魂である刀、刀の脇差しはならぬと、廃刀令を出した。




【士族の反乱】 
それで次の年の1877年には、西郷隆盛が腹を立てた。これがメインの西南戦争ですけど、その前に、征韓論から負けて下野した江藤新平の動きが、ちょっと謎なんですね。

江藤新平の動きをずっと見ていくと、征韓論で負けて下野してから、何ということはしてない。東京でブラブラです。佐賀に何年か帰ってないなあ、佐賀に帰ろうかな、と思って、船を伊万里で降りて、ブラブラしながら長崎にも行ってみようかなと思って、ゆっくり帰ってくると、佐賀に入ったときには、江藤さん、反乱どうしたの、という話になっている。オレ知らんよ、イヤーあんた反乱起こしているよ、という。エッ誰が、あんたが、何それ、という話です。1874年佐賀の乱です。だから謎が多い。この時の政府の実力者は大久保利通です。
もう新政府軍が佐賀までやってきて、鉄砲をぶっ放して、他県に逃げた江藤を引っ捕らえて、裁判にもかけずに即打ち首です。裁判にもかけないんだから。裁判にもかけないで、大物政治家が死ぬときには、何かやましいことがあります。9.11のビンラディンの時も、リビアのカダフィの時もそうだった。この佐賀の乱が士族の反乱の最初だということになっています。あと小さいこういう乱は、いくつか起こる。

ただ最大のものが、西郷隆盛です。この人も鹿児島に帰ってる。1877年西南戦争です。明治維新というのは、武士が起こして武士が潰れるという変な革命です。
だから何のために戦ったのかという不満をもつ武士は、全国にも鹿児島にいっぱいいる。本当を言えば、彼らが幕府を倒したんです。そして職を失って、給料もなくしたのも自分たちなんです。いったい何のためにオレたちは戦ったのか、うちの兄貴は死んだのか、なんでオレは右足を失ったのか、訳が分からんじゃないか。そこに西郷が帰ってきて、西郷さん、いっしょにやりましょうよ、という。西郷隆盛もたぶん嫌気が指している。彼は2回死にそこねてますから、勝てるとは思ってないけど、それならやろうか、ということです。
もともとは、忍者みたいな、お庭番だから、情報を知らないわけじゃない。的確な兵力、相手の武装、勝てる見込みはないです。しかし、もういいか、やろう、という。熊本城が最大の激戦地です。たった熊本までしか行けなかった。新政府軍が先に熊本までやって来たんです。だから、西郷が攻めたというよりも、新政府が鹿児島を攻めたといった方が実は正しいです。ここで行き止まりです。そして地元に戻って、鹿児島の小高い山の洞窟、その洞窟を見に行きましたけれども、そこで、もうよかたい、と言って自害して果てます。これが西南戦争です。

この結果は、何だったか。武力ではもう勝てない。じゃあ文句言うときは、どうすればいいか。言葉だ、思想だ、言論だ。こうして自由民権運動に変わるんです。この後、武力闘争は起こりません。
その自由民権運動の中心が、土佐の板垣退助です。板垣退助も下野している。おまえたちといっしょにはできない、ということで。このとき政府を動かしてるのは大久保利通です。佐賀の乱の時も、西南戦争の時も。
しかしその大久保利通も、1878年、江戸城近くの紀尾井坂というところで、出勤途中に突如、暴漢に襲われて暗殺される。このとき大久保利通は実質的な政府の実力者である内務卿をつとめていました。その後釜に座るのは伊藤博文です。

それに対抗してくるのが大隈重信です。大久保利通の右手は長州の伊藤博文です。左手は佐賀の大隈重信です。大隈は西郷側にはつかず、大久保利通側についています。
この大隈も結構、血が好きですね。この約10年後には、爆弾で右足を飛ばされて杖をつくようになりますが、その杖はただの杖じゃない。仕込み杖です。敵が来たらそれを抜いて、バシッと殺るつもりです。明治の法治国家で、総理大臣クラスの政治家が仕込み杖もって歩いている。今そんなことしたら手が後ろに回る。オレは右足がないからといいつつ、杖がきらりと光る。怖いですね。この手の人間ですよ。

ここで第一世代のリーダーは、すべて死んだ。1877年に西郷は戦死です。同じ年に、木戸孝允は病死します。翌年1878年に大久保は暗殺です。
次の世代がリーダーの座をめぐって、ここで暗闘する。それは3年後なんですが、そこまで行くには、まだいろいろなことが起こります。
これで終わります。

新「授業でいえない日本史」 29話 近代 地租改正~国会期成同盟

2020-11-01 04:00:47 | 新日本史4 近代
明治維新というのは、不思議な革命で、革命を成し遂げた武士がつぶれていく。江戸幕府を倒したのは武士なのに、逆にその武士がつぶれていく革命なんです。そういう意味では、革命の勝利者がつぶれていくという、世界で他に例を見ない革命です。こんな不思議な革命はありません。
だから、なんでだ、という不満がとうぜん武士におこっていく。それが西南戦争という形で現れますが、それも西郷の死とともに敗れ去っていきます。そこで、それまでのリーダーたちがほとんど死に、その結果、一番若い伊藤博文が前面に立つという展開になっていくわけです。
それが1881年明治十四年の政変につながりますが、今回はそこに行くまでのことをやります。まだ新政府になったばかりで、いろんなことをしていかないといけない。


【地租改正】 まずこの新政府は、お金がないです。無一文だと思ってください。お金を、どうやって取るかというと、日本人の8割以上は農民だから、農民から税金を年貢を取らないといけない。ではどうやって取るか。何を基準に年貢をとるか、といった時に、それまでの基準を変えていく。
実は今まで、言ってないけれども、江戸時代には土地の売買は禁止です。田畑永代売買の禁があった。何をつくるかということも、自由につくったらだめだった。これは田畑勝手作の禁という。
明治になってそれを解除していく。特に売買の禁の解除が大事です。土地を売り買いするためには、土地の値段がないとダメですね。日本に土地に値段がつくというのは、この時が最初です。誰かが値段を決めないといけない。その土地の値段がいくらなのか、誰にも分からない。だから政府が決める。地価を定めて、土地の所有者に、これが地券だ、土地の権利書だ、といって渡す。どういうものかというと、教科書にも明治政府が発行した地券がよく載っています。株券も、今はパソコンの中に入ってしまったけれども、もともとこのようなものだったんです。この地券に値段と所有者が記載されてある。こうやって、まず土地の値段を決める。目標は政府の財源確保です。ではそこから、どうやって年貢とるか。
1873年に、地租改正条例を出す。地租というのは年貢です。今までは、秋に収穫した米の量が基準だった。つまり収穫高だった。これを土地の値段に変えたんです。収穫高よりも土地の値段のほうが高い。10倍も20倍も。だから、地価を基準にすると、地価の3%でいい。見た目は非常に安く感じます。たたった地価の3%でいいんだぞ、といっても地価そのものが高いから、換算してみたら江戸時代の年貢と変わらない。そうすると何のための明治維新だったのか、農民には不満が残る。

1877年には、ちょうど西郷隆盛が政府と対立して西南戦争をやっている。それにからめるように、同じ年に地租改正反対一揆というのが各地に起こる。
西郷と農民の両方から攻められて、政府もここは引こう、と、税率の3%を2.5%に・・・・・・これは結構な引き下げです・・・・・・税率を20%近く引き下げた。


【殖産興業】 では次に産業を起こさないといけない、農業だけではヨーロッパに負けてしまう。この時代の危機感は、ヨーロッパが他の地域を支配しよう、植民地にしようとしているということを、ひしひし感じている時代です。うかうかしていたら国がなくなるという危機感があるわけです。日本が植民地にならなかったのは、アジアで例外的なことで、アジアを見るとほとんどの地域は植民地にされている。ああはなりたくない、そのためには、という危機感がある。
だから工業を起こさないといけない。ヨーロッパは自然と産業革命がわき起こったけど、これは奴隷貿易で金貯めていたからです。日本はそういうお金がない。ということは、国が主導していかないと工業が発達しない。その部門が1870年に設置された工部省です。
さらに国内全般の工業に加えて、商業部門もやっていき、地方行政や警察まで管轄するのが1873年に設置された内務省です。この内務省が一番強い権限をもっています。この後は、内務省の長官が、実は内閣総理大臣クラスです。内閣総理大臣はまだいないのだけれども、この内務省の初代長官として、力を振るったのが大久保利通です。しかしこの人も西南戦争後すぐ暗殺されました。伊藤博文も1874年に、すでに内務省の長官になっています。

政府が建てた模範工場として非常に有名なのが、群馬県にある・・・・・・日本の得意は生糸です・・・・・・富岡製糸場です。1872年に作られた生糸をつくる工場です。糸というのは生糸のことです。シルクです。これにフランス系の技術を導入して政府が運営しました。
それから鉄道です。新橋~横浜間、1872年にできました。新橋は東京のすぐ横にあります。
それから郵便です。約10数年前に首相の小泉純一郎がつぶして民営化しましたけど。国営としての郵便事業です。これは不可欠だ、これは国家事業でないとだめだ、というのが前島密です。これは、情報を民間にゆだねるという、10数年前の小泉政権の決定とは、まったく違います。情報こそ国家が管理しないといけない、という発想はもともとあるものですが、いま郵便事業は民営化されています。郵便とは情報のことです。


【金融制度】 では次、一番大事なお金です。そのお金がないんですね、この政府は。戊辰戦争をするお金あったじゃないか。戊辰戦争を1年間戦って、勝ったじゃないか。あれは刷っただけです。ただの紙を1万円だとして。これを太政官札民部省札といいます。
もともとの紙幣の1万円札というのは、1万円金貨との交換券であったんです。しかしそれですらない。ただ刷っただけです。おまえは金庫に大判小判を持っているのか、と言われても、そんなものありはしない。
オレが保障するからこれは1万円札だ、と言っても、もし新政府軍が負けたらその1万円札はただの紙切れになる。どうするのか、と言われたら、それまでです、と答えるしかない。こういう紙幣が流通している。こういうのを金と交換できないから、不換紙幣というんです。非常に信用が薄いです。

では今の1万円札はどうなのか、と聞いた人がいた。やっぱり信用ない。今の1万円札も金貨と交換できない。本来の貨幣はこの時代のヨーロッパでも日本でも、金貨と交換できる紙幣、これを兌換紙幣という。これが信用ある紙幣です。これにしたい。

ヨーロッパは少なくともこのレベルにはなっている。それでそのための条例として、まず単位の制定をする。大判小判じゃなくて、新しい通貨を作るために、新貨条例というのを発令する。1871年です。
言ってないけど、江戸時代は、4進法で非常に複雑だった。それを明治になって10進法にして、新しい通貨「」をつくった。円の下の単位は今はなくて、1円が最低単位だけれども、その時には「銭」があった。今でも為替相場なんかでは110円50銭とかの銭がある。そういう言葉として残っています。さらにその下になると、厘があった。
だから1円というのは今の感覚でいうと1万円です。どんどんインフレになって、1円は子供の遊びにも使えないようなお金になったけど、ここでの狙いはまず「円」という単位を制定して、次に銀行を作りたい。

この銀行が、国立銀行という名前なんだけれども、1872年国立銀行条例をつくったんですけれども、これは国立と名前がついていても、本当は国立ではないんですね。看板に偽りありです。今の地方銀行と同じ、民間の銀行です。

ここで銀行という形態が許可されたということです。それまでも金貸し商売はありました。では銀行とどう違うのか。それまでの金貸しは自分のお金を貸していましたが、銀行は他人のお金を貸すところです。他人から預かったお金を別の他人に又貸ししていいのか、そんなことが許されるのか、ヨーロッパでも長い議論がありました。かなり危険視されたものです。しかし1848年にイギリス政府が最初にそれを公式に認めます。銀行は預かったお金のウチの一部を支払準備のために用意しておけば、あとのお金は自由に貸し出していいことになったのです。つまり君たちが銀行に預けたお金は、銀行にはありません。別のところに貸し出されているのです。この制度を日本はまともな議論もなく導入したのです。
このことの意味は、「政治・経済」で言ったと思います。銀行の信用創造機能という銀行の通貨発行権にかかわる非常に重要な問題です。銀行は知らず知らずのうちにどんどん通貨の発行量を増大させることができるのです。資本主義の裏側にはこのシステムがあります。このことの真の理解することなく、日本は無条件に導入したのです。しかしこれは世界史とからむことなので、ここではこれ以上深く立ち入りません。(「授業でいえない世界史」ではもう少し詳しく取り上げています)

その民間の銀行が、あたかも国立銀行のような顔をして、お金を発行するんです。つまり日本銀行券があるように・・・・・・今の1万円札は正式には日本銀行券といいます・・・・・・福岡銀行券や熊本銀行券があったんです。地方ごとに。こういう銀行が全国に百以上できていく。

こういうことを考え出した人、考えた人というかこのモデルはアメリカなんですけれども、渋沢栄一という。この人はこのあと日本財界のドンになる人です。
めざすは兌換銀行券を発行したい。一番いいのは、政府の金庫に本物の金貨があれば、一番いいんだけれども、政府にもお金がないんです。
それなら世の中のお金をもっている人たちに、お金を発行してもらおうという発想です。それを銀行として認めようというわけです。その結果、日本全国に民間銀行が乱立していきます。例えば、福岡銀行、熊本銀行などなど、これ110銀行ぐらいまで出てくる。日本全国の紙幣がバラバラです。百何十種類も紙幣があるような状態になっていく。

ヨーロッパはというと、この銀行のはじまりは、世界史でやったけど、イギリスです。1694年にイングランド銀行という、のちにイギリスの中央銀行になる銀行ができてるんです。
しかしこの日本の銀行はアメリカのマネです。アメリカはこのときどういう状態か。1861年に始まった南北戦争が1865年に北部の勝利に終わって以来、お金の亡者たちがいっぱい出てきて荒稼ぎしていく。そして大財閥が形成されていく時代です。ロックフェラーという石油王、カーネギーという鉄鋼王、ハリマンという鉄道王が出現する。ロックフェラーは石油支配から金融支配にも乗り出す。この一翼を担うのがモルガン財閥です。ここも民間銀行がいっぱいある。アメリカ国内でお金の種類は何百種類と出てくる。その形を真似たものです。

その急成長しているアメリカで、1873年に2回目の世界恐慌がおこる。発端はニューヨークの銀行の経営破綻です。景気が一気に悪くなる。工業生産力が発展して、実力以上に物を作るから、過剰生産になる。そして売れ残る。だから買ってくれるところをさがす。これが市場を求めることになる。市場とはなにか。これ植民地ですよ。植民地時代に入っていく。

世界史でこの時代のことを何と言ったか。帝国主義の時代といった。そういう流れのなかで日本は国立銀行を作ったけれども、なかなかうまくいかない。
1873.10月から1880.2月まで約7年間、このようなことを管轄する大蔵卿の任にあったのが大隈重信です。大隈は中央銀行の設立はしません。アメリカでも中央銀行には賛否両論あり、かなり危険視されたのです。

しかしその後、やっぱり中央銀行を作らないといけない、となる。十年後の1882年に中央銀行の日本銀行ができるようになります。
これが内政面です。



【初期の外交】
次に外交面です。領土問題を抱えてます。ロシアとの領土問題です。ペリーが来た次の年には、領土はここまでだったんですね。日本の領土は、択捉島まで。今も領土問題で日本が主張してる領土はこの択捉島までです。
樺太つまりサハリンはは雑居の地です。しかし1875年に、このラインを変更する。南が日本、サハリンは手放す。樺太と千島を交換するんです。この条約を樺太千島交換条約という。ロシアとの国境がこれで成立した。
今の日本が求めてる国境はどこか。ここまでです。しかし解決はしてない。


【琉球】 領土問題、次は琉球です。前に言いましたが、琉球は江戸時代は、どこの国ですか。日本でも、中国でもなかった。日本でも、中国でもあった。それまでどこの国か分からなかった。日清両属だったから。
どうやって決着がつくかというと、まず1871年に中国の清と日清修好条規を結び、清と国交をもったあと、次に1874年に日本が台湾出兵を行う。どういうことかというと、琉球の漁民が、海が荒れて、行くあてもなく漂いながら台湾に漂着し、そこで殺されたんです。そのことに対して日本は中国に、抗議すると、中国がゴメンと言った。これで決定です。この意味、分かりますか。中国がゴメンといった以上は、殺された琉球の漁民は日本人だと認めたことでしょ。それは琉球は日本だということです。これで決定です。これで琉球の領有権が手に入った。これをやったのは、西郷隆盛の弟、西郷従道です。

この1874年の台湾出兵に断固として反対したのが長州の中心人物である木戸孝允です。木戸は自分の意見が受け入れられず、政府を去って下野します。この1874年に伊藤博文は、内務省の長官である内務卿にわずか33才で就任しています。

それで、次の1879年に、それまで日本なのか中国なのか、分からなかった琉球を正式に県にする。これを琉球処分という。外交交渉というのは、厳しいものです。発言一つが何を意味するか、それをきちんと考えていなければならない。日本が謝罪外交といわれて久しいですが、謝罪したらタダで許してもらえるほど外交は甘くありません。
だから政治家は謝罪なんか、簡単にはしないものです。政治家が謝罪したら終わりなんです。具体的には、お金の問題です。何億円の損失です。謝った以上は、ハイこれでおしまい、では済まないです。謝った以上は責任を取らなければならなくなる。
ここで琉球は沖縄県となった。


【朝鮮】 次は、朝鮮です。ここは征韓論争が起こって、西郷隆盛が死んでいくきっかけにもなった。外交方針の違いからね。反西郷派は政府の中心に座って、朝鮮に対しては出兵するなという、和平論をぶったけれども、それから2年後の1875年にはシっカリと朝鮮を攻撃します。
根底にあるのは、ペリーが大砲を向けてきたら断れなかった日本と、それでも断ろうとする朝鮮の外交方針の違いがあります。断ったら危ないと言う日本。何をぬかすか、腰抜けめという朝鮮。その外交方針の違いです。アヘン戦争を知らないのか、と言うと、朝鮮は朝鮮だ、と言う。どっちが正しいのか、ということです。
この1875年の攻撃を江華島事件という。これは朝鮮の島です。これを日本の軍艦が攻撃した。軍事衝突が起こった。そして日本が勝った。
そして翌年1876年に日朝修好条規を結んで、国交を開かせる。不平等条約です。治外法権がある。日本側に有利です。ここらへんから、両国がこじれていく。日韓関係が今もよくないというのは、知ってますね。



【自由民権運動】
【民撰議院設立建白書】
 ではまた内政に戻ります。西南戦争後の国内の動きです。西南戦争の敗北で武力では勝てないと分かった。あとは言論だ、政治的な論理だ、という自由民権運動が盛り上がっていきますが、実はこれは西郷隆盛たちが征韓論で敗れた直後から始まっています。その中心になるのは土佐の板垣退助です。彼はすでに西南戦争の前から、その動きを始めています。


板垣退助は征韓論で大久保利通と対立したあと、政府を下野します。そして1874年1月、国に対して意見書を出す。これを建白書という。これを民撰議院設立建白書という。
ここらへんは時代順じゃないから、死んだはずの江藤新平が出てきたりしますけれども、時間軸を調整してください。江藤新平は、ここまで東京にいます。江藤新平も板垣と連名で提出します。そのあと翌月の1874年2月に、久しぶりに佐賀に帰ろうかなあと思って、佐賀に帰ったら、江藤さん、何でここにいるの、反乱どうした、知らんよといいながら、捕まってそのまま佐賀の乱の首謀者として殺されていく。

この民撰議院というのは何か。民衆によって選ばれた議院です。まだ国会という言葉がない。今流にいうとこれは国会のことです。国会という名前が定着するのは、日本が戦争に負けてからですね。太平洋戦争後です。それまでは、帝国議会といっていた。この時には、そういう名前もないから、民撰議院、今でいう国会です。これを作ってくれとお願いした。
ただ政府は動かない。そのうちにとか、考えときますとか言うだけです。政治の世界で、そのうちにとか、考えときます、というのは、しません、ということです。ちゃんとする場合には、何月何日までにと、日付をいれないとダメです。

それならもっと強く押していこう、となる。同年の1874年に土佐に政治結社をつくる。これを立志社という。ここで出てくるのは、この政治結社だけですけれども、この時には地方にはいっぱい政治結社がある。こういう政治結社が今の政党のルーツになる。
政治的な考え方を同じくした人たちがグループをつくって、自分たちの考える政治をやっていこう。よくこんなことを言う人がいます。それでいくら貰えるのかと。いくら貰えるかと考えると、分からなくなる。政治で自分が儲けようとするのは、政治に今もはびこる横領と紙一重の発想です。


【愛国社】 この立志社は高知だけのローカル版なんです。これを全国版にして行こう。そしてこれが全国版に拡大されたのが、1875年の大阪で結成された愛国社です。全国組織になったということです。
それまでの政府側は大久保利通です。わかりました、そのうちにやります、という。これは拒否です。そのうちにというのは。しかし全国組織になったのを見て、これは板垣は本気でやるつもりだ、というのが分かるんです。早く手を打たないといけない。
大久保は、東京から大阪に急いで出向く。東京に出てこいじゃない。大阪で結成されたから、自分みずからが大阪に出向いて、まあまあ板垣さん条件を聞きましょう、と折れるんです。
それで、今まで喧嘩していた板垣退助は、この時政府を下野していた木戸孝允とともに政府に復帰します。でも木戸孝允はこのあと数年後に死にます。だから中心は板垣退助です。その板垣が政治に復帰すると、そういう条件でやりましょう。ただし、天皇の言葉として証拠をくれ、国会をつくるという証拠をくれ、と言う。これが1875年の立憲政体樹立の詔です。詔というのは天皇のお言葉です。立憲政治を樹立するという約束です。立憲政治とは憲法に立脚する政治です。そして国会は、この憲法の中に記述されるものです。
そのために三つの柱をつくる。まず元老院を作る。国会という言葉がないから、法律をつくる機関のことです。それがこういう言葉です。元老院とは立法府です。戦前まで続きます。
それから大審院を作る。裁判所という言葉がないから、審査するところ、犯罪を審査するところです。裁判所です。司法です。
もう一つが、地方官会議を開くことです。大まかに言うと県知事会議です。県の実情を言っていいところです。この3つが条件です。

それで板垣は政府に入ったけど、政府は同じ年の1875年に何をするかというと、讒謗律(ざんぼうりつ)を出す。難しい字ですけど、讒謗とは、そしるとか非難するとかいう意味です。政府批判一切禁止です。あれ、言うこと聞くよと言ったのに、違うじゃないかと、板垣は思う。
政府批判はどうか、文字で批判するという方法が明治から非常に強くなる。文字での批判とはこの時代、新聞紙しかないです。というか新聞というメディアが、このころ新たにでてきたんですよ。
そこで新聞紙条例です。これも1875年です。新聞で政府批判をすることは御法度だ、と禁止する。これで政府の本音が分かる。もう分かった、これまでだな、板垣退助と木戸孝允は、再度下野します。板垣は、反政府の立場で戦う。木戸孝允も下野して、そのあと病死します。

そして1877年に最大の士族の反乱、西南戦争が起こります。順番が逆になったけど、西南戦争までにすでにこういうことが起こっていました。
翌年の1878年には内務省の長官である内務卿の大久保利通が暗殺され、伊藤博文がそのあとを継いで2度目の内務卿(1878.5~1880.2)になります。この時の内務卿は、ほぼ薩摩と長州の交代制になっています。1885年に内閣制度ができてからの内閣総理大臣もこの薩摩と長州の交代制が続きますが、薩摩優位から、伊藤を中心とする長州勢の優位に変わっていきます。
このとき大隈重信は大蔵省の長官である大蔵卿(1873.10~1880.2)をつとめています。


【国会期成同盟】 板垣は、もう政府には近づかない。その全国組織が、ここから5年後の1880年にまた拡大していきます。1880.3月、ここではじめて、国会という言葉が出る国会期成同盟がつくられます。国会を期成というのは、国会をつくっていこうということです。その同盟です。これは実は全国組織の愛国社が名称変更したものです。

しかし政府は即座に弾圧する。これを集会条例という。集会したらいけない、とする。言論大会を開いたらいけない、という。しかし民権派もこれで弾圧されっぱなしではない。こういう自由民権運動の流れは1880年代ずっと続いていきます。

ここらへんの日本の騒然とした雰囲気は、戦後生まれの我々にはなかなか分からないものがあります。平成に入って日本人は政治に対してほとんどモノを言わなくなりました。1960年代の学生運動ぐらいです。
これで終わります。

新「授業でいえない日本史」 30話 近代 明治十四年の政変~黒田清隆内閣

2020-11-01 03:00:36 | 新日本史4 近代
【明治十四年の政変】
では1880年代に入ります。政府内でごたごたが起こります。1881年です。これを明治14年の政変という。
西暦の明治換算は1867を足し引きしたらいいです。1868年が明治元年です。だから1867に、明治14年の14を足すと1881年になる。

政府内では二つの対立がある。それは総理大臣クラスの大久保利通が、紀尾井坂の変、最近まで赤坂プリンスホテルがあったところなんでが、その付近で暗殺される。第一世代のリーダーたちというのは西郷隆盛も死んだし、木戸孝允も死んだし、大久保利通も死んだ。第一世代のリーダー格というのは、ここで死んでしまったんです。明治維新から10年経つと、その子分、弟分格、第二世代というか、そういう人たちの主導権争いになっていって、それが誰と誰の対立かというと、大久保利通暗殺のあとをめぐって、長州の伊藤博文と肥前の大隈重信の対立になっていく。手を組めばいいじゃないか。しかし国会に対する考え方違う。

伊藤博文は国会はまだ早かろう、という。国会なんか要らないという人もいるなかで、国会が必要だというのは2人とも共通しています。しかし伊藤は、まだ早い、と言う。時間かけて、失敗しないようにやりましょう、と。
それに対して大隈は、今すぐやろう、こういうのは早いほうがいい、という。この対立が埋まらない。埋まらないなかで、何とも不思議な事件が起こる。

北海道開拓使、これは今の北海道の県庁、北海道庁です、その払い下げ事件で、その金の動きをめぐって疑獄事件がおこる。これを北海道開拓使官有物払い下げ事件という。1881年、このときの北海道の県庁の長官が黒田清隆で、彼はのちに総理大臣にもなります。薩摩です。この黒田が、同じ薩摩の五代友厚・・・・・・この人も幕末にトーマス・グラバーの船に乗ってイギリスに密航していますが・・・・・・この同じ薩摩の人間に、1億円の大型工場を100万円で売るから買えよ、という。これがなぜか新聞に公表されることになった。こういう事件が、誰も知らないはずなのに、分かったんです。なぜこれが分かるのか、ということです。
こういうのリークという。これが誰かがリークしたんです。政府の機密情報を新聞記者なんかに、ニュースソースを言うなよ、オレが言ったと言うなよ、と言って流す。今でもありますね。私はあまり納得してないけど、情報によりますとか、政府筋によりますと、何とか筋によると、とか新聞によく書いてある。誰から聞いた、というのを、新聞は隠しているんですよ。ふつうは、そんなこと誰から聞いたのか、そこが大事でしょ。しかし、何とか筋によると、とか何事もなかったかのように書いてある。政府高官が公にこれをやったら、守秘義務違反で手が後ろに回る。
大隈じゃないかな、と言われつつ、今に至るまで、クエスチョンのままです。大隈も、死ぬ間際まで、やったとも、やってないとも言わない。なかなか食えない人物です。この人は。

その1881年に突如として、大隈重信が罷免される。罷免というのは政府をクビにされるということです。政府から出て行けということです。
これについては、薩摩・長州の肥前ねらい撃ちの第1弾が江藤新平だった。だから江藤新平の二の舞かな、ということもちょっと感じます。佐賀藩は幕末の動乱の中で、薩摩・長州の動きとはずっと一線を画してきた藩です。藩主の鍋島直正は、政治的判断から何も語っていませんが、薩摩・長州の動きに危険なものを感じていたフシがあります。明治新政府になってからも、佐賀藩出身者の動きは薩摩・長州とは微妙に違います。そのことは薩長土肥の一画をしめる土佐藩にもいえます。つまり薩長政府に対して、土佐と肥前はその批判勢力として機能していたわけです。ただそのなかでも最も薩摩・長州寄りだったのがこの大隈重信です。

その大隈がここでクビになったということは、薩長の藩閥政府がここで完成したということです。それとともに大久保利通亡き後のリーダーが決定されたということです。リーダー伊藤博文の誕生です。この人も、かなり血の匂いのする人物ですね。歴史の闇の部分ですけど。

では大隈重信はこの時まで何をしていたか。1873年から1880年まで大蔵卿を務めています。今の財務大臣、それ以前の大蔵大臣のポストです。つまり政府の財政や金融を握っていたのです。これは総理大臣に次ぐポストといっていい。お金を握る人間というのはいつの時代も強いものです。これをクビになるのですから、その第2のポストに誰がなるか、という問題が浮上します。
ここで松方正義という薩摩の人物が大蔵卿になります。のちに総理大臣になります。この人も洋行帰りです。ヨーロッパの銀行制度を見てきている。このあとでいいますが、日本銀行を作ったのはこの人です。日本銀行のような中央銀行の設立には賛否両論があって、ちょっと黒い影はあるんですよ。そういう人物が大蔵卿になります。

ここで、大隈と伊藤の対立は、もともと何だったかというと、国会をいつ開くかということの意見が違ってた。それに対しては、国会を開くということでは、一致してるんです。国会なんかいらない、という発想はない。
伊藤博文は同年1881年に、必ず国会を開く、という約束を、勅諭形式で出します。これを国会開設の勅諭といいます。勅という言葉は明治でよく出てくる言葉で、天皇を指します。天皇のお言葉として出てくる。間違いなく開くということです。さらにその期限も決めます。1881年にこの勅諭を出して、今すぐではないけど10年後には開く、ということになる。そして1890年には、約束どおり第1回帝国議会が開かれます。

今までの自由民権運動の目標は民撰議院設立だった。民撰議院は国会だった。これで目標達成です。国会ができる。ただ今すぐではない、というところで次の段階に入っていく。
このあとは国会の準備です。国会は話し合って、意見が対立する場合には、多数決で決まる。ということは、国会で自分たちのグループが半分以上占めればいいわけです。
そのためのグループがつくられます。これが政党です。


【政党の結成】 国会ができる、これが決まったのが1881年です。その年に初の政党ができる。
これが自由党です。1年後にもう一つの政党ができる。これが立憲改進党です。自由党の党首は、民撰議院設立建白書からのリーダー板垣退助です。

それに対して立憲改進党の指導者が政府を追われた大隈重信です。板垣退助は土佐、大隈重信は肥前です。薩長土肥のうち、土佐と肥前が政府から追い出され、政府を批判する勢力として政党を結成したということです。今では政党員というと、政府側だと思われがちですけど、この段階では、政党は反政府側に立つ批判勢力です。

大隈重信の動きは複雑です。ここでは一種の手のひら返しです。今まで政府のナンバー2をやっていたかと思うと、今度は政党の党首におさまって政府に反対する。この変わり身の速さも大隅重信が、地元であまり人気がない理由なのかもしれません。

ではこれらの政党を支持した人はどういう人たちだったか。板垣の自由党は土佐を中心とする田舎の金持ちたちです。田舎の金持ちというのは大百姓です。豪農という。豪農を中心とした田舎の金持ち層です。それと旧士族です。
それに対して、大隈の立憲改進党は、都会の金持ち層です。いわゆる会社の社長です。社長を難しい言葉でいうと、産業資本家です。その筆頭が実は三菱です。三菱はここから財閥になっていく。三菱は土佐の岩崎弥太郎が長崎のグラバー商会を引き継いではじめたものです。この人も同じ土佐つながりで坂本龍馬と関係している。岩崎弥太郎は、坂本龍馬が長崎につくった海援隊に、そろばん係として入っていた人物です。この人は政治家にならずに、実業家の道を歩んで、財閥にのし上がっていきます。それが三菱です。悪くいえば、大隈の金づるが三菱です。その大隈も幕末には長崎で活動していました。つまり長崎つながりが生きているのです。だから金持っている。個人の金ではないけれど。政治資金はどうもここらへんからくる。大隈重信は、のちお金を貯めて何をするかというと、早稲田大学をつくったりする。

ではヨーロッパのモデルはどちらか。自由党がフランス流です。

立憲改進党はイギリス流です。「政治・経済」でも言いましたが、日本の政治は議院内閣制といます。これはフランス流なんですか。アメリカ流なんですか。イギリス流なんですか。イギリス流ですよね。今の内閣制度を作ったのは大隈です。大隈はイギリス流だという。フランスは過激すぎる、というんです。フランスは殺すでしょ。王とか、マリーアントワネットとか。これはダメだ。もうちょっと穏健がいい。イギリスもむかし王を殺したんだけれども、結果的に考え直して今は王がいる。政治スタイルとしては、日本はこのくらいがいいという。

しかしそこには、大隈の好みだけではなく、幕末のイギリス人グラバー以来のイギリスとの関係があるように思えます。板垣退助があとで力を失うのに対して、大隈重信があとあとまで力を維持することができたのは、このイギリスとのつながりにあるような気がします。

これに対して自由党はフランス流をとります。イギリスとフランスといえば、幕末の日本に介入した二大国家です。明治維新はイギリスと結んだ薩摩・長州の勝利に終わりました。フランスは逆に幕府を支援しました。そのフランスを自由党が模範にするということは、反イギリスの立場を明確にしたということもできます。



【松方財政】
ではそのあとのお金の問題です。大隈のあと、大蔵卿の座についたのが松方正義です。明治新政府のお金は一体どこから来たかというと、実はありはしないのです。前にも行ったように、戊辰戦争を戦った。金の裏付けも何もないのに、紙を1万円札にして刷っただけです。戦争ほどお金がかかるものはない。西郷隆盛と戦った西南戦争も、お金を刷っただけです。これは不換紙幣です。紙に1万円と書いて、これ1万円だろう、これで大砲をくれ、鉄砲くれ、と言っただけです。今でいう政府紙幣です。まだ日本銀行はありません。
発行したのは日本銀行はまだないから、当時は内閣もなくて、当時は太政官というのが政府の中心的役所なんです。ここが印刷したから、太政官札という。
まだ明治政府ができて10年ちょっとです。この政府は、いつまでもつか、半分の日本人はそう疑っている。明日この政府はつぶれるかもしれない、と。そういうときに、この政府がこれは1万円だろう、鉄砲を売ってくれといっても、この1万円が、明日には紙切れになる不安がある。みんなそれは受け取りたくない、と思っている。ただお金が必要だから、1万円札を政府はボコボコ刷っている。

となると、政治・経済の授業の論理と同じで、経済実体が同じなのに、紙幣をむやみに刷ったら、モノの値段は上がります。モノの値段が上がることを何というか。インフレですね。すると物価が高くなって庶民は困る。
さらに政府も困ります。モノの値段が高くなる割には、政府の税収は固定された土地の値段の3%(または2.5%)だから、増えないんです。意味わかるかな。土地の値段の3%、土地の値段は地券という紙に、ここは100万円の土地と書いてあるから、それはインフレににかかわらず固定されてるんです。その3%だから税収は増えないんです。しかし、物価は高くなっている。物価が高くなっていく中で、税収が増えなかったら、実質的に政府の財政は減少していく。お金のない政府から、ますますお金がなくなっていく。

そういう1881年に大蔵卿、大蔵大臣になったのが、薩摩の松方正義です。明治14年の政変で。そして大ナタを振るうんです。
物価の値上がりを止めないといけない。インフレを止めないといけない。これがデフレーション政策です。金融用語では、金融引き締めという。
政治用語では、松方がやったから、これを松方デフレという。物価を下げるぞ、と言うんです。物価を下げるためには、出回っているお金の量を減らさないといけない。世の中のお金の量を減らすためには、ここらへん半分は、近代の歴史の半分は政治・経済の授業と同じです。お金のことが絶えず関係します。お金のことがない歴史なんて半分道楽です。理念だけで動くようなヤワな世界ではなくて、やっぱり政治の裏付けにはお金が必要です。

モノの値段を下げるためには、世の中のお金の量を減らさないといけない。減らすためにはどうするか。増税か、減税か。増税ですよね。農民からの増税です。これで世間からお金が吸い取られます。ということは、農民が持ってる紙幣は不換紙幣だから金の裏付けがない不健全なお金です。増税によって、その不換紙幣の回収を行った。

彼は1877年から約1年間、渡欧しています。オレはフランスに行って金融を学んできた、というのが、彼のプライドなんです。フランス滞在中に、松方はヨーロッパ最大の金融家であるパリのロスチャイルドとも会っています。そして中央銀行の仕組みをじっくりと学んでいます。こういう銀行をつくるぞ、ヨーロッパ流の中央銀行を作って、ヨーロッパ流のお金の発行の仕方に変えるぞ、といって、日本の中央銀行である日本銀行を作るんです。これが1882年です。ここで、お金は政府が発行するものではなくなった。中央銀行が発行することになった。ではこの日本銀行とは何なのか。日本銀行は今でも東京証券取引所に株を上場している民間の銀行です。政府組織ではありません。
そして準備を経て、3年後の1885年には、日本銀行がお金を発行する。お金の正式名称は日本銀行券といいます。今日1万円札、もっているから見せます。何と書いてあるか。ここに日本銀行券と書いてありますね。千円札でも書いてある。1万円札にも書いてある。これは政府紙幣じゃないです。このスタイルを作ったのが松方正義です。


※ 松方が中央銀行案を推進するのは、1877年に渡欧してフランス蔵相レオン・セーに会ってからである。ここに、日本金融史上もっとも重大な決定が下されたのである。前掲「日本金融史」の記載を引用する。
「松方は、パリを中心としてフランスに1878年3月から12月まで滞在した。滞在中、松方は庇護者大久保を喪うが、代わりに二つのものを得た。
第一の収穫は、ジャン・バプティスト・セーの孫でフランス蔵相レオン・セーの助言であった。レオン・セーは、第一に日本が発券を独占する中央銀行をもつべきこと、第二に、そのさいフランス銀行やイングランド銀行がその古い伝統のゆえにモデルとならないこと、したがって第三に松方が、最新のベルギー国立銀行を例としてこれを精査することを勧めた。(日本金融史 P53)」・・・・・・
松方が訪れたフランスは、皇帝なきあと、ロスチャイルド家が支配する共和制下のフランスだったのである。・・・・・・(イギリスの)ネイサン亡きあとのロスチャイルド家の世襲権はパリ分家へ移り、ジェームズ・ロスチャイルドが一家を統括する第3代当主とされている。そのあとを1868年に息子のアルフォンス・ド・ロスチャイルドが継いで第4代当主となっている。・・・・・・このアルフォンス・ド・ロスチャイルドの「使用人」ともいえるのが、前出のフランス蔵相レオン・セーである。(日銀 円の王権 吉田祐二 学習研究社 P95)


ただ金は、日本は一流国家じゃないから、まだ金(キン)が不足している。だから銀兌換です。金庫のなかには、金の代わりに銀しかない。こういうスタイルを銀本位制という。金本位制はもともとイギリスが取り始めた制度です。やがて日本もイギリスに合わせようとします。銀行のことをなぜ銀行というのか。それはこの時に紙幣を金ではなくて、銀と交換するところだったからです。銀が主要通貨だったのです。

ではそれまでは、国立銀行があった。1871年にできた。それまでの日本のお金は国立銀行によって発行されていた。これは福岡銀行とか、熊本銀行とか、日本中に100を越える種類の1万円札があった。非常に不便極まりない。これを停止する。これがお金を発行することはダメになる。これが福岡銀行とか、熊本銀行とかになっていく。いわゆる地方銀行になっていきます。

この時には増税一色ですから、世の中はお金が足りなくなって深刻な不況になっていく。不況になると、景気が悪くなって、景気が変動するときというのは、弱いものから先に潰れていくんです。潰れそうな小さな会社は、体力のある大きな会社に合併されていくんです。それと同じで、つぶれた小百姓の土地を、大百姓が買い占めていくんです。
農村も、持てる農民と持たざる農民に階層分化していく。貧しい農民たちは、この新政府ができて、何もいいことがないじゃないか、こんなの間違ってる、と暴動を起こしていきます。



【民権運動の激化】
ここで言論の戦いであった民権運動が、政府への不満、松方デフレへの不満、不況への不満、そういうものがたまって、逆に暴力的に激化していく。直接の原因は松方財政による不況です。
どういう激化事件が起こっていったか。1880年代前半に、次々に起こっていく。このことによって、今まで民権運動は地方のお金持ち農民による豪農民権だったのが、貧しい貧農を中心に暴動を押していくような動きに変化していく。ここはさっと行きます。
1882年に福島で起こる。弾圧事件が。
次に1884年に群馬で起こる。農民たちが武装蜂起する。
次に1884年に茨城の山の麓で起こる。この山を加波山という。その山に農民たちが集まって、ムシロを持って、百姓一揆みたいなものです。政府に要求するぞ、と暴動化していく。加波山事件という。悪いことをやっている政府高官は殺そう、と。こういう計画が発覚する。建前上、彼ら農民は、オレたちは自由党の一員だ、と名乗っているから、自由党の幹部はここで怖じ気づくんです。このままだと、オレたちは何もしてないけど組織責任を取らされて、牢屋に入れられるかも知れない。その前に、オレたちは関係ないということで、貧農と手を切ろうと自ら解党していく。自由党はここで一旦解党する。
板垣退助は、自由党の党首だったけれども、自由党を解党して、オレはよく考えたらヨーロッパを見たことない、見に行く、と言ってフランスに行く。ちょうどフランスは、ルイ・ナポレオン政権がつぶれたあとの第3共和制といって、非常にゴタゴタしている時期なんです。オレが描いていた近代化は、こういうもんじゃない、と言って失望して帰ってくる。このあとは力をうしなう。やる気を失ってしまう。

そして1884年、今度は埼玉の秩父です。また貧農が武力蜂起をする。これが秩父事件です。こういうのが、たった3年の間にバタバタと起こっていく。
この秩父事件を最後として、この時に大隈重信も、自分の作った改進党・・・・・・立憲改進党は立憲を省略したりします・・・・・・オレは面倒見きれない、一抜けた、というんです。党首の大隈重信が立憲改進党を脱党する。党から抜ける、ということです。
この大隈重信の動きは政府側に行ったり、反政府側に行ったり、非常に複雑です。



【朝鮮問題】
【壬午事変】
 江華島事件から6年経った。日本と朝鮮は外交方針をめぐって、方針が違う。1882年に朝鮮と日本との間でまた軍事衝突が起こります。壬午(じんご)の年に起こったから壬午事変という。
朝鮮も、今のように北と南に分かれてない一つの国です。その朝鮮にも親日派と、反日派がいるんです。反日派は、開国した日本は腰抜けだと思っている。これは鎖国派です。中心は大院君という王の父親です。
それに対して、王の嫁さんである閔妃は、いや日本流がいい、と言う。こうやって割れるんです。ただこの閔妃はあとで寝返ったりしてちょっと複雑なんですけれども。
朝鮮の政界がごたごたして、大院君一派が設置したばかりの日本公使館を攻撃した。これに対して日本は軍隊を出動した。そしたら中国の清もまた朝鮮に出動した。なぜ中国が出てくるか。世界史でも言いましたけど、朝鮮は伝統的に中国を親分としている。中国は、子分が叩かれたら親分が出てきて当然じゃないか、という感覚です。これを中国の宗主権といいます。親分の権利みたいな感覚です。
このことによって日本はのちに清と戦っていくことになります。この朝鮮の説明によって、すでに半分は約10年後の日清戦争の説明をしていることになります。


【甲申事変】 さらにその2年後の1884年に2回目の衝突が起こる。甲申(こうしん)の年だったから、甲申事変という。
ここで、さっき日本派だった、王の嫁さん閔妃が寝返って、中国側につくんです。そうするとやっぱり日本流がいいという部下と対立する。その部下が金玉均(きんぎょくきん)です。
ちょうどこのときフランスも、中国の別の子分をねらってる。1884年に清仏戦争で、フランスはベトナムを植民地にしたんです。ベトナムは越南といって、朝鮮と同じように伝統的に中国を親分としている。ベトナムとはこの越南のなまりです。それで俺の子分に何をするかと、清がフランスと戦争する。相手はフランスのナポレオン3世です。けちょん、けちょんに負けて、ベトナムはフランスの植民地になってフランス領インドシナになる。
実は約60年後の1940年代に、日本はここに向かって軍を進めます。太平洋戦争の直前です。ここに行った瞬間に、そこに関係ないアメリカが日本への石油をストップする。エッということになる。それで追い込まれていく。こういう因縁のある場所です。

これにこりて、今さら清じゃないでしょと、焦った親日派の金玉均がクーデタを起こすけれども失敗する。日本の仲間が失敗したんだから、日本が不利になっていく。不利なまま、中国と条約を結んでいく。それが結ばれた中国の都市の名前を取って、天津条約という。1885.4月です。
これを結んだ日本の代表が伊藤博文です。伊藤はこの時、こういうことを交渉できる国のトップになっている。この年の12月には伊藤博文は初代内閣総理大臣になります。相手は李鴻章です。この同じ顔ぶれで、のちの日清戦争の条約も結ばれることになります。

ここで日本は渋々、何を認めたかというと、こういう言葉が出てくる。清の宗主権、親分権です。ここで日本に不利なまま日清関係が悪くなる。そして朝鮮は、今度はロシアに近づいていく。これが最も日本が恐れたことです。日本は追い込まれていく。

この危機は、前に言ったように、なぜ朝鮮半島が危険かというと、レーダーも核兵器もないときに、こういう寝そべっていた赤ん坊の喉元に、剣先が突き刺さる形に朝鮮半島がなっているからです。朝鮮半島と九州、本州は、そういう形になっている。ここがロシアという敵に渡ったら日本は防ぎようがない、という感覚です。これが明治にはずっとある。
戦後は、ほとんどこのことを習わないから、意味が分からなくなっています。戦前の人は、ほとんどの人がこのことを分かっていたけれども。これは常識だった。いまは軍事教育は危険視されて、人気がないからね。


【大同団結運動】 次に言うけれど、1885年に内閣制度ができて、内閣総理大臣に伊藤博文がなっている。ここで政府側の組織が固まった。民権運動はゴタゴタしてるから、政府側が強くなった。
今度は、民権側はそうはさせじと、ゴタゴタをやめて、いろいろ細かい違いはあるかもしれんけれども、大きいところで団結しようじゃないか、まとまろうじゃないか、という運動を起こす。これが1886年の大同団結運動です。
土佐藩士の坂本龍馬の知り合いであった後藤象二郎という人物が中心です。彼は生きのびて、こういうところで活躍している。


【三大事件建白運動】 それで、国会が始まるのは、3年先なんだけれども、国会に対して文句を言おうと、どうしても我慢できない問題が3つある。
それが三大事件建白運動です。1887年です。政府に対してね。要求は何か。
一つ目に、おまえたちは弾圧ばかりしているじゃないか。言論集会ぐらい認めろ。
二つ目に、税金を安くすると言ったじゃないか。安くなってないじゃないか。安くしろよ。地租軽減を求めます。政府も痛いところです。お金のない政府にとっては。
三つ目に、外交失策の挽回です。治外法権とか、不平等条約がなかなか解消できない。それどころか、政府はさらに悪い条件を飲もうとしている。


そういう三つの要求を民権派はするんですが、内閣ができた政府側は1887年、即座に弾圧する。この弾圧条例を保安条例という。警視総監というから今の警視庁の長官が、こういう民権活動家を、死刑にはしないけれども、江戸時代でいう所払いがあった。東京から出ていけというわけです。東京追放をしていく。これが民権派の動きです。



【大日本帝国憲法の準備】
同時並行的に、松方財政がある。民権運動の激化がある。もう一つは、政府側は、国会を開くためには、国会のルールは何に決められているか。国会のルールは、憲法に書かれています。だからこれを開くためには、憲法をつくらないといけない。1880年代には、憲法作成の準備を同時に行っている。

明治の人たちというのは、政府の憲法案だけじゃなくて、オレも憲法案をつくるから参考にしてくれというのが、いっぱい出てくる。有名なもので、そういう自分が個人的に作った憲法試案を私擬憲法という。
植木枝盛という人は、日本国国憲按をつくる。これは憲法案という意味です。次は私擬憲法案です。そういうのがいっぱい出てきた。


しかし、政府は、伊藤博文を中心に憲法つくっていく。憲法をつくった中心人物は伊藤博文です。伊藤は1882年に再びヨーロッパに出向き、憲法を学びます。そのとき伊藤が模範としたのはイギリス流ではなく、ドイツ流憲法です。このとき伊藤は42才。幕末の動乱期、23才でイギリスに密航してから、ずっとイギリスとの関係が深かった伊藤ですが、この約20年の間に伊藤が感じとったことは何だったか。伊藤は英語が得意で、政府の中心人物の中では、ヨーロッパに関して伊藤の右に出る者はいません。その伊藤がイギリス流ではなく、ドイツ流を選び取ったのです。イギリスべったりだった伊藤が、イギリスとの距離を取り始めるのです。


国会の準備のために政府がやったことは、1884年に華族令というのをつくる。昔は華族さんというのがいるんです。旧貴族、または江戸時代の大名の一族です。
何のためかというと、明治には衆議院ともう一つあった。今は参議院ですけれども、貴族から構成される貴族院というのがあった。これを作るためです。




【伊藤博文内閣】(1885.12~88.4)
ここまで準備をして、1885年に今の内閣制度が発足する。今も内閣制度です。1885年から。まだ憲法ありませんよ。内閣がさきです。憲法がないからまだ国会もありません。

1885.12月、初代内閣総理大臣になったのが長州の伊藤博文です。西郷隆盛からみたら、伊藤博文は10以上年下だから、おい若いの、とアゴで使われていた世代です。このあと内閣総理大臣に4回なります。あとは内閣ができたら、内閣ごとに行きます。この人が初代です。内閣制度がここで発足した。それまでの制度は太政官制です。それに変わって内閣です。


【井上馨外相】 その部下として外務大臣、略して外相という。外相というのは外務大臣です。同じ長州、若い時からのポン友、イギリスにもいっしょに密航している。井上馨です。本名は井上聞多です。伊藤は俊介です。二人で話すときは、聞多、俊介の仲です。

井上馨はそれ以前から外務卿で、1880年代から極端な欧化政策をとっています。外国人を招いて、舞踏会を開きます。この時代を鹿鳴館時代といいます。夜な夜な外国人を鹿鳴館という今の日比谷公園の隣に建てた社交場に招いては、舞踏会を開き、日本の貴婦人たちと踊らせます。こういうことを今と比較したらダメですよ。この時代、日本女性が男と手を取って踊るなど考えられないことです。これに対して、はしたないことだ、と強い反発が起こります。首相の伊藤博文と外相の井上馨が、このような世間一般の常識と違った政策をとるほど、西欧化に対して異常な熱意を持っていた、ということが大事なのです。

この井上外務大臣がやったことは、イギリス、アメリカから治外法権を押しつけられている。人を殺したアメリカ人、日本で殺したアメリカ人、日本人は裁くことができないんです。日本にいるアメリカの領事が裁いて、裁いてというか、はやく帰れと言って、おとがめなしです。これをどうにか撤廃したい。そのために何をするかというと、日本の裁判官に外国人の裁判官を任命しようとした。これが良いのか悪いのか。日本で裁くことができなかったら、日本で裁けるようにしろ。イギリスは、その代わりイギリス人を日本の裁判官に雇えという。イギリスだけとは限りませんが、今の日本で同じことをやったら、まず乗り込んでくるのはアメリカ人でしょう。それと同じことです。日本の外交の柱はイギリスなのです。


そのことはのち1902年の日英同盟の締結を見ても明らかです。世界を驚かす日英同盟が突然結ばれたと考える方がおかしいと思います。日本とイギリスの結びつきは、幕末から強いものがあります。前にも言ったように、幕末1866年の薩長連合の裏には長崎のグラバーを通じたイギリスの影響があります。伊藤博文も井上馨も、そして大隈重信も長崎と深い関係があります。明治になってもイギリス公使館は、皇居の隣の一等地に広大な敷地を構えています。

これも前にも言いましたが、伊藤博文は1887年4月20日、その最も華麗な舞踏会のひとつとして仮装舞踏会を開きます。この舞踏会は、実は鹿鳴館ではなく首相官邸で行われます。伊藤博文首相・梅子夫人の主催ということで開かれたこの舞踏会は、実際には時のイギリス公使夫妻が主催したもので、伊藤は官邸を会場に貸し出しています。この舞踏会は、当時の人々から口を極めて罵られることになりますが、伊藤はそれにもかかわらず、イギリス公使の申し出を断り切れなかったのです。 


この外国人を日本の裁判官に任用することに対して、これは条約改正どころか、よけい悪くなることだよ、という御雇外国人がいる。フランスとイギリスはだいたい仲が悪い。そこで日本に教える。これは撤廃じゃなくて、改悪だよ、そんなことした外国はないよ、と。これを認めたら、日本の司法権は完全に外国の支配下におかれるよ、と教えるんです。これはボアソナードというフランス人です。これが世界の常識的な見解です。しかしこの内閣には外国からの圧力をはねのける力はありません。それを問題視していくのは、民権派の力です。


【ノルマントン号事件】 ちょうどその時に、イギリスの船でノルマントン号事件というのが起こる。
主要なファーストクラスにはイギリス人が乗っている。二等客室には、貧しい日本人が乗っている。難破するんですよ。イギリス人は全員助かる。日本人はほとんど死ぬんです。船長は、いやー全員を目指して、平等に助けましたけれども、なぜかイギリス人だけが助かって。なぜか日本人だけが死にました、というんです。
これはなぜかじゃなくて、わざとだろう。しかしイギリス人を裁けないです。こうやって、日本人は見殺しにされていく。そこに反対運動が起こる。それがさっき言った三大事件建白運動です。その3番目の外交失策の挽回というのがあった。それはこういうことです。
治外法権を撤廃する代わりに、日本の裁判官に外国人がなるなんて、おかしいんじゃないか。イギリス船が難破して、イギリス人だけが助かって、日本人が死ぬのはおかしいじゃないか。イギリス人を裁けないのは、おかしいじゃないか。政府はしっかりしろということです。そういう要求です。首相の伊藤博文、外相の井上馨、この両名のイギリスべったりの外交政策に、批判が集中していきます。


【枢密院設置】 それからこの間も伊藤博文は、こっそりと別荘にこもって缶詰になりながら、憲法案を作っているんです。その作る機関を枢密院という。1888.4月設置です。この初代議長になるのも伊藤博文です。これと同時に伊藤は内閣総理大臣を辞め、黒田清隆が次の首相になります。
この枢密院はもともとは、憲法をつくるため、それを最終審議するための場所だった。しかし、これだけだったら憲法ができた瞬間になくなるんです。なくならずに済むように、天皇が困った時には相談に乗る機関にする。だから1945年の原爆が落ちる年まで存続します。

これ以後、日本の政治が、昭和になって暗礁に乗り上げて、どうにも決まらないというときには、突然この枢密院が出てきたりする。それは天皇が相談して、枢密院がでてきて、天皇はその時に困っているから、枢密院のいう通りにする。そういう意味では、内閣以上に強い力をもつ組織です。
十数年間解決がつかなかいときに、突然、枢密院が出できて、解決するということも起こります。ここらへんに非民主手的な組織が残ってます。

それから地方制度も、1880年代末に、市や町ができる。郡というのもできます。




【黒田清隆内閣】(1888.4~89.10)
こういう批判の中で、憲法発布を待たずに、内閣総理大臣は長州の伊藤博文から、1888.4月に薩摩の黒田清隆に変わる。ここらへんは、長州がなれば、次は薩摩というふうに10年ぐらいこの繰り返しです。これが藩閥政府です。薩摩、長州だけです。土佐、肥前は出てこない。大隈重信もはずされたし、江藤新平は殺されたし、もう薩摩、長州です。次は薩摩の黒田清隆です。伊藤は長州だった。前に出てきた北海道長官だった人です。


【大日本帝国憲法発布】 この内閣のとき、1889年大日本帝国憲法が発布される。憲法を出すことを発布という。字が読める明治の人間は、発布と書いてあるから、絹の布がもらえると大喜びしたというんです。もらいに行った。布くださいと言って。そしたらぜんぜん違ったという、笑い話のようなことがあった。なぜか発布というんです。
これは憲法の種類としては、欽定憲法といって、天皇が定めた憲法です。国民が定めたんじゃなくて。


【貴族院と衆議院】 ここに書いてあることは、まず国会は二院制を採るということです。
法律や予算の成立の時には、議会の同意が必要。これは当たり前ですけど、これがないときには、何の同意だったか。天皇の同意なんです。法律を作ったり、予算を成立させるとき、天皇の同意ではなく、議会の同意で成立するということです。この違いは大きい。ここで国民が、国の運営に意見を反映させることができるようになった。

ではその二院というのは何なのかというと、それがまず政府がつくりたかったのは衆議院ではなくて貴族院です。これは国民からは選ばれません。1年前の華族令に指定された、旧お公家さんとか、旧大名クラスの家柄から選ばれる。誰が選ぶか。国民が選ぶんではありません。またでてきた、勅撰という言葉。勅は何か。天皇が選ぶんです。今は衆議院が優越ですけれども、この時は対等です。
我々国民は半分の力しか持たない。その半分ですら画期的なことであった。それが衆議院です。この名前は現在に至るまで続いている。今も同じ衆議院です。
では貴族院は戦後、何に変わったか。参議院です。イメージとしては、貴族院というのは、今でいえば参議院です。ただこの時は対等です。そこが違う。
選挙権は満25歳以上の男子です。女はダメ。20才じゃない。当然18才でもない。


【制限選挙】 ただ制限選挙で、所得制限がある。国税15円以上の人だけに選挙権が与えられた。間違いを恐れずにいうと、税金1500万円ぐらい払ってる大金持ちです。
これが人口の1%だけれども、これが2%、3%、10%、20%、100%、だんだん50年間で広がっていく。最初は1%です。広げろ、と言われて徐々に広げていくんです。ということで、ここまでにします。

ここでアレッと思ってほしいのが、憲法が先か、議会が先か。イギリスや他のヨーロッパの場合にはどっちが先だったか。もう一回言うよ。憲法が先か、議会が先か。ヨーロッパの場合には、議会が先だった。基本中の基本です。重要な所です。日本の場合には、憲法が制定されたとき、帝国議会、つまり今の国会はあるんですか。ないんですね。そこが逆転している。議会を開くために、憲法をつくっている。ヨーロッパは、議会がもともと歴史的にあって、議会から発生して憲法ができる。そこが違う、というところです。


【統帥権の独立】 この大日本帝国憲法と現日本国憲法と比較してみた場合、その違いは、今の日本国憲法には、表面上は軍隊ないことになってるんです。だからこういう言葉もないんだけれども、軍隊を指揮する権利、これを統帥権という。
これが言葉でいうと、統帥権の独立という言葉があるんです。これだけじゃあ、独立は、何からの独立なのかわからない。内閣から独立しているということです。天皇主権国家だから、天皇の元に通常は内閣総理大臣がいて、内閣がある。今の自衛隊は、軍隊はないということになってるんだけれども、現憲法ではね。自衛隊が仮に、ここらへんは言い方が難しいですよ。軍隊らしきものとしよう。そしたら、それは内閣の下に軍があるんです。内閣総理大臣が命令するんです。これは他の国でも、そうなんですよ。

しかし内閣から独立しているということは、陸海軍は内閣の外にあるんです。そして天皇が統括している。
というと、いいじゃないか、思うかも知れませんが、天皇は独裁者というには、余りにも自立性がないんです。ほとんど部下の意見を聞いて、どう思うか、どう思うか、と聞いて、そして会議開いて、大方の意見がそうだったら、そうしましょう、ということになる。最終的に、印鑑を押すだけなんです。ほとんどしゃべらない。御前会議というのは。黙れ、オレが決めるとか、そんなことないんですよ。
雰囲気を見ながら、最終的に、見たところ、こちらの方がいいかな、みたいな感じなんです。ほとんど命令しない。

こういう規定の中で、内閣総理大臣が陸海軍大将に、戦争しろ、とか、するな、とか言ったらどうなるか。軍部は腹を立てるんです。コラおまえは誰に向かって言っているのか、何の権限があって言っているのか、と。軍部は独立しているんです。命令される必要はないのです。これが最初の時、明治、大正では保てていたけど、昭和になっていくと、戦争に対して、満州事変などが起こって、内閣は戦争しないといっても、内閣を信用しない軍部が内閣を無視していくんです。こういう問題をはらんでいる。ここには政府が本当に信頼できるか、という問題があります。


(統帥権の独立)


ということは、組織を書くと、天皇のもとに、内閣と軍部がある。軍部は陸軍と海軍です。空軍はないです。飛行機がないから。内閣と軍部が対等ということです。内閣に軍部に対する命令権限がない、ということです。
忘れたころに、昭和になって思い出してください。内閣は戦争しないと言った。でも戦争が始まった。どういうことか、分からなくなったときはこれです。政府に対する根強い不信感があるわけです。

それから、もう一つの重要な違いは、内閣総理大臣、今の首相は内閣総理大臣である前に何なんですか。国会議員なんです。国会議員の中から内閣総理大臣を選ぶんだけれど、このときは内閣総理大臣は、国会議員である必要はない。
国会議員であってもいいよ。国会議員であることが多いんだけれど、法律的にそれを強制されないということは、非常に大きな違いです。例えば私が、戦前だったら、国会議員も何でもないのに、天皇が、あなた内閣総理大臣をしなさい、と言われれば、はい、私は内閣総理大臣になれる。こうやって天皇が任命する。


【大隈重信外相】 この前の伊藤博文内閣の時には、外務大臣は井上馨だったけれども、首相が変わると外務大臣も大隈重信に変わる。大隈重信は、政府から追放されたりまた戻ったり、政府のなかの外務大臣になったりまた出たり、次には総理大臣になったり、いろんな動きをします。

この人は、前の外務大臣の案を受け継いで、治外法権を撤廃したい。その条件としてイギリスに示したのが、最高裁判所の裁判官、これを判事という。判断する人です。判事は裁判官のことです。最高裁判所の裁判官に外人を登用する、という案を示す。

これは、日本の主権を外国に売り渡すことだ。よけい悪くなることだ、という反対がある。これには十分理由があります。外務大臣が井上から大隈に変わっても、裁判官に外国人を登用しようとする、今では考えられない方針は変わりません。これは日本の司法権の一部を外国人に譲り渡すことです。ここに外国からの非常なる圧力を感じます。外国というのは具体的にはイギリスのことです。伊藤博文も大隈重信も、幕末からイギリスとの関係の深い人です。しかしそのイギリスとの舞台裏でのやりとりはなかなか表面には現れません。


しかしこの時代、反対を押しのけてやろうとすると命を狙われる。爆弾を投げられます。一命は取り留めたけれども、右足が吹っ飛ぶ。大隈重信の記念館にはそのあと使った義足が展示してある。だからこのあとは杖をついて歩く。その杖が仕込み杖だった。なんかすごい話だと思いますね。
大隈が片足を失って、これで外国との交渉中止です。ここで内閣は総辞職する。黒田清隆内閣は終わった。

黒田清隆は薩摩だった。この時代の内閣総理大臣は、長州と薩摩との交代が続きます。次は長州の番です。
これで終わります。

新「授業でいえない日本史」 31話 近代 第一帝国議会~日清戦争、三国干渉

2020-11-01 02:00:00 | 新日本史4 近代
【山県有朋内閣】(1889.12~91.5)
1889年、3番目の内閣、山県有朋内閣が成立します。出身は長州です。内閣は、長州、薩摩、長州、とくる。あと5~6回、交代交代です。
憲法が定まって、そこに国会の開き方が書いてある。


【第一回総選挙】 日本初の総選挙が行われます。衆議院議員選挙のことを総選挙といいます。1890年です。政府を支持する政党もできた。政府支持の政党、これを吏党(りとう)という。しかし政党というのは基本、政府に対して反対する人たちが、最初につくったものです。政府反対の政党を民党という。具体的には、板垣の自由党と、大隈の立憲改進党です。
どちらか勝つか、これが焦点だった。どっちが勝ったか。定数300で、129対171、民党が優勢です。政府が負けたということです。ということは議案が簡単には通らないということです。


【第一帝国議会】 この選挙結果のもとに、今でいう国会・・・・・・これは正式名称は帝国議会という・・・・・・これが1890年に初めて開かれる。
この山県有朋というのは、出身が陸軍です。長州の。ここで初登場ですけど、あの幕末時代から、伊藤博文たちといっしょに活動をやってる人です。陸軍を中心にして、独自の判断でどんどん政治を推し進めていくんだ。しかも防衛力、朝鮮半島への軍事力を強化していくんだ、という。しかし軍事力強化は、お金がかかるんです。

民党は全く反対です。明治維新以来、国民は疲れている。少しは休ませろ。税金を下げろ。つまり「民力休養経費節減」です。政府はさらに軍事力を増大しようとしているから、全く折り合いがつかない。それでどうしたかというと、最初から汚点です。お金で動かすんです。お金やるから賛成してという。国会議員に。それが自由党土佐派です。これは自由党の本流ですね。立志社以来の。ここらへんが日本の民主主義が、まだまだという感じです。
どうにか予算を通したけど、しかし汚点は残った。


【民法制定】 ではこの内閣の時に、何が起こったか。日本の民法です。我々の生活に一番関係する法律です。ふだん我々はあまり意識しないけれども、いつから成人かとか、何歳から結婚できるかとか、家のあり方とか、親の財産をどうするかとかも、そういうのは民法の規定です。夫婦関係、親子関係、そういう人間の最も基本的なことを規定するのは民法です。憲法の次は民法です。あんまり意識しないけれども。
まずフランス流の案がでた。しかし、これに対してできたばかりの東京大学の穂積八束(ほずみやつか)という教授が、こんな民法はダメだという。確かにフランスは過激な国ではある。フランス革命とかナポレオン戦争とかで。
こんな民法ができたら、我々の日本の古来の、忠孝、そういう伝統的な考え方が滅んでしまうということて、これはちょっと問題だぞ、と論争が起こっていく。そして保留になる。この論争のことを民法典論争といいます。

このことの裏には、日本は明治維新でちょんまげ切って、羽織袴を脱ぎ捨てて、背広に着替えて、ハイカラ頭で、ネクタイを吊っていく。そういう西洋化を選んだ国です。しかし一方では、そのことに対する危機感がある。これでいいのかと。日本の伝統は残さないといけないんじゃないかと。
こういうのが・・・・・・明治維新後からもう20~30年経ってます・・・・・・この時代になると出てくる。本当に日本文化は古くて野蛮なものだったのか、と。

それから7~8年経ったあとの1898年には、フランス流はやっぱりダメだ。ヨーロッパをマネするんだったらドイツ流がいいということになる。ドイツはフランスに比べると、過激ではないし、日本人と民族性が似ている、ともいわれる。これで日本の伝統的な何を守ったかというと、です。

戦後の今の日本には家はありません。法律的には、家族しかない。家は家族とどう違うのか。家には、会社の社長がいるように、家には家長がいる。この家長が、家に対して全責任を背負うんですよ。この家の構成員はこの家長の許しがないと、昔は結婚できなかった。また家長に従わなければ親子の縁を切る。これを何というか。今は死語になっているけど、これを勘当という。勘当になると、家に対する権利を失うんです。相続する権利とかも含めて。こういう権限と責任が、社長が社員に命令するように、家長つまりオヤジにある。お父さんですよ。その権利つまり戸主権を規定する。これに対しては、君たちは大時代的なと思うかも知れんけど、日本の家はこういうものでした。地震、雷、火事、オヤジと言われた時代には。戦後日本が戦争に負けてから、日本の家制度はなくされてしまいました。

もう一つ、1890年には、教育に関して天皇のお言葉、教育はこうあるべきだという勅諭を発布する。教育勅語です。また勅が出てきた。勅の意味は天皇です。いま学校が絶対守らないといけないルールに教育基本法がある。明治にはない。それに代わるものが教育勅語です。これにのっとって教育を行うことになります。


【大津事件】 では懸案の条約改正問題です。これは10年経っても20年経っても、まだ解決できない。それどころか日本は自国の司法権を外国人に譲り渡そうとさえしている。その結果、大隈重信の右足が吹っ飛んだ。それでもまだ解決できない。

この時の外務大臣は青木周蔵という人です。この青木周蔵は、イギリスと非常にうまく交渉していた。このままうまくいくかなと期待したときに、そこにちょうどロシアの皇太子・・・・・・この人は次にロシア皇帝になるニコライ2世なんですが・・・・・・この人が日本に立ち寄った。日本とロシアの関係というのは、ロシアが朝鮮に接近していて仲が悪い。
そこで、琵琶湖の近くの町に立ち寄った。琵琶湖のほとりの大津、滋賀県の県庁所在地です。そこで警護していたお巡りさん自身が、この皇太子をブスッとやる。世間は大騒ぎです。これが1891年の大津事件です。次期ロシアの皇帝をですよ。でもどうにか一命は取り留めた。未遂に終わった。彼は、のちにニコライ2世になります。でもロシア革命が起こって死んでいくんですけど。これはのちのことです。

これは間違いなく死刑だ。政府は死刑にしろと圧力をかけた。しかし、この時の最高裁判所の長官・・・・・・このとき最高裁判所は大審院といいますが・・・・・・児島惟謙(これかた、いけん)は、確かに犯人は悪いけれども、法律に従ったら、未遂事件で死刑にはできない、という。暗殺未遂事件で、罪をいくら加重しても、最高で無期懲役だ、と言った。だから無期懲役にした。三権分立では、司法は行政の圧力を受けず、法律にのみ従うのがルールなんです。これに対し政府は、頭にカッカカッカ、ときた。ロシアと戦争になったらどうするんだ、と思った。しかし外国の反応が意外だった。日本はわかってる。三権分立の意味が分かってるじゃないかと、逆に評判が高まった。そしてこの事件は、日本が司法権の独立をまもったという事件だということに落ちついた。
しかし山県有朋内閣は、この事件の責任を取って総辞職します。山県内閣はここまでです。




【松方正義内閣】(1891.5~92.7)
次は、1891年から松方正義内閣です。一度でてきた人です。何をした人か。日本銀行をつくった人です。さらにデフレ政策をとった大蔵大臣です。薩摩出身です。
今度の選挙は民党に勝つぞと、解散して選挙をやった。結果は、また負けたんです。明治政府は選挙で負け続けです。1880年代の極端な欧化政策も、国民に人気がなかった。逆に、このあと政権を取る自由民権運動の流れ、こっちの方に票が集まったという事実がある。
国会が、民党という反対政党で占められたら、政府の法律も通らない。来年度の予算の承認は国会でオーケーが出ないと決められない。だから予算をつくれない。予算をつくれなかったら、おまえじゃダメだといわれ、その責任を問われてすぐ総辞職です。国会の力で、総理大臣の首を変えることができるようになったんです。それで政府は困った。




【伊藤博文内閣②】(1892.7~96.9)
1892年、また伊藤博文内閣の成立です。2度目の伊藤内閣です。この人は、3回目、4回目も出てくる。なぜこんなに何回も総理大臣になれるのか、不思議な人です。また前の松方が薩摩だったから、今度は長州です。
これは伊藤内閣は長いです、1892年、3年、4年、5年、6年まで、足かけ5年です。なぜ長いか。ここで日清戦争がおこるからです。どんなことしてでも、これでは負けられない。


【日清対立】 朝鮮と日本の関係は、明治の初めから仲が悪かった。これは外交方針の違いからです。日本は幕末約10年間のすったもんだの末に、開国方針をとった。朝鮮半島は、なんだ大砲ぐらいで脅かされて、日本のへなちょこめ、うちは伝統的に鎖国なんだ、と言う。折り合いがつかないんですね。
今の日本は豊かになって、主食の米が余ってるイメージがあるけれども、この時は米は足らないです。日本は貧しいです。農作業はほとんど江戸時代のままなのに、この30年間で、日本の人口は1.5倍ぐらいに増えている。明治から約100年で日本の人口は3倍になります。今の少子化と違って、日本の人口がガンガン伸びているところです。だからその人口の増加に食糧が追いつかなくて、朝鮮からの食料輸入に頼っています。
しかし朝鮮は、日本に米が足らないこの時に、日本に輸出しないよ、と言うんです。日本に米を売らない、と。これを防穀令といいます。これで頭にきて、慶応大学をつくった福沢諭吉は何と言ったか。もう相手にしなくていい、と言った。これを脱亜論という。ダツアロンです。何かガンダムみたいな名前ですが、脱アジア論です。亜というのはアジアです。大東亜の亜というのもアジアです。脱亜とは、アジアを脱して、という意味です。さらに、入欧、ヨーロッパ流にやっていこう、と続きます。
日本は、とにかく朝鮮とか中国にかかわらずに、ヨーロッパの仲間入りをすればいいんだ。その背景には、中国、朝鮮は、なかなか日本の目指す近代化が進まないという事情がある。日本と考え方が違う。そういう事情がある中で、朝鮮半島と日本は、だんだんと仲が悪くなる。


【甲午農民戦争】 その朝鮮で一つの戦争というか、国内の反乱が起こる。1894.3月に甲午農民戦争が起こる。これは別名、東学党の乱ともいう。朝鮮半島ではヨーロッパの文明に対して非常に反発が大きい。ここから日清戦争につながっていきます。
日本でも幕末時には、尊王攘夷があった。外国人を打ち払えと。朝鮮では、キリスト教は西学と言われた。それに対して朝鮮の伝統的な宗教の総称が東学です。つまり西洋流に反対しようという人たちが、反乱を起こした。すると朝鮮政府は、自分では鎮圧できないから、朝鮮が親分と仰いでいる中国に応援を求めます。中国は清です。清の軍隊が応援に駆けつける。
それなら日本だって応援に駆けつけよう、と言って、日本の軍隊も朝鮮に駆けつける。朝鮮を中国に渡したくないわけです。
日本と清の両国が朝鮮に出兵して、この甲午農民戦争を鎮圧した。でもこれで終わりではない。そのまま日本軍と清軍は朝鮮から動かない。にらみ合う。こうなるともう戦争です。こうやって日清戦争のきっかけは朝鮮半島でおこる。


【日英通商航海条約】 この間、外交交渉。外務大臣も変わっています。大隈のあとは青木周蔵。この時は陸奥宗光です。実はこの人も、長崎びいきなんです。長崎の海援隊のメンバーとして活動していた人です。長崎にはイギリス人グラバーがいました。関西の人間ではなくて、東北の人間という点では珍しいですが。三菱の創始者である土佐の岩崎弥太郎も長崎で海援隊がらみなんです。大隈重信も、佐賀藩が長崎に建てた英学校を拠点にして、やっぱり長崎で活動していました。長崎つながりです。岩崎弥太郎は、長崎でイギリス人のグラバーとつながる。日本最大のビール会社、キリンビール会社は、もともとはイギリス人グラバーがつくった。キリンビールは財閥系でいうと三菱です。この三菱と大隈との関係はずっと続きます。長崎つながりは、明治の政財界にずっとつながっている。長崎がらみの人は、なぜかイギリスとの交渉でうまくいくんです。

中国と戦うためには、イギリスを味方につけないといけない。陸奥宗光はこれに成功していくんです。イギリスと、簡単に言うけれども、この時代の中心はアメリカじゃない。世界の中心はイギリスです。最大の帝国は大英帝国のイギリスです。このイギリスが、日本との条約改正にイエスという。イギリスとの間に1894.7月日英通商航海条約を締結する。日清戦争が起こる1ヶ月前です。
何を認めたか。イギリスが、日本にもっていた、日本で犯罪を犯しても無罪になるという治外法権を撤廃する。日本で罪を犯したイギリス人はちゃんと日本の法律で裁いていい。今でいうと当たり前なんですけど。それが今まではなかったんです。国が弱いとこうなるんです。それを初めて日本は撤廃した。しかもその相手がイギリスだった。イギリスがウンと言った。日清戦争の直前に日本のバックには、イギリスがいたということになる。これが8年後1902年の日英同盟につながっていきます。

では、そのイギリスはなぜ、ちょんまげ国家の日本にすりよって行ったのか。これにはちゃんと裏があります。イギリスは、日本を応援することによって、何を防ごうとしたか。イギリスの敵はどこか。実はロシアなんです。世界史でも言ったけど、19世紀末のイギリスとロシアの対立はグレートゲームと言って世界史上の大きなテーマです。そのロシアは日本よりも清を選んでる。その清を通じて朝鮮の不凍港を確保したいというのがロシアの狙いです。
イギリスにとってロシアは敵です。敵の敵は味方になる。戦争の論理は意外と簡単です。今でもそうです。敵の敵は味方になりやすいというのは、友達関係でも同じです。私がA君と仲が悪かった場合、そのA君とB君とが犬猿の仲だったら、私とB君は仲間になりやすい。逆にA君とB君が仲がよかったら、私はB君まで敵にまわすことになる。イギリスにとってロシアは敵です。ロシアの仲間が清だったら、清はイギリスの敵になるんです。あまり難しい理屈じゃない。そして清が敵だったら、清と仲の悪い日本は味方になりやすい。それでイギリスは、清と仲の悪い日本につく。基本はこれです。

先のことを言うと、これで日本はイギリスを味方につけて、まず清と戦い、次にロシアと戦う。清もロシアもこれで弱くなる。そこにイギリスの新たな敵としてドイツが出てくる。これが第一次世界大戦です。これは世界史の話ですが、このことに日本の果たす役割は大きいです。清に勝って、次にロシアに勝つ。たった10年で。これで第一次世界大戦につながっていく。
だからここの日清戦争の説明の半分は、すでに日露戦争の説明にもなっています。日清戦争、日露戦争というのは、理由の半分は同じです。連鎖しています。


【イギリスの帝国主義】 ここで日本の動きと関係の深いイギリスの動きをいいます。この時のイギリスというのは、世界のナンバーワン国家、大英帝国で、世界をまたにかけてどんどん植民地を築いています。これを帝国主義といいます。ただここでイギリスは余裕たっぷりかというと、実はイギリスも焦っています。その結果の植民地主義です。なぜイギリスは植民地が欲しかったか。

今まで産業革命でイギリス製品は世界でナンバーワンだったけれども、イギリスは1870年代からの第二次産業革命に出遅れて、物が売れなくなっています。すると製品を売る市場を求めて、外国の領地を占領していく。それが植民地です。そして保護貿易に変わる。先に支配した者が勝ちだと言って、そこに強制的に売りつけていく。分かりやすく言うと、植民地ぶんどり合戦です。
1880年代にナンバーワン国家イギリスの産業力がアメリカに追い越された。とすると、今まではナンバーワンだったら物が売れて自由貿易でよかったんですけれども、相手が強くなったらイギリスは今度は保護貿易にしようとする。
さらにドイツが急速に経済発展している。保護貿易にするためには、遅れた地域、アジアやアフリカを自分の植民地にする必要がある。そして保護貿易にして、外国製品を閉め出したら、イギリス製品が売れるんです。仮にドイツがアジアに製品を売ろうとしたら、オレの領地に何を売っているか、と言える。こういう形でどんどん植民地を獲得していく。最大の植民地を持つのがイギリスです。まずはアジアです。イギリス最大の植民地はインドです。


このような植民地支配には多額の資金が必要です。その資金を供給するのが銀行を中心とする金融資本家です。このようなイギリスの動きの後ろには、多額の資金をもつロスチャイルド家のような金融資本家の存在があります。彼らは政治家に多額の資金援助をしています。イギリス首相ディズレーリとロスチャイルド家との深い結びつきは有名です。

(金融資本による議会支配)


イギリスはまずインドを領有した。約100年前の1757年のプラッシーの戦い、それからちょっと前の1857年のシパーヒー(セポイ)の反乱です。次には、中国に1840年のアヘン戦争をしかける。1882年にはアフリカのエジプトを占領する。1899年の南アフリカ戦争では、オランダ人を追い出して、南アフリカで金を一人占めする。あそこは金とダイアモンドが出ます。お金になるところは全部取っていく。1900年代になって中東から石油が出れば、まっ先に取る。

世界史上のことをもうちょっと言うと、その結果、一番被害を受けたのが、アフリカです。数百年前から奴隷貿易の供給地にされたアフリカは、壮健な20代の男がどんどんで奴隷として連れ去られて人口が減少し、働き手がいなくなり社会が崩壊します。
そしてこの19世紀末になると、ヨーロッパはアフリカを植民地にしていく。そこにルールは、あって無きがごときものです。早いもの勝ちなんです。1880年代のアフリカの植民地は面積の10%でしたが、1900年には90%になります。アフリカはほんの10数年の間にほぼヨーロッパの植民地にされていく。
アフリカの国境は、人が住んでいるのを無視してヨーロッパ人が直線を引くから、民族が分断されていく。これがいまだに残るアフリカの民族紛争の火種になっている。アフリカがやっと独立したのは、第二次世界大戦後です。


【日清戦争】 こういうふうイギリス中心の世界情勢の中で、1894.8月日清戦争が始まっていきます。清と戦う1ヶ月前に日本は、イギリスと条約を結んだ。これが1894.7月の日英通商航海条約です。これは外交的には不平等条約の撤廃の一つで、治外法権が撤廃されますが、戦争という意味で言うと、日英同盟に結びつく第一歩なんです。
日英同盟というと、日本という弱小国家に対して、イギリスは大英帝国、世界ナンバーワン国家です。これが五分五分の対等で同盟を組むということはふつうありえないことです。そういうふうに考えたほうがいい。同盟は対等だから、日本とイギリスが対等かというと、今の日米同盟といっしょで、ぜんぜん対等じゃないでしょ。今の日米同盟が対等だと思っている人はいないとは思うけど。

ではなぜイギリスは、ちょんまげ国家だった日本と同盟を組むのか。なぜ治外法権の撤廃を認めたか。

イギリスとロシアの対立の原因は、ロシアがヨーロッパの南に向かって地中海へ出ようとしたからです。イギリスが強くなれたのは、イギリスは島国で海に囲まれているからです。イギリスは海軍の国です。ドレーク以来の海賊の伝統があります。ところがロシアは寒くて、軍艦をもっていても冬場は氷で閉ざされてしまいます。ロシアの最大の弱点はそこです。だからロシアが一番欲しいものは1年中凍らない港です。これを不凍港といいます。日本に住む我々にはピンとこないことですが、氷に囲まれた軍艦など何の役にも立たないのです。だからロシアは不凍港を求めます。これを南下政策といいますが、これに脅威を感じたのがイギリスです。イギリスはなんとしてもそれを阻止したい。イギリスは外交的手段で他の国を味方につけ、ロシアの南下を阻止します。

負けたロシアは地中海への南下がダメだったら、今度はシベリア方面を東に行こうとします。そこに軍港を建設します。ウラジオストックという軍港です。新潟県の反対側の日本海側に。しかしここは日本海に囲まれていい軍港とはいえません。地理的に、日本海から出るときに狙い撃ちされるのです。それで1890年代になると、シベリア鉄道を着工して、東へ東へと進みます。そこで目指すは軍港です。もっといい軍港をもちたい。それが朝鮮半島北部の遼東半島です。
ロシアが遼東半島に軍港をもてば、中国をねらうイギリスの脅威になります。イギリスはどんなことしてもそれを阻止したい。そこに、ちょうどいい味方がいた。これが日本です。これが日露戦争につながっていく。でも今はその前の日清戦争の説明をしています。

清はアヘン戦争以来、イギリスに痛めつけられています。でも日本は幕末以来イギリスと仲が良い。このこと自体が非常に不思議なことです。中国がアヘン戦争でイギリスに痛めつけられたのに対し、日本はこのあと1902年にイギリスと日英同盟を組みます。

そしてさらにその後のことを言えば、1930年代に日本がイギリスと対立するようになると、イギリスは中国を応援するようになります。つまりイギリスはその時その時で、日本か中国のどちらか一方しか応援しないのです。そしていつも日本と中国は対立していくのです。

この時も、清はイギリスよりも、ロシアのに近づいていった。ということは、清はイギリスの敵であるロシアの味方になったということです。国際関係は意外と単純で、敵の敵は味方になるんです。それと同じ理屈で、敵の味方は敵です。これがイギリスと中国の関係です。
そうなると中国と対立する日本は、イギリスの味方としてますます重要になる。まず清を叩こうということです。1894.7月の日英通商航海条約にはそういうイギリスの思惑があります。その路線に首相伊藤博文と外相陸奥宗光が乗ったということです。日本は、そういうイギリスの国際戦略上にある、ということです。その一環なんです。


翌月1894.8月、日本は日清戦争に入っていく。しかし内政面では、政府側と民党側というのは喧嘩して仲が悪い。平和な時には、国内で戦っていてよかったけれども、外国と戦う時は、もう内輪もめどころじゃない。民党は全面協力していく。そこには危機感があります。もし負けたら、他の国が植民地にされるのを見ているから。
このときの首相は伊藤博文です。伊藤博文は2つある政党のうちの、2つあるというのは分かるかな。政党が分からないと、二度手間、三度手間です。政党の流れを見てください。

いま政党は2つある。2つというのは、板垣の自由党と大隈の立憲改進党です。首相の伊藤博文は、そのうちのどっちと手を組むか。板垣退助の自由党と手を組む。法律をつくる時には議会の承認がいるから、議会が反対したら政治がすすまない。だから、どうしても民党の協力が必要で、自由党と接近する。その自由党の党首である板垣退助が政府側に入る。内務大臣という総理大臣に次ぐナンバー2のポストです。


民党側もこの戦争に対して反対運動は起こしません。何か大きな合意があるようです。この合意が何なのかは分かりません。ここで政府側の伊藤博文と民党の自由党との結びつきができます。このことはあとの伊藤の動きと関係します。今まで対立していた政府と民党が手を組みます。
伊藤が自由党と手を組んだということは、逆にいうと、もう一方の大隈の立憲改進党とは手を組まなかったということです。この大隈も日清戦争に対する反対運動は起こしません。

ここで戦争に突入していくわけです。第二次世界大戦のイメージでこの時代の戦争を見ないでください。全面戦争やるのは、日本は第二次世界大戦だけです。世界では第一次世界大戦からですけど。
それまでの戦争は、首都から遠く離れた場所で戦いあう局地戦です。決戦場所は、旅順・大連です。ここで日清が戦う。この旅順・大連はよく出てくる。ここに中国最大の軍港があるから。この半島を遼東半島という。ここが陸の戦闘場所になる。これは十年後の日露戦争もここです。旅順・大連を占領し、日本が勝利する。

(日清戦争)


それから、どさくさに紛れて、日本は台湾を占領する。このあと日本は朝鮮半島を植民地にしていたというとこは、みんな知っているけれど、それよりも先に台湾は日本の領土になる。第二次世界大戦で日本が負けるまで。このあと約60年間ぐらいは日本の領土です。そこに日本が置いた監督府を、台湾総督府という。だからこの時代の日本人は、よく台湾に行っている。
朝鮮半島はその後の独立があって反日ですが、それに比べたら台湾は、いまは親日国です。大陸中国や韓国に比べたら、まだ親日的です。日本語を話せる高齢者などもいます。日本の教育を受けたから。

日清戦争は、まだ終わってないけれども、のちのち関係するのが、アメリカの動きです。アメリカは、カリフォルニアに来るまで、もともと大西洋側が中心だった。イギリスとアメリカは大西洋を中心に見ると近いのです。それが西部開拓を進めてカリフォルニアにまで出てきたら、その前には太平洋が広がっています。太平洋が欲しいなと、次には太平洋にいく。それで太平洋のまん中のハワイをまず領有する。
ハワイがアメリカ合衆国だということは知っていますね。でも地理的にハワイがアメリカ合衆国である必要はないでしょう。なぜここがアメリカなのか。ここは別に王国があったんです。それを潰して領有するんです。そしてそこに軍事基地、軍港を築きます。これが真珠湾、パールハーバーです。第二次世界大戦の時に、またここが拠点になる。
次にグァムです。沖縄のちょっと東の方です。今は沖縄に米軍基地がある。米軍は退かないでしょうけど。退くとしたら、次にグァムに行く。そこにも大きな米軍基地がある。ここがあると、日本を攻撃できる。中国にも行ける。それよりもっと近いのが沖縄基地です。
それからフィリピン。ここもアメリカは植民地にしたけれども、今は独立した。めざすは、ペリーといっしょです。ペリーは日本が欲しかったんじゃない。中国が欲しかった。これはずっと繰り返しで戦後も行きますから、同じような話をまたするかも知れません。


【下関条約】 日清戦争は日本が勝った。講和条約は勝った国で結ぶ。これが1895年の下関条約です。なぜ東京ではないのか、大阪でもないのか。伊藤博文は山口県の人間です。伊藤博文は幕末にここで活動していた。嫁さんもこの下関の芸者梅子です。そのなじみの店、下関の春帆楼というところでやります。春帆楼には今もこの時に交渉した部屋が保存されています。交渉相手は、李鴻章という前に一度でできた人物です。

そこで何が決まったかというと、すぐ朝鮮が日本の植民地になったというのは、まだ早いです。朝鮮は親分は中国だったんです。植民地にする前に中国との関係を切りたい。だから国は国として、民族は独立しないといけない。こういわれると、中国は反対しようがない。まず中国との縁を切って、朝鮮を独立させる。外交上の言い方としては、こういう言い方をします。親分の権利、これを宗主権といいますが、これを否定する。

さらに中国から領地をもらう。これが遼東半島です。これはあとで、すぐ出てくるけれども、ロシアが横取りします。そこに旅順という軍港があるから。もらいたくて仕方がない。
もう一つが、台湾です。日本は台湾を領有します。

そして負けた側は、お金を払わなくてはならない。賠償金です。2億両、テールという。2億テールです。これで日本の勝利です。1年もかかりません。当時の戦争はそれぐらいです。太平洋戦争のように5年も6年もかけて、やるなんてことは異常です。


【三国干渉】 日本は、勝った勝った、と言っていたら、その年がまだ終わらないうちに、三国干渉が起こる。独立国は、他の国から、指図される筋合いはありません。そんなことを言われたら国際法違反です。これを内政干渉という。内政干渉されない国、それが独立国の証しです。しかしこれが今の日本で分からないのは、日本はしょっちゅうアメリカから要求をつきつけられて、それを断ることができなくなっています。それが当たり前になっていますが、本当は、隣のおじさんから自分の家のことに口出しされる筋合いはないのと同じで、よそから何か言われれば、ウチのことだから口出しするな、と言うものです。
要求したのはロシアです。でも1人では言いにくいから、ドイツを誘い、フランスも誘って、そんなことしたらダメじゃないか、中国の領土をぶんどったらダメじゃないか、ちゃんと返しなさい、という。これが三国干渉です。それで遼東半島返還です。代わりに、3000万テールをやるから。10万やるからみたいなものです。


そしてその遼東半島は、中国からロシアがもらうんです。こういうのが国際政治ですよ。理屈が立ってないじゃないか。その通りです。理屈は立ってません。唯一、理屈というものがあるとすれば、悲しいことに武力です。軍事力です。このことは教育的じゃないから、君たちにそうしなさい、とか言うことをいっているんじゃないです。でもこういうことがあったということです。

ロシアが遼東半島を領有する。これで日本は頭にきたんだけれども、じっと我慢の子であった。なぜか。勝てないからです。ロシアに。それで合言葉、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)という。意味が分からないでしょう。臥薪嘗胆とは、冬に冷たい薪のうえに尻をつけて、苦いキモを噛む。腹が煮えくり返るのを我慢して黙って耐えることです。臥薪嘗胆で行くしかないんだ、という。

日本人が何を思ったかというと、うちの親父やオレの兄貴が日清戦争で戦死したのは、何のためか、国が弱いというのは本当に情けないことだな、こういう国権論というのが出てくる。国が弱いとみじめだ、と思いだす。
それで、日本もほめられないこともしますね。朝鮮半島は、もともと親分が中国だったのが、日本に頭下げないといかんようになったということで、閔妃という王様の嫁さんが日本に反発するんです。日本なんかイヤだ、といって、反日政策をとった。それで日本は閔妃を殺します。ここらへんから関係が悪くなる。朝鮮は、日本よりもロシアだと、親露政策をとりだす。名前も朝鮮から大韓帝国と変えていく。これらへんからこじれていくんです。

なぜ日本が朝鮮半島にこだわるか、というのは言いました。軍事上の理由からです。だからここを敵にまわしたら、日本の命取りになる。しかし遼東半島先端の旅順はロシアのものになった。
これで終わります。

新「授業でいえない日本史」 32話 近代 日清戦争後の内閣~立憲政友会の成立、明治の社会問題

2020-11-01 01:00:36 | 新日本史4 近代
【日清戦争後の内閣】
【松方正義内閣②】
(1896.9~98.1)
日清戦争後の内閣は、伊藤が長州だった。今度はまた薩摩の松方正義です。ずっと薩摩と長州のたらい回しです。
下関条約の翌年の1896年に、松方正義が内閣総理大臣になる。内閣を組織したら、国会があるから、国会議員に賛成してもらわないといけない。伊藤が自由党と手を組んだら、この松方は立憲改進党あらため進歩党と手を組む。もともと何か、立憲改進党です。こうやって名前が変わっていくんですよ。党首は大隈重信です。佐賀の大隈と手を組む。だから松方と大隈の字を取って松隈(しょうわい)内閣とも言う。大隈はそれまで政府を批判する側だったけれども、政府側に入って外務大臣のポストを得た。

ただこの松方正義は、外交というより、専門は実はお金なんです。以前は、大隈重信が大蔵卿の時代にその大蔵省の官僚として活動していた人です。それが1877年にヨーロッパに金融制度を調査に行ったことをきっかけに急速に出世していきます。1881年の明治十四年の政変で、大隈に代わって大蔵卿の座について以来、この時まで、日本の大蔵大臣のポストにはほぼこの人が独占しています。1882年に大蔵卿として日本銀行を作ります。

そしてこの時も自ら大蔵大臣を兼任し、1897年に西洋流の金本位制を確立します。この資金源になったのは日清戦争の賠償金です。この内閣の目玉は、初めからこれだったような気がします。

この松方がやった日本銀行設立と金本位制度確立は、目立ちませんが、かなりお金のかかることです。アメリカの金本位制度の確立はそれより3年遅い1900年ですし、中央銀行設立はさらに遅い1913年です。しかもこれには賛否両論あり、とくにイギリスを中心とする外国の金融家たちの利害が大きくからんできます。
日清戦争でお金を使い果たして日本政府にはお金がない。それにもかかわらず、松方正義は、1897年に無けなしの金を金本位制のために使ったのです。日清戦争の賠償金が手に入ったのをこれ幸いに、一気にやった感じです。

その結果、次の伊藤博文内閣は、増税しようとして、これがなかなか議会を通らず苦しみます。松方正義がなぜ西欧流の金融制度である中央銀行制度や金本位制にこれほどこだわったのか、不思議な感じがします。日本の財政事情はそれを許す状況にはなかったのです。




【伊藤博文内閣③】(1898.1~98.6)
次に伊藤がまた、オレがやる、という。1898.1月です。第三次伊藤博文内閣です。また長州です。伊藤は、お金が足りない、税金を増やさないといけない、と言う。地租増徴です。日本人の8割以上は農民ですから、地租です。なぜ税金を増やさないといけないか。日清戦争でお金を使い果たして政府にはお金がないからです。

今までイギリスびいきだった伊藤は、このころから微妙に動きが変化します。時代はますますイギリス寄りになって、1902年の日英同盟、1904年の日露戦争へと向かって動き始めますが、伊藤はイギリスとの接近を避け、ロシアとの接近を模索し始めます。そしてロシアとの戦争を回避しようとします。このような伊藤の変化がどこから来るのか、それは分かりませんが、日清戦争後は今までの伊藤博文の動きとは、かなり違ってきます。

税金取ることには民党は反対する。法案はとおさない。税金を取るといっても、法治国家は。8%、10%にするというのは、法律を決めないといけない。今の消費税でもそうです。しかし国会はこれを否決する。そうすると増税法案が通らずに、政府は暗礁に乗り上げる。

すると政府の増税案を否決した二つの民党同士が仲良くなる。二つの政党とは、自由党進歩党です。そこで、政府と対決するためには、二つに分かれているより一つにまとまったほうがいいぞと、この二つの政党が合体します。この合体した政党を憲政党といいます。
政党系図の1898年のところが憲政党です。この代表に大隈重信が就任します。
すると伊藤は大隈に言うんです。大隈さんよ、おまえヤル気か、それならやってもらおうじゃないか、オレは退くよ、と言う。

(政党系図)





【大隈重信内閣】(1898.6~98.11)
これで、憲政党の党首として、大隈重信が総理大臣になります。1898.6月です。この時、大隈重信は、国会の過半数を占める憲政党の党首として、総理大臣になったんです。そしてそれを天皇が認めたのです。
つまり今の政治のスタイルと同じです。いまも自民党が過半数をとる最大政党だから、その自民党の総裁が日本の総理大臣になってます。
これが日本初の政党内閣です。その日本初の政党内閣の総理大臣に大隈重信が就任したということです。今でいえば自民党にあたるのが、この憲政党です。首相に進歩党の大隈重信、内務大臣に自由党の板垣退助がなる。だから隈板(わいはん)内閣ともいいます。

ここで初めて、内閣総理大臣が、長州、薩摩、長州、薩摩と続いていたものが途切れた。肥前の大隈重信が首相になった。薩摩・長州以外の初の総理大臣が、初の政党内閣の総理大臣だということです。そしてナンバーツーの内務大臣には、土佐の板垣退助がなった。見方を変えれば、今までの薩摩・長州政府に対して、土佐・肥前政府が成立したようにも見えます。

ここで政党政治が始まろうとした。しかしこれはうまくいかなかった。伊藤は、やれるもんならやってみろ、やれるものか、と思っている。
もともと仲の悪かった自由党と立憲改進党(ここでは進歩党)という2つの政党が合体したわけです。
ここで尾崎行雄という人が、国会演説でいらないことを言うんです。これは共和演説といいますが、これで揚げ足をとられて、合体した政党がまたすぐ二つに分裂する。それで終わりです。1年もたない。半年ももたずに1898.11月に崩壊する。

二つに分裂した政党はまた名前が変わります。名前は自由党と言わななくなります。自由党は先に憲政党と名乗る。名前は早い者勝ちです。憲政党がつぶれた。それでオレたちは別の政党をつくった。名前は憲政党です。
大隈の進歩党系は、やられた、と思う。そこで、俺たちが本物だと、憲政本党と名乗る。でも本家は本家といわないのです。本家は黙っていても本家なんです。これからは、憲政党が一番、憲政本党が二番の政党になっていく。政党系図では、左が憲政党、右が憲政本党です。そういうふうに半年でつぶれた。




【山県有朋内閣②】(1898.11~1900.10)
次に出てくるのが、こういった時がちょっと恐い。反動が来るんです。軍部が出てくる。もう一人の隠れた人物、もと総理大臣で軍部のドンです。また長州です。山県有朋です。1898.11月第二次山県有朋内閣が成立します。


【中国の状況】 
ここで中国に目を向けると、この人がやったわけではないけれども、日本に負けた中国のその後です。中国は眠れる獅子と言われていたけれども、ぜんぜん強くないぞと、実体をさらしたんです。そしたらヨーロッパ列強は容赦ないです。早い者勝ちで、あっという間に虫食い状態になる。


(列強の中国分割)


イギリスの勢力圏です。イギリスが緑の部分をほぼ勢力圏に納める。長江流域です。その長江の下流に南京があり、河口付近に中国最大の都市上海があります。ここにはイギリスの租界があり、中国の権力が及ばない一画がつくられます。イギリスの中国進出の拠点になります。10数年後の辛亥革命の発端になるのは、ほとんどはこの地域からです。のちの革命指導者になる孫文蒋介石も、この上海の財閥と非常に深い関係にあります。

あと重要なところは香港です。香港は島です。向かいに半島がある。これを九龍半島という。今ここまでふくめて香港だといっている。イギリスは九龍半島をとる。九龍半島は香港です。やっと中国に返したのは100年後、平成になってからの1997年です。
香港の隣にマカオがある。これ昔からポルトガル領です。香港・マカオの旅、とかよく言いますが、今から20年までは植民地だった。東洋最大のマカオ、ここに何があるか。あまり行かないほうがいいけど、カジノです。賭博場です。多分ここは濁った金が、ロンダリングしないと行けないような金が、いっぱい動いているところです。

それから、ロシアは北から北京付近まで降りて来ています。
フランスはこっち、ベトナムの方です。南から来ます。
弱かったら虫食い状態にされる。これが19世紀ですね。このあと2回も世界大戦するまでわからない。2回で終わらないかも知れないという話もあります。

それから、もう一つ。これに出遅れたのが、アメリカです。アメリカもホントは中国が欲しい。欲しいんだけれども、出遅れたから、何と言うか。門戸を開放しましょう、みんなに平等に、という。これを門戸開放宣言といいます。でもこれは、自分が欲しいからです。アメリカは満州も狙っています。それでこのあと、アメリカは日本と戦うようになる。中国をめぐってです。前に言ったように、このためにハワイを取って、グァムを取って、フィリピンを取って、ホントは中国に行きたいのです。ただ出遅れています。
こういう状態になると、中国の民衆は、腹を立てるときにはすごいんですよね。暴動が起こっていく。


【変法自強運動】 政府側も、これはいかんということで、近代化政策に乗り出します。これを変法自強運動という。変法というと、変なことではなく、大まじめで近代化のことです。これをしようとしたのは康有為という人ですが、うまくいかなかった。それは皇帝が悪かったんじゃない。皇帝の側室です。正室の東太后と側室の西太后がいて、そのうち西太后は役人の娘です。しかも美人です。でも政界に入ると、政敵を次々に殺していきます。西太后は、正室の東太合を押さえてのし上がり、皇帝の実母として皇帝を尻に敷いていく。そして自分の甥っ子の皇帝まで廃位する女傑です。この西太后が変法自強運動に反対して、失敗していく。

ただこのとき中国人のなかでちょっと頭がいい人たちは、東洋で近代化に成功しているのは日本だから、日本に行って勉強しないといけない、と思っている人がかなりいます。だから日本に多くの中国人がやって来ます。東京にも。のち清朝を倒すことになる孫文も、東京で活動しています。


【義和団事件】 そこで中国政府がゴタゴタしているウチに、中国民衆は、自分の国が外国の餌食になっている状況に腹を建てて、反乱が起こします。これが1899年義和団事件です。
これには白蓮教という宗教が絡んでいます。白蓮教というのは、中国の伝統宗教の一つですが、義和団が何を唱えたか。清を支えようじゃないか、外国が中国を食い物にしている、そういう悪い西洋を滅ぼそう。これが「扶清滅洋」です。日本でいうと、尊王攘夷みたいな感じです。外国人を打ち払おう、と。
そして実際に、外国公使館を打ち払っていく。日本でも若いころの伊藤博文はこういうことをしていましたね。しかし外国の公使館を襲うことは、立派な戦争理由になります。
中国での暴動は、石投げたり、暴動起こしたり、今でもニュースで流れています。中国人が暴動を起こす時は今も過激です。でもこうなると、公使館保護の名目で出兵できる。

この時代はまだ飛行機がないから、ヨーロッパからは数ヶ月かかる。でも日本からだったら1週間で行ける。さらにイギリスはこの時、南アフリカ戦争で忙しく、兵力が足りません。そこでイギリス首相のソールズベリは日本に出兵を要請します。首相の山県有朋は、これを受けて1900.6月に中国への出兵を決定し、義和団事件の鎮圧に中心的な役割を果たします。その結果、日本は「極東の憲兵」と呼ばれるようになります。この時の山県内閣の陸軍大臣がのちの首相になる桂太郎です。これが1900.6月北清事変です。


※ 日本政府はイギリス政府からの積極的な要請もあり、各国と打ち合わせて、その賛成もえたので、7月初旬ようやく一個師団の出兵を決定した。(日本の歴史22 大日本帝国の試煉 隅谷三喜男 中公文庫 P228)

※ ロシアの権益拡大を怖れるイギリス首相のソールズベリー卿は、日本に対して6月23日、7月5日、7月14日と再三にわたって出兵を要請した。また、2回目と3回目の出兵要請の際には、財政援助も申し入れている。7月5日の要請は特に、ソールズベリー侯が列国を代表するかたちでおこない、なおかつ、出兵可能な国は日本だけであり、反対する国は無いと明言したのであった。 第2次山縣内閣はこの要請を受けて1900年7月6日に増派を決め、7月18日に大沽に上陸し、7月21日は天津に達した。 (ウィキペディア 義和団の乱)


もう1900年代、20世紀になりました。これにまっ先に駆けつけて、暴動を鎮圧する中心になったのが日本ですが、日本と同じく大軍を派遣し、満州を占領したのがロシアです。そしてロシアはこのあとも満州を占領し続けます。イギリスによる日本への出兵要請は、このロシアの動きを押さえ込む意図もあったのです。このことがのちの1904年の日露戦争につながります。


しかし伊藤博文はこれは危険なことだと思っています。今までイギリスびいきの伊藤でしたが、このあたりから急に動きが変わっていきます。伊藤はイギリスとの距離を取り始めます。伊藤の政治活動の中でこの変化は非常に大きなことです。

しかしそれは自分の政治的な力を低下させることにつながります。自分の政治力の源泉であるイギリスに代わって、それを民党の支持に求めていきます。
伊藤はここから急に民党、とくに憲政党に接近していきます。日清戦争の時も、当時首相だった伊藤博文は、憲政党の前身であった自由党と協力しています。

それと同時にロシアに接近して、ロシアとの戦争回避に努めるようになります。イギリスに同調する日英同盟論に対して、伊藤のこの主張は日露協商論と呼ばれます。


【治安警察法】 では山県内閣の内政です。1900年、山県有朋内閣は、治安警察法をつくる。戦争に向かうかも知れないときに、何が給料上げろだ、休みをくれだ、労働運動だ、バカヤローと、そんなものは抑制していく。労働運動の抑制です。
これは不法な運動の取り締まりだからまだ序の口です。これが昭和になると、頭の中で考えたことさえ罪に問われることになる。こうなると最悪です。


【軍部大臣現役武官制】 それから軍政面では軍部大臣現役武官制が制定される。
これは説明が必要です。日本には陸軍大臣、海軍大臣があります。今の防衛大臣です。これには軍人がならないといけない。それでいいじゃないか、思うかも知れない。しかし軍部に対して、内閣総理大臣は命令権がもともとない。これが統帥権の独立だった。


では軍部が内閣と仲が悪い場合、どうなるか。軍人に、陸軍大臣になってくれ、と言っても、イヤだ、という。では他の者に頼もうとすると、おまえたち、分かっているだろうな、と軍部のドンが言う。そうなると誰もなり手がない。軍部にはそういうことができる。そしたら内閣総理大臣は組閣できない能なしになる。内閣さえ作れない。すると能力のない人間は、やめないといけない。内閣総理大臣を辞めることになる。どういうことか。内閣より軍部が上になるのです。そういう危険性をはらむ制度です。
これがズルいのは、本文の下の但し書きに、軍部大臣現役武官制を書くのです。陸海軍大臣は現役の武官に限る、と小さく書いてある。武官というのは軍人のことです。


【立憲政友会の成立】 それに対して政党側はどういう動きをしたかというと、分裂した後の旧自由党、つまり憲政党です。政党系図の左側です。山県内閣批判にだんだんと傾いていく。同じ長州人だけれども、山県に比べたらまだ伊藤がいいぞ、と伊藤博文に接近していきます。自由党党首だった板垣退助は力を失っています。それで伊藤博文に、オレたちのリーダーになってください、と頼む。伊藤は今まで政府の重鎮で、民党とは対立していた側の人です。民党にとっては、伊藤は政府の人間です。その伊藤に、リーダーになってください、と頼む。すると伊藤も、分かった、という。

こうやって伊藤博文が憲政党の総裁になる。総裁になった瞬間にこの政党は、憲政党は名前を変えます。これが1900.9月立憲政友会の成立です。この政党がこのあとの日本の敗戦まで、約45年続きます。立憲政友会は、もとはといえば自由党です。


この伊藤博文と立憲政友会の結びつきが、どういう合意のもとで行われたのかは分かりません。伊藤博文の日露協商論は、4年後におこる日露戦争に反対するものです。民党は、1890年の第一帝国議会の時には、軍事費の増大に対して「民力休養・経費節減」を唱えて反対しています。そういう意味では、この時には、目の前に迫りつつある日露戦争に対して、ともに反対の立場です。
しかしこのことの意味はもっと先を考える必要があります。日露戦争に反対の立場をとることは、将来的にイギリスに対して同調しないことを意味します。
伊藤博文がイギリスの政策に何を感じ取ったのか。今までイギリスびいきだった伊藤博文が、なぜここで急にイギリスから離れようとしたのか、私は寡聞にしてよく知りません。しかしこのことの意味はとても大きなものです。伊藤博文はここで、自分がつくってきたイギリス寄りのルールを、自ら壊す方向に行ったのです。そしてその伊藤の考えに、立憲政友会が同調したのです。

自由党が憲政党となり、憲政党が山県批判に大きく動いて、トップに山県に対抗できる藩閥政治家を持ってこようとした。そのトップが伊藤博文です。そして立憲政友会として生まれ変わった。そこで伊藤博文は、右から左に180度変わるんですよ。政府批判側の政党の党首になる。同時に憲政党は名前を変えて、立憲政友会となる。そしてその総裁に伊藤博文がおさまる。
政党系図の1900年の政党が立憲政友会です。そしてこの立憲政友会を母体にして、山県内閣を打倒していく。


これに対して大隈重信の憲政本党(もと立憲改進党)は、結成当時からずっとイギリス寄りです。大隈がつくった日本初の政党内閣も、イギリスの議院内閣制をまねたものです。伊藤博文はこの大隈の憲政本党とは手を組まなかった。それは伊藤と大隈との個人的な対立というより、大きな政治方針の違いを見て取ることができます。
このイギリスに対する方針の違いは、このあと日本に原爆が落ちるまで、言葉を変え、形を変えながら、ずっと続くことになります。大きな目で見れば、現在の自由民主党内の派閥にまで続いていると見ることができます。




【伊藤博文内閣④】(1900.10~01.5)
山県内閣を立憲政友会の力によって倒したから、その党首が、次の内閣総理大臣になる。これが伊藤博文です。1900.10月第四次伊藤博文内閣の成立です。この時の与党は立憲政友会です。



【北京議定書】 1900.6月の北清事変以降、日本軍が中心になって義和団事件は鎮圧されますが、ロシアの満州占領は続きます。そのなかで清との交渉が進みます。清は、ごめんなさいの協定を結ぶ。これが1901.9月の北京議定書です。日本は、3ヶ月前の1901.6月に桂太郎内閣に交代しています。もう動乱はおさまりました、ではみなさん軍隊を引き上げましょうね、となる。しかしロシアは、満州を占領し続けます。

日本は朝鮮からもっと北の満州まで行きたかったんです。何ということだ、ということに、ならざるを得ない。これをどうするか、約1年半、押し問答が続く。あとは水面下の外交です。日本はイギリスを味方につけないと勝てない。イギリスはシメシメです。日本がロシアと戦ってくれるなら、日本を応援しよう。そこでロシアが弱ったところを叩けばいい、と思う。
それが1902年の日英同盟になり、さらに1904年の日露戦争につながりますが、伊藤博文がこのことを危険なことだと思っているのは、先に言った通りです。長年イギリスの意向を受けてきた伊藤は、イギリスの狙いがすぐに分かったのです。伊藤はここで初めてイギリスとつきあうことのリスクを感じたのではないでしょうか。

イギリスの意向に従って戦った日清戦争も危ない賭けだった。伊藤は首相としてその戦いを行った。しかしロシアとの戦争は、それとは比べものにならないくらい危険が大きい。実際、世界では日本がロシアに勝てるなど誰も思っていません。もし負ければどうなるか。日本はとんでもないことになる。そんなことをイギリスは日本に求めている。本当に今までのようにイギリスに従ったままでいいのか。伊藤博文のイギリス離れは進みます。


【貴族院の反対】 民党はもともと政府を批判する側だった。伊藤博文はもともと批判される側の政府側のリーダーだった。このような伊藤の動きに対して、貴族院が、この内閣はおかしい、敵なのか味方なのか分からないという。だから貴族院はこの伊藤内閣に反対します。当時貴族院と衆議院は対等だったから、貴族院の同意が得られなかったら、伊藤は政権運営ができなくなります。
それで、この内閣は8ヶ月の短命に終わります。これが1901.5月です。政府のリーダーとして4度首相を務めた伊藤ですが、イギリスと距離を取り始めたとたんに伊藤は政府から追い出された形になります。

ここで1800年代の終わり、19世紀の終わりです。ここまでが、一つの区切りです。

この19世紀が終わった段階で、明治政府のドン二人といえば、伊藤博文山県有朋になります。どっちも山口県人、長州の人間です。政府のドン二人が、長州閥で占められたことになります。薩摩の人間はこのあとほとんど出てきません。今まで薩摩と長州が交代交代で政権を担当していましたが、それが肥前の大隈内閣ができたところでそれが終わます。そして残った政府のドン二人は、どちらも長州の人間だったということになります。この二人の対立は何か。イギリスと距離を置くか、近づくか、その違いです。

このあとも長州出身の首相はよく出てきますが、薩摩出身の首相は大正時代の山本権兵衛を最後に出てこなくなります。

しかし伊藤も山県も、60~70歳ぐらいです。いい歳だから、政界を引退する。ここで政治の中心は、彼らの次の世代に変わっていきます。たまたまちょうど1900年を区切りに、そういう世代の交代があります。ただこの二人は、政界を引退はしても、背後から政府に影響を及ぼす力をもちつづけます。



【内閣覚え方】 「イクヤ マイマイ オヤ 伊藤だ
イ   伊藤博文内閣①
ク   黒田清隆内閣①
ヤ   山県有朋内閣①
マ   松方正義内閣①
イ   伊藤博文内閣②
マ   松方正義内閣②
イ   伊藤博文内閣③
オ   大隈重信内閣①
ヤ   山県有朋内閣②
伊藤だ 伊藤博文内閣④







【資本主義の発達】
日露戦争のことは、このあとでやりますが、この明治中期の社会産業面に行きます。日清戦争の頃に、日本で産業革命が本格的におこりだす。1880年代から1890年代にかけてです。すぐに重工業には行かない。まず軽工業です。
産業革命は軽工業の中の何から起こったか。綿ですよ。イギリスと同じです。綿を作る産業が紡績業です。まず糸です。糸を織って世の中が変わる。その糸を織って布になる。これを綿織物業といいます。兄弟のようなものです。この近くにも大きな紡績会社がありました。いまは公園になってますけど。あの公園の東側の南北の通りは紡績通りというんです。今の高校生は知らないかも知らないけど、我々の世代にとっては紡績通りです。その紡績です。県内最大の紡績会社があったところです。これが産業革命の花形です。

技術面では、もともと手で紡いでいたのを、動力を取り入れてたらガラガラ音がしたからガラ紡という。これで非常に効率が良くなる。そして本格的な機械紡績になる。知らないかもしれんけど、化粧品会社のカネボウの正式名称は何か。最近男でも化粧品を買っているんでしょう。君たちも買っているの。男の化粧品とか。カネボウというのは、鐘淵紡績です。鐘淵は東京にある地名です。そこにあった紡績会社です。紡績は、今から40年前ぐらい前に円高でつぶれて、その後、化粧品会社に衣替えしたんです。
この時代の最大の紡績会社は、大阪の大阪紡績会社といって、渋沢栄一が作った。

製糸業は日本の伝統として残ります。これは生糸です。これは繊細すぎて機械生産には向きませんが、輸出品として外貨を稼ぎます。これは輸出の花形です。


【明治の社会問題】
【労働問題】
 政治・経済でやったように、産業革命が起こると同時に、労働問題がおこってくる。お金はお金があるところに集まる習性がある。すると社長だけが儲けて、労働者は貧乏なまま、低賃金・長時間労働を強いられる。こういう実態が日本にも表れてきて、今はないけれども当時東京周辺ではスラム街があった。非常に貧しい人たちが密集して住む。東南アジアの首都近辺では今でもあります。そういう日本の下層社会というものを丹念に調べた本、これが横山源之助の「日本の下層社会」です。これが1899年です。

これに触発されて、その4年後には、政府もこれじゃいかん、本格的に調べようと、農商務省が調査をして本にまとめる。これを「職工事情」という。
工場労働者のことは当時「職工」という。実は工場労働者は、日本は「女工」から始まったんです。それが男に変わった。職工は男の工場労働者です。こういう長時間・低賃金労働をどうにかするための、保護するための法律として、この資料を基にできた法律が工場法です。一方では政府も労働者保護にまわる。
それでもまだ不十分だから、労働運動、労働組合を作りたいという運動になる。戦後は認められたけれども、この当時はまだ認められてないです。弾圧される運命にある。しかしこういう運動がだんだんと起こってくる。


【労働運動】 最初、職工義友会というのが、1897年、日清戦争の3年後にできる。つくった人は高野房太郎といって、アメリカ仕込みです。小泉政権の時、アメリカ帰りの金融大臣で竹中平蔵という人がいました。あの人は逆に派遣労働とかの低賃金を進めたほうですけど。
それが同じ年に労働組合期成会というものに発展する。労働組合の作り方教えますよ、という団体です。こうしたときには、こうしたらいいですよ、妨害うけたらこうしたらいいですよとか。こういう労働運動の走りもできた。これが明治の中期です。


【公害問題】 一方では産業革命の裏側につきものの公害問題が早くも発生する。日本初の大々的な公害です。栃木県の足尾というところに銅山がある。銅は貴重品です。10円玉は銅でしょ。もともと茶色でしょ。錆びると何色になるか。あれ毒を持つんです。緑になって。緑青という。そういうことを知っていながら、どんどんどんどん川に流す。近くの渡良瀬川に。これが1890年の足尾銅山鉱毒事件です。そこは100年以上たっても、今でもペンペン草しかはえない。自然は一度汚染されると、なかなかもとに戻らない。こういうのが垂れ流しされている。これは大変だということで、地元の国会議員の田中正造という人が、議会に訴えるんだけれども、無視される。天皇に直訴までする。それでも取り上げられない。最後は、このために戦って無一文で死んでいった、そういう気骨の人です。


【社会主義運動】 労働運動は次の段階になると、社会主義運動につながっていきます。単純にいうと、政治・経済でもやったからサラッと行くけれども、人間は2種類しかいない。労働者と資本家です。働く人と働かせる人、平社員と社長です。

労働運動とは、労働者は低賃金で生活に困ってるから、保護しようというものです。しかし、これを理論的に考えていった場合、社長、資本家などの大金持ちがいる限り、そこにお金が集中して、労働者には富が回ってこないんだという考えが出てくる。これが資本家の否定になります。こうなると資本主義体制を壊して、社会主義国家をつくろうとなる。これがマルクス主義です。
こういう考え方が日本にも思想として入ってきて、そうだ、そうだ、そうに違いない、という人も増えてくる。結果的に我々は、今から30年前にソ連がつぶれたから、これは失敗したということを知っているけれども、この時にはそういう動きが実現可能だと思われていた。

そのための第一歩として1898年に社会主義研究会ができる。研究会ができると次には政党ができる。3年後の1901年に社会民主党という社会主義政党ができる。日本初の社会主義政党です。日本を社会主義国家にしていこうという政党です。
しかし、できたその日に即刻禁止です。当時の政府はこういうことができる。日本はただ法治国家だからか、即刻禁止できる法律がないといけない。その前年の1900年に、治安警察法という法律を山県有朋がつくっていた。労働運動はこうやって弾圧されます。


【政府の弾圧】 そういう政府の弾圧もある中で、1人の人間が処刑されていく。1910年、このちょっとあとで、日露戦争後ですけれども、大逆事件というのが、第二次桂太郎内閣の時におこる。これは結論をいうと、ホントなのかどうかわからないんだけれども、天皇暗殺を企てた容疑で逮捕され、否認するんだけれど、イヤ間違いないとして、処刑される。これが幸徳秋水です。
幸徳秋水に、あまり支持があつまらなかったのは、この人の結婚観がちょっと異様なんです。嫁さん子供がおりながら、別の女性・・・・・・管野スガというんですけど・・・・・・そういう人と同棲していたりして、その私生活が今から見ても非道徳的なんです。そういうことで彼には支持があつまらなかった。そういう私生活が社会主義思想とどう関連するかというところは、難しくてよくわからないけど、この社会主義思想が当時の日本人の道徳観を壊す恐いものと受け止められたのは確かなようです。
これで終わります。