アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

帰らない鶏たち

2008-03-14 21:05:37 | 暮らし
 外は雨が降っていた。黄昏を迎え薄暮を過ぎても雨足は衰えない。もうそろそろ行かないと。私は夕食の箸を置いて帽子を被り、手に小さな懐中電灯を携えて戸外に出た。
 夕方の餌時に小舎に入らない鶏がいる時がある。餌は基本的に朝夕二回。雨や雪じゃなければ、その間の日中はできるだけ彼らを外で遊ばせるようにしている。冬の間はそうでもなかったが、昨今のように暖かい日が続くと彼らもまた外に出たくてたまらなくなるようだ。ただ小舎の扉を開いたままにしておくだけでいい。鶏たちはあるものはさも待ちきれなかったように羽を羽ばたかせながら外に飛び出し、またあるものはいつまで経ってもぐずぐずと入り口付近にいて出ようとはしない。でもそれでいい。人間のように、各自それぞれに事情や体調があるのだから。そうして鶏たちは思い思いに草の芽を摘み種をほじくり、猫たちや寝そべる犬のスヌーピーの傍らを胸を張って歩きながら、今日一日のお日様の恵みを存分に享受する。
 そして店じまいの夕暮れ時に、たまさか小舎に入りたがらない鶏がいる時がある。それは間が悪くてタイミングを逃してしまっただけなのか、私という人間の姿をいつになく警戒することを思い出した本能からなのか、または単に春がこんなに近づいたあまりに心地よすぎる陽射しに有頂天になってしまって、この幸せがこのままずっと続くと思い込んだのか、とにかくどうしてか、入るべき時に入らない鶏がたまにはいる。しかし私としてもこのままいつまでも鶏小屋を開け放してはおけない。とりあえずそいつはそのままにして、他の鶏が食事の後また逃げ出すことのないように小舎の扉を一応閉める。そして忘れないように心に刻み付けるのだ。日が暮れたら、こいつを必ず中に入れなければならないと。
 悲しいことにこのところ、既に二羽の鶏が獲られてしまっていた。そう、どちらも私が酒に酔ったりつい失念したりして彼らを「しまう」ことを忘れた真夜中だった。夢の中でスヌーピーが盛んに啼く声がする。意識は夢の世界からしごく緩慢に移行して、やがてはスヌーピーの吠え続ける声が耳膜を通して現実に聞こえるようになる。いつも決まって真夜中だった。スヌーピー。目覚めかけた意識で思う。おまえは今日も頑張ってくれているのだな。でも体の反応はまだ追いつかず、暖かな布団と融合していて指先ひとつ自由にはならない。そのうちに一振りの羽ばたき、または声とも聞こえる微かな異音が犬の吠え声の間に一瞬だけ挿入されて、そのことによって私は悟るのだ。ああ、あの鶏が殺されてしまったと。それから数秒間をかけて私は思い出すことになる。そういえば夕刻鶏が一羽入らなかったことを。その夜に私が彼を、小舎に入れ忘れてしまったことを。 
 キツネなのだ。彼はどのような思いでわが家の鶏を殺害するのだろう。まさか殊のほか意地悪なわけでも、殺戮趣味でもあるまいに。そうたぶんきっと、彼も必死なのだ。春を迎えかけたこの時節に、長い間の食料枯渇の時期をとにかくにも乗り越えて、彼もきっと飢え切っているのだろう。だから彼のその日の餌となった鶏たちは、見方によれば、彼のために彼の生存によって保たれるこの世界の大きなバランスの維持のために、あえて彼の餌となることによって、その身を母なる大自然に捧げたと言って間違いではないのだ。

 でも防げるものならば、やはり鶏たちを殺されたくない。だから私はこうして雨の日も大雪の日でも、離れた鶏たちをその巣に入れに、暗闇の中を歩き回る。しかし今日は・・・いつもの場所や、小舎の屋根、桑の木の枝を見上げても彼はいない。さて、と思っていたら扉の下の土台の石に、小さく丸まっていたのを見つけた。秋の刈り入れ時に生まれた若鶏。おまえが生まれた時を私は知っている。おまえたちがヒヨコの頃から、毎日かかさず私はそばにいた。両の手で掴むと彼はケエッ!ケエッ!とさも悲壮な声を張り上げた。でもおまえ、よかったな。命拾いしたんだぞ。彼を小舎に押し込んで、そのまま啼き続ける声を背にしながら私は暗がりの中を母家へと歩いた。
 こんなに心配なら、またうっかりしたりして大変なことになるのなら、いっそのこと彼らを外に放すのをやめればいいのに。もしかしたらそう言う人がいるかもしれない。実際にそうして一生の間土の匂いを知らずに死を迎える鶏の方が圧倒的に多いのだし、確かにそれはもう私たちの知る鶏の生き方の常識になってしまっている。
 私も何度もそれを考えたことはあるし今も時折考え続けている。だけれどしかし、今のところは可能な日はできるだけ、彼らに外を歩かせてやりたいと思う。生きて、やがては死ぬいのち。例えキツネやハヤブサに狩られなくてもやがては私自身の手で首を刎ねられる運命にあるいのち。その大切ないのちを、せめて生きている限り、歩きたければ歩き、草や虫を啄ばみたければ心ゆくまで啄ばんで、思いっきり伸び伸びと生きてもらいたいのだ。
 だから鶏たちよ。常に死と隣り合わせに生きている、私たち人間と同じ構造の世界の中で生きている鳥たちよ。おまえたちの生きたいように、歩きたいように私の事情の許す限りはさせようと思う。それがこの私にできる精一杯の思いでもある。




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