今地球上に生きている多くの人たちが、大なり小なり気づいているだろう大切なことをここで述べたいと思う。それは人によって意識の表面に出ていたりいなかったりする事柄。でも、たぶんおそらく全員が、明らかに以前とは違う現実として、うっすらと日常を覆うようになった靄のようなものとして、なんだかわからないけれど、急に展開してきた物語や人間関係などの身の周りの変化として、実感し始めていることだと思う。そう今、地球は根底から変わってきている。
変わり始めているなんてものじゃない、もう既に、僕たちはドラスティックな変化のただなかにいる。自然界や人類を含めて、その上に住む生物全体を巻き込んで、地球はなにか目に見えない、色でも形でも物質でもないところで根本的な変化を遂げている。物事を動かしている触媒そのものが今までとまったく違う品質のものにシフトした、そう捉えてもいい。そしてそれが現象として様々な形で顕れているのだ。それが私たちの意識に、感情に、行動に影響を与えている。こう言われて、そういえば…と思わない人は、あまりいないんじゃなかろうか。
地球が一個の生命体であることから見れば、この変化は脱皮とか羽化といった変態に近いものかもしれない。よく、波動が変わる、次元が上昇する、という言葉があるけれど、それはおそらく表現として正しいだろう。実際に今、世界で、たくさんの人がそれに関しての直接の情報を受け取っていることは事実だ。
情報を発信する存在は、昔死んだ人だったり、宇宙人やその他の人間の形をしていない知的生命体だったりする。受け取る形としては、チャネリングだったり、夢を通してだったり、または現実の中で、一見偶然のように見えるけれど、それまでのいきさつやその後の流れなんかを後で振り返ると全然偶然とは思えない、まるで仕組まれたような人との出会いだったり、ふと目にした本やインターネットの情報、あるいは日常の具体的な出来事として表れたりもする。僕にもそんなことが度々あった。というか、今はほぼ毎日のように起こっている。もう何年にもわたって怒涛のように押し寄せてきたそれら膨大な情報の核心にあるものは、少し高尚な言葉で言えば「自分は本当は何者だったのか」というもの。また、文化人類学的表現で言えば、「私たち人類は、今なにをしようとしているのか」と言っていい。
たぶん、今地球上にいる人はみな、僕と同じようにそんなものを受け取っているのだと思う。その人自身の事情や状況に相応しい形で、不平等や差別なくその人特有のペースとタイミングで、その人自身の意識の段階に応じて、一番受け入れられやすいだろう形でそれは起きている。人はみな、根底のところで分け隔てなく完全に対等な立場にある。(実はこの頃やっとそう思えるようになったものだから、僕もこの手紙を書き始めた。いやもしかしたら中には、そんな情報を全く受け取っていないという人もいるのかもしれないが、それはそれであり得ることで、地球の人間がみな同じ目的や役割を持って生まれてきてはいないということでもある。それともう一つの例外は、赤子や子どもである。なぜなら彼らはもう既に顕在意識の中で知っているのだから。)大雑把に言うならば、今のこの時代ここに生きている人々の多くは(大部分と言ってもいい)、ある大きな括りの中で、共通の目的を持って生まれてきているのではないかと思う。
私たちは、本当は、永遠の存在だった。地上で生まれて死んで後はいなくなってしまう儚いものではなくて、無限の宇宙の中を漂い宇宙とともに存在を続ける、ある時には動物となり植物となり、ある時には他の惑星や地球とはまったく様相の異なる別の世界の中で、そのたびに新しい体をまとっては生きて死んでを繰り返す、「宇宙の主(ぬし)」のような存在だったのだ。私たち一人一人が、生物、存在の一つ一つがそうなのである。いったいなんのためにそんなことをしてるかというと、ただ「経験」を得るために。その時そこでなければ得られない唯一無二の経験を一つ一つ丹念に重ねるという、ただそのことのために悠久の時を生きている。だからどの人どの瞬間にもただの一つも同じ経験はない。それが私たち「魂」の究極の存在理由と言えるもの。だから猫も人間も庭に咲いている菊もコスモスも、存在としてみな同等の立場と言える。どれも同じ本質を持っている。そのような「宇宙の真実」を、情報として受け取る人が現在圧倒的に多いと思う。
僕たちが、そのような「ユニークな経験」を求めて今回降り立ったのが、この地球という惑星である。しかし今言ったように、各自が得ている経験はどれもユニークで、同じものは一つもない。美しい幸せの世界に生きる人もいれば、ちょっとしたホラー映画の中にいる人もいる。が、どちらがいいとか悪いとかいうことはまったくない。どの経験も宇宙にとっては唯一無二で大切なものだからだ。つまり魂にとっては、幸せだから良い、不幸だから悪いという現世的な判断基準はもとより無いのである。不幸も幸せも、どちらも同じだけ価値がある。ただ、一つの体験で幸せを得れば次の体験ではそれと対極の不幸を、ある体験でとんでもない悪事を働けば、その後の体験ではそれと同じくらい極端な善行を、といった具合に長い目で見ればバランスよく体験を選ぶものらしい。「選ぶ」と言ったけれど、メニューの中でどれかを選択するという感覚ではなくて、初期設定だけ選んで、後は主人公の自由選択に任せてどのような道でも辿れる、シミュレーション・ゲームのようなものに近いみたいだ。
ここで自分のことを少し述べれば、僕は昭和30年代にとあるお金の無い家で、昔気質で鬼のような父と要領よくふわふわと渡り歩くのが得手の母との間に生まれた。なぜだか子どものうちからいろいろなことに能力や才能があって、やればいつもそれなりにいいところまではいくのだが、なぜか周囲はそれを受け入れてくれない。親は子どもが好きな道に進むのを許さなかった。だから出る芽出る芽を悉く摘み取っていく。親父が僕のためにすることのできた唯一の愛情表現は、暴力だった。自分の意に沿わないと、首を掴んで吊るし絞め上げる。逃げれば更に激しく叩く。泣いて鼻水や涎だらけになれば、汚いものと蔑み罵る。あいつは所詮デキソコナイなんだと母にこぼす。それでいて親父自身は、常に子どものために最善のこと、正しいことをしているつもりだった。(それは今だからわかるし、言えることでもある。)そんな親父の信念体系(=心)を丸ごとコピーする形で僕の人生はスタートを切った。まあ簡単に言えば、それが僕の魂の選んだ初期設定だったようだ。小学生の時に自殺を試み、高校では家出をしている。
だからたくさんのことをしてたくさんの痛みを覚え、大きな夢を幾つも見てはそれと同じ数だけの挫折を見た。その間僕の信念体系は更に増長を続け、部分的に修正を加えつつも、概ね初期の方向性に沿ってより強固で複雑なものを組み上げていった。そんなふうな人生がどういうものなのか、少しは想像がつくだろうか。愛は歪められ、愛は愛として還って来ず、溢れるばかりの愛を持ちながらも、それを少しも自分に注ぐことはなく、ただ体と心だけは年とともに消耗していった。
そして・・・そしてである。魂は今回、そんな惨めなままに人生を閉じるような単純な構想は(幸いながら)持ってはいなかったようだった。打てるだけの手は打ち尽くし、できるだけの努力はして、絞り出せるだけの思いを吐き出し、時間という時間を使い切った後、ただ挫折と失敗感に満たされていた僕に、魂はこう囁いたんだ。さあ、これからがいいとこだ。おまえは今から最高に美しい物語を創るんだ、とね。(この箇所には少し後年の想像と脚色が入っている。しかし、今でもそれは、まんざら事実から遠いこととは思っていない。なぜなら不幸には幸せのためのそれなりの意味があり、逆境にはその後の進展に向けての不可欠な意義が込められている。それに魂は、どんな時にも自分自身を切り捨てたり突き放したりすることはない。この世界の僕は、魂が物質世界に投影した「意識の限定・縮小版」と言えるものだ。)それが僕の受け取った人生の「第二幕」を告げる情報だった。今の僕の人生はその時に始まったと言ってもいい。そしてその進行のために必要な小道具は、その時既に整えられていた。そして僕の手に握れる綱は、それ一つしかなかった。
(つづく)
変わり始めているなんてものじゃない、もう既に、僕たちはドラスティックな変化のただなかにいる。自然界や人類を含めて、その上に住む生物全体を巻き込んで、地球はなにか目に見えない、色でも形でも物質でもないところで根本的な変化を遂げている。物事を動かしている触媒そのものが今までとまったく違う品質のものにシフトした、そう捉えてもいい。そしてそれが現象として様々な形で顕れているのだ。それが私たちの意識に、感情に、行動に影響を与えている。こう言われて、そういえば…と思わない人は、あまりいないんじゃなかろうか。
地球が一個の生命体であることから見れば、この変化は脱皮とか羽化といった変態に近いものかもしれない。よく、波動が変わる、次元が上昇する、という言葉があるけれど、それはおそらく表現として正しいだろう。実際に今、世界で、たくさんの人がそれに関しての直接の情報を受け取っていることは事実だ。
情報を発信する存在は、昔死んだ人だったり、宇宙人やその他の人間の形をしていない知的生命体だったりする。受け取る形としては、チャネリングだったり、夢を通してだったり、または現実の中で、一見偶然のように見えるけれど、それまでのいきさつやその後の流れなんかを後で振り返ると全然偶然とは思えない、まるで仕組まれたような人との出会いだったり、ふと目にした本やインターネットの情報、あるいは日常の具体的な出来事として表れたりもする。僕にもそんなことが度々あった。というか、今はほぼ毎日のように起こっている。もう何年にもわたって怒涛のように押し寄せてきたそれら膨大な情報の核心にあるものは、少し高尚な言葉で言えば「自分は本当は何者だったのか」というもの。また、文化人類学的表現で言えば、「私たち人類は、今なにをしようとしているのか」と言っていい。
たぶん、今地球上にいる人はみな、僕と同じようにそんなものを受け取っているのだと思う。その人自身の事情や状況に相応しい形で、不平等や差別なくその人特有のペースとタイミングで、その人自身の意識の段階に応じて、一番受け入れられやすいだろう形でそれは起きている。人はみな、根底のところで分け隔てなく完全に対等な立場にある。(実はこの頃やっとそう思えるようになったものだから、僕もこの手紙を書き始めた。いやもしかしたら中には、そんな情報を全く受け取っていないという人もいるのかもしれないが、それはそれであり得ることで、地球の人間がみな同じ目的や役割を持って生まれてきてはいないということでもある。それともう一つの例外は、赤子や子どもである。なぜなら彼らはもう既に顕在意識の中で知っているのだから。)大雑把に言うならば、今のこの時代ここに生きている人々の多くは(大部分と言ってもいい)、ある大きな括りの中で、共通の目的を持って生まれてきているのではないかと思う。
私たちは、本当は、永遠の存在だった。地上で生まれて死んで後はいなくなってしまう儚いものではなくて、無限の宇宙の中を漂い宇宙とともに存在を続ける、ある時には動物となり植物となり、ある時には他の惑星や地球とはまったく様相の異なる別の世界の中で、そのたびに新しい体をまとっては生きて死んでを繰り返す、「宇宙の主(ぬし)」のような存在だったのだ。私たち一人一人が、生物、存在の一つ一つがそうなのである。いったいなんのためにそんなことをしてるかというと、ただ「経験」を得るために。その時そこでなければ得られない唯一無二の経験を一つ一つ丹念に重ねるという、ただそのことのために悠久の時を生きている。だからどの人どの瞬間にもただの一つも同じ経験はない。それが私たち「魂」の究極の存在理由と言えるもの。だから猫も人間も庭に咲いている菊もコスモスも、存在としてみな同等の立場と言える。どれも同じ本質を持っている。そのような「宇宙の真実」を、情報として受け取る人が現在圧倒的に多いと思う。
僕たちが、そのような「ユニークな経験」を求めて今回降り立ったのが、この地球という惑星である。しかし今言ったように、各自が得ている経験はどれもユニークで、同じものは一つもない。美しい幸せの世界に生きる人もいれば、ちょっとしたホラー映画の中にいる人もいる。が、どちらがいいとか悪いとかいうことはまったくない。どの経験も宇宙にとっては唯一無二で大切なものだからだ。つまり魂にとっては、幸せだから良い、不幸だから悪いという現世的な判断基準はもとより無いのである。不幸も幸せも、どちらも同じだけ価値がある。ただ、一つの体験で幸せを得れば次の体験ではそれと対極の不幸を、ある体験でとんでもない悪事を働けば、その後の体験ではそれと同じくらい極端な善行を、といった具合に長い目で見ればバランスよく体験を選ぶものらしい。「選ぶ」と言ったけれど、メニューの中でどれかを選択するという感覚ではなくて、初期設定だけ選んで、後は主人公の自由選択に任せてどのような道でも辿れる、シミュレーション・ゲームのようなものに近いみたいだ。
ここで自分のことを少し述べれば、僕は昭和30年代にとあるお金の無い家で、昔気質で鬼のような父と要領よくふわふわと渡り歩くのが得手の母との間に生まれた。なぜだか子どものうちからいろいろなことに能力や才能があって、やればいつもそれなりにいいところまではいくのだが、なぜか周囲はそれを受け入れてくれない。親は子どもが好きな道に進むのを許さなかった。だから出る芽出る芽を悉く摘み取っていく。親父が僕のためにすることのできた唯一の愛情表現は、暴力だった。自分の意に沿わないと、首を掴んで吊るし絞め上げる。逃げれば更に激しく叩く。泣いて鼻水や涎だらけになれば、汚いものと蔑み罵る。あいつは所詮デキソコナイなんだと母にこぼす。それでいて親父自身は、常に子どものために最善のこと、正しいことをしているつもりだった。(それは今だからわかるし、言えることでもある。)そんな親父の信念体系(=心)を丸ごとコピーする形で僕の人生はスタートを切った。まあ簡単に言えば、それが僕の魂の選んだ初期設定だったようだ。小学生の時に自殺を試み、高校では家出をしている。
だからたくさんのことをしてたくさんの痛みを覚え、大きな夢を幾つも見てはそれと同じ数だけの挫折を見た。その間僕の信念体系は更に増長を続け、部分的に修正を加えつつも、概ね初期の方向性に沿ってより強固で複雑なものを組み上げていった。そんなふうな人生がどういうものなのか、少しは想像がつくだろうか。愛は歪められ、愛は愛として還って来ず、溢れるばかりの愛を持ちながらも、それを少しも自分に注ぐことはなく、ただ体と心だけは年とともに消耗していった。
そして・・・そしてである。魂は今回、そんな惨めなままに人生を閉じるような単純な構想は(幸いながら)持ってはいなかったようだった。打てるだけの手は打ち尽くし、できるだけの努力はして、絞り出せるだけの思いを吐き出し、時間という時間を使い切った後、ただ挫折と失敗感に満たされていた僕に、魂はこう囁いたんだ。さあ、これからがいいとこだ。おまえは今から最高に美しい物語を創るんだ、とね。(この箇所には少し後年の想像と脚色が入っている。しかし、今でもそれは、まんざら事実から遠いこととは思っていない。なぜなら不幸には幸せのためのそれなりの意味があり、逆境にはその後の進展に向けての不可欠な意義が込められている。それに魂は、どんな時にも自分自身を切り捨てたり突き放したりすることはない。この世界の僕は、魂が物質世界に投影した「意識の限定・縮小版」と言えるものだ。)それが僕の受け取った人生の「第二幕」を告げる情報だった。今の僕の人生はその時に始まったと言ってもいい。そしてその進行のために必要な小道具は、その時既に整えられていた。そして僕の手に握れる綱は、それ一つしかなかった。
(つづく)
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