アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

危なくて怖い「安全・安心」 5

2010-07-29 07:39:20 | 思い
 栽培時に撒かれた農薬は、表皮や根を経由して植物体に入る。人と同じように植物にもまた、体内に入り込んだ毒素を排出したり分解したりする機能があるのだが、そんなもの日本で使われている農薬量の前には無きに等しい。
 日本で年間に撒かれる農薬量は、製剤物量で64kg/ha(2003年農薬工業会発表データによる。日本の耕地面積を500万haとした)。つまり一反歩の田畑に6.4kg撒かれることになる。これは具体的にどのくらいの量かというと、例えばフェニトロチオン(スミチオン乳剤50%,水和剤40%)の経口致死量(体重50kg換算)が103mlであることから計算すれば、およそ成人62人分の致死量に相当する。同様に有機リン系殺虫剤パラチオン(ホリドール乳剤。経口致死量1.4ml)ならば4571人分。このように、市販されている農薬の致死量には商品ごとに大きな差があるので、いわゆる中間値というものを掴みづらい。
 しかし考えてもみてほしい。仮に控え目な数値をとりあげて、フェニトロチオンの62人分致死量を用いるとしても、生体重3,100kg。およそ3トン以上の生物を殺す能力があるのである。それが僅か一反歩の面積に撒かれるのだ。生物3トンがそれによって殺されている。毎年毎年、半世紀以上に亙ってこれだけの量が投入され続けている。田んぼや畑にいた生物たちはひとたまりもなかったろう。また作物自体にも、これだけの薬量を分解・解毒する能力など期待すべくもない。
 一方ポストハーベストは、収穫後の農作物に撒布したり塗布したりするものなので、作物の表面を覆っているだけの場合が多い。若干量は表皮を通して中に取り込まれるが、相当量が水洗いや皮を剥くことによって除去が可能である。
 だから外国産の野菜や果樹はよく洗ってから食べなければならない。しかし一方、不可避的に洗うことなく口に入る輸入食品もある。小麦や米などの穀物類がそうである。それらはそのまま製粉されパンに、麺に、学校給食に、味噌・焼酎・菓子などの加工用に使われている。でもコクゾウムシは死んでも人間はすぐには死なないものだから、バレないのである。
 しかしやはり一番危険なのは、洗っても落ちない生物体内の残留農薬だと思う。厚く皮を剥けばいいと言う人もいるが、果皮には果皮の、果肉には果肉に特有の農薬種が蓄積されている。また化学物質は栄養価の高い部分にこそ多く蓄積するという傾向を持っているので、胚芽や皮の部分を取り除いてしまうと、残るはカロリーは高いが栄養価の低いカス部分だけになってしまう。よく洗ったりして食べる限り、総じて他の先進諸国からの輸入農産物は国産より安全なものが多い。ただし中国産と韓国産は別である。日本と密接な関わりのある国で、日本より状況が悪いのはその二カ国くらいである。中でも中国産は世界最悪だろうと思う。

 最後にひとつだけ、残留基準を決めるに当たって本当は留意しなければならないのだが、現行「必要悪」的に無視されてしまっている、大切な点について触れておきたい。
 それは、ひとつの食品に何十・何百という化学物質が検出されている現状では、残留農薬基準(それ以前に、「一日摂取許容量」(ADI)と言った方がいいかもしれない)は各農薬単体の実験結果で設定するべきものではない、ということである。
 薬と薬、毒と毒は併用すると往々にして効力を打ち消し合ったり、強めたり、思いがけない副作用を引き起こしたりすることが知られている。これを薬の「相互作用」と呼ぶ。
 例えば、薬とアルコールを同時に飲むことで命に関わる事態となる場合もある。有名なのは「アルコール・アセトアミノフェン症候群」。米国で最も普及している解熱剤アセトアミノフェンは、成分のほとんどは肝臓で分解されるが、その際少量の毒素ができる。この時に大量のアルコールが入ると、この毒素を無毒化するのに必要な物質が産出されず、肝細胞が壊れて有害物質が脳に回り意識を失う。今までのアルコール中毒死者のかなりの者がこの症候群だった可能性がある。
 1999年に埼玉県で起きた保険金殺人事件で、風邪薬と酒が使われたのもこの応用である。欧米ではこの風邪薬をアルコールと一緒に飲むと重い肝障害を招くことが知られており、社会問題になっている。
 また、アルコールとの相乗作用では、睡眠薬、精神安定剤、大麻やモルヒネなども時に重篤な症状を引き起こす。いずれも脳の働きを抑えるとともに、呼吸中枢の働きまで抑えて死に至るのだ。マリリン・モンローやエルビス・プレスリーなどの死も、この種のものだったのではないかと見られている。
 また、薬が酒の酔いを加速したりもする。卑近な例では、2009年イタリアのローマで開催されたG7での「中川財務相居眠り・もうろう記者会見事件」が記憶に新しい。すっかりろれつの回らない状態で記者会見に臨んだ中川氏の状態は、疑いなく「アルコールと薬剤との相乗作用」である。彼は再三「会見前には飲んでいない」と釈明する傍ら、ワインを少し嗜んだとか、機内で度の強いアルコールを飲んだ、風邪薬を大量に飲んだなどとも言っている。彼は責任を問われて3日後に大臣職を辞任した。
 酒だけではなく、タバコにも薬との相互作用がある。ニコチン、一酸化炭素、タールなど多くの有毒物質を日常的に体に取り込んでいる喫煙者は、肝臓の薬物分解酵素の働きが強くなっている場合が多い。その結果薬も分解されて効き目が悪くなるのだが、禁煙すると分解酵素は弱まるから、それまでの薬の量を減らさなければならない。
 以上具体例を幾つか述べたが、生物体に作用する化学物質は、複数が組み合わさると単純には予測できない効果を産み、ほとんどの場合生体に対する有害性を増幅する結果をもたらす。しかし私たちのために定められたADIは、このような相互作用を考慮に入れられてはいない。毎年何千と開発され続ける(具体的には1000~2000種と言われている)新物質に対してさえ安全性検査が追いついていない現状である。無数の組み合わせを内包するそれらの相互作用など、考慮する余裕などまったくない。官公庁・化学メーカー側は、「残留農薬はほとんど検出されることがなく、極めて低い濃度であるため、それらの相互作用を検討する必要性があまりない」と開き直ってはいるが、それらが「極めて低い濃度」で生体に作用する物質であることには見て見ぬふりを決め込んでいる。
 ここで理解を促すために事を単純化して、仮に各個の単純毒性だけを考えてみることにしよう。例えばシアン化カリウム(青酸カリ)の致死量は成人でおよそ200mgと考えられている。ヒ素もやはり同じくらいの量である。
 では致死量の10分の一、20mgを飲んだとしても、おそらく死ぬことはないだろう。よって、青酸カリとヒ素をそれぞれ20mg、ついでにそれ以外の物質も合計10種類、それぞれ致死量の10分の一量ずつ同時に飲むとしよう。いずれも致死量に遠く及ばないのだから、その人は到底死ぬはずがない、と当局は言っているに等しいのだが、果たしてそうだろうか。
 否、現実は十中八九、死ぬか、または相応の重篤な状態に陥るだろう。毒は仮にそれぞれの作用を異にするとしても、結果的に生体の破壊に向かうことには変わりはない。ひとつの毒が単体で本丸を突き破らなくても、四方八方から攻め立てれば城は陥落する。これは薬物の相互作用など無くても起こることである。嘘だと思うなら試してみたらどうだろうか。もし製薬メーカーの代表者が自分の体で立証してくれるのであれば、彼の言に耳を傾けてもいい。
 現在世界で約10万種、日本では約5万種類の化学物質が製品や食品に含まれて流通しているという。更に過去に使われていた物、現在開発され続けている物などを加えればまったく際限がない。それらは環境中に漂い、水に溶け、食品に微量に含まれて日々私たちの体を行き来している。
 それに加えて先ほどから述べている「相互作用」である。これらの要素を勘案するならば、ADI値は一挙に現行の万分の一単位になることは間違いない。最大限譲っても、千分の一だろう。本来健康に関わる物事は、「安全が確認されて」から初めて行われるべきものなのである。それを為政者は「危険性が確認されていない」ことを理由に自由に使えるよう変質させてしまった。そこにそもそもの問題の始まりがあった。そこを是正していかない限り現状の問題は解決しない。科学は、誰かを犠牲にしながら誰かが得をするための道具に利用されてしまっている。
 このように、明らかな現象としての「薬物の相互作用」にまったく目をつぶった形で、現行の残留農薬基準は定められているのである。これでは病気が出てきて当たり前と言える。
 
 以上随分長くなってしまったが、「食品の安全・安心」について昨今思うところを記した。
 残念ながら私たちの身の回りには、ニセモノの食べものが蔓延し欲に長けた食育指導者たちが多く跋扈している。確かに皆がみな悪意を持っているというわけではないが、仮に善意だとしても、勉強不足の人が「食」とか「環境」の講壇に上がることは厳に慎まなければならない。これらには地球と人類の未来がかかっているのである。
 あらゆる生物種にとって食は本来安全であり安心し得るものであった。だからこそ数万年、数百万年の時を生きながらえてきたのである。それが今、この半世紀かそこらで瓦解しようとしている。だから食の安全を唱える場合、それは原則として、「本来の姿に還る」ものでなくてはならないはずだった。その本質に焦点の合わない人々が集まり、どんな美辞麗句を書き並べても、私たちの体は守れない。
 先般公布された「岩手県食の安全安心推進条例」も、そのような状況を反映した形で定められたものだろう。残念ながらこれでは私たちと、私たちの子孫の安全・安心は確保されない。ただそれを定めることによって、誰かにとって都合がよく、誰かが相変わらず犠牲になるだけである。制度も組織も法令も、そのようにして人に利用されるものである。ただおそらくこの場合「犠牲になる人」というのは、私たちを含めて人間とその子孫、更には周辺の生きものたちを含めると、途方もない代償になってしまうのではあるが。 
 この社会にも気づいている人、本質を捉えている人は幾人もいる。しかし残念ながらその人たちは通常、社会の利権構造の圏外にある。なぜならば現代の食はこの「利益追求」の羅針盤によって歪められてきたという経緯があるから。だから食や環境を考える場合、誰であれひとまず「利己」を棚に上げる必要がある。自分や自分たち、恣意や思惑を離れた見地に立って初めて正常な思いが体を突き抜ける。今人類は自らの生存のためにそのような人材を必要としているのだが、しかしそれが実現することはないかもしれない。それが過去から未来への太い流れであり、私たちが置かれている立場と状況でもある。


(おしまい)





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