ほんにまあ、この齢になってまだ
こんなこわい思いするとはなぁ・・・
土手に立った僕の顔を撫でていく
風は新緑 水を含んで
肌にとても心地よい。
おばあさんの手は深く刻まれて
隅々まで土の色が濃く
そりゃそうだもの朝に夕べに
この人を田のへり畑の中で見ない日はないのだから。
じいさんはもうできねえって言うし
息子はあのとおり会社が忙しく
嫁はやっぱり勤めに出ててとても時間なんてないっつう
だっからおしょすいことに
こぉんな田ぁこしらえて
あそこじゃあ米作ってんだか草育ててんだかわかりゃしねえ
なんて言われてるのでがす。
でもおばあさん、僕は知ってるよ。
あなたのうちは近在じゃあ珍しい大家族で
息子も嫁も会社勤めの暇をぬっては田に出てることを。
孫たちだって、たまに帰ってくれば
ほら堆肥撒いたり草刈ったりして
手伝ってるじゃないか。
なんと言ってもおばあさんちは今が一番
いい時なんだってことを。
これから十年、考えられるどんな変化が起こっても
誰かが死んだり、または家を出たりして
必ず今よりも悪い状態になるばかりなんだから・・・
あだしも膝が動かなくなりんした
歩くのもしんどく、なりんした・・・
再び立った土手の背中を
夏草の甘い匂いが駆けのぼる。
そうさ、翻って僕なんて
みんなひとりでやらなきゃならない
ご飯つくりから洗濯やら動物の世話
もちろん生活の糧を得る仕事だって手を抜けない
それだから今日だって、日ごとに伸びる田の草を横目で見ながらも
こうして土手の草集めをしたりしている。
おばあさんのうちは昔たくさんの小作人を使って
たいそう羽振りがよかったものだから
だから今でもそんなことを、考えちゃうんだろうかな。
人生の"いいとき"っていうのは
さり気なく隣りに坐っててまるで目立たない。
うん、そういえば僕のところだって
これから先どんな風に変わろうと、今よりもよくなる一方なんだから
そうか、やっぱり今が、一番いい時なんだろうな・・・
【写真はキイチゴの花】
こんなこわい思いするとはなぁ・・・
土手に立った僕の顔を撫でていく
風は新緑 水を含んで
肌にとても心地よい。
おばあさんの手は深く刻まれて
隅々まで土の色が濃く
そりゃそうだもの朝に夕べに
この人を田のへり畑の中で見ない日はないのだから。
じいさんはもうできねえって言うし
息子はあのとおり会社が忙しく
嫁はやっぱり勤めに出ててとても時間なんてないっつう
だっからおしょすいことに
こぉんな田ぁこしらえて
あそこじゃあ米作ってんだか草育ててんだかわかりゃしねえ
なんて言われてるのでがす。
でもおばあさん、僕は知ってるよ。
あなたのうちは近在じゃあ珍しい大家族で
息子も嫁も会社勤めの暇をぬっては田に出てることを。
孫たちだって、たまに帰ってくれば
ほら堆肥撒いたり草刈ったりして
手伝ってるじゃないか。
なんと言ってもおばあさんちは今が一番
いい時なんだってことを。
これから十年、考えられるどんな変化が起こっても
誰かが死んだり、または家を出たりして
必ず今よりも悪い状態になるばかりなんだから・・・
あだしも膝が動かなくなりんした
歩くのもしんどく、なりんした・・・
再び立った土手の背中を
夏草の甘い匂いが駆けのぼる。
そうさ、翻って僕なんて
みんなひとりでやらなきゃならない
ご飯つくりから洗濯やら動物の世話
もちろん生活の糧を得る仕事だって手を抜けない
それだから今日だって、日ごとに伸びる田の草を横目で見ながらも
こうして土手の草集めをしたりしている。
おばあさんのうちは昔たくさんの小作人を使って
たいそう羽振りがよかったものだから
だから今でもそんなことを、考えちゃうんだろうかな。
人生の"いいとき"っていうのは
さり気なく隣りに坐っててまるで目立たない。
うん、そういえば僕のところだって
これから先どんな風に変わろうと、今よりもよくなる一方なんだから
そうか、やっぱり今が、一番いい時なんだろうな・・・
【写真はキイチゴの花】
多分この辺りの方言だとは思ってましたが、でもそれがどれだけの地域かよくわからなかった。
「こわい」は、そのとおり「しんどい」「疲れた」時に使う話し言葉です。確かにそれを知らない人にはあれっていう表現でしょうね。
アグリコ日記もますます閉鎖地域的になってしまったみたいですね。やっぱりこういう場合は注釈を入れた方がいいのですかねぇ・・・
昔上京したての頃、方言を話すまい、話すまいとしていた自分のことを思い出しましたよ。でもわかっちゃうんですよね。言葉だけじゃなく、イントネーションや話し方で。
今じゃあ逆です。この田舎にいて標準語を話してるのは私だけです。岩手で生まれ育ったのに不思議なもんです。自然に口をついて出るままに、言葉を話してるんですが。