肌寒い。外出を前にして長袖のトレーナーをはおった。盆明けからこの方、めっきりと気温が下がってしまった。
遅れに遅れていた小麦の脱穀を昨日やっとすませたところだ。すませたと言ってもまだ脱穀機にかけただけ(わが家では足踏み脱穀機を使っている)。これからふるいにかけて稈を除き、唐箕にかけて殻やゴミを飛ばして、更には冬日の滲む縁側で気長に時間をかけて、指先で細かい土くれや虫を選別することになる。今はまだ調整作業のいわばその前半部分を終えただけなのだ。そして更にその小麦を食べるには、手回しの粉砕機(それまでは石臼を使っていたのだが、去年思いきって買った。今ではとても重宝している)で全粒粉にしてから手で練る。いのちをいただくという行為はいつでもそれなりの重みと時間を伴うものだ。またそれだからありがたみも感じられる。私も昔そうだったのだけれど、既製品やファストフードに慣れすぎた人にいのちの尊さが身につかないとしても、それは一向に不思議ではない。彼らは商品と付き合ってるのであって、いのちと向き合っているのではないのだから。
さあ今日はなんとしても唐箕まではかけてしまいたい。そう思って夜が白む頃に目覚めて蚊取り線香の先をポキリと折り、朝露に白む庭先に下りた。鶏が互いに朝ぼらけを告げ合っている。霞がたなびき山肌を洗って野に下る。猫たちはこんなに早いうちから朝食を待って玄関先に集っていた。もう少し待っててナ。今日はおまえたちの食事の前に、スヌーピーをつれて散歩に行ってくる。
襞うつ雲は色を失くしたアンティーク映画。空は一面雲に覆われている。田をひと回りしてる間に額に触るか触らないほどの細かい雨粒。天気予報では午後から雨とのことだけれど、この空、午前中保つだろうか。脱穀した麦はブルーシートにくるんで軽トラの荷台に載せてある。調整作業のためにそれを拡げるには乾燥した空気が必要だ。
はやる気持ちを抑えて空の様子を伺いながらゴボウやニンジンの種を選っていると、一匹また一匹と猫たちが寄ってくる。何気なく体を寄りかからせてきたりともすれば種の箱に入ろうとしたり。彼らもこうしてべったりと近寄るほどに涼しくなってきたのだ。そうこうするうちに案の定ポツリポツリとやってきた。屋根のトタンが演奏を始める。この分だとやはり暫くは待たないとならないかもしれない。私は猫たちを振り切って足早に家に入った。どれ、去年の小麦でうどんでも作ろうか。
本を読んでたら、ミーコが網戸越しにしきりにせがむので縁側から入れてやり(わが家では普段猫を家に入れない。けれど外にいるとメス猫たちはよくオスたちに追われるので、特に入りたがる)、一緒の布団に寝転んだ。草刈やジャガイモ掘り、小麦の脱穀に追われた夏の疲れがどっと出て、すぐに寝入ってしまう。ひる頃に目覚めたら、外では本格的な降りになっていた。雲も厚くなってこれではもう今日は仕事にならない。こうなると晴れて自分の好きなことが出来るから、かえって気分的に落ち着くものだ。これからの季節、空気が乾燥してないとできない仕事が次第に増えてくるので、こんな日も多くなるだろう。
軒下で乾燥させている脱穀前の小麦
雨の中車を走らせて買い物したり施設に入った近所のおばあさんを訪ねたり。ワイパーが雨粒を弾く様子を目で追いながら、たまには日頃してないことをしてみるのもいいんじゃないかと思った。例えばゲームセンターに行ったり、ネットカフェで時間を過ごしたりマクドナルドに入ったり。例え10分も経たずにうんざりしてしまっても、それはそれでいい。自分の日常の硬直を解きほぐす意味でそこにもなんらかの価値はあるかもしれない。自分のした事したいと思うことに、まったく無意味なことってないのじゃないかと思う。
スーパーでやや小ぶりのサンマが一尾10円で売られていた。活きはいい。そういえば今はサンマが旬だし、ようし今夜は刺身三昧だ。なんだか結局いつもと同じようなパターンで行動してる自分に気づいて、少し苦笑い。けれど脂ののったサンマは酢飯に合うし、更に少し大きめに切って醤油に浸して冷蔵庫に入れておくと身が引き締まって美味しいんだよな。それに同じアラでもこうして自宅で捌いたアラは猫たちもことのほか喜ぶ。だから魚を買うとわが家では頭から尻尾まで、ことごとく誰かしらの胃袋に納まってしまう。秋刀魚も秋雨も今が旬。たっぷりと季節に浸って生きるのが、やっぱりいい。
【冒頭の写真は今が盛りのミソハギの花。
なんという名か知らないけど蛾が羽を休めている。】
遅れに遅れていた小麦の脱穀を昨日やっとすませたところだ。すませたと言ってもまだ脱穀機にかけただけ(わが家では足踏み脱穀機を使っている)。これからふるいにかけて稈を除き、唐箕にかけて殻やゴミを飛ばして、更には冬日の滲む縁側で気長に時間をかけて、指先で細かい土くれや虫を選別することになる。今はまだ調整作業のいわばその前半部分を終えただけなのだ。そして更にその小麦を食べるには、手回しの粉砕機(それまでは石臼を使っていたのだが、去年思いきって買った。今ではとても重宝している)で全粒粉にしてから手で練る。いのちをいただくという行為はいつでもそれなりの重みと時間を伴うものだ。またそれだからありがたみも感じられる。私も昔そうだったのだけれど、既製品やファストフードに慣れすぎた人にいのちの尊さが身につかないとしても、それは一向に不思議ではない。彼らは商品と付き合ってるのであって、いのちと向き合っているのではないのだから。
さあ今日はなんとしても唐箕まではかけてしまいたい。そう思って夜が白む頃に目覚めて蚊取り線香の先をポキリと折り、朝露に白む庭先に下りた。鶏が互いに朝ぼらけを告げ合っている。霞がたなびき山肌を洗って野に下る。猫たちはこんなに早いうちから朝食を待って玄関先に集っていた。もう少し待っててナ。今日はおまえたちの食事の前に、スヌーピーをつれて散歩に行ってくる。
襞うつ雲は色を失くしたアンティーク映画。空は一面雲に覆われている。田をひと回りしてる間に額に触るか触らないほどの細かい雨粒。天気予報では午後から雨とのことだけれど、この空、午前中保つだろうか。脱穀した麦はブルーシートにくるんで軽トラの荷台に載せてある。調整作業のためにそれを拡げるには乾燥した空気が必要だ。
はやる気持ちを抑えて空の様子を伺いながらゴボウやニンジンの種を選っていると、一匹また一匹と猫たちが寄ってくる。何気なく体を寄りかからせてきたりともすれば種の箱に入ろうとしたり。彼らもこうしてべったりと近寄るほどに涼しくなってきたのだ。そうこうするうちに案の定ポツリポツリとやってきた。屋根のトタンが演奏を始める。この分だとやはり暫くは待たないとならないかもしれない。私は猫たちを振り切って足早に家に入った。どれ、去年の小麦でうどんでも作ろうか。
本を読んでたら、ミーコが網戸越しにしきりにせがむので縁側から入れてやり(わが家では普段猫を家に入れない。けれど外にいるとメス猫たちはよくオスたちに追われるので、特に入りたがる)、一緒の布団に寝転んだ。草刈やジャガイモ掘り、小麦の脱穀に追われた夏の疲れがどっと出て、すぐに寝入ってしまう。ひる頃に目覚めたら、外では本格的な降りになっていた。雲も厚くなってこれではもう今日は仕事にならない。こうなると晴れて自分の好きなことが出来るから、かえって気分的に落ち着くものだ。これからの季節、空気が乾燥してないとできない仕事が次第に増えてくるので、こんな日も多くなるだろう。
軒下で乾燥させている脱穀前の小麦
雨の中車を走らせて買い物したり施設に入った近所のおばあさんを訪ねたり。ワイパーが雨粒を弾く様子を目で追いながら、たまには日頃してないことをしてみるのもいいんじゃないかと思った。例えばゲームセンターに行ったり、ネットカフェで時間を過ごしたりマクドナルドに入ったり。例え10分も経たずにうんざりしてしまっても、それはそれでいい。自分の日常の硬直を解きほぐす意味でそこにもなんらかの価値はあるかもしれない。自分のした事したいと思うことに、まったく無意味なことってないのじゃないかと思う。
スーパーでやや小ぶりのサンマが一尾10円で売られていた。活きはいい。そういえば今はサンマが旬だし、ようし今夜は刺身三昧だ。なんだか結局いつもと同じようなパターンで行動してる自分に気づいて、少し苦笑い。けれど脂ののったサンマは酢飯に合うし、更に少し大きめに切って醤油に浸して冷蔵庫に入れておくと身が引き締まって美味しいんだよな。それに同じアラでもこうして自宅で捌いたアラは猫たちもことのほか喜ぶ。だから魚を買うとわが家では頭から尻尾まで、ことごとく誰かしらの胃袋に納まってしまう。秋刀魚も秋雨も今が旬。たっぷりと季節に浸って生きるのが、やっぱりいい。
【冒頭の写真は今が盛りのミソハギの花。
なんという名か知らないけど蛾が羽を休めている。】
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