粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

安心は数値化できない

2013-07-06 13:51:07 | 煽りの達人

昨日5日行われた東電廣瀬社長と泉田新潟県知事との会談は、両者の思惑の違いから後味の悪い結果になった。柏崎刈羽原発原発再稼働の安全申請に、地元の新潟県の了承を得る必要がありその会談だったが、再稼働を急ぎたい東電とこれを阻止したい知事では同意を得るのは相当困難がある。自分には泉田知事の意地の悪さばかりが印象に残り不快だった。

ところで、泉田知事の発言で特に気になった言葉がある。「大勢の方が不安に思っている」、「どうして不安の解消に努めないで申請したのか」、「不安を解消する安全よりもお金を優先したのか」と知事の口から何度も「不安」という言葉が飛び出す。結局、知事にとっては不安が解消しなければ原発再稼働などあり得ないということだろう。

しかし、この不安解消して安心を得るということはどういうことか。これが「安全」ならば、ある程度想像がつく。地震や津波に対する耐震強化、非常用電源や炉心冷却系の強化、格納容器破損防止、放射性物質の拡散防止などに対応した具体的な対策がとられるこになる。これは要するに「安全対策」である。

しかし、では「安心対策」というものは一体どういうものなのだろうか。そもそもそんな対策などありうるのだろうか。考えてみれば不安というものは個人個人が違う。高所恐怖症の人がいる一方でさほど恐いと感じない人もいる。

原発事故での放射能被曝も同様である。いまだペットボトルで飲み東日本産の食材を拒否し、窓を閉め切って外出時にはマスクをして出かける人がいる。おそらく原発が再稼働しただけで恐怖を訴える人が出てこないとも限らない。原発周辺住民の安心を全て解消することは不可能なことに違いない。

安心を数値化できない。文字通り心の問題だからだ。人によって不安度が限りなくゼロでに近い人があれば、無限大(∞)に恐れる人もいる。泉田知事がいう「不安の解消」を徹底したら「百年河清を待つ」のごとく不可能になってしまう。おそらくこうした知事のもとでは原発再稼働は難しい気がする。早くもネットでは泉田知事を英雄扱いをする向きがあるが、はたしてそんなに持ち上げていいものなのか。

追記:泉田知事の「前科」(震災がれき広域処理での殺人発言)をなぜメディアは問題にしないのか。その暴言を知っていればこの知事を褒めはやすことなどできないはずだ。


コメントを投稿