朝日新聞の暴走がとまらない。煽動的な数々の決めつけが事の本質をはぐらかして、自分たちの都合の良い主張に読者を誘導していく。最終的には、何が何でも安部現政権叩きに持っていきたい意図がありありだ。
今回の朝日新聞仙台総局長の坪井ゆづるなる人物の記事(3月11日)もそうだ。東北復興取材センター長というわけのわからない肩書をいいことに?こんな刺激的な見出しを使っている。東北を「植民地」にするな、だ。そして記事の冒頭が「東北はまだ植民地だったのか」となる。「植民地だった」と断言しているところがこの記者の不遜なところだ。
最初、赤坂憲雄福島県立博物館長の言葉を引用している。
なぜ、福島は貢ぎ物のように、ひたすら東京へと原発の電気を送り続けてきたのか。なぜ、復興と称して巨大な公共事業ばかりが起こされ、地域の人々の意思が無視されるのか――。
どうもこの館長の発言は極端過ぎる。「貢ぎ物」「公共事業ばかり」などと個人の主観や被害者意識が出ている。確かに負の側面もあるだろうが、東京と福島の関係で肯定的な面もきっとあるはずだ。
この発言に、坪井記者も同意してその根拠を彼なりに3点挙げている。
ひとつは、原発被災地が結果的に切り捨てられていることだ。いまも福島県浪江町には、震災翌日の朝刊が山積みされた新聞店がある。放射能で家族も地域も分断された人々は、復興の出発点にすら立てない。
二つめは、未来の縮図のような過疎地だからこそ期待された「創造的復興」が進まない現実だ。各省縦割りの事業では、人口減少を見すえたまちづくりや農漁業の新モデル挑戦も広がらない。東京五輪に向けて、資材も人材も離れていく事態が追い打ちをかける。
三つめは風化だ。約10万人がプレハブ仮設住宅にいる事実が、もうニュースにならない。被災地の首長らが陳情に行った復興庁で、東京五輪のポスターにあぜんとしたエピソードも痛々しい。
確かにこうした指摘は概ね事実かもしれない。しかし、それを「植民地」と結びつけるのには無理があり、飛躍もいいところだ。特に東京五輪と関連づけているのが、いかにも五輪が東北の復興を妨げているかのような言い方だ。確かに五輪との調整は必要で東北への配慮が肝心だが、五輪を悪者にするのはおかしい。「東京五輪のポスターにあぜんとした」というのも余計な話だ。そしてこんな結論になる。
3年の歳月を経て、被災地はこの国でもっとも豊かな「東京」にとって都合のいい「植民地」のように見えてくる現実も間違いなくある。それが、未曽有の惨禍でも変わらない、この国の姿なのだ。
記者特有の独りよがりな感傷に終わっている。国、中央が加害者で地方は被害者という単純な二元論だ。地方も国に頼って公共事業を求めたり、事業所を誘致したりして地域振興や過疎対策に腐心する現実があるはずだ。
朝日新聞記者はそれを無視して国策の是非ばかりを論ずる。独自のイデオロギー色が強く出ていて、結局は現政権の批判となる。「植民地」という仰々しい言葉を使って。この記事を読む東北の人々はどんな気持ちになるのだろうか。不愉快に思うに違いない。国に対してよりも、むしろ自分の地域をこんな差別的な政治用語を使って貶める記者に。
この「ゆづる」記者は仙台在住のようだ。同じ「ゆづる」でも仙台出身の羽生君とはえらい違いだ。東北の復興に向けて全世界にアピールした若者の爪の垢を煎じて飲むことにしくはないだろう。