84年、87年とアメリカスーパーバイク選手権(AMA)のシリーズチャンピオンとなり、
88年からチーム・ロバーツ・ヤマハでWGP500ccクラスに参戦した、
これまたアメリカ出身の「ウェイン・レイニー」選手ですよ。
デビューイヤーから頭角を現しその年でランキング3位、
翌年の89年も一時はチャンピオンという状況の中、一度の転倒がひびき、
ランキング2位に。
その後、90年~92年まで3年連続でワールドチャンピオンに輝いています。
見た目は地味に見えるライディングですが、常に圧倒的な速さを持ってて、
PPからブッチギリの優勝というパターンが多かった選手です。
昨日のローソン選手同様、堅実にポイントを稼ぐタイプで、
勝てなくても表彰台にはいるといった感じでした。
ただ接近戦に弱く当時最大のライバルだったシュワンツ選手とのバトルでは、
負けてしまうことが多かったですね。
93年の12戦イタリアGPで転倒した時、頭部からグラベルに落下してしまい、
第六頚椎損傷の重症を負い下半身不随になってしまいます。
カンバックを期待されていましたが、結局完治することなく引退を余儀なくされます。
しかし、翌年の94年からマールボロ・ヤマハ・チーム・レイニーを立ち上げ、
チーム監督として復帰。
日本人選手も多く起用しており、原田哲也や阿部典史などが上げられます。
振り返れば、
80年代後半から90年代前半まで大成功を収めた「ウェイン・レイニー」選手で、
他を圧倒していました。
当時のバイク仲間で「ウェイン・レイニー」選手が好きだから、
ヤマハのバイクに乗ってるって人は多かったですね。
88年からチーム・ロバーツ・ヤマハでWGP500ccクラスに参戦した、
これまたアメリカ出身の「ウェイン・レイニー」選手ですよ。
デビューイヤーから頭角を現しその年でランキング3位、
翌年の89年も一時はチャンピオンという状況の中、一度の転倒がひびき、
ランキング2位に。
その後、90年~92年まで3年連続でワールドチャンピオンに輝いています。
見た目は地味に見えるライディングですが、常に圧倒的な速さを持ってて、
PPからブッチギリの優勝というパターンが多かった選手です。
昨日のローソン選手同様、堅実にポイントを稼ぐタイプで、
勝てなくても表彰台にはいるといった感じでした。
ただ接近戦に弱く当時最大のライバルだったシュワンツ選手とのバトルでは、
負けてしまうことが多かったですね。
93年の12戦イタリアGPで転倒した時、頭部からグラベルに落下してしまい、
第六頚椎損傷の重症を負い下半身不随になってしまいます。
カンバックを期待されていましたが、結局完治することなく引退を余儀なくされます。
しかし、翌年の94年からマールボロ・ヤマハ・チーム・レイニーを立ち上げ、
チーム監督として復帰。
日本人選手も多く起用しており、原田哲也や阿部典史などが上げられます。
振り返れば、
80年代後半から90年代前半まで大成功を収めた「ウェイン・レイニー」選手で、
他を圧倒していました。
当時のバイク仲間で「ウェイン・レイニー」選手が好きだから、
ヤマハのバイクに乗ってるって人は多かったですね。