阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

加藤 仁 著 「城山三郎伝 筆に限りなし」を読む。

2023年08月08日 | 乱読は楽しい

2009年05月25日(月)「阿智胡地亭の非日乗」掲載

小説家の城山三郎は生涯、生真面目な一所懸命の人だった。

 昭和初年から10年くらいの間に、この列島で両親から生を受けた日本人の男女は、生まれ年一年刻みで、その個別の人生が違っている。

昭和2年生まれの城山三郎、本名杉浦英一は、真面目な筋金入りの愛国少年という[時代の子]でもあった。

商家の跡取りという立場から、父親の願いを入れて市立名古屋商業学校を卒業し、その後、やはり父親の希望を入れて、徴兵猶予のある愛知県立工専に入学し、

徴兵猶予となったが、日頃から杉本五郎中佐著『大義』などに心酔していた彼は、ある日父親に相談せず猶予を返上した。

そしてお国のために、昭和20年5月に海軍特別幹部練習生として志願入隊した。大竹、郷原の部隊を転々としながら、三ヵ月後広島の原爆の雲を見て終戦を迎える。

根が真面目で融通を効かせることが出来ない、杉浦英一が海軍の教育期間に受けた体験は過酷なものだったらしい。

 この伝記は彼の同年兵なども訪ね歩き、聞き書きをしているが同年兵の1人で、広島県の開業医は、その体験を一切語ろうとしない。

 彼は奥さんにも語ったことがないという。

職業軍人である内務斑の班長たちの社会的出身階層から見れば、「海軍特別幹部練習生」に応募してくるような旧制中学及びそれ同等以上の教育を受ける事が出来る出身階層に、

彼らは平時のシャバでは一生入ることは出来ない。そしてこの幹部練習生は訓練の後、促成とはいえ尉官に任命される。

古参の班長の中には、これらのことを思い、こいつら許せないと、恨みつらみと狂気を持って幹部練習生に当たるものがいた。

 後年の城山三郎こと杉浦英一の班長はそういう古参兵であった。

一般的に海軍の規律を陸軍の上に置いて語る、旧海軍の尉官以上の体験者が多いが、そういう体験は城山三郎にはなかった。

 殴られ嬲られ殴られが続く3ヶ月であったらしい

新藤兼人監督は32歳で海軍2等水兵として徴用された。

その体験を映画にしているが、当時の軍隊の訓練を受けた人間は、その体験を親にも子にも伝えたくないというのがよく判る映画だった。

こちら

城山三郎は、「大本営発表の赫々たる戦果」で尊敬していた帝国軍隊がカタチだけで、全く中身のないものであることを身を持って知った。

 彼は復員して、敗戦後の日本の社会の変化と自分のそれまでの18年の存在に折り合いがつけらずに、ほぼ一年間腑抜けのように引きこもっていた。

 彼が自分の中で、この時代の「おのれ」と「国家」の関係に決着をつけるのには 14年間の年月が必要だった。

彼は昭和34年に「大義の末」を書いた。   

「大義の末」の単行本後書き

この作品の主題は、私にとって一番触れたくないもの、曖昧なままで過してしまいたいものでありながら、同時に、触れずには居られぬ最も切実な主題であった。

「皇太子とは自分にとって何であるか」―この問いを除外しては、私自身の生の意味を問うことはできない。

世代にこだわる訳ではないが、私の世代の多くの人々もこうした感じを抱かれると思う。

柿見という主人公は、私の机上にこの数年間生きつづけ、この最終稿は一九五八年の春から半年かかって書き上げられた。

完成直後、いわゆる皇太子妃ブームにぶつかり、私は一時、発表意欲を削がれた。

ブームに便乗するようにも、ブームに水をかけるようにもとられたくなかった。

いかなる意味においても、ブームに関係づけられて見られたくはなかった。

私にとっては、もっと大事な、そっとして置きたい主題なのだ。

しかし、この作品は時代に限られながらも、なお時代を越えて生きて行くべき証言であることを思い、また、五月書房秋元氏の熱心なすすめもあって、発表することにした。

 一九五九年一月五日
 
            城山三郎

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この伝記を書いた加藤仁という人はノンフィクション作家で、定年を迎える前後の日本人の生活を取材フィールドにして作品を著している。

これまで雑誌の記事なども何回か読んだことがあるが、対象とする相手と同じ目線で書いているのに好感を持ってきた人だ。

 本屋の平棚でこの本を見つけたとき、城山三郎の伝記という事と、作者が加藤仁ということですぐ購入しようと思った。

著者紹介を今回読んではじめて知ったのだが、彼は城山三郎と同じ、名古屋出身の人であった。しかし著者は城山三郎に生前一度も会っていない。

城山が残した膨大なメモ、日記を読みに読み、城山の身内、友人・知人・担当編集者らとのインタビューを重ねて、加藤仁の中であらためて構築・再生された「城山三郎」像。それがこの本である。

読み出してすぐに城山が物を書き出したとき以来、手本の一つとした先輩作家として「庄野潤三」の名前が出てきた。

そして同じ昭和2年生まれで生前付き合いがあった分かり合える作家として「吉村昭」の名前も出てきた。

 二人共にもう長く自分が読み続けてきた作家だけに、自分が気が付かないだけで、この3人が書くものには何か共通性があったのかと不思議な気もし、また嬉しかった。

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超都会だった!三重県最大都市の四日市!近鉄王国の三重県No.1繁華街を散策してみた。 YouTube

2023年08月08日 | SNS・既存メディアからの引用記事

父の勤務地だった四日市で生まれて5年間暮らし、再び小学校6年生と中学3年間の4年間を過ごし 合わせて2回居住した三重県四日市市の現在を紹介するYouTubeがありました。

超都会だった!三重県最大都市の四日市!近鉄王国の三重県No.1繁華街を散策してみた

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08月07日に目に留まったSNS・メディアの記事

2023年08月08日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像をクリックすると本文全文に飛びます。

 

 

 

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東日本大震災が起こった後、ブログ「阿智胡地亭の非日乗」が掲載したエントリーから   [ 2011年07月05日(火)のブログ ]

2023年08月08日 | 東日本大震災ブログ
2011年07月05日(火)
 
労働安全衛生総合研究所の研究員を止めてまで汚染調査

国が公表しなかったホットスポットを明らかにしたNHK番組が反響を呼んだ。その番組の主役、科学者・木村真三氏は、

今もフクシマ各地を精力的に飛び回り、放射能汚染の実態を調査し続けている。
週刊現代7月4日

一部引用・・

放医研を5年で退職してから労働安全衛生総合研究所に入るまでの2年7ヵ月の間、木村氏には塗装工として働いた時期がある。

その時期にも研究者の道は諦めなかった。東海村事故をきっかけに知己を得た京都大学原子炉実験所の今中哲二氏の実験室を借りて実験に取り組んだり、

一人で論文をまとめる作業に打ち込んでいた。きちんと研究を続け、業績さえあげればいつか必ず研究職に戻れる。そう信じて不遇の時期を乗り切った。

「苦境から這い上がれたのは、東海村事故以来の仲間の応援があったからです。そういう人間関係が僕の活動を支える原動力になっています。

テレビで取り上げられたことで僕が注目されるようになっていますが、福島での調査は仲間たち全員でやっている。

現場で調査するのは僕ですが、そこで採取したサンプルを測定したり解析したりしてくれるのは、京都大学の今中さんや長崎大学の高辻俊宏さん、

それから広島大学の静間清さんや遠藤暁さん、金沢大学の山本政儀さんという一流の研究者。彼らがいればこそのこの調査活動なんです」(木村氏)

 放射能汚染に苦しむ人々に対し、国は必ずしも正確で詳細な情報を提供していない。県や市は、「原子力行政は国の専権事項」とばかりにダンマリを決め込んでいる。

結局、正確な情報を欲している住民のニーズに応えているのは、木村氏のような組織に縛られない研究者だけだ。

 全文はこちら

 
 
原子力発電のハテナにお答えします。九州電力のHP

☆九州電力のHPに掲載されている「原子力発電のハテナにお答えします」。

なるほどいまさらこの項も削除できないだろうな。しかし3.11以前の電力会社の思想がよくわかる内容だ。☆

質問

安全性原子力発電所の地震対策はどうなのですか。

原子力発電所の耐用年数はいつまでなのですか。

原子力発電所を運転している社員の教育や訓練はどのようなものですか。

日本でもチェルノブイリのような事故が起きるのではないですか。

原子力発電所から放射性物質がでるから心配です。

原子力発電所ではどのような安全対策をしているのですか。

もし原子力発電所で事故が発生したときは、私たちはどうしたらいいのですか。

日本でもチェルノブイリのような事故が起きるのではないですか。

答え

 1986年4月、旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で、原子炉が壊れ大量の放射性物質が外に出るという事故が発生しました。

 この事故は、

チェルノブイリ原子力発電所は、原子炉の出力が急速に上昇すると自然に核分裂が抑えられる「自己制御性」が、低い出力の状態では失われるという設計上の欠陥があったこと
放射性物質を閉じ込めるための「原子炉格納容器」がなかったこと
異常時に原子炉を緊急停止させる装置を動かないようにしていたこと
禁止されていた低い出力で運転していたこと
など、安全設計上の問題や運転員の規則違反などが重なったことにより起きた事故です。

 日本の原子力発電所では、「自己制御性」を有しており、様々な制御システムや原子炉格納容器の設置など、

安全設計上、万全の対策が取られており、また、運転員は十分な教育訓練を受けるとともに、

厳重な運転管理体制のもと発電所の運転をおこなっています。

チェルノブイリと同じような事故が起きることは、日本では考えられません。

全文はこちら

 
 
玄海発電所の再開

☆福島原発事故が周辺地区へ大きな放射能汚染を起こしていることが徐々に明らかになっている。

それは各地の原発立地の周辺市町村の住民や行政責任者にも知られだした。先祖代々暮らした土地に二度と戻れないのも辛いが、

お墓参りにもう一生行けないと泣いていた双葉町のおばあさんの映像は凡百の証言よりも重かった。

玄海町の岸本町長には再開しか選択の余地はないだろう。経済産業省と電力会社に交付金・補助金ジャンキーにされてしまった今、原発を止められるのはそのまま町の死に直結するから。

再開容認 周辺からは慎重意見
7月4日 17時17分 NHKニュース

佐賀県にある玄海原子力発電所の地元、玄海町の岸本英雄町長は、定期検査で止まっている2基の原子炉の運転再開を認めることを、

九州電力に正式に伝えました。東京電力福島第一原発の事故のあと、止まっている原発の地元自治体が再開を認めることを電力会社に伝えるのは初めてですが、

周辺の自治体から再開に慎重な意見が相次ぎました。

玄海町の岸本英雄町長は、町役場を訪れた九州電力の眞部利應社長と、4日午前、会談しました。

玄海原発の2号機と3号機は定期検査をことし4月に実質的に終えていますが、九州電力は、運転再開には地元佐賀県と玄海町の了解が必要だとして、その時期は決まっていません。

 岸本町長は、2号機と3号機の運転再開を認めることを九州電力に正式に伝えたうえで、「今後も安全対策と地域住民の安全・安心の確保に積極的に取り組んでほしい」と述べました。

福島第一原発の事故のあと、全国の原発の3分の2に当たる35基が定期検査や東日本大震災の影響などで運転を止めていますが、

原発の地元自治体が再開を認めることを電力会社に伝えるのは初めてです。

 会談のあと、岸本町長は「安全対策は確保されていると、私自身が確認したし、海江田経済産業大臣も来て、国が責任を持つと発言した。

それを踏まえ、町としては運転を再開をしてもよいと判断した」と述べました。また、眞部社長は「九州、そして国家的見地から大きな判断をしていただいた。

原子力の安全性と今回の緊急安全対策について、地域の理解が得られるよう、全力で取り組みたい」と述べました。

 一方、玄海町の隣の、唐津市の坂井俊之市長は記者会見し、「原発の安全性に対する唐津市民の不安が払拭(ふっしょく)されたとは理解していない。

私自身の運転再開への慎重な姿勢も変わらない」と述べ、改めて慎重な姿勢を示しました。

玄海原発の運転再開を巡っては、佐賀県内のほかに、隣の福岡県や長崎県の自治体からも、安全性などについて慎重な意見が出ていて、今後、佐賀県の古川知事の判断が焦点となります。

こんな記事を掲載しているサイトもあります。

玄海町長ファミリー企業、国と県の天下り先だった
 ~原発利権めぐる癒着の実態~

こちら

 
 
自衛隊は災害地に残って支援を続ける

☆被災地の住民から見ると、ずっと継続して日常生活で大きな貢献をしてくれた国家組織は自衛隊だ。非常時には指揮命令系統を一本化した指揮機能と、

その指揮の下で現場で動く人員が必要だ。

しかし災害派遣は自衛隊の本来の任務ではない。

地震学者の石橋克彦さんの話では、日本はほぼ65年近い地震平穏期が終わり(それは日本の高度経済発展期にも重なる)、地震活動期のサイクルに入った。

地震国日本では、自衛隊の中に、銃器ではなく重機や什器をフル装備した災害対応専門部隊を分離してもいいような気がする。

Wikipediaから引用:

災害派遣は災害により当該地域や自治体の保有する防災・災害救助の能力では十分な対応が出来ない時に行なわれるもので、

自衛隊法第83条に定められている自衛隊の“従たる”任務である(主任務は同法第3条第1項に規定されている「侵略」からの国土「防衛」)。

任務の位置づけは治安出動や海上警備行動と同列の地位にある。災害救助という緊急を要する場面が想定される活動であるがゆえに、

治安出動よりはるかに穏健で市民への影響は無視できる程度のものとはいえ、市町村長や警察官などの権限を準用する形で私有地への立ち入りや建築物・車両等の除去など

私権を合理的な範囲で制限する活動が法的に認められている。

しかし、これらの制限は火器を使用してまで行うわけではなく、その活動内容が専ら人命財産の保護であることから、

ほとんど実施の実績がない治安出動や海上警備行動と異なり、すでに32,000回以上の出動実績がある。


自衛隊 生活支援など活動継続
7月4日 18時6分 NHKニュース

東日本大震災の被災地に展開する自衛隊の部隊の指揮官が、4日、記者会見し、今後の活動方針について、徐々に規模を縮小しながらも、

当面の間は入浴施設の提供などの生活支援を中心に活動を継続していく考えを示しました。

これは、東日本大震災の被災地に展開するすべての部隊の指揮官で、陸上自衛隊の君塚栄治東北方面総監が、4日、日本記者クラブ主催の会見で述べたものです。

この中で君塚総監は、一時10万人態勢だった部隊が、今月1日から地元の部隊を中心とした4万人ほどの態勢に縮小されたことに触れました。

君塚総監は、この部隊の今後の活動方針について、「被災者のニーズがあるかぎり支援を続ける方針で、最後までニーズを発掘していきたい」と述べ、

徐々に規模を縮小しながらも、当面の間は食事や入浴施設の提供などの生活支援を中心に活動を継続していく考えを示しました。

そのうえで、活動終了の見通しについては、復旧の進展に伴って、順次、民間に活動を引き継ぎ、部隊を撤収させていきたいという考えを明らかにしました。

 
 
原発推進者だった小佐古さんが見る福島原発事故の現状
【インタビュー】日本の放射能問題は深刻=元内閣官房参与・小佐古氏

一部引用・・

同氏は、茶葉やほうれん草など、食品の汚染については、既に散発的に報告されているものの、今年後半、特に日本人の主食である米の収穫が始まった頃に、
 
より広範な、憂慮すべき問題が明らかになるだろうとした。

 同氏は、「今年の秋の収穫の時期が来れば混乱がおきる。収穫した時に米の中に、どのようなレベルかわからないが、放射能が入っている。
 
それがスキャンダルになり、東北の米は買わないということになれば、やっかいなことになる」と述べた。

 さらに、3月11日に原子炉が津波の被害を受けて以来、福島第1原発の状況に対して政府がとってきた対応は、日本の政策決定のまずさを露呈したとし、
 
「政府の意思決定メカニズムははっきりしない。どういう理屈で何を決めているのかはっきりしない。とても民主主義社会とは思えない」と述べ、
 
東アジアの発展途上国のような状況になっているとの見方を示した。

全文はこちら
 
 
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