阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
1942年生まれが江戸川区から。

『追悼再録』 米国進駐軍が小中高校の生徒にずっと教えないように教唆してきた「日本の現代史」を今に伝えてきた“半藤一利”さんが逝去された。

2022年01月13日 | SNS・既存メディアからの引用記事

<半藤一利さん死去>非戦の思い…歴史の大河に立つ知の巨人逝く   2021年1月13日 10時36分   引用元

◆戦後ほどなく昭和史研究始め、関係者へ取材重ねる

半藤一利さん

半藤一利さん

 1時間取材して、あとの1時間は雑談。雑誌編集者だったから話題は豊富で歴史から政治、社会、ときに芸能と縦横無尽。酒が入ると、さらに上機嫌だった。あるときはインフルエンザの予防接種をした日だったため飲酒を控えるよう勧めたところ、「なんでこんな日にしちまったのか」と本気になって悔しがった。
 戦後まだ10年ほどのころから昭和史の研究を始め、関係者への取材を重ねた。戦争の記憶が生々しく、触れること自体がタブーの時代。「社内で保守ハンドウ(反動)と言われた」と笑う。「日本のいちばん長い日」は2度にわたって映画化されたが、1967年に映画化された時には取材した元軍人を試写に呼んだ。

◆東京大空襲で焼け死んだ人々…原点は戦争体験

 「その元軍人が『あれはバレていなかったな』と言いながら帰って行った。まだ明らかになっていないことがあるはず。それは何なのか」と「歴史探偵」の目を常に光らせた。原点は自らの戦争体験。東京大空襲の際、目前で焼け死んでいった人々を語るとき、いつもの明るさは曇った。
 そうした非戦の思いは世代が近い上皇ご夫妻とも共有し、上皇さまの在位中は何度も御所に呼ばれて戦争の話をした。その際「陛下の前で、ある軍人が『ケツ』を撃たれたという話をして、同席したかみさんに怒られた」といたずらっぽく笑ったこともある。

◆「満州事変の頃のような国際社会」と警鐘

 視座は昭和という東洋の島国の一時代に限らず、世界史的に広がっていた。自らが左翼扱いされるようになった日本社会の右旋回を憂い、米国にトランプ政権を誕生させた国際社会の内向き傾向を、満州事変の頃のようだと警鐘を鳴らした。
 コロナ禍でますます不透明さを増す世界。歴史の大河の中で私たちが立つ「今」を指し示してくれた洒脱な知の巨人を失うことが、何とも不安で、怖い。
 

作家の半藤一利さん死去、90歳 「ノモンハンの夏」  配信  引用元

「日本のいちばん長い日」「ノモンハンの夏」など昭和史に光をあてた作家の半藤一利(はんどう・かずとし)さんが死去したことが12日分かった。90歳だった。 【写真】半藤一利さんが疎開先で出会った未来の妻は、漱石の孫でした  東京生まれ。東京大卒業後、文芸春秋に入社。編集者として軍事評論家の故伊藤正徳さんの仕事を手伝ったことなどから、戦史や昭和史研究を深めていった。  1965年には同僚の編集者らとともに執筆した「日本のいちばん長い日」を大宅壮一名義で発表した。太平洋戦争終結を決定した45年8月15日正午までの24時間を、軍人など当事者の聞き取りでまとめた作品はベストセラーとなり、映画化もされた。95年には半藤一利名義で追加取材を含めた決定版を出した。  編集者として培った取材力を生かし、存命する当事者からさまざまなエピソードを聞き出し、改版過程で偽証をふるい落としていく手法はオーラルヒストリー研究の先駆としても評価されている。  文芸春秋では「週刊文春」編集長、「文芸春秋」編集長、同社専務などを歴任。多くの作家との交流をもった。  自身も作家として、「漱石先生ぞな、もし」(新田次郎文学賞)、「ノモンハンの夏」(山本七平賞)、「昭和史 1926―1945」(毎日出版文化賞特別賞)など精力的な執筆活動を続けた。江戸っ子らしい軽妙な語り口は、歴史の専門研究の成果を広く一般の読者につないでいく仕事だった。  近代史の研究者らとともに勉強会を開き、多くの史料に目を通すとともに、「歴史探偵」と自称し、昭和史の語り部として日本の近代への関心を高めた。テレビの歴史番組などにも出演していた。  2015年に菊池寛賞。19年には本紙別刷りbeで「歴史探偵おぼえ書き」を連載した。  妻の末利子さんは夏目漱石の孫。

 

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『追悼再録』 自分で考える力、失ったら終わり  この国はどこへ これだけは言いたい 作家・半藤一利さん・89歳  毎日新聞

2022年01月13日 | SNS・既存メディアからの引用記事

一部引用・・・

 「今の上皇陛下は戦争体験がおありだからね。これまで何遍か、吹上御所でご夫妻とお話ししたことがありますが、例えば沖縄について、琉球処分から戦史、今日のことまで、私が知っているよりも、はるかに陛下はご存じでした」

 実は半藤さん、昨年の終戦記念日に秋篠宮家の長男悠仁さまに昭和史を講義していた。5日前に広島の平和記念公園を私的に訪れたばかりの悠仁さまから「なぜアメリカは広島に原子爆弾を落としたんでしょうか」と質問されたという。「秋篠宮さまも私の書いた本『あの戦争と日本人』を手に、『統帥権とは本当にどういうものだったのでしょうか』などと熱心に尋ねられた。改めて天皇家はこんなに勉強なさっているのかと驚きました」。こうした不確定な時代において、国民統合の象徴として、天皇の存在意義が一層大きくなるのでは、と半藤さんは見ている。

 <世の中は地獄の上の花見かな>。北方領土を巡る衆院議員の「戦争」発言など、どこか政治のたがが外れているように思えてならないと私が言うと、小林一茶の句を教えてくれた。

 「近ごろこんな感じでしょ。政治家のレベルが落ちたのは、国民の意識が劣化したから。荘子は『生に涯(はて)あり、されど知に涯なし』と言いました。ネットですぐに分かった気になっても、そんなもんじゃない。たちまち人生が終わっちゃうよ。自分で考えないとね」


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2019年6月24日掲載

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『追悼再録』  半藤一利さんの自伝の最後のページにあった言葉     『生に涯(はて)あり されど知に涯なし』     

2022年01月13日 | 乱読は楽しい





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2020年3月2日掲載

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1月12日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年01月13日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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