紀州湯浅の垣内の「金山寺味噌」。この味噌は炊いた野菜にでも生野菜にでもよく合う優れもの。
購入した惣菜パックの「ひじき、おから、鶏のレバー煮」もこうして盛り付けるとそれなりに肴になる。
紀州と房州は古い時代から黒潮の流れに沿って人が行き来してきた同一文化圏だ。だから千葉県にも金山寺味噌はある。
wikipediaから引用⇒金山寺味噌は、和歌山県、千葉県、静岡県等で生産されている味噌の一種。なめ味噌の一種。径山寺味噌(きんざんじみそ)とも書く。
和歌山県の特産品として和歌山県推薦優良土産品に指定されているほか、千葉県でも特産品、推奨土産品として扱われている。
概要
大豆・米・麦・野菜等から作られ、熟成期間は短いものでは1週間、長くても3ヶ月である。調味料としては用いられず、おかずや酒の肴としてそのまま食べる。
まず、炒った大豆を引き割り、これに麦こうじと塩を合わせ、塩押ししたウリ、ナス、ショウガなどを刻んで混ぜて仕込み、さらにウイキョウ、サンショウ、シソなどを加え、密閉して3ヶ月ほど熟成させる。
その由来については、宋での修行から帰国した鎌倉時代の僧、心地覚心(法燈国師)が1254年に帰朝し、請われて紀州由良(現:和歌山県日高郡由良町)の鷲峰山興国寺の開山となったため、その近傍の湯浅(現:和歌山県有田郡湯浅町)に伝えた「径山寺(きんざんじ)味噌」が起源とする説が有力だが、空海(弘法大師)が唐の金山寺から持ち帰ったとする説もある。江戸に広まったのは、紀州徳川家から徳川吉宗が8代将軍となり、幕府に献上させたからだと考えられている。 2008年3月20日、和歌山県岩出市の根来寺旧境内から、約430年前の金山寺みそが見つかった。引用終わり。
千葉県野田の醤油もルーツは和歌山県だ。漁師の漁法も祀られている神様も同じ。大きな商家はつい最近まで和歌山と千葉の両方に家を構えていたものだ。
和歌山県と千葉県のつながりはこちら。
参考:『コンニャク屋漂流記』解説
『
コンニャク屋漂流記』 (星野博美 著)
一部引用・・ 出発点となったのは、父方の祖父が遺した手記だった。星野さんは十五年前にその「古びた便箋やノートの束」を預かったものの、これまであえて封印してきた。そこに記されている内容が、自分自身の根っこに深く関わるものであると想像がつくだけに、軽々に手を出したくないという思いがあったのだろう。親戚のおばあさんの葬儀に出て、ふと「親戚の多くが鬼籍に」入りつつあることに気づいたとき、星野さんはその手記と初めて向い合い、一族のルーツを探る調査を開始する。その調査は、四百年におよぶ時空の広がりの中へと著者を導き、読者もまた興味津々の展開に瞠目させられることとなる。
何しろ、「?」と思わず首をひねってしまうような謎が何度も浮上してくる。早い話が、表題にもなっている「コンニャク屋」だ。亡き祖父・量太郎は千葉の外房、岩和田という漁師町の漁師の出だが、その屋号がなぜか「コンニャク屋」なのだという。著者はこれまでその屋号にまったく疑問を持たずにきた。当事者とはそういうものだろう。当たり前に思えていた事柄をいざ考え直してみると、そのとき、物事にはすべてそれなりの由来があったのだという真実が迫ってくる。この本はそうした瞬間に満ちている。ちなみに「コンニャク屋」とはかつて、おでん屋をやっていたことがあったところからきた名前だった。
・・・・中略・・・・
量太郎は岩和田から同郷の先輩を頼って十三歳で上京し、やがて五反田で町工場の経営に乗り出し成功した。誠実な筆致に人柄のにじむその手記の記述にみちびかれて、星野さんは漁師町を尋ね、東京の街を歩き、史書も参照しながら探訪を重ねる。やがて、千葉・岩和田の住民が元々は紀州から船でやってきたことが判明する。そこで浮き彫りになるのは、日本の漁師が懸命に生き抜いてきた近世史の実態である。魚群を追いかけて遠征し、よりよい生活を求めて果敢に海を渡った漁師たちの軌跡がよみがえるのだ。江戸時代の幕藩体制は彼らを過酷にしめつけた。それでもなお力を合わせて活路を開いた、へこたれない者たちの姿が、ページの上に躍動し始める。自分の家の先祖探しという個人的な動機から出発して、大きな歴史の潮流をとらえた点に、本書の功績があることはまちがいない。引用ここまで。全文は
こちら。
余談ながら阿智胡地亭の父の生家の屋号は「ハナビヤ」と言う。父が生まれた当時の家業は仕立て屋だった。仕立て屋なのに屋号が「ハナビヤ」。
何故?そこから阿智胡地亭の我が家の歴史探しが始まったので、この「コンニャク屋漂流記」は面白く読んだ。
「ハナビヤ」と店名をつけた洋服仕立て業の祖父は俳人でもあった。祖父の句集はこちら。