清沢冽は中外商業新報(現日本経済新聞)や東京朝日新聞の記者をしたジャーナリスト。 1945年5月21日、戦後を見ることなく、肺炎のため55歳で急逝する。死の4ヶ月前の日記には戦後日本への遺言のような言葉がある。 ○「元来が、批判なしに信ずる習癖をつけてこられた日本人」 (1945年4月17日 同) 「詰め込み教育の危険なのは、物を批判的に見ず、ある既成概念を固守する結果、社会的に討議して、漸進的進歩をとるということが困難だ」 (1935年 論文「現代日本論」) |
2010年09月05日(日)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
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