ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

中村屋のボース・インド独立運動と近代日本のアジア主義  中島岳志

2011-06-28 23:26:11 | Book


ラース・ビハーリー・ボース(1886年3月15日~1945年1月25日)について、中島岳志が丹念に資料にあたり、ボースの娘「哲子」の協力のもと、書きあげた著書である。

この本を開くことになったのは、実は「インド独立運動の闘士ボース」「1915年・日本への亡命」、新宿中村屋に身を隠し、極東の地からインド独立を画策。
さまざまな「アジア主義」の日本の思想家たちの協力。そして最も大きな力となったのは「新宿中村屋」主人の「相馬愛蔵」と、その妻「黒光」であったこと。
さらに、ボースは夫妻の娘「俊子」と結婚。そして生まれた「哲子」「正秀」という2人の子供たち。
アジア主義と日本帝国主義の狭間で引き裂かれた生涯。「大東亜戦争」の意味とナショナリズムの功罪。などなどへの興味ではなかった。

  *    *    *

わたくしの少女期から思春期に、亡父が繰り返し語っていた、若き日の苦学生だった父の思い出話によく登場した「新宿中村屋」と「カリー」について
確かめたくなったというのが本当のところです。
たとえば1番よく覚えているお話には、貧乏な学生が中村屋を訪れて、食事を注文したとします。
すると、注文を厨房に伝えるメニューに「書生さん」という幻のメニューがあって、「書生さん、一丁!」と伝えられます。
(ボースを助けた相馬愛蔵の心意気が、こんな面にも見え隠れしますね。)
そして出されたものは、大盛りご飯とたくさんの福神漬だったとのこと。「カリー」はお金にゆとりがある時のメニューだったとのこと。

苦学生だった父は何度その「カリー」を食したのだろうか?
それから、淀橋警察署まで行く。
講道館で柔道3段だった父は、そこで警察官に柔道指導のアルバイトもしたらしい。
勿論家庭教師もやった。その時学長が我が校の学生に支払われている教師料を調べる。
そして、それが安い場合、学長自ら「我が校の学生には、もっと支払うべき。」という通達をその家庭に出す。
そうして若き苦学生だった父は無事卒業となる。

しかし、父は1つだけ思い違いをしていました。
父は福島の相馬から上京しました。相馬は「相馬中村藩」があったところです。
相馬愛蔵(信州の安曇野出身です。)という名前と「中村屋」という屋号とが繋がって、
父は福島の相馬にゆかりのある方のお店だったと勘違いしていたようです。
ですから、長い間わたくしもその勘違いをつい最近までしていました。

  *   *   *

しかしながら、せっかくこの本を読んだのですから、少しだけ書いておきます。
ボースの望んだことは「インドの独立」と「アジア全体の結束」とイギリスをはじめとする欧米社会の「帝国主義」への抵抗だった。
しかし亡命先の日本は中国や朝鮮などと決して対等になることなく、「帝国主義」へ向かったのではないか?
ボースは祖国へ帰ることもできず、どんなにか辛いことだったか。しかし武器を持つことも辞さない活動家であり、
日本滞在期間が20年を過ぎて、彼は日本国籍を取得し、日本政府への関与も視野にいれていたと思える。
そして1945年1月25日、インド独立の夢を果たせず、また日本の敗戦をみることもなく58年の生涯を閉じる。
さらに1947年8月15日(日本敗戦のちょうど2年後。)ボースの祖国インドはパキスタンと分離する形で独立する。

ここで、もう1人の指導者に登場していただこう。


私は、あなたがた日本人に悪意を持っているわけではありません。あなたがた日本人はアジア人のアジアという崇高な希望を持っていました。
しかし、今では、それも帝国主義の野望にすぎません。そして、その野望を実現できずにアジアを解体する張本人となってしまうかも知れません。
世界の列強と肩を並べたいというのが、あなたがた日本人の野望でした。
しかし、中国を侵略したり、ドイツやイタリアと同盟を結ぶことによって実現するものではないはずです。
あなたがたは、いかなる訴えにも耳を傾けようとはなさらない。ただ、剣にのみ耳を貸す民族と聞いています。それが大きな誤解でありますように。
 (あなたがたの友 ガンディーより)


(マハトマ・ガンディーは1942年7月26日に「すべての日本人に」と題する公開文書を発表した。)


(2005年・白水社刊)