哈爾濱
今日もまた天日昏し蒙古風 狼山(我が亡父の俳号)
いきなりこの拙句を出すことをお許し願いたい。この本を読む途中から思い出して、とうとう最後まで頭を離れることがありませんでした。
このエッセー集は、小説「天府 冥府・2005年7月7日・講談社刊」を
書かれた詩人財部鳥子さんにとっては、「天府」の時代のみを旅した室生犀星の「満州」と、「冥府」までを幼い目で見てきた彼女の「満州」との
大きな時間の経過と、またそこに時を超えて共通する「黄砂」「広大な大陸」のイメージとが交錯した形で書かれています。
子供時代を「ジャムス」で暮らしていらした財部さんにとっても「哈爾濱」は大都会だったようです。
「哈爾濱」はロシアによってつくられた街であり、満州のなかで異国のような魅力あるところであったのだろう。
内村剛介も「哈爾濱学院」の退学を思い留まらせたのは「哈爾濱」という街の抗し難い魅力にあったという。
この本は、時には財部鳥子さんの「冷徹」とも思える犀星への視線が感じられます。
室生犀星が書いた「哈爾濱詩集」や満州を舞台にした小説は、「敗戦国日本」の時代ではないし、短い旅なのですから。
室生犀星の満州への旅(1937年)は、朝日新聞連載小説「大陸の琴」のためであったらしい。(これが犀星唯一の海外旅行である。)
この旅のために、犀星はこれも生まれて初めて「背広上下、Yシャツ、コート」を新調している。
洋服を着たことのなかった犀星は、この苦痛にも耐える旅だったらしい(^^)。
わたくしが「満州」「哈爾濱」に拘るのは、父が大学卒業と同時に「哈爾濱」へ行ったからです。
そして母はまさに「大陸の花嫁」として、父のもとへ嫁いで、敗戦、引き揚げを経験しているからです。
教師だった父には当然たくさんの教え子がいます。同僚もいます。
そういう方々も含めて、1度でも敗戦前の満洲…とりわけ「哈爾濱」で暮らした者にとっては、
そこは故郷のようになつかしい場所となるようです。敗戦ののちにもそれは変わらないのです。
母は頻繁に「マーチョ」に乗って、「キタイスカヤ街」へ買い物に行っていたようです。
幼い頃から、「哈爾濱」の思い出話ばかり聞かされて育ったわたくしにとっても、特別な故郷のようです。
(記憶は皆無ですが…。)
そして小さな島国、湿度の高い文化や風景に比べて、
数日かけて「黄砂」や「広大な風景」を通り過ぎてのちに、辿りついた「哈爾濱」という都会は驚くべきものであっただろう。
そこは「ロシア」の風景であった。
室生犀星が青春期に親しんだロシア文学への思いも重なってくるのは当然のことだったろう。
「詩は美しい若者が書くもの」と決めて、詩を離れ小説に越境していった犀星に「哈爾濱詩集」を書かせる魔力があったということか?
犀星が満州の行く先々で、新聞社の案内で行くところは、大方女性のいる(かなりきわどい)酒場であった。
そこで働く女性たちの社会的立場はひどく低いものであった。
ここでまた、父の話になるが、「哈爾濱」取材に訪れた、某作家の案内役を依頼されたという話がある。
父が連れていったところは、もとは修道院、今は酒場という場所で、そこを舞台に小説が書かれている。
……というわが一族の伝説もある。。。
一体わたくしはなにを書きたかったのか?混乱しているままで御免。
(2011年8月30日・書肆山田刊)
今日もまた天日昏し蒙古風 狼山(我が亡父の俳号)
いきなりこの拙句を出すことをお許し願いたい。この本を読む途中から思い出して、とうとう最後まで頭を離れることがありませんでした。
このエッセー集は、小説「天府 冥府・2005年7月7日・講談社刊」を
書かれた詩人財部鳥子さんにとっては、「天府」の時代のみを旅した室生犀星の「満州」と、「冥府」までを幼い目で見てきた彼女の「満州」との
大きな時間の経過と、またそこに時を超えて共通する「黄砂」「広大な大陸」のイメージとが交錯した形で書かれています。
子供時代を「ジャムス」で暮らしていらした財部さんにとっても「哈爾濱」は大都会だったようです。
「哈爾濱」はロシアによってつくられた街であり、満州のなかで異国のような魅力あるところであったのだろう。
内村剛介も「哈爾濱学院」の退学を思い留まらせたのは「哈爾濱」という街の抗し難い魅力にあったという。
この本は、時には財部鳥子さんの「冷徹」とも思える犀星への視線が感じられます。
室生犀星が書いた「哈爾濱詩集」や満州を舞台にした小説は、「敗戦国日本」の時代ではないし、短い旅なのですから。
室生犀星の満州への旅(1937年)は、朝日新聞連載小説「大陸の琴」のためであったらしい。(これが犀星唯一の海外旅行である。)
この旅のために、犀星はこれも生まれて初めて「背広上下、Yシャツ、コート」を新調している。
洋服を着たことのなかった犀星は、この苦痛にも耐える旅だったらしい(^^)。
わたくしが「満州」「哈爾濱」に拘るのは、父が大学卒業と同時に「哈爾濱」へ行ったからです。
そして母はまさに「大陸の花嫁」として、父のもとへ嫁いで、敗戦、引き揚げを経験しているからです。
教師だった父には当然たくさんの教え子がいます。同僚もいます。
そういう方々も含めて、1度でも敗戦前の満洲…とりわけ「哈爾濱」で暮らした者にとっては、
そこは故郷のようになつかしい場所となるようです。敗戦ののちにもそれは変わらないのです。
母は頻繁に「マーチョ」に乗って、「キタイスカヤ街」へ買い物に行っていたようです。
幼い頃から、「哈爾濱」の思い出話ばかり聞かされて育ったわたくしにとっても、特別な故郷のようです。
(記憶は皆無ですが…。)
そして小さな島国、湿度の高い文化や風景に比べて、
数日かけて「黄砂」や「広大な風景」を通り過ぎてのちに、辿りついた「哈爾濱」という都会は驚くべきものであっただろう。
そこは「ロシア」の風景であった。
室生犀星が青春期に親しんだロシア文学への思いも重なってくるのは当然のことだったろう。
「詩は美しい若者が書くもの」と決めて、詩を離れ小説に越境していった犀星に「哈爾濱詩集」を書かせる魔力があったということか?
犀星が満州の行く先々で、新聞社の案内で行くところは、大方女性のいる(かなりきわどい)酒場であった。
そこで働く女性たちの社会的立場はひどく低いものであった。
ここでまた、父の話になるが、「哈爾濱」取材に訪れた、某作家の案内役を依頼されたという話がある。
父が連れていったところは、もとは修道院、今は酒場という場所で、そこを舞台に小説が書かれている。
……というわが一族の伝説もある。。。
一体わたくしはなにを書きたかったのか?混乱しているままで御免。
(2011年8月30日・書肆山田刊)