ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

思い出袋 鶴見俊輔 (その3)

2011-02-13 13:34:13 | Book



「5・そのとき」のなかの「大きくつかむ力」より。

1941年、ハーバード大学3年の鶴見俊輔(日本人留学生は彼のみ。)は、在米日本大使館の「若杉公使」から、
日本への引き揚げを勧める手紙を受け取った。
彼の後見人の「アーサー・シュレジンガー(シニア)」と、すでに卒業して、同校の講師である「都留重人」との相談となった。
日米戦争についての見通しは、「都留重人」は「ならない。」鶴見俊輔は「なる。」と。
その時、「アーサー・シュレジンガー(シニア)」は、日本開国までの時代をさかのぼり、
その時代の指導者は、小さな貧しい国を指揮して、大国に負けない今日の一つの国というところまで、舵取りをしてきた。
そのような賢明な国の指導者が、負けるとわかっている戦争をするはずがない、という見解だった。

「ならない」はたしかに間違っていたが、「アーサー・シュレジンガー(シニア)」の考え方は基本的には間違っていない。

まず、「若杉公使」の忠告通り、大学の籍を抜いてアメリカ西岸に移動していたらどうなったか?
引き揚げ船は西岸まで来なかった。
船長は訓令により、太平洋上から日本に引き返したのだ。
1942年鶴見俊輔は東ボストンの留置場にいた。

「アーサー・シュレジンガー(シニア)」の考え方に沿って、彼は考えた。
200年前の「渡辺崋山」「高野長英」
150年前の「横井小楠」「勝海舟」「坂本龍馬」「高杉晋作」
100年前の「児玉源太郎」「高橋是清」さらに「夏目漱石」「森鴎外」「幸田露伴」
これらの方々は時代を大づかみする見識を持っていた。

その当時も現代においても、日本の官僚たちは200年の日本のおおまかな位置づけを離れて、
細かい情報処理のなかで、日米の舵取りをしているのではないか?
このもともとの病源は日本の大学教育にあると指摘している。

以上が80歳を越えた鶴見俊輔の、現代への警告と思えます。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。