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ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

オルフォイスへのソネット第一部・16

2009-11-21 22:50:55 | Poem
友よ おまえは孤独だ、なぜなら・・・・・・。
私たちは言葉と指さすことで
徐々に世界を自分のものにしてゆく、
おそらく そのもっとも弱く危うい部分を。

だれが指で匂いを指し示せよう?
だが 私たちはかつて脅かした力の多くを
いまもおまえは感じ取っている。・・・・・・おまえは死者たちを知っている、
そしておまえは呪文におびえる。

いや 実はともに私たちは堪えるべきなのだ、
さまざまな断片や部分を それが全体であるかのように。
おまえを助けることは難しいだろう。何よりも、おまえの心に

私を植えつけないように。たちまち私は成長してしまうから。
だが私の主の手をみちびいて 私は彼にこう言いたい――
ほら これが毛皮をつけたエサウです と。

 (田口義弘訳)


 リルケの妻クララへの手紙、またジッツォー伯爵夫人への手紙に記されていたものからわかるように、このソネットで「友よ」と呼びかけられているのは「一匹の犬」です。リルケは大変犬好きでした。

 犬は人間と親密な関係にあります。さらに犬は人間と動物との境界におかれている存在とされています。犬は動物として下層の実在界を故郷としながら、人間の意識の働く上層の現実界に迷い込んでしまった存在なのでした。
 この犬と「エサウ」は同一化されていると考えてもいいのではないか?しかし、リルケは兄の「エサウ」と弟の「ヤコブ」とを取り違えているのではないのか?という説もあります。この双子の兄弟の盲目の父「イサク」の祝福を兄にではなく自分で受けたいがために、獣のように毛深い「エサウ」に見せかけるために、毛皮を被って盲目の父親を騙したのは「ヤコブ」でしたから。

 リルケの「新詩集・別巻・・・・・・我が偉大なる友 オーギュスト・ロダンに捧ぐ・1908年」のなかにこのような詩があります。1907年、パリにて書かれた下記の詩は、犬そのものでありますが、また芸術家そのものでもあると。当時のリルケを知る上では重要な作品とのことです。


犬   (塚越敏訳)

あの上層では 眼差しからなる一つの世界の像が
絶えず あらためられては 罷り通っている。
ほんのときたま 密かに事物が現れて 彼のそばに立つ、
そうしたことも 彼がこの世界の像をおし分けてすすみ、

下層にいたって ちがった彼になるときに起こるのだ。
突きはなされてもいないが 組みいれられてもいない彼は
まるで疑念をいだいているかのように 自分の現実を
彼が忘れている世界の像に 手渡してしまう、

疑っているにもかかわらず 自分の顔を差し出しておくために。
哀願せんばかりの顔をして、ほとんど 世界の像を
理解しながらも 世界の像に通じるや 思い切ってしまうのだ。
もし通じるなら 彼は存在しなくなるであろうから。


追記
「ドゥイノの悲歌・8」も参照されたし。長いので省きました。すみませぬ。

贈答のうた  竹西寛子

2009-11-21 01:47:41 | Book

 この本は5年ほど前に購入したものですが、以下の文章はこの著書の「はじめに」のなかから抜粋しました。大変に魅力的な導入の言葉です。ぽちぽちと読んで楽しんでいます。しかし大切な本になるであろうというたしかな予感があります。

  *    *    *

 『物や事に感じて平静を乱された時に、その心の揺れをととのえようとする手立ては人次第であろう。何によって惹き起こされた心の揺れか、その原因と、人それぞれの性情や素養との関係によって、手立てのあらわし方もおのずから定まってゆく。もし仮りに言葉を頼むとすれば、言葉は原因との折り合いをつけようとする働きの中に、誰かに向って、あるいは何かに向って訴えようとする働きも兼ねることになろう。
 人は又その心の揺れを、沈黙に封じ込め得る存在である。けれども私がこれから付き合ってゆこうとしているのは、沈黙を守り通せなかった人々であって、頼られている言葉は詩歌、すなわち「うた」が中心である。』


  『うたはあのようにも詠まれてきた。』


  『人はあのようにも心を用いて生きてきた。』


  *    *    *


 取りあげられたものは「勅撰和歌集」「伊勢物語」「蜻蛉日記」「和泉式部集」「和泉式部日記」「源氏物語」「建礼門院右京大夫集」「長秋詠藻」長秋草」「拾遺愚草」などに見られる「相聞」「問答」の歌を集めたものです。たとえば「伊勢物語」では、このような歌のやりとりがあります。

梓弓ま弓つき弓年を経てわがせしがごとうるわしみせよ   男

梓弓ひけどひかねど昔より心は君によりにしものを     女


(講談社刊・2002年第一刷、2004年第二刷)