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ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

「戦」の「後」であり続けるために

2015-01-07 15:54:58 | Memorandum

2015年元旦の朝日新聞より。遅くなりましたがここに記しておきます。


大江健三郎が示した「渡辺一夫」の言葉です。


《「狂氣」なしでは偉大な事業はなしとげられない、と申す人々も居られます。
それはうそであります。「狂氣」によってなされた事業は、必ず荒廃と犠牲を伴います。
真に偉大な事業は、「狂氣」に捕えられやすい人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によって、誠実に執拗に地道になされるものです。》




さらに、歴史家のジョン・W・ダワーの言葉を掲載しておきます。


《うちひしがれた日本(注・1945年)は、このような凄まじい状況のなかで、
再出発の難行に立向かい、新憲法に具体化された「平和とデモクラシー」の理想に、
社会のあらゆる層の人びとが奮いたったのでした。
政治やイデオロギーの衝突は戦後日本にいつもありました。
しかし、実に多くの日本人が豊かで平和を愛する社会を懸命に創りあげた、
その草の根の回復力、規律、反戦の理想は、どれほど称賛してもしつくせるものではありません。



女児として育てられたリルケ

2014-05-05 21:59:48 | Memorandum


この絵画は、イギリスの画家ジョシュア・レノルズ(1723~1792年)が最晩年の1788年に描いた「マスター・ヘアー」です。
2歳の「フランシス・ジョージ・ヘアー(1786~1842年)」の肖像画です。
このころの就学前の男児がみんなそうであったようにモスリンの女児服を着て、長い髪形ですね。
何故このような風習があったのか?
一説によれば、女児の方が男児よりも生命力が強いので、その願いからとも言われていますが……。



リルケは1875年生まれですから、これは1877年の写真ですね。
これは「マスター・ヘアー」のような考え方からきたものではなく、
母親ゾフィアの屈折した考え方からきたのではないかしら?
「ゾフィア」は裕福な商家に生まれ、フランスの血をひくと自称し、
大皇紀のような黒衣を好み、虚栄心が強く、凡庸な夫のとの生活に幻滅して、
「リルケ=ルネ」を連れて別居します。そこで女の子として育てられました。
「ゾフィア」は「リルケ」よりも長生きをしていますが、
彼の生涯にわたる影響力を持っていました。良きにつけ悪しきにつけ・・・・・・。



今度はオランダの画家「ヨハネス・フェルメール・1632~1675」と
同時代の「ピーテル・デ・ホーホ・1629~1684」の描いた「食料貯蔵庫の女と子供」です。
この子も実は男の子です。肩布と金のボタンで、男の子だとわかるのだそうですが、
帽子、ドレス、髪型は女の子ですね。


さてさて、こうして男児が女児の服装で育てられた真相ははっきりとはしませぬが。。。

20年五輪:IOC総会プレゼン 首相の発言要旨

2013-09-10 12:21:34 | Memorandum

毎日新聞 2013年09月08日 00時29分(最終更新 09月08日 01時58分)

毎日jpより


【ブエノスアイレス松尾良】国際オリンピック委員会(IOC)総会での安倍晋三首相の発言要旨は次の通り。

 【演説】

東京は世界で最も安全な都市の一つだ。それは今でも、2020年でも一緒だ。
懸念を持つ人もいるだろうが、東京電力福島第1原発について私は皆さんに約束する。
状況はコントロールされている。決して東京にダメージを与えない。
オリンピックが安全に行われることを保証する。財政的にも整っている。
開催地に東京を選べばオリンピックムーブメントに新たな強い息吹を吹き込むことになる。
IOCと力を合わせ、世界をよりよい場所にしていこうと思っている。

 【質疑】

(汚染水問題は)結論から言って全く問題ない。事実を見てほしい。
汚染水による影響は福島第1原発の港湾内の0.3平方キロメートルの範囲内で完全にブロックされている。
近海でモニタリングしているが、数値は最大でも世界保健機関(WHO)の飲料水の水質ガイドラインの500分の1だ。
日本の食品や水の安全基準は世界で最も厳しい。健康問題については、今までも現在も将来も全く問題ないと約束する。
さらに完全に問題のないものにするため抜本解決に向けたプログラムを決定し、着手している。
日本の首相として(子どもたちの)安全と未来に責任を持っている。
日本に来るアスリートにも責任を持っている。その責任を完全に果たす。


* * * * *


なるほど。福島原発に国が積極的に関与し始めた動機はここにあったのか。
「東京と福島は2000キロ以上離れているので問題はない。」という発言もあったけれど、いかがなものか?
つまり、福島でブロックされているから東京は大丈夫という発想なのか!
「日本」という発想はないのね。日本の首相よ!

万緑叢中紅一点

2013-06-25 00:24:29 | Memorandum


ほとんど「耳にタコ」のお話なのですが、覚書として書いておこうか。
柘榴の花が散ってしまう前に。

近所に柘榴の樹があります。
散歩や買い物やあるいは病院に行く時には必ずそこを通ります。
紅色の花の季節になると、同行者が何度も同じおはなしを繰り返します。
初めて聞いた時には「そうだったの!」と、いたく感激したものでしたが……。

この様子を「紅一点」と言うことの語源は
中国の王安石の詩「詠柘榴」のなかに「万緑叢中紅一点・ばんりょくそうちゅうこういってん」という一節に由来する。
豊かな緑の中に咲いた一輪の柘榴の紅い花という情景である。

初夏の万緑のなかに、石榴の紅い花が咲く様子は、たしかにはっとするものがあります。
他に紅い花は見当たりませんし。

それが、いつのまにか男性ばかりの中にいる一人の女性という意味に使われたり、
多くの者のなかで、異彩を放つ者という意味になっていったということでした。

ちなみに、柘榴は中国から渡来した落葉喬木です。

今年も同行者の「御説?」により、「耳のタコ」がふとりました(笑)。


   柘榴咲く市井にかくれ棲みにけり   (高橋淡路女)

大江健三郎・水死 (三椏)

2010-03-24 21:38:51 | Memorandum
   

 3月17日、東京国立近代美術館にて「生誕120年・小野竹喬展」を観たあとで、近くにある「北の丸公園」を散歩しましたが、まだ桜は咲いていませんでした。しかし「三椏」と「山茱萸」に出会いました。よくよく考えてみましたが、恥ずかしながらわたくしは初めて「三椏」の実物に出会ったような気がします。
 「季寄せ・草木花」や「植物辞典」やネット画像で見ていただけのようです。もちろん下手な写真を撮りましたが。

 その翌日から、大江健三郎の「水死」を読みはじめましたが、なんと主人公の老作家「長江古義人」の父上は村人の「栗」や「柿」の副業に「三椏」の栽培を奨励していたと書かれていました。「三椏」は紙幣を印刷する紙の原料で、内閣印刷局に納入するとのことでした。それらの紙漉きに必要な機械や道具なども父上が考案されたのだとか。ただし、これはあくまでも私小説ではありません。

 人間が長く生きていて、何が1番面白いか?と言えば、それはこうした「偶然」の出会いではないでしょうか?現実においても、書物の世界においても。まぁ、それだけのことですが、それだけが特別にもなるのだわ♪

    

 では、読書感想文(?)は後ほどに(^^)。

老文学者の言葉

2010-03-15 18:32:38 | Memorandum
 さて、どのように書いてゆけばよいのやら・・・。

 考えをまとめようと思ったきっかけは、NHKの2つのテレビ番組でした。まずは、3月11日PM8:00~9:30、NHKハイ・ビジョンで放映された「作家・大江健三郎」、そして14日PM10:00~11:30、NHK教育テレビの「ETV特集」「吉本隆明語る」という講演を主とした番組で、これを企画したのは「糸井重里」でした。

 前者は司会進行のアナウンサーの問いに答える形でしたので、その制約のなかでのインタビューでしたので、危なげのない結果となっていました。大江健三郎の過去の三部作である
「さようなら、私の本よ!」
「取り替え子・チェンジリング」
「憂い顔の童子」
の続編とも言える「(らふ)たしアナベル・リィ総毛立ちつ身まかりつ」「水死」の2冊を書いた動機とその経過のお話でした。

 しかし、後者は大ホールでの講演が主体でした。吉本が取り上げた先人たちの紹介なども取り込んであって、テレビ番組内では1時間半でまとめられていますが、当然現実には時間オーバーの講演となりました。聴いていてもどかしいのですが、その言葉の裏にある彼の文学者としての長い日々の重さがあると思うので、離れることはできません。長い講演のあとで、ホールの聴衆は総立ちとなって拍手が長く続きました。わたくしも拍手!

 「老人は同じことを繰り返し、若者たちは言うことが何もない。退屈なのはお互いさまだ。」という「ジャック・バンヴィル」の言葉を思い出す。(←ごめんなさ~い。)

 もちろん、このお2人のお話はしっかりと聴きもらすまいとしておりましたよ。しかし大江健三郎と吉本隆明のお話は、今これを書こうと思ったきっかけであって、もっと以前から、もわもわと考え続けていたことに1つの回答を頂いたということなのです。
 ここ数年来(おそらく詩集「空白期」を出したあとから・・・)、「次に何を書いてゆけばいいのだろうか?」と考えていました。年々重なり続ける年齢(あたりまえだが・・・。)の重さ、老父母の死を見守った日々の思い出、生まれでた幼いいのちの輝くような成長ぶり、などなどさまざまなものが入り乱れる日々のなかで。


 吉本隆明(83歳)と大江健三郎(75歳)が、文学的思考の出発点となったものは、ともに「1945年8月15日」の記憶でした。「敗戦」が問題だったのではない。思考の根幹を絶ち切られた吉本青年と大江少年が、なんとかして新たに思考の根幹を獲得して、大地に立たせ、言葉の収穫を待つことに費やされた歳月がともにあったと言うことです。
 その時、お2人はどのようになさったのか?それは過去の古今東西の哲学者、経済学者、文学者の著書を読み続け、音楽家にも学びとろうとしたこと。いきなり前へ歩き出そうとはしなかったということです。そこから考えると、すでに過去の優れた人間たちの思考は今を予感していたのだ。つまり「普遍」とはそういうことでせう。

 ふと詩人清水昶の著書「ふりかえる未来」という言葉が浮かぶ。

 「未来」は追うものではないようだ。過去の豊かな堆肥のなかに根をおろし、幹を伸ばすもののようだ。吉本隆明は「木と根は沈黙である。」とおっしゃる。そして枝先にはためく葉、咲く花、実るものが「言葉」なのだろうか?リルケの「オルフォイスへのソネット」の解釈を続けたことも無駄なことではなかったようだ。


 「この世のどんな些細なことでも予断を許さない。人生はそんな小さなことも、予測できない多くの部分から組み合わされている。」・・・リルケの「マルテの手記」より。

ASAHI Journal?!

2009-12-26 02:42:02 | Memorandum
 2009年4月発行された「朝日ジャーナル」は、「復刊か♪」と一瞬思わせながら、実は「週間朝日緊急増刊」として発刊されたものでした。続いて11月に「朝日ジャーナル別冊」として発刊されたものも「復刊」ではなかった。この2冊を目の隅の方で意識しながら、日々は過ぎてようやく書棚から引き抜いた次第です。来年にならないうちに。

 4月に出された前者には、冒頭に「週間朝日編集長」の挨拶が記されています。実はこの計画はもっと以前に企画されていた。2007年3月の「週間朝日」に綴じ込みの「ブック・イン・ブック」という形で、24ページだけの「ジャーナル」があったのです。そしてその後に何故2冊の「朝日ジャーナル」復刊もどきがでたのか?それはまさに「今の日本全体が未曾有(←みぞゆう、ではないですよ!)の危機」にあるからでせう。「わかりやすさ」ばかりが求められる時代ですが、時代そのものはわかりやすい状況ではない。むしろ非常にややこしい。それには「知の復権」が待たれる。その願いが込められた2冊です。

 さて、そこまでの編集長の思いは理解したものの、どこから読めばいいのやら?目次を眺めていたら、なんと「水無田気流」の名前が目に飛び込んできました。彼女は魅力的な若き女性詩人です。これは「ゼロ年代の旺盛な創作活動を行っている4人からの発信」としての特集です。「水無田気流」「丸谷裕俊」「遠藤一郎」「澤田サンダー」・・・しかしわたくしは「水無田気流」しか存じ上げない。申し訳ないことではありますが、その上彼女の文章が一番輝いている。(内2名は「談」となっているしねぇ。)

 タイトルは「ビンボーブラボーの罠」。彼女の文章は期待を裏切ることはなかったが、たった1ページでは書ききれない思いだったのではないか?わたくしももっと読みたかった。残念だ。

 若い詩人にとって、今日の「社会の閉塞感、不安」だけでは括りきれない思いがあるでしょう。その対極には不透明で過剰な自由と開放を合わせ持つ時間があるわけで、そこから生み出される「詩」は、視界に写るものとして存在しないわけで、当然読み手不在となる。そして「詩人のビンボー化」となる。
 彼女の言葉を引用すれば「純粋な表現=大衆に媚びない=営利主義排除=ビンボーブラボー」となる。「ビンボーなランボー」→「地獄の季節」・・・・・・。

 近代化あるいは大衆化において、経済社会が自由になったことは庶民生活にとっては幸福なことだったろう。しかし芸術全般がパトロンを失い、ポピュラリティーを求められるという局面を迎える。つまるところ、近代からの詩人の宿命なのであって、「ゼロ年代」のみの問題ではないだろうと思う。


《おまけ》

 この雑誌の最終ページには「ネトゲ廃人・芦崎治」の著書の宣伝がありました。象徴的な若者世界の両極を見た思いがします。「ネトゲ廃人」に未来はあるのだろうか?彼らを待っているものはなにか?

ボードレールとリルケ

2009-12-15 02:41:39 | Memorandum
 これは個人的備忘録です。

 *   *   *

ボードレール    リルケ

ただひとり この詩人は 世界を一致させたのだ、
ひとつひとつのことで 崩壊してゆく世界を。
美なるものに 途方もない証明を与えたのだった。
なにせ おのれを苦しめるものを みずから賛美する詩人なのだから、
かれは 破滅を 無限に浄化したのだった。

破壊的なものもまた 世界となるのだ。

 (塚越敏訳・献呈詩1906~1926年より。)


 6行だけのリルケの書いた「ボードレール」への献呈詩と言えばいいだろうか?この詩の言わんとするところは、すべての現実に起こる否定的な出来事がすべて肯定されるということだろうなぁ?否定的なものを徹底的に否定することによって肯定できるということかなぁ。この1編の詩は「マルテの手記」にある1文と緊密に繋がっていますので、ここであえてメモを書いた次第です。

 *   *   *

 ボードレエルの「死体」という奇態な詩を君は覚えているか。僕は今あれがよくわかるのだ。おしまいの一節は別として、彼は少しの嘘も書いてはおらぬ。あんな出来事が起こった場合、彼はいったいどうすればよいのだ。この恐怖の中に(ただ嫌悪としか見えぬものの中に)あらゆる存在を貫く存在を見ることが、彼にかけられた負託だったのだ。選択も拒否もないのだ。(マルテの手記より。)


 この大山定一訳の「マルテの手記」のなかではタイトルが「死体」となっていますが、この詩は翻訳者によってさまざまなタイトルの翻訳がなされています。ボオドレエルの詩集『悪の華』のなかの「憂鬱と理想」の章に収められた作品で、「腐肉」「腐れ肉」「腐屍」といろいろな翻訳があります。さらに「ボードレール」も時代と翻訳者によって「ボードレエル」「ボオドレエル」と微妙に変化しています。

 *   *   *

腐肉    ボオドレエル  

戀人よ、想ひ起せよ、清かなる
  夏の朝(あした)に見たりしものを。
小徑の角の敷きつめし砂利の褥に
  忌はしき屍一つ。

淫婦のごとく、脚空ざまに投げやりて、
  熱蒸して毒の汗かき、
しどけなくこれ見よがしに濛濛と
  湯気だつ腹をひろげたり。

太陽は腐肉の上に照りつけて、
  程よくこれを炙りし、
「自然」の蒐めし成分を百倍にして
  返さむと務むるごとし。

大空はこの麗しき亡骸の
  花と咲く姿を眺め、
漂ふ臭気の烈しさに、危く君も
  草の上(へ)に倒れむばかり。

蝿(さばへ)の翼高鳴れる爛れし腹より
  蛆蟲の黒き大軍
湧きいでて、濃き膿のどろどろと
  生ける襤褸を傳ひて流る。

なべてこれ寄せては返す波にして、
  鳴るや、鳴るや、煌くや、
そことなき息吹に五體はふくらみて、
 生き、肥ゆるかと訝まる。

斯くて此処より立ち昇る怪しき樂は、
  流るる水か風の音(ね)か、
はた穀物を節づけて篩の中に、
  覆し、ゆする響か。

形象(かたち)は消えても今はただ一場の夢、
  ためらひ描く輪郭の、
畫布の面(おもて)に忘れられて、師は唯
  記憶をたどり筆を執るのみ。

巌かげに心いらだつ牝犬ありて
  怒れる眼(まなこ)にわれらを睨み、
喰ひ残せし肉片を、またも骸より
  奪はむと隙を窺ふ。

――さはれこの不浄、この凄じき壊爛に、
  似る日來らむ君も亦、
わが眼の星よ、わが性(さが)の仰ぐ日輪、
  君、わが天使、わが情熱よ。

さなり、亦斯くの如けむ、都雅の女王よ、
  終焉の秘蹟も果てて、
沃土に繁る草花のかげに君逝き、
  骸骨(むくろ)に雑り苔むさん時。

その時ぞ、おゝ美女(たをやめ)よ、接吻(くちづけ)をもて
  君を咬はむ地蟲に語れ、
分解せられしわが愛の形式(かたち)と真髄
  これを我、失はざり、と。

(齋藤磯雄訳 (悪の華・「憂鬱と理想」・29)

リルケ・散歩の途中で・・・

2009-12-11 20:20:49 | Memorandum
 リルケをちょっと本気で読んでみようと「ドゥイノの悲歌」を読み出したのがきっかけなのですが、最初は「手塚富雄」訳から入りました。しかしその時身近なをとこに「君には無理だ。」と言われて、おおいに憤慨したのですが、それに「すまぬ。」と思ったのかどうか?古井由吉の「詩への小路」という本を買ってくれたのだった。この1冊の後半部が「ドゥイノ・エレギー訳文1~10」だった。それから「マルテの手記」「ポルトガル文」「神さまの話」「若き女性への手紙」「オーギュスト・ロダン」から、「オルフォイスへのソネット」まで。

 そこで気付いたことですが、女性の翻訳者に出会えないことでした。わたくしはドイツ語ができませんので、このソネットに関しては2人の翻訳者に頼りました。「田口義弘」と「生野幸吉」でした。このお2人の註解を道標として、紹介されている、関連する詩や文章を探しながら、おぼつかない散歩をしている途中です。今は年末のため一旦中断しましたが、この空白期に見えてくるものがありました。

 日本におけるリルケ解釈はすべて男性であり、学者(詩人ではなく・・・)だということです。リルケ自身は「ポルトガル文」の翻訳、「若き女性への手紙」など、また妻の「クララ」にも多くの書簡が送られていますのに。一旦休憩に入ったことで、思わぬものが見えました。ここから振り返れば、「君には無理だ。」と言ったをとこの言葉が出発点であり、もしかしたらそれが結論かもしれませんね。そこを振り切って最後まで行けるか?男社会は根強い?

オーギュスト・ロダンとカミーユ・クローデル

2009-12-09 22:18:48 | Memorandum
 「ロダン・1840~1917年)と「クローデル・1864~1943年」の2人はなんとも哀しい師弟関係であり、男女関係ですね。カミーユ・クローデルの弟(ポール・クローデル)は外交官であり詩人でもありましたが、その彼の優しい詩行が思い出されます。


ぼくには心地よい両手がある
あなたにはわかっているはず


 「カミーユ・クローデル」は子供の頃から彫刻に親しみ、優れた才能を発揮して、さらに美しい女性でした。19歳の時に彫刻家「オーギュスト・ロダン」の弟子となる。その時「ロダン」は41歳。二人は次第に愛し合うようになるが、ロダンには内妻「ローズ」がいたのだった。

 「ロダン」は二人の女性のどちらかを選ぶことはできない。「ローズ」の母性、「カミーユ」の若さと美貌と才能は「ロダン」のミューズのような存在であった。「カミーユ」は「ロダン」の子を堕胎、2人は破綻をむかえ、「ロダン」は妻のもとへ帰っていく。「カミーユ」は徐々に精神が蝕まれ、1913年、48歳の時に家族によってパリ郊外のヴィル・エヴラール精神病院に入れられた。その後第一次世界大戦の影響で南仏のモントヴェルク精神病院に移動させられ、そこが臨終の地になった。家族は冷淡であったとのこと。弟の「ポール」が数年に1度見舞うのみであった。しかし弟も結婚し、任地の上海へ向かった後は姉と会う回数が激減した。78歳没。

 精神を病んだ後、「カミーユ」は多くの作品を破壊しましたが、残された約90点の彫像、スケッチ、絵画は、死後の1951年「ポール」はロダン美術館で彼女の作品の展示を行った。

  *    *     *

 なぜここに「ロダン」を書いたのか?それはやはり「リルケ・1875~1926年」繋がりです。1902年、27歳の「リルケ」は、「ロダン論」執筆のために62歳の「ロダン」を訪ねています。それが1冊の著書となりました。論説、講演、書簡が収録されています。この本の冒頭には、こう書いてありました。


 『名声があがるまえ、ロダンは孤独であった。だが、やってきた名声は、ロダンをいっそう孤独にしただろう。つまり、名声とは、1つの新しい名前のまわりに集まるあらゆる誤解の総括にすぎないからである。
 ロダンをとりまく誤解はおおく、その誤解を解き明かすのは、時間のかかる、辛い仕事にちがいない。だが、そうする必要もないことだ。というのも、誤解は名前のめぐりにあるものであって、作品のめぐりにはないからである。』



 この執筆の時期は「マルテの手記」と重なっています。巨匠「ロダン」と青年詩人「リルケ」との出会いはこうして始まったようです。さらに「リルケ」の妻「クララ」も若い彫刻家でしたね。