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ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

詩はどこへ行ったのか

2009-11-25 16:13:10 | Memorandum

 このタイトルは今日の朝日新聞の「オピニオン」における、詩人の谷川俊太郎(1931年生まれ)のインタビュー記事です。聞き手は鈴木繁。この種の問いかけは、戦後の詩の歴史のなかで、ほぼ10年間隔で行われてきました。

 例えば一応詩壇の中心的な雑誌とされる「現代詩手帖」創刊50年祭の報告書とも言える、今年の8月号では、討論「これからの詩どうなる」でした。さらに9月号では「現代詩の前線・ゼロ年代の詩人たち」と続き、この「前線」ということもほぼ10年間隔で繰り返し企画されてきたように思います。さらにこの9月号の後半は「復刻版」でありまして「現代詩手帖・1982年11月号・・・詩はこれでいいのか」でした。これもその時代を代表する詩人たちです。すでに鬼籍にはいった詩人もいらっしゃいました。

 さてさて、この繰り返される問いかけ、彷徨う詩人たち(わたくしも???)それ自体が詩の歴史だったのではないでしょうか?誰も明確な答は出せないのです。今後もそうかもしれないと思っていました。

 しかししかし、ほぼ空白期間もなく60年間詩作を続けられ、(職業詩人として、商品としての詩を書くとまで明言できた唯一の詩人です。)の言葉は、わかりやすく、深く、やっと彷徨うことからひととき大樹の下に立ったような思いでした。

 谷川俊太郎は自らの詩人としての生き方を正しかったのだとは言っていません。批評の基準が共有されていない今日において、人気者である立場もよしとはしていません。詩は権力や財力のようなマスを相手にするものではなく、ミニマルな微小なエネルギーで働きかけていくものだとおっしゃいます。そして「ウイリアム・ブレイク」のこの詩を紹介しています。

一粒の砂に 世界を見
一輪の野の花に 天国を見る


  *   *   *

 以下は、新聞に書かれた谷川俊太郎の言葉の抜粋です。

 『詩は宇宙内存在としてのあり方にふれようとする。言語に覆われる以前の存在そのもをとらえようとするんです。秩序を守ろうと働く散文と違い、詩はことばを使っているのに、ことばを超えた混沌にかかわる』

 『ぼくは詩を書く時は、アホみたいに待ってるだけです。意味にならないモヤモヤからぽこっとことばが出てくる瞬間を』

 『まず、「社会的存在」として、経済的に自立する道を考えることを勧めます。今の詩人は、秩序の外に出て生きることは難しい』(←これは聞き手からの「詩人体質の若者は、現代をどう生きたらいいんでしょう。という質問に答えたものです。)

メモ・「孤島 ジャン・グルニエ」より。

2009-10-18 22:16:07 | Memorandum
 

 ジャン・グルニエ(1898年~1971年)はパリに生まれる。美学者、哲学者。

 「孤島・1991年改訳新版・井上究一郎訳・筑摩叢書」


 「オルフォイスへのソネット 第一部・3」について、ここ数日に渡って、さまざまなことを考え、また教えていただきました。特に「神殿」というものについて・・・・・・そこで、過去に書いたメモを思い出して、探し出してきました。ううむ。やはりメモは大事かもしれない。また書棚に本を戻してしまえば、どのページだったかを探さなければならない。この下記の引用文に、付記してある我が思いはあまりにも拙く、とても公表できるものではありませんが、引用文だけここに紹介いたします。『 』内の太字部分が「孤島」からの引用です。こうして過去に読んだ本と今読んでいる本とが、繋がってゆく幸福を思います。


神にはそれができる。しかし告げたまえ、どうして
人はその狭い竪琴を通って神に従ってゆけよう?
人の心は分裂なのだ。二つの心の道の交点に
アポロンのための神殿は立っていない。


 『大景観の美は、人間の強さにつりあわない。ギリシャの神殿が比較的小さいのは、それが人間たちの避難所として建築されたからだ。希望のない光り。度はずれた光景は人間たちを途方に暮れさせたであろう。』


おまえが歌ってきたことを。それは流れ去る。
真に歌うこと、それは別のいぶき。
何を求めもせぬいぶき。神のなかのそよぎ。風。


  『至上の幸福感は、悲劇的なものの頂点なのだ。激情のざわめきが最高潮に達するとき、まさにその瞬間に、魂のなかに大きな沈黙がつくられる。(中略)そのような瞬間のあと、ただちに、人生はふたたびもとにもどるだろう。――だが、さしあたってひととき人生は停止して、人生は無限に越える何物かにまたがるのだ。何か?私は知らない。その沈黙には多くのものが宿っている。そこには、物音も、感動も、欠けてはいない。』