生きる気配 髙田昭子
大きな水音をたてて
ざるを洗いながら
コトバもこぼしている
家人の声も聞こえない
窓辺のひかりのなか
引力の届きにくいものが漂っている
たとえば 老天使の抜け毛とか
花の綿毛とか
音とか声とかでもない
様々なざわめきのなかを
生かされているらしい
そのざわめきの一部は
私自身の想念でもあるらしい
日々を生きるとは
気配にすぎない
誰もが
日差しのなかで
月あかりの下で
逃げない影を引きずりながら
生きる気配 髙田昭子
大きな水音をたてて
ざるを洗いながら
コトバもこぼしている
家人の声も聞こえない
窓辺のひかりのなか
引力の届きにくいものが漂っている
たとえば 老天使の抜け毛とか
花の綿毛とか
音とか声とかでもない
様々なざわめきのなかを
生かされているらしい
そのざわめきの一部は
私自身の想念でもあるらしい
日々を生きるとは
気配にすぎない
誰もが
日差しのなかで
月あかりの下で
逃げない影を引きずりながら
小さな駅に電車が停まった
ドアーがきしみながら開くと
大きな蜂が車内に飛び込んだ
電車は時刻通りに走り出し
車内の人々は
前へ後へと波立った
すると、
頑丈そうなスポーツシューズを履いた若者が
窓ガラスにとまっている蜂を蹴って
(スゴイ!強くて柔軟な足!)
座席に落ちた蜂をつまみあげ
(アブナイヨ)
床に落とすと さらに踏みつけた
蜂は動かなくなって
車内は静かになった
しばらくすると
ほっそりとした若者が現れて
死んだ蜂は紙にくるまれて
彼に委ねられ
次の駅で下車した
かつての少年たちが
大人になって
また出会ったような
一駅区間の物語
二人の若者は眼を合わせることもなくて
まだ咲いていた
秋薔薇を観た帰りに……。
「カニエナハ」さんという詩人を知ったのは、読売新聞の「詩を遊ぶ」という詩集評に
私の詩集「冬の夕焼け」を取り上げて下さった時です。ごめんなさい。
これからゆっくりとじっくりと拝読させていただきます。
まずは、第21回中原中也賞を受賞された、この詩集から。
(天から)
天から
降ってくる
言葉
地から
湧いてくる
言葉
心の
水面に
浮く
言の葉
人から人へと
行き交い
いつか
沈む
詩集の作品全体が14行で書かれている。
1931年生まれの御大は、ほとんどの人生を詩ともに生きてこられ、多分90歳になられたことと思う。
驚きと感動を覚える。
言葉を水面に浮かぶ落葉(言の葉)に例える。そしていつか沈む。
この表現は私が何度も書いては消して、今だ完成していない。
なるほど。このように書けばいいのね。深く納得しました。
しかし、もう私には書けない。どう書いても「真似」になるでしょう。
書き上げる前に出会えて幸運でした。いつまでも心に残る詩集となるでしょう。
谷川俊太郎という詩人は、いつでもどこでも私の道標になっております。
(2021年9月25日 新潮社刊)
退屈な東京の夜にホテルですること
Things to Do on a Boring Tokyo
Night in a Hotel
1 ひとりで夕食をとるんだ
いつだってそれはおもしろい
2 あてもなくホテルの中を歩きまわるんだ
大きなホテルだからね、あてもなく
歩きまわる空間がたっぷりあるわけだ
3 エレベーターであがったりおりたりするんだ
まったく理由もなしに
あがってゆく人は自分の部屋に行く
ぼくは行かない
おりてゆく人は外に出かける
ぼくは出かけない
4 ぼくはホテルの内線電話でぼくの3003号室に
電話して長いあいだ馴らしっぱなしにして
おこうかと本気で考える それからぼくはどういう
場面にいていつ戻ってくるのかなと思う 戻ったら
ぼくに電話してくれるようにというメッセージを
受付においてくるべきだろうか?
東京 一九七六年六月六日
## 孤独だったのか?いたずらっ子だったのか?
朝日ののぼる国------サヨナラ
Land of the Rising Sun
ぼくたちは日本の夜から飛んできた
東京の羽田空港を
四時間前、六月三十日午後九時三十分に
飛びたち
そしていま太平洋の上
日本へむかう途中の朝日の中に
跳びこんでゆく
日本ではまだ暗やみがよこたわり
太陽がやってくるまで数時間かかる
ぼくは日本の友人たちのために
七月一日の朝日にあいさつする
かれらが愉快な日を迎えるように
太陽は日本へと
むかっている途中だ
ふたたび六月三十日だ
太平洋上の
日付変更線をよこぎって
故郷アメリカにむかっている
こころの一部は日本に
おいたまま
## 彼は、不思議の時間を通過した?
ブローディガンの優しさが日付変更線を通過してゆく。
太陽とすれ違い、交差しながら。
私は、思わず地球儀を頭のなかで回転させてみた(笑。)
福間健二さんの翻訳が素晴らしく、とても楽しかったです。
(1992年9月1日初版 1999年6月1日第二刷 思潮社刊)
6歳から高校時代までは、当たり前のように百人一首で遊んでいました。
高校時代には百人一首大会と称したクラスマッチもありました。
百首を全部暗記して、選手になりました。(スポーツ音痴でしたが。)
結構よい戦果をあげました。
家では、中心になって下さった祖父が亡くなり、父がその後を引き継いで、
今はもう、誰も遊んでくれません。寂しいな。
長年にわたる詩の同人たちと月一回「合評会」をしています。
今はネット会議で。
そこで、初めて立ち上がれない程の批評を受けました。
「まだ、反戦詩を書くつもりですか?」と・・・・・。
私が2年前に出した詩集「胴吹き桜」では、主題は「戦争」だった。
勿論私の記憶にある出来事ではないが、どうしても書いておきたかった。
父や母にそのために、記録を書いてもらったのでした。
私の子供と孫にも伝えたかった。
それでも、書ききれなかったものがあるのだ。
このテーマには、おわりがあるはずない。危機感は常にあります。
作品の出来が悪いという批評ならば、それは素直に受けるでしょうが・・・・・。
『日常の富を呼び出せるほどに自分が十分に詩人ではないのだと心にうちあけなさい。』
『芸術作品は無限に孤独なもので、これに達するのに批評をもってするほど迂遠な道はありません。愛だけがそれを捕えて引き止めることができ、それに対して公正でありうるのです。』
『一人の創造者の思想のなかには忘れられた幾千の愛の夜々がよみがえり、その思想を尊厳と高貴をもって満たします。』
『かつて少年の日にあなたに課せられたあの大きな愛は、失われたのだとはお思いにならないでください。あなたが今日でも生きる拠り所となさっている大きい良い願いや企てが、当時のあなたの心に熟していなかったかどうか、おっしゃることがおできでしょうか? わたしはあの愛がそんなに強く烈しくご記憶に残っているのは、それがあなたの最初の深い孤独であり、あなたが自分の人生に即してなさった、最初の内的な仕事だったためだと思います。』
われの死ののちも世界はつづくらむほがらかにまた涙垂れつつ
「死」を「歌」にするということは、とても強い心の力がいるのでしょう。 哀悼。