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ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

音楽に寄す  リルケ

2009-11-17 21:01:43 | Poem

音楽、それは彫像の息吹き。ひょっとして
絵画の静けさ。おまえ、言葉の終わるところにいる言葉よ。
おまえ、時間よ、消え失せる
心の方向に垂直に立つ時間よ。

おまえ、誰に向かってゆく感情?
なにに変わるのか?感情の変化?聴覚の風景にか。
おまえ、見知らぬものよ、音楽。私たちから抜けでて
成長した心の空間よ。私たちのもっとも誠実なもの、
私たちを乗り越えて 突き進んでゆくもの、――
聖なる別離――
内部が私たちを取りまくとき、
精通した遠みとして
大気の裏側としてあるものよ、
純粋に、
巨大に、
もう人の住めないところよ。  

 (完成詩・1906~1926年)より。


 河出書房新社の「リルケ全集・10巻」には、殆ど同じ時期に書かれた「草稿・断片詩篇・1906~1926年」という作品群もあります。混乱しないためにメモを書いておきます。この「音楽に寄す」は1918年に書かれています。
  
 さて、何故この詩を必死で(^^)探したのか?それはこの詩の最後の3行が「オルフォイスへのソネット第一部・13」の最後の3行・・・・・・


明澄に、めざめ、透きとおり、
二重の意味をもち、陽のように、大地のように、この世の生のものとなり、――
おお体験よ、感受よ、よろこびよ、――この巨大な!



・・・・・・に傾向を同じくする表現だと書かれていたからでした。「マルテの手記」のなかで、聴覚を失ったベートーヴェンの音楽を「宇宙のみが耐えうるものを宇宙に返却するもの」だと言い、大衆は「姦淫はするが、決して受胎することのない不妊の聴覚を持つ者」と言い、音楽を聴覚で楽しむものとしてとらえていないのでした。つまり音楽の沈黙の部分(静)をとらえるのだと。さらにマリー公爵夫人への手紙では、「音楽の裏側を呼び出すのだ。」とも書いています。


心の方向に垂直に立つ時間よ。


 この1行は、音楽を時間の流れのうえではなく、垂直に立つ時間のなかにおいて聴くことだという意味のようです。また同じく「完成詩」のなかにある、1913年に書かれた「鳩」という詩のなかでは・・・・・・


驚愕せよ私を、律動する憤激で、音楽よ!

だが聖堂の丸天井はおまえをオルガンの響きで満たそうと待ち受けている



と言う詩行があります。この時まだリルケは「音楽」を捉えかねて、苛立ってさえいたようでした。

オルフォイスへのソネット第一部・21

2009-11-13 03:29:15 | Poem
春がまたやってきた。大地は
詩をおぼえた子供のよう。
たくさんの、おおたくさんの詩を。・・・・・・長かった勉強の
苦労のかわりに、ごほうびをもらうのだ。

彼女の先生はきびしかった。ぼくたちは
その年寄りの髯の白さが好きだった。
今こそ、緑は何か、青とは何か、と、
ぼくたちは訊いていい。彼女はできる、彼女はできるさ!

大地よ、休暇になった、しあわせな大地よ、さあ、
子供たちと遊ぶがいい。君をつかまえよう、
たのしげな大地よ。いちばん朗らかな子がつかまえる。

おお、先生が彼女に教えたことを、たくさんのことを、
木の根や、長い、むずかしい幹に
刷られた言葉を、――彼女は歌う、彼女は歌う。

 (生野幸吉訳)


春がまた訪れた。大地は
詩を知っている子供のようだ。
たくさんの、おお たくさんの詩・・・・・・長い勉強の
労苦にたいし彼女は賞をもらうのだ。

彼女の先生はきびしかった。ぼくらは
あの老人のひげの白が気にいっていた。
いまぼくらは あの緑 あの青が何なのかと
たずねてもいい。彼女にはできる、できるとも!

大地よ 春休の幸福な大地、さあ
子供らとともに遊ぼう。おまえはぼくらをつかまえたい、
愉しそうな大地よ。うまくつかまえるのは いちばん愉しい子。

おお 先生が彼女に教えたこと たくさんのこと、
そして根だの 長くてむずかしい幹に
刷られていること、彼女は歌う、それを彼女は歌う!

 (田口義弘訳)



 「彼女」とは「大地←ドイツ語では女性名詞ですね?」、「先生」とは「冬」のこと、「長かった勉強」とは、冬の厳しさを言っているのではないか?「髯の白さ」とは「雪」のことでしょうか。さらに「木の根」とは語根、語幹、または数学の「根」の意味もふくまれているようです。

 「緑」は春の大地、「青」は海の色を示しているが、この作品は「空=Himmel」という語を何度も繰り返しているので、青い空を思わないことは不可能なようです。

 取り急ぎここまで書いておきます。あとから追記いたします。

《追記》

 リルケのこのソネット全体を見ますと「色彩」が鮮やかに浮かび上がるという絵画的要素が少ないなかで、この厳しい冬に耐え、春を喜ぶ子供を通して、天地の色彩が生き生きと書かれています。「詩を知っている子供のようだ。」という率直な表現にも見られますように、詩人はこの歓びを言語化するために子供に混じりこんで、子供と一体となっています。そして「彼女」はいつの間にか「少女」ともなって、「冬の厳しさ」すら、振り返ればこの春の歓びを迎える過程だったのだと、子供のように気付くのですね。

 さらにこの1編は、「インゼル書店」に原稿が渡った後に、リルケ自身が入れ替えたということです。そこでこの詩のために抜きとられた1編とは「第一部・18」「第二部・10」に共通した性質が見られる「機械文明批判」のようです。

青の物語・ジャン=ミッシェル・モルポア

2009-11-10 22:53:28 | Poem
 
 翻訳:有働薫
 ジャン=ミッシェル・モルポア:1952年フランス生まれ。


青の歴史を誰かが書くかもしれません。(リルケ)

そして人々は山々の頂きや、海の波、川のゆったりした流れ、大洋の循環、そして天体の運行を感嘆して眺め、自分自身を忘れてしまうのです。(聖アウグスティヌス)



 この上記の二文は、この詩集の扉にあたかも「予言」のように置かれています。「リルケ」の言葉は「クララ」に送った手紙の1節です。訳者の解説によれば、それに応えるかのようにジャン=ミッシェル・モルポアの「青の物語」は書かれたようです。このように時を越えた詩人の出会いがとても嬉しい。そしてこのようにして「詩」が引き継がれてゆくことも。この詩集は海と人間との絶え間ない対話なのだと思えます。そしてその「海」に青の言葉を捧げ続ける詩人の絶えることのない作業の連続であるように思えます。その作業はとても勤勉であり、大変美しく均衡のとれた言葉の構築でありました。そしてモルポアは「人間が生きる。」ということのすべてを書き尽くしてみようと試みたのではないか?とさえ思えます。(以下、抜粋&引用です。)


 *    *    *

海はわれらの内で文章を書こうとする。

この青のすべてが苦悩なしとは思うな。

空の本質は不思議なやさしさでできている。

明日という日は、こんなに野蛮な身振りをし、こんなに汗をかき、青白く期待をかける価値が十分あるのだから。

どこまでも青は逃亡する。

おまえは海に行き、おのれの憂愁で洗われる。/その青と折り合いをつける。

言葉はときおり身を投げる。

海の上に、長い斜めの縞になって降ってくる温かい、灰色の雨。ほんのお湿りほどの雨で、雨音は聞こえない。彼女は、雨を避ける場所を探しもせず、顔を雨に差しのべる。雨が静かなので、彼女は自分がここにいることを知り、感じる。彼女は言う――雨は彼女にみずからを捧げてくれ、あるいは彼女自身気づかなかったこの優しさを、単調で自由なこの落下運動を、そして哀しみで彼女から潮が退いていらい、もはや彼女のものではなくなっているこのような軽やかな波立ちを呼び戻してくれるのだと。(註:ここがエピローグです。)

 *    *    *


 リルケのソネットについて考える日々のなかで、大分以前に読んだこの詩集を思い出したのでした。しかし数年後にまたこの詩集を開く時、きっとわたくしは別の詩行を選ぶかもしれません。「青の物語」とはそのように永い時間を息づくであろうと思われる詩集なのです。

 モルポアの「青」とは、ラヴレターの色、エンマ・ボヴァリーが行きずりの行商人から買うリボンの色、あるいは彼女がルドルフとともに出発することを夢みた幌付二輪馬車の日除けの色、海の色、処女マリアの色、そして西洋的内面性のキー・カラーだとされる。


 (1999年・思潮社刊)

オルフォイスへのソネット第一部・13

2009-11-05 02:18:46 | Poem
   

まどかに充ちた林檎よ、梨よ、バナナよ、
すぐりよ・・・・・・これはみな、
口に入れると死と生を語りかけてくる・・・・・・予感のように・・・・・・
くだものを味わう子供の顔から、

そのことを読むといい。それは遠くから来る。
おもむろに君らの口に名状しがたい味わいがひろがりはせぬか?
ふだんは言葉のあったところに、あらたな発見が流れる、
噛まれた果肉からおどろいて溢れ出たものが。

君たちが平素林檎と呼ぶものを、あえて言ってみたまえ。
最初は濃密になる、その甘さ。
やがて味覚のうちに、ひそやかに身を起こし、

明澄に、めざめ、透きとおり、
二重の意味をもち、陽のように、大地のように、この世の生のものとなり、――
おお体験よ、感受よ、よろこびよ、――この巨大な!

 (生野幸吉訳)


ゆたかにみちた林檎、梨、バナナ、
すぐり・・・・・・これらはみな話しかける、
死と生とを口のなかへ・・・・・・私はほのかにそう感じられる・・・・・・
読み取るがいい、これを子供の顔から、

子供が果実を味わっているときに。遠くからそれはやってくる。
口のなかがおもむろに名づけがたくなりはすまいか?
いつもは言葉のあったところに ふいの発見物が流れる、
果肉からおどろきとともに放たれたものが。

あえて言うがよい、きみたちが林檎と名づけているものを。
この甘さ、まず濃厚になり、
そして味覚のなかで静かに鼓舞され、

明るくなり 目覚め 透明になり、
二重の意味をおび 陽をはらに 大地の、ここのもの――
おお 経験 感受 歓喜 広大な!

 (田口義弘訳)


「遠くから来る」「遠くからそれはやってくる。」は「第4の悲歌」の最終連に、この答のようなものが書かれています。

 『子供の宿命を如実に現して見せるのは誰か。子供を星座のなかに置いてその手に距離の物差を持たせるのは誰か。喉の奥に詰まって固くなる灰色の「めんぽう・・・漢字変換できません。パンのことです。)から、子供の死をつくりなすのは誰か。あるいは甘い林檎の果実の内の芯のような死を、子供の円い口にふくませたままにするのは。誰が殺戮者であるか、見抜くのはたやすい。それよりもしかし、死を、完全な死を、人生に踏み出すその前から、あのように穏やかに内につつんで、悪意を抱かずにいるとは、その心は言葉に尽くせぬところだ。』

 (古井由吉訳・ドゥイノ・エレギー訳文・4)


 4種の果実を並べて見せたのは、少し意外な情景ではある。それは、その色彩や形態をあざやかに見せるために選ばれた果実のようだ。しかしそれは「生と死との口のなかへ」と言うように死へ向かうのだった。そして果実は祝祭的な達成でありながら、同時にすでに死をはらんでいる。(あるいはまたがっている?)このテーマはソネット全体の特徴でもある。

 また味覚とは言語として表現しがたいものに違いない。リルケはこれを書くにあたって「マルセル・プルースト」の「失われた時を求めて」のなかの「スワン家のほう」のなかでの味覚表現(あるいは無意識的記憶?)に深い影響を受けているようです。

 リルケ氏の作品の後で、僭越すぎるとは自覚しつつ、我が詩を書いておきます。



葡萄

もぎ取られた一房の葡萄は仮説の死
しずかに朝の陽を浴びている
少女の喉をつるりと潜って
小さな水のからだを潤おしてゆく

ホロリと小さな唇から放り出された種子は
手のひらの上で静か
けれども手のひらが汗ばむほどに
それを見つめている

それから
少女は庭に出て
夢の果樹園を土の中に隠した             
一本の葡萄の樹の物語はまたうまれる

オルフォイスへのソネット第二部・7・・・花たち

2009-11-01 20:18:32 | Poem


花たち、つまりそれは整える手に似るものよ、
(かつての、今の、少女たちの手に)、
庭の卓の隅から隅へあふれんばかり、
疲れ、そうしてやさしく傷つけられ横たわっていた花よ、

もういちど、始まった死から医(いや)してくれる
水を待ちながら――、そしてこんどは、
手さぐる指の、電流のように通じあう
二つの極のあいだに取りあげられた花よ、

その指は、かろやかなものよ、おまえたちの期待以上にいたわるのだ。
おまえが甕のなかにいることに気づき、
おもむろに冷やされながら、懺悔のように、少女の指の温みを、

折られたことの犯した、にぶい、倦(たゆ)げな過ちのように
水中にもどすとき。それはふたたび少女たちへの
聨関(かんれん)となり、少女らは花ひらきながらおまえたちと1つに結ぶ。

 (生野幸吉訳)

聨関・・・つながりかかわること。関連。
多くの経験内容が一定の関係に従って結合し、一つの全体を構成すること。リンケージ。



花らよ ついにあの整える手らに親近なもの、
(かつてのそしていまの少女らの手に)、
庭の卓子のうえでしばしばその隅から隅のまで
くたびれ そして軽く損なわれて横たわり、

始まった死からもういちど自分を
取りもどしてくれる水を待ち――そしていま
感知する指と指との流れる両極のあいだに
ふたたび持ちあげられたおまえたち軽やかな、

自ら思っていた以上にそれらの指に優しく力づけられ、
水甕のなかでふたたび自分を取りもどすと
おもむろに冷えてゆきながら 少女らの暖かさを、懺悔のように、

摘まれたことの鈍い気だるい罪のようにただよわせ、
それを関連のしるしとしてふたたび彼女らに、
自らも咲きつつおまえたちと結びつくだろう者らに返す、花らよ。

 (田口義弘訳)


 これで「オルフォイスへのソネット第二部」の花たちのソネットを3編書いてきました。これらは「花」をテーマとした小さなグループとなっています。

 リルケはここに書かれた「少女ら」という言葉に、人間の形姿の美や純潔性を体現しえる存在としての1つの意味を込めているようです。これはほとんど「花ら」と同意語だと思えます。そして「男性」と対立する位置に置かれているようです。


 花は少女らに手折られて、庭の卓子のうえに、仮死の状況としてあふれています。花は地下との水脈を断ち切られたまま横たわり、仮死の状態から、もう1度いのちを蘇らせてくれる水を待っています。

 花は水甕に入れられて、おそらく数日のいのちを生きながらえることだろう。その水甕を用意するのも、やさしい少女のあたたかな手にほかならないのだが、その花を手折った罪を犯したのも少女なのだった。束の間の花と少女との赦された時間。。。

オルフォイスへのソネット第二部・5・・・アネモネ

2009-10-28 21:54:23 | Poem
       

アネモネの 草地の朝をつぎつぎに
開いてゆく 花の筋肉、
やがてこの花の胎内に高らかな
天空の多声の光が注ぎこむまで。

静かな星形の花のなかで限りない
受容のために張りつめている筋肉
時としてはあまりの充実に圧倒され、
日没が発する憩いへの合図さえ

その反りかえった花びらをおまえに
もどすことができぬかのよう――
おまえは なんと多くの世界の決意にして力!

私たち 荒らかなこの私たちは、もっと長く生きるだろう。
けれども いつ あらゆる生のうちのどのなかで
私たちはついに開いているもの 受け容れるものなのか?

 (田口義弘訳)


花の筋肉よ、牧場の朝をつぎつぎに
ひらいてゆくアネモネの筋肉よ、
やがてその花のふところに、高らかに鳴る天の
多声の光がそそぎこむまで。

ひかりは、筋肉を張りひろげ
限りなく受容するしずかな星形の花にそそぎ、
ときとしてアネモネは、あまりの充実に圧倒せられ、
落日の、憩えよという合図すら、

はじけたように反りかえる花びらの先端を
もとにもどしてやることもできないほど。
なんという、多くの世界の決意、力であるおまえよ!

力ずくのわれわれは、おまえよりも長く生きるだろう。
しかしいつ、どのようないのちのなかで、
わたしたちはついに開かれ、受容する者となるだろうか?

 (生野幸吉訳)


 ローマにて、かつてリルケは「ルー・アンドレアス=ザロメ」宛てに書かれた手紙のなかに「それは昼のあいだあまりにも強く開いていたために、夜になっても閉じることができないままでした!暗い草地のなかにその花を見るのは恐ろしいことでした。」と書いています。この手紙の時からこのソネットを書くまでには長い歳月がありましたので、その時の恐怖や驚きが、そのまま詩作されたわけではないのですが・・・・・・。

 「薔薇」と「アネモネ」はこのソネットのなかで、最も早く書かれました。わたくしが、このソネットをランダムに読み、書いてゆくことはどうやらお許しいただけるだろう、と勝手に考えています。すみませぬ。

 植物である「花」に対して「筋肉」「胎内」というような動物的用語があえて与えられているのは何故でしょうか?「生殖」という意味においては動植物は共に「いのちの連鎖」を生きているという点で共有できるやもしれません。別の言い方をすれば、これは動植物共有の「Eroticism」とも言えますね。

 朝の光を受けて、次々に開花するアネモネの花びらは、「やがてこの花の胎内に高らかな/天空の多声の光が注ぎこむまで。」人間や獣たちが憩う夜が来ても閉じることがない。ここにもまぎれもなく光だけではなく「音楽」が聴こえています。しかし、夜の闇のなかで花びらを閉じない花は「アネモネ」だけとは限りませんので、こうした花たちへの驚愕と賛歌と思うことにしませう。

オルフォイスへのソネット第二部・6・・・薔薇よ

2009-10-27 15:54:18 | Poem
 

薔薇よ 花の王座にあるものよ、古代の人びとにとって
おまえは単純な縁をもつ蕚(うてな)だった。
私たちにとってしかしおまえは 豊かな無量の花、
汲みつくすことのできぬ対象。

富裕に咲きほこりつつ おまえは衣に衣を重ねて、
輝きからのみなる肉体を包んでいるかのよう。
だがおまえの花びらのひとひらひとひらは同時に
あらゆる衣裳の回避であり拒否なのだ。

幾世紀にもわたっておまえの香りは私たちに向かって
さまざまなこよなく甘美な名を呼びかけている――
ふとそれは賞賛のように 大気のなかを漂っている。

けれども 私たちはそれを名づけるすべなく憶測し・・・・・・
そして想い出がその香りと化して流れる、
呼びおこしうる時間から私たちの乞い受けた想い出が。

 (田口義弘訳)


ばらよ、女王の座を占める花よ、古代にあって
おまえは単純な花びらをもつ蕚だった。
わたしたちにはしかし、かずしれぬ花弁を重ねて充ちる花、
汲みつくせない対象。

おまえはその豊富のなかで、かがやきにほかならぬ
ひとつの裸身を包む衣だ、それはまた包む衣だ。
けれどもおまえの花びらのひとつびとつは、同時に
あらゆる衣裳を避け、否んでいる。

幾世紀このかた、おまえの香りは
その甘美きわまる名をさまざまにわれらに呼びつづけた。
突然、その名は名声のように空中にひろがっている。

しかしわれわれは、どう名付けてよいのかを知らず、憶測を重ねるばかり・・・・・・
そして追憶がその香りに移り住む、
呼びかけのできる時間からわたしたちが乞い受けた追憶が。

 (生野幸吉訳)


おまえは単純な花びらをもつ蕚だった。

 古代の薔薇は花びらが一重の「エグランティーヌ←この花を探しましたが、残念ながらみつかりません。」という種類のもので、色は炎のなかに現れる赫と黄に限られていると言う説と、古代にはすでに花びらが豊富な種類の薔薇があり、「エグランティーヌ」はオリエント起源のものとする説に分かれています。いずれにしましても、このソネットが書かれたヴァレーの庭園には、すでに豊富な花びらを持った薔薇や、「単純な花びらをもつ蕚」の薔薇が共存して咲いていたのでしょう。

 リルケの薔薇に寄せる想いは初期の時代から、比喩として、あるいは光を纏う美しいものの化身として何度も登場する花で、その1例は「新詩集」にある「薔薇の内部」にも読むことができます。そしてついに薔薇はリルケ自身の墓碑銘ともなったわけです。

 またこのソネットの後半部では、「香り」という見えないものを繰り返し、言葉に翻訳(この場合の翻訳は異国の言葉を自国の言葉の変換するという精神の作業ではなく・・・・・・。)しようとさえ感じられます。それは単に「香り」だけに留まらず、その内部と外部との2つの構造であり、あるいは光のように把握できない肉体であり、それすら虚構のように捕まえることはできない。花びらのように幾層にも隠され、そして拡散する光りのようなもの?薔薇を讃えるためにリルケは言葉を駆使し、それでも届くことのないという断念すら見えてきます。

オルフォイスへのソネット第一部・5

2009-10-24 23:21:33 | Poem


記念の石は建てるな。ただ年毎に
薔薇を彼のために咲かせるがよい。
なぜならそれがオルフォイスなのだから。あれこれの存在のなかの
彼の変容よ。私たちは心を労してほかの名を

求めはしない。歌うものがあれば
それはいつもオルフォイスだ。彼は来てはまた去ってゆく。
時として彼が薔薇の水盤に数日のあいだ踏みとどまれば、
それだけでもうたいしたことではないか?

おお 理解するがよい! 彼は消えてゆかなくてはならない!
そして彼自身にも消え去ることが不安であろうとも。
彼の言葉がこの地上を凌駕するとき、

彼はもう彼方にいる、きみたちの同行できぬところに。
竪琴の格子も彼の手をはばむことはない。
そして彼は従っているのだ、歩み越えながら。

 (田口義弘訳)


記念の碑(いし)を建てるな。ただ年々に
かれのためにばらを咲かせよ。
なぜならそれはオルフォイスだ。あれこれの
物のなかでのオルフォイスの変身なのだ。別の名を

わたしたちは齷齪と求めまい。何かが歌うなら
それはかならずオルフォイスだ。彼は来ては去る神。
ときとしてばらの萼(うてな)のうえに
二、三日辛抱する、それだけでも多としなければ。

消え去ることがわれながら不安だろうと、
かれは姿を消さなければならぬ、そのことわりが君らに解ればいい!
かれの言葉が地上の存在を超えるとき、

はやくもかれは、君たちのついてゆけない彼地にいる。
竪琴の絲の格子もかれの手を阻みはしない。
そして境を超えてゆきながら、オルフォイスは従順だ。

 生野幸吉訳


 ここに書かれた「薔薇」はリルケの詩「墓碑銘」と無関係ではないだろう。


墓碑銘   リルケ   生野幸吉訳

ばらよ、おお、きよらかな矛盾よ、
あまたの瞼のしたで、だれの眠りでもないという
よろこびよ。


 ローヌの流れを見下ろすラロンの丘の教会にこの墓碑はあります。『記念の石は建てるな。』という書き出しとは裏腹に。どなたが建てたのでせうか?たくさんの瞼のように見える薔薇の花びらのなかには、実は誰もいないのです。それはリルケのあらゆる所有から放たれた眠りへの願いだったのでせうか?それにしても、リルケの著書には「*****の所有なり。」という献辞が多いですね。。。

 生き残された人々は死者のために石の墓を建てて、そこに死者の位置を留めようとしますが、実は死者はそこでは安らいでいないのではないか?石の墓を建てず薔薇の花を植えよ、ということは・・・・・・?
 薔薇の花は開花と共にすぐに枯れて、ゆっくりと花びらを落としてゆくはかない花です。たくさんの花びらに囲われた世界の内側には、何もないのです。

 さらに、オルフォイスはすでに「死」を経験した者であり、だからこそ変容しつつ自由な存在としてどこへでも行けるのです。薔薇の咲く数日だけ彼はそこに宿り、また竪琴の絲の向こうへ行ってしまうのです。地上に生きる者たちの行くことのできない向こうへ。

 ここには「ボードレール」との類似点がありますね。それは詩人は言葉を持たないものたちのなかに「音楽」を聴きとることができるということです。その「音楽」を詩作に構築しなおすことができるということでしょう。その「音楽」とは薔薇であり、また香り、風、空、色などさまざまなものを内包しています。それが「オルフォイス」と名付けられたのでしょうか?

  *   *   *

 薔薇はリルケの最も愛した花であり、このソネットの「第二部・6」にはその薔薇について書かれています。またこのソネットの順番を狂わせますが、次回に書いてみます。(もともと順番どおりに読むつもりはありません。全部をここに書くつもりもありません。念の為。)

オルフォイスへのソネット 第一部・4

2009-10-21 23:17:12 | Poem
おお おまえたち優しい者よ 時には歩み入れ、
おまえたちを想っていない呼吸のなかへ。
それをおまえたちの頬で二つに分けよ、
おまえたちの背後でそれは慄えるだろう、また一つに結ばれて。

おお 幸いな者たち そこなわれていない者たち、
心のはじまりのようにみえる者たちよ。
矢をつがえる弓として矢のめざす的、
涙にぬれておまえたちの微笑は、より永遠に光り輝く。

悩むことを恐れるな、その重み、
それを大地の重みに返すがよい、
山々は重い、海もみな重い。

幼い日おまえたちが植えた樹々ですら、
すでに久しく重すぎて もちあげられぬだろう。
だが微風は・・・・・・だが空間は・・・・・・

 (田口義弘訳)


おお、君たちやさしい人々よ、ときには
君らを意に留めぬ風の息吹に立ちたまえ、
その風が頬に触れ、分かれるままにしたまえ、
君らの背後では風がふたたび合わさって慄える。

おお仕合わせな人々、おおすこやかな人々よ
心情のはじまりともみえる君たちよ、
矢をつがえる弓、弓の向かう的、
君たちの微笑は泣き濡れて、ひとしお永久にかがやく。

悩むことは怖れるな、苦悩の重さを。
その重量を大地の重さに返してやれ。
山々は重い、大海は重い。

幼いころ君たちが植えた木々さえ、
とうから重くなりすぎている。君らもそれを背負えまい。
けれども風は・・・・・・けれど、もろもろの空間は・・・・・・

 (生野幸吉訳)


 「おまえたち優しい者よ」「君たちやさしい人々よ」というのは、「愛(あるいは恋?)しあう人々」のことではないか?それも「愛あるいは恋」のはじまりにある人々を指しているようです。「矢をつがえる弓、弓の向かう的」という比喩も「愛の神・キューピット(アモール)」というわかりやすく馴染み深いものだろう。そして愛することの苦しみまではまだ至っていない若者たちに、「3」の風は「4」にも引き続き吹いています。この「ソネット」そのものが、終行がまた初行へと戻ってゆくようだ。

  *    *    *

 ここからは単なる独り言です。リルケとのことでもなく、ひととのことでもない。わたくしは日常的に残酷な言葉の洪水に襲われている。しかしこちらの言葉は一向に届かない。言葉の虹を繰り返しかける。が、すぐにかき消される。風のなかを1人で歩く。わたくしの頬や首、肩は風を切り開くように感じても、風はわたくしの背後でその流れをまた一つにするのだった。そして風の行方は途方もない。わたくしは地上のかすかな1点の重みとなって立つ尽くすのみ。人間は本来的に孤独なのだと自分に言い聞かせる。

オルフォイスへのソネット 第一部・3

2009-10-14 21:49:51 | Poem

神にはそれができる。しかし告げたまえ、どうして
人はその狭い竪琴を通って神に従ってゆけよう?
人の心は分裂なのだ。二つの心の道の交点に
アポロンのための神殿は立っていない。

あなたの教えられる歌は欲望ではない、
ついには達せられるものへの求愛ではない。
歌は現存在だ。神にとってはそれはたやすいこと。
いつ しかし私たちは存在するのか? いつ神は

私たちの存在に大地と星々を向けられるのか? 若者よ、
それは存在しているということではない、恋をしているということは、
たとえそのとき声が口を開いて溢れようとも。忘れよ、

おまえが歌ってきたことを。それは流れ去る。
真に歌うこと、それは別のいぶき。
何を求めもせぬいぶき。神のなかのそよぎ。風。

 (田口義弘訳)


神ならばできることだろう。だが、告げたまえ、狭い竪琴の絃をくぐって
どのように人はそのあとに従えよう?
人の心は分裂なのだ。ふたすじの心の道の
交わる場所に、アポロの神殿は立っていない。

あなたの教える歌は欲望ではなく、
やがて成就できるものへの求めでもない。
歌は現存在なのだ。神にとってはたやすいことだ。
けれどもいつ、わたしたちは存在するのか?そしていつ

神はわれらの存在のために大地と星々を用いるだろうか?
若者よ、おまえの愛はそれではない、たとえ
愛の刹那に声音は口を押し開けるとも。――おまえがかつて

叫びえた歌を、忘れるすべを学ぶがよい。その歌は流れ移ろう歌。
真実に歌うとは、それとは別の息づかい。
何のためでもない息吹。神のなかでのそよぎ。風。

 (生野幸吉訳)


 さてさて、またまた懲りもせずに難儀な読み解きをやってみようか?

 「アポロンのための神殿は立っていない。」という1行は、「第一部・1」の以下の詩行を踏まえて、対比させてはいるのではないか?

暗い欲望からの、戸口の柱が揺れうごく
隠れ家すらほとんどなかったところ――そんなかれらの
聴覚のなかに神殿を創られた。


 ここでの「神殿」は、地上に生きるものたちの耳のなかに立てられた神殿であって、これは幻聴に近いものであって、天上のものではない。アポロンとは、技芸の神「オルフォイス」の父であり、地上のものたちが「アポロンの神殿」など、立てられることなどできないのだということではないのか?

 竪琴の絃は、神の世界と現世との境界線となる「柵」のようなものではないか?この「柵」を自在にくぐり抜けて天上と地上とを自在に往来できる「オルフォイス」に対して、人間は「柵」をくぐり抜けることはできない。
 地上に生きるものの有限性、不完全性に対するものとして、「リルケ」が選んだ理想の姿が「オルフォイス」であって、双方に横たわる断絶性は動かしがたい。ただただ賞賛の言葉を送るばかりだ。

 「ドゥイノの悲歌・9」にみられる「大地への委託」とも思える断念のような感覚が、この「オルフォイスへのソネット」と対峙するように思えるのだった。「悲歌」と「ソネット」の作品誕生の時期が重複しているということは、この2つの詩集はどこかで響き合うことがあっても不思議な出来事ではない。むしろ「悲歌の兄&ソネットの弟」というような近親的な要素があるようですね。