塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 126 物語:夢

2015-10-21 01:00:55 | ケサル
物語:夢 その2




 国王ケサルさえもまだ知らない物語を知っているのだと思うと、ジグメは微かな優越感を抱いた。
 だがそれは誇らしさとは違っていた。

 物語をすべて知りながら、その先に待ち受けているのは、様々な場所を巡って語り、施しを、良く言えば聞き手からの報酬を受けることだけだ。
 そう思うと、やるせない気がした。

 ケサルも自分の夢から戻った。
 最後に耳にしたのは、千年後に自分の物語を語ることになる人物が言った言葉だった。
 「すみません、帽子をかぶっているのを忘れてました」

 こうして、ケサルは奇妙な夢から離れた。

 誰もが夢の中で千年後に行けるわけではなく、そこで自分の物語を語る者に会えるわけでもない。
 その人物は自分が望んでいた者によく似てはいたが、何事にもこだわらない、もっと正確に言えば、何をすべきか分からないといった表情をしていた。

 遥かな未来に自分の物語を語る者が確かにいるのだと考えると、ケサルは満足した表情を浮かべて眠りに着いた。
 だが、朝目覚めた時、心はより沈んでいた。

 物語を語るあの人物が、久しい後にはリン国は存在しないと言ったのを思い出したからである。

 朝の朝議では、大臣たちはいつも通り良い知らせを伝えた。

 新しいが帰属に参りました。
 リン国に属さぬ小国の王が使者に貢物を持たせ友好を求めて参りました。
 学者が新しい文を著し、リン国の偉大な未来について述べました。
 道理に背いたラマが心を入れ替え、リン国に忠誠な護法を行うと誓いを立てました。等々。

 すべてが、気候は温順、民は安寧、王は英明、四方は鎮められた、といった、同じ言葉の繰り返しだった。
 国王は聞くほどに心がふさぎ、声はくぐもり、力なく言った。
 「それはいつまで続くのだろうか」

 下の者は声をそろえて答えた。
 「幾久しく続きましょう」

 議事の終わりを告げることなく国王は黄金の座を立ち、一人宮殿の外へ出た。
 臣下たちは遠巻きに着き従い、共に宮殿を出て、最も高い丘の上に登った。

 国王は思った。
 次にまた夢の中へ行ったら、この王宮がどのようになっているか見なくてはならない、と。
 この川がその時もまだ、西南に向って流れて大きな河と合流し、さらに多くの流れとともに東南に折れ、山々を切り裂き、自らが切り取った深い峡谷の中で水音を響かせているかどうか、見なくてはならない、と。

 取り巻く者たちはケサルが小声でつぶやいているのを聞いた。
 「もしすべてが消えてしまうのなら、今この時にどんな意味があるのだろう」

 このような問いは、河が谷の奥で立てる響きと同じで何の意味もなかった。
 もちろん、頭の良すぎるある種の人々はこのような響きにも特別な意味があると思いがちである。
 彼らはそう考えて心穏やかではない。自分を不安にさせているのである。

 国王は長い間ぼんやりと時をやり過ごすと、山を降りた。
 出迎えた大臣、将軍、妃、護衛、侍女、教師らの群れを通り抜ける時、国王の目線は彼らの一人一人の上を掠めたが、実在である彼らの体がその目線を遮ることはなかった。

 集まって来た人々の群れを通り抜ける様子は、まるで無人の広野を行くようだった。
 国王のこのような振る舞いは国中を不安にした。

 だが、そう考えない者もいた。
 それは僧たちだった。

 彼らは言った。
 国王は悟りを開かれたのだ。国王は俗人が有ると見なすものを「空」と捉えられた。これは仏法の勝利である。

 もちろん、多くの人はこの考えに賛同しなかった。

 幸いにも、国王はこのような心境に長く浸ってはいなかった。
 一国の王として、いつまでも根拠のない想念に囚われているわけにはいかなかった。

 間もなく事件が起こった。
 ケサルは兵を率いて四方を征服したが、高く険しい山に隔たれたリン国の土地の中にも、まだいくつかの小国があった。
 これらの小国は毎年リン国に貢物をし、礼を尽くしていたので、ケサルはわざわざ討伐に行こうとは考えていなかった。
 ただこれらの小国の間では、常に諍いが起こり、一年中戦雲が立ち込めて、リン国の太平の気を乱していた。

 ケサルにとって、それは許せないことだった。

 さて、ある日、ケサルは高い山々が集まる東南の方角から殺気が立ち昇っているのを見て、とらえどころのない思考から抜け出し、王子ザラに密かに兵馬の用意をするよう命じ、出征に備えた。

 果たして、数日もたたずにグチェという小国から救援を求める使者が到着した。
 彼らはジュグというもう一つの小国から攻撃を受けていた。

 ケサルは言った。
 「ジュグがそなたたちグチェを征服しようというのは何故なのか。お前たちの美しい姫を娶るためか、それとも、珍しい宝を所有するためか」

 使者は跪いた。
 「もし美しい姫がおりましたなら、すでにリン国に差し上げていたでしょう。もし、珍しい宝があれば、我々のような小国には相応しくなく、すでに大王様のお前に捧げていたでしょう」

 ケサルはうなずき
 「されば、ジュグは故なく兵を起こしたのだな。帰って国王に伝えなさい。我がリン国が正しい道を示すだろう、と」