塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 ④  序 その4

2008-03-10 22:29:54 | Weblog
(阿来の旅行記「大地の階段」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)

成人してから、私は心の赴くままに何度も旅にでかけた。自分のために書いた『三十歳、ゾイゲ大草原に遊ぶ』という詩がある。
そのなかに次のような句があったのをおぼえている。

唇は土、歯は石、舌は水、
いまだ、私の口からは蓮の花は現れません。
青い空よ、いつ私に最上の言葉を下されるのですか。


今、深く生き生きとした表現を自分に課そうとする時、そのためには自我を超えた力を仰ぐほかないと感じている。これまでも、学識ある僧はみな著述を始める前に四方の神々に最上の祈りを捧げている。
たとえば、チベット族の歴史上最も批判的精神を持っていたケンドン・チュンベイは『智遊仏国漫記』の中で、その巻頭に「つつしんで正等覚世尊の足蓮に額づきます」と書いている。この足蓮とはチベット語の一種の修辞方式で、世尊の足を蓮の花に喩えたものである。このように額づくのはただ一つ「お守りくださいますように」と願うからである。その願いとは――


奥深い智慧の光が世俗の迷いを取り除き
静かな解脱の心が三界の迷いを鎮め
法にたがうはかない理論に染まらない、澄み切った志を持ち
衆生の瑞兆である太陽が、わたしたちに円満の雨露をくだされますように



高い位と権力を持っていたダライラマ五世は、その大著『西蔵王臣記』の始まりで次のような祈りの心をあらわしている。


整った花の芯は、青年の智慧に似て、鉄の鉤の如き鋭さをもって、美女の心を刺しつらぬく
自在の洞見、諸法の法性は大円鏡に現れる
あきらかな霊験は、仏法が清らかに歌い舞うさまを立ち顕せる
このような加護の力を持つ者――文殊師利よ、私の重い舌が語自在王となりますように


続けて彼は詩歌と文芸の女神に向かって祈りを捧げる。


美しく喜びに溢れたお顔を目の前に拝し、白く耀く月が現れたのかと疑うほどでした
一切の錯乱と不安を除く御旗
瑠璃のように耀いて長く垂れる髪
妙音天女よ、私を速やかに語自在王のような智慧尽きることのない者とならせて下さい


「語自在」。昔も今も、言葉をなりわいとするものにとって常に理想としていながら、遥かに及ばないのではと恐れている境地である。
現在世界中の人々が、チベット族とは教義を深く信じ、数多くの偶像を崇拝している民族であると考えているが、チベット族である私から見れば、教義は法力を失いつつあり、偶像はすでに黄昏を迎えてしまった。

では、何故私は自我を超えた力に祈願するのだろうか。

一人の放浪者にとって、たとえこれから描き出そうとするこの土地にはっきりとした境界が定められたとしても、一冊の本にとっても、また、一人の人間の智慧にとっても、この土地はあまりにも深く広い。河は日夜を分かたず奔流し、四季は自在に入れ替わり、人々は絶えず生まれ変わる。それゆえこられら全てが、表現しようとする者たちに恐れを抱かせ、時には絶望をさえ抱かせるからである。

もう一つの問題は、もし神や仏でないのなら、自我を超えた力とは何を指しているのだろう。たぶんそれは、永遠に黙したまま遥か上へと登っていく階段のような山並みであり、そして、創造し、耀き、零落し、哀しんだ人々と、彼らが苦しみや楽しみの中で休むことなく続けていく日々の営みなのではないだろうか。

ここに、私の旅の記録と、それ以上にたくさんの旅の思い出を皆様に捧げます。


(阿来の旅行記「大地の階段」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)