(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
2 民間の言い伝えと宮廷の歴史 その2
当時、チベットの宮廷では、仏教とボン教が激しい争いを繰り広げていた。
ティソン・デツェンの母親は、土着の宗教を擁護する勢力の代表的人物だった。だが、王はより一層仏教に傾倒していった。血縁であっても同じ一つの宗教を信じるとは限らない。これは宮廷闘争の物語の永遠に変らないテーマである。ティソン・デツェンは王位を継承すると、地下に潜行していた仏教徒たちを支持し、彼らがもう一度自らの立場をあきらかにできるようにした。また、山奥の洞穴の中に隠されていた仏教の経典を掘り出し、翻訳し、解釈を加えた。
彼の行動は、朝廷をもしのぐ権力を持っていた、父親の代からの大臣達を敵にまわした。これもまた古今の宮廷闘争によく見られる図式である。若い国王の命令は、反仏教派の大臣マシャントンパケによって幾度となく阻止された。ティソン・デツェンは仕方なく、マシャントンパケを追放しようと計画を練った。王は側近、呪術師、占星術師達を四方に散らして、噂を流させた。噂は予言となって現れた。
「国家と国王は近く大きな災いを受けるであろう」。
当時、それはすべての吐蕃人の災難でもであった。そこで、軍人も民衆も、どうしたらこの予期せぬ災いを取り除けるのだろうか、という問題に強い関心を持った。
王の元にはすでに答えが用意されていた。唯一つの方法、それは位の一番高い大臣を墓に三年間住まわせることだった。ラサ中の人々、吐蕃中の人々には、それはが誰だかわかっていた。大臣マシャントンパケである。
だが、王は行動を急がなかった。手下の者に再び別の噂を流させた。まず宮廷で、そしてラサの街で、大臣マシャントンパケは重病である、と触れまわらせたのである。
位人身を極める大臣マシャントンパケも、一度ならずこの噂を耳にした。宮女たちは顔をあわせればこの噂を囁き合い、兵士たちが冬空の下日当たりのよい石垣にもたれて一休みする時もこの話題で持ちきりになり、ラサの街の飲み屋に伝わってくるのもこの噂だった。ついには、黄昏の空で鳴くカラスの声さえ「マシャントンパケは病気だ。マシャントンパケは病気だ」と聞こえた。
マシャントンパケが家に帰って鏡をのぞくと、そこにあるのは心労のあまり疲れ浮腫んだ男の顔だった。大臣は終に力尽き、寝床に倒れこむと、熊の皮の布団の温くて安全な毛並みに顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。
「吐蕃中の人間がみなわしを重病だと噂している。わしはもう死ぬのだ、もう終わりだ」
周りの人間も一緒になって泣いた。マシャントンパケは自分のために、他の人間たちは間もなく失うだろう巨大で堅実な拠り所のために。今、呪の効き目が顕れ、大きな山が揺れ始めた。ただ一人、のろまな賄い女だけが大声で言った。
「噂なんて当てにならないさ」
マシャントンパケは、できるのならこの言葉を信じたかった。だが、もう一度銅の鏡に映った自分をしげしげと眺めると、深いため息をつくしかなかった。
「民衆の言葉には智慧がある。私が病気だと言うのは本当なのだ」
これぞまさしく若いチベット王が早くから待ち望んでいた瞬間だった。時は至れり、と見て取った国王はすぐさま御前会議を招集した。大臣の病を討議するためではなく、国家と国王の災難を回避する対策を捜すために。国王との事前の打ち合わせどおり、ある大臣が「自分が墓に入ってこれからやってくるだろう災難を追い払いたい」と申し出た。
すぐさま別の一人が反対した。「この大臣の僭越な行為は罪に値する。予言では、最も位の高い大臣のみが災いを追い払うことが出来るというではないか。それなら、その大臣とはマシャントンパケ様をおいて他にないではないか」と。
マシャントンパケもまた、他の者が自分より高い地位につくのを許すことは出来なかった。そこで彼は自ら三年間墓に入ると申し出た。宮中ではあちらこちらに罠が仕掛けられている。女性の腕の中で眠る時も片目はしっかり開けてなくてはならないのだ。彼は考えた。自分は今ゆっくり休まなくてはならない、墓地で三年過ごす間に病気はよくなるだろう、その時こそ、最も激しい竜巻となって捲土重来して目に物見せてやるのだ、と。
マシャントンパケは頭のよい人間だった。彼は自分の勢力範囲であるナナムザプに地下の宮殿を作り、三年暮らすことになる墓造りを自ら監督した。その三年間への対策も怠りなかった。たとえば、不測の事態に備えて、牛の角を繋いで作った水の管と空気孔をこっそりと設置したり、生活物資を大量に蓄えておいたりした。思ったとおり、彼が墓に入るとすぐに、墓の門は大きな岩で塞がれた。
密かに恐れていたことが現実になった。
しばらくしてティソン・デツェンに報告があった。大臣マシャントンパケが牛の角の水道から矢を放った、と。その矢にはこう書かれてあった。「ナナム族の者よ、墓を掘り起こし、我を助けよ」
チベット王は人々の前にこの矢を示し、マシャントンパケが国王と国家に対して犯した不忠の罪の証とした。こうして、マシャントンパケが密かに作った水道管と空気孔はしっかりと塞がれた。大臣マシャントンパケが死神と向き合った時の絶望の叫びを聞いた者は誰もいない。
マシャントンパケが死んだ後、若い国王は吐蕃全域で大いに仏教を興すよう通達を出した。
このような状況の下でも、ボン教はその誕生の地で依然として多くの信徒を擁していた。ティソン・デツェンの母親も敬虔なボン教徒だった。彼の妃ツェポンサもまたボン教徒だった。ティソン・デツェンは多くの妃を娶ったが、ツェポンサ妃だけが王子を三人産んだ。そのため、吐蕃王宮では誰も彼女に刃向えなかった。ティソン・デツェンは権力の及ぶ限りの地で仏教を興したが、身近な妃の信仰を変えることは出来なかったのである。
そのため、ティソン・デツェンはより多くの愛情をポヨンサ妃に注いだ。後世、仏教徒が編んだチベット史の中で、ツェポンサ妃の振る舞いは横暴を極めている。国王の寵愛がポヨンザ妃に移ったため、ツェポンサ妃は前後八回刺客を放って夫を暗殺しようとしたという。
ティソン・デツェンは世を去る時、ポヨンサ妃を次の国王に嫁がせるよう遺言した。ツェポンサ妃は、自らポヨンサ妃を殺害しようとしたことがあったが、王子がポヨンサ妃を守ったため果せなかった。そこで、彼女はコックを買収して食事の中に毒を盛らせ、在位僅か一年七ヶ月の自分の息子ムネ・ツェンポを殺害した。
ムネ・ツェンポは在位中、サムイエ寺で「四阿含経」、「律本事」、「倶舎論」の三蔵を供養する制度を制定した。これが、全チベット族の地で仏典と僧を供養することになった正式な起源である。
私がこの物語を述べてきたのは、チベット族の宗教史をまとめるという、自分には不向きな仕事を引きるためではない。それは、この物語が、私がこれから書こうとしているチベット東北部の文化の特徴と関係があるからである。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
2 民間の言い伝えと宮廷の歴史 その2
当時、チベットの宮廷では、仏教とボン教が激しい争いを繰り広げていた。
ティソン・デツェンの母親は、土着の宗教を擁護する勢力の代表的人物だった。だが、王はより一層仏教に傾倒していった。血縁であっても同じ一つの宗教を信じるとは限らない。これは宮廷闘争の物語の永遠に変らないテーマである。ティソン・デツェンは王位を継承すると、地下に潜行していた仏教徒たちを支持し、彼らがもう一度自らの立場をあきらかにできるようにした。また、山奥の洞穴の中に隠されていた仏教の経典を掘り出し、翻訳し、解釈を加えた。
彼の行動は、朝廷をもしのぐ権力を持っていた、父親の代からの大臣達を敵にまわした。これもまた古今の宮廷闘争によく見られる図式である。若い国王の命令は、反仏教派の大臣マシャントンパケによって幾度となく阻止された。ティソン・デツェンは仕方なく、マシャントンパケを追放しようと計画を練った。王は側近、呪術師、占星術師達を四方に散らして、噂を流させた。噂は予言となって現れた。
「国家と国王は近く大きな災いを受けるであろう」。
当時、それはすべての吐蕃人の災難でもであった。そこで、軍人も民衆も、どうしたらこの予期せぬ災いを取り除けるのだろうか、という問題に強い関心を持った。
王の元にはすでに答えが用意されていた。唯一つの方法、それは位の一番高い大臣を墓に三年間住まわせることだった。ラサ中の人々、吐蕃中の人々には、それはが誰だかわかっていた。大臣マシャントンパケである。
だが、王は行動を急がなかった。手下の者に再び別の噂を流させた。まず宮廷で、そしてラサの街で、大臣マシャントンパケは重病である、と触れまわらせたのである。
位人身を極める大臣マシャントンパケも、一度ならずこの噂を耳にした。宮女たちは顔をあわせればこの噂を囁き合い、兵士たちが冬空の下日当たりのよい石垣にもたれて一休みする時もこの話題で持ちきりになり、ラサの街の飲み屋に伝わってくるのもこの噂だった。ついには、黄昏の空で鳴くカラスの声さえ「マシャントンパケは病気だ。マシャントンパケは病気だ」と聞こえた。
マシャントンパケが家に帰って鏡をのぞくと、そこにあるのは心労のあまり疲れ浮腫んだ男の顔だった。大臣は終に力尽き、寝床に倒れこむと、熊の皮の布団の温くて安全な毛並みに顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。
「吐蕃中の人間がみなわしを重病だと噂している。わしはもう死ぬのだ、もう終わりだ」
周りの人間も一緒になって泣いた。マシャントンパケは自分のために、他の人間たちは間もなく失うだろう巨大で堅実な拠り所のために。今、呪の効き目が顕れ、大きな山が揺れ始めた。ただ一人、のろまな賄い女だけが大声で言った。
「噂なんて当てにならないさ」
マシャントンパケは、できるのならこの言葉を信じたかった。だが、もう一度銅の鏡に映った自分をしげしげと眺めると、深いため息をつくしかなかった。
「民衆の言葉には智慧がある。私が病気だと言うのは本当なのだ」
これぞまさしく若いチベット王が早くから待ち望んでいた瞬間だった。時は至れり、と見て取った国王はすぐさま御前会議を招集した。大臣の病を討議するためではなく、国家と国王の災難を回避する対策を捜すために。国王との事前の打ち合わせどおり、ある大臣が「自分が墓に入ってこれからやってくるだろう災難を追い払いたい」と申し出た。
すぐさま別の一人が反対した。「この大臣の僭越な行為は罪に値する。予言では、最も位の高い大臣のみが災いを追い払うことが出来るというではないか。それなら、その大臣とはマシャントンパケ様をおいて他にないではないか」と。
マシャントンパケもまた、他の者が自分より高い地位につくのを許すことは出来なかった。そこで彼は自ら三年間墓に入ると申し出た。宮中ではあちらこちらに罠が仕掛けられている。女性の腕の中で眠る時も片目はしっかり開けてなくてはならないのだ。彼は考えた。自分は今ゆっくり休まなくてはならない、墓地で三年過ごす間に病気はよくなるだろう、その時こそ、最も激しい竜巻となって捲土重来して目に物見せてやるのだ、と。
マシャントンパケは頭のよい人間だった。彼は自分の勢力範囲であるナナムザプに地下の宮殿を作り、三年暮らすことになる墓造りを自ら監督した。その三年間への対策も怠りなかった。たとえば、不測の事態に備えて、牛の角を繋いで作った水の管と空気孔をこっそりと設置したり、生活物資を大量に蓄えておいたりした。思ったとおり、彼が墓に入るとすぐに、墓の門は大きな岩で塞がれた。
密かに恐れていたことが現実になった。
しばらくしてティソン・デツェンに報告があった。大臣マシャントンパケが牛の角の水道から矢を放った、と。その矢にはこう書かれてあった。「ナナム族の者よ、墓を掘り起こし、我を助けよ」
チベット王は人々の前にこの矢を示し、マシャントンパケが国王と国家に対して犯した不忠の罪の証とした。こうして、マシャントンパケが密かに作った水道管と空気孔はしっかりと塞がれた。大臣マシャントンパケが死神と向き合った時の絶望の叫びを聞いた者は誰もいない。
マシャントンパケが死んだ後、若い国王は吐蕃全域で大いに仏教を興すよう通達を出した。
このような状況の下でも、ボン教はその誕生の地で依然として多くの信徒を擁していた。ティソン・デツェンの母親も敬虔なボン教徒だった。彼の妃ツェポンサもまたボン教徒だった。ティソン・デツェンは多くの妃を娶ったが、ツェポンサ妃だけが王子を三人産んだ。そのため、吐蕃王宮では誰も彼女に刃向えなかった。ティソン・デツェンは権力の及ぶ限りの地で仏教を興したが、身近な妃の信仰を変えることは出来なかったのである。
そのため、ティソン・デツェンはより多くの愛情をポヨンサ妃に注いだ。後世、仏教徒が編んだチベット史の中で、ツェポンサ妃の振る舞いは横暴を極めている。国王の寵愛がポヨンザ妃に移ったため、ツェポンサ妃は前後八回刺客を放って夫を暗殺しようとしたという。
ティソン・デツェンは世を去る時、ポヨンサ妃を次の国王に嫁がせるよう遺言した。ツェポンサ妃は、自らポヨンサ妃を殺害しようとしたことがあったが、王子がポヨンサ妃を守ったため果せなかった。そこで、彼女はコックを買収して食事の中に毒を盛らせ、在位僅か一年七ヶ月の自分の息子ムネ・ツェンポを殺害した。
ムネ・ツェンポは在位中、サムイエ寺で「四阿含経」、「律本事」、「倶舎論」の三蔵を供養する制度を制定した。これが、全チベット族の地で仏典と僧を供養することになった正式な起源である。
私がこの物語を述べてきたのは、チベット族の宗教史をまとめるという、自分には不向きな仕事を引きるためではない。それは、この物語が、私がこれから書こうとしているチベット東北部の文化の特徴と関係があるからである。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)