塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」  ⑤ 第1章 ラサから始めよう  

2008-03-13 01:16:12 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)

1 嘉絨(ジアロン)の意味


 そう、ラサから始めよう。

 そうするのは、その方が分かりやすく書けるだろうと考えたからだ。より深い意味から言えば、私がチベットへ行くのはチベットから出て行くためである。チベットと言う地名はすべてのチベットの民族と密接な関係をもっているのだから。

 歴史を見ると、チベット族は現在のチベット自治区の南部を起源とし、吐蕃国を興し、北上してラサの都を作った。そして、そこから青蔵高原の各方面に広がっていった。青蔵高原の東部で、吐蕃の精鋭の騎兵たちはいくつもの山を越え、群がる山々の階段を一段一段と降りていったのだった。
チベットでは、ほとんどの河は最後にはみな南へと向きを変え、ガンジスへ――白衣の国インドへ流れていく。騎兵たちは、青蔵高原を源とする長江と黄河に沿って、そして中国の中心であるこの二本の河の支流が山々や森林の間を穿ってできた巨大な渓谷に沿って、東へ、東北へと向かった。こうして彼らは、ある時は河西走廊に現れ、ある時はチャダム盆地に現れ、関中平原に現れ、成都平原の周縁に現れた。
この時、吐蕃の精鋭部隊が遭遇したのは、最盛期を迎えた強大な帝国だった。このどこまでも続く孤形の土地で、彼らの目の前に現れたのは、どれもみな一つの民族、黒い色を尊ぶ民族だった。そこで、新らしい地名がチベット語の中に生まれた。嘉絨(ジアロン)である。それは、インドと相反する名前であり、黒衣の国を意味していた。

 この遭遇に至る前、彼らはかなり広い中間地帯を通り抜けてきたのだが、歴史書の中にはこの一帯の名称については記述されていない。その一帯とは、今の地図から言うと、青蔵高原東北部の黄河が始めて折れ曲がるゾイゲ草原と、草原の東側の四川盆地に向かって一段一段降りていく岷山山脈と邛峡山脈に挟まれた地域だと思われる。現在、八万平方メートルに及ぶこの地域は阿壩(アバ)と呼ばれている。チベット族を中心とする自治州である。

 阿壩(アバ)という地名は、吐蕃の大軍がこの地を征服してからつけられたという。当時、この軍隊の主要な部隊は今のチベットの阿里(アリ)から来ていた。彼らは長期に渡ってこの地に駐屯し、この地の土着の人々と混血し、この今では意味を失いつつある名前を残したのである。それでも、この地の人々が口伝えに伝えてきた部族の歴史を見れば、この言葉の源に遡ることができる。

 阿壩(アバ)はまた二つの部分に分けることができる。一つは西北部で、うねりながら流れる黄河がはじめて折れ曲がるゾイゲ県を中心とする草原。もう一つは東南部の山岳地帯である。この土地の森林は長江上流のいくつかの重要な支流を育んだ。北から南に向かってそれぞれ、嘉陵江、岷江、大渡河である。そして、その一つ、大渡河上流の中心地帯がこの地理と密接な関係にある農耕地帯、嘉絨(ジアロン)を育んだのである。

 単純に意味だけからみれば、「嘉」は漢民族あるいは漢の地の意味であり、「絨」は河の近くにある農耕地の意味である。二つの文字を組み合わせると、その意味は当然のことながら「漢の地の耕作地」ということになる。吐蕃の大軍が来る以前に、この地域独特の文化はほとんど築かれていた。近頃の民族学者はこの地の地理と結びつけて、この名前に新しい解釈を加えている。それを元に私も、自分の実際の旅を重ね合わせて記述させてもらおうと思っている。

 もし、阿壩(アバ)の地を大まかに分けるなら、草原はほとんど黄河に属している。そして、ジアロンと呼ばれる農耕地域は、大部分が長江水域の大渡河の上流と、岷江上流の北に向かう支流にまたがる、かなり広い地域に集中している。大渡河とその北側の岷江が山々を駆け巡り流れ着くところ、そこは富と人口を誇る、湿潤な四川盆地である。歴史によれば、吐蕃の大軍は河口で馬を止め、煙が立ち込め竹の生い茂る豊な平野を遥かに眺めると、なぜかいつもドラを合図に兵を引き上げ、山奥へと帰って行った。

 では、私も今、彼らと同じように再びラサに帰ろう。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)