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塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

ケサルが生きたのはどんな時代なのだろう 2 阿来『ケサル王』② 縁起1-2

2013-04-26 02:20:54 | ケサル


[物語り:縁起―1] その2




 その時のリンは小さな世界だった。だが人々はやはり一族が集まる地を国と呼びたがった。実際には、それはまだ本当の国ではなかったのだが。
 知恵を持ち始めた者たちが石と木の棒と縄を使って家畜としての馬と野の馬とを分けた時、他の世界はすでに蒙昧な世界を抜け出てからかなりの年月が経っていた。

 そのような世界では哲人が多くの弟子を教え諭しながら奥深く抽象的な思考をしていた。彼らは何種類もの植物の種を育て、銀、銅、鉄、そして、軽い水銀と重い鉛を精錬していた。
 それらの世界はすべて本当の意味での国になっていた。

 低い所から高い所へ、上から下へ、彼らは人を細かい等級とふさわしい規範に分けた。彼らは彫像を建て、麻と絹を織った。彼らはすでに外部の魔物をすべて消滅させていた。つまり、もう一つの世界の国では、もし魔物がいたとしても、それは人の心の中に潜伏してしまっていたのである。
 魔物は人間を自分自身と戦わせた。
 その時、魔物たちは人間の血液の中を走り回り、けらけらと笑い声を上げるのだった。

 だが、リンガでは人、神、魔の戦いの幕は切って落とされたばかりだった。

 またある人は言う。
 世界にはもともと魔物はいなかった。魔物の群れが乱舞する時、その魔物は人の心の中から飛び出してきたものなのである、と。

 古代、もともと魔物はいなかった。
 人々は一つの国を持とうと願った。そこで、首領が現れ、首領の強い権力のもと、更に小さな権力者へと分かれていった。こうして人々の間に尊卑の別が生まれた。
 人々は満ち足りた日々を送りたいと願った。そこで、富への追求が起こり、田畑、牧場、宮殿、金、珍宝を求めた。男は多くの美女を求め、争いが生まれた。さらに、争いの勝敗によって貴賎の別が生まれた。
 これらはすべて心の魔が生み出したものなのである。

 リンガの状況も同じだった。

 河は本来の河からあふれ出ようとし、泥や岩の混じる河岸を打ち、その結果自分自身を濁らせてしまった。これは一つの例えである。リンガの人々の心が欲望で燃え上がる時、彼らの明るい瞳は怪しい影に覆われてしまうことの。

 人々は、一陣の風が悪魔をどこかの片隅から人間界に吹き寄せたと考えた。この怪しい風がリンガの平和を破壊したと考えた。
 それなら怪しい風は誰が起こしのだろうか。もし誰かがこの問題を問いかけたら、人々は不思議に思うだろう。人はそれほどたくさんの問いを問うことは出来ない。もし何時もこのように問いかけていたら、どんなに知恵にあふれた聖賢も頭がおかしくなってしまうだろう。

 『魔物はどこから来るのか』と問うのはかまわない。怪しい風が吹き寄せたのだ、と答えればいい。だが、怪しい風を誰が起したのかを問うてはならない。
 つまり、はっきりと「結果」が出ていたら、「結果」の「原因」を尋ねてもかまわない。だが、そのために、止め処なくなってはいけないのである。
 どちらにしろ、妖風が起これば晴れ渡った空は黒雲に覆われ、牧場の草は風の中で枯れていく。
 更に恐ろしいのは、善良な人々に邪悪な表情が現れて再び平和で睦まじくなれなくなることだ。

 そこで、兵が至る所で立ち上がり、戦いと死を呼びかけるラッパの音が草原と雪山に響き渡る。










ケサルが生きたのはどんな時代なのだろう 阿来『ケサル王』① 縁起-1

2013-04-24 01:42:07 | ケサル




『ケサル王伝』はいつ生まれたのだろうか。

11世紀頃、実在の人物をモデルにしているという説が強力である。
先に紹介した文章にも登場した任乃強氏の研究の結論でもある。

その頃、チベットには二度目の仏教伝来があり、その動きの中からケサルが生まれてきたのかもしれない。

だが、ケサルの物語には仏教の世界を超えたなまめかしさが感じられる。
想像を超えた壮大で異形の神々、登場人物の闊達な発想と行動。
土着的な生命力がところどころに姿を見せる。

では、阿来はどのようにケサルの活躍する舞台となる世界を描いているのか。
『ケサル王』では、まず最初にその世界が阿来独特の言葉によって展開される。

ちょっと恐ろしい世界ですが、二回に分けてご紹介します。


  *********************




第一部 神の子生まれる

[物語り:縁起―1]

 その時、家畜としての馬と野生の馬がやっと区別されたばかりだった。
 歴史学者は言う。家畜としての馬と野生の馬がまだ区別されていないのが前蒙昧時代であり、区別されてかなり経つと後蒙昧時代になる、と。
 歴史学者はまた言う。絶対的に多くの場合「後」時代の人々は、往々にして「前」時代の人に比べて自分たちは恐怖と迷いの中にいると感じている、と。

 確かにそうである。後蒙昧時代、人と魔物は下界に暮し、神はすでに天上に行ってしまった。神々は常にさまざまな方法で人間界に降臨はしていたが、それもただ少しの間だけだった。

 人と魔物の争いでは、人はいつも敗北する側だった。神は、人の悲惨な敗北を見るに忍びなかった。忍び難くなると、仲間を下界に遣わして手助けをした。大多数の場合は、助けは功を奏した。助ければ助けるほど忙しくなった。

 蒙昧時代が終わった百年あるいは二百年後、神はほとんど下界へ降りて来なくなった。不思議なことに、神が下界へ降りて来なくなると魔物も消滅した。もしかして、魔物が人を苦しめるのは神に対する挑発だけだったのかもしれない。弱々しい人間をいじめるだけでは、何の面白みも感じられなかったのかもしれない。

 ごく普通の考え方は、魔物は本来この世界を去ってはいなかった、というものである。誰でも知っているように、魔物は変化に富み、なりたいと思えば何にでも変身できる。この上なく美しい女性にも変身できるし、今まさに朽ち果て、腐敗する時の特殊な臭いを撒き散らしている棒切れにも変わることができる。

 魔物はなりたいと思えば何にでも成れるのだが、時がたつにつれて、このような変身そのものに飽きてしまった。そこで、魔物は考えた。どうしてあのように凶悪な姿に変わらなくてはいけないのだろう。いっそのこと人間の姿に変化すればいいのだ、と。そこで、魔物は人そのものに変身した。魔物と人が一体になったのである。

 はじめ、人と神が力をあわせて追撃したため、魔物はもう少しで逃げる場所を失うところだった。こうして追い詰められた時、魔物はよい場所を見つけた。それは人間の心である。
 このぬくぬくとした場所に隠れられると、人は何もできなくなくなり、魔物は逆に好きな時に頭を持ち上げて人をからかうことができた。そういった時人は、自分が自分自身と戦っていると思いこんでしまうのだった。

 これまで、歴史学者は、人間が自分自身と戦った結果とその未来に対してかなり悲観していた。彼らがすでに書いた本、これから書くだろう本は、たとえ何も真相を語っていないとしても、少なくともこの悲観的な態度は根気よく表現されている。

 ことわざに、家畜は遠くまで行ってしまうと天が与えてくれた牧場を失ってしまう、と言われている。話をあまり長引かせないようにしよう。さもないと物語の出発点に戻れなくなってしまうから。

 物語の始まった場所へ行こう。

 リンと呼ばれる場所。

 リンとも、また、リンガとも呼ばれる場所は、今カムと呼ばれている。さらに正確に言えば、過去の“リン”は、現在さらに広いカムと呼ばれる大地に囲まれている。カム、その一つ一つの草原は太鼓のようである。周囲は砥石のように平坦で、真ん中はわずかに隆起している。その中央では、太鼓を打つリズムが響いているようであり、大きな心臓がドクドクと躍動しているようでもある。
 そして草原の周りは、語り部によって、「周りを囲む大小の雪山は、猛獣が列を成して天の果てへ駆けているようだ」と形容されている。

 ケサル大王は天から、駿馬が駆け回るにふさわしいこの場所に降臨した。

 その時、後蒙昧時代はすでにかなり長く続いていた。
 その時、地球上はたくさんの異なった世界に分かれていた。異なった国ではなく異なった世界である。
 その時の人々は、大地はたとえようもなく大きく、たくさんの異なった世界を受け入れることができる、と感じていた。

 人々は、自分たちの世界の他に、違った世界があるのかどうか、はっきりとは分からなかった。だが、何時も天の果てを望んで考えていた。天の果てに別の世界があるのだろうか、と。
 その異なった世界はより邪悪なのだろうか、それともより豊かなのだろうか。
 多くの伝説が、これらの、近くてまた遥に遠い世界を語り想像している。

 リンと呼ばれるこの世界は人々から語られ、リンもまた別の世界を想像していた。






阿来が私の微博に答えてくれた!

2013-04-21 02:06:28 | ケサル


最近、阿来宛てに何度か微博(中国版ツイッター)を書いた。
『ケサル王』への質問や、他の作品との関係など、思いつくままに、自分への問いかけとしてつぶやいていた。
期待がなかったといったらウソになるが、阿来の微博のフォロワーは何十万人、彼の目に留まるかどうかさえわからない。
だがなんと、そのうちの一つに阿来からの返信があったのだ。



「阿来先生、聞くところによると、チベットの語り部は普通琴を弾かないそうです。モンゴルの語り部は琴を弾きとても賑やかに語るそうです。どうして『ケサル王』の中でジンメイに琴を持たせたのですか。ホメーロスの叙事詩と関係があるのでしょうか。そうであっても、ジンメイが琴を学ぶ過程の描写はとても美しい。(4/14)」

それに応えて、

阿来「聞くところによると?それでは確実とは言えない。しっかりと見なくてはいけない」



一瞬舞い上がり、よくわからず読み直し、何度か読み直しても腑に落ちず、ついには心配になった。
私のいい加減な中国語を読み、阿来先生はどう思われたのだろうか。失礼な言い回しでもあったのだろうか。

でも、この中で使われている「しっかりと見る」という言葉、中国語にすると“看見”。これは阿来の散文集の題名にも使われている言葉だ。
阿来にとっては大切な言葉と言っていいだろう。
その言葉を私にもかけてくれたのだ、きっと励ましてくれているのだ、と解釈することにした。
阿来先生には、“看見”という言葉を心に刻んでおきます、と返信した。

とても刺激的な出来事だった。


六弦琴への疑問を持ったきっかけは…

『ケサル大王』の大谷監督に、阿来は語り部の様子をどのように描いているかと尋ねられた時に、他の特徴と並べて、六弦琴を持っていると伝えた。
阿来の『ケサル王』の中では、六弦琴はかなり重要な役割を果たしている。そしてそれはごく当たり前なことと思っていた。

それに対して監督からのコメントがあった。
「チベットの語り部は楽器を持たないはずです。モンゴルでは楽器を持って語るようですが」と。

何の疑いも持たずにいた自分に慌てた。

そこで、数少ないケサル関係の本と、ネットで調べてみた。

六弦琴はチベットでは大切な楽器だという記述がまず目に入った。
  <札木年はチベット族が弾く楽器で心地よい音を出す琴という意味である。俗に六弦琴と呼ばれている。>
  <ある日、大海の中から札木年を持った天女が現れ、弾きながら心を込めて舞った。>

更に調べていくと、語り部は楽器を持たないという記述もいくつか見つかった。
  <チベット族のジャンガと呼ばれる芸能には六弦琴が使われているが、歴史の長い「ケサル」はその影響を受けていない。>
  <伴奏を伴わない原始的な語りは独特な風格を見せている。>

  <モンゴルでは芸能が発達していて、ケサルを語る時も楽器を使う>という記述もあった。

では、何故楽器を使わないのか、という疑問は残っているのだが。

阿来は語り部と六弦琴を結びつけ、独自の美しいイメージを作り上げたのだ、というのが私のその時の結論だった。


こうやって調べていくうちに、少しずつ語り部の姿が私の中で形になってきた。
(帽子の問題その他、まだまだ考えなくてはならないことは多いが)

同時に、長年関わってきた監督の、ものを作る人としての鋭い目線に感動すると同時に、これからの道程の遥かさを思わされた。


そのきっかけとなった六弦琴。そこに阿来の目がいったことに、何か不思議な力を感じた。
阿来は実際に語り部が六弦琴を弾くのを「見た」のだろう。




その、阿来『ケサル王』の、語り部と六弦琴の美しい出会いの部分をご紹介したいと思います。
牧人だった若者ジンメイが語り部としての力を授かったばかりの旅の途中の出会いです。


             *****************


 ジンメイは一本の道しかない小さな村に着いた。村には六弦琴を作る老取った職人がいた。
 ジンメイが、人づてに聞いたその工房の庭に入っていった時、琴職人は出来たばかりの琴を試していた。
 貝のように丸い琴の空洞に息を吹きかけ、耳に近づけて注意深く音聞き取る。その顔には満足げな笑顔が浮かんでいた。
 
 彼は言った「さあ、試してみなさい」

 彼の弟子の一人が前に進み出て琴を受け取ろうとした。だが、琴職人は言った。
 「お前じゃない。あの男だ」

 彼は琴を直接入って来たばかりの男の前に差し出した。
 ジンメイは言った「いいのか?」

 老人は三人の弟子を見て言った。
 「これはとても出来の良い琴だ。わしが作った中で一番素晴らしい琴だ。今、これを受け取るべき者が来たのだ」

  ……

 「どうして分かったんです。親方は占い師でもないのに」
 親方は三人の弟子には構わず、ジンメイの方を向き、
 「持って行きなさい。お前は夢に見た様子そのままだ」
 「夢に見たんですか」
 「そう、神が見させたのだ。神は言った。お前の琴は一番ふさわしいものに出会う、と。そして言った。お前の琴作りの生涯は終わった、と。さあ、若い人、お前の琴を受け取りなさい」

  ……

 こうして語り部は自分の琴を手に入れた。
 三日後彼は琴によって語りに必要な拍子をとることが出来るようになった。
 歩いている時、神の使いが体を縮めて彼の耳の奥にしゃがんでリズムを打っているように感じた。その拍子にあわせて歩き、その拍子のとおり、大通りを得意揚々として歩く人々のように体を揺らせた。

 こうして歩くうちに、彼は突然理解した。
 水の動き、山の起伏にはもともと同じようなリズムがあることを。
 一つのリズムだけでなく、別のリズムもあった。
 風が揺るがす草の波、空では様々な鳥が様々なリズムで翼を鳴らしていた。

 より隠されたリズムを感じることも出来た。
 風が岩の空洞を通り過ぎる時、水が樹の中を昇っていく時、鉱脈が地下で伸びて行く時のリズム。

 彼は琴を操り、事も無げに、それらのリズムを真似していった。

 叔父の家のまだ青い実を付ける果樹で覆われた門の前に来た時には、すでにさまざまなリズムを繋ぎ合わせていた。
 いつの間にか、いつも耳の奥でリズムを刻んでいた神の使いも消え、彼の手の中の琴からこの長く古い歌のリズムが聞こえてくるようになった。

 軍の太鼓の掻き立てるようなリズム、馬の蹄の軽快なリズム、神が降りてくる時の憤怒の雷鳴、妖怪が鞭を鳴らしながら踊る時の稲妻…









「ケサル王伝概説」のまとめ

2013-04-14 11:33:27 | ケサル
「ケサル王伝概説」のまとめ




前回まで5回に渡ってご紹介した阿来の「ケサル王伝概説」。
実はこの前に10行ほどのコメントがあり、この文章はあるテレビ番組のために書かれたということが分かる。

番組は、歴史を分かりやすく語るもので、だが、阿来はきちんとした文学の形で伝えたいと考えていた。
意見の違いにより結局番組化されず、阿来の文章も1回のみで終わりとなってしまった。

阿来自身は10回まで講義の準備していて、その計画が書かれていた。

講義内容計画
1. ケサル史詩概説
2. ケサルの内容
3. 様々なケサル語り部
4. ケサルの映し出すチベット史1
5. ケサルの映し出すチベット史2
6. ケサル史詩の美意識の特徴及びチベット文化の美意識の風格
7. ケサルとチベット仏教の関係
8. 史詩から見た歴史上の漢、チベットの関係
9. 史詩から見たチベット族とその他の民族と地区の関係
1 0. ケサル史詩とその他のチベット族口承文学の姿と価値

もしこれがすべて計画通りに行われたらと想像すると、なんと残念なことか。
ただし、阿来も書いているように、第1回だけでもケサル史詩の基本はしっかりと伝えられてる。

以下にもう一度簡単にまとめてみた。


      ******************


チベットの英雄史詩『ケサル王伝』は歴史の事実を基礎として生み出された。
歴史が物語へと生まれ変わるには、物語が民間の語り物として伝わり、最後に文学者がそれを整理して小説にする、という長い時間が必要である。

その過程で、物語を民間に伝えていく役割を果たしたのが語り部である。

語り部は、ある時不思議な体験をして、その後ケサルの物語を授かるという。
教養のない者が優雅で古典的な言葉を突然語り始める。その様子は「神が乗り移ったような」とも映る。

彼らは自分は神から選ばれたものと信じているのである。

語る時にはみな特異な帽子をかぶり、まず帽子を讃える歌を歌う。
形式的な語りと帽子そのものによって、語り部たちはケサルの世界へと導かれていく。

彼らは今でもチベットのどこかで語り続けている。そのため、ケサルは生きている史詩といわれている。

その確かな長さを数えることは難しい。それは日々生まれ変わっているからである。
だが、百数十万行ともいわれる長さは、これまで世界最長といわれてきた叙事詩『イーリアス』や『ラーマーヤナ』等に比べても、圧倒的である。
今では『ケサル王伝』こそ世界最長の叙事詩と認められている。




       *   *   * 



この語り部と言う存在をどう考えればいいのだろう。
多くの語り部が自身の神秘的な体験を語っていて、研究者が今も研究を続けている。

阿来の文章にもあったように、チベット族の文化の中には、言葉に対する畏敬の念が深く刻み込まれている。
言葉をあつかうことは時には天の秘密を漏らすことであり、それは選ばれた者のみに許される行為とされている。
語り部は自分をそのような一人と信じ、強い想いを持って語ることにより、より深く物語の世界に入り込み、神がかりともいえる状態になっていくのかもしれない。

そして、言葉そのものが持つ力がそこに何らかの作用を及ぼすのではないだろうか。

更に、形式という問題。
ケサルの語りの中に仕組まれている固定化された形式が語り部の語りを助けている、と考える研究者もいる。

これらはとても興味深い問題なので、これから研究者の言葉をできるだけ紹介していきたい。

このようなケサルはどのように発見されたのか。発見とはどういうことなのか。

この概説の書き方に沿って言えば、被征服者の文化が征服する側によって見出された時、初めて発見されたといえる、と阿来は考えたようだ。
そこには支配される側と支配する側という階層の差が存在している。

この問題もまたとても重要で、阿来の創作の基礎になっているのではないかと思われる。
阿来の『ケサル王』を読みながらゆっくり考えていきたい。










ドキュメンタリー『ケサル大王』 大阪での上映会のお知らせ

2013-04-09 03:19:05 | ケサル


ドキュメンタリー映画『ケサル大王』(監督・大谷寿一)

4月12日(金)まで、大阪・十三のシアターセブンで、が上映されています。
8年間、ケサルを追って東チベットを何度も訪れ完成させた美しい映画です。
 


今も続く語り部による語りとはどんなものか

ケサルの舞台、東チベット・カムとはどのような場所なのか

カムの人々はケサルをどのように受け止めているのか

今心配されるチベットの問題の根源はどこにあるのか

………


言葉だけでは伝わりにくい美しく特異な文化が、
映像の力によって目の前に広がります。

大阪近郊の方はぜひご覧になってください。


詳しくは監督のホームページ・ケサル大王をご覧ください。















阿来が語る『ケサル王伝』5  『ケサル王伝』はどのように発見されたか 2

2013-04-09 01:44:49 | ケサル
『ケサル王伝』概説




3 『ケサル王伝』はどのように発見されたか  その2




ここで用いた資料は、主に四川社会科学院研究員・任新建の文章から引用した。
国外でケサルの物語を発見する過程について、任氏はかなり詳しく説明している。

1886年、ロシア人、ペーター・ジーモン・パラス(Peter Simon Pallas)がモンゴルを旅した時、この史詩のモンゴル文を発見した。
後にサンクトペテルスブルグで出版された訳本は彼が集めたものだ。

1909年には、フランスの宣教師がラダック(現在はインドパキスタン紛争によりカシミール地方に属す)でチベット語本を二冊集め、翻訳後イギリス領インドで出版した。

1931年、フランスの女性探検家デーヴィド・ニール夫人が四川からチベットに入り、林葱土司の家から土司が秘蔵していた『ケサル王伝』の写本を借りて読み、その後の旅程で、現在の青海省玉樹地区で語り部の語りを記録した。
後に、彼女はこれらの内容を整理して本にし、『リン、ケサル超人の一生』という名で、フランスで出版した。これは本来の『ケサル王伝』そのままの姿ではないが、かなり完全に史詩全体の大体の輪郭を紹介している。

1950年代後、国外のケサル研究は大きく進展し、すぐれた功績を残した「ケサル学家」が次々と現れた。前述のスタンはその中でも抜きんでた一人である。

今この時代、「発見」とは、もはや自己認識ではなく、より強い力を持った外界による発見のことである。
地域と地域の間でも、国家と国家の間でもそうであるし、異なった種族や文化の間もそうである。
そのため、青蔵高原に伝わるチベット族の史詩『ケサル王伝』の発見について語る時、中国以外の西方の世界による発見を指し、また中国の主流の位置にある漢文化によるこの史詩の発見をも指している。

西方の発見と比べると、これは優美な物語である。

時間を1920年代末に戻そう。

四川のある高校で四川郷土史を教えていた教師が教鞭を捨て、招きに応じてカム―今の四川省甘孜チベット族自治州の考察に加わった。
後に、私もまた『ケサル王伝』の広がりを調べるため何回もここを訪ねた。私は性能のいいクルーザーで出かけた。
だが、任乃強という教師が訪れた時代、この十数万平方キロメートルの土地には公道はなかった。
それでも、彼は1929年から30年の1年の間に、まず濾定、康定、道孚、炉霍、甘孜、新龍、理塘、巴塘などの10余りの県を調査した。

任氏の話によれば、「どの県へ行っても、街と農村を回り、回り終われば、一休みする。土地の人を労うごとに、彼らの話を集め、政治、軍事、山川、風物、民族、歌謡など…みな記録した」
その後これらの記録を次々と内地の漢文の雑誌に発表した。
その中に『ケサル王伝』を紹介したものがあった。



それより前、漢族の地区にもこの史詩は伝わっていた。だが、人々は大まかに伝わったもので満足し、研究はしなかった。
そして、これはチベット族の人たちが特別な方法で武聖人・関羽の物語を伝えたものだと勝手に判断していた。
後には、チベット族の人たちがチベット語で三国志の物語を伝えたとして、「蔵三国」または「蛮三国」と呼んだ。

任乃強は1930年に始めて漢語で漢語世界の人々に向けて、この「蛮三国」と呼ばれる作品はチベットの民間に伝わる「歌を含んだ」文学芸術であり、内容は「三国演義」とは関係ない、と発表した。
さらに、語り部の語調を生かしてその一部分を翻訳した。

その時の現地調査で、任氏は文化的成果を収めただけでなく、「野蛮で荒れ果てた地」で生活していると見られていたカムのチベット人は「内地の漢人が及ばない四つの美徳―仁愛、倹約、ゆとり、礼を持っている」ことを発見した。

彼は、この民族を本当に知るには、言葉の壁と民族の心理の違いという二つの障害を乗り越えなくてはならない、と感じた。
それにはチベット族の女性を妻とすのが最良の方法と考えた。
そこで、仲人を通してニャロン県のロジュチンツォを妻として娶った。
彼が始めて漢族の地区に紹介したケサルの物語は、7日に渡るチベット式婚礼で、妻の姉が語ったものを記録したものだった。

この物語を、私は任新建の書いた『ケサル王伝』研究史を回顧する文章から知った。
任新建氏は任乃強とロジュチンツォの息子である。彼は父親の跡をついで、チベット学研究に大きな業績を残した。

一人の作家にとって、架空の伝奇物語をもう一度構築しなおし、その広大な物語の体系の中から歴史の姿が立ち上がってくるのを目にするのは、非常に不思議な体験である。
まず古い物語が準備されているため、私の創作も野放図にはならず、幾度も確かな歴史の場と文化の間に引き戻された。
写作のすべての過程は厳粛な学習の道程となり、自己の感情が精神の豊かさで満たされた。

我々が共にこの過程を味わい、共にこの偉大な史詩を味わい、チベットの歴史と文化を味わい、この同じ世界に多元的で豊かな文化がまだ存在していることを見る機会を持つ時、それは大きな意義のあるものになるだろう。

さて、もう一度始まりに戻ろう。引用した詩の形式を持った頌辞を解釈してみよう。

この頌辞を漢訳した劉立千は、チベット学に造詣の深い漢学者である。彼によると、この詩の前の三句の意味は次のようである。
「文殊菩薩の知恵は尽きることがなく、咲き誇る花が幾重にも重なって無限に開いていくようである。
この知恵の花は、美しい青年が少女の心を捉えるように私たちを魅了する」


劉立千は指摘している。
これはチベット族の修辞学の書『詩鏡論』の形象修辞の手法を用いている。
比喩された事物を用いて、更にまた別の事物を比喩している。比喩の中に比喩を重ねているのである。

これは、異なる文化が育んだ異なる言語には、常に、他の言語にはない特別な感受性、特別な表現があるということを語っている。
こうして、多元的な文化の存在によって、この世界は豊かで多彩なものになっていくのである。







阿来が語る『ケサル王伝』4  『ケサル王伝』はどのように発見されたか 1

2013-04-05 01:20:48 | ケサル


『ケサル王伝』概説






3、『ケサル王伝』はどのように発見されたか  その1



「発見」、これは私にとってはつらい話題である。

材料が少なく、糸口を整理するうえで何か困難があるからではなく、この言葉が持っている情感の激しい揺らめきのためである。

私たちはすでにこの世界に存在し、すでに自己というこの世界の存在を認識している。
そうでなければ私たちに宗教はなく、文学も史詩もない。
なぜならすべてのこのような精神的な存在は、人が自分が地球のある場所に存在しているのに気付いているからであり、このような存在の辛さと栄光に気付いているからである。このような存在を描き、このような存在を讃えるのと同時に、このような存在に問いかけているからである。

この意味から言えば、『ケサル王伝』もまたこのような存在に気付いた結果である。
この史詩が生まれてから、すでに語り部や、それを聞いた人々や、文字に記録した者によって発見された。

問題は、コロンブスたちがイベリア半島で帆を揚げ出航したその時から、この世界の規則が変わり始めたことだ。
それ以前は、一つ文化、一つの民族、一つの国家はただ自分たちを認識すればよく、それが即ち発見だった。

だが、この時から、この世界の様々な文化は進んだものと後れたものとの区別が出来た。優勢と劣勢の区別が出来た。
この時から自分を認識するだけではすまなくなった。どのようなものも、優勢な地位を占める文化と種族によって発見されることが必要となった。

そのため、インディアンはアメリカで数千年存在していながら、15世紀までヨーロッパ人によって発見されるのを待った。
中国の敦煌はひと時賑わっていたが、その後また砂漠に包まれて眠りにつき、やはりヨーロッパ人によって発見されるのを待った。
チベットと中国内陸は頻繁に行き来していたが、最後にはやはり西洋の探検家によって発見された。

『ケサル王伝』の運命も同じである。

前にも述べたように、フランスのチベット学者スタンはこの史詩が発見された日を1836年としている。
その根拠は、その分章本の訳本がヨーロッパで出版されたことである。

面白いのは、この訳本はモンゴル語を元に翻訳された。つまり、ヨーロッパ人が発見する前、このチベット族による史詩はすでに生産方式や宗教がよく似たモンゴル人によって発見されていたのである。

だがこの発見は発見とはされない。ヨーロッパ人に直接発見された時に初めて発見とされるのである。
そこで、世界の多くの事物が発見された時期と同様に、ケサル発見の時期も欧米人の目が及んだ時間で確定される。

ここで私が述べたのは一つの事実である。コロニアル時代からそのままポストコロニアル時代へと続く基本的事実であり、スタン個人に対して不満があるわけではない。

むしろ、彼個人はチベット学とケサル研究の方面に優れた功績を残している。
彼が1959年フランスで出版した『チベット史詩と語り部の研究』、70余万字に及ぶこの大著は、私が始めてこの題材の領域に踏みいれた時の入門書の一つである。

次に、漢語の世界でこの作品が発見された過程を述べよう。











阿来が語る『ケサル王伝』3  最長の史詩 2

2013-04-01 01:49:10 | ケサル
『ケサル王伝』概説


2、最長の史詩  その2




史詩は、過去には吟遊詩人が語るものだった。
ホメーロスの史詩と呼ばれる『イーリアス』『オデュッセイア』は、ホメーロスという目の見えない、琴を持った古代ギリシャ人が、古代ギリシャの様々な都市国家の間で演じてきたものである。

古代ギリシャは、知られているように、統一された国家ではなく、多くの都市国家が集まったものだった。
このような都市国家は常に連合して外来勢力の侵入に共同で立ち向かわなくてはならなかった。
同時にこれらの都市国家の間でも、時には戦い時には連合するといった離合が繰り返されていた。

吟遊詩人とその物語はこれらの都市国家の間を自由に跳び越え、彼らの共通の輝かしい記憶となった。
だが、これらの記憶はすでに紙の上の文字へと固定されてしまった。バビロンの史詩はすでにわずかな人にしか理解できない泥の板の上の文字へと固定されてしまった。

ただ『ケサル王伝』のみが、今でもなお青蔵高原のチベット人の間、草原の牧場、ヤルツァンポ河、黄河、金沙江、高原を奔流する大河の両岸の農耕の村で、様々な民間の語り部によって語られている。

今でも、ケサルの物語の伝わり方はこれまでと同じで、何も変わっていない。
史詩はその誕生の初めにすでに備わっていた方法でこの世に生き、この世に伝わっている。

著作者が著作する前、まず頌詩の形で菩薩の加護を求めるように、これらの語り部たちは特殊な帽子を被る。
そして、特別な帽子の歌によってこの語り部の帽子の各部分に備わっている象徴的な意味を解説する。

彼らがこうするのは神の加護を願うだけでなく、より重要なのはそれが一種の宣言なのだ。
史詩の語りは神の命令と特別な許可によるものであって、民間の娯楽としての語りとは大きな違いがあると告げているのである。

時が経つうちに、語り部たちが語り始める時、いくつかの定型化された儀式が行なわれるようになった。

語り部はみなこの特別な帽子を持っている。チベット語では「仲厦」という。
すでに述べたように「仲」は物語の意味、そして厦はまさに帽子という意味である。
ならば、この帽子とは物語を語る時に被る専用の帽子ということになる。

史詩の物語を正式に語り始める前に、語り部はこの帽子を褒め讃える。
なぜなら、この帽子についているものすべてとその形は、ある種の象徴だからである。
彼らは帽子を全世界になぞらえる。

帽子の頂は世界の中心であり、他の大小様々な装飾物は、河や湖や海、日月星に喩えられる。
帽子はまた埋蔵された宝の山に喩えられる。帽子の先端は山の頂上、その他の装飾物と形は金銀銅鉄などの豊富に埋蔵された宝を象徴している。

こう語った後、やっと物語りへと導かれていく。

ケサル王によって多くの妖魔が降伏され、豊富に埋蔵されている宝が護られた。
そして今、人々は宝の中の無尽の富を楽しむことが出来るのである、と。

以上に述べた資料はケサル研究の専門家降辺嘉措の著書『ケサルの初歩的研究』から引用した。
私も何度も「中肯」の語りを聞いた。
だがこの文章の中では、専門家の研究成果を出来るだけ引用する。

どうしてかと言えば、ケサルという偉大な史詩の本編以外にも、多くの人に、国内外の史詩を研究する研究者たちを知ってもらい、研究の成果を分かち合いたいと考えたからだ。

一人の作家として、私はかなり真剣にこの領域に踏み込んだ。
だが、小説が出版され、この文章を書き終われば、私はこの領域を離れ、新しい題材の領域へと入って行く。
そして、これらの研究者たちは、この領域の中でこれからも長く仕事を続けていくのである。

彼らの研究の成果を引用するのは、自分を充実させるためであり、彼らの労働と成果に敬意を表するためである。

降辺嘉措はその文章の中でこう語っている
「このような帽子への講釈は、定型化された型となり、特別な曲調が作られた。チベット語で「厦協」という」
「その歌詞は史詩と同じく想像力に富み、比喩が生き生きとして適切で、言葉は簡潔で美しく、それだけを単独で語ることが出来る。優れた語り文学である」















阿来が語る『ケサル王伝』② 最長の史詩 2

2013-03-23 21:19:48 | ケサル
『ケサル王伝』概説


2、最長の史詩  その1

私が今この文章を書いているのは、私が現代の手法で、史詩『ケサル王伝』をもとに、『ケサル王』という小説を書いたからである。

この物語は青蔵高原のチベット族の間で一千年に渡って伝えられてきた。
この長い時間と広大な大地の間に、この物語を語る者が数えきれないほど多く生まれている。
私はその中の一人に過ぎない。

この『ケサル王伝』と呼ばれる物語は、学会ではいくつかの呼び方がある。
ある時は神話と呼ばれ、ある時は史詩と呼ばれる。実際には、人類の遥か昔の歴史に関する伝説の中で、史詩と神話はほとんど同じものだった。
作家茅盾は史詩を「神話の芸術化」と言ったが、それはこの意味である。

この史詩は現在二つの記録を持っている。
一つは、前にすでに述べた、生きている史詩であること
一つは、『ケサル王伝』は世界最長の史詩であること。

この史詩は青蔵高原に長い間伝わって来た。
だが、外の世界から発見され認識され、系統的な研究がなされたのは200年余り前のことである。
それ以前は他の国の史詩が最長史詩として記録されてきた。

今、世界の文化はヨーロッパのルネサンス以後の文化を主流としている。そしてルネサンスの精神の源は古代ギリシャにある。そのため、かなり長い間、史詩といえばギリシャの史詩のことだった。
ギリシャ史詩の代表は『イーリアス』と『オデュッセイア』である。
これらの作品は当時、一人の盲目の詩人ホメーロスが琴を手に四方を彷徨いながら吟唱した、と伝えられている。
そのためホメーロスの史詩とも呼ばれている。

『イーリアス』は15,693行、『オデュッセイア』は12,411行ある。
ホメーロスの史詩が世界に与えた影響は大きく、今でもまだ舞台劇、ハリウッドの大作、小説へと書き換えられている。
そして、全世界の百人近い作家が参加する国際的なシリーズ「神話の再生」に加えられている。
私もまたこの企画に参加している一人であり、長編小説『ケサル王』によって、多くの優秀な作家と共に「神話の再生」に関わっている。

ホメーロスの史詩の後、人々の視野が広がるに連れて、インドの二大史詩『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』が発見された。
『ラーマーヤナ』は最も凝縮された短いもので3万行、『マハーバーラタ』では20万行を越える。
インドの偉大な詩人タゴールはかつてこう言った。
「もしヒマラヤのように高潔な普遍的理想と大海のような深遠な思想を同時に一つの作品にしたら、それはラーマーヤナになるだろう」
先ごろ亡くなったばかりの季羨林は70歳の時に『ラーマーヤナ』の新しい中国語訳を完成させている。

これまでに四部の有名な史詩を取り上げた。これに世界で最も古いバビロンの『ギルガメッシュ』を加えて、世界の「五大史詩」と呼ばれている。

……

では、『ケサル王伝』はどうだろうか。

フランスのチベット学者スタンは「『ケサル王』序言」の中でこう述べている。
「ヨーロッパでは1836-1839年の間に訳文を通して初めてこの伝奇物語が知られるようになった」
1836年『ケサル王伝』の訳本がロシアのサンクトペテルブルクで出版された。だが、系統だった研究が始まるには更に百年ほど待たなくてはならなかった。
そうでなければ五大史詩は六大史詩と呼ばれていたかもしれない。

このように言うのは、単純な民族的感情によって自分の文化の中の全てのものを無条件に偉大と見ているからではない。
研究と創作の過程で、私は常にこのような感情を克服するよう気をつけてきた。
知識は教養となり、教養は私たちの意識の中の、近視眼と偏狭な意識によってかきたてられる感情を打ち消す助けとなる。

始まりの部分で述べた、著作者が菩薩を褒め讃えるのは、それを通してこのような洞察力を得たいと望むからである。

チベット族は良く学び良く聞き良く考える者に美しい呼び名を送る。
「善知識」である。
もし私が何かを褒め讃えるとしたら、この規準にかなった「善智識」を讃えるだろう。

『ケサル王伝』はまさに世界第一を作り出した。史詩の中で、長さでは第一である。
どのくらいの長さなのだろう。百万行以上、百五十万行以上とも言われる。
具体的な数字に関しては様々な資料、様々な意見がある。どうして統計数の上でこのように差があるのだろうか。

それは、前に述べたいくつかの史詩と異なって、この作品は主に多くの民間の語り部の口頭の語りによって伝わっているからである。
このような民間の語り部とはいわゆる古代の吟遊詩人である。
それぞれの語り部が語る時、決まった手本があるわけではない。たとえ同じ章の物語を語るにも、それぞれの語り部によってそれぞれの想像とそれぞれの表現があり、固定した文章に整理する時に、すでに長さに差があった。

更に重要なのは、前に述べたように、この史詩はまだ成長していて、いまだに新しい部分が生まれていることである。
ケサルは今でもまだリンと呼ばれる国の国王であり、まだ軍を率いて東へ西へと戦い、妖魔を倒し、辺境を切り開き領土を拡大している。物語の長さはまだ増え続けている。








阿来が語る『ケサル王伝』① 生きている史詩

2013-03-21 02:01:16 | ケサル
阿来が書いた『ケサル王伝』の解説をご紹介します。
2009年、自作の『ケサル王』を書き終えた阿来は、あるテレビ局に請われて、ケサルに関する講義をすることになり、そのための文章を書きました。(結局番組は取り消しになったようです)

分かりやすく書かれているので、所々省略しながらご紹介することにしました。
3部に分かれています。今回はその1です


     ***************



『ケサル王伝』概説

1、生きている史詩

まず一つの詩から私の話を始めよう。


知恵の花心は、幾重にも重なり その麗しさは少年のようです

諸法を見つめる時 あたかも鉄の鉤となって 美女の心を捉えるかのようです

本質を見つめ 曇りなく自己を知れば 様々に変化する舞や歌が現れるでしょう

文殊菩薩よ 作者の口元を美しく飾ってください 



チベットでは、もっと詳しく言えば、チベット族に伝わる著作の中では、これから展開するのがどのような題材であっても、どのような形式のものであっても、必ずまず始めにこのような詩が書かれている。
この詩はチベット族の歴史の名著『チベット王臣伝』の前置きに、作者が記した頌詩である。

この詩は文殊菩薩に捧げられている。寺に入ったことのある者なら誰でもこの菩薩を知っているだろう。この菩薩ともう一体の普賢菩薩は常に釈迦牟尼佛と共にあり、左文殊、右普賢といわれている。一方は獅子に乗り、一方は大きな象に乗っている。乗っている動物と方位が二つを見分ける大きな特徴となる。

では、どうして文殊菩薩を褒め称えるのだろう。それは文殊菩薩が知恵の象徴だからである。また、語自在の王とも言われている。
文殊を褒め称えることは、その神の力の加護を得て、智を解き放ち、著作が滞りなく進み、洞察と真の知恵が満ちるよう願うことなのである。

……

チベット族伝統の考え方では、著作とは神性をおびた事柄である。
それは、人生や歴史の真理を求める事であり、時には天の秘密を漏らすことでもある。
だが、この秘密は天が故意に漏らすもの、天が選んだ者を通して示すものでもある。
そのため、人は著作の衝動を持った時、天が自分を選んだのだと考える。
そこで、天の神に向ってひれ伏し褒め称えるのである。


私が語ろうとしている『ケサル王伝』は文学者が書いた作品ではなく、広く長く民間に伝わる口承文学である。
物語の主人公ケサルは本来天界に暮していたが、人の世が乱れ苦しんでいるのを見て、大願を発し人の世に降る――だが、テレビドラマによくあるように雲に乗って突然表れるのではなく、人の世に身を投じ、普通の人間と同じように成長し、人の世の様々な苦しみを経て大きな功績を成し遂げ、最後にまた天に帰って行く。

これは正確な歴史書ではない。だが、この詩史を研究した専門家の一致した結論では、この物語の曲折はチベットの歴史の事実を反映している、という。

人々が興味を抱くのは往々にして真実の歴史ではなく、芸術化された歴史である。この点は、他の民族の文化でも同じだろう。
漢族の文化でも同じであり、例えば玄奘が経を取りにいく『西遊記』の伝奇物語、「三国志」から生まれた『三国志演義』、そして現代の映像作品やネット上の大量に現れている面白おかしく語られる作品もそうである。

……

『ケサル王伝』は歴史の事実を基礎として生み出された作品である。ただその中の歴史の姿はかなり希薄で見分け難くなっているが。
多くの研究者が私に教えてくれたのは、歴史から物語へと生まれ変わっていくには、まず物語が民間の語り物の台詞のような方式で伝わり、最後に文学者がそれを整理して小説にするという長い長い過程を経なくてはならない、ということである。

『ケサル王伝』は千年以上を経ているが、まだ、様々な民間の語り部が民間で自由に伝え歩いている段階でもある。

この史詩は様々な歴史の段階で、異なった語り部の異なったバージョンが記録されて来た。そのため多くの異なった記録本が現れた。
だが、これらの記録本もこの広大な史詩が民間に伝わり、伝わる中で様々に変化するのを停止させなかった。

『ケサル王』を書く準備を始めたころに、四川ガンゼ州セルタ(色達)県で二人の語り部に会った。私はこの様な人たちにたくさん会って来たので、名前を忘れてしまった。

一人は女性で教育を受けていない。
彼女は放牧している時に不思議な模様の石を集めた。コレクションがブームになり、何でもコレクションの対象になる現代、彼女がこれらの石を集めたのは値上がりを待つためだろうか。いや、彼女はこの世界に奇石のコレクションがあることを知らない。

彼女が言うには、それぞれの石が彼女にとっては映画のスクリーンのようなものなのである。
神に祈りを捧げ、ふさわしい石を手のひらに乗せると、ケサルの物語の断片が目の前に現れ、彼女は目を軽く閉じて歌い始めた。

もう一人の老人は老僧が座禅を組んでいるかのように、自分の家で静かに座り、ほとんど沈黙している。だが、一旦霊感が降りてくるとあっという間に、それまでと違う状態が現れる。それはどんな状態だろうか。
一人のフランス人が一世紀ほど前このような民間の語り部と接し、言った。
「それは神が乗り移った興奮状態だった」

始めの方で私は、「神性」による著作、と言った。チベットの民間の口承文学にも同じような特徴がある。
彼らは、語る力は神から賜ったものと信じている。この形式は現代人から見たらあまりにも神秘的に映るだろう。

例えばあの女性は、教養がなく字も読めないが、飛びぬけた語りの能力を持っている。
教育を受けていないか、程度がかなり低い者達が語る時も、用いられる言葉は日常の話し言葉ではなく、リズミカルで調和の取れた優雅で古典的な文語なのである。

フランスのチベット学者スタンは言う。
語りの台詞は様々な場所を流浪する職業的な歌手や吟遊する語り部が伝えてきたものだ。ある者は詩史すべて、または大部分の章を身につけており、またある者はその中の一部分だけを身につけている。
もし彼らを招いて語ってもらったら、日に日を継ぎ、週に週を加えて、空んじた物語を語り続けることになるだろう。

チベット語ではこのような民間の語り部を「仲肯」と呼ぶ。仲は物語、肯は神から授かったという意味である。
意訳すれば、「神から力を授かった語り部」となる。
このような者達が、青蔵高原の遊牧と農耕のチベット族の間の至る所にあらわれてこの物語を伝えるのである。

語り部以外にも、文字でケサルの物語を伝える者にも会った。
前に書いた二人の語り部のいるあのセルタ県で、私はそのラマに会った。新しいケサルの物語を書いていた。

人は言うかもしれない。では、彼はあなたと同じ作家ではないか、と。
もし私が同意しても、ラマはこの様な見方に同意しないだろう。
第一に、彼はケサルの物語のみを書く。
第二に、彼は、物語は自分が書いているとは考えていない。
物語はすでに発生し、すでにそこにあり、ただ、秘密の宝物と同じように彼の心に深く埋められているのである。彼の心は宝を含んだ鉱脈である。彼がするのはただ、神の神秘な開示の下に、心の中から、宝蔵を掘り出すように物語を掘り出すことだけだ。

彼らはケサル研究界から「発掘する語り部」と命名されている。

2006年夏、私は国内で権威ある二人のケサル研究専門家と共にこのラマを訪ねた。
彼はちょうど新しい作品を仕上げた所だった。より正確に言えば、ちょうど発掘を成功させた所だった。
座禅用の席に座った彼は衰弱しきっているように見え、私たちと話す声は低くかすれていた。
だが、彼の筆から姿を表した新しいケサルの物語について語る時、彼の目の中には特別な光が煌めくようだった。

もし、簡単に結論を出すなら、これは神性の輝きを放つ、生きている史詩といえる。









ケサル王伝  王になったケサルが天に帰るまでの簡単なあらすじ

2013-03-15 18:37:19 | ケサル


王になったケサルは、平和な毎日に落ち着かない。
周りの者が、王に11人の妃を娶らせる。ジュクモを入れて妃は12人となる。

天の母の命により、ケサルは修行に出かける。妃の一人メイサを連れて行くよう命じられたのだが、ジュクモの嫉妬のため、メイサを置いて修行に行く。
その間にメイサが魔国の王にさらわれてしまう。

こうして、いよいよケサルの戦いが始まる。

一人魔国に向ったケサルは、魔王の妹アダナムの助けを得て、魔王の魂の拠り所を取り除くことによって、魔王を倒す。
勝利の後、アダナムの求めに応じて彼女を妃の一人に加え、メイサとリン国に帰るのだが、途中で三人の暮らしを楽しみ三年を過ごす。

その間、今度は第一の妃、ジュクモがホル国に連れ去られ、ホル王の妃にさせられる。
なかなか帰らぬケサルを待ちきれず、ホル国に攻め入った兄が戦死する。
やっとリンに帰ったケサルはジュクモを救いに行き、ホル王を倒す。
ジュクモはホル王との子供を生んでいたが、ケサルはその子を殺し、ジュクモを連れ帰る。
兄を倒したホル国の大臣をリン国に迎える。

リン国の塩を求めて兵を進めてくるジャン国と戦う。
ジャンの王子ユラトを仲間にする。
ジャンの王はケサルの魔法により、飲み込んだ魚が体の中で爆発し亡くなる。

以前から幾度かリンを占領しようと戦いを挑んでいたモン国と戦い、王を倒す。

この四回の戦いがケサルの物語の中心となる。
他に十八の小国を次々と倒していく。
戦いでは、様々な戦神や山の神がケサルを助け、ケサルも知恵を用いて相手を倒していく。

最後に、魔王の妹だった妃アダナムを地獄から救い、ケサルの代わりに地獄に落ちた母を救い出し、ケサルは天に帰って行く。



        *******************


こうして見てくると、ケサルの周りにはいつも女性がいて戦いの動機になることが多く、戦いのたびに仲間を増やしていきます。それがこの物語の魅力なのかもしません。

様々なバージョンがあり、今でも研究は続けられています。
登場する神々やエピソードを調べていくと、それはチベット文化の精華であり、目くるめく世界を味わうことになるでしょう。
東チベットの人々は今でもケサルを実在の人物としています。


阿来の「ケサル王」はどのようにケサルを描き、現代の東チベットの人たちはそれをどう受け入れるのか。
これから、少しずつ思いつくままに考えていきたいと思います。
そのため、あらすじは本当に簡単に済ませてしまいました。これから更に膨らませていきますので、ご期待ください。









ケサル王伝  神の子の誕生から王になるまで

2013-03-05 23:58:42 | ケサル


ケサルは梵天の三男が自ら望んで地上に生まれ変わったものであるというバージョンと、梵天の孫が選ばれて地上に降されたというバージョンがある(他にもあるのかもしれない)。これでケサルははっきりと仏教から始まったということになるのだろうか。

梵天について調べてみると、その起源は古代インドのバラモン教の神ブラフマーで、ヒンズー教にも受け継がれ仏教に取り入れられたということだ。そこまで考えるのは飛躍しすぎと言えなくもないが、ケサルの持つ得意な生命力とつながっているようにも思える。
ボン教や、チベット土着の宗教との関連も視野に入れて、仏教に固定しないで考えていきたい。
そうでなければケサルのダイナミックな姿は見えてこないだろう。

阿来はどちらかというと無宗教的立場をとっているように見える。

物語の始まりは、どれも壮大で複雑なものになりがちだ。

中国語版では、大慈大悲の観世音菩薩が極楽世界の主宰阿弥陀仏にお願いし、梵天(ブラフマー)の孫、ツイバガワを人間の世に遣わそうと決め、パドマサンバヴァに後のことを任せる。
パドマサンバヴァは自分の住まいにいながらすべてを知り、与えられた使命を執り行う。

 
パドマサンバヴァはまずケサルが生まれるにふさわしい地を選び、それから人間界での両親にふさわしい人物を探す。
人物と言うよりは家柄である。
この家柄の問題は、これからの物語にたびたび話題になり、物語展開のきっかけともなる。
いわゆるトーテムである。古代チベットのしきたりがうかがえる。

 
ケサルの父は穆氏のセンロン、彼は山神だという説もある。
母メトラツェは龍宮の龍族から選ばれ、パドマサンバヴァの計らいで海から地上へと連れてこられ、嫁ぐのを待つ。

リン国の長官に神の子が降るという知らせが届き、こうしてケサル、幼名ジョルはリンの地に誕生する。

ここで登場するパドマサンバヴァは漢字では蓮華生大師と書かれる。
8世紀、ティソンディツエン王の時にインドから招かれ、ボン教を抑えて仏教を広めた。
ボン教の神を降すごとに、その神を仏教の守護神にしていったので、チベット仏教は神の多い宗教となった。
ケサルの物語に出てくる神がボン教の神なのか仏教の神なのか、その目くるめく世界が、一つの魅力ともなっているのかもしれない。


パドマサンバヴァが登場するなら、ケサルの物語は8世紀のチベット(トバン)の物語なのか。それもいまだにはっきりしていない。
それ以前の土着宗教しかなかった時代にも似たような物語があったと言う説もある。

ケサルを読むには想像力が必要だ。

 
地上に生まれたジョルは、嫉妬深い叔父トトンによって国を追放され、母と共にテントで暮す。
その間多くの妖魔を下し、血なまぐさい状況が人々を恐れさせる。


ジョルは北の地に新しい国を用意し、雪で追われたリンの人々を受け入れる。
そこで、王を選ぶための競馬大会が催され、優勝したジョルがついに凛々しいケサルとなって、リン国の王となる。

ケサルとはどのような王なのだろうか…



     ***********************


私はまだケサル初心者で、うまく説明できるか不安です。
詳しい訳や、登場人物の説明をしたホームページがあるのでご紹介します。まず、これらをご覧ください。
ただ、どれもみな未完なのです。残念です。
それだけ、ケサル王伝は壮大で手ごわい相手なのです。

宮本神酒男氏のHP 詳しい訳があります

リン・ケサルの伝承世界 登場人物やあらすじが詳しくかかれています。

もう一つ ドキュメンタリー「ケサル大王」監督のホームページもご覧ください。








阿来の『ケサル王』と ドキュメンタリー映画『ケサル大王』

2013-02-22 00:21:08 | ケサル


ケサルを語るのは難しい。

東チベットに生まれたケサルという王の生涯を語る世界最長の英雄叙事詩。
乱れた地上を哀れんだ天の大神が、人々を救うために天上の一人の若者を地上に降す。人間の子として生まれた彼は、地上に溢れる妖魔を倒し、周りの国々を平定し、平和をもたらして天へと帰っていく。

こう書くと簡単だけれど、暴れん坊で奇行の多い少年時代を経て、美女と酒を好みまわりをはらはらさせながら知恵で敵を倒していく奇想天外で同時にチベットの文化に深く根ざした展開が、人々の支持を受けている。
何より興味深いのはこの物語が語り部という天から選ばれたとされる人々によって語り伝えられて来たことだ。様々なバージョンがありながらも、一つの形を守ってきたことは奇跡に近い。

ケサルは実在したのか、いつの時代の人物なのか、文化の背景は仏教なのかボン教なのか…様々な角度から楽しむことが出来る。

阿来はこの物語を、若い語り部と、ケサルという「人物」を交感させることによって、現代によみがえらせようとした。それが小説『ケサル王』
   さて、あまり焦らないように。

   
    一つお知らせをします。

  ***************

  ドキュメンタリー『ケサル大王』が上映されます。

  2月23日(土)、24日(日)
  13時30分開始
  東小金井「現代座」  


ケサルに魅入られた監督が7年かけて作り上げた映像。
偶然の出会いから現代の様々な問題へと導かれていく過程が、貴重な映像を通して静かに伝わってきて、日本ではあまり語られることのない東チベットの状況を理解することが出来るでしょう。


詳しくは 「ケサル大王」のホームページ をご覧ください




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