塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来が語る『ケサル王伝』4  『ケサル王伝』はどのように発見されたか 1

2013-04-05 01:20:48 | ケサル


『ケサル王伝』概説






3、『ケサル王伝』はどのように発見されたか  その1



「発見」、これは私にとってはつらい話題である。

材料が少なく、糸口を整理するうえで何か困難があるからではなく、この言葉が持っている情感の激しい揺らめきのためである。

私たちはすでにこの世界に存在し、すでに自己というこの世界の存在を認識している。
そうでなければ私たちに宗教はなく、文学も史詩もない。
なぜならすべてのこのような精神的な存在は、人が自分が地球のある場所に存在しているのに気付いているからであり、このような存在の辛さと栄光に気付いているからである。このような存在を描き、このような存在を讃えるのと同時に、このような存在に問いかけているからである。

この意味から言えば、『ケサル王伝』もまたこのような存在に気付いた結果である。
この史詩が生まれてから、すでに語り部や、それを聞いた人々や、文字に記録した者によって発見された。

問題は、コロンブスたちがイベリア半島で帆を揚げ出航したその時から、この世界の規則が変わり始めたことだ。
それ以前は、一つ文化、一つの民族、一つの国家はただ自分たちを認識すればよく、それが即ち発見だった。

だが、この時から、この世界の様々な文化は進んだものと後れたものとの区別が出来た。優勢と劣勢の区別が出来た。
この時から自分を認識するだけではすまなくなった。どのようなものも、優勢な地位を占める文化と種族によって発見されることが必要となった。

そのため、インディアンはアメリカで数千年存在していながら、15世紀までヨーロッパ人によって発見されるのを待った。
中国の敦煌はひと時賑わっていたが、その後また砂漠に包まれて眠りにつき、やはりヨーロッパ人によって発見されるのを待った。
チベットと中国内陸は頻繁に行き来していたが、最後にはやはり西洋の探検家によって発見された。

『ケサル王伝』の運命も同じである。

前にも述べたように、フランスのチベット学者スタンはこの史詩が発見された日を1836年としている。
その根拠は、その分章本の訳本がヨーロッパで出版されたことである。

面白いのは、この訳本はモンゴル語を元に翻訳された。つまり、ヨーロッパ人が発見する前、このチベット族による史詩はすでに生産方式や宗教がよく似たモンゴル人によって発見されていたのである。

だがこの発見は発見とはされない。ヨーロッパ人に直接発見された時に初めて発見とされるのである。
そこで、世界の多くの事物が発見された時期と同様に、ケサル発見の時期も欧米人の目が及んだ時間で確定される。

ここで私が述べたのは一つの事実である。コロニアル時代からそのままポストコロニアル時代へと続く基本的事実であり、スタン個人に対して不満があるわけではない。

むしろ、彼個人はチベット学とケサル研究の方面に優れた功績を残している。
彼が1959年フランスで出版した『チベット史詩と語り部の研究』、70余万字に及ぶこの大著は、私が始めてこの題材の領域に踏みいれた時の入門書の一つである。

次に、漢語の世界でこの作品が発見された過程を述べよう。











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