goo blog サービス終了のお知らせ 

塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 173 物語:シンバメルツ天へ帰る

2016-11-28 00:14:36 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


物語:シンバメルツ天へ帰る その2




 「ジュクモよ、そなたはリン国の妃たちの上に立つ者。国のために四方の敵を成敗し、一人軍を率いて境界を守ったアダナムのことを思い出さぬのか」
 ジュクモはうなだれたまま黙っていた。

 「ジュクモよ、嫉妬の炎に心を焼き尽くされたのではないか」

 「少し前、アダナムは便りを寄越しました。これまでの殺生の罪により、遥か辺境で重い病にとりつかれた、とのことでした。そのため、王様がお帰りになったことをアダナムには知らせなかったのです」

 ケサルはため息をつくと首席大臣を訪ね、アダナムの消息を報告させた。首席大臣はすぐにアダナムの配下の者を呼ばせた。
 その時首席大臣はこう言った。
 「アダナム将軍の配下の者を呼んで来なさい」

 ケサルは言った。
 「アダナムを妃とは呼ばず、将軍と呼んでいたようだが」

 「国王様、それはアダナム殿への強い尊敬の念からです。アダナム殿は王妃としての美しさはもとより、将軍の強さと勇敢さをそなえておられます」
 
 ケサルは首席大臣が呼んで来た聡明な目を持つ白皙の若者に尋ねた。
 「そなたは王妃の下で何をしておる」

 「通事を務め、また辺境の地形図を描いています。アダナム将軍から手紙を託されて参りました」

 「持って来なさい」

 「将軍は国王が字を読まれないのを御存じで、出発に際し一字一字私に告げられました、そのすべてを心に刻んで参りました」

 アダナムの手紙は一文字一文字に深い情愛が込められていた。

  人々の幸せのために魔国の兄王に背いたことは悔いていない。
  国王と共に過ごした日々は短く、別れの辛さを味わったが、愛し合った時間は千金に値し、終生の喜びだった。

  更に幸せなことに、自分は女人でありながら武芸を身に着け戦場を駆け回ることが出来た。
  今リン国の名が遥か遠くへ伝わり、大業が成し遂げられようとしている時、
  自分は国王に従い、わずかばかりの功績を立てられたと思うと、心からの幸せが込みあげてくる。

  ただ悲しいことに自分は魔国に生まれ、国王に従う前は敵を激しく恨み、残虐な行為を重ねて来た。
  その報いで最も盛んな年にこうして重い病に侵された。
  病を得てから、ことのほか国王のことが想われ、夫婦の情愛を願った。だが、国王は異国の妖魔を倒すために、遥か遠くへ赴かれている。

  自分の寿命はすでに天に任せる他なく、もし再び国王に拝顔かなわぬならば、この手紙で最後の別れとする。


 白皙の若者が一語一語読み上げると、首席大臣と国王の目から滂沱の涙が流れた。

 ジュクモは恥入って頭を垂れ、涙は衣服を濡らした。

 ケサルは一声高く叫んだ。
 「キャンガベルポよ」

 神馬はすでに鞍を付け、電光のように主人の前に現れた。
 ケサルが身を翻して馬に跨ると、神馬は空へ舞い上がり、アダナムが守る辺境へと飛ぶように駆けて行った。伴を連れない人と馬、主人としもべは半日もかけずに辺境の街へと着いた。
 だが時すでに遅く、アダナムが世を去ってかなりの時が経っていた。

 だが、ケサルの到着は時を得ていた。
 兵と民が葬礼で哀悼の声を挙げているその時、王城から知らせが届き、国王の帰国を祝う儀式が盛大に行われ、酒は湖の水ほども飲み干され、薫香のために九つの山の柏の樹が採り尽されたことが知らされた。あまりに隔たった状況に人々がざわめいているまさにその時、ケサルが神馬に乗って雲の中から降りて来たのである。

 ケサルは城壁の上に立って言い渡した。
 「妃のために悼みの声を挙げてはならぬ。怨念を燃え上がらせるだけだ」

 すべての人が跪き、国王の降臨と女将軍の死を想って泣いた。

 ケサルは不思議だった「何故アダナムのために済度の法要を行わないのか」

 「国王はご存知ないことですが、今際の際に将軍は法要を行わないよう言いつけられたのです」

 病が重くなった時、アダナムは薬草は飲んでも、ラマが経を読んで病を癒すことを拒否していた。
 「経を読むのは亡霊を呼び出すようなものだ」
 ラマは首を振り、国王がこの魔女を帰順させた時、ふとした誤りで、魔性のすべてを取り除けなかったのだろう、と言った。アダナムはその言葉に動じることなく、配下の者を王城に遣わせて辺境の地形図を献上し、言伝を伝え、周りの者には後のことを託した。

 「今の僧たちに私の枕経をあげさせないで欲しい。彼らは口では済度の経を唱えながら心では馬と銀を思っている。彼らは魂を済度すると言いながら見識のない空論ばかりを述べている。
  獅子王が伽国から戻られたら、私の身に着けているものを届けてくれればそれでよい」









阿来『ケサル王』 172 物語:シンバメルツ天へ帰る

2016-11-16 23:59:50 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



物語:シンバメルツ天へ帰る



 年が明ける頃、ケサル君臣一行はついにリン国の境界へと戻って来た。

 まず、山神が出迎え、山の中の珍宝を捧げた。その後、国王を迎えようと境界を目指した将軍と大臣も到着した。
 「王子ザラ様とジュクモ様がお待ちかねでいらっしゃいます」と伝え、国王にジュクモとメイサが自ら刺繍した上着を手渡した。

 「それはなによりもうれしい知らせだ」

 「首席大臣もお健やかです」

 「それは良い知らせだ」

 「ザラ様は落ち着いて事を処理していらっしゃいます」

 「それを聞いて安心した。悪い知らせは無いのか」

 「リン国は天の加護により、国王が発たれてから三年、大きな災害は起こっておりません。雪や風の害もなく、虫の害さえもありません」

 「悪い知らせは無いのか」

 「首席大臣は言われました。お帰りになってすぐに国王が心を痛める知らせを伝えてはいけないと」

 「私はすでにひどく憂いている」

 「では、申し上げます。シンバメルツ将軍が余命わずかとなられました。ザラ様はすでにシンバ将軍をホルから移し、リンで治療させていますが、良い兆候はありません。シンバ様からの言伝があります。国王の早いお帰りをお待ちしている、世を去る前に国王に一目お会いするのが唯一の望みだ、とのことです」

 ケサルにはシンバの気持ちが分かった。
 シンバは本来チタン王との戦いで戦死するはずだった。幸いにもギャツァの英霊に守られ今まで延びたが、それを深く恥じ、今は生よりも死を望んでいる。早く寿命を終えるのが自分にとっては解脱だと考えていた。

 その時、鶴が陣に舞い降り、悲し気に啼いた。大臣たちは鶴の首から手紙をほどき、国王の前に差し出した。シンバメルツの書いた手紙だった。
 国王がリンに戻られたとの知らせを受けたが、王城に着かれるまで寿命が持つか心もとない、自ら王城を発ち、途中で国王と最後の別れをすることを許していただきたい、と書かれていた。

 ケサルはすぐに返事を書き、王子ザラに将軍の供をしてこちらに向かい、途中で君臣合見えられようにせよ、と伝えた。
 王子ザラは手紙を受け取ると、すぐさま一部隊を率いて息絶え絶えのシンバメルツを守りながら出発した。

 王子が傍らで見守っているのを目にした時、シンバメルツは初めて鮮血を吐いた。
 「ギャツァの息子よ。馬に跨る姿のなんと雄々しいことよ」彼は心からザラを褒めたたえた。

 半ばまで来たところで、はためく旗と国王の姿が望まれた。
 シンバは二回目の血を吐き、言った。
 「このように勇ましい国王につき従って功を為した私は、なんと幸せ者だろうか」

 国王が馬を急かして目の前に現れた時には、シンバメルツは血の跡をきれいに拭き取らせ、潤いを失い乱れていた白髪を梳かし、床の上に起き上がっていた。
 国王は飛ぶように馬から降り、シンバメルツの前に駆けつけた。シンバメルツの心に喜びと悲しみが一気に込みあげた。

 「尊敬する王様、私はリン国の罪人です。それでも王様は死に臨んだ老人の最後の望みを叶えてくださった。悲しいかな、私にはもはや起き上がって礼をする気力も残っておりません」

 ケサルはシンバの言葉に、心が切り裂かれるようだった。
 「シンバよ、初めそなたはリン国を苦しめた。だがその後はリン国のために厚く忠誠を尽くしてくれた。それは天も地もみな知っている」

 この言葉を聞き、胸につかえていた血が溢れだし、シンバは三度目の血を吐いた。
 その後微かに微笑むと、気力をすべて使い果たし、恋々と国王を見つめていた目の光が徐々に薄れ、表情が消えて行った。
 国王はそっと彼の目を閉じた。

 心の痛みは深く、ケサルはそこに一日留まった。
 次の日、将軍を火葬し、遺骨をホルに戻し、塔を立てて安置するよう命じると、一行は再び国へと向かった。

 王子ザラ、首席大臣、妃たちは、伴を引き連れて王城の数十里先に大きなテントを張り、国王を出迎えた。
 酒宴の席でケサルは次々と祝いの酒を受け、酔いで頭がぼんやりしたので目を閉じて気を醒まそうとしたが、首席大臣が自ら御前で一献捧げながら、テントの中央の宝座に上がり、人々の祝いの言葉を受けるよう促した。

 今リン国は強大になり、テントの外に集まった民はもとより、名を知られた大臣、将軍、万戸長、千戸長、内宮で仕える位を持った者たちが祝いを述べ国王の祝福を受けるだけで、三、四刻の時を費やした。この様子をケサルは心から喜んだ。
 だがその後から、哀しみがゆっくりと襲って来た。ジュクモは、何故悲しそうに眉を寄せているのかと尋ねた。

 ケサルは酒でぼんやりした頭を軽く叩いた。
 「良く知った顔がまだ見えないが、それが誰かと考えていたのだ」

 ジュクモは跪いた。
 「王様はギャツァ様のことを思っていらっしゃるのでしょう。ギャツァ様が戦いで犠牲になられたのはこのジュクモの誤りだと、みな知っています。でも私はすでに…」

 ケサルは手を挙げて彼女を制止した。
 「さあ、顔を上げなさい。ギャツァは今では天の戦神となった。リンの者はみな知っている。昔の過ちは忘れるのだ」

 ジュクモは言った。
 「では、王様は将軍シンバメルツのことを思っているのですか」

 「シンバはすでに極楽浄土に生まれ変わった」

 「では…」

 「そうであった。勇敢な妃アダナムだ」







阿来『ケサル王』 171 物語:伽国で妖魔を滅ぼす

2016-11-09 00:13:38 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


物語:伽国で妖魔を滅ぼす その3



 まばゆい光に目を覆った伽国の皇帝にケサルの声が響いた。

 「自らの国から光を無くしたのは何故だ」

 「地上に影が無くなるからだ」

 ケサルは何も答えなかった。

 ケサルは伽国の君臣と民が目を覆っている隙に、金色の鵬に変化して、チンエンとミチオンを乗せ伽国の宮城へと入った。そこには、黒い幕で幾重にも覆われた宮殿があった。宮殿の中は深く入り組み、十八番目の庭の中央にある密室の中で妖皇后の亡骸を見つけた。

 ケサルは命じた。
 「皇后の亡骸を鉄の箱に入れて、ある場所に着くまで絶対に開けてはならぬ」

 チンエンとミチオンが亡骸を鉄の箱に入れようとした時、妖皇后は「ぎゃあ、ぎゃあ」と身の毛もよだつ叫び声を上げた。
 二人はアサイ羅刹から手に入れたトルコ石の紐を取り出し、亡骸に三重に巻き付けると、亡骸はそのまま凍ったように鎮まった。

 ケサルは彼らを乗せて天と地の接する地へと飛んで行き、世界の果てにある最も狭い三角形の空間に鉄の箱を置き、そのまま火を起こして妖皇后の亡骸を火葬にした。

 妖皇后が焼かれるその時、伽国にいる皇帝と民は風が起こる音を聞いた。
 風は草と樹を揺るがし、鎮まっていた湖の水を揺るがし、彼らの衣服を震わせた。
 人々が目を開くと、鳥は再び空を飛び、花は太陽の方角へと向きを変え、湿った土地からは良い香りが立ち昇っていた。
 人々は再び互いの姿を目にし、急いで家に戻り、顔を洗い髪を結い、色鮮やかな衣装に着替えた。

 皇帝は遥かに遠い地から伝わって来る凄烈な叫び声を聴いたような気がした。慄いた皇帝は一言「皇后よ」と叫んだ。

 その時一羽の鵬が彼の前で翼を閉じ、ケサルがにこやかに現れた。
 「皇后は妖怪なのです。私は天の命を受け、妖皇后をこの世から消し去り、伽国に再び光を取り戻そうと参ったのです」
 皇帝は意識を失った。

 皇帝が目覚めたのは黄昏だった。宮殿の寝台に横たわっていたが、すぐに命令を発した。
 ケサルを捉え、八つ裂きにしろ」
 目を開けると、ケサルが笑いながら見下ろしていた。

 「私をどうなさるおつもりかな。抵抗するつもりはありません。皇帝に天の御心を信じて欲しいのです。目を覚まし、民を思いやる優れた皇帝となりなさい」

 「奴を吊るせ」

 ケサルは王城の物見櫓に高々と吊るされた。
 三日後、大臣が報告した。奇妙な鳥が日夜ケサルに美酒を与え、三日経っても顔色は変わらず、力が漲っています、と。

 国王は再び命を下し、ケサルをサソリだらけの牢に投げ込ませた。ところが、サソリはケサルを刺さないばかりか、足元にひれ伏し拝んだ。

 国王はケサルを高い崖から突き落とさせた。すると、大海から飛んで来た鳥の群れがケサルを空中で受け止め、再び王宮へと送り届けた。

 焼こうとすると、火は七日七晩燃え盛り、火に焼かれた場所は美しい湖に変わった。湖の中央には如意宝樹が現われ、ケサルは雲のように高く伸びた樹冠に座り、天の楽の音を聞いた。

 こうして、伽国の皇帝はついに自らの非を悟り、大臣を引き連れて罪を詫びた。
 酒宴の席でケサルは言った。
 「伽国の妖気はすでに消え去りました。民と共に平安を楽しまれるように」

 妖皇后の魔力が解け、伽国の皇帝は心から目覚め、ケサルに言った。
 「そなたの国は高く開けた地にあり寒さが厳しい。我が国は産物に恵まれ豊かだ。ワシは年を取り、跡を継ぐ者が無い。公主はか弱く国の政を執り行うことは叶わぬ。ここに留まって共に国を治めてはくれまいか」

 ケサルはその言葉を遮って言った。
 公主はなよやかな中に強さを持ち、知恵もあり謀にも長けている。何よりも社稷を重んじ民を思っている。女人とはいえ、良い皇帝になられるだろう、と。
 皇帝は仕方なく断念し、ケサルに臣下と供にしばらくの間伽国の明媚な風光を楽しむようにと引き留めた。

 こうして次の正月十五日となった。
 ケサルは皇帝に、リン国を発つ時、王子と大臣に三年の内に必ず帰ると約束した、明日は立たなくてはならない、と告げた。
 伽国の王も臣下も恋々と別れ難く、リン国の君臣に別れの言葉を述べた後、公主が人と馬を牽き連れて伽国の国境まで見送った。







阿来『ケサル王』 170 物語:伽国で妖魔を滅ぼす

2016-11-05 02:01:49 | ケサル
★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


物語:伽国で妖魔を滅ぼす その2




 約束の日は木曜星と鬼宿の二つの吉星が出会う5月15日となった。

 この日のために、伽国の皇帝は空に一筋の細い透き間を開けるのを許した。そこからわずかに天の光が射し込んで、民は盛大な儀式を見ることが出来る。

 皇帝は言った。
 「こうすれば民は、牛が反芻するようにこの盛大な光景を思い起こしながら、これから先の長い年月も、暗い闇夜の中で心安らいで過ごせるだろう。我が皇后が死から蘇るその日まで」

 皇帝は妖皇后の亡骸を収めている部屋を黒い幕で更に何重にも包ませた。
 ケサルはついに、伽国の宮殿の前で皇帝と合まみえた。

 この時、雲の隙間から射し込む僅かな光が広場を照らした。広場を囲んだ伽国の人々は天をも震わす歓声を上げた。
 伽国の皇帝は言った。
 「民はこのように狂おしくワシを敬愛している。ワシが常には宮殿を出ないのは、このような歓呼の声を恐れるからなのだ」

 「民が喜んでいるのは天の気のためではないのでしょうか」

 「民はいつでもワシが定めた気象を喜んで受け入れる。そうすれば心を煩わせずにすむからだ」

 「この気象はあまりにも暗すぎます」

 「だが、そのために強い風は吹かず、霰も洪水もない、太陽が地上の水を干上がらせることもない」

 歓呼の声に驚いた鳥の群れが、高い宮殿の壁に次々とぶつかった。馬は車を引いたまま池に嵌まった。

 ケサルは言った。
 「長い間光を見ずにいれば、人々の目は盲いてしまうでしょう」

 「だが皆見えているではないか」

 「こっそりと灯りを用いているからです」

 伽国の皇帝は不機嫌に言った。
 「目の前の菓子と香りの良い茶を召し上がられよ」

 「日の光がなければ菓子も茶も本来の旨味を味わえません」

 皇帝はさっと立ち上がった。
 「そなたはワシのもてなしを受ける気はないようだな。ワシの威厳を潰すために参ったのだろう」

 「私は天の命を受け、そなたの国がもう一度光を取り戻す手助けをするため参ったのです」

 皇帝の手が腰の刀に置かれると、宮殿の上にあらかじめ伏せられていた兵が弓に矢をつがえて現われた。

 「私が十二人の君臣しか連れていないと思っていたら、それは大きな間違いです」
 ケサルはすぐさま幻術を用いて街の内と外に千を超える軍馬を並べた。人々が驚き騒いだので、ケサルは声を挙げて叫んだ。

 「みな恐れなくともよい。今日この目出度い日にリン国と伽国の勇士が武術を競おうとしているだけだ」

 ざわついていた人の群れは瞬く間に鎮まった。
 伽国の皇帝は言った。
 「ならば、我々も受けてたとう」

 双方はまず馬で競うことになった。起点は目の前のこの広場、決勝点は仏教の聖地五台山と決まった。
 そこで、伽国の将軍は風のように駆ける追風馬に、リン国の将軍は鉛色の玉鳥馬にまたがり、閃光のように広場を飛び出した。

 国王と皇帝はそのまま酒と茶を飲みながら時を過ごした。間もなくヒズメの音が聞こえ、リン国の将軍が五台山に咲くシャラの花を手に戻って来た。伽国の将軍はしばらく待っても戻って来なかった。
 宿場から伝わって来た知らせによると、追風馬は始め前を走っていたが、晴れ渡り光あふれる五台山の麓で、長い間闇に馴れた目が眩い光線に堪えられず、足を滑らせて深い谷に落ち、将軍もろとも傷を負い、将軍は失敗を恥じ剣を飲んで自害した、という。

 ケサルは言った。
 「一つの国が長い間光のない曖昧な中にいるのは良いことではないようです」

 伽国の皇帝は憤り、大きなたもとを一振りすると、開かれたばかりの天の一隅が再び閉じてしまった。大地は瞬く間に暗黒の中に沈んだ。

 百を超す伽国の弓の使い手が現われた。彼らの放った矢は民が手にする黒い布で覆われた灯篭の灯りを消した。皇帝は言った。
 「我が民はわざわざ光が目を射るような場所へ出かけて行って敵と戦う必要などない」

 タンマは黄金の鎧を身に着け、弓を持って現れた。黄金の鎧は並みいる人々の目を惹きつけた。微かな光が集まって、彼の全身をきらきらと闇に浮かび上がらせた。
 タンマが弓を引き絞って矢を放つと、その飛び行く様は、まるで電光が掠めていくかのようだった。

 矢は、人々には見ることのできない黒い魔法の門に当たった。人々を取り巻いた闇は霧のように消え去った。
 空は青へと変わり、日の光が山や川を照らした。

 突然降り注いだ光に、水面を漂っていた魚の群れは驚いて深い底へと潜って行った。鳥は翼で目を隠した。伽国の皇帝と彼の臣民も同じように長い暗黒に慣れていたため、再び訪れた光に目を覆った。

 大地は一瞬静まり返り、ただ光だけが、ミツバチの羽音にも似た音を伴いながら遍く場所へと広がって行った。







阿来『ケサル王』 169 物語:伽国で妖魔を滅ぼす

2016-10-31 01:42:44 | ケサル
★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


物語:伽国で妖魔を滅ぼす



ケサル一行は暗く日の差さない伽国を進んで行った。昼の闇は微かに灰色に傾き、夜はどこまでも深く濃い灰色となった。
行く手を遮る障碍に遭うたびに、ムヤで手に入れた法物で一つ一つ取り除いていった。

 伽国の中心に近づくほどに光は弱くなり、最後に、生い茂った竹林の中に宿営した時には、闇はどの夜よりも深かった。
 タンマは言った.
「この国は、まるで何重もの箱の中に入れられているようだ」

 ケサルは言った.
「妖魔である皇后の亡骸が光を畏れているからだ」

 彼らがテントを張ると、宮中の妖魔の死体が常になく震え、テントの周りの竹がすべて毒蛇に変わり、リン国の君臣を幾重にも包囲した。
ケサルはムヤの宝庫から持ってきたジャコウジカから作った護心油を取り出し、炎の上でゆっくりと溶かした。溶けだした油から異様な香りが立ち昇り、蛇の群れは退散した。

 瘴気が霧のように襲って来た時、蛇心檀香木を取り出すと、瘴気は消えた。

 ケサルは言った.
「これでゆっくり休めるだろう。明日は伽国の王城に入るぞ」

 タンマは皆が安心して休めるようにと言った.
「朝、空が明るくなったら私が一番に起きて飯を作りましょう」

 ケサルは言った.
「今からは、空が明けることはない、われわれが妖皇后を倒すまで、この世で再び日の光を見ることはないのだから」

「では、われわれはどうやって朝を知るのですか」

「鳥が餌を探し始め、花が花弁を開き、われわれが自然に目覚めた時、それが朝だ」

チンエンが尋ねた.
「光がなくて、花はどうやって開くのですか」
ケサルは何も答えなかった。

 次の日、再び歩き始めると、道の両側にぽつぽつとか弱い光が見えた。良く見ると、開いたばかりの花が光を放っていた。
 濃い闇の中に、白い大理石の橋が見えた。石はそれ自身で微かな光を放ち、遠くから来たケサルたちにも見ることが出来た。この橋の丸屋根の下で、待ち受けていた公主と出会った。

 公主は道を照らす灯篭を持ち、侍女たちが輪になって、黒い布で光を取り囲んでいた。リン国の君臣たちの足音を聞くと、黒い幕は彼らに向かって開かれた。

 公主はなよやかにケサルの前に歩み寄った。
 「わたくしはここで日々お待ち申しておりました。今か今かと待ち望み、間もなく三百日になります」

 ケサルは言った。
 「そなたが私を呼んだのは、そなたを生んだ母を葬り去るためというが」

 「私は皇帝の娘でもあります。天下の民のことを考えなくてはなりません」

 ケサルは、公主は姿はなよやかだが、心の内は男児よりも強靭だと感じた。

 公主が街へと案内する道すがら、ケサルたちが目にした情景はまるで夢のようだった。
 この街の建物、道、井戸、そして市に並べられた品々は、日の差さない暗闇での長い日々の間に、わずかな光でぼんやりとした輪郭を描き、姿を示す術を身に着けていた。
 その間を動いて行く空洞のように黒く暗い影は人だった。彼らもまた公主と同じように厚く黒い布で道を照らす灯りを覆っているのだった。

 人々は外からは見えない灯りの中で取引し、語り合い、口づけし、本を読み、乳を与え…街すべてがひそやかな世界に沈んでいた。
 人目を忍ぶかのような行為は人々に特別な快感をもたらしているようにも見えた。

 公主は彼らを王城の中の最も美しい建物へと案内した。以前、多くの属国が王城に貢物を捧げに来て、国王からの下賜を待っている間ここに泊まったのだと言う。
 こう話しているうちに、彼らの周りでいくつかの黒い影が行き来し、その姿は見えなかったが、目の前にはいつの間にか熱い茶と美味しい料理が並んでいた。
 
 ケサルは言った。
 「皇帝にお会いしなければならない」

 公主はその場を離れ、リン国の王たちが伽国に到着したという知らせを皇帝に告げに行った。
 だが、皇帝は言った。
 「彼らはワシの許しを得ずに、なぜやって来たのだ」

 公主は間を取り持とうと悩んだ末、ある考えを思いついた。
 皇帝の名で手紙を送り、まず数人の大臣を宮殿へ拝謁に向かわせるよう、ケサルに願い出た。
 伽国の皇帝はリン国の大臣が拝謁に来たという知らせを受け、仕方なく名の通った大臣数人に出迎えさせた。

 チンエンは皇帝の声は聞いたが、姿は見えず、ただ金色の皇帝の椅子だけが見えた。その椅子の中央から無気力な声が伝わって来た。
 「では、王宮の前の広場でそなたの国王と会うことにしよう」

 「何故宮殿ではないのですか。伽国には堂々たる広間がないはずはありますまい」

 「われわれ伽国は特別な情況にある。大臣殿、内と外もどちらも同じとは思われぬか」

 チンエンはそれも道理だと考えた。
 皇帝が宮中で生身の人間に会おうとしないのは、妖皇后の亡骸に何か起こるのを恐れるためだと、チンエンにも分かっていた。







阿来『ケサル王』 168 物語:法物と誓い

2016-10-26 01:10:47 | ケサル
    ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304





物語:法物と誓い その2



 アサイ羅刹は一足ごとに体を揺らしながら山の下へと降りて行った。
 「私の体、私の力、それは気の集りなのだ。だから私は食わず飲まず、命あるものを損うことはない。むしろ私がここにいるために、妖魔やものの怪たちは悪を為そうとはしないのだ。ズゥォグゥォテンジン、そうではないか」

 土地神は言った。
 「ケサルたちは羅刹殿の宝を借りようとしているだけです。命を取りに来たのでもなく、土地を取りに来たのでもありません」

 アサイ羅刹は憤った。
 「誓いを守らない者よ。お前が秘密を口にしたその時から、私の力はもはや集まらず、この体と共にまもなく消えてしまうだろう。誓いを守ろうとする人々の思いによって私は存在しているのだから」

 この時、アサイ羅刹の体の輪郭、その表情はぼんやりと薄れていった。この世の最後を迎える声も徐々にか細くなっていった。
 「ケサルよ、これから後、この世に法術を愛するがゆえに修行する者はいなくなり、人々は誓いを重んじなくなるだろう…」

 タンマはトルコ石を取るための三叉の鉤を取り出した。

 アサイ羅刹は泣いた。
 「愚かな者よ、誓いが力を失えば、法具など何の役にも立ちはすまい」
 声とともに巨大な体が消えると、銅の山がわずかに色を深めた。だが、その赤はもはや鮮やかとは言えなかった。

 アサイ羅刹の声と体は消えた。彼の頭のトルコ石は飛び散り、地に落ちては集まって、源のない渓流のように山肌をうねりながら下り、そのままケサルの足元へと流れ着いた。
 ケサルがアサイの消えた後の虚空を見上げ立ち尽くしていると、土地神の「早くしろ!」と叫ぶ声が耳に入った。

 なんと、トルコ石は出来たてのバターのように震え、キラキラと光を反射していた。初めてこの世界に現れた時と同じように、今また、冷めて固まっていくところだった。
 その場にいた者たちは慌てふためき、草や馬のしっぽ、糸、自分の頭から抜いた髪の毛まで使って、冷え固まっていく宝石に穴をあけ、つなげていった。最後に残ったトルコ石は一つに固まった。

 宝物を手に入れたリン国の王と大臣たちは帰る準備を始めた。
 土地神はケサルに、穴を開けられなかった石を残していくよう求めた。これらの石を地の中、石が原初に生まれ育った山の峰に埋め、新たに育て、この地の地脈を再び豊かにして、今のような草木を失った禿山を、森に覆われ清らかな水の流れる地に戻したいのだ、と訴えた。

 タンマは土地神の言葉を遮った。害を為さなかった羅刹を消し去ったことで、ケサルが再び心を痛めるのを恐れたのである。少し前にトトンを葬り、ケサルは自分の行為を悔いていた。
 タンマは言った。
 「土地神よ、黙りなさい。やりたいようにやればよいのだ。ぐずぐずと言い訳するのは、褒美が欲しいからではないか」

 ケサルは言った。
 「確かにズゥォグゥォテンジンに褒美をやらなくてはならぬかもしれぬ」

 「もし大王が褒美を下さるなら、ワシにではなく、この土地に賜りますよう」

 「もし私が与えたら、この地を、今言ったような姿にすると約束するか」

 土地神は慌てて手を振った。
 「大王よ、感謝します。ワシとワシの土地には何の褒美もいりません。約束の言葉も必要ないでしょう」

 ケサルは笑って言った。
 「そなたはいらぬと言うが、山と川が美しくあることは私の願いでもあるのだ」

 たちまち、五色の鳥の群れが空に現れた。鳥たちはこの世の様々な地から集めた種を銜えて来て、空から落としていった。鳥たちが飛び去った後、ケサルは土地神に言った。

 「雨さえ降れば、樹や草から芽が伸び、花を咲かせるだろう」

 「無理です、燃える炎のような山々が、空の雲をすべて焼き尽くしてしまうでしょう」

 「そなたの地には雨が降るだろう。雨を待ち望む地に私が雨を与えよう」

 言い終ると、ケサルはタンマたちを連れてその地を去った。
 七日の内に王城に戻ると、首席大臣とザラにリン国を守るよう言いつけた。ケサルはザラに、真の国王のように事を為すよう言いふくめた。

 首席大臣は寂しさを覚え、国王に早く帰るよう求めた。他国での逗留が長くなれば、年老いた自分はもう国王に会えないかもしれないと恐れたのである。

 シンバメルツはより衰えていて、この世での寿命が間もなく尽きることを知っていた。今あるのは、英雄ギャツァの魂が自分を赦し、戦場で救ってくれたからである。シンバメルツは国王の早い帰還をより強く渇望していた。この世を去る時、国王に導かれ、天上で戦神ギャツァシエカとまみえるのを願っていた。

 ジュクモとメイサは国王との別れにもはや酒は勧めず、二本の矢を贈った。二人は共に夫の早い帰還を祈った。

 七日後、ケサルはタンマ、チンエン、ミチオン等十二将軍を率いてリン国を発った。
 再びムヤとの境界の赤い銅の山を過ぎる時、ケサルは雨神を呼び、草の消えた赤い山に雨を降らせた。






阿来『ケサル王』 167 物語:法物と誓い

2016-10-11 01:41:28 | ケサル
★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304




物語:法物と誓い




 トトンを済度した後、ケサルは首席大臣に言った。
 「今私は残酷な国王になった」

 首席大臣は言った。
 「王様は、公正な国王です」
 「では、ズゥォグゥォテンジンとは何者だ」
 「リン国とムヤの接する辺りにいる土地神です」
 「さすがは首席大臣。知らぬことなどないようだな」

 首席大臣は国王の言葉の裏に皮肉の意があるのを聞き取り、言った。
 「王様は、私がなぜアサイ羅刹の居場所を知らなかったのか、とおっしゃりたいのですね。確かに私は彼がどこにいるのか知りませんでした。この世にそのような名前があると聞いたこともありませんでした」

 「つまり、ケサル――リン国の国王がこれまで目の前にムヤという国があるのを聞いたことがなかったと同じように、と言いたいのだな」

 「尊敬する王様。トトンを葬ったことで王様のお心は乱れているのでしょう。もしそのために誰かを罰したいのなら、私の任をお解き下さい」

 ケサルは何も答えず宮殿に戻ったが、一時もしないうちに、首席大臣に城を守らせ、自分は伴を連れてズゥォグゥォテンジンという土地神を探しに行く、との伝言を寄越した。

 首席大臣は笑って言った。
 「王様のお咎めが長くないことは分かっていた。王様がこのように早く怒りを鎮められたのは喜ばしいことだ。どうぞ安心して出発されますよう」

 国境近く、四方を頂きの赤い山々に囲まれた場所まで来て、ケサルが足を踏み鳴らすと、土地神が姿を現した。
 タンマが大声で、なぜ国王の前に跪かないのかと威嚇した。土地神は白い眉を寄せて言った。

 「どの国に属しているのかワシは知らぬ」
 土地神は尊大な態度で言った。
 「神には国などないのだ」
 自分はこの地で神としてすでに千年の月日を過ごした。人間によってリンとムヤの境を決められたのはその後である。

 「リン国の首席大臣とトトンという者は兄弟のようだったが、彼らはムヤの二人の兄弟と共にやって来て、ワシの土地を二つに分けた。その時からワシは二人の国王に仕えなくてはならぬとでもいうのかな」

 タンマは土地神のくどくどしい話しぶりに耐えられず、前に進み出て土地神を無理やり跪かせようとした。
 タンマがわずかに力を込めると、老人の体はそのまま地下に沈んでしまった。そして次の瞬間、少し離れた地面からせり上がって来た。だが依然として跪こうとはしなかった。

 「国王が治めるのは人や牛や羊と畑であろう。
  ワシが治めるのは土地の精気、成長する鉱脈、そしてお前たちのような凡人には見ることのできない精霊である」

 トトンを葬ってから、ケサルは気持ちが落ち込み、更にまた土地神に弄ばれることになった。

 タンマが弓に矢をつがえて放とうとすると、ケサルは土地神と寸分たがわぬ姿に変化し、白い眉の老人の傍らに立ったのでに、タンマは仕方なく弓を置いた。ケサルの力を見た土地神は言った。
 「お前はただ者ではないな」

 「国王様は天がリンに遣わされた方だ」

 この時、その声に応じて美しい虹が現われた。虹の上から清らかな楽の音が流れ、薄い雲の間から神々が立ち並んでいるのが見え隠れした。土地神は言った。
 「お前は本当に天から降ったのか」

 ケサルは笑って答えず、腰から短剣を抜き出し、空に線を書くと、向かいの山に白銀の鉱脈が現われた。それは土地神が長い年月慈しみ育て、今まさに成長している鉱脈だった。
 この様子を見て土地神は自ら跪いた。

 ケサルが変化した土地神は言った。
 「よいよい、跪くには及ばない。そなたが跪いても自分に跪くと同じこと。私はアサイ羅刹の行方を知りたいのだ、教えてはくれないか…」

 「ワシにはできぬ……」

 土地神の言葉が終わるより先に、ケサルが手をあげると、平地に突然強風が荒れ狂い、土地神をまるでほら貝のように転げ回し、あっという間に大地の果てまで吹き飛ばした。
 冷え切った灰色の虚空は、無限の広がりのようでもあり、また小さな点のようでもあった。始まりもなく終わりもないこの感覚は、この世のあらゆる恐ろしいものより更に恐ろしかった。

 再び引き戻された時、土地神は泣いた。
 「あなたが神であることは良く分かった」
 
 「では知っていることを話してくれ」

 「これから更に二つの赤い頂の山と黒い峠を越えた所がアサイ羅刹の土地だ。
  アサイを訪ねて戻って来た者はいない。あの山の草と樹、その間に流れる水にはすべてに毒が含まれていて、軽く触れるだけで死んでしまうのだ。
  黒い峠に大きな樹が一本立っている。樹の下に天地開闢の時から存在している岩があり、アサイはそこを中心に四方を遊び回っている。
  ただお願いだ、アサイを傷つけないでくれ」

 話が終わるやいなや、晴れた空に突然雷鳴が響き、アサイ羅刹が現われた。

 アサイ羅刹は山の頂きに立ち、体は天に届き、結んだ黒髪の間から様々な色のトルコ石の髪が見えた。
 アサイは山の上に立って泣いた。大粒の涙が一つまた一つと足元の赤い山肌に落ち、鉄錆びの匂いのする煙を巻き上げた。
 アサイは言った。
 「ケサルよ、私がなぜ泣いているか分かるか」

 ケサルは言った。
 「私はただ法力の強い宝を借りに来ただけだ。そなたの命を損なうことはしない。恐れなくて良い」

 「いや」
 羅刹は首を振った。涙は向かいの山のくぼみに飛んで行き湖となった。

 「ケサルよ、そなたは知らないのだ。私は数百年修行したが世間を騒がすことはなかった。それは、私の行方を知る者たちが秘密を守ると誓ってくれたからなのだ。
  私のトルコ石の髪のすべての結び目はみな秘密を守ると誓った者たちの功徳を表わしている。長い年月、周りの者たちはこの秘密を守って来た。
  空の鳥もこの秘密を守り、ムヤの国王もこの秘密を守った。
  今ズゥォグゥォテンジンが口を開いたために、私の髪の結び目は緩んでしまった」





阿来『ケサル王』 166 語り部:ムヤにて

2016-10-02 21:39:36 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


語り部:ムヤにて その2



 あの人物がまた夢に現れた。彼の振る舞いは国王としてのそれだった。すべてが国王そのものとしての振る舞いだった。
 入って来ると、ジグメの頭の中の中央に胡坐をかき、だがいつもと違うのは、座ったまま黙り込んでいることだった。

 ジグメはそっと言った。
 「王様ですか」

 「そうだ」
 その声は重苦しく、少し間をあけてから言った。
 「今日、私はトトンに、裏切り者のトトンにとどめを刺してしまった」

 ジグメは低く短く叫んだ。

 「私が世に降ったのは、妖魔を消し去るためだった。だが今回、人間を殺してしまった」

 ジグメは何も言わなかった。

 「そう、そなたは物語の結果を先に伝えることは出来ないのだったな。だから、私も長い間そなたの夢に来なかった。だが、今回私が殺したのは人間だ、彼は死んだふりをした。私はその裏をかこうとして彼の肉体を焼いたのだ」

 ジグメは何も言わなかった。なぜならこの人物は物語を変えてしまったからだ。ジグメが授かった物語の中ではトトンの死ぬ時期はまだ来ていない。

 ケサルは気持ちが高ぶっていた。
 「今、驚いて叫んだだろう。何に怯えているのだ」

 「あなたが物語を変えたからです」

 「私が物語を変えた?トトンはこんな風に死ぬはずではなかったのか」

 ジグメは再び黙り込んだ。

 ケサルは皮肉を含んだ口ぶりで言った。
 「天の秘密は漏らすことが出来ないのだったな。だが、彼の肉体はすでに灰となり、魂は済度されて西の浄土へ至った。また生き返るとでもいうのか」

 「彼は死んだふりをするだけです」

 「彼が死んだふりをしているのは分かっていた。魂が肉体を抜け出しているのは分かっていた。謀を企んでいるのも分かっていた。だがすでに彼の肉体は火葬の薪の上に置かれていて、私に向かって間違いを認め、助けを求めようとはしなかった」

 「タンマが火をつけるとすぐに、トトンは助けを求めるのです」

 「だが彼はしなかった」

 「彼は火の中から抜け出して、自らの罪を許すよう願うのです」

 「すでに彼は灰になっていた。彼の魂は小鳥のように私の肩の上でチチチと啼いた」

 ジグメは口ごもりながら答えた。
 「あなたは物語を変えた。千年続いて来た物語を変えたのです」

 ケサルはジグメに言った。
 「ここへ来る途中、大水のため山の頂が崩れ、元あった河の流れを塞ぎ、猛り狂った水が新しい流れとなって轟々と走って行くのを見た」

 二人は再び長い間押し黙っていた。その後、心が落ち着くと、トトンの魂は火が彼の肉体を焼く間何をしていたのだろうかと語り合った。だが二人とも結論を出せなかった。
 しばらくしてケサルが口を開いた。

 「間もなく夜が明ける。帰らなくてはならない。ここへ来たのは、トトンが死に私はとても辛いと伝えたかったからだ。私の使命は、世に降り妖魔を倒すことであり、人間の命を取ることではないのだから」

 それを聞いてジグメはケサルを慰めた。
 「トトンは悪い人です」

 「トトンはずっと、私に殺すよう迫っていた」

 「……」

 「私は神だ、人間を殺してはならないのだ」

 「あなたも人です。だからそんなに辛いのです」

 「人はどうして人を悲しい気持ちにさせるのだろう。時には、ジュクモとメイサも私を辛くさせる。首席大臣も、そして、この世の母も私を辛くさせる…」

 この時村の雄鶏が夜明けを告げ始めた。ケサルは言った。
 「物語がこうでないというのなら、もしかしてトトンはまだ死んではいず、あれは私が見た夢なのだろうか」

 ジグメは夢の中で跪いた。
 「私には分かりません。どうぞもう夢の中に来ないで下さい」

 自らの行いの意味を問い続けていたケサルは立ち上がった。ぼんやりとした曙の光を全身に浴び、きっぱりとした語気を取り戻して言った。
 「どうであっても、物語はすでに変わってしまったのだ」

 夢から覚めたジグメは、起き上がり外まで追いかけた。だが、河から立ち昇る霧が、ゆっくりと山肌を昇って行き、爪先立って進む巨大な生き物のように、あっという間に村全体を包み込んだ。
 彼の耳元にはあのきっぱりとした言葉が響いていた。
 
 「どうであっても、物語はすでに変わっってしまったのだ」

 トトンはこれまでの物語とは異なった死を迎え、魂は西方浄土へと済度された。だが…と彼は思った。トトンは本来どのように死んでいくのだったのか。それを思い出せないことに気付いて、ジグメは一瞬恐れを感じた。そうして、そのまま湿って重い霧の中に佇んでいた。自分は物語がどのような結末を迎えるのか忘れてしまったのかもしれない、と考えながら。

 だが、物語の結末はやはりしっかりと彼の目の前にあった。

 ジグメは頭を石に押し付け、その冷たさを体中に駆け巡らせた。







阿来『ケサル王』 165 語り部:ムヤにて

2016-09-23 04:36:30 | ケサル
★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



語り部:ムヤにて


 ジグメは教師が一人しかいない小学校にやって来た。

 教師の傍に生徒たちの姿はなく、校庭の真ん中にはいくつかの水たまりが光を反射していた。水たまりの周りのぬかるみには緑の藻が生えていた。
 教師はつばの広い帽子をかぶり、石段に座って本を読んでいた。

 国が定めた二回の休み以外に山里の小学校に設けられた休み―半月の農繁期の休みだった。
 村の子供たちは家に帰り大人の仕事を手伝う。農家の子供は畑で麦の苗と一緒に次々と伸びる雑草を抜き、牧民の子供は牛や羊を山の草原―夏の牧場へ追って行く。

 教師は足音を聞きつけ、帽子を脱いでジグメのやって来るのを見やり、熱い茶を用意した。

 ジグメは教師になんの本を読んでいるのか聞いた。教師は、世界中の様々な国についての本だと答えた。教師は言った。今世界には二百以上の国がある。

 「仲肯さん、今ある国はあんたの物語よりもっと多いぞ」

 ジグメは教師を悲しませるような言葉を口にした。
 「先生はこの世の中の沢山のことを知っているが、先生がいるこの小さな場所を知ってる人はほとんどいないな」

 教師はつばの広い帽子をかぶり直し、目の辺りを隠した。

 ジグメは話を変えた。
 「オレはある場所を探してるんだ。ムヤという場所だ」

 「伝説の中の場所だな」

 教師はジグメを教室に連れて行き、生徒に字を覚えさせるために使う棒で地図の地名を一つ一つ指して言った。
 「これが今ある場所だ。その中にムヤというのは無い」

 ジグメは学校を去り、その下にある村を訪ねた。
 新しく建てている家があった。職人たちは石を積み重ねて壁を作り、主人は傍らの胡桃の木の下に大鍋を架けて食事の支度をしていた。主人はジグメに少し休んで行けと言った。
 「仲肯の語りは新しい家にとって何よりの祝福になる」

 職人たちは仕事の手を休め、雄大な砦を称賛する華麗な段の語りを聞いた。ジグメの語りが終わるとお互いに祝福し合った。
 ジグメは尋ねた。
 「ムヤを探してるんだ。ムヤという場所を尋ね歩きたいんだが」

 皆は笑って言った。
 「たった今着いた場所、ここを去ってこれから通り過ぎるたくさんの場所、それが古代のムヤだよ」

 「本当か」

 彼らは顔を近づけて来た。
 「俺たちの顔は他の場所の者たちとは違ってるだろう」
 そう、彼らはとがって鉤のような形の鼻、茶色がかった目をしていた。

 彼らは言った。
 「オレたちのしゃべるのを聞いてごらん。他の場所の者たちとは違うだろう」
 そう、彼らの話すいくつかの音は、のどの上の方から飛び出してくるようだった。

 こういったすべては、古代のムヤから続いている痕跡だった。
 古いムヤは広い峡谷を何年も開墾し、林と水辺の土地に、小麦と裸麦を植え、石の家の壁に白い灰で大きな吉祥の図案を書いた。それらの村は胡桃とリンゴの木で囲まれていて、牛の囲いの中は空っぽだった。
 夏、雪銭はどんどん後退していき、牛の群れは白い雪の解けた山の牧場へ連れて行かれる。
 秋はまだやって来ず、麦打ち場の周りには、牛蒡が大きな群れとなって生い茂っていた。

 風が長い帯のような真っ白な雲を押しながら、広い峡谷の空を横切って行った。

 その夜、ジグメは麦打ち場で語った。それから、新しい家を作っている大工たちのテントに泊まった。

 寝る前、彼は唱えた。
 「ムヤよ、ムヤよ」
 彼が言いたかったのは、この平和な地は、本来法術とは縁はなく、それよりも、勝手に禁忌に触れたりするような場所ではない、ということだった。

 その後、彼はまた夢を見た。






阿来『ケサル王』 164 物語:トトン天に帰る

2016-09-17 22:55:28 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


物語:トトン天に帰る その4



 その日王宮にいたすべての人が、タンマとミチオンが持ち帰るのはトトンの亡骸だけだったのを知った。その中の少なくとも半分の者は、死んだトトンが王宮の西側の大きな四角い岩の上に横たわっているのを自らの目で見た。

 ケサルが岩の前に来て触ってみると、手足はすでに冷たかった。ケサルは腰をかがめトトンの耳に口を近づけ、目は空に向けたまま言った。
 「叔父上、本当に亡くなられたのですか」

 トトンは何も答えなかった。

 「私には本当に亡くなられたとは思えないのです」

 空を漂っていたトトンの魂は一瞬震えたが、声を上げることはなかった。
 冷たい風が微かに吹き抜けるのを感じ、ケサルはもう一度目を挙げて空を見た。その後、大きな声で言った。
 「叔父上は本当に我々の元を去って行かれたようだ」

 三十人の経を読む者が現われ、岩を取り囲んで座り、亡くなった魂を済度した。三十のトゥンチェン(長いラッパ)と三十の白ほら貝が同時に吹き鳴らされ、巨大な薪の山が積み上げられた。
 ケサルは、明日太陽が昇る前に死者が生き返らなかったら火葬にするよう申し渡した。

 ケサルは言った。
 「叔父上は高い法力を具えている。もしかしてこの足腰の弱った古い体を捨ててアサイ羅刹の元へトルコ石の髪を取りに行ったのかもしれない。そうであれば、明日の朝早く戻って来られるだろう」

 ケサルはトトンが死んだふりをしているのを知っていた。こう言ったのは、トトンに公開の時間を与えるためだった。
 トトンは勿論後悔していた。だが大勢が注視している中で自分の体の中に戻ることは不可能だった。「さあ、皆をアサイ羅刹の元へお連れしよう」と起き上がるわけにもいかなかった。

 その間に、トトンは本当に当時アサイ羅刹と会った赤銅色の山の上へ飛んで行ってみた。だが、冷たい星の光が山の頂から降り注いでいるのが見えただけで、山の上に生命あるものは何もなかった。
 空が明るくなる頃、トトンの魂はまた王宮に戻り、彼の体が火葬のために高々と積み上げられた薪の上に置かれているのを目にしたのだった。婦人たちが悲痛な歌を歌いながら、その体に香りの良い花びらを撒いていた。

 ケサルは言った。
 「叔父上はもう戻られないようだ」

 言い終ると、彼の前に松明が立てられた。
 この“三昧真火”は、この世では硬くて打ち砕くことのできないものをも焼く尽くし、穢れた世に居る間に積み重ねられた一切の善悪も、恩と恨をも断ち切ることが出来るという。

 ケサルは命じた。
 「寅年の者よ、ここに来て薪に火をつけよ」

 タンマが正に寅年だった。彼は前に進み出て松明を受け取った。
 国王はタンマに命じた。火の門は東方から開く。東から火をつけるように、と。

 こうなればもはや何もかまってはいられない。トトンの魂は人々の間を掠めるように急降下し、火を消そうとした。その一瞬、その場にいた人々はみな冷気に襲われたように感じた。だが“三昧真火”はごうごうと燃え続け、いささかも乱れることはなかった。

 焦りのあまり、トトンは魂を肉体に滑り込ませると、肉体はすでに冷たく硬直していて、彼をしっかりと閉じ込めてしまった。
 彼はタンマにやめろと叫ぼうとした。国王に命乞いをしようとした。だが、硬直した口を開くことは出来なかった。目を開けようと思ったが、瞼もすでに硬直していた。

 この時東方の門はすでに開き、炎は狂喜しているかのように高く積まれた薪の山を昇りつめた。タンマは西に開いた煙の門も開いた。すると真っ直ぐだった濃い煙は少し傾きながら空へと昇って行った。
 間もなく、火の山はどうと音を立てて崩れた。

 その時叫び声が聞こえたようだったが、何の変化も見えなかった。ただ炎がひときわ明るく、熱く燃え盛っているだけだった。

 ケサルは静かに座ったまま、目を閉じ合掌し、火の中で葬られる者のために済度の経文を唱えていた。
 彼はトトンの魂が小鳥のように自分の周りでチ、チ、チと啼くのを聞いた。
 
 ケサルは言った。
 「今回、叔父上は真に解脱されるでしょう」

 ケサルは、小鳥が肩に止まり、人の声で何か言ったのを感じた。ある人物の名前、ズウォグウォ・タンザンと告げていた。

 「昨夜、天の母がすでに夢で託された。だが私はやはり叔父上が自ら口にされるのを聞きたかったのです」

 「チ、チ、チ」

 「本当なら、叔父上の罪は地獄に落ちるに値します。それでも、臨終に際して生まれた悔いの心が叔父上の魂を浄土へと導くでしょう。欲もなく憂いもない西方浄土へと」

 トトンの魂は喜びの声をあげた。

 彼は暫くの間火葬された灰の上に留まり、人々が骨を拾い甕に収めるのを見ていた。ついに甕の口が閉じられる時、人々の祝福を受けた。

 息子トンザンは列をなした人と馬を率いて、ダロンの魂の鳥が棲む高い山へと甕を送り届けた。







阿来『ケサル王』 163 物語:トトン天に帰る

2016-09-10 14:25:44 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


物語:トトン天に帰る その3




 秘密の部屋から出て寝床に横になると、トトンはひどく弱っているのを感じた。邪神が病を与えてくれたのだろう。
 そこで目覚めるとすぐ、苦しそうなうめき声をあげた。二回目のうめき声をあげようとした時、自分には病の兆しが微塵もないのに気付いた。心臓はパクパクと音を立て、脈はドクドクと湧きかえっている。股間の物は屹立し、旗竿の先端に突き出した鉾のようだっ。

 妻が朝の挨拶に来ると彼は言った。
 「ワシは病気だ」

 妻は夫の血色がよく、眼光も鋭いのを見て、笑いながら口をゆすぐための茶を捧げた。
 すると、トトンは椀を壁に投げつけ、叫んだ。
 「ワシが病気だと信じられないのか」

 こうして彼はずっと寝床に横たわっていた。昼になると、息子トンザンを呼びに行かせた。

 息子の堂々とした体を見て、トトンは本当に泣いた。
 「お前を見て、戦死したお前の弟を思い出した」

 この言葉にトンザンも心を痛めた。

 トトンは悲し気に息子に言った。
 「ワシは病気だ、間もなく死ぬだろう」

 「父上の顔には病の相は見えません。昨夜悪い夢でも見たのではありませんか」

 「ワシが患っているのは体ではない。心の病がワシを苦しめるのだ」
 トトンが怒りを込めてこう叫んだ時、その声は甲高く、まるで女性のようだった。「ケサルがワシを死に追いやるのだ」

 トンザンは眉を顰め、言った。
 「父上、国王は父上を許したばかりです。また国王を敵にするおつもりですか。国王は神に降された子です。誰も勝つことは出来ません」
 
 「出て行け」

 「父上…」

 「出て行くのじゃ」

 瞬く間に十五日になった。

 ケサルは、トトンが自らやって来ることはないと見越して、迎えの者を遣わせた。だがダロンの宮殿の前にはもの忌みの石が積みあげられ、入り口を塞いでいた。
 リン国の習慣では、入り口に石が積まれているのは、家に重病人がいて面会を謝絶していることを表わす。
 彼らはすぐに王城に引き返して国王に報告した。

 トトンがまた何か策を用いているだろうことは、ケサルには分かっていた。そこで再びタンマを付き添わせて医術に通じたミチオンに会いに行かせた。
 
 トトンは入り口のもの忌みの石で訪れた者が帰って行くのを見て、策略が成功したと喜び、寝床を降りて好物をぱくついていると、下僕がやって来て、タンマとミチヨンが門の前まで来ていると報告した。
 トトンはすぐに寝床に潜り込み、茶を用意して客人を迎えるよう妻に言いつけた。

 妻は客に丁寧に茶を供し、夫は帰宅してから病に倒れ、お二人に病が移るのを恐れ、お会い出来ずにおります、お二方は国王様に、トトンは国王のお伴をして遥かな伽国へ行くことは出来ないとご報告下さい、と告げた。

 タンマは答えた。
 「国王は、ダロン長官は病と称しで臥せっておられるのではと考えられ、医術に優れたミチオンに脈を拝見するよう申し付けられたのです」

 トトンはよけいに二人と会うわけにはいかなくなった。

 ミチオンは言った。
 「ご心配なく。我々は糸を通して脈を見るだけです」

 そこで、部屋の扉の隙間から赤い絹の糸を張り、ミチオンはその微かな振動で病人の脈を細かく観察した。
 トトンは部屋の中で糸の端をオウムの首に結んだが、その律動はあまりにも早く、すぐにミチオンに見破らた。
 「ダロン長官殿、脈はゆっくりと繰り返されるものなのに、どうしてこのようにせわしいのでしょう」

 トトンは次に糸を猫に繋ぎ、またミチオンに見破られ、仕方なく自分の体に繋いだ。
 だがトトンまだあきらめきれず、糸を脈を見るべき場所には繋がず、小指に巻き付けた。ミチオンは笑って言った。
 トトン殿の脈拍は変わった所はなく、病の兆しは見えません。もしや病を装っているのではありませんか」

 トトンの妻も、夫が仮病を使っていることは分かっていて、小賢しい手口を見破られたのを見て恥ずかしくてたまらず、部屋に入り、夫に寝床を出るよう勧めた。
 トトンはこの時すでにもう後には引けないと知り、どう頼んでも起き上がらず、逆に、妻にこのまま嘘をつきとおして、タンマとミチオンに、夫は上半身は火のように熱く、下半身は氷のように冷たく、間もなく命は尽きるだろう、と言わせようとした。

 妻は夫が何を言っても聞き入れないのを知り、夫を手伝った。
 夫を日向と影との境目に連れて行き、上半身は激しい日差しに晒し、下半身は冷たい影の中に来るよう寝かせた。

 タンマとミチオンはついに待ちきれず、断りなしに奥の間に駆け込むと、トトンが自分の体を弄んでいるのを見て、馬鹿々々しくもありおかしくもあり。
 トトンは二人が踏み込んで来たのを見ると、息を止め目を剥き、両足を伸ばして死んだふりをした。

 タンマは実直な性格で、トトンは本当に死んだと思った。
 だが、ミチオンは医術に通じており、一目見て死んだふりだと分かり、タンマに目配せすると、タンマもすぐに理解して、トトンを担ぎ、馬の背に乗せ、ミチオンと共に真っすぐ王宮へと駆け戻った。

 トトンは思った。ミチオンはきっと自分が死んだふりをしているのを見破っただろう、でなければ、このように長い道のりを急ぎ、亡骸を国王の前に運ぶはずはない。こうなればもはや本当に死ぬしかなく、そうすれば洞察力に優れたケサルも騙すことが出来るだろう。

 そこで彼は体中の呼吸する門をすべて閉じ、血を凍らせて流れを止めた。そうしてから、馬の背に横たわる肉体から魂を抜け出させた。
 魂が肉体を抜けると、冥途の使者がやって来た。
 トトンは二人の使者に山の中の宝の蔵を賄賂として、冥途へ行くまでに三日間の時間の猶予を手に入れ、自分の魂にタンマとミチオンの後を付いて行かせた。

 トトンは、ケサルは冷たくなった亡骸をを取り上げたりはしないだろうから、ダロン部の者が自分の死体をに持ち帰えったその時に、魂を戻しても遅くはない、と考えていた。







阿来『ケサル王』 162 物語:トトン天に帰る

2016-09-07 00:39:18 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304




物語:トトン天に帰る その2




 首席大臣は下を向いたまま何も言わなかった。
 そこでトトンは口を開いた。
 「もし国王がワシの命を召し取っていたら、今日、アサイ羅刹の居場所を伝える者はいなかっただろう。そしてもし国王がアサイ羅刹の行方を知る手立てがなければ、伽国の妖皇后を消滅させることは出来ないのじゃ。もしあの妖怪を生き返らせたら、伽国が暗黒に陥るだけでなく、リン国もまた…」

 ケサルが冷たく笑っているのを見て、トトンは得意の饒舌を収めて言った。
 「国王よ、リン国とムヤの交わる辺りに赤銅色の大きな山がある。アサイ羅刹はそこに隠れ住んでいる。当時、ホルとリンが戦った時、ワシは野の馬の群れを追ってうかつにもその辺りを通り過ぎ、そこでアサイ羅刹に出会ったのじゃ。我々は戦った。頂上から麓まで戦い続け、半日経っても決着がつかず、ついには互いの力を認め合い、香を焚いて誓いを結んだ。この世で苦楽を分かち合い、命を供にしようと。ところが、国王はみなと同じように、ワシがヤツの所からトルコ石の髪を手に入れられるとは信じてはおられないようじゃ」

 首席大臣は言った。
 「もしそなたがその法物を取ってきたら、誰もが自ずとそなたを信じるだろう」

 トトンは目をぎょろぎょろさせて言った。
 「そなたが信じようと信じまいとこのトトンにはどうでも良いことだ。ただ国王だけが…」

 国王は高らかに笑った。
 「さすがダロン部の長官だ。私はまだ叔父上の謀叛の罪を罰していないのに、叔父上は恨みを抱いているのですか。よく考えてみなさい。競馬で王となった時、我々母子を荒野に追い払った罪に罰を与えなかった。ホルリンの戦いで敵に内通した罪も罰しなかった。その上でまた叔父上を信じろと言うのですか。さあ、言いなさい。どうしたらその羅刹の手からトルコ石の髪を手に入れられるのか」

 トトンは国王が自分の罪を次々と並べるのを聞いて、あっという間に額に冷汗を滴らせた。
 「死を賜らなかったこと、感謝に堪えず、必ずや誠心誠意、妖怪を倒す法具を手に入れる助けを致しましよう」

 「ではいつ出発するのですか」

 「国王よ。あの妖怪と会うには、ある特別な時間でなくてはならないといわれておる。おまけに、ワシは牢に繋がれていた体がまだ癒えていない、長い旅は無理じゃ」

 「では、いつなら行けるのか」

 「次の月の十五日、それが出発にふさわしい日じゃ」

 「そうであれば、帰ってお休みなさい。叔父上の言葉に従って次の十五日、月の満ちるのを待ちましょう。ダロンの長官よ、覚えておきなさい。あなたを信じて大任を与えるのはこれが最後だと」

 家に着くより先に、トトンは後悔し始めていた。
 ケサルはこれまでに幾度も自分の罪を許して来た。だがもしかして今回、自分は自ら死地に赴くことになるのかもしれない。

 羅刹とは一度会ったという縁はあるが、先ほど言ったように生死の交わりを結んだ訳ではない。しかもかなり昔のことだ。アサイ羅刹は敗軍の将など覚えていないだろう。
 あの時、二人は赤銅色の高い山の頂で法術を戦わせ、峡谷まで降りて更に戦った。一帯に砂を巻き上げ石を動かし、夏の大地に冷たい氷を降らせ、湿った沼地から激しい炎が噴き出させた。最後に自分が負けた。アサイ羅刹は多くを語らず、大声で笑い、衣を翻して山の上へ飛んで帰ったのだった。

 トルコ石の髪は羅刹を守る法具であり、簡単に人に渡すはずはない。もし今回訪ねても、羅刹は必至で法具を守るだろう。
 そして思った。前回国王抹殺を企てた罪はまだ処罰されていないのに、さらに君主を欺くという罪を重ねたら、リン国で生きる道はなくなるだろう。こう考えると不安でなまらず、深夜に起き上がり、自分の頬を思いきり叩いた。

 「よけいなことばかり口走る傲慢な奴め!」

 「虚勢ばかり張りおって!」

 「自ら王になりたがるとは!」

 こうするうちに、若い頃自分があまりに無鉄砲で狂暴であったため、家の者が法術によって気弱で疑り深く、だが野心を抑えられない人間に変えたことを思い出した。そう思い至ると彼は泣いた。
 アサイ羅刹を探し出せなければ自分にはもはや生きる道がないことも分かっていた。そこで、彼はまたひとしきり泣いた。

 「ワシは自分のために泣いているのではない。ワシはすでに年老い、死期は近いのだから。わしは息子トングォを想って泣いているのだ。もしわしが野心を持たなければ、息子はこの世で幸せに生きていけたはずだ、と。そして強大なダロン部のために泣いているのだ。人々から敬われていたのに、それは軽蔑に変わるだろう」

 ケサルが王になり、特に仏法が伝わってから、リン国は様々な邪神を祭ることはなくなった。だがトトンは宮殿に特別な秘密の部屋を作り、邪神の偶像を祭っていた。
 この夜、彼は秘密の部屋を開け、邪神の前に跪き、祈った。
 「もし叶うならば、一切の苦しみに打ち勝つ力をお与えくだされ」

 偶像は何の反応も示さなかった。おどろおどろしい目に煌めきはなかった。数十回目の祈りが終わると、手にした灯明が燃え尽き、微かな炎が数回揺れて消えた。最後に邪神の見開かれた目がゆっくり閉じていくのを見たような気がした。

 トトンは暗黒の中で跪いた。
 「もし他の望みが無理ならば、せめて十五日の月が丸くなる時にワシを病に臥させて下され」







阿来『ケサル王』 161 物語:トトン天に帰る

2016-08-30 22:33:35 | ケサル
★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



物語:トトン天に帰る その1




 ムヤの法王がケサルに得度されたのを見て、トトンが大声で言った。
 「大王よ、今こそ大軍を送り、ムヤを一網打尽にする時じゃ」

 すぐにチンエンが上奏した。
 「大王様、法王でさえ最期に臨んで善の心を持ちました。俗王ユアントンバはそれ以上に善を求める者です。兵を挙げてはなりません」

 ケサルは微笑んで答えた。
 「チンエン、良く言った。今回ムヤへはただ数人の臣下のみを連れて来た。妖魔を鎮めるための法器を手に入れ、メイサを救いだすことが目的だったからだ。それはすでに達成されたのだ」
 言い終ると、身を翻して神馬にまたがり、チンエン、タンマ、ミチオンなど数人の将軍と大臣も馬に乗って続き、ムヤの境界へと飛ぶように駆けて行った。

 風のように疾走しながら、神馬は人の言葉で詩を作り歌った.

 「豊かな羽根を纏ったハイタカのように天を駆ければ、
  瀑布が千里を流れるかのように尾は翻る。
  天上の神々よ、
  我らのためにムヤの雪山の扉を開けてください」

 すると天の際に高く聳え、連なる雪の峰はその位置を移し、すべての峡谷が目の前で開け、道を作った。

 チンエンがケサル一行をムヤの王宮へ導くと、ムヤ王ユアントンバとメイサが王宮の長い階段を駆け下り、ケサル大王を迎えた。
 ユアントンバはケサルにハタを捧げた。
 「尊敬する獅子王ケサル大王様、あなたの慈しみに感謝致します。我が兄を地獄へ送ることなくお許しくださいました。願わくば更に大きな慈悲で我々の民を戦いの苦しみを味あわせないで下さい。謹んでムヤのすべてを献上いたします」

 ケサルはユアントンバを暖かい言葉で慰めた。
 「今回私はムヤへ来るのに一人の兵も連れてこなかった。妖魔を倒す法器以外、リンはムヤに一滴の水も要求しない。ムヤの草原の一本の花も持ち去りはしない。そなたは心穏やかに国王となられよ」

 メイサも上等なハタを献上した。
 「尊敬する王様。私はリン国に生まれ、父母の愛を受けて育ち、王様の妃となりました。異国に捕らわれの身となった時、心ならずも魔国の王に仕えました。そして、胸に潜んだ恨みを晴らそうとして、リン国の偉大な英雄、王様の親愛なる兄、ギャツァ様を失わせてしまいました。今また、妖魔を倒す宝を手に入れるためにユアントンバの妃となりました。大王様、これからはもう男たちの間を彷徨いたくはありません。ムヤに留まり、ここでこの世を終わらせるのをお許しください」
 
 この言葉を聞いてケサルの心は重かった。だが、この度メイサがムヤに捕らわれたのはリン国のために功績を立てようとしたからだと思い至り、跪いたままのメイサを自ら助け起こした。
 「メイサよ、幾度か繰り返えされた行いも、その中に間違いがあったとは言え、もととなる所以はそなたにあるのではない。それはリン国の民はみな知っており、天の神々もすべてご存知だ。早く支度を整えリン国に戻り、私たちの深い縁を続けて行こうではないか」

 そう言ってケサルが手を振ると、メイサの体に羽衣が纏わり、もう一度手を振ると、その体は空高くに浮かびあがった。
 メイサは何か言おうとしたが最早どうすることも出来ず、心が乱れたままムヤの王宮の上を三度回り、鶴が鳴くかのような悲喜こもごもの嘆きの声を残し、ムヤの王から渡された宝の蔵の鍵を空から投げると、翼を広げて飛んで行った。

 その様子を見て、ユアントンバの心は刀でえぐられるようだったが、ケサルの前では哀しみの色を見せるわけにはいかず、涙が体の中を音を立てて流れるに任せた。その音は目まいがするほどに震えていた。
 彼は力を奮い起こしケサルと君臣を宮中に迎え入れ、酒宴を設け、更にどのような法器が必要かとケサルに尋ねた。メイサとジュクモがすでに二つの法器を手に入れたのを知っていたからである。

 ケサルは、アサイ羅刹のトルコ石の髪を、と答えた。

 それを聞いてユアントンバは困惑の表情を浮かべた。彼は国にそのような仙人がいて、ユズトンバとは親密な間柄だったということは知っていた。だが、法術の秘儀には一向に興味がなく、そのためアサイの体の一部である法器を手に入れる方法も、彼が密かに修練する場所も知らなかった。ユアントンバはメイサが残していった宝の蔵の鍵をケサルに渡して言った。
 「他にも、この国の蔵に必要な宝物や法器がありましたら、どれもリン国へお持ち下さい」

 宝の蔵を開けると、すでにメイサがリン国に送った蛇心檀香木の他に、隕石で作られた器が見つかった。中にはジャコウジカから取った心臓を守る油が入っていた。

 ユアントンバは言った。遥かな伽国へ行くには、木々の生い茂った密林や強い毒を持ったクマアリのいる場所をいくつも通らなくてはなりません、この護心油を持っていれば、どんな毒も侵入できず、優れた護身の宝となるでしょう、と。

 ケサルはムヤ王に感謝し、臣下を連れてリン国へ帰った。

 国王が戻ったのを聞き、ジュクモは正装して、宮殿の外で出迎えた。彼女のふっくらとした顔だちは、昇ったばかりの月のよう、緩やかな眉は雪の解けたばかりの遥かな山のようだった。見つめ合えば、そよ風が湖面を優しく撫でたよう、その輝きは幻かと思われた。
 ジュクモは自らムヤから持ち帰った宝物を献上した。

 ケサルは言った。
 「誰もがそなたとメイサの働きを忘れないだろう」

 ジュクモは心の中で微かな不満を覚えたが、ケサルはすでに話題を変え、誰がアサイ羅刹を探し出せるか尋ねた。だが、大臣たちは静まり返ったままだった。
 ケサルは声を高めた。
 「この世にはもともとアサイ羅刹はいなかったとでもいうのか」

 この言葉に大臣たちは黙ったまま恥入り、うなだれていたが、ただトトンだけが得たりとばかりほくそ笑んだ。
 この男は少し前まで牢の中で生死も定められず、顔にはまるで埃を被ったようなみじめな表情を浮かべていたのだった。

 今、彼はみなと共に席に着き、入念に整えた髭を脂で光らせ、よく通る声で言った。
 「首席大臣とはすべてを知る者だ。いや、首席大臣として当然知っているべきことではないのかな」







阿来『ケサル王』 160 物語:ムヤ或いはメイサ

2016-08-01 01:21:44 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


物語:ムヤ或いはメイサ



 さて、ユズトンバはメイサの言葉を信じ、元の魔国へとチンエンを訪ねに行った。二人は古くからの知り合いだった。そのため、砦にいるチンエンは空中から伝わって来る笑い声を聞いて、すぐにムヤの法王が訪ねて来たと分かった。

チンエンは、メイサとジュクモがムヤへ法器を取りに行ったまま数日経っても戻っていないと聞いていたので、この機に、彼に二人の妃の消息を尋ねようと考えた。そこですぐに門を開け、迎え入れた。

ムヤの法王は待つ間ももどかしくメイサの計略をチンエンに伝え、かつての魔国のを集め、時を申し合わせ、同時にリン国へ攻撃をかけようではないかと持ち掛けた。
 チンエンは言った。
 「メイサの手紙はないのですか」

 ユズトンバは地団駄踏んだ。
 「急な話だったので、メイサは手紙を書いていない」

 チンエンは早くもメイサの意を汲み取った。メイサとジュクモはムヤで捕らわれの身となり、この知らせをケサルに伝えてほしいということだろう。そこでこう答えた。
 「それでは何かメイサのしるしとなるものをお持ちですか」

 ユズトンバは何も持っていなかった。

「私チンエンとメイサは亡くなった王様のことをいまだ忘れてはいません。だが、彼女の手紙やしるしとなるものがなくては、真偽が分からず、あなたの命を聞くわけには参りません」

 ユズトンバは仕方なくメイサのしるしを取りにムヤに帰った。
 こうしてチンエンはケサルに報告する時間を稼ぐことが出来た。

 ユズトンバがしるしの品を持って戻ると、チンエンは快く承知し、三七二十一日後に魔国の旧軍をムヤに到着させ、ムヤの精兵と共にリン国を攻めることを約した。

 ユズトンバは魔国から戻ると、うれしくてたまらず宴席を設けて旅の疲れを落とそうと、メイサに相伴させた。メイサは酒を注いで成功を祝ったが、ジュクモのことを尋ねられるのではと不安でたまらなかった。
 法王はメイサが次々と勧めるうま酒に誘われ、酔いつぶれてぐっすりと眠ってしまった。

 一方チンエンは、部下に兵馬を集めて出征の準備をするよういい付け、自分はすぐさまケサル国王に会いに出かけた。
 ケサルは聞き終わると言った。
 「そなたの考えか聞かせてくれ」

 チンエンは答えた。
 「私が魔国の軍を率い、ムヤの軍とともに王様が決められた場所へ連れて参ります。その時、魔国軍は赤い旗を印とし、ムヤの軍は黒い旗を印とします。リン国の軍が潜んでいる場所へ着いたら、内と外で呼応し、一気にムヤの軍を滅ぼしましょう」

 ケサルは隣にいるザラに言った。
 「チンエンはこのように忠実で勇敢、謀事も出来る。今後、もし何かあれば彼を頼りにするがよい」

 ザラは国王に警告した。
 「魔の地からムヤまで、十八の険しく狭い雪道を通らなくてはなりません。徒歩で進む大軍が約束の日までに到着するのは難しいのではないでしょうか」

 そこでケサルは命じて緑色の馬の尾を持って来させ、チンエンに申し渡した。雪山と氷河を通る時この緑色の馬の尾を腰にまけば、大軍は神馬の力を借りて難所を通り抜けることが出来る、と。
 チンエンは命を承知し、約束した期日以内にムヤに到着した。

 ユズトンバは心から喜び、酒の席を設けさせ、チンエンと彼の部下の大将をもてなした。ユアントンバは兄のリン国に侵入しようと言う鉄の意志を見て、心中不安でならず、兄に向かって、今の世で武術でケサルと優劣を競える者はいない、と力説した。

 チンエンはそれを耳にして間髪を入れず忠告した。
 「大王様。目を閉じても災難は訪れます、耳を塞いでも、雷は鳴り渡ります。リン国を恐れても無駄です。ケサルは向こうから攻めて来るでしょう」

 次の日早く、ムヤ軍は魔国の軍と合同し、リンへ向かって出発した。
 十日後、チンエンはムヤの大軍をリン国軍が待ち伏せしているただ中に連れて行った。戦いが起こり、ムヤ軍は必至で抵抗していたが、あろうことか、魔国の軍が旗を振って突貫して来て、内部でからも攻撃を受けた。
 昼に第一矢が放たれてから黄昏時までに、ムヤ軍の黒い旗は半分以上が倒れた。

 ケサルは間もなく日が暮れると見て、馬を駆って陣に入り、ちょうどチンエンと戦っていたムヤの法王を馬の上から引き剥がし、まるで皮の袋を扱うかのように空中で何十回となく回転させ、それから地面に放り投げた。

 ムヤの法王は、目がまわり、足の力は萎え、何度も起き上がろうとしたがそのたびに地上に座り込んだ。法王はそのまま呪文を唱え、ムヤの各地に隠してある法器に助けを求めたが、ケサルは先にそれを上回る法力でリンとムヤの境界に大きな壁を設けていて、ユズトンバの念力は通り抜けられなかった。

 この時、押し寄せて来たリン軍は一斉に声を挙げた。殺せ!殺せ!殺せ!

 ムヤ王は一つため息をつくと、弟の勧めを聞かなかったことを悔い、目を閉じたまま身を起こし、首を差し出した。

 ケサルは叫んだ。
 「早まるな。凶暴で傲慢なムヤ王のため息から深い後悔が聞こえて来るではないか。ユズトンバよ、言いたいことがあれば述べよ」

 「ケサル王よ。そなたの法力には降参だ。ワシの罪を許せとは言わない。ただ、かつてリン国と盟を誓ったよしみを思い、民は苦しませないでくれ。
  その恩に報いるため、ワシが死んだ後は、ワシが鍛錬した法器をすべて存分に使ってもらうこととしよう。
  もう一つ、弟ユアントンバは心優しく、リン国に対して常に忠誠を誓って来た。やつに罰を与えないでほしい」

 ケサルは言った。
 「死に臨んで善なる言葉を述べたそなたの心を思い、地獄に送るべきところだが、よいだろう、安心されよ。
  そなたの魂を清浄な仏の国へと導こう。さあ、行くがよい!」

 言い終わるや否や、手のひらから強烈な光が一筋伸びて行き、ユズトンバの体を地に投げ付けた。
 肉体から抜け出た魂は、憂いも悩みもなく、欲も迷いもない浄土へと得度された。





阿来『ケサル王』 159 物語:ムヤ或いはメイサ

2016-07-26 00:06:32 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



物語:ムヤ或いはメイサ その4



「どちらがジュクモだ」
「私です」ジュクモはメイサが再び皇后を名乗るのを許してはならぬと、即座に答えた
「私を縛って、柱に吊るしなさい」

 俗王が止めようとすると、法王が先に口を開いた。
 「聞いていたとおりだ」
 そこでニヤリと笑い言った。「と言うことはもう一方がメイサだな」

 メイサは顔を背けて押し黙った。

 「昔、ワシらは縁あって面識があるのだが、忘れたかな。ワシは昔の交わりを重んじる者だ。だからそなたを打ち付けたりはしない。覚えていないだろうか。そなたが魔国の王妃であった時、ワシは魔国へ行き国王と法力を磨き合った。そなたが自ら注いでくれたうまい酒を飲み、そなたを慈しく思ったものだ」

 メイサは言った。
 「国王が昔の交わりを大切になさるなら、リン国との誓いをお忘れになりませんように」

 この言葉に法王ユズトンバの顔色がみるみる変わった。
 「そなたが魔国への想いを忘れたのならそれは良しとしよう。だがリンのために弁解するとは。ならばそなたとの旧交はなかったことにしよう。
  当時ワシは兄弟のよしみでリン国の危機にも兵を挙げなかったのだ。だが、このように長い年月、リン国は我がムヤを存在しないかのように扱ってきた。礼をしないばかりか、この間、風の音にも挨拶の言葉を聞かぬ。
  今リンは巨大になり、古い友情を思わぬばかりか、宝物を盗みに来た。まずそなたが宝を盗み、その後でケサルが兵を挙げるに違いない。恩を仇で返し、ムヤを滅ぼす気だな」

 メイサは答えた。
 「小さなロバに載って鞭を揮うのは良い騎手とは言えません。もし皇后を大切に扱って下されば、ゆっくりお話しいたしましょう」

 「分かった、ワシは多くの法術を身に着けている。皇后が変身して逃げることもないだろう」
 そう言ってジュクモの縄を解かせた。

 メイサは、俗王が医者に言着けてジュクモの傷の手当てをさせているのを目にし、凶悪な法王をこの場から引き離そうと考えた。俗王ユアントンバはまだ優しさを残している。機を見て行動すれば、ケサルが功を成すのを助けられるだけでなく、ジュクモの命を救うことも出来るだろう。

 そこで笑顔を浮かべなよやかな声で法王に言った。
 「昔私が魔国にいた頃、魔国の王様は私に深い愛情を示してくださいました。忘れることがありましょうか。
当時大臣のチンエンと誓いました。必ず王のために敵を討とうと。そこでアダナムと図ってケサルを迷わせ国に返さなかったのです。思いもよらないことに、その間にホルの国王は美女を手に入れて国に戻ってしまいました。そうして今があるのです」

 法王は恨めしそうに俗王を睨み
 「この弟は情にもろく、そのため、ムヤはロンツァタゲンと盟を結んだのだ。そうでなければ最早天下にリン国はなかっただろう」

 「大王様。魔国の旧はすべて大臣チンエンが統率しています。もし彼と連絡を取り、ムヤと魔国の旧が連合したら、リン国と戦うことが出来るでしょう。王様が勝算がないと恐れなければですが」

 「ワシが恐れるだと!ワシはケサルの皇后と妃を縛ることのできない自分を恐れているのだ。よし、弟を魔国につかわしチンエンと策を練らせよう」

 「それでは、俗王様が悩まれるのではと心配です」

 「そなたの言う通りだ。弟は臆病を優しさと取り違えている。分かった。ユアントンバ、ワシの代わりにメイサの相手をしジュクモを見張っていてくれ。わしは魔国へ行ってチンエンと会い、数日の内に良い知らせを持って戻って来よう」
 そう言うや否や大鳥に乗って北へと飛んで行った。

 ユズトンバが出発するのを待って、ジュクモとメイサは俗王ユントンバを誘惑し始めた。ジュクモはこの機に逃げようと望み、メイサは彼の優しさを憐れみながらも策をめぐらせリン国のためにより多くの法器を手に入れようと考えた。

 ユアントンバは暫くはジュクモの美しさに魅了されたが、あまりに居丈高で好きになれなかった。それに反して、メイサは心からの親しみを表わしている。そこで、礼を尽くしてリン国の皇后の世話するよう人に申し付け、メイサ一人とだけ酒を飲み語り合った。酒が回ると、頭の中がガンガンと響いた。

 メイサは考えた。ケサルはこれまで何度も天に帰りたいと漏らしている。今回伽国の妖皇后を滅ぼせば、その日は近いかもしれない。そこでユアントンバに尋ねた。
 「私は天に昇って神仙になれるでしょうか」

 ユアントンバは言った。
 「神仙になるには私の兄のように苦しい修行が必要だと言う者もいれば、天から与えられた果報だと言う者もいる。そなたがどうなのかは私には分からない…」

 美しい人の上気した瞳からあふれる熱いまなざしに、ユアントンバは魂を抜かれたかのよう。だが、メイサは涙を浮かべて言った。
 「私は法術にも通じず、深い罪を負った人間です。その因果でこの体はついには灰となり煙となってしまうのでしょう」

 美しい人の強い語気と辛そうな表情にユアントンバの心に慈しみの思いがあふれ、メイサの玉のような手を取って自らの手の中に包み込んだ。
 「ケサル王は最後には天に帰って行くという。もしそなたがムヤに残りたいと望むのなら、我ら二人、この世の残りの日々を共に過ごそうではないか」

 この言葉にメイサは更に止めどなく涙を流した。
 「大王様、ケサル王は人並みならぬ力を持っています。自分の妃を他の者の愛妾にするはずがありません」

 「ならば、彼が天へ帰るのを待ってそなたを迎えに行こう」

 メイサは言った。
 「実は、私とジュクモがここまで来たのは、ただ、ムヤに法器を借りて伽国へ行き、妖皇后の遺体を消し去るそのためだけなのです。法王が想像するようなムヤを滅ぼそうなどという思いはいささかもありません。もしその法器を私に貸して下さったら、ケサル王はもしかして私がムヤに留まって終生お供をするのを許すかもしれません」

 こうして二人はその夜を共に過ごした。
 ユアントンバは呪文を唱え、秘密の洞窟を開け、鍵の束を取り出しメイサに渡し、この鍵は彼が管理している十八の蔵を開けることが出来ると話した。

 メイサはすぐさま蔵を開け、一つ一つ探して、終に黒い鉄の箱の中から蛇心檀香木を見つけ出した。
 ユアントンバは彼女に言った。この香木は瘴気を防ぐことが出来る。もし伽国に行ったらこれがなくては炎熱の林を通り抜けることは出来ないだろう、と。

 その夜、俗王が深く眠りこんだのを見て、メイサはこっそり起き出し、ジュクモが捕らわれている部屋を探し出し、羽衣を着せ三爪の鉤と蛇心檀香木の二つの法器を持ってすぐにリンへ帰るよう言った。
 国王には、自分はムヤの二人の王を謀るためまだムヤに留まる、と伝えるよう頼んだ。

 ジュクモは逃げ出す機会を得て、話をするどころではなく、高まる気持ちで羽根を震わせ夜の空へと飛び上がり、月の光に乗ってリン国へ帰って行った。