塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 173 物語:シンバメルツ天へ帰る

2016-11-28 00:14:36 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


物語:シンバメルツ天へ帰る その2




 「ジュクモよ、そなたはリン国の妃たちの上に立つ者。国のために四方の敵を成敗し、一人軍を率いて境界を守ったアダナムのことを思い出さぬのか」
 ジュクモはうなだれたまま黙っていた。

 「ジュクモよ、嫉妬の炎に心を焼き尽くされたのではないか」

 「少し前、アダナムは便りを寄越しました。これまでの殺生の罪により、遥か辺境で重い病にとりつかれた、とのことでした。そのため、王様がお帰りになったことをアダナムには知らせなかったのです」

 ケサルはため息をつくと首席大臣を訪ね、アダナムの消息を報告させた。首席大臣はすぐにアダナムの配下の者を呼ばせた。
 その時首席大臣はこう言った。
 「アダナム将軍の配下の者を呼んで来なさい」

 ケサルは言った。
 「アダナムを妃とは呼ばず、将軍と呼んでいたようだが」

 「国王様、それはアダナム殿への強い尊敬の念からです。アダナム殿は王妃としての美しさはもとより、将軍の強さと勇敢さをそなえておられます」
 
 ケサルは首席大臣が呼んで来た聡明な目を持つ白皙の若者に尋ねた。
 「そなたは王妃の下で何をしておる」

 「通事を務め、また辺境の地形図を描いています。アダナム将軍から手紙を託されて参りました」

 「持って来なさい」

 「将軍は国王が字を読まれないのを御存じで、出発に際し一字一字私に告げられました、そのすべてを心に刻んで参りました」

 アダナムの手紙は一文字一文字に深い情愛が込められていた。

  人々の幸せのために魔国の兄王に背いたことは悔いていない。
  国王と共に過ごした日々は短く、別れの辛さを味わったが、愛し合った時間は千金に値し、終生の喜びだった。

  更に幸せなことに、自分は女人でありながら武芸を身に着け戦場を駆け回ることが出来た。
  今リン国の名が遥か遠くへ伝わり、大業が成し遂げられようとしている時、
  自分は国王に従い、わずかばかりの功績を立てられたと思うと、心からの幸せが込みあげてくる。

  ただ悲しいことに自分は魔国に生まれ、国王に従う前は敵を激しく恨み、残虐な行為を重ねて来た。
  その報いで最も盛んな年にこうして重い病に侵された。
  病を得てから、ことのほか国王のことが想われ、夫婦の情愛を願った。だが、国王は異国の妖魔を倒すために、遥か遠くへ赴かれている。

  自分の寿命はすでに天に任せる他なく、もし再び国王に拝顔かなわぬならば、この手紙で最後の別れとする。


 白皙の若者が一語一語読み上げると、首席大臣と国王の目から滂沱の涙が流れた。

 ジュクモは恥入って頭を垂れ、涙は衣服を濡らした。

 ケサルは一声高く叫んだ。
 「キャンガベルポよ」

 神馬はすでに鞍を付け、電光のように主人の前に現れた。
 ケサルが身を翻して馬に跨ると、神馬は空へ舞い上がり、アダナムが守る辺境へと飛ぶように駆けて行った。伴を連れない人と馬、主人としもべは半日もかけずに辺境の街へと着いた。
 だが時すでに遅く、アダナムが世を去ってかなりの時が経っていた。

 だが、ケサルの到着は時を得ていた。
 兵と民が葬礼で哀悼の声を挙げているその時、王城から知らせが届き、国王の帰国を祝う儀式が盛大に行われ、酒は湖の水ほども飲み干され、薫香のために九つの山の柏の樹が採り尽されたことが知らされた。あまりに隔たった状況に人々がざわめいているまさにその時、ケサルが神馬に乗って雲の中から降りて来たのである。

 ケサルは城壁の上に立って言い渡した。
 「妃のために悼みの声を挙げてはならぬ。怨念を燃え上がらせるだけだ」

 すべての人が跪き、国王の降臨と女将軍の死を想って泣いた。

 ケサルは不思議だった「何故アダナムのために済度の法要を行わないのか」

 「国王はご存知ないことですが、今際の際に将軍は法要を行わないよう言いつけられたのです」

 病が重くなった時、アダナムは薬草は飲んでも、ラマが経を読んで病を癒すことを拒否していた。
 「経を読むのは亡霊を呼び出すようなものだ」
 ラマは首を振り、国王がこの魔女を帰順させた時、ふとした誤りで、魔性のすべてを取り除けなかったのだろう、と言った。アダナムはその言葉に動じることなく、配下の者を王城に遣わせて辺境の地形図を献上し、言伝を伝え、周りの者には後のことを託した。

 「今の僧たちに私の枕経をあげさせないで欲しい。彼らは口では済度の経を唱えながら心では馬と銀を思っている。彼らは魂を済度すると言いながら見識のない空論ばかりを述べている。
  獅子王が伽国から戻られたら、私の身に着けているものを届けてくれればそれでよい」









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