塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 ⑰ 第2章 大渡河に沿って歩く

2008-06-13 02:09:44 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


3失われた樺の林

 パソコンのキーボード叩いていたら、突然、あの樺の林について書きたくなった。
 その樺の林があった村は、チベット語でカルグと呼ばれていた。この村は古い街道の大きな宿場だった。そこで、ここを行き来して漢の地に帰る商人が漢族の名前をつけた。馬塘である。50年代に新しい人民政府が公道を作ってからは、この場所は、地図の上で、成都から伸びる国道213号線の刷丹路という支線上の最も小さい点となった。道路を補修に来た労働者たちは、チベット名も中国名も使わず、この村を「15キロ」と呼んだ。

 「15キロ」のコンクリートの標識が立っている辺りに、山の中腹の林から一筋の小川が流れて来ている。この流れに沿って、細い道が公道の急なへりを登っていき、斜面を埋め尽くす白樺林の中に消えていく。

 それは薬を採りに行く道である。白樺林の間にあるいくつかの崖の上で、私も木麻黄を採ったことがある。
 その道はまた、山羊を放牧する道でもある。白樺の林の間には斜面に沿った草地がいくつもあるからである。
 その道はまた狩人が通る道でもある。以前、村の若者が熊に追いかけられ、林を抜け出し公道まで逃げてきたところで、石でその熊を打ち殺した、という事件があった。

 泉の水を腹いっぱい飲むためにこの道を通る、という人もいる。公道から入り山道を登ると、20分もしない所にその流れの源がある。この泉の水は、カルグ村の周りの数ある泉の中でも一番甘い。だがその泉がどんなに甘くても、白樺の樹液にはかなわない。

 春、村の小学校の放課後、その白樺林は私の子供時代の天国だった。春の初め、よく伸びた白樺の皮に小刀で傷をつけると、甘くてさわやかで、そしてほんのちょっと苦い樹液が流れ出して顔中を濡らしたものだ。

 だが、私はこの美しい林とともに少年時代を終えることはできなかった。

 文化大革命の間に、400km離れた四川省から一通の書類が届いた。万歳展覧館という建物を建てることになったという。全中国の全ての民族の領袖、毛主席に捧げるためである。
 どのくらい大きいかというと、紅軍の部隊にしばらく属していた大隊長は、土司の官塞よりもはるかに大きいだろう、と言った。
 ある環俗したラマは解放前にラサに行ったことがあり、だから発言する資格があるのだが、彼によると、土司の官塞どころじゃない、毛主席の家はポタラ宮よりも大きくちゃならない、とのことだった。
 当時ほとんどの人はポタラ宮がどのくらい大きいのか知らなかった。
 だが、伐採は半年以上続いた。

 誰が言い出したのかわからないが、毛主席に忠誠を示す白樺は普通の白樺ではだめで、紅樺でなければないということになった。紅樺は普通の白樺より高い場所に生育している。そこで村の男たちは毎日朝早くから山に登り、高く伸びた紅樺を次々に伐採していった。黄昏時に山を降りて来る時には、彼らと一緒に紅樺の大きな幹が次々に滑り落ちてきた。
 
 重い樺の木が滑り下りてくる時、大きな破壊力を見せ付ける。小さな木や草花はあっという間に押しつぶされ、低い場所ですらりと美しい姿を見せていた白樺もまた、ぶつけられて傷だらけになった。林の中のよく肥えて柔らかくなった腐植土の表面が掘りかえされてしまった。
 雨が降ると、一日中、泥とその下に埋まっていた瓦礫が山の下に向って流れ続けた。
 あの頃甘い水を湧き出させていた泉は流砂によって深く埋もれてしまった。

 その後で、公社や県から人がやって来て、物差しを手に一本一本測量し、合格したものには断面にひまわりの絵を書き、真ん中に赤々と忠の字を書きこんだ。
 そのため、これらの木は樺の木とは呼ばれず、「忠の木」と呼ばれた
 忠の木は解放牌のトラックや、反修牌のソ連製トラックに積まれ、村の後ろで岷江と大都河という二つの大きな水域を分けている鷓鴣(シャコ)山を越え、ミアロに至り、さらに岷江の支流のザクナオ河に沿って理県を超え、さらに50km走って汶川県の威州鎮で岷江の本流と合流し、岷江峡谷を抜け、都江堰に至り、それから天府の国、四川省の中心成都に到着する。

 トラックが何台も何台も往復し、静かだったカルグ村はにぎやかになった。
 当時の私には、二十数戸のカルグ村よりも大きな地理的概念はなかった。

 そのころの私の願いは、樺の木の断面にひまわりを書く人が興に乗って、私に筆を渡し、彼が鉛筆で輪郭を引いた中に、真ん中に芯が無いので種を結ぶことはないが、大きな忠という字を咲かせたひまわりを書くことだった。

 羊飼いの少年だった私の手は、絵の具を含ませた筆を持つとうれしさに手が震えた。それなのにどうして自分は画家にならずに、文字を操る生涯を送ることになったのか、今でも不思議でしょうがない。そしてまさに、この文字の縁で、80年代の中頃、当時忠の木を送るトラックが走った道に沿って、私ははじめて成都へやって来た。目標にしたのは、カルグ村の人々の想像の中では土司の官塞よりもポタラ宮よりも大きな建物だった。

 その建物は巨大でなければならなかった。なぜなら、山の斜面の木材になりそうな紅樺をすべて切り倒したのだから。

 だが、私が目にした建物は私が想像していたほど輝かしいものではなかった。あの時の、万歳展覧館がこんなに埃っぽい色をしているとは思ってもいなかった。平原の、同じように埃っぽい建物の中にあって、それは想像の中の聖殿という趣は微塵もなかった。重々しさはあるけれど、こんなに雄大とは程遠い姿であろうとは、想像もしていなかった。もし自分の目で見たのでなかったら、この建物の前の広場に立っている偉人の像の広い肩に、鳩が糞をするなどとも想像できなかっただろう。

 私は、永遠に消えてしまった紅樺に心を痛めた。

 この都市に行き来するようになってしばらく経ち、その住民になってから、私はこの都市の歴史と地理を少しずつ理解していった。そして古くからこの街に暮らす人々もまた、この建物の所在地のかつての雄大な姿と、移り変わりゆく城壁を想い、心を痛めているのだと分かった。

 もう一度あの白樺林に話を戻そう。あの消滅の物語はまだ完結していないからだ。さらに二、三年経ってから、消滅する運命が白樺に襲いかかったのである

 今回は北京から命令があった。戦いへの備えをせよ!

 カルグ村は静かで、辺鄙である。普段は忘れ去られているが、時には国の運命と密接な関係を持ってしまう。戦いの準備、即ち白樺の木の供出である。村中の男がのこぎりを持って山に登った。白樺は次々とうめき声を上げながら倒れた。その後必要に応じて一定の長さ一定の太さに切られる。不合格のものは山の上に捨てられ、二年もしないうちに徐々に腐っていった。合格したものは公道の脇に山積みにされ、トラック隊が来て私たちが知らないどこかの兵器工場に運ばれるのを待っていた。カルグ村の人々は、これらの白樺の用途は歩兵銃、機関銃、自動小銃の銃床やその他の木の部分に使われる、と知らされていた。そのため、白樺はカルグ村にこのかつてない光栄をもたらした。

 この光栄があまりにも抽象的なものだったためだろうか、今でもカルグ村の人々はこの時の白樺を惜しんでいる。

 実は、カルグ村は白樺を失っただけでない。四季が移り変わってゆく美しさを失い、春の林の花や草、きのこを失い、林の中の生き物を失った。それ以後、夏になると保護となる覆いを失った山は雨水に直接洗われることになった。土石流が毎年あの泉の穴から溢れ出し、斜面を押し流して交通を遮断する。ある年、私は、外地から帰ってくる途中、家からに三キロのところで土石流のため進めなくなり、バスの中で、眠れぬ一夜を過ごした。

 白樺が消えてしまったのと同時に、代々受け継がれてきた自然への恐れと慈しみの心が、人々の中から少しずつ失われていった。村の人々は斧を持って災害の後生き残った林へ向い、一時の利益を追い求めた。ある年の春節に故郷へ帰った時だった。夜の深けた頃、こっそりと切り出した木を公道のあたりであわただしくトラックに積んでいる音を耳にした。そのような光景を私は一度ならず見ている。

 このようにして、私は森林が消えていくのをこの目で見、そしてさらに悲しいことに、道徳心が失われていくのを目の当たりにした。

 故郷は私にとって口にしたくない言葉となった。

 あの村の名前は、永遠に癒えることのない傷口となった。
 だが、私たちのカルグ村のような例は、一つだけではない。カルグ村の運命は普遍的な運命である。この本で触れる大都河流域、岷江流域、嘉陵江流域にあるすべての村では、この運命から逃れられる人は一人もいない。

 だから、濾定の大都河の谷間で一面のサボテンを目の前にした時、私にはそれが、打ち砕かれた大地が最後にほんの少し残された生命力を振り絞って、もがき、叫び、人々に本来の姿に目覚めるよう警笛を鳴らしているように感じられた。
 だが、この巨大で残酷な存在は、ほとんど人の目に触れることがない。斧は更に深い山の中に入り、河には木々の死体が溢れている。
 河がすべての木々を流し終えた時、その時私たちは始めて気づくだろう。耳元を流れていくのは、干からびた風の音だけで、万物と人間の心を潤してくれる水の音ではないのだ、ということを。

 すべての生き物は森林の水の流れとともに消えていく勇気を持っているのに、ただ、人間という、うぬぼれ屋で全て思い通りになると勘違いしている欲張りな生き物だけは、森と水を消し去る勇気はあっても、森や水と一緒に消えていく勇気はないらしい。

 地球上の生命進化の中で、もし水がなかったら、もし森林がなかったら、人類の出現はなかったのだということを、私たちは知らなければならない。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


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