黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

須賀全集 別巻があった

2020年11月27日 17時55分01秒 | ファンタジー
 須賀敦子は、1929年(昭和4年)現芦屋市に生まれた。私の同級生も現在この地に住んでいる。以下、ウイキペディアの記述から抜粋。ちょっと詳しすぎるかも。
 聖心女子大学で学ぶ。その後、慶應義塾大学大学院社会学研究科の修士課程に進学。1953年、フランスの神学にあこがれて留学のため慶應を中退するも、パリの雰囲気が肌に合わず、次第にイタリアに惹かれるようになる。1954年の夏休みにはペルージャでイタリア語を学び、イタリアへの傾倒は決定的なものになる。翌年、一旦日本に戻るが、1958年29歳の時に奨学金を得てローマに渡る。この頃からミラノのコルシア書店創立者のダヴィデ神父ら、書店関係の人脈に接するようになる。彼らは第2次大戦でレジスタンスを行ったキリスト教左派のメンバーだった。
 1960年、コルシア書店で、後に夫となるジュゼッペ・リッカ(ペッピーノ)と知り合う。両親から反対を受けるも、翌年11月結婚。ミラノに居を構え、ペッピーノとともに日本文学のイタリア語訳に取り組む。しかし1967年にペッピーノが急逝。1971年にはミラノの家を引き払って日本に帰国する。
 帰国後は上智大学などで語学の非常勤講師を務める。1979年に上智大学専任講師、1981年に慶大から「ウンガレッティの詩法の研究」で文学博士号取得。1985年、日本オリベッティ社の広報誌にてイタリア経験を題材としたエッセイを執筆。以降はエッセイストとしても知られる存在となっていく。1989年上智大学比較文化学部教授に就任。1997年から闘病生活に入り、翌年3月、心不全のため死去。享年69歳。代表作は、63歳のときの出版「コルシア書店の仲間たち」、66歳の「トリエステの坂道」、没後の「ウンベルト・サバ詩集」(翻訳)など。
 私は、イタリア文学に関しまったく知識がない。ダンテの神曲、ボッカッチョの名前と、ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」に触発されて彼の最後の作品「ヌメロ・ゼロ」を読んでみただけ。須賀の翻訳にはまだ目を通していない。イタリア文学がいいのか、須賀の翻訳が優れているのか、須賀自身の文学が心を打つのか、当分わからないままなのだろう。(つづく)(2020.11.27)
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