黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

今年度も終わり

2016年03月31日 14時59分18秒 | ファンタジー

 今年度も今日で終わり、やっと一段落できると思われる方々はかなり多いと思う。
 年度区分というのは、日本だけの慣習なのかどうかわからないが、会社や学校、何々会といった団体に属している方々や昔そうだった猫にとって、一年は正月から大晦日までと決めておくだけで不便はないという意見には承服できないだろう。
 これがなかったら、家計や経理を預かる者は手許に金が残ったかどうかわからないし、学校は生徒を卒業させられないし、気分的に春が来ないし、冬毛が抜けきらないまま気がつけば暑い夏、ということになるかもしれない。
 それはそれで問題ないのではと考える向きは、ずいぶんと物事に動じない、ドラえもんのような太っ腹をしていると羨ましくなる。(2016.3.31)
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銃士たち

2016年03月29日 15時27分56秒 | ファンタジー

「マスケティアーズ パリの四銃士」(全二十回)という海外ドラマが、四月からNHKで放映されるらしい。この物語は、アトスに父親を殺されたと思い込んだダルタニアンが、アトスを襲撃する場面から始まるという。デュマの原作を子どものころから読んでいる者にとって、デュマから有名なタイトルをいただいて、別の物語にとってつけたような違和感を覚えるが、まだドラマを見る前なので、それはそれとしておこう。
 ところで、ダルタニアンもアトスも、フランス南西部のガスコーニュ地方の貴族の何番目かの子弟がモデルになっているらしい。彼らの先祖は、イベリア半島から北上して移り住んだ人々で、現在のバスク人と同系だと言われている。宗教的には、多数派のカトリック信仰に対抗し、新教のカルヴァン派を信奉した。しかし、十七世紀には、旧勢力との闘いに敗れたことにより地域が衰退し、ダルタニアンたち若者は立身出世を夢見て、パリへ出て行くようになった。
 このうち、ダルタニアンは王室を守る銃士隊に最後まで忠実に仕え、最後は元帥だったかの称号をもらうのだが、他の三人は様々な思惑に身を任せる。アトスはイギリス王室の復古に尽力したり、アラミスに至ってはルイ十四世を廃位の瀬戸際まで追いつめたり。
 彼らは相反する側に立つことがあっても、それぞれの勇猛果敢で機知あふれる行動力に敬意を払い合う。なかでもアトスとダルタニアンの純粋な友人関係はずっと続く。こんなデュマの原作をしのぐほどのドラマを期待するのはしょせん無理だろうと思うが、ドラマの始まる日が近づくにつれて、何だか気持ちが落ち着かなくて困っている。(2016.3.29)

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目に見えないもの

2016年03月25日 16時06分11秒 | ファンタジー

 今年になって二度目の軽い風邪を引いた。自愛して会社を休んでゴロゴロしていると、はなが、グルグル言いながら、右手でチョンチョンと肩を突っついてくる。はなの目や鼻先から、寝てないで遊ぼうよというサインがビンビン伝わってくる。ネコだって、なかなか感情豊かなのだ。でも、いつもするわけではない。気分が乗らないときはまったく無視。つまりわがままで屈折している。すねることもしばしば。
 はなとこうしていると、サンテグジュペリの「目に見えないものが大事」という思想が何となくわかるような気がする。科学技術やおしゃべりがどんなに発達した世の中になっても、目に見えないために理解できないものがほんとうに多い。 
 目に見えない大事なものは、確かにたくさんある。意識、良心、思想、信条、愛情、憤懣などなど。あげればキリがないだろう。もしも意識がないとすれば、あたりまえだが、思うことさえできないし、この世にあるあらゆるものを知覚することができない。逆に、意識自体、この世がなければ存在できない。でも意識が完全に失われれば、外界自体も生きながらえないような気がする。
 そのような内面にある大事なものを思うままに表現することを阻害されないのが、内心の自由なのだ。思想を持っていても、表現しなければ持っていないのと同じ。こんなわかりきったことを、くどくどと言うのは、最近の法律家や裁判官、政治家たちが、内心の自由を文字通り心の中だけの自由だと思っているからだ。この国の憲法の権利、自由規定について、そんな浅はかな解釈をしているとは情けないというかあきれるというか、言葉もない。 
 今どき、目に見えないものの存在を疑う者はどこにもいない。自分の内心が大事なら、相手の内心にも大切なものが存在すると思うのが道理。そうすれば無用な争いや虐待や束縛が起きるはずがない。これは単なる理屈ではない。(2016.3.25)
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声はすれど写らない

2016年03月18日 09時29分19秒 | ファンタジー

 今朝、なつかしいクワァクワァという鳴き声が聞こえた。ハクチョウ(コハクチョウか?)の編隊が、薄日さす上空のちょうどいい高さのところを北へ向かって飛んでいた。四羽編隊と六羽編隊だ。いつもの半分程度の数しかいない。近くの沼の状況を見に行く先遣隊なのだろうか。ずいぶんお急ぎの様子。時速百キロくらいのスピードで、あっという間に雲間に吸い込まれていく。あわてて携帯のカメラを向けたが、ぜんぜん写っていない。(2016.3.18)
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目をそらすネコ

2016年03月17日 16時25分05秒 | ファンタジー
 
 また、回りくどい話。
 楽しいこと、美味しい食べ物、目や耳に心地よいことだけ思い出す訓練をすると、脳の神経回路が強化されると書かれた読み物がある。そうしたいのはやまやまだが、昨今、政治や軍事、差別や侮蔑、力や言葉による暴力の話題がやたらに多く、心がイライラ・ドロドロしない時間は一分たりともない。なので、そのゲームに参加できるヒトはごくわずかしかいないのでは。
 一方、ある学識者は、日常生活の中で様々な刺激にさらされれば、へこたれてネガティブになるのは当たり前。たまには気の抜けた風船のようにフワフワ・グダグダしていないと身も心も持たないよと、正直に吐露している。 
 ところで、脳という器官が、感情や記憶、思考や神経回路の一切を司っているわけではないという説がある。恐竜の場合は、身体が大きすぎ神経が全身に行きわたらなかったので、下半身にも脳があったとされている。ヒトの場合、驚いたり喜んだり思い詰めたりしたとき、心臓が釣り鐘を打つようにドキドキしたり、真綿で絞められるように苦しくなることがある。
 このことは、心臓自体、脳が反応する前に、あるいは脳とは別に、外界の変化を認知し信号を発する機能を担っていることを表している。さらに、心臓移植を受けた人が、元の心臓の持ち主の記憶などを再現した事例が実際にあるという。脳と心臓との連動を否定するわけではないが、心臓に別系統の神経細胞の束が組み込まれていると考えた方がつじつまが合う。心臓は移植できる世になったものの、やはり大事にしなければ。
 ほんとうは、これからネコ国の事件について書こうと思っていたのだが、私自身の心臓に悪い作用をしそうなので、この次にする。
 楽しい心で日常を過ごすのは、ほんとうにむずかしいことだ。そうした環境は外からなかなかやって来ない。本人のそれなりの努力が必要だ。ちょっとしたいざこざなんて気にしない・気にならない、何ごとにも寛容さを失わず怒らない、悪いやつを見たらすぐ目をそらす、といったネコの目を持たないヒトは、ネコのように生きながらえないだろう。(2016.3.17)
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大きくなってはいけない

2016年03月16日 15時41分25秒 | ファンタジー

 タスマニアデビルは今、致死性の病気のまん延に苦しんでいる。顔面や口内に悪性腫瘍ができて、食物をとれなくなり死に至る。恐ろしいことに、このガン細胞は個体の傷口から伝染する。
 ガン細胞をやっつける薬の開発、生息地の棲み分けなど手を尽くしているが、先行きは明るくない。二十年くらいで絶滅するだろうという予測もある。
 ところが、最近、奇跡的に快復を遂げた個体が発見された。耐性ある個体が着実に生まれているという。
 過去にも、ウイルスにかかり絶滅寸前まで行ったとき、遺伝子レベルの変化が起き、新たな進化を遂げた例がある。ほ乳類の胎盤はそうして作られたという。
 しかし病気にかからないにこしたことはない。
 病気にかからない個体には、ある特徴がある。それは、タスマニアデビルの習性でもある、咬みつき行動をあまり得意としないこと。咬みつかなければ、咬みつかれる頻度も低い。傷つかなければ病気をうつされないし、うつさない。
 弱肉強食の論理によると、強者は圧倒的に有利な立場にあるように見えるが、実はそれは一時的なもの。かえってあまりケンカをしない、温厚で平和な個体の方がしぶとく生きのびる確率が高いということだ。
 恐竜絶滅の引き金となった地球環境の大変動に耐えたのは、確か数十センチ以下の小さく弱い生き物だった。ネコもヒトも大きくなってはいけない。(2016.3.16)

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ネコ国通信 咬みつき合い

2016年03月16日 14時13分11秒 | ファンタジー

「とのからの手紙 咬みつき合い」は次のとおり。

 あるネコ国軍事評論家が指摘した、かつてのネコ国の軍事政策上の「8つのノー」とは、海外派兵はしない・集団的自衛権の行使は認めない・戦力投射能力は持たない・宇宙の軍事利用はしない・武器輸出はしない・軍事技術を他国と共有しない・防衛予算は国内総生産(GDP)の1%を超えない・核兵器は持たないであった。しかし、現在のネコ国のノーは、曲がりなりにも、「核兵器は持たない」ただひとつになってしまった。
※「戦力投射」とは、軍事力を準備、輸送、展開して軍事作戦を遂行すること。

 軍事政策をここまでなしくずしに変えた上に、ネコ国憲法九条を「猫の命を守るためなら、他国との咬みつき合いを許す」と改変したならどんなことになるか。
 現在、海外の国々では、外患にあおられて、国内の利益を守ろうとするナショナリズムがぐんぐん台頭している。節操のないこのネコ国が、オオカミ国やブタナベ国の脅しや冗談にさらされることがあったなら、虚勢を張りたいだけのネコ様方が、外交戦略なんていう、まだるっこしいやり方をすぐにでも放り出し、ネコ国世論を咬みつき合い態勢に誘導するのは明らかだ。なので冷や汗が止まらなくて気持ち悪い。(2016.3.16)
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猫世間で偉いのは

2016年03月16日 11時12分13秒 | ファンタジー

 猫世間の基本は単身なので、夫婦別姓の議論は起きない。それ以前に、婚姻そのものがない。
 猫世間では、男は一定の地域に住民登録しているが、女は住所不定。ただし、男は住所に落ち着く前に、落伍することがある。一方、女はどこにでも住める。 
 女は、男の手を借りずに子を産んで育てるし、食い物も自前で調達するから、男にへつらう必要はない。その分、男に発言権は認められない。
 女は男に何も期待しない。気に入らなければ、男を噛む。
 猫世間では、明らかに女がいちばん偉い。やっぱり、はなにはかなわない。(2016.3.16)
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北海道新幹線で行きたい場所は?

2016年03月15日 14時28分35秒 | ファンタジー

 ブログのお題に寄せられた声の中から、えっ!そうなの?と感慨がわいたものをあげてみた。

 まず最初に、北海道内に暮らす方からは、東北方面に用事があるときは新幹線に乗るかもしれない、という投稿。なので、北海道人の圧倒的多数は飛行機に乗る。

 次に内地在住の行きたい声。
 ニセコのファームは大丈夫?という心配の声があった。何とかなっていると思う、外国人に売ったから。
 霧の摩周湖は秋から冬にかけて見ごろ。しかし雪が降り出すと遭難の恐れがある。裏に回った方がいいかもしれない。
 ラベンダーソフトクリームの存在理由はよくわからない。芳香剤は食するものではないと思うのだが。
 鹿部の次は猿払、わざわざ行っても猿はいない。湿地に落ちないように。旭山動物園では、ペンギンに蹴られないように。

 行きたくない、その意志がないという声。
 海底トンネルをくぐるなんてとんでもない、宇宙空間みたいなところに行きたくない。(ごもっとも)
 行き先を考える前に、休みがほしい。
 普通特急さえちゃんと走らせられない会社が新幹線を運行するなんて!(大丈夫、JR東日本がついている)
 
 このお題では落ちにたどり着かないので、ここで止める。(2016.3.15)

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仏文とは仏の文にあらず

2016年03月10日 16時26分21秒 | ファンタジー

 つい最近、仏文の往年の先生方のお一人、井上究一郎氏(生年1909年)の娘さんとお孫さんの話を耳にした。お二人とも先生同様東大卒。娘さんは仏文専攻で大江健三郎氏と同期。フランスの大学の校長先生をやってらしたという。
 お孫さんは理系の博士課程を修め国立大の准教授をされているのだが、専門は何と古事記だという。どんな分野にも秀でていることに感嘆の念を禁じ得ない。
 ところで、井上先生は、ご存じの通り、かのプルーストの研究者で、「失われた時を求めて」の全訳を日本で初めて成し遂げられたお方である。私はその一巻目(1973年筑摩書房刊全七巻)をなぜか今でも持ち歩いている。このことは確か以前書いたような気がする。もちろんその本は最初の一、二頁で挫折した。
 しかし完璧に打ちのめされたのでなく、今でも継続して読んでいる。ただし、その本は井上訳ではなく、二十年くらい前の鈴木道彦氏(生年1929年)訳(集英社文庫全十三巻)。二年かけてようやく一巻目の半ばあたりまできた。鈴木氏は、井上訳を舌鋒鋭く批判しているが、はたしてその翻訳にどれほどの違いがあるものなのか。私にはぜんぜんわからない。
 なお、道彦氏の父上は、東大仏文科を築いた碩学、鈴木信太郎氏(生年1895年)。最近、道彦氏の手で、父上の評伝が出された。東京大空襲に遭っても、強靱な書庫の中の膨大な蔵書がまったく無傷だった話には驚嘆する。
 ところでデュマの「ダルタニアン物語」(講談社文庫全十一巻)の訳者を、私はずっと鈴木信太郎氏だと思い込んでいた。今回この文を書くために調べてみたら、その翻訳は、同じく東大仏文出身の鈴木力衛氏(生年1911年)の手になるとわかった。井上氏の二年後輩にあたる。
 ダルタニアン物語は、出だしの三銃士と最後の鉄仮面が有名だ。三銃士は子どものころ、鉄仮面は大佛次郎訳で十代に読んだ記憶がある。この二つの本の間に、七巻に及ぶ物語が展開するというのだから驚きだ。私は、三十年以上前から読み始めているが、鉄仮面の後半にきてストップしている。終わりが分かっていて読む気にならないわけではない、読み終えるのがもったいないのだ。この点で、同じ仏文でもプルーストは性格がぜんぜん違う。プルーストはあまりにも難儀なので、一生かけて読了できるかどうかまったく不透明である。
 最近、鈴木氏以外の翻訳が出始めたし、私の友人も翻訳に取りかかったというから、せいぜい長生きして彼らの成果を読み届けなくてはならないと思っている。(2016.3.10)
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