黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

咳き込む人

2013年03月29日 16時35分18秒 | ファンタジー

 先日、夜九時台のJRに乗ったときのこと。列車が動き出してしばらくしたころ、猛烈な咳き込みが、寒冷地用に製造された新型の狭い車両の中をかけ巡った。間断のない咳は前方から聞こえてくる。進行方向に座席が向いているので、小柄な女性なら、座席の背もたれにすっぽり埋もれて見えないのだ。私のびくびくした目は、暗い窓に写る人影を追いかけていく。すると、前から二列目の左窓側の座席に、後頭部と両肩の一部を咳のたびに揺れ動かす中年女性がいた。座席にぐったり横になり、自分の腕をしっかと握った左手が痙攣を起こしている。咳といっしょに、体の中身が表にあふれ出しそうだ。
 なるべくマスクをかけた人が少ない、空いた車両を選んだはずなのに、と後悔したが、自分だけ立ち上がって他の車両へ移動するのは気が引けた。咳は、いよいよ酷くなり、気管が破れそうな勢いだ。咳き込む女性の隣席には、若い女性がじっと座っている。忍耐しているか気を失っているのかわからない。
 私は、イライラが高じ、人にカゼをうつす気か!と怒鳴りつけたくなった。しかし、実際にそんなことをする人間ではない。私の普段の振る舞いについては、余所様から大変な好意と評価をいただいていると、自分ながら感じている。そういう人間が、心の中でどんなに相手に対し怒ったり、恨んだり、くそみそにけなしたりしようと、表面的にはしっかり偽善という仮面をかぶって悟られはしない。つまり、ほしいと思ってもほしがらず、いやだと思ってもいやがらず、つねに思いにそぐわない行動を取るうち、がまんの限界点に達する前に、思考と感情の動きを停止する技を身に付けてしまった。私は、時間を刻む針のイメージを描かないように、体を硬直させ首をうなだれて無表情を決め込んだ。
 ところが、その夜、体に溶け込んだアルコール量がいつもより多かったのか、心の中のイライラが安全水域を超え、暴力的な感情へと激していった。この怒りの感情にとらえられた私は、咳女に何らかの暴力行為を働きかねない不安にかられた。
「あんた、いつまで咳してるんだい!ここは人が大勢乗っている電車なんだよ」
 突然、咳女の隣席の若い女性が、立ち上がって叫んだ。
 咳女はひと言もなく、次の駅であたふたと降りていった。車両の中は異様な緊張感と静寂に包まれ、ため息ひとつする者はなかった。私の怒りは急な展開に打ちのめされて消滅した。心が暗く沈み、自分がどうしてあれほど怒っていたのか考えたが、さっきよりいっそう気分が落ち込んだ。そしてやっと、次のテーゼを思い出した。
「人は本来、苦しむ者をそのまま放っておけないという義務を無意識に自覚している」という、ヴェイユの言葉を。
 私は正直に言って、咳女と出会って、そういう義務感を自覚することはまったくなかった。還暦過ぎるまで経験と努力を積み上げながら、人格が磨かれた痕跡が何ひとつないとは。かえって、レ・ミゼラブルの人々の方が、憐れみとか痛みを感じ取る優しさを自然に身につけているのではないか。
 その夜、私は大変不幸だった、不幸な人といっしょにいるなら、どうして自分だけ幸せでいられるだろう。きっと車両の中で、私は咳女よりも不幸だったのだ。咳女は列車を降りてからもしばらく咳をし続けるだろうが、治療によっていずれ元気を取り戻す。私は彼女がいなくなってほっとした時点から、不幸にずっと責め立てられるのだ。
(2013.3.29)
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ハクチョウが来た

2013年03月25日 16時55分46秒 | ファンタジー

 今年の積雪は観測史上最高だと言うし、おまけに寒さも尋常ではなかった。今朝だって、ここはマイナス八度まで下がったが、寒さに慣れきった身体には、陽射しが暖かい。こんな年、渡り鳥たちはまだぬくぬくしているのかと思っていたら、南の沼が暑すぎたためか、やはり戻ってきた。昨日の午前、車に乗っていたとき、渡り鳥が鳴き交わすクヮークヮーという声が大空から舞い降りてきた。
 今朝、JRの駅のホームにいると、二十羽程度のハクチョウ逆V字飛行隊が、まばゆい太陽の光に急かされるように、二隊並んで南の空から飛んできた。頭上を過ぎる手前で、一羽のハクチョウがひときわ大きな羽をせわしく羽ばたいて、隊列から外れ、二隊の中央を単独で飛行し始めた。空を見上げたまま、北の方へ頭をぐるりと巡らすと、少し先を行く隊列の右翼に、もうひとつの隊列がV字のままつながった。そして見る間に右翼の先に一列に整列した。
 今年の北の湖はまだ氷が張っているかもしれないな。右羽の長い大きなV字飛行体は、心配しながら眺める私を振り返りもせず、「飛ぶのは、今でしょ!」といった感じで、ぐいぐい力強く久々の青空を突っ切っていった。(2013.3.25)
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はな 見っけ!

2013年03月22日 09時24分30秒 | ファンタジー

かくれんぼしたつもり はなと呼びかけてもだんまり

あっ はな 見っけ!と言っても隠れています

「もう かくれんぼ 止めたの?」
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この季節になると

2013年03月12日 11時32分07秒 | ファンタジー

 二年くらい前から、この季節になると、目の調子が悪くなる。先日の土曜日、突然右目の上瞼が腫れてきたので、職場がある隣町の眼科へ行った。去年から行きつけになっていたし、職場から通いやすい。診断は、アレルギー性結膜炎。
「花粉症の症状が目に出ていると思ってください」と去年言われたので、「またあれか」と原因を尋ねることもしなかった。いただいた点眼薬をつけると、診断どおり一週間くらい経つころには、腫れはほぼ改善された。
 ちょうど目の調子が治まった先週土曜日、今年のしつこい低気圧がまたやってきて、湿った雪をばらまいていった。昼過ぎ、雪は峠を越し薄日が射してきたので、家の周囲に吹き溜まった硬い雪の始末を始めた。強風はまだ大きな息をしながら、何度となく襲いかかってきた。その風に吹かれ、硬く締まった雪山の表面が削り取られ、巻き上げられた雪が顔にたたきつけてくる。砂粒の攻撃に遭っているようだ。目を半分閉じながら、四、五十分の除雪をやっと終えた。
 家に戻り着替えをしている最中だった。顔全体がピリピリし始め、その上、左目に、目の玉が飛び出すような圧迫感を感じた。びっくりして鏡を覗くと、両目が腫れ上がり、顔には赤い湿疹がいくつも出ていた。冷たい強風にさらされて凍傷になったのかと、すぐ顔と目をぬるま湯で洗うも、症状はすぐには良くならない。なんだか悪化する気配がして、ただちに救急病院へ。
「よっぽど悪い風に吹かれたんですね」と内科医はじろじろ私の顔を見て言った。
「悪い風って?」と私はどこかで聞いたことがあるフレーズを繰り返した。
「たまたまそれに当たったんですかね?」医師は、捻りたくなさそうに首を捻った。
 古代中国では、方神の指示を受けた悪い風が、病気や飢饉を起こすと考えられたが、現代でもそういうことがあるのだ。科学的な原因究明に深入りする気持ちはなかった。久しぶりに太い血管注射を打たれ、帰宅後ダウン。処方どおり薬を飲み、おかげさまで翌々日にはほぼ完治した。(2013.3.12)
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