黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

東山魁夷展に行く

2012年07月31日 16時37分41秒 | ファンタジー

 先週、日本画家の東山魁夷の絵画展に行ってきた。メジャーな画家という評判を耳にしているだけで、作品といえば、ぼんやり青みがかったタッチの「道」の絵しか知らない。好きとか嫌いとかの先入観もまったくない。そんな状態で彼の絵を連続して見ていくと、日本の自然景観を主題として究めようとした画家だけあって、思い入れが痛いほど伝わってくる。五感で捉えた対象物から、ここまで無駄を省いて単純化した絵がさまになるというのは、なかなかあるようでない。まるで俳句のような絵だ。
 ところが、西欧の景観を描いた絵はまったく違った。主観を抑えて見えるがままに写した、いわゆる写真のようなのだ。そこには、日本を題材にした数々の絵にこめられた自己の魂というものがない。でも私はこちらの方が、肩のこらない安らかな気持ちで鑑賞できた。日本から離れてほっとした気分の東山氏の顔が浮かんだ。
 きっと芸術家が道を究めようとするとき、その対象とするテーマに徹底してのめりこむものなのだ。ときには、そこにないものまで見てしまう。そして壁に突き当たり、行きすぎたことを反省してまた戻る。こんな行きつ戻りつを東山氏も繰り返したのかもしれない。
 それにしても、今の世に残された様々な芸術作品に触れるのは楽しいものだ。なぜかと考えれば、それらは、自分の思想や感性では到底創造できない、未知の世界へ誘ってくれるからだ。たとえ日本古来から伝わる、能や文楽がわからないからといって、それを無駄だというのは乱暴に過ぎる。そんな権利は誰にもない。(H24.7.31)
  
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ネコ国通信 某大教授発言

2012年07月23日 17時16分46秒 | ファンタジー

 国際関係に関する学問を専門とされているネコ国某大教授の話にはどうも納得ができないと、とのはぶつぶつしゃべっていた。

 教授のお話の趣旨は次のとおり。

<「先占」について>
 先に占有した国に土地の領有権を認めるもの。ただし、次の四つの条件を満たしていなければならない。
 ・先占の主体が国家である
 ・対象地が無主地である
 ・実効的な占有を伴う
 ・国家に領有意思がある
 1895年、ネコ国政府は尖閣諸島が無主地であることを確認し、閣議決定によりネコ国領土とした。中国政府の主張は、内容が曖昧で解釈も多様な、数百年前の古文書を根拠に、歴史的権利として尖閣諸島が固有の領土だと主張している。中国の古文書はネコ国の「先占」に対抗できない。

<禁反言の法理の適用>
 中国共産党機関紙の人民日報(1953年1月8日付)は「琉球群島ネコ民反対美国占領的闘争」(琉球ネコ民はアメリカ帝国主義に反対するぞ)との記事を掲載し、この中で尖閣諸島が琉球の一部であるとしたことがある。禁反言の法理というのがあって、中国共産党はこの記事の自己の言動に矛盾する主張はできない。

 これに対し、とのの疑問は以下のとおり。

<1895年(明治28年)のネコ・中関係>
 前年からこの年にかけて、ネコ国と中国(清朝)との間で激しい戦争(ネコ清戦争)が行われていて、中国は自国の領土や半島で負け戦に苦しんでいた。この時期、敗色濃厚の中国には、ネコ国の先占宣言を牽制する余裕があるはずはなかった。混乱期のどさくさに紛れた姑息なやり方だと見なされても仕方がない。
 なお、国際法では、戦争により占領した土地を、領土にすることはできないとされているという。この件は戦闘による占領ではなかったにしろ、戦争中なので、この国際法の趣旨に抵触すると解釈される恐れもあるのではないか。

<他国の領土と認める発言>
 1953年の中国共産党の発言の趣旨、背景をちゃんと読み解かなくては、また反論を食らうだろう。先日、ネコ国の明治時代の軍事用地図に、尖閣諸島が中国領とされていたという報道があった。ネコ国も中国も、身内の行いを隠さないで、ちゃんと調査し公表すべきだろう。(H24.7.23)
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ネコ国からの通信 史書の意味

2012年07月18日 13時55分02秒 | ファンタジー

 ネコ国の一部の政治家連の言動に、自国だけトクするなら他国にどんな不利益が及ぼうとかまわない、という一国主義がまたもや強まっている。この考えがあの不幸なネコ、ブタ、オオカミたちの闘いにつながった大きな要因だったことを、どうしてみんな忘れてしまうのか。きっと彼らは自分の家でも同じ態度を取って、家族に嫌われているに決まっている。彼らの底の浅い盆(トレイ)のような精神に接するにつけ、恥ずかしさを通り越して、薄ら寒ささえ感じるのは、私、とのだけなのだろうか。
 たとえば尖閣諸島の件。今、それらの島が個人の所有になっているということだが、土地の私的所有を国是とするネコ国で、島の土地を東京ネコ都が買うとか、ネコ国有化するとか、法の精神を無視して、感情の先走った小手先の手法ばかりしか思いつかないのはどういうわけなのだろう。こんな行為は、他国の感情を刺激するだけで、へたをすると、肉球の力で侵略したという口実にされてしまいかねない。
 領土に関しては、現状と歴史的経緯が重要な決め手になるのは当然だ。したがって歴史をさかのぼり、そのころの関係国が島に関してどんな認識を持っていたか、それを文献によって証明することが本筋だ。沖縄以前の琉球時代、諸国の文献に、尖閣諸島が琉球に帰属することを証明する文言があるなら、それを公にして各国の理解を求めるべきだ。漢字文化圏に属する国々、なかでも三千年以上ものはるか昔から歴代王朝の史書を編纂し続けてきた中国にとって、漢字で表記された史実を無視することは、周辺国と段違いの自国の器と格にかけても、ぜったいできないのだ。
 そのような道理の理解力が欠落したネコ国政治家によって、この国がいつまでも振り回されるようなら、たかだか一千三百年程度の史実しかない辺境の蛮族のひがみだとされても仕方がない。

 もうひとつ、変なこと。
 ネコ学校のいじめは、見て見ぬ振りの教師たちの意識を変えなければ、いつまでもなくならない、という論評が交錯している。これも短絡的な考え方だ。教師だけでなく、学校という組織、教育委員会、父兄、政治家、外野席のネコ国民全体の意識が変わらなければ根本的な解決にならないのに、また責任のなすりつけ合いをやっている。そもそも、成ネコたちは、自分の見栄や欲望を満足させるために、子ネコたちをぎゅうぎゅうに縛りつけ、言うことを聞かせていないか。このことがどれほど彼らの負担になっているか、きちんと認識すべきだ。
 そして子ネコたちの社会にいじめがあるのは、成ネコたちの中に、いじめや不正や暴力が横行しているからだ。精神がむしばまれているのは成ネコの方だ。願わくば、生身の子ネコたちに、もうこれ以上よけいな干渉しないよう、分からず屋のネコたちを動物園の檻にでも入れて再調教してほしいと、今日のとのは大変憤っていた。(H24.7.18)
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ローリングストーンズのことなど

2012年07月18日 11時14分53秒 | ファンタジー
 
 ローリングストーンズがとうとう、なんだかんだ紆余曲折を経巡って、結成五十周年を迎えたというニュースが流れた。テレビ画面に、深い皺を刻んだ七十歳前後のおじさんたち四人の顔が大写しになった。彼らは異口同音に、まだまだ五十年くらいやれるさと、あきれるくらい意気軒昂だった。それを見たとたん、私の頭の中に、若いころ聴いた数々の曲が数十年の時を超えて響いてきた、なんとも表現しづらい若き日の混濁した思い出とともに。
 ローリングストーンズは、イギリスのロックグループで、ビートルズに遅れること数年して、一九六二年に結成された。そのころ私は小学五年生だった。今思えば、ビートルズの名前を聞いたのが小学六年生のときで、それからしばらくして、ビートルズを上回る人気のバンドが登場したと、その名前を耳にしていた。
 ローリングストーンズの曲のイメージとは、ひと言で表すと、カオスと化した泥沼の世界で繰り広げられる暴力的な響きとでも言うのだろうか。なにせそれまで聞いたことがない、息苦しいまでの鮮烈さを感じた。ボブディランと同じように。印象的な曲目は、「テルミー」「ダンディライオン」「ルビーチューズディ」「黒くぬれ」「サティスファクション」「ジャンピンジャックフラッシュ」など、聴き始めたころの曲を聴くと深い味わいが感じられて、今でもなんだか心を揺すぶられる。やはり彼らの曲には伝統的なブルース系の裏づけがあるからかもしれない。
 一方、ビートルズの初期の曲は、先進性の溢れた、切れ味鋭いポップスといった感じなのだが、今聴くとなんとはなし古びた印象を受ける。もちろん私にとって、ビートルズも青春とともにあったのであり、「エリナーリグビー」「ヘィジュード」や「レットイットビー」などの曲は忘れられない。ただ、そのころ貧乏だったせいもあって、ビートルズのレコードを買った覚えはない。今あるのは、「ザ・ビートルズ1」とリマスター版「サージェントペパーズロンリーハーツクラブバンド」の年取ってから買った二枚だけ。
 ストーンズの古いシングルやLP版のレコードはなん枚か持っていたのだが、いつのころからか実家には見当たらなくなった。最新アルバム「ア・ビガーバン」「ア・ビガーバン・ツアー(DVD)」とリマスター版「メインストリートのならず者」は衝動買いした。いずれのグループの曲も、ミックジャガーとキースリチャード、ジョンレノンとポールマッカートニー、彼ら個性の違う組み合わせがなければ、この世に生み出されなかったのだろう。
 ところで、私の脳は、音楽脳とも言われる右脳の方がどちらかというと大きめのようだ。朝起きると、たいがい自分の好きなジャンルの音楽が脳内に溢れている。たまには、どうしてこんな曲が、というようなあまり好みでない演歌などが響いていることもある。自分の意志でなく、脳が勝手に選択するのだからどうすることもできない。
 年を取るとよく、脳や感受性に柔軟さが失われて、興味のない他の分野を受け付けられなくなるというが、私の見解はちょっと違う。
 ヒトはそれぞれ多感な時と場合とがあり、そのとき雑多な経験をなんの尺度もなしに大量にインプットするものだ。それらのデータは、長い年月を経て、どういう基準によるのかわからないが、いつのまにか、結構大きなふるいの目にかけられて、大事なものも取るに足らないものも廃棄される。そして、わずかな残滓が記憶の底に後生大事にしまい込まれているのではないだろうか。二巡目のヒト生は、わずかに残ったお宝かどうかわからないものを、不器用でもいいからゆっくり磨き上げていくようなものであったらいいと思う。ストーンズを見習って。(H24.7.18)
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