黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

今年の夏は

2010年09月10日 11時24分25秒 | 日記
 今年の夏は暑く長かったですね。2、3日前から夜風が涼しいなと思っていたら、昨日あちこちの庭にコスモスが咲いているのを見つけびっくりしました。なにせインドア派なものですから、季節の移り変わりに目がついていかないのです。
 それはそうと今夏のテレビ番組では、いつになく戦争関連のノンフィクション物に興味をひかれました。私の父親が現在の北方領土の島で闘い、武装解除後、シベリア抑留されたことを子どものころから聞いていましたが、そのことによって特別あの戦争に興味を持つことはありませんでした。まして、テレビに映る戦争時代の映像に、父親の姿がだぶって見えるような気持ちを味わったことは、これまで一度もなかったと言っていいと思います。
 父の戦闘が、千島列島の西端の、カムチャツカ半島にもっとも近い位置にある占守(シュムシュ)島で行われたことを私が知ったのは、父が亡くなって四年も過ぎたつい最近、薄っぺらな冊子を家の小さな本箱で見つけたことがきっかけでした。その冊子は、父の死の直後、占守島遺族会から父親あてに送付されてきたのですが、私はそのとき何の興味もなかったので、父の死亡通知と遺族会脱会の願いを送ったきり、その冊子の所在さえ忘れていたのです。
 冊子を開くと、そこには戦後数十年も経って、ようやく島への墓参が実現したときの感動が、何人もの人たちの手でつづられていました。読み進めるうちに、父から聞いた断片的な話、たとえば機関銃手としてソ連の戦闘機目がけて撃ちまくったというような話だけでなく、父にとって口にすることができなかった多くのつらい出来事があったことに初めて思いが至りました。
 テレビの短いルポルタージュは、ロシア人が、占守島に残された日本軍の戦車をロシア国内に運んで展示しようとする動きを追っていました。その内容はともかく、昔そこで激しい闘いがあったことを伝える朽ち果てた戦車の影が、誰も住む者のない荒涼とした草原にたたずむ光景は、あまりにも寂寞としていて、その映像を見た自分の気持ちをどんなふうに表現していいのか、今この文章を書いていても思いつきません。
 来週からは、とのとヴァロンの冒険が新たな展開に入りますので、今後ともおつき合いください。(了)


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二人の静(しずか)

2009年11月30日 09時48分54秒 | 日記
「二人の静」

 「静(しずか)」という名の男性を私は二人しか知らない。静氏同士に接点はないが、私の人生の転換点において、多くの強烈な示唆をいただいたという点で共通している。残念なことに、お二人ともすでに故人である。
 白川静先生は、中国文学を修め、甲骨文、金文等の中国古代の文献を渉猟し、漢字の起源を究められた大学者である。苦学して立命館大学を卒業し、その後、同大学で教鞭を取りながら研究に没頭された。昭和40年代の学生運動が吹き荒れたころ、先生は学生部長として学生たちとの激烈な団交を経験された。吉本隆明氏の談だと思うが、その最中にあっても先生の研究室の灯は毎夜消えることがなかったという。だが、先生がそのことを否定するのを私は直接耳にしている。大学のキャンパスが封鎖されたときだけは、さすがに私も研究室には入れなかったよ、と。
 先生の研究は、甲骨文などの原資料に基づくもので、中国文学や漢字学の大家の言葉遊びに近い通説に対し、下品な説だ、などと切り捨てた。歯に衣を着せない批判は、肉眼では見えない遠くの地平を見晴るかすように広大で、かつ、誰も究めたことがない深みまで到達しようという意欲的な先生の研究に裏打ちされたものだった。華々しい業績をあげ碩学といわれた学者は過去にも存在したが、「現代最後の」という賛辞を冠するにふさわしい大学者は、先生をおいて他にない。
 私が学業を放棄し各地を流浪していたとき、たまたま「漢字」(昭和45年刊岩波新書)の著者が立命館大学教授と紹介されていた。退屈しのぎに読み進めるにつれ、それまで何の興味もなかった漢字の魅力が、砂漠に置いてきぼりになって乾燥しきった私の体中に、滝の水のように勢いよく流れ込んできた。そして、昭和46年、自分が立命館に入学し、東洋史専攻のクラスに在籍していたころ、この本と出会うか、あるいは中国文学の教室で講義していたであろう先生を知っていたなら、大学を中退しない方途があったのかもしれない、という思いで頭の中が熱くなった。その本を読んだことが復学の直接的な動機にはならなかったが、その後1年以上の放浪の末、京都に戻ることを決意したとき、自分の進むべき方向性はこの本によってすでに指し示されていることを知っていた。
 50年に復学してまもなく、主に龍字などの動物文字の概念が中国古代の祭祀から生まれたことを証明しようという大それたアイデアを思いつき、先生から参考文献のアドバイスをしていただいたが、他のことに気を取られて本気で文献を探さなかった記憶がある。今さらながら、自分が出来そこないの教え子だったことが悔やまれてならない。
 先生は専門分野以外にいろいろな趣味を持ち、幅広い人となりを感じさせた。食への造詣も深かった。研究室の電気コンロが壊れたとき早く直してくれとうるさかった記憶があり、そのころは先生を単なる食いしん坊だと思っていたのだが、その評価は間違いだったのだろうか。
 卒業後、実物の先生にお会いしたことはないが、先生の映像は文化勲章受賞前後のテレビで拝見した。90歳を過ぎたとは思えないほど闊達なしゃべり口の庶民的な先生の姿がまぶしく感じられた。白川先生は、平成18年10月、96歳で逝去された。

 笠原静氏は、北海道の凍てつくオホーツクの大地を本拠地とし、海洋系の重機のオペレーターを生業としながら、名もない一庶民として暮らした。しかし、慎ましやかというわけではなく、酒、博打、女などの分野で人並み以上に名を馳せた。
 私たち夫婦がその地に赴いたのは昭和の最後の年だった。氏は仕事柄、北海道内だけでなく全国をとび歩いていたので、氏と会う前に、近所に住んでいた奥さんとその娘たちと顔見知りになった。当時は母子家庭なのかと思うほど、長期間にわたり氏を見ることがなかった。本人がいない間も家族と様々な人生の問題を議論した。それから数ヶ月後のこと、私たちが氏の家にいたとき、何の前触れもなく帰宅した氏と対面した。初めて会ったとは思えない氏の自然な立ち居振る舞いに、場は一気に盛り上がり、翌朝まで酒場兼賭博場になった。
 氏はあらゆる遊びに精通していた。特に賭け事のためなら遠くまで出かけたが、抜きんでた才能があったとは思えなかった。それでも勝ったときは周りに大判振る舞いする癖があったので、娘や友人たちからは慕われていた。
 氏は博打運など問題にならないほど強い運勢を持っていた。あるときの船舶による作業中、突然の時化に遭い乗っていた船がひっくり返り、氏は船内に取り残されてしまった。大揺れに揺れる船室には徐々に海水が浸入し、どれくらいの時間が経過したか定かではないが、息苦しくなってきて、もうこれまでかとあきらめかけたとき、ドカンという大きな衝撃が来て、船の揺れがおさまったと思ったら、陸地に打ち上げられて助かったのだという。
 その地を離れてからも、折りに触れ氏の家に遊びに行った。そして、数年後のこと、氏が末期の肺ガンで余命数ヶ月と診断されたと聞き、妻とともに駆けつけた。家族は、氏の行動の自由を束縛したくないと考え、ガンの告知をしていなかった。心配した昔の仲間たちが集まり、若かりし時代の出来事をつい昨日のことのように振り返るのだったが、時たま飛んでくる氏の辛辣な冗談に受け答えしているうちに、氏がそんな病を患っていることを忘れ、酒と博打にのめりこんで行った。最後の博打は、氏が勝負に勝つ翌朝まで続いた。そのとき私たちは、疲労の色が濃い氏の様子に我に返り、次に会える日が来るのかどうかと胸がふさがる思いだった。
 笠原氏の悲報は、氏の娘からの電話で函館にいた私たちにもたらされた。その電話の呼出音が鳴る直前、居間の窓ガラスに堅い石がぶつかったような鋭く大きな衝撃音に驚いたことを思い出す。友人の車でオホーツクの沿岸にたどり着いたとき、9月下旬だというのに気温が30度を超え、町は真夏の活気に沸いていた。
 葬儀会場にいち早く着いていた年上の友人が、二人で弔辞を読もう、と声をかけてきた。通夜では、にぎやかなことが好きだった氏の思いを受け、皆陽気に飲み、しゃべり、打った。翌日の告別式で、私は、親の年齢に近い笠原氏から、対等な大人として、人生において重要な位置を占める酒や博打などの享楽と、思い切りのよい生き方について教わり、それによって、自分の偏向した性格を打破できたことに対し、深い感謝の気持ちを伝えた。年上の友人の弔辞が終わり、家族や友人とともに心のおもむくまま駆け抜けた氏の人生を改めて振り返ると、悲しみがこらえきれなかった。笠原氏は、平成11年9月逝去され、享年67歳の生涯だった。(H21.12了)

※ウィキペディアで調べると、「吉本隆明氏」は私の勘違いで、「高橋和巳氏」(故人、小説家、中国文学者、立命館大学講師)だったのかもしれない。高橋和巳氏は、悲の器、邪宗門などの著者で、私が立命館に入学した1971年5月に逝去された。追悼の催しが学内で行われたのを記憶している。



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書-櫻花縁(おうかのえにし)

2009年11月26日 11時37分03秒 | 日記
 先頃、中国の著名な書画家である蔡亜明氏の手になる「櫻花縁」という書を新聞で見た。氏はその文字を利き手ではない左手で、逆方向の左側から書いたという。新聞記事はそのような書き方をした理由については言及していなかったが、その書が醸し出す流麗で力強く、しかも、丸みがあって優しい雰囲気に、思わず心が震えるような感動を覚えた。書を見て感動したことはかつてなかったと思う。楷書や草書より隷書体などの古めかしい書体の方を好む程度のこだわりがあるだけで、書の美しさや醍醐味などには縁がないと思っていた。
 私にとって、そもそも筆字は不得手な分野のひとつで、これまでも練習したことは何度かあったがまったく上達しなかった。高校では3年間書道を専攻したものの、お手本どおりに文字を書くことが生理的に苦手で、筆の付き方とか止め方とかの技術を習得できなかったため、次のレベルに進むことかなわず、とうとう3年生のとき授業をさぼりすぎて単位取得を認めないと教師に怒られた。そこを何とかと泣きを入れ、清書10枚で許してもらった記憶が未だ生々しい。四十代で友人に紹介されて通信教育の仮名文字講座に学んだが、変体仮名のコースに入ったところで力尽きた。ちなみにペン字はどうかというと、昔の自分の字と比べ、これもまた上達の気配が感じられない。たとえば手元に保存している自分の書き物の中で、もっとも古いと思われる大学の卒論の原稿を数十年振りで見たとき、青インクの太い線で書かれた無造作な文字から、一種の熱意というか覚悟というか、今の自分の文字にはない感触がにじみ出ていて、はっとした。
 アルファベットなどの表音文字においても、美しく見せる書体の追求が行われているが、漢字の書のように芸術の地平にまで到達しようという試みはないと思われる。漢字圏に属す人々は、なぜ漢字という文字を表現する作法や書体に魅せられるのか。それは、漢字を見たとき、その姿、形に秘められた記憶、つまり原始社会において自然と渾然一体になって生きていたころの懐かしい記憶が、無意識の深い淵からよみがえるような気持ちになるからではないかと思わずにはいられない。白川静著「字通」によれば、漢字の「字」とは、祖先をまつる空間で子の誕生を慶び報告する儀礼を表す文字であり、そのとき子に幼名(あざな)をつけることから文字の意味になったという。 
 蔡氏の書からは、氏の意思から発するのか、それとも文字自体に由来するのか、悠久の祈りにも似た思いが立ちのぼると感じるのは、私の独断に過ぎるだろうか。蔡氏の右手になる書を想像しつつ、私は再び櫻花縁に目を奪われるのだった。

(注)櫻、花、縁の文字は、いずれも甲骨文や金文(青銅器に刻された文字)になく、後世、音と意味を表す部分の組み合わせにより作られた文字だと思われる。(H21.11了)

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駅裏にて

2009年11月13日 09時24分24秒 | 日記
「駅裏にて」

 E市内のJR線路と並行する東光通を車で東へ走り、E駅裏の跨線橋の近くにさしかかると、ネコが飛び出すのではないかという恐怖感に今でも襲われる。平成17年か18年ころだったと思うが、朝の通勤時に、自転車に乗り駅に向かっていたところ、跨線橋手前の犬小屋がある家の斜め前方の路上に、ネコの横たわった姿があった。その家の人たちは動物好きらしく、大きな犬や首輪をした白黒模様のネコを飼い、他にも首輪がなく毛並みの色が違う幾匹かのネコに餌をやっているようだった。車にひき逃げされたのは、その中の明るい茶色の珍しい毛並みをしたネコに間違いなかった。私が徒歩で通勤する時、その家の前で歩みを遅くし、動物たちに視線を送るのが日課だった。すると、茶色のネコは、私の顔を識別し、必ず足許に寄ってきて挨拶した。
 歩道には3人の小学生高学年の女の子たちがいて、「かわいそう、また、ひかれるわ。」と叫んでいた。私は見かねて自転車を降り、「車が走ってきたら教えて。」と女の子たちに頼み、車道に出た。手前の斜線の真ん中に横たわったネコの体にひかれた跡はなかったが、持ち上げると口か耳からか血がしたたり落ちた。歩道に連れてきたネコはまだ息があった。「生きているよね。」と一人の女の子が私に念を押すように言った。生きてはいたが頭に受けた打撲はかなり重篤なものに思えた。ちょうど道路の真向かいに動物病院があった。女の子たちは医者を呼びに病院に向かった。
 帰宅の道すがら、ネコを横たえた歩道のところで自転車を止め地面を覗いてみたが、すでに辺りは薄暗く、痕跡は何もなかった。病院に入院したのか、あるいは息を引き取ったのか確認したかったが、動物病院にも犬小屋の家にも行く勇気はなかった。その後、毎日気にしていたが、とうとう茶色のネコの姿は現れなかった。
 その家の犬小屋には、レトリバー系の犬種だと思うが、耳が比較的長く動作がゆったりした大きな体の犬がいた。年取った犬だったと思う。こちらから挨拶しても目を合わせることがなく、誰に対しても同じ態度を取っているようだった。犬小屋は、昔、石炭か薪を保存したと思われる木造の物置で、大型犬が数匹入る大きさだった。表側と裏側の両方に出入り口があり、必ずどちらかが開いていた。
 ある徒歩通勤の朝のこと、小屋まで数10メートルくらいの地点に来たとき、小屋の向こう側からこちらに歩いてくる一人の女子高生が見えた。彼女が小屋の前を通り過ぎようとしたとき、小屋から体を半分外に出してうずくまっていたその大きな犬が、突如として体を起こし、ウーワオンと一声だけ低く大きな声で女子高生に吠えかかったではないか。それまでその犬が通行人に向かって吠えるどころか、人に興味を示す姿すら見たことがなかったので、何が起きたのか理解できなかった。
 吠えられてとび退いた女子高生が近づくにつれて、彼女のスカートがかなり短く、その雰囲気が派手気味なことに気がついた。犬に嫌われた原因は服装なのだろうか。いや犬にファッションがわかるはずがない、などと考えているうちに、距離が縮まり、彼女がすぐ横を通り過ぎた瞬間、原因が判明した。何という強烈な香水の匂いだったことか。犬の臭覚をもってしなくとも、耐えられない気持ちがよくわかった。
 その出来事があったからではないと思うが、犬小屋の扉が閉まっていることが多くなった。さぞ退屈だったろうが、犬はその後も私のことをちらりとも見ることはなかった。
 今年の早春、私が転勤先の町から2年ぶりに帰ってくると、その小屋は締められ、中に動物の気配はなかった。寿命だったのだろうと思ったが、もう一度、彼の茫洋とした風貌を見たかったと悔やまれた。その数日後、春の暖かい日射しが本格化した朝、冬の間に冷え切った地面がゆっくり融けはじめ、足許から湯気がゆらゆら立ちのぼっていた。犬小屋の前をいつものようにゆっくり歩いていると、そこに生まれて間もない子ネコがいるのを発見した。私は、毛並みをひと目見て、あのときの愛想が良かった茶色のネコとの血のつながりを確信し、思わず久しぶりだったね、と声をかけた。そのとき小さなネコがかすかにうなずいたように見えた。(H21.11了)

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松中先生

2009年11月09日 10時57分51秒 | 日記
「松中先生」

 苫小牧の高校の3年間、私のクラスの担任だったのが松中先生である。専門は物理学。10年ほど前、私が函館にいたときに人づてに、札幌に住んでいた先生が亡くなったと聞いたので、出札の折、先生の家に電話をかけ弔問に伺った。まだふた七日にはなっていないときだった。先生の奥さんには何度か会っていたが、先生のいる家の中では挨拶程度しか話を交わしたことがなかった。その日はそれまでの無口な印象とは大きく異なっていた。奥さんの口からあふれ出す言葉は、先生の生き方をおおらかに肯定するものであり、先生の幸せな一生を感じ取ることができた。
 先生は東京育ちで、子供のとき二・二六事件があった日の朝、現場近くで検問に止められた経験をし、東京大学の理系の学部で学び、色川大吉と同窓だった。先生は個性的な人で、先生の頭が良すぎるから授業が難しくてわからないとか、十勝沖地震で苫小牧が震度6だったとき、「大丈夫だから逃げなくていい。」と言ったまま教壇から転げ落ちたとか、話題の多い人だった。
 今でいう三者面談が私の家で行われたときのこと、酒好きの先生と聞いていた父は自分も好きな日本酒を強引に勧めた。かなり酩酊した先生は、傍らにいた私に医者になれとしつこいほど繰り返した。先生は医者になりたかったのかもしれないと思う。
 私がやっとのことで大学を卒業し、稚内に赴任する道すがら、苫小牧の教員住宅に先生を訪ねた。先生の従妹が稚内に住んでいるから、会ったらよろしく伝えてくれと言われて着任すると、会社の同じ係に当人がいた。彼女は私の母親と同じ年齢のキャリアウーマンで今でもときどき電話で話をしている。彼女には、初任地での5年間、言い尽くせないほどお世話になった。
 ある時、初めて買った中古の自家用車で先生の家に寄ったら、外まで見送ってくれ、きれいとはいえない私の車を撫でるようにして喜んでくれたことがあった。あまり言葉には出さなかったが、高校時代から挫折を繰り返す私のことを相当心配してくれていたのだと今になって思う。
 定年後、先生は札幌に転居した。親族からの遺産でマンションを買ったんだ、と何のてらいもなく話すのを聞いた。その後、日本一周の自転車旅行や、数ヶ月間のヨーロッパ放浪を決行した。ヨーロッパ旅行記の一部を読ませてもらったことがある。イタリアの田舎で宿を探しながら、片言の伊語で背の高い若い女性に話しかける場面では、夕闇迫る町の高台にあるゴシック風の教会の鐘楼から鳴り響くかん高い鐘の音に、先生の後ろ姿がとけ込んでいく情景が脳裏に浮かぶようだった。
 先生との語らいの中で、文学の話が一番多かったと思う。志賀直哉の暗夜行路の主人公が死ぬときの心境に違和感があることや大江健三郎の文体の変化、安部公房へのガルシア・マルケスの影響、埴谷雄高のドストエフスキー論など、ついていくのが難しい話が多かった。
 先生の趣味は何だったのか、物理学が好きだったのか、日本酒以外のどんな飲食物を好んだのか、私にはわからない。先生と話しているときはそんなことはどうでもよかった。先生が次に何を企てているのか問いただし、自分の知らない世界や話題を追求したいという欲求のままに、奥さんの迷惑を顧みず、時間を忘れ議論した。
 私の想像では、退職してから十数年間の先生の時間はうらやましいほど充実したものだったにちがいないと思っている。(H21.11了)

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カラスたちの浦河

2009年11月04日 09時07分44秒 | 日記
「カラスたちの浦河」

 平成19年、浦河町の2階建のアパートにたどりついた6月のその日は、暖かく晴れ渡っていた。しかし、翌日から夏の終わりまで、早朝晴れ間が見えても、朝8時頃になると海の方から白く濁ったふわふわの霧が内陸に向かって押し寄せる日が続いた。その霧に包まれると、気温が2・3度、急激に下がった。慣れているはずのカラスたちさえ、身を縮めるようにおとなしくなった。
 浦河で一番数が多い生き物はカラスであろうか。浦河では、人間はカラスの縄張りの中に居住を許されていると思っていなければ、危険な目に遭うことがある。新入りはただちにカラスの監視下に置かれ、不穏な行動がないか注意深く観察される。乗ってきた車の屋根は一時的にカラスに占領される。カラスの鋭い視線を嫌がって、何だお前、と追い払おうものなら逆襲される恐れがあるので逆らってはいけない。数日間の我慢である。
 顔なじみのカラスたちと挨拶ができるようになったころのこと、カラスが3羽、アパートの裏庭で遊んでいた。突然そのうちの1羽が他の2羽に対しギャーギャーと鳴きながら攻撃を仕かけた。しかし、仕かけられた2羽はあきれたようにそっぽを向き、一定の距離を置いて相手にもしない。しばらく観察していると、うるさいカラスの体が2羽に比べ少し小さいことに気がついた。つまり、つがいの親ガラスに子ガラスがエサをねだるのだが、両親は頑として受けつけないのだ。浦河のカラスの家族は、理想的な子離れの振る舞いを演じていた。
 これは妻の目撃談。突然何羽ものカラスのけたたましい鳴き声がしたのでベランダに出てみると、アパートの横を走る幹線道路の真ん中に黒い固まりが見えた。たった今、車に轢かれたのだろう、腹がつぶれ白っぽい腸のような内臓がはみ出たカラスの無惨な姿があった。そのとき1羽のカラスが急降下して道路に舞い降りた。 そのカラスは、道路に横たわった仲間を何度かくちばしで起こそうとした後、そのままにはしておけないというように、道路脇に必死に引きずっていくのだった。耳が痛いほどのカラスの鳴き声があたりを覆いつくす中、歩道の人間や道路を走ってくる車は、野生の存在感に圧倒されたかのように凍りつき、彼らの作業が終わるまでの時間をじっとうつむきながら待った。
 浦河港に小さな漁船が帰ってくる夕方、カモメとカラスが遠巻きに待機している光景に何度も遭遇した。漁師たちは、荷下ろしが終わると、船の底に散らばっている売り物にならない雑魚をバケツですくって岸壁にまき散らすのだった。鳥たちはそれを目がけて一斉に突進するので、岸壁は毎日お祭り騒ぎだ。だから、海の近くの野外でものを食べる場合は必ず相当量のおすそ分けが必要だ。一度だけ、岸壁で昼食の弁当を食べたことがあった。カモメとカラスが15羽、30羽と音も立てずに飛んできて周りを囲まれたときは、ヒッチコックの映画より背筋がゾッとした。
 浦河の生活が2年目になったころ、うちの「はな」はベランダで紫外線の薄い日光浴を楽しみながら、ようやく浦河のカラス語や野鳥語が理解できるようになったが、ネコなので彼らと仲良くなるまでには至らなかった。
 妻が知り合いになった地元の方々からは旬の魚や野菜の差し入れをいただいた。顔に小さなちょうちんやお腹に吸盤がある調理したことがない魚たちもいた。妻は、「お前、深海魚なの?」と恐る恐る話しかけていたが、それがたいそう美味なのだった。
 そんな対話ができるようになったころには、約2年間の浦河生活が終わろうとしていた。(H21.11了)

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オレンジジュース・ララバイ

2009年10月26日 19時13分12秒 | 日記
「オレンジジュース・ララバイ」

 ある種の言葉や歌、映像などの刺激を五官に受けたとき、私は、話の内容がわかる前に頭が痛くなったり、悲しくなる前に涙が溢れたり、自分の意志に関係なく、体が勝手に反応する経験を何度もしたことがある。先日、職場で缶入りのオレンジジュースの商標を見たときがまさにそうだった。ジュースの缶を手にしたまま、私の体内時計は明らかに3分くらい止まった。
 子供の頃、チンパンジーが細身の瓶に入ったオレンジジュースを上手に飲むテレビコマーシャルを、映りの悪い白黒テレビで見た。そのジュースの名前「バヤリース」という言葉がもつ西洋のハイカラな響きを思い出すと、今でも特別の快感がなぜか私の脳を痺れさせる。そのジュースを飲んだのは随分年数が経ってからだったが、ジュースの味そのものの刺激には特別な感慨を持っていない。
 その点、日本語の音感にはほとんど鈍感といったほうがいい。生まれてこの方、私の周りには聴きたくない日本語の方が若干多かったため、耳を塞ぐ習性が身についたからなのだろうか。冗談はさておき、母語というのは聞き慣れすぎてその響きに脳は敏感に反応しないのかもしれない。
 「岩崎宏美」は私の年代のアイドル歌手であるが、彼女の若かりし頃の体験談は印象深かった。彼女のコンサートが、はっきり憶えていないがブラジル若しくはフランスで行われたとき、それほど広くない会場に、異国の地で厳しい現実と戦っている日本人たちが肩を押し合うようにひしめいていた。彼女の大ヒット曲「聖母(マドンナ)たちのララバイ」が始まり、歌が中盤にさしかかったころ、会場のあちこちからすすり泣きが聞こえ出し、何人もの聴衆が泣き崩れたという。彼女は、歌というものがこれほどまで人の心を揺さぶることに、驚きを超え、深い感動に包まれたという。
 崩れ落ちた異国に住む戦士たちは、岩崎宏美の優美な歌声を間近で聴いたからなのか、それとも歌詞の内容に激しく心を動かされたのかはともかく、聴覚を通して入り込んだ彼女の歌によってウルウルと脳細胞が溶かされてしまったことは間違いない。日本人女性が歌う日本語の歌は、日本語圏以外の人たちにとっても、心を癒す特別の響きを持つという記事をその後何かで読んだ。
 話は飛ぶが、最近のテレビ番組で、中国四川省茂県(もけん)の高地に住むチャン族の一集落の映像を見た。彼らは、外敵の侵入に対抗し辺境の山地に石造りの家を建てたのだが、その家に背の高い角張ったサイロ風の塔を併設し、敵兵が押しかけるとそこに籠城し、最上部の見張り台から矢を射かけたという。彼らこそがまさに、殷の甲骨文に「羌人(きょうじん)3人を川に流す。」などと記された羌の人々であった。彼らは生け贄を求め狩りをする殷人から逃れ、その地で三千年もの年月を生き延びていた。
 私は強い衝撃を受けた。なぜなら、羌人という言葉を聴いた途端、20才代前半の2年間、昼夜分かたず甲骨文と格闘した熱い記憶が深い眠りから醒め、30年の時の壁を一気に突き抜けて、私の脳内に充満したからだった。
 遊牧民だったはずの彼らが、あの高台の塔に落ち着き、現代まで住み続けた理由とは何だったのか、そこまでして長大な時間を過ごしてきたことにどんな意味があるのか、と考えるうちに、彼らのしぶとい精神力に対して苛立ちさえ覚えた。しかし、屈託のない彼らの表情からそんな悲壮感は少しもかいま見ることはできなかった。そう考えるのは私のマイナス思考に原因があるのであって、彼らには何の不満もないのだというのが正しい見方なのだろうか。
 つけ足しを書くが、「羌」という羊と人との会意文字で表された人々は、羊とともに暮らし、羊を万物の中でもっとも大切な存在として祭った。甲骨文には多くの民族が表記されており、龍方(りゅうほう~龍という地名)に住み、龍人と呼ばれた人々もいた。彼らは龍とともに暮らし、龍を万物の中でもっとも大切な存在として祭った。龍の人々の消息は不明であるが、今でも中国の奥深い土地で、未知の動物の龍を操りながら潜んでいるのかもしれない。
 話は戻るが、バヤリースオレンジが好きなチンパンジーの吹き替えは谷啓氏がやっていたと思うが、私がバヤリースを忘れられなくなったのは、決して彼の声のせいではないことを最後につけ加えておきたい。

(注)
 会意文字とは、二つ以上の文字の字形と意味を組み合わせて新しい意味を持たせた文字をいう。羌とは、角の形で表わされた羊字に人の字を組み合わせて羌という民族を表した。あるいは、りっぱな羊の角を頭に飾る人の象形文字と考えられなくもない。
 また、本文に掲げた龍であるが、蛇形の動物を表す竜字とはまったく異なる文字で、生贄の動物の解体された肉、骨、皮などを横棒に架けた字形をしており、文字の構造上、熊、鳥、鹿(熊や鹿字に横棒はないが、解体された動物の文字であることに変わりはない。)などと同種の文字である。このように、動物文字の多くは、実在するしないにかかわらず、象形に作られていない。
 ということは、文字を作った人々は、動物の外見的な姿に興味があったのではなく、動物に宿る聖なる力を重視、あるいは畏怖し、人の生きる糧となった動物を丁重に祭る必要があると考えたのだろう。熊や鳥などの動物文字は、民族にとってもっとも大切な動物を供するそれぞれの祭祀を表徴したものであり、時代の推移や民族の興亡とともに、それらの祭祀の普遍化が起きる中で、聖なる動物、龍というイメージへの昇華があったのではないかと想像している。方位を司る四獣、四神などの動物神のイメージも同じ論理で成立したと考えられる。(H21.10了)
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ジュリコの名はジェリコー

2009年10月19日 15時53分25秒 | 日記
「ジュリコの名はジェリコー」

 「ジュリコ」の本当の名前は「ジェリコー」という。
 ジェリコーとは18世紀末から19世紀始めにかけて活躍したフランス人画家テオドール・ジェリコーのことで、写実に徹し、後の印象派などにも影響を及ぼしたといわれる西洋絵画史上、重要な画家である。蛇足だが、「ジェリコ」と語尾を切ると、人類史上最も古く約9千年前に築かれた城壁都市の名前になる。難攻不落のジェリコの砦の言い伝えでよく知られた町であり、現代の地図にその位置を求めると、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区の地点に行き着く。
 この雑文で記述しようとしているのは、画家ジェリコーの名前をつけた犬の話であるが、家族は、名前の由来に関する知識が乏しかったため、その犬を常にジュリコと呼んだ。ジュリコは、ペットショップにいたアメリカンコッカースパニエルの純血種の雌で、そのころの稚内では見ることがない珍しい犬種だった。一目惚れした妻と彼女の妹は、二日間、高価な値札がついた子犬の許に通った。
 昭和51年、妻の実家にやって来たジュリコはあまりにも小さく弱々しかったので、家の中に数ヶ月置かれたのだが、飼い主が排泄のしつけ方に失敗したことや、夜中に人間が寝静まると、居間のゲージの中で鳴き続けたため、とうとう玄関先の犬小屋に住むことになった。昔から動物を飼っていた家だったので、何代か前からのお古の犬小屋があった。ジュリコは子犬のころそれほど吠えない犬だったというが、あるとき人間たちのいざこざを目の当たりにしてからは、外からやって来る人間に対し敵意を抱くようになった。家族には懐いたが、親しくない人間や犬猫に対しては、激しく吠え立てた。
 私が妻の実家を初めて訪れたのは、会社の同僚たちといっしょに稚内の南にあるサロベツ原野にドライブするため、妻を迎えに行ったときだった。家に近づいた私に対し、ジュリコは敵意をむき出しにして猛烈に吠え、飛びかかろうとまでした。危険を感じた私は、玄関から遠く離れて立ちすくんでいたことを今でも覚えている。
 私は、昭和52年4月、生まれて初めて稚内の地を踏んだ。25才まで京都市内の大学にいたが、何をしていいか将来設計が立てられないままある会社の試験に合格したため、勤務地の稚内にやってきた。そして同じ職場の同年輩の人間たちと遊びほうけていた。妻もその仲間の一人で、彼女の実家にときどき通うようになると、次第にジュリコから一目置かれるようになり、いつしか吠えられなくなった。半年ほど経つと、私の顔を見て尻尾を振って歓迎の気持ちを表してくれるようになった。序列はともかく家族の一員として認められてからは、よく散歩や公園に連れて行った。私が鎖を持つと飛び上がって喜んだ。車に乗せて公園に行くと、人間と同じように、ブランコに乗りたがり、滑り台やジャングルジムによじ登って遊んだ。
 全身の毛が柔らかくカールしていたため、毛に泥やゴミが絡みつくのだったが、それを取るときに誤って、この犬種に特徴的な長い耳の端をはさみで切ったことがあった。それ以降、はさみを見ると暴れ方があまりにもひどく手に負えなかったので、一度病院で麻酔して毛を切ってもらった。家に戻ってきたジュリコの身動きできない様子を見たとき、そんなことはすべきでなかったと後悔した。
 私たちが昭和54年に結婚した後、一人きりになった妻の母親が、娘の一人と同居したのはその年の秋ごろだったと思う。実家の土地と建物は隣家の人に買ってもらうことになったのだが、稚内在住の子供たちは皆アパート暮らしで、ジュリコを引き取る環境にある家族はいなかった。
 その当時、実家の近所に懇意にしていた家族がいた。母親と息子夫婦、二人のまだ小さな孫娘という家族構成で、動物好きのやさしい人たちだった。その家族は、実家の窮状を知り、ジュリコを飼ってくれることになった。犬小屋とともにジュリコをその家に連れて行くと、ジュリコは新しい家族に引き取られたことを理解しているかのように、彼らにすぐ慣れ親しんだ。私たちのアパートはそこから10キロメートルほど離れていたが、できる限りジュリコに会いに行くようにした。私たちに会ったときのジュリコはどれほどの喜びだっただろう。私たちの体に何度も飛びついて止めようとしなかった。
 その年の暮れ、大晦日が間近に迫った日のこと、突然その家から、ジュリコが死んだと電話があった。ジュリコは犬小屋の中で凍死していた。まだ、3歳の若さだった。外の犬小屋で冬を越すのは4度目であり、寒さが死因だとは思えなかった。胴に鎖が巻き付いていたのは、体に何らかの異変が起き、苦しがって転げ回ったことによってそうなったのかと思ったが、死因は不明だった。その家の人たちによると、ジュリコの様子は前日まで食欲があり特に変わったところがなく、夜中に声や物音などにもまったく気がつかなかったという。引き取って3ヶ月ほどで死んでしまったジュリコの亡骸の傍らで、彼らは言葉少なに悄然と立っていた。しかし、動転した私と妻は、彼らの気持ちを推し量り、それまでお世話になった礼を言う余裕もなく、ジュリコを家に連れ帰った。
 妻はジュリコの凍った体を抱きながら、何時間も泣いた。後日、死の1、2週間前にその家の人が撮った写真を見ると、ジュリコの顔には寂しそうな表情が浮かんでいた。そのころから体調が悪かったのだろうか。忙しさにかまけて、死ぬ前の数日間、会いに行ってなかった。ジュリコの3年間の生涯は幸せなものではなかったかもしれない。実家にやって来た時期は、父親の死後、残った借金のことで親戚を巻き込んだ騒動になっていた。その後の2年間、3人の娘たちが次々と結婚し実家を出た。一人残った母親までもが引っ越してしまい、自分が忘れられてしまうのではないかと随分心細く思ったことだろう。
 現在、妻と二人の妹たちは、それぞれの家庭で動物とともに暮らす生活を選んで20年になる。彼女たちは、今でもジュリコに対する自責の念を抱きながら、ジュリコにかけられなかった愛情を他の動物たちに捧げようとしていると思えてならない。(H21.10了)


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バランスがいい頭蓋骨

2009年09月19日 11時19分37秒 | 日記
「バランスがいい頭蓋骨」

 最近、クレオパトラの妹アルシノエという人物のものと思われる骨がトルコで出土したことが報道された。骨の主は、姉との政争で敗れ、その当時ローマ帝国の属国だったトルコの一都市の神殿に幽閉されたという。20世紀始めにすでに発掘されている彼女の頭蓋骨は今では行方がわからないそうだが、骨の計測記録が残されており、ギリシャ系とアフリカ系との混血だった可能性が高いことがわかった。そして、今回出土した首から下の骨の状態は健康そのものであり、死因は、歴史書の記述のとおり、姉が裏で糸を引きローマ兵士に毒殺させたのではないかと推理されている。
 故国に帰ることがなかったアルシノエを葬った墓は、エジプトのアレキサンドリア港に紀元前3世紀に建造され14世紀まで実在した灯台の先端部分を模した形をしているというが、異国の都市の真ん中に豪華な墓を建てたのはいったい誰だったのだろうか。専門家は、文献に描かれた頭蓋骨の形状はひじょうにバランスが良く、美しい女性のものだったに違いないと解説していた。
 バランスというのは難しい概念のひとつだろうと思う。バランスがいいというのは、一義的には好ましい意味で使われるが、時と場合と人などによって解釈が微妙に変化することがある。クレオパトラの妹を例に挙げると、バランスがいいものが皆に好かれるとは限らない、という概念のあいまいさが理解しやすくなる。

 網走に3年間住んでいたとき、いささかバランスの崩れた多くのネコたちに出会った。「ため吉」という名前のネコがいた。近所のネコ好きの奥さんがつけた名前だったが、彼の風貌にぴったりだった。彼は、体のわりには足が短いかなり年輩の雄ネコで、体の毛は逆立ったようにボソボソで、口の周りはいつも汚れており、野良のキャリアが見るからに長いと思われた。
 あるとき開いていた窓からため吉が我が家に入ってきたことがあった。まだ1才になる前の黒ネコ「との」は喜んで、「おじさん遊ぼう。」とため吉にかけ寄ると、ため吉はとのの頭を前脚でポンとたたき、そこにあったとののエサを悠然と食べた。妻と私と、怖じ気づいたとのは黙って一部始終を見守った。彼にはまだ若い雄には負けないという気迫が感じられた。その後も度胸のいいため吉は何度も我が家に侵入したが、とのに悪さをするようなことはなかった。相手にしていなかったのだと思う。その反面、道ばたで彼に会ったとき、「ため」と声をかけると、うれしそうに走り寄ってくる人間好きな性格をも持ち合わせたネコだった。
 縄張り荒らしにきた若い雄ネコ「アトム」とため吉との威嚇し合う現場が幾度か目撃された。「くろ」と名付けられた真っ黒な雌ネコを取り合っていたのだ。いつもアトムが優勢だった。耳や尻を噛まれ血を流すため吉を放っておけなくて、ネコ好きの二階の奥さんたちと妻とで仲裁に入った。ため吉は、興奮のあまり自分を応援してくれる人間の長靴や腕にむやみに噛みつき、人間側にも多少の負傷者が出ることがあった。
 数日後、2匹は、互いの顔をくっつきそうなくらい近づけて、いちだんと大きな威嚇の叫びを上げ、暴力沙汰になるかと思われたとき、アトムの方が一目散に退散した。ため吉が勝った理由はわからない。その場所が彼の縄張りだったことや彼に加勢する大勢のネコと人間が周りにいたせいだったのだろうか。秋になり、くろはため吉によく似た子ネコを5、6匹生んだ。
 くろはまじめに子育てする母ネコだった。くろ一家は、私たちが住んでいたアパートの真向かいの社宅の物置に住みつき、引き戸の穴から出入りしていた。単身者の社宅の主は物置を使わなかったので、引き戸に釘を1、2本打ち開けられないようにしていた。しかし、次第に住みにくくなってきたのだろう。ある日、妻が玄関の外に出ると、くろが子ネコを一匹くわえて妻の前にやってきた。人慣れしていない子ネコは大きな口を開け威嚇したが、くろはかまわず他の子ネコにも出てくるように促した。子ネコたちの行列がくろの後ろに続いた。自分の子供を何とか生き延びさせたいというくろの気持ちが切々と伝わってきた。妻はアパートの裏にあった我が家の物置にくろ一家を移動させ、餌を与えることにした。
 くろは若いネコではなかった。面倒見のいい二階の奥さんの一人は、これからもくろが子供を産み、子育てを続けることがかわいそうで、知り合いの動物病院に頼み込み、くろの避妊手術をしてもらったうえ、引き取り先の手配までお願いした。くろ一家は網走郊外の牧場などに無事もらわれていき、長く大事にされた。
 アトムは、ため吉の縄張りと隣り合う別のエリアを牛耳る強いネコだった。目の上から耳にかけて真っ黒な模様がついていて、それが鉄腕アトムの頭に載っている帽子にそっくりだったのでその名前をつけた。きつい目でにらみを利かせて歩くネコだった。出入り自由の飼いネコだったが、夜遅くなると家に鍵をかけられ、餌抜きになると聞いたことがある。風貌からはうかがい知れないようなつらい目にも遭っていたのだろう。
 アトムには、うりふたつの顔をした一回り体の小さい弟がいた。弟は、兄とは違い人なつっこいネコだったが、やはり度胸があったと見え、立てた尻尾を振りながら道路の真ん中を得意げに歩いた。アトムは私たちが網走を離れた後、車に轢かれて死んだ。
 ため吉が一時ネコのはやり病いにかかり死にそうになった。近所の人が病院に連れて行ったが、病状は予断が許さないくらい悪くなったが、妻たちがアパートの階段の踊り場であきらめずに介抱した結果、奇跡的に元気になった。
 「ミッキー」は、私たちのアパートの前に唐突に現れた。二階の奥さんが何気なく窓から外を見ていたとき、草むらを歩いている小さなネコがいた。いても立ってもいられずそばに行ってみると、生まれて2、3ヶ月くらいの首輪をつけた子ネコだった。自分の家に帰る道すがら立ち寄ったのかもしれないからと、そのまま家に引き返したが、頭から子ネコのことが離れなくなった。次の日、外が明るくなってきたころ二階からのぞいてみると、前日の子ネコがほとんど動かずに留まっているのが見えた。自分の乱れる気持ちを押さえることはできなかった。こうしてミッキーは二階の家の一時預かりネコになった。地元の新聞に迷いネコの広告を出したが、飼い主は現れなかった。
 ミッキーは狩りの得意な活発なネコで、いつも家から脱走し鳥たちを追いかけていた。カラスからはときどき逆襲されたが懲りることはなかった。やっとのことでスズメを生け捕りにし興奮状態で帰ってきたミッキーは、たまたま階段で遭遇した妻から、かわいそうだから離しなさいと言われ、腹立ち紛れに妻の腕に思いっきり噛みついたりもした。彼は預かり主の転勤のお供をして数ヶ所を移動し、岩見沢で十数歳の寿命を全うした。
「チャーミー」は隣の家でかわいがられたおとなしいネコだった。隣家が引っ越すと、彼女の姿も消えてしまった。短期間住み着いた「ルパン」という寡黙なネコもいた。その他にも、アパートの前に止まった乗用車からまりのように投げ捨てられた子ネコや、段ボールに入れられて近くのゴミ捨て場に置き去りにされた子ネコたちもいた。このアパート周辺のネコと人間の生態をよく知っている者の自分勝手な仕業に苦々しく思うことが何度かあった。
 私たちの住んでいたアパート周辺を行き交った多くのネコたちは、一匹として同じ色の、同じ体型の、同じ性格のものはいなかったが、みんな、厳しい掟と生活環境の中でせいいっぱい健気に生きていた。彼らと出会った人間たちは、彼らとの生活の中で、幸せな気持ちを味わえたことに深く感謝した。
 網走に住んで2年目の冬の終わりころ、猛烈なブリザードが2日間にわたり吹き荒れた。朝起きると、1階の窓を完全にふさぐほどの雪が吹きつけていた。道路が寸断され、電話も通じなかったので、同じ職場の3人と連れ立って外の様子を見に行くことにした。雪を乗り越えて2キロメートル先の会社までたどり着いたものの、何もすることがなく、風雪害で特別休暇をとり、やっとの思いで家に戻った。
 外の明かりが届かないかまくらの中のような家にじっとしていると、窓の外がにわかに騒々しくなった。近所の数人の友人たちが手に手にスコップを持ち、人ひとりがかろうじて通り抜けられるくらいの通路をこじ開けながら、こちらに向かってやって来るのだった。すでに酒が入っているようなにぎやかさだった。ようやくアパートの玄関に到達した彼らは大量の酒を抱えていた。私たちは、かまくらでご馳走を食べ楽しんだ子供のころに戻ったかのように大騒ぎし、夜遅くまで酒を飲んだ。次の日からは雪道をつける重労働が始まったが、車が小路に入るまでには何日もかかった。
 ため吉の姿がいつまでも現れないことに気がついた。ブリザードから逃れてもぐりこんだ床下か穴蔵が雪に埋もれて、運悪く外に出られなくなっているのだろうと、心当たりをそこかしこと探してみたが、手がかりはまったくなかった。雪が解けてからもため吉のことを気にかけていたが、ついに彼の姿を見ることはなかった。

 とのが網走に住んだ時期は、1才になる前の幼年期から4才になるころまでの青年期だった。
 とのは、生まれて2、3ヶ月で我が家にやって来て、それからまもなく発作を何度も起こした。突然、目の焦点が合わなくなったかと思うと、苦しそうなけいれんが始まり、胃にあるものを吐き、小便、大便をたれ流した。びっくりして近くの動物病院で診てもらうと、このネコを育てるのは大変だから保健所に連れて行った方がいいと言われた。妻はあきらめずに病院を探し回り、数軒目の病院で骨の発育不全が原因の発作であることがわかった。投薬などにより、半年ほどして発作が起きなくなり一安心したが、発育が一定レベルに達するまでの数年間は薬を欠かせなかった。
 骨が弱くてもやんちゃなとのは、高いところから跳び降りた拍子に足がぐにゃっと曲がり、「痛いよ。」と、大声で鳴いた。その都度、妻は心配して病院に連れて行ったが、幸い、彼の骨は折れるほど固くなかったので、しばらくすると痛みは治まった。薬を飲んでも骨格が正常なネコと同じように発達するわけではなかった。下顎の骨は後退したままで唇がぴったりと閉まらなかったため、真っ黒な顔にはいつも赤い舌がちらりと見えていた。顎だけでなく頭蓋骨全体が普通のネコと違い、明らかにいびつな形をしていたと思う。しかし、彼は思いのほかハンサムなネコだった。
 とのは、大人の年齢になっても、ネコのしなやかな身のこなしが習得できなかった。獲物をねらって飛びつくとき必ず一呼吸置くので、おもちゃ以外の獲物を捕ったことがなかった。骨の発育だけでなく知能の遅れを指摘する人もいたが、実は、とのは私たちにだけ自分の気持ちを伝えるネコだった。体や顔かたちのバランスが悪くても、私たちと生きるには何の支障もなかった。
 網走を離れてから10年以上も後の話になるが、火葬場で焼いてもらったとのの骨は、薄っぺらで頼りなげに見えたが、私たちにとって、それは目が覚めるほど真っ白で美しかった。(H21.10了)




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ハクセキレイ

2009年09月05日 23時40分27秒 | 日記
「ハクセキレイ」

 8月の初めの早朝、妻が居間のカーテンを開けたとき、玄関横の窓の下にハクセキレイの死骸が横たわっているのを発見した。
 ふと何年も前に我が家に巣を作ったハクセキレイのことを思い出した。前に飼っていた黒ネコ「との」が15才で死んだ翌年の平成15年、雪解けが終盤に差しかかったころ、居間から見える玄関のひさしとその上のベランダとの狭い空間を、毎日何度ものぞきに来るハクセキレイの姿があった。そのすき間はあまり日の当たらない北西を向いており、ベランダに降った雨や雪解け水を抜く役割をしていた。しばらくすると、つがいのハクセキレイは巣作りのため、木の枝や草のような物を次々と運んできた。
 ハクセキレイはスズメなどに比べ、飛行能力がかなり優れているように見える。飛行スピードが速いうえに、スピードを自在に変化させて飛ぶ。ネコに向かって威嚇するかのようなホバリングを見たことがある。獲物をねらうときなどにその体勢をとるらしい。飛行角度も弧を描くかと思うと、地面と平行に直線的に飛ぶなど多彩だ。飛行に自信があるためか、車や人が通る道路などに降りて餌を探す姿をよく見かけた。
 そして、ほとんど物音を立てずに、一月以上にわたり忙しく子育てする情景が続いた後、ある日を境にぱったりと彼らは巣に戻って来なくなった。無事ヒナが巣立ったかどうかわからなかった。
 庭木の冬囲いに取りかかるころになって巣がどうなったか思い出し、玄関のひさしに梯子をかけ、奥が狭くなっているすき間をのぞくと、ひさしのいちばん奥に、家壁に張りつくように黒ずんだ丸い固まりが見えた。引っかき出してみると、汚れた丸いわらには鳥の羽毛と糞のようなものが沢山こびりついていた。それは明らかに鳥が子育てをした痕跡だった。
 翌16年は、現在元気に走り回っているネコの「はな」がこの家に来た年だ。その年の春先も前年に引き続き、同じつがいだと思われるハクセキレイが、玄関先をのぞきにやって来ていた。彼らの調査が1、2週間続いたのち、2羽の鳥の姿は消えてしまった。巣作りをあきらめたようだった。2年目なのにどうしたのだろうか、去年の巣を取り除かれたのが気に入らなかったのだろうか、といぶかしく思ったことを覚えている。
 それから一月ほど経ったころの忘れもしない6月18日、父親を札幌の病院に連れて行くため、60キロメートルほど離れた私の実家に行った。季節はずれの暑い日で、深夜、2階の寝室の窓を閉めようとしたときだった。実家のブロック塀の外側の道路上に、小さな、しかし元気よく鳴くネコがいた。妻と2人で窓から顔を出すと、子ネコは小躍りするように跳ねて1メートル以上もある塀をよじ登ろうとするではないか。
 何が起きているのか考える余裕もなく、私たち2人はすぐ玄関の外に出ると、そのネコは塀づたいに走り、玄関先にいる私たちにかけ寄ってきた。大きな切ない声で鳴きながら妻の足元に体を押しつける様子は、まるでしばらく会っていなかった飼い主にやっと再会できたかのようだった。私の母親が大の動物嫌いだったこともあり、心配だったが牛乳と花かつおを食べさせ、その晩は寝た。
 翌朝、ネコの姿はなかった。寂しい気持ちを抱いたまま用事を済ませ、夕方私の家に帰ろうと実家の玄関を出たときだった。隣家の前庭の片隅から、姿は見えないがかすかにネコの声が聞こえた。大切な探し物が見つかりうれしさが抑えられないという気持ちで、おいでおいですると、ネコは狭い植え込みをかき分けて私たちの前に出てきた。こうして、はなは我が家にやって来た。
 その年の暮れ、雪が降る前に家の周りの掃除をしていたとき、隣家との境のコンクリート擁壁と車庫との間の30センチメートルくらいのすき間に、枯れ草に隠れて、前年に見たハクセキレイの巣にそっくりな捨てられた鳥の巣があった。その巣は周りからは見えなかったが、地面から3、40センチメートルの高さしかなかった。新興住宅地なので野良ネコなどは見かけることがなかったが、ハクセキレイはどうしてこんな危険な場所で子育てをする気になったのか不思議だった。
 彼らは、とのの存命中から、我が家の周囲を飛び回っていた。だから、とのが死んだ次の年、迷うことなく巣作りを始めることができた。それだけ鋭い観察力の持ち主たちが、なぜとのがいなくなって2年目の春先に、あっさりと前年の場所を放棄し危険度が高い車庫の裏に移動したのか。説明しにくいが、ネコが嫌いな彼らは、この家にはながやって来る一月も前に、はっきりとそのことを予感したのではないだろうか。
 妻は、ハクセキレイが白っぽい腹を上に向けて死んでいるのは変だとしきりに首をひねっている。近所の子供たちが道路でひろって玄関先においたのか、誤って家の壁に猛スピードで追突したのかわからないが、事故死だったのではと言う。
 ハクセキレイの寿命は何歳くらいなのだろうか。家庭で飼っているインコなどは20年以上も生きたという話を聞く。インターネットで検索すると、足標の調査により、カモ類やアホウドリは20年程度、カラス、スズメが6、7年とあった。体の大きさがスズメとほぼ同じハクセキレイの寿命は6、7年か。
 とすると、死んだ鳥は、平成15年にここで生まれたと考えても不自然ではない。彼は、季節の移り変わりを小さな体で敏感に感じ取り、この地から中国大陸に向け飛翔し、シベリアの凍てついた大地に遊び、サハリンの上空を旋回しながら、宗谷岬を起点に扇形に広がる北海道の大地を一望したことだろう。こうした大飛行を何度も経験し、ついに自分の寿命が尽きることを知って、生まれた巣を求めてこの家に帰ってきた。ひさしの上には、きっと彼の強靭な羽が一枚と小さな足跡がいくつか残っていると、私は想像している。(H21.9了)
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