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黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

セブンティーンが懐かしい?

2021年08月22日 17時05分49秒 | ファンタジー
 はなはセブンティーン。ヒト年齢に換算すると85歳くらい。なのに大口開けても抜群の写真写り。はなの隣で自撮りはしない方がいいよ、父しゃん!(2021.8.22)
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S大前期授業 ④宇宙観、カムイの概念

2021年08月15日 16時59分05秒 | ファンタジー
 この世のすべてのものにラマッ(魂)がある、というアニミズムの概念は、あらゆる人々・民族の精神の深層に存在する基本的なものだと、私は思う。人がどのようにしてその概念を獲得したかはわからないが、身体や物体だけで存在するのはあまりに心もとなく、それらを支える目に見えない何物かが備わっていると思うのが自然の感覚なのか。見えない魂は、姿かたちを変えて永遠に循環することができるので、その魂の変遷を語り継ぐ物語の中から、多くのカムイが生まれたのかもしれない。
 アイヌの世界には、様々なカムイが存在するが、唯一絶対の存在とは異なるという。「アイヌの世界観」(山田孝子著)第5章『2北方諸民族における世界観』で、サハやニヴヒは山・森などを所有する「主霊」の観念を持つとする。なかでも、サハは牧畜社会の所有の観念に根ざした絶対的な力を持つ最高神を戴く。サハが行うクマ送りの儀礼において、クマは主霊の命令によって人のもとへ送られる存在であり、儀礼の対象は主霊なのだという。
 余談だが、中国古代において、北方の出とされる殷人は龍などの動物祭儀の文字を甲骨金文に作ったが、それらの文字は帝の意志を聞き犠牲を捧げる祭儀を表すものだった。
 一方、狩猟民のアイヌの場合は、人とクマなどの動植物等との関係はきわめてパラレルで対等なものに感じられる。カムイが唯一絶対ではないという観念には親しみがわく。たとえば、アぺフチカムイ、キムンカムイ、コタンコㇿカムイや動植物のカムイたちが、強大な力を持つ怖いカムイでなく、精神の良いアイヌのところへ遊びに行こうとしたり、村や人を守ってくれたり、人の役に立とうとまでしたりと、その優しさに感激する。
 器物のカムイを送る祭儀などは、今さらながら、物を大事にすることや、すべてのものに役割が備わっていることを思い起こさせてくれる。これまで物を壊したり、なくしたりを繰り返しても、なかなか物の大切さに気づかなかったのは、物に対する感謝の気持ちを儀式によって表現しなかったからなのかもしれない。
 せっかく年を重ねたのに、残るは終活だけという日々を送るのは悲しい。残年数が少なかろうが、自身の役割がこれで終わりというはずはない。人もまた、樹などと同様、姿を変えても自分の人生の軌跡を永遠に残したい、器物と同じように感謝の念をもって送られたいと前向きに考えるべきである。(2021.8.15)

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S大前期授業 ③命名、父系母系、婚姻

2021年08月13日 13時23分45秒 | ファンタジー
 昔は、成人式などで改名する習俗があったというが、生まれた子どもの名前を決めるのは、やはり親・親族やそれなりの立場の大人だったと思われる。現代の親たちにとっても、命名とは出生届のための単なる手続きでなく、人生の中の厳粛な儀式である。
 アイヌ社会では、子どもの命名は、神との関わりで与えられる神聖なものとされたという。人は死後、ポㇰナモシㇼ(先祖の世界)へ行き、六代分を過ごしてから子どもになって送り出されてくるとされる。当時のアイヌ社会の場合、はるかな先祖の世界から来た神聖な子どもへの命名についてはかなり慎重だった。子が5,6歳になるころに初めて正式な名をつけたという。
 現代の感覚で解釈すべきでないとは思うが、その年齢の早熟な子どもなら、親が提案した名前(とくに魔除けのための汚い名前など)を気に入らない場合があったような気がする。そういうとき、その名前はいやだとか、自分の名前は自分でつけるとか、といった主張をした事例がアイヌ社会になかったのだろうか。それが通らなかったとしても、そう主張する余地があったとしたら、アイヌ社会はほんとうに民主的だと感じる。
 イレズミ(シヌイェ)はアイヌの主に女性に特徴的な習俗。魏志倭人伝に、倭の男子が身体にイレズミをしていると記されている。海洋民が海に潜るときの魔除けという説があるが、女性がしていたかどうかについては言及されていない。北方狩猟民の出身と言われる殷人も甲骨金文によれば、イレズミをしていたらしい。そのような多様な文化を受け入れた日本列島において、現日本人がイレズミをタブー視する態度は、様々な歴史的要因が絡み合っているとはいえ、ちょっとヒステリックな感じがする。
 アイヌ社会は、父系でも母系でもなく、双系社会あるいは父系母系の両方が残った社会だという。フチイキㇼ(祖母の系列)はラウンクッ(守りひも)で、エカㇱイキㇼ(祖父の系列)はイトㇰパ(祖印)で象徴される。このラウンクッ(ポンクッ)は母系ごとに同じ編み方をし、死者にポンクッをしめるのは同じ系統の女性でなければならない。嫁が姑の死装束を着せることはできない。女性は、死後も所属する祖母の系列(氏族)の一員であり続けることになる。
 今の父系的な日本社会と比較すると不思議な感じがするが、「シリーズ古代史をひらく 前方後円墳」(岩波書店)の「古墳と政治秩序」(下垣仁志)によると、倭国の前方後円墳の埋葬事例では、古墳時代の中期前半(5C前半)までは、同じ墳墓の複数被葬者の関係はキョウダイであり、被葬者に男女の差がなく双系的な親族原理が読み取れるという。また、少なくとも5C後半までは、被葬者の配偶者は同一墳墓内に葬られず、配偶者自身の本貫地(出身地)に帰葬されていたことが、おおむね明らかになったという。この時期までの倭国は、アイヌ社会と同様の双系的な社会構造だったことがうかがわれる。
 アイヌ社会では妻を借り物として大事にするという。妻を夫の側に従属させようとする家父長的な家の出身者にとって、この平等主義にはびっくり仰天である。(2021.8.13)



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S大前期授業 ②農耕・医療

2021年08月06日 16時31分59秒 | ファンタジー
②伝統的農耕・医療
 アイヌ社会には業としての農耕はないという。
 私の家の畑も、春先、思いつきでその年の栽培作物を決め、空を見上げながら、さしたる根拠なく種や苗を植える時期をおおよそ決める。できるだけ自然に生長するように、肥料はごくわずかしか入れない。植えてから保温のための覆いをすることもない。これでは各年の出来ばえにばらつきが大きいが、主食ではないので全滅しても飢餓に陥ることはない。
 アイヌの人々は、ヒエ、アワ、キビなどの雑穀のほか、あまり多くの種類の植物を栽培しなかったらしい。彼らは、野草とか獣や魚類とか、多種多様な食料を調達する達人であり、かえってそちらの方が主たる業だったからなのだろう。
 しかし、雑穀アマㇺは神話に語られる大切な食料であり、結婚式などの儀式にも重要な役割を持つ。17世紀の樽前山噴火前に、施肥や鉄製農具によって大規模農地で生産されたのは、きっとこれらの雑穀だったろう。農作業が大規模になればなるほど、人々を組織化し作物の品質を管理するシステムが必要になり、ゆくゆくはアイヌ社会内部に強い権力が生まれた可能性があったとも考えられる。シャクシャインたちの部族間抗争や松前藩との戦闘の原動力になったのは、農耕はじめ交易などの発展した社会基盤だったのかもしれない。
 医療について、アイヌの人たちが、数多くの薬草の効能を事細かく知り尽くしているのに感嘆した。今でも薬草治療は実証的な根拠に基づいて行われているし、科学的にはこれから研究が進められる分野だということがわかった。
 また、現代では、ただの思い込み・迷信とされるような祈祷やお祓いなどに、生体が本来持っている免疫力、自然治癒力を強化する働きがないとは言えないと思う。私はこの分野にはあまり関わりたくない方だが。
 伝統的なアイヌ文化を知れば知るほど、アイヌの人々のように、古来から伝わる文化と技量を身につけていれば、貨幣経済や科学技術、そして強力な統治機能などがなくても、平和で健康的に生きられることが改めて理解できた。(2021.8.6)

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S大前期授業 ⑤二風谷のクマ送り

2021年08月03日 16時45分55秒 | ファンタジー
 1977年の二風谷で、1頭のクマ、いや偉大なカムイのために大きな祭りが執り行われた。この喜びと感謝の気持ちに満ちあふれたアイヌのクマ送りを見て、これほど環境への負荷を軽減した文化は他にないと改めて感じた。開発を伴うSDGzの理念や取り組みをはるかに超えている。
 なのに、このクマ送りに実力行使をしてまで反対する動物愛護団体が存在したとは。彼らは、生き物を殺す側に組しないのが正義だと考えているのだろうが、現代においても動物からの恩恵なくして人は生きていけないし、ましてや原始の狩猟採集社会では、クマ送りをはじめ、動物祭儀は生活の根底を支えるための特別の儀式だった。それらのことを異文化側に身を置いて考えようともしないとは、実に不寛容な人々であると思う。
 しかし、そう主張する私自身が、アイヌの人々の世界観である、あらゆるものにラマッが宿り、死を迎えたら別の世界に飛んでいく、という思想を共有できるかといえば、それは相当困難だ。先祖は原始時代に生きて、他の動物たちと食い食われる関係にあったのだが、そんな当然のことさえすっかり忘れてしまった。
 萱野さんと二風谷の皆さんが作ったイヨマンテの映像はすばらしかった。花矢を放ち終わり、最後の矢をクマの心臓に向けて射る場面は、私の胸にもグッと迫るものがあった。3日間にわたる祭りの中で、集落の人々が次第に熱狂していく様子には、彼らが同じ世界観を共有する姿を見たように思う。祭りは単なる過去の再現ではなかったのだ。
 アイヌの女性が、いっしょに暮らした仔グマとの別れを悲しむ場面も心に残った。クマが喜び勇んでカムイの国に帰っていくという確信と、クマとの別れを悲しんで涙を流す気持ちとの間に何ら矛盾するものはないことを、本物を見て十分納得できた。(2021.8.3)



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S大前期授業を受講して ①衣・食・住

2021年08月01日 11時28分59秒 | ファンタジー
アイヌの伝統的衣・食・住について

 5月からの前期オンライン授業がそろそろ終わりを迎える。昼寝しながらだったが、休まず受講したので、アイヌ文化について膨大な知識と思いを獲得できた、もちろん消化できているわけではないが。一方、じっとPC画面を見つめているうちに、手足の自由を奪われたまま、月日が一跳びに過ぎてしまったような気分がしなくもない。私がそう感じるのだから、エネルギーのはけぐちを見つけにくいコロナ禍の時代にあって、若者たちにとってはたいそう辛いことだったろう。
 本題にはいるが、アイヌの人々は、オヒョウやハルニレといった樹木の樹皮から糸を紡ぎ、アットゥシという樹皮衣を織った。古いビデオ映像を見たが、剥いだ木の皮の内皮が、あれほど柔らかそうなのには驚いた。紡いだ糸は長期間の保存にも耐えるという。まるで色違いの薄手の昆布みたいだ。骨董品のような古めかしい機織機を自在に扱う技術や緻密なデザインには、長い伝統が息づいていることを感じた。後年、このアットゥシを交易用に何千・何万反も手作業で織ったとは、本当に気が遠くなるような作業だったろうと思う。
 ところで、アイヌにすべての文化を授けた人文神のアイヌラックルは、ハルニレから生まれたとする伝説がある。人もまた同じハルニレから生じたという。かぐや姫みたいにやって来たのかどうか不明だが、実に奥行きの深い言い伝えだ。
 食物に宗教上のタブーがない、というのはちょっと意外な気がした。ある本によると、アムール方面の北方民ニブフはクマをパル・ニブフ(森の人)と呼び、クマの骨を大切に残しておくという。私は、アイヌにもタブーといったものがあって、たとえば、位の高いカムイ(神)のクマを送る際に、毛皮、血・肉などの特定部位しか人は受け取らないと思っていた。ところが、一部の地域ではかつてクマの骨を煮て油を採っていたという。彼らにとって、カムイのクマに敬意を払うことと、食料などとすることとは矛盾しないのだろう。カムイの好意を無駄にせず、ていねいに加工し保存したものを大事にいただくというのは、現実的で理に適っている。
 また、樹皮や野草などを全部採らずに種を保存するやり方や、種でも鱗茎でも増殖するオオウバユリ(トゥレㇷ゚)、地上だけでなく土中にも実をつけるヤブマメ(アハ)などの植物自身の生存戦略を詳しく知った上でそれらを活用する発想はすばらしいと思う。
 アイヌの人たちは共同でチセ(住居)を建ててきた。チセノミ(新築祝い)もその集落に儀式を担う人がいたのだろう。私の母の実家は屋根が茅葺だった。板葺きよりも暖かく、家全体がこんもりとした山のように見え、重厚感があった。子どもの私が感じたあの大きな家はとてつもなく古かった。この蝦夷地で、いつころどんな大工さんが建てたのか。
 アイヌ社会では、他にも共同作業は数多かっただろうと思う。冬は山の方で単独の狩猟を行ったが、海や川での漁の時期には漁場付近の住居へ移動することもあったという。共同作業から得られた獲物・収穫はそれぞれに分配されただろう。に事件などがあったときは、みんなで悪魔払いをした。調和のとれた平等社会に近かったように思える。
 彼らの社会に貧富の差がなかったわけではないらしい。萱野茂氏「アイヌの昔話」の「貧乏アイヌとユカㇻ(英雄叙事詩)」には、狩りが下手で貧乏暮らししているアイヌが登場する。彼が唯一得意なのはユカㇻを語ること。彼のユカㇻを聞いてやってきた病気を撒き散らすパヨカカムイにお供えしたことによって、運が開けて獲物をたくさん獲れるようになったという。貧乏人であってもカムイを敬い、カムイの声に耳を傾け、心根がよければ、カムイや周囲が見捨てることはない。つまり、差別・選別意識がきわめて薄い社会と言ってもいいのではないだろうか。そういう社会は争いがなく平和なのだろう。(了)
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