黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

ストレスに苛まれる自由

2012年03月29日 16時33分05秒 | ファンタジー
 残すところ数週間で、子どもたちの物語の連載が終わろうとしている。振り返れば「途中」を書くだけで一年間もの長丁場が必要だった。その間、なんとか気の利いたものにしようと、文章の大半を二度三度と書き直した。その上、外界からの刺激に反応したり、思うところが出てきたりして、前に戻って書き換えもした。しかし作者自身、時間と手間がかかっている割りには、だらだらと深まらない内容を書き連ねているのではという気持ちをぬぐいきれない。やはりこんな長い連載は、書き手の能力を超えているし、読んでいただいている方々にも、かなりの忍従を強いていると思う。これからは長いブログ記事を止めて短くしよう。このように私はいつも反省するタイプなのだが、B型ヒトの哀れな性(さが)で、なんで反省したかさえすぐ忘れてしまう。これがまた反省材料である。
 何ごとも深く考えるときりがないので話題を変える。
 血液型による性格診断は日本の専売特許かと思っていたら、最近、外国の学者が、血液型によるストレス反応の違いに科学的な根拠があるという論文を発表したそうだ。たとえば、A型はストレスホルモンと呼ばれるコルチゾールの分泌が、O型に比べ二倍も多いという。O型の場合はストレスホルモンをうち消す別のホルモンが出るためにそれほどストレスを感じないんだという。不思議なことに、B型は、A型と同じくらいの量のストレスホルモンが分泌されるものの、あっという間に消えてなくなってしまう。これが忘れっぽい原因なのだろうか。
 どの血液型がいいのか、ここで比較しようというのではない。類型的な生体反応は化学物質と数字によって論理的に説明できるが、なぜ同じ血液型なのに性格が違うのかとか、同じことかもしれないが、B型だって単純なヤツばかりじゃないぞとか、そういった個性の次元になると、ヒトの頭脳をもってしてもなかなか説明できない、ということがおもしろいと思う。それは文学などの想像力と虚構の分野に属する事柄だからなのか。見過ごせないのは、B型の私には想像できないことだが、都市型ヒトとされるAB型は異質な感性の持ち主なのか、あるいは意外にも勘がそれほど鋭くないからか、ストレスにあきれるくらい強いらしい。AB型の読者の皆さん、本気にしないでください。
 ところで、ショートストーリーと言えば、その道の名手の星新一や、マニアックなところでは稲垣足穂、筒井康隆といった著名な作家の作品ばかりでなく、ライトノベルとか、各種雑誌や会社の宣伝用小冊子の記事に至るまで、様々なスタイルの文章が巷に溢れている。果たしてそれらがどれだけの読者を得ているのか、私のブログへのアクセス数より多いのか少ないのかなどと考えると、なんだか心配で夜も眠れない。
 それにしても、紙の文字を読むだけで精いっぱいだというのに、電子書籍という、一瞬にして文字が消滅してしまいそうな媒体までなんの必要性があって生まれたんだろう。そう言いながら、私がブログを活用するのは、現実に置かれた世界に比べ、つかみどころがなく不確実性に満ちたブログの世界の方がはるかに解き放たれた自由な世界だと感じるからだろう。とはいえ、この媒体は、複数の目を通して書き直される本とは異なり、個人的な見解を即興で発信してしまう。これはきわめて危険な行為であり、ひとつ間違えば世界をめちゃめちゃに破壊したり、電子共和国のようなまったく架空の世界を作り出すこともできる。自分とはなんなのか、自分の意志とはどうなっているのか、自分にとってなにが大事なのか、自分にとって自由とはどういったことなのか、といった思惟と試行錯誤をつねに繰り返していないと、とんでもない間違った情報を流したり、そういう情報にころっと騙されてしまいそうな気がする。(了)


  
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ネコ国からの夢便り 自虐的なネコ

2012年03月22日 10時10分37秒 | ファンタジー

 ネコは自分の落ち度や誤りを認めたくない生き物だ。悪かったなと思っても、認めない方がネコの一生は楽しい。それに、自分の非を認めることは、相手の側を勢いづかせることにつながり、ときには自分の立場が危うくなることさえありえる。ネコにとって謝るなんて論外だ。ところが日本というヒト国には、なにか気まずいことがあったら、すみませんと頭を下げる風習があるという。この風習は日本ヒトだけのもので、他のヒト国とはまったくものの考え方が違うらしい。日本ヒトは自分たちを礼節あるヒトだと言っているが、でもそれは昔のことだ。今は国の内外を問わず、口汚く罵り合っている。
 ところで、今のネコ国の風潮は、ヒト国と同様に、謝る事への過剰なアレルギー反応が巻き起こっている。外交や防衛、憲法解釈や教育の現場に至るまで、相手方に理解を示したり協調しようとしたりといった姿勢を見せるネコに対し、「お前は自虐的なネコだ」と非難の罵声が鳴り止まない。この非難はまったく的を射てない、というか、まともな議論を回避して、それ以上論点を掘り下げようとしない小賢しい態度だ。例の「偏向している」という非難とまったく同じ種類だと思う。このような自分の言動の無責任さを棚に上げる軽薄な輩に、正論を言うネコを罵倒する権利があってたまるものか。 
 ネコ国同士の無謀な戦争の後、ネコたちはその愚挙を反省して、ひとりひとりの言動の責任について、国や他のネコに判断を仰ぐのでなく、各自の良心のおもむくところに任せることにした。そのことによって、ネコ社会を成熟させていこうと曲がりなりにも努力してきた。つまり、現在の一定程度、自由で民主的なネコ社会では、国家や権力を持つ者から、個人の言動が規制を受けたり強制されたりすることがあってはならないはずだ。まして、教育現場で、一挙耳一本ヒゲにわたり、決まりどおり撫でつけなければ処罰の対象にするなどという、力ずくでネコの自由を奪う野蛮が行われようとは、この国に住むネコとして、アホらしくて恥ずかしくて仕方がない。そればかりか、学校の体育館からいつのまにやら抜け出した怪物が、様々な式典会場へネチネチと恥ずかしげもなくへばりついてくるような気がして、なんとも薄気味悪い。
 意見の違うネコを愚弄してなんとも思わない輩は一様に、歴史上、実際にあったことから目を背け、非論理的な絶対性といった固定観念に囚われているように感じられる。言いかえると、彼らには歴史観などなく、自分の考え方に合わない歴史的事実は廃棄処分してしまうと言った方が的確だろう。こんなレベルのネコ同士が国の歌や旗について言い合いする場合、議論が深まるどころか、感情がスパークして背中の毛が逆立ち、すぐ炎上してしまう。
 ここで冷静に、ネコ憲法の前文の一部を読み上げよう。
「そもそもネコ国の政治は、(主権者たる)ネコ国民の厳粛な信託によるものであって、その権威はネコ国民に由来する」とあるではないか。国の歌と旗は、国や一政治ネコの所有物でなく、ネコ国民に帰属するものであり、彼らの幸せのために制定されたのだ。それなのに、歌と旗を理由に、ネコが鎖につながれ自由を奪われるとはなんたることか。
 教育現場の混乱を回避するには多少の規制があっても仕方がないんじゃないか、そんな目くじらを立てるのは成ネコらしくないんじゃないか、と言われるかもしれないが、彼らの言動の中に、特定の権威にネコ国民を従属させようとする不純な動機と低劣なネコ格が見え隠れしているから、見過ごすのはきわめて危険だと警告しているのだ。この暴挙を許しておくと、彼らはますます増長し、弱肉強食の醜い本性をさらけ出すだろう。そうなってからの彼らとの闘いには、相当な血とよだれと涙を伴うのはもちろんだが、抵抗力のない子ネコたちにまで被害が及ぶ恐れがあることを考えるべきだ。子ネコはたんなる知識の吸い取り紙じゃない、心は成ネコやヒトよりはるかに純粋で傷つきやすいのだ。(とのの校正了)

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鎌田實氏のエッセーを読んで

2012年03月06日 11時49分44秒 | ファンタジー
「医師鎌田實さんの連載「さあこれからだ」(毎日新聞H24.2)を読んで思ったこと」

<鎌田實>
 長野県 諏訪中央病院名誉院長 63歳 著書「がんばらない」等
 チェルノブィリの事故で被爆した患者の治療にも当たった。

 この記事には、がんと闘う女優の樹木希林さん、ジャーナリストの鳥越俊太郎さん、緩和ケア病棟の87歳のおばあちゃんの話などが載っている。彼らは、がんと闘うナチュラルキラー細胞(笑ったり、泣いたりすることで増えるといわれている。)を活性化させ、前向きにがんと闘い、また自分の命より大事なもの、子供達のことなどに心をはせているという方々なのだ。
 鎌田医師は、人を幸せにするふたつのホルモンを紹介する。
 ひとつは、セロトニンで、これは比較的有名。好きなものを食べたり、楽しいものを見たり、自分が幸せと感じたとき分泌される。神経の活動を活発にして、うつの治療薬にも使われる。
 もうひとつは、聞き慣れないオキシトシンというホルモンで、人の幸せを思い、慈しんだり祈ったりすることによって分泌される。驚いたことに、そのホルモンは、他者の幸せを思いやる人自身のストレスを解消し、感染症を予防し、生きる力を強化してくれるというのだ。
 ここからは、私の所感。人の幸せを願うことによって自分も元気になる、という理屈はわかるような気がするけれども、そのような行いは高邁な精神の持ち主でなければできない芸当なのでは?
 ところで、落語家の桂文珍さんのこんな話を雑誌で読んだ。阪神淡路大震災のとき文珍さんの家も潰れたのだが、寄席があってキャンセルするわけにいかない、うつうつとしたまま高座に上がって話し出すと、観客が自分の話に笑ってくれている。その様子を見てそれまで苦しんでいた自分が逆に癒されるのを感じたというのだ。これは人の喜びが自分の癒しにつながる、人のためにしたことによって自分が元気になる、まさに例のホルモンの働きだ。
 アメリカで活躍するトランペッターの大野俊三さん(元サッカー選手と同姓同名)をご存じだろうか。以前、ビートたけしのテレビ番組でも紹介されたが、彼は二度の大災厄に遭っている。一度は、交通事故で上唇の裂傷を負い、トランペットをもう吹けないと宣告された。しかし二年間のリハビリと新たな技術の習得によって再起した。二度目は末期の扁桃がんにかかったこと。大手術後、口を開けることさえできない苦難を乗り越えて、翌年には現役復帰し、仲間とともにカーネギーホールの舞台に立ち、さらに新たな境地を開いた。
 こういう話を聞くと、人は、どんな大きな困難に遭っても、自分の心を奮い立たせれば、乗り越えられない障害なんてないことや、阪神や東北の大震災などの未曾有の困難に遭った人々が、大変な状況下にある自分をさておいて、人のために力を尽くそうとするようなとき、自分自身が励まされ、いっそう大きな力を発揮できるようになる実例が、身近に起きていることに気づく。そして、これらのことは特定の人たちが占有する奇跡なのでなく、生体に元々備わっているホルモンの絶大な働きが引き起こすひとつの現象だと考えられるという。
 生体とはそんなふうに化学物質によってコントロールされる精密機械のようなものなのだ。なのに、その化学物質が、人の感情の揺れ動き、あるいは他者へ関わっていこうとする意志といった不可解な働きをきっかけにして生成されるというのは、不思議としか言いようがない。もっとも、その感情や意志というもの自体、外界からの刺激を受けて生体中に滲み出すなんとかホルモンによって制御された反応と言っていいのだろう。
 ものの本にただし書きがあった。困難に遭遇したとき、順当なプロセスを無視して、ホルモン剤を打てばいいという刹那的な行動にはくれぐれも走らないようにと。一時的な効き目はかえって生体の正常な反応を阻害し、他者の心に共感することが不得意な人間を作り出しかねないという。自省。(H24.3.6)
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