黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

ビギナーズ

2024年01月27日 23時52分15秒 | ファンタジー
 デヴィッド・ボウイに興味をひかれたのはいつころのことだったろう。
 彼の名声は若いころから耳にしていたが、曲の方は、ラベルの貼りようがない中途半端なロックといった印象で、記憶にとどまる曲はそれまで1曲もなかったと思う。
 ところが、ある日、確かラジオから流れ出た彼の曲に強い衝撃を受けた。あいにくタイトルを確認できなかった。そのころ、彼の最新アルバムだった「レッツ・ダンス」(1983年リリース)を買ったのだが、その曲は見当たらなかった。
 しばらくしてから、彼のヒット曲を収録したCDを買ったがそれにも入っていなかった。それ以降、追跡する意欲を失くした。
 つい最近、スマホの音楽アプリをいじっていたら、はるか昔の記憶を呼び醒ます衝撃音が鼓膜をうち震わせた。タイトルを確認できないまま、40年もの年月をさまよっていた曲がよみがえったのだ。
 その曲とは、1986年に公開されたミュージカル映画「ビギナーズ」のテーマ曲「アブソリュート・ビギナーズ」。
 若き日の私が身震いした、彼の最高傑作だ。聴いてみてほしい。詩もみずみずしくて感動的だ。(2024.1.27)

『追伸』
 1987.6.6、当時、東西ドイツを隔てていたベルリンの壁の前広場でおこなわれたボウイのコンサートで、この「アブソリュート・ビギナーズ」が歌われたという。東ベルリンにいた若者たちの方が、きっと私より先にこの曲を聴いたことだろう。1989.11.9壁は崩壊した。 
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夜廻り猫

2024年01月23日 19時54分39秒 | ファンタジー
 先日、録画しておいたNHKのアニメ「夜廻り猫」(テーマ曲は忌野清志郎のJUMP)を観た。ちょうど、はなの一周忌(1.12)のころ。 平蔵にいつも抱かれている重郎がかわいい。カラスに襲われて片目をうしなった重郎が、平蔵によって命の危機からすんでのところで救われたことを知った。
 はなのことは、毎日、回向しているので一日も忘れることはない。今日、鮭の切身を焼いていっしょに食したのだけれど、油のない年季の入ったやつだった、残念。あらためて、はなは、今頃どうしているのか、母さんと楽しく遊んでいるのか、缶詰食べているのか、と思う。
 回向というのは、亡くなった者に思いをめぐらせ、次の世に送るための祈り。まさか妻に回向をすることになろうとは。まだ信じられない瞬間が突然やってくる。
 大昔のように(孔子の門人の子貢は、孔子の墓所で3年間はおろか、6年間もの喪に服したと言われている。)3年間くらい喪に服す期間が必要かもしれない。 回向する側にとっても、大切な人を失った悲しみを乗り越えるために必要なものなのだろう。
 過去にばかりこだわっていてはあっという間に年取ってしまいそうなので、気力が回復したら、奈良大学の歴史学の通教をやってみようかと思う。3年前、札幌大の聴講生のときにお世話になったS先生にも報告したい。甲骨金文学、アイヌ学の次は、大和の古代史かとあきれるかもしれないと思いつつ。(2024.1.23)

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二泊したら帰る

2024年01月04日 20時08分45秒 | ファンタジー
 自分の感情を人前でありのままに表せたら、楽になるだろうと思うけれど、いかんせん世間体や男の体面といった古くさいものがそうすることを許さない。この数ヶ月、私は世間の目を避け、移り変わる自分の感情に身を任せて、一人きり、その日暮らしをしているようなもの。
 こんなふうにしていると、ちょっとしたことに触れて妻にまつわる思い出がよみがえったり、自分と同じような境遇に置かれた人たちのことを見聞きしたりすると、感情のたかぶりが抑えられなくなる……。自分の感受性がこんなに過敏だったかと困り果てる。
 姿が消えて4ヶ月。生前、たまに妻が不在のときは息抜きになった。互いにそう感じていたはずだ。ところが、今でも逝ってしまったことを信じられなくなる時間帯が突然やってくる。妄想が妄想でなくなる時間はかなり危険だ。
 ところで、妻は妹二人に走り書きの手紙を遺した。手紙の最後に書かれていたのは「来世また会いましょう」という言葉。
 夫あての手紙はなかった。どうしてと妻に文句を言ったら、彼女はすぐ私の夢に登場して、ニ泊したら帰る、とはっきり言った。来世会うという言葉のニュアンスとは違うが、再会を約束する意味は同じ。
 つまり来世まではたった2日間ほどのあわただしい旅路。あっという間に次の世に生まれ出て、妹たちや夫がやって来るまで待っているということか。
 仏教思想は生命の永遠性を説く。そのことを心底から理解するのは至難なのだけれど、人の生と死の間に断絶がなく、生死とは活動と休息の繰り返しだとすれば、理論的には離別した者といつか必ず再会できるのだ。
 妻が臨終のときほほ笑みを浮かべたのは、次におもむく世界をかいま見て、そのようなことがすべてわかったからに違いないと思う。
 そう信じるなら、悲しみに囚われて無駄に過ごすことなく、再会のときまで一人の時間を楽しみながらきられるような気がしなくもない、理屈では。(2024.1.4)

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何が起きた?

2024年01月02日 22時50分11秒 | ファンタジー
 元旦の夜も親戚宅で過ごした。家事から解放されて、前日に引き続き遅くまで、日本酒をそこそこ飲んだ。根っからの夜鷹なので、どれくらい飲んだか正確には言えない。
 夜半、布団に潜り込んでからも、すぐには眠れない。スマホの音楽アプリで、ストーンズの「ワイルド・ホース」やスティングの「シェイプ・オブ・マイハート」を聞いたところまでしか記憶にない。
 翌朝、目を覚ましたとき、不安な気持ちになった。スマホが布団の上にも枕元にもどこにもない。あわてて居間に行くと、隣の台所から、ここにスマホがあるよ、という声。
 私は仰天した。まったくそこにスマホを置いた覚えはない。酒を飲んでも記憶をなくさない、眠ってからも物音に敏感に反応する、というタイプなので、こんなことが起きたのは初めてだった。
 何があったのか推理してみる。昨晩、私がすっかり眠ってしまったので、スマホは音楽を聴いてくれる者を求めて、台所の流し台におもむいた。そんなはずはない。
 私は半信半疑なのだが、寝落ちした私を見た誰かが、またやったね、とスマホを取り上げた? 誰って、妻しかいない。(2024.1.2)

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