黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

記憶の中の恩師

2013年01月28日 11時36分33秒 | ファンタジー

 先日、はなと待ち合わせした時刻まで余裕がたっぷりあったので、付近の大きな本屋に初めて入り、どこにどんな本があるか、あちこち見て回った。その本屋は、昔私が学生時代に住んでいた町の本屋のひとつにどこか似ていた。私の興味のある分野の文学や歴史、哲学思想関係の書棚のたくさんの本の中から、たまたま手に取ったハードカバーの本の奥付を見ると、一九七七年初版発行と印字されていた。三十年以上前に生まれた本が埃をきれいに払われて、新刊本と変わらない澄ました顔をして並んでいた。これらの数々の本と、今住んでいる町の図書館の本とをそっくり取り替えてみたら、どんなにすばらしいかと考えたら、感動で胸がいっぱいになった。
 哲学書の棚に、懐かしい著者名を見つけた。
「舩山信一(ふなやま しんいち)」
 日本のヘーゲル学の往年の第一人者で、ずっと昔、この先生の講義を一年間受けた記憶がよみがえった。哲学の講座なのに堅苦しいところがなく、楽しい印象だけが残っているが、内容はぜんぜん思い出せない。高校までの詰め込み式の勉強を笑い飛ばすような、爽快な講義のひとつだった。
 おもしろい講義はほかにもあった。
「佐々木高明(ささき こうめい)」
 日本の原始・古代社会は、中国雲南省、長江流域、台湾を経て日本の南西部につづく照葉樹林圏を基盤に成り立っている、と提唱した文化人類学者の一人。諸外国でのフィールドワークの話は理屈なしにおもしろかった。この講義を通じて、未知の世界に目を向けて自分の固定観念をうち破っていくことの重要さ、つまり狭い島国の中で、一冊の教科書だけを根拠にして歴史を論じるような教育がいかに危険かということを教えていただいた。
 日本史では、「上田正昭(うえだ まさあき)」と「山尾幸久(やまお ゆきひさ)」の両先生方。革新的というか、推理小説的というか、想像力をかき立てられる古代史論に接して、高校までの勉強がまったくつまらなかった理由がはっきり理解できた。自由な発想と想像力のないところに学問は成立しないのだ。ただ、旧来の思想から自由で、偏見を持たない山尾先生が、邪馬台国畿内説なのは残念だが。八十才を過ぎた上田正昭先生が、つい最近、一般の読者向けに古代史論全二冊を上梓された。お元気で何よりだ。
 女真の権威、三田村泰助(みたむら たいすけ)先生の講義にも知的興奮をかき立てられた。先生の著作には、有名な「宦官」がある。講義が専門的すぎたのか、何度か居眠りしたような気がする。
 ところが、中国文学の白川静(しらかわ しずか)先生とはニアミスを繰り返すばかりで、講義を一度も受ける機会がなかった。専攻が違っていても講義を聴きに行こうと思えば何とでもなったのに、と今は思うのだが。
 先生の書かれた資料は大量にあった。しかしそれらを集めるのは、今のように著作集が出ているわけでなく、インターネットがあるのでもなく、同じ分野の勉強をしている学生もなく、困難を極めた。あちこちの図書館や古本屋で学術誌を地道に探索するしかなかった。ほしい本を見つけても買う余力があまりなかったので、必要な部分だけコピーしたものだ。コピー代はあのころも一枚十円だったと思う。
 その上、甲骨文・金文解読の手引きとなるはずの、先生の研究資料自体の難解さにはほとほと閉口した。その作業は、楽しいだとか、やりがいなどをはるかに超えた、汗と涙にまみれた難事だった。そうまでしても、未熟な成果しか出せず、先生に見てもらうのが恥ずかしかった。でも私は孤独ではなかった。昼も夜もずっと、先生の著作と対話し続けることができたから。
 私が甲骨文と出会って四十年、眼前にうず高く積み上げられた先生の遺産を見上げていると、その険峻な山は、時間が経つに連れてますますその孤影を際立たせてきたと感じる。不肖の私にとって、若き日と同じように、その山に近づこうとすれば、その分だけ道のりが遠く険しくなる。こうしてみると、麓の平地でいつまでもうろうろし続ける私と白川先生との関係は、今も学生時代から何ひとつ変わっていない。(2013.1.28)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

低次元のテロリスト

2013年01月22日 16時05分56秒 | ファンタジー

 テロリズムについて、ウィキペディアに次のように記載されている。
「テロリズムとは、恐怖心を引き起こすことにより特定の政治的目的を達成しようとする組織的暴力の行使、及びそれを容認する主義のこと。テロリズムに則った行為・手段、それらによって敵対者を威嚇することをテロル(ドイツ語)という。日本では一般にテロリズムとテロルの双方をテロと略す。またテロリズムを標榜しテロルを行う者をテロリストと呼ぶ」
 単独行動ネコなら、テロなんて恐ろしい暴力を起こすわけないのだが、このネコ国のように、ネコの集団的居住圏が形成されると、テロやリンチに手を染めるネコが現れる。
 ここネコ国では、自治体の某ネコ首長さえ、何を血迷ったか、理性と品性の欠落した脅迫的言辞を乱射する。その悪辣な言葉が向けられたネコらは、一様に恐怖を感じる。だって教育の問題を議論しているのに、反論したら、給料削るとか、ご飯やらないと話をすり替えて脅されるのだ。なんとあきれるくらい低次元のテロリスト! そのやり方は、ネコ質を捕って、自分の要求を突きつけるテロリストネコとまったく同じだ。
 子ネコたちは、政治ネコ、学校、評論家、親たちの名誉・権勢欲を満たすための道具や宣伝広告にされてはならない。教育の本義とネコ精神の自由を勝ち取るため、テロネコらに敢然と対抗する勇気あるネコたちが、そろそろ登場する頃合いだ。(とのの校訂了)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

従叔母(じゅうしゅくぼ)の記憶

2013年01月18日 15時29分17秒 | ファンタジー

 大叔母(おおおば)の娘を従叔母(読みは「じゅうしゅくぼ」)というのを知っていましたか?
 叔母は父母の妹を言い、伯母は父母の姉を言うことや、大がつくと祖父母の兄弟姉妹になるのは何となく知っていました。ちなみに曾がつくと祖父母の両親の世代になるそうです。では、従がつくのは誰でしょうか。大叔父母の子を指すのだそうです。父母の従兄弟姉妹です。今回初めて知りました。
 十年も前になりますが、私は一度だけ、祖母の故郷山形県に行き、従叔母さん、つまり祖母のいちばん末の妹の娘さんに会ったことがあります。私が子どものころ、遠方から遊びに来た祖母の妹さんには会っていますが、そのときの印象はうろ覚えになってしまいました。
 従叔母さんと対面したのはかなり暑い時期で、元旅館だった広い自宅の一室にいらっしゃったご様子に、私ははっとしました。従叔母さんから発してくる雰囲気が、私の亡くなった祖母によく似ているような気がしたからです。今年になって、その従叔母さんが昨年亡くなったという知らせを受け取りました。あの暑い日、もっとたくさんお話をしておけばよかったと思います。その気持ちは、私自身の両親と祖母に対しても、ときどき感じることなのですが。(2013.1.18)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はなは噛む

2013年01月11日 10時17分10秒 | ファンタジー

・はなが噛むのは父さんの手、大好きだから。父さんニコニコ噛まれてる。エィッと力を入れてみたら、痛い痛いと嘘泣き父さん。かわいそうだから、手に顔を擦り付けて、グルグル・ゴロゴロニャンしよう。
・はなが噛むのは父さんの手、大好きだから。はなはきかん気で、けっこう凶暴ネコなのだ。本気で噛んだら、父さんの手は今ごろ跡形もない。
・はなが噛むのは父さんの手、大好きだから。凶器の歯や爪を振り回して、家族を牛耳ったりしない。楽しく平和なお家が大好きなのだニャン。(2013.1.11)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネコだって体罰はイヤだ

2013年01月09日 11時52分03秒 | ファンタジー

 誰もが経験していると思うが、力関係が不均衡な人間関係の中で行われる、生徒指導、子どものしつけ、部下の教育などでは、弱い立場の者は、暴力的な行為のあるなしに関係なく、強い者から相当大きな心的圧力を受ける。これは当たり前のことなのだ。ところが、自分が指導的な立場になると、自分が被った辛さを忘れ、受けた仕打ちをそのまま弱者に対し適用してしまう者がいる。まるで、恨みを晴らすかのように、残忍な顔をして。
 これは、自身を省みることがどれほど難しいかを如実に表す事例なのだが、放っておくと、際限のない負の連鎖につながっていく。閉鎖された環境下ではどんどんエスカレートする危険性がある。それを察知した者は情報をしかるべき処へ伝達すべきだ。やっている本人に対し、義憤や感情にかられて、単独で対処するのはきわめて危険。これは夫婦間にも当てはまる。じっくり時間をかけて、本人の納得を得るのが望ましい。ダメなら、徹底して闘うしかない。ネコだって体罰はイヤだ。(2013.1.9)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ネコ国発 夢便り」 あとがき

2013年01月08日 13時51分05秒 | ファンタジー

 本ブログに、2009年から2012年まで掲載したエッセー風の雑文を、「ネコ国発 夢便り」というタイトルで、一冊の本に製本することにした。以下は、その本のあとがき。

<あとがき>
 誰しも、この世に生まれ落ちたなら、それ以前の過去形へはぜったい引き返せないとわかっている。なのに、置き忘れてきた出来事をさも惜しんで、あのとき、なんて馬鹿な選択をしてしまったのだろう、とって返してくれと、じたばた後悔するものだ。平成二十一年夏ころから二十四年末にかけて、私の人生の階段に用意されていた運命とは何と奇抜なものだったか。なにしろイレギュラーすぎて、夢想家の私の予想さえはるかに超えていた。
 世間的には初老という年齢になったのに、いやその年齢になったからなのか、自分自身のことを生まれながらの自由主義者だと思うあまり、何か事が起きるとたちまち意気に感じ、周囲の忠告や心配などにまったく耳を貸さないで、単独行動を起こしてしまう。勝ち目のあるなしなんて二の次でとことん突き詰める性分なのだから、それが災いして、全身傷だらけになる。それでも決して相手の軍門に下ろうとしない。聞き分けのない子どものように、いつまでもぐずついている。なんて扱いにくいヤツなんだ。こうして私は、刀折れ矢尽き果て身動きもままならず、恐怖と後悔に苛まれながら、ズブズブと過去に沈潜し雑文を書き続けた。
 ところで、寿命の尽きるころ、この三年半の出来事を何らかの方法で書き記したいという気持ちになったらどうしよう。そのありさまを想像するだけで、背中が興奮でピリピリする。人生の最晩年になってまで見苦しい振る舞いをすべきでない、と自制する心と、齢が齢なのだから多少暴れるくらい大目に見てもらおう、という心とのせめぎ合いを当分続けることになるだろう。この機会に、多大なご迷惑をおかけした皆様に対し、心からお詫び申し上げる。
    平成二十五年一月                  著者
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はなの年賀2013

2013年01月03日 12時24分48秒 | ファンタジー
あけまして おめでとうございます
はなです。ネコの顔に表情がないからって、あまり気にしないでね。ネコは独立心旺盛でわがままな性格なので、みんなに愛想のいい顔できないんです。でも、はなは、母さんの前で笑ったり怒ったり、毎日顔の筋肉トレーニングしています。この前、母さんがカツオ節の袋を開けたので、はなは、ほっぺたをゆるめキラキラの目をして催促しました。いつも、このネコ顔でカツオ節をゲットしてるんです。ところが、母さんは、世界中のネコの食糧事情を改善するために、カツオ節2割カットだって。はなの必需品のカツオ節だけは減らさないで、と目をつり上げてイヤイヤしてみたけれど、ふと自分の体型を見て半分納得。それより、はなに比べずっと表情が冴えない父さんは、本気で顔の筋トレが必要ね。
今年もどうぞよろしくお願いします。          
                         平成25年元旦
          
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする