イヴの日に届くはずのピザが来ない。
次の夜も来ない。
アー きっと来ない。
山下達郎のクリスマスイヴのメロディーに合わせて口ずさんでみたがどうもしっくりこない。しばらく歌を忘れていた私が歌ったのにはわけがある。
ある古い知人が手作りピザをイブの日に届けてくれるとのこと。断る理由はないので少し期待していたのだが、来ない。
でも、届かないことが問題なのではない。困惑の理由は、私の心に巣食う彼への違和感なのだ。一家の主婦から手作りの料理をいただくのなら大歓迎だ。しかし、名うての主婦がいる我が家に、彼からそこまでしてもらうのははなはだ心苦しいし、本音を言うとぜんぜんうれしくない。つまり、私は、彼の主婦ぶりについて、なんで男がそこまでと、うんざりした気分で見ていたのだ。
その夜、手作りの料理なんて持ってこないでと思いながら、こんな難しすぎる歌を歌っていると、突然、自分自身への嫌悪感に襲われた。
私はそのとき、彼だけでなく、考えや感覚が異なる人々に対し、自分勝手な分け隔てをしてきたのでは・・・、そのことにこの齢になるまでぜんぜん気が付かなかったことに愕然としたのだった。まさに、人の善意を地べたに打ち捨てて、平気で踏みにじるような行為を平然とやってきたわけだ。
たった一人で、旧世代の頑迷な父母や、古い価値観に縛られた人間たちと闘ってきたのは、なんのためだったのか。今の自分は、彼らとまったく変わるところがない。
今頃になって、とんでもないことに気がついたもんだ。私が非難し斥けてきた人たちにたいし、ほんとうにそうしなければならなかったのかどうか、ともう一度見直すことが私にできるのか、まったく自信がない。(2021.12.27)
3年前だったか、札幌の独立系映画館「シアターキノ」に出かけて、「ゴッホとヘレーネの森 クレラー・ミュラー美術館の至宝」 を観た。今、東京に来ているのは、まさにその美術館収蔵の作品展。
以前、京都開催の印象派展に飛んで行ったことがあるが、今は思い腰を上げる熱意が沸いてこない。せめてこの映画をもう一度観たい、と思うばかりですぐ行動に移せないのは、コロナのせいにしているが、やはり年取ったのかな。(2021.12.20)
藤尾慎一郎氏の著作「弥生時代の歴史」(講談社現代新書)や「日本の先史時代」(中公新書)などによると、紀元前10世紀後半ころ、朝鮮半島南部を経由して、九州北部の玄界灘周辺の未開地で始まったとされる水田稲作は、考古学や形質人類学、遺伝子研究上、いわゆる弥生人と言われる人々によってもたらされたことはほぼ間違いないところだ。
この水田稲作を伴った弥生文化は、北海道と琉球を除く列島全域に、700年ほどかけてゆっくりとしたペースで広がった。近畿に紀元前7世紀ころ、青森県弘前市に紀元前4世紀代、紀元前3世紀になってようやく中部高地と関東南部に到達したらしい。
このように、列島内を細かく見ていくと、玄界灘、大阪湾に面した古河内潟などの周辺では、縄文系の在来民が居住していなかった河川の下流域に水田稲作民が進出して稲作を開始したらしい。一方で、先住民が居住し雑穀などを栽培していたと思われるまさに同じ場所で、水田が拓かれた地域もある。鳥取市の本高弓ノ木遺跡や徳島市の庄・蔵本遺跡、さらに青森市の砂沢遺跡などは、あきらかに在来民が彼らの本拠地で、縄文の道具と技術を使って水田稲作を始めた遺跡なのだ。
また、縄文と弥生の両方の土器や呪術具を併せ持った長野県松本市の石行遺跡からは、雑穀とコメの痕跡が出土した事例もある。稲作先進地の北九州、山陰瀬戸内、近畿などでも、水田稲作の開始前に縄文系の雑穀栽培がおこなわれた可能性を持つ地帯が検出されている。
畑作を長く続け、その後、同じ地域で水田稲作に移行した事例が発見されるとすれば、弥生文化とは在来民と新来の稲作民が共同して展開した文化だと言えるのではないだろうか。
とすれば、弥生時代末期に成立した倭国の中に、縄文系のクニが存在したとしても不自然ではない。ひょっとすると、邪馬台国の卑弥呼は縄文系の人物だったかも。(2021.12.4)
はなの生活サイクルは、ヒトとあまり変わらない。睡眠は夜とって、昼はあまり眠らず、ヒトの行動を監視している。見ているだけでなく、1日のうち3分の1くらい鳴いている。
ヒトが忙しく立ち働いていると(そんなことはほとんどないのだが)、少しは遊んでくれと鳴く。朝昼晩の食事タイムになると、必ず鳴く。好物の魚や鶏肉を食べた後も、まだ食べ足りないと鳴く。夜はブラッシングを要求して鳴く。ヒトが夜遅くまで飲んでグダグダしていると、こんなふうに大きなあくびをして、早く寝ろと鳴く。
天使ネコなんてタイトルをつけたが、はなの実態は天使からはほど遠い。わがままでおせっかいな、婆天使ネコといったところか。(2021.12.1)