黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

最初の音楽

2015年12月22日 10時42分49秒 | ファンタジー

 最初の音楽が何だったかという問いはなかなか深遠な意味合いを含んでいて答えに窮する。以下、的外れの答えになるかもしれない。
 初めて手にした音楽用媒体(メディア)はと言うと、今は目にすることがなくなったソノシートだ。ソノシートとはペラペラに折れ曲がる円形のビニールシートのレコード盤で、雑誌などの裏表紙の袋に収まるほど簡易で便利な代物だったが、表面の細いグルグルの溝からはちゃんと音が出た。
 小学校のころから家にあった、小さなレコードプレーヤーで聞いたもっとも初期のレコードと言うなら、はっきり憶えているのは、父親が好きだった畠山みどりや北島三郎の演歌。私もいっしょになって、演歌のコブシにじっと聞き耳を立てていた。テレビに映し出される歌番組もそんな感じだった。でも、それ以前のはるか昔から、色々な音楽を聞いていたような気がする。きっと童謡とか唱歌とか、クラシックとかロカビリーとか様々な音楽を、赤ん坊のころから聞く気もなく聞いていたのだろう。
 このように、耳に入るものを何ひとつ拒まない時代は、中学生のある時期を境に終わりを告げた。私の耳は突発的に変化した。変化を促した音楽のタイトルはよくわからない。以前書いたように、ビートルズの日本公演をテレビで見た中3のとき、すでに根っからのロック好きになっていたし、高2でジャンピンジャックフラッシュに酔いしれ、高3にはストーンズのハイドパークでのフリーコンサートの模様を高校の図書館の雑誌で知り、ぜひともその映像を見たいと思った。(数年後に鑑賞)私が自分で最初に買ったレコードは、きっとそのジャンピンジャックフラッシュのシングルだったと思う。
 私の高校時代、家にビクター社製のセパレート型のステレオという、そのころは先端的な音響機器があった。親子三人の男がそろって町の電器店数軒をハシゴして、トリオや山水を押しのけてこのステレオに決めたことを鮮明に記憶している。毎日のように、頭をステレオに突っ込んで、演歌以外の音楽なら何でも聞いたものだ。とにかく演歌はダメなのだ。じんましんが出そうになるくらいの、よほどのことがあったとは思えないのだが。(2015.12.22)
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テレビ離れした人が見る番組

2015年12月14日 15時25分57秒 | ファンタジー

 この一週間、出張続きでブログから遠ざかっていた。また明日から千キロメートルばかり、地上を移動しなければならない。ああ疲れる。
「教えて!goo」に、テレビ離れした人が見る番組は何?という質問があったので、ちょっと参加してみたい。
 私は、テレビによって行動を制約されたくないので、自分の空き時間にだけテレビ鑑賞するようにしている。なので、ライブで観るのは、ほとんどが夜遅くのニュースと天気予報。それらはdボタン、ネットでも一日数回程度、確認している。その他のテレビ番組は録画して後日観る。
 録画する番組は決まっている。美の巨人たち、地球ドラマチック、サイエンスゼロ、日曜美術館、世界遺産、美の壺、猫のしっぽ。このうちの面白そうなものを選んで、一週間かけて観る。ちなみにこれら全部で四時間半ほど。その他に思いつきで録画する特番もある。最近では、アガサ・クリスティのミステリー、沖縄返還や認知症のドキュメントなど。録画したのに観る気をなくしたり、三チャンネルもあるディスクが満杯状態になったりで、消去してしまう番組も多数ある。
 ドラマや歌、スポーツ番組など、観なくなるといよいよその気持ちがなくなるものだ。ところで、今年のNHKの大河ドラマは散々な視聴率だったようだが、たまたま最終回の予告を見る限り、年寄りの道徳の押し売りみたいな台詞ばかりで、なんだか顔が赤くなりそうだった。あの時間の番組は、伝統の重みに耐えるだけで並大抵ではないだろう。しかし、どこかで聞いたような上品で堅いばかりのお話になってはつまらない。画面を射通す眼差しを持つ視聴者は、番組に登場する人や時代の奥深くを見つめている。以前放映された「坂の上の雲」がそうだったように、完成されていなくてもいい。考えるに値するような素材がなければ、貴重な時間帯にわざわざ観る意味がない。
 今年は、政体の変革者、松陰が登場したのに、ホームドラマ仕立ての内容だとわかって、みんな肩すかしを食らったのだと思う。どうせなら批判を覚悟して、彼が思い込んだ尊皇攘夷、戦争するぞ、という思想の功罪を、現代の視点から検証するような番組にした方がよかったのではないだろうか、もう間に合わないが。(2015.12.14)
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ジワジワ読む

2015年12月03日 17時06分14秒 | ファンタジー

 先々月買った「超弦理論入門」(小栗博司著)をジワジワ読み続けている。他の本に飽きたときチョコッと読むには最適な本だ。スキッと気分転換できる。不思議なのはページにしおりをちゃんと挟んでいるのに、たまにしか読まないからなのか、それともむずかしすぎるからなのか、どこまで読んだかわからなくなり同じ箇所を行ったり来たりする。考えようによってはどこから読んでも新鮮なのだ。正直に言うと、どの箇所も私にはよくわからないということ。
 NHKテレビの「神の数式」という理論物理学のシリーズなども録画して三回見た。やっぱりわからないものはわからない。でも私は、合っているのか外れているのかわからないこじつけのような理屈を追求するのは大好きだ。
 ところで、この本によると、物理学の専門家たちは 物質に重さを与えるヒッグス粒子の次に、重力波という微少な力を探し出そうとしているらしい。重力なんて子どもでさえ日常用語で使うくらい言い古されていて、どこにでもありそうなものだが、これを探し出せたら宇宙誕生の謎を説明できるのだという。
 重力と時間との関係についても意味深だ。耳にしたことがあると思うが、時間というのは、その人の置かれた環境によって長かったり短かったりする。アインシュタインは相対性理論で、動いている物の方が止まっている物より時間の進み方が遅い、たとえば宇宙を光速で回ると地球にいるより時間の進み方が遅くなること。さらに地球の重力より軽いところでは、時間が早く進むことを明らかにした。
 たとえば地球から離れた宇宙ステーションでは重力が小さいので、老け方がいくらか早くなる。(老けるとか年寄りとかは差別用語?)反対に重力が大きいところでは、時間はゆっくり進む。それがウラシマ効果だ。浦島太郎が海底の水圧の高い竜宮城から地上へ戻ったとき、知っている人々はみな先に逝っていた。長生きが幸せとは限らないけれど、おとぎ話は科学的に正しいことが証明された。
 よく感じることだが、年取れば取るほど時間があっという間に過ぎてしまう。年寄りの多くは、今日の用事と行くところ(きょうよう・きょういく)がなくなり日常生活がスカスカになるので、時間が早く進むんですかね? 
 大人に比べ、子どもだったころの一年というのはほんとうに長かった。一年間で背が十センチも伸びたりした。毎日いいことばかりではなかったが充実していた。脳細胞などもグングン発達して何でも吸収できた。余計なことまで憶えたし、おまけに三つ子の魂の有効期限は百まで続く。そういう魂は、密度が濃くて内容が重いので、世間一般の時間にあらがって、ゆったりした時間を進むのだろう。(2015.12.3)




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堂々巡りする道さえ

2015年12月01日 15時16分42秒 | ファンタジー

 マラマッド「魔法の樽」の読後感想を書こうと思ったが、途中で読み進めるのをあきらめた本について何か書くのは、思い上がりもはなはだしいので止めた。中途半端にした理由だけ若干述べようと思う。
 この本を読んでいて、思い込みが激しい登場人物たちの堂々巡りする魂と、私の魂との間に、相当大きなタイムラグがあることを感じた。私にも彼らと似たところがたくさんあるので、遍歴する心のことはよくわかるのだが、もうすでに、その心に同調して切なさを感じることはないのである。
 マラマッドを読むうちに、二年前に手術のため十日間ほど入院したとき、見舞いに来た友人が置いていったアメリカの小説を思い出した。ポール・オースターの「ガラスの街」。あのとき、「ガラスの街」を一ページ読んで、私はあっと声を上げた。以前、姪に勧められてこんなくどいのを読んだことがあった。オースターの作品一覧に「ムーンパレス」というタイトルを見て、少し気持ちが落ち込んだ。
 マラマッドの場合、悩みは具体的に、結婚相談所、部屋探し、小説家となる望みなどの形で描写されるが、オースターの執着心は別物だ。得体の知れない思い込みと焦燥と恐怖にさいなまれる魂は、堂々巡りの果て、自らの身を滅ぼそうとする方向に収れんするばかりで、その次のシチュエーションのかけらさえ見えない。病院では時間がたっぷりあったので最後まで読めたが、難行苦行だった。
 思い込みが激しいことに文句を付けているのではない。何としても、という強い思いなしに、物事はなにごとも成就しない。偉大な発明をしたとか、新しい土地を見つけたとか、蛮国を討ち滅ぼしたとか、人の食べないものを初めて食べたとか、いわゆる新しい歴史を開いた偉人たちは、いずれも人並み外れて思い込みが激しかったはずだ。また、人は若いほど思い込んだらなかなかとどまるところを知らないものだ。
 それに比べ、今の私はと言うと、他人の思い込みを笑いながら、自分の前には堂々巡りする道さえないことにまだ気がついていない。(2015.12.1)
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