黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

ブログ開設三周年を迎えて

2012年08月29日 13時50分12秒 | ファンタジー

 「ハクセキレイ」の記事をブログに載せてから、九月五日で三年もの月日が経つとは、改めて時の流れの速さを噛みしめている。これだけの期間、自分になにか変化とか人間的な成長とかがあったかと見回すと、確かに頭頂がいよいよ薄くなり、歯肉炎で歯を一本抜かれ、目の焦点がぼやぼやし始め、膝の半月板に亀裂が入り、それから身体のあちこちに痛みが出て、などと書き連ねると、成長の跡はとうに消え、なんだかとても年を取ったような気がするばかりだ。
 今日は目の件について一言。
 五十代後半から、左右の視力がずんずん違ってきて遠近感がなくなり、車の運転に不安が生じてきたため、一ヶ月少々前に眼科に行った。
「あまり遠くないうちに、白内障の手術を考えた方がよろしいですね」と医師の開口一番。
「えっ?私、まだ六十歳になったばっかりですよ」と、そんな話が出ることを想定してなかった私は、思わず、よけいなことを口走ってしまった。
「今すぐ、とは言ってません。まだ、コンタクトで視力矯正ができますから」
 私はほっとして、頭の隅にあった、ある知識をぼろっとしゃべった。
「レーシックってのは、どうなんですかね?」
「あれは若い方でなければねぇ。年取ると角膜が薄くなるので無理なんですよ」と大きな声で医師。「でも調べるだけでも、やってみますか?」
 憮然とした私は、その申し出を小さな声で強く辞退した。
 コンタクトにして約一ヶ月、不器用な私にとって、朝の作業はとんでもない神経戦になってしまった。今朝も、視力がいい方の左目にコンタクトを入れようとしたが、どうにも目の玉にレンズがくっつかない。目が痛くなってくるので装着をあきらめ、古いメガネにした。
 それから、家を出るまで少し時間に余裕があったので、部屋の窓を開け、窓枠に畳み込んだ網戸を引っ張り出したら、なぜか網戸が窓枠から外れてバラバラになってしまった。とうとう家自体、住人同様、風雪にさらされて相当疲労したのだ。もう少し辛抱してコンタクトを目に入れる作業をしていれば、こんな網戸を壊す時間はなかったろうに、と思っても後の祭り。このように年を取ることは、ブログを書くことに劣らず、我慢を必要とするなかなかの事業だと思う昨今である。(12.8.29了)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

競馬場の霧 馬はどこだ!

2012年08月23日 17時18分42秒 | ファンタジー

 その日の競馬場は、少し強めの風はあったが、暖かないい日和だった。ところが、日没後すぐの六時近くなったころ、気温が急に下がったので、ジンギスカンのナベから顔を上げてみると、いつの間にか海の方からものすごいスピードで霧がやって来ていた。走路の内側の木柵の形が瞬く間に消えていった。馬はどこだ! その前日もひどい霧がかかったため、半分ほどのレースを残して中止になったそうだ。
 霧と一口で言ってしまうとなんだか味気がない。ほかにも、霞(かすみ)、靄(もや)、ガスといった微妙な言い回しの違いがある。もっとも濃いのが霧。そういう霧の中に迷い込んだら、ちょっとした雨に遭ったように、全身べたべたに濡れてしまうことがある。それに対し、霞や靄は、水分を感じさせない。春霞、朝靄などは晴れの予感を漂わせ、ふわふわとしたさらさら感がある。海や山で発生するガスも霧の一種なのだが、なんとなく得体のしれないところがあり、霧に濡れるより気持ちが悪いような気がする。 
 懐かしい競馬場に二年ぶりにやって来たのに、腹がいっぱいになっただけで、まったくレースに熱くなることなく、退散を余儀なくされるのか、とがっかりしていると、照明搭にぽっと灯が点き、サーチライトのような白い光が走路をぼんやりと照らし出した。すると、霧の塊は、南東から吹く風に乗って、競馬場や観客の頭の上を次々と通り過ぎていった。あたりが暗くなるころには、向こう側のスタート地点の様子がぼんやり見えるまでに回復した。
 しかし、私が買った肝心の勝ち馬投票券はうんともすんとも反応しない。真っ暗な夜空を見上げ、ため息をつきながら、帰路の支度をしていると、誕生日の数字合わせで買った最終レースの成績発表があった。結局、一か八かで買ってみたその馬券だけが、その日唯一の成果となったのである。(12.8.23了)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

血液型が違う異邦人

2012年08月21日 16時20分54秒 | ファンタジー

 せっかく血液型に関するユニークな情報を披露しようとしたら、それには矛盾点が多すぎて要領を得ないという反論があって断念した。血液型の相性といったネタが長きにわたりもてはやされるのは、きっと、この社会にはヒト関係の悩みが尽きないということなのだろう。それにしても、血液型の違いの由来はどこにあるのか? 私の推測では、環境の変化があったとき、種の全滅を回避するための免疫作用の一種のような気がする。そんなことより、血液型にバリエーションがないと想像するだけでぞっとする。それならB型の私は、A型ヒトの悪口が言えなくなってしまうじゃないか。
 言いかえると、この世の中、物事に対する反応がたったひとつだったり、意見の対立がなかったりしたら、ぜんぜんおもしろくない。話は飛ぶが、昼か夜か、男か女か、イヌかネコか、クロマニヨンかネアンデルタールか、文楽かAKBか、どちらか一方しかないというのは、やはり調子がよくない。そういえば、現世人類の遺伝子に、およそ三万年前に滅んだとされるネアンデルタール人の遺伝子情報がいくらか継承されているという学説が、ほぼ正しいと承認されたという。私たちは単一のヒトなのでなく、いくつものサルの末裔のなれの果てだと思えば、ヒトは、血液型の違う異邦人のような相手に対しても、もう少し穏やかな表情を見せられるんじゃないだろうか。(12.8.21了)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書を捨てよ

2012年08月16日 15時47分19秒 | ファンタジー

 作家が、ヒトとヒトとの間に流れる空気の揺らぎ、といったものを表現する意味、その効用とはなんなのだろうか。ヒトの感性なんて、しょせん生命を維持するために発達した機能のひとつであって、それらの機微をどんなに精緻に分析したところで、それだけでヒトとはなにか、この世に真実はあるのかなどという普遍的な問いに対する解答が出るとは、とうてい思えない。たとえば数式の解き方を習わないで、答えだけをいじくり回すのと同じことだ。
 こんなふうに決めつけると、ヒトの気持ちをくみ取るデリカシーも思いやりもない冷血漢だと言われるのがおちなのだが、そういうヒトだって、実は涙もろかったり、普通ヒト以上にシャイな面をも備えていたりする。しかし、生き延びるために、そういうところを他のヒトに見せたり悟られてはならないヒトも多い。彼らは、やむを得ず、空気の揺らぎを無視する訓練を日々やり続けた結果、類型化したヒトになったのだ。
 韜晦という技術を駆使して、あえて類型化を望むヒト種もいる。分からず屋の頑固爺、毒にも薬にもならないお人好し、半分認知症気味の手のかかるヒト、あれにもこれにもクレームを付ける騒々しいヒトなど、いろいろな韜晦のタイプはあるが、いずれも自分をしっかり隠していて、内面はさっぱり見えない。あまりにも奥ゆかしい彼らに対し、私などは親近感が湧くのを抑えられない。
 無頼系のヒトにも、韜晦という響きに通じるところが感じられる。ひとつ例を挙げれば、作文や気取った演技を捨てて町へ出よう、と言った寺山修司をはじめ、独特な言葉と行動によって、時代に衝撃を加えようとした意欲ある多くのヒトたちがいた。彼ら自身、感情の外側に理解不能な言葉の覆いをかけて、微妙な本音を隠匿するのが上手だった。それにしても、「書を捨てる」というフレーズには奥深い意味が感じられる。書とは自他の約束を証した文書であり、それを破棄することは物事の道理に従わないと、相当の覚悟をもって意志表示することなのだ。なかなかできることではない。
 考えようによっては、感情の揺らぎの表現とは、時代の表層を流れる諸問題を無意識に写す日記といったものなのだろう。時代の矛盾に肉薄するとか、時代をリードするとかよけいな野心を抱かず、文学的賞賛の獲得のみにこだわり続けるならば、外界と隔絶した、ある種の悟りの境地に近づいていくかもしれない。どうせやるなら、そうしてほしい。言い過ぎかもしれないが、偏狭なナショナリズムに凝り固まったヒト、ポピュリズムに走るお調子ヒト、パワーゲーム好きの幼稚なヒト、そして、そういう連中を批判して止まない、私みたいな自称リベラリストなどの、外向けにガーガーとわめき散らすような類型タイプに比べれば、どれほどまともか計りしれない。(12.8.16了)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近ごろ別件が多いのでありまして

2012年08月09日 14時06分13秒 | ファンタジー

 こんなタイトルを付けるほど忙しくはないのだけれど、近ごろ、手紙やブログ以外の文章書きに集中したり、齢のせいか身体のあちこちに傷みが出てきて病院通いしたり、毎晩遅くまでロンドンオリンピックのテレビ観戦がたたって日中ボーとしていたりで、今ひとつブログ作成に時間が取れない状態が続いています。
 そうこうするうち、立秋を2日ばかり過ぎてしまいました。なので、残暑お見舞い申し上げます。北海道の私が住む土地は、ちょっと乾いているのが気になるくらいで、実に快適な気候なのですが、南の地方は暑いんでしょうね。この前の局地的集中豪雨は大丈夫でしたか。集中豪雨だけでなく、干ばつや砂嵐、低温といった異常気象が、世界のあちこちで起きています。ずいぶん前から、地球の気象は太陽の活動と密接な関係があると取りざたされていますが、最近何度か起きた強烈な太陽フレアによってまき散らされた、磁気嵐、オーロラ、X線ガンマ線、それにものすごいエネルギーがなにか悪さをしていないのでしょうか。
 これらの目に見えないエネルギーは、気象だけでなく、生き物の肉体や精神にそうとうダメージを与えるものと想像されます。一方で、太陽は磁場を狂わせて、これからずんずん活動を縮小し冷たくなっていくとも言われています。一旦、休息しようとしているんでしょうか。昼寝程度であればいいのですが。気候が寒冷化すると、ヒトは決まって無惨な闘いを起こすのです。
 そういえば、黒猫とのから、暑気を吹き飛ばす暑中見舞いが来てましたので、その一部を紹介します。
「世界を見渡すと、自分の身を守るために、国民の命を人質にとるような権力者がどうしてこんなに多いのかと憤りが収まらない。このネコ国の、選挙のための政治活動しかしない政治家も同類だ。その上、どこかのネコ市長みたいに、政治家は市民に対し暴言を吐いてもいいんだと、公然と発言する者がいる。つまり、そのネコは、自分に票を入れなかった住民の意見を聞く必要はないと、本気で思っているのだ。賛同者と追随者だけに囲まれて、反対者なんて粛清してもかまわないという、最悪な権力者の精神に相通じる不気味さを感じる。あぁ、身震いがして風邪をひいてしまいそうだ」(24.8.9)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする